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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−56(後鳥羽上皇−1)

24. 後鳥羽上皇

後鳥羽上皇の略歴

後鳥羽天皇は第82代天皇で、父親は高倉天皇、母親は藤原殖子である。
安徳天皇は異母兄、で後の後高倉院(守貞親王)は兄である。

寿永2年(1183年)7月、平家が都を捨てて西国に逃れた時、平家は安徳天皇と守貞親王を連れて行く。
同年8月、後白河法皇は当時4歳だった尊成親王を即位させた。これが後鳥羽天皇である。
寿永3年7月28日に行われた即位式は三種の神器のないまま行われた。

建久3年(1192年)7月、後鳥羽天皇は源頼朝を征夷大将軍に任命する。
建久9年(1198年)1月、土御門天皇(3歳)に譲位し、上皇となって院政を開始する。
建仁元年(1201年)「新古今和歌集」編纂を開始
元久2年(1205年)「新古今和歌集」が完成する。
承元4年(1210年)11月、土御門天皇を順徳天皇(14歳)に譲位させた。
建保6年(1218年)12月、源実朝を右大臣に昇任させる。
承久3年(1221年)4月、順徳天皇を仲恭天皇(4歳)に譲位させる。
同年5月、北条義時追討の院宣を発する。

同年7月9日 隠岐に配流
延応元年(1239年)2月22日 隠岐にて崩御 享年60。

 

24.1.鎌倉幕府の成立

"平家にあらざれば人にあらず" と呼ばれ、 あまたの荘園を手にして、中央に勢を誇った平家一門もついに長門の壇ノ浦において滅亡した。

<平家物語、巻第一、祇園精舎>

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、 これらは皆旧主先皇の政にもしたがはず、楽しみをきはめ、諌めをもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の憂ふる所をしらざりしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、おごれる心も、たけきことも、皆とりどりにこそありしかども、ま近くは、六波羅の入道、前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝へ承るこそ心も詞も及ばれね。

 

「鎌倉幕府」は、文治元年(1185年)「源頼朝」によって鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に樹立された武家政権であり、150年間続いた。
その後、明治維新まで続く武家政権の礎になった。
文化面では、素朴で力強い武家文化が花開き、末法の世からの救済を目的にした新しい仏教も誕生した。

 

24.2. 守護・地頭の配置

源頼朝が平氏を滅ぼし征夷大将軍となったのは建久三年(1192年) 七月であったが、これより先、諸国に守護・地頭を設置したのは文治元年(1185年)である。
これは頼朝と不仲となった弟義経の所在を探究すること、及び諸国に隠れひそむ平家の残党や一般犯罪人の捜索も行うため、御家人を配置したものであった。 

文治元年(1185年)11月28日、朝廷より源頼朝に対し東国・五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に「惣追捕使・地頭」を設置することを許可した勅許が下りた。

鎌倉幕府における諸国の国府・荘園への惣追捕使・地頭の設置の経緯は次のようなものだった。
頼朝が東国に勢力を形勢した後も、諸国では騒乱も多く、その度に東国武士を派遣して鎮定することは諸国の疲弊にもつながる。
そこで、頼朝の腹心である大江広元は、頼朝に諸国の国府・荘園に「惣追捕使・地頭」の設置の許可を朝廷に願い出ることを、献策したという。

建久2年(1191年)に頼朝の諸国守護権が公式に認められ、諸国ごとに設置する職は守護、荘園・国衙領に設置する職は地頭として区別され、鎌倉期の守護・地頭制度が本格的に始まることとなった。
この守護地頭の設置任免権は幕府権力の根幹をなす重要な役割を果たした。

しかし当初の頼朝政権の実質的支配が及んだ地域は日本のほぼ東半分に限定されており、畿内以西の地域では後鳥羽上皇を中心とした朝廷や寺社の勢力が強く、後鳥羽上皇の命で守護職が停止されたり、大内惟義が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。

こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことである。

 

24.3.朝廷・貴族の経済的地盤の低下

平安時代において、朝廷・貴族などの収入源となっていたのは、全国各地にあった私有地である荘園であった。

かつて地方の開発領主たちは、 国司の圧力から逃れるため に、国司よりも強い力を持つ貴族や寺社に土地を渡す寄進を行うようになっていた。
この寄進によって、土地は寄進された貴族や寺社が持ち主となる。
一方、開発領主は寄進して持ち主ではなくなるが、代わりに貴族や寺社から現地管理人である 荘官に任命された。
このような荘園が数多くあった。

しかし鎌倉幕府が拠点としていた東国では、多数の荘園が幕府の保護下に入ったことで、朝廷・貴族などへの新たな荘園の寄進がほとんどなくなってきていた。

東国からの荘園寄進を期待できなくなったことに加え、朝廷・貴族などの影響力が比較的強く残っていた西国についても、幕府から送り込まれた地頭のいる荘園では、これまでのような租税収入を維持することがを困難になってきた。

というのも、地頭が様々な理由をつけては荘園領主・国司への年貢を滞納・横領し、両者間に紛争が生じることが多くなったからである。

これらの紛争の結果、毎年一定額の年貢納入や荘園の管理を請け負う地頭請という制度ができてくる。
地頭請は、不作の年でも約束額を領主・国司へ納入するといったリスクを負ってはいたが、一定額の年貢の他は自由収入とすることができたため、地頭は無法な重税に因り多大な利益を搾取するケースが多かった。
そして、この制度により地頭は荘園・公領を徐々に横領していったのである。

また、荘園領主と異なる点が見られる。地頭は武士なので、紛争などを暴力的に解決した。
「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉も生まれてきた。


このように朝廷・貴族などにとって、鎌倉幕府が成立したことで、自分達の経済的基盤が沈下してしまう危険性が増大したのである。

政治的権力だけではなく、経済的基盤もなくなってしまいそうな先細りの状況に、朝廷・貴族などの間には焦燥感が漂い始めた。

 

24.4.第3代鎌倉将軍実朝の死

第3代将軍源実朝は、朝廷を敬っており、後鳥羽上皇を尊敬していた。
後鳥羽上皇は懇意の将軍実朝を後見とし、そこに皇子を将来の将軍として幕府へ送り込むことで幕府をコントロールしようとした。
この時期は後鳥羽上皇と幕府の間の反目は収まった様子であった。

しかし、その後鳥羽上皇の計画は実朝の暗殺により、崩壊する。
後鳥羽上皇の幕府に対する怒りは更に大きくなってぶり返した。

幕府側は皇子下向計画の続行を願うが、上皇の憤りは強く色よい返事はない。
実朝の後見がなければ、皇子を下向させて将軍としても、お飾りになることは目に見えているからである。

さらに後鳥羽上皇は近臣藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾亀菊の所領である摂津国長江荘、椋橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠(西面武士)への処分の撤回を条件として提示し幕府側に揺さぶりをかけ、巻き返しを図ろうとした。

しかし義時はこれを幕府の根幹を揺るがすとして拒否する。

義時は皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、同年6月に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となる。

朝廷と幕府の緊張は次第に高まり、後鳥羽上皇は義時を討つ意志を固め、寺社に密かに命じて義時調伏の加持祈祷が行われた。

討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となった。

 

24.5.承久の変

「北条義時」追討の院宣

承久3年(1221年)5月15日後鳥羽上皇は、全国各地の武士に対して、幕府の執権北条義時追討の院宣を発した。
上皇やその側近ははひとたび院宣が下されれば全国の武士は朝廷側につくものと期待していた。

次の図は、鎌倉側(青)と朝廷側(緑)についた武士の色分けである。

   

ところが、後鳥羽上皇らが想定していた東国の勢力が味方に付かず、鎌倉に有利な状況になっていく。

院宣の知らせは5月19日に鎌倉に届いた。
上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、ここで北条政子は歴史に残る大演説を行い、鎌倉武士を団結させた。

