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旅日記

望洋−3(日米開戦(続き))

2.日米開戦(続き)

2.2.開戦に至るまで(続き)

​​2.2.4.援蒋ルート

前述した蒋介石政権への支援ルート(援蒋ルート)は4本あった。

仏印を経由する仏印ルート、ビルマを経由するビルマルート、上海・香港を密輸で経由する中南支沿岸ルート、外蒙ウランバートルを経由する西北ルートである。

国際法で提議する戦争が起きた場合であれば、戦争に参加していない第三国が当事国に対して援助を行うことは基本的に許されない。

援助を行った時点で中立国とは認められなくなるからだ。

ところがこの日中戦争においては奇妙なことに日本も中国も共に宣戦布告を行っていない。

「戦争」ではなく「事変」にすぎなければ話は別となり、事変であれば、第三国が中立を守る義務はないからである。

そのため、あからさまな