吾妻鏡にそれが記されている。

「故右大将軍 が朝敵を征伐し、 関東を草創して以後、 官位といい、 俸禄とい い、その恩は既に山よりも高く、 海よりも深い。 恩に報いる思いが浅いはずは なかろう。そこに今、 逆臣の言によって道理に背いた綸旨が下された。

名を惜しむ者は 藤原秀康らを討 ち取り、三代にわたる将軍の遺跡 を守るように。 ただし院に参 りたければ、今すぐに申し出よ」

その後の幕府の対応は早かった。
執権北条義時は北条政子の演説の三日後の5月22日、多数の軍勢を京都に差し向けた。

軍勢は日増しに増え、19万の大軍になった。

 

この時の逸話がある。 

増鏡にこの記述がある。

幕府軍が出発した翌日、泰時がただ一騎鞭をうって戻ってきた。
義時は胸が騒いで「どうしたのだ」と問う。
泰時は次のように答える。
「戦略、軍法については父上の仰せをうかがい、良く分かりました。ですが、もし上洛の途上で、思いもかけず、上皇がみこしに乗って、錦の御旗を掲げて、自ら出陣なさってくるのに遭遇した場合にはいかがいたしましょうか。この一事をお尋ね申し上げようと思い、一人ではせ戻ってきたのです」と。

義時はしばらく思案してから、
「よくぞ尋ねてくれた。そのことよ。いくら朝敵と言われていようと、文字通り上皇のみこしに弓を引くことはできない。その時には兜を脱ぎ、弓の弦を切って、ひたすら恭順の意を示して、上皇の御命令に従うのだ。
そうではなくて、上皇は京都にいらっしゃって、討伐軍を派遣されるだけならば、命を捨てる覚悟で、千人の軍勢が一人になっても戦いを続けよ」
と返答した。
義時の言葉が終わらぬうちに、泰時は急いで出立したという。

   

幕府軍の出撃を予測しておらず、鷹揚に構えていた後鳥羽上皇ら京方首脳たちは激しく狼狽した。
ひとまず、幕府軍を迎え撃つため、藤原秀康を総大将として万7500余騎を美濃国へ差し向ける。

6月5日、甲斐源氏の武田信光と小笠原長清が率いる東山道軍5万騎は、大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破した。
藤原秀康と三浦胤義は支えきれないと判断し、宇治・瀬田で京を守るとして早々に退却を決めた。
6月13日宇治川で対峙した京方と幕府軍の戦いは一日で決着がついた。

京側の敗北が決定的となった。

後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下した。

藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら京方の武士は東寺に立て篭もって抵抗した。
しかし、幕府軍の攻撃を受け、藤原秀康、山田重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦して自害した。その後、山田重忠も落ち延びた先の嵯峨般若寺山で自害、藤原秀康は河内国において幕府軍の捕虜となった。

承久の乱によってもたらされたのは、北条家への権力の集中と武家政権の確立、幕府の支配領域の拡大である。

鎌倉幕府は、今後は朝廷が不穏な動きをしないように「六波羅探題」を設置する。
六波羅探題とは鎌倉幕府の出先機関で、朝廷だけでなく西国の御家人の総括も行う部署のことである。
六波羅探題の長は六波羅守護と呼ばれて、北条一門から選出された。

上皇方に味方をした武士の荘園は取り上げ、東国の御家人をそこに配置した。
承久の変以前には影響を与えることができなかった西国の荘園も、鎌倉幕府の配下に治めることに成功したのである。

また鎌倉幕府は朝廷側の所領約3000箇所を没収した。
これらの土地は西日本に所在しており、新しい地頭として多くの御家人が西日本の没収領へ移住していった。
これを新補地頭といい、それ以前の地頭は本補地頭と呼ばれた。

 

<続く>

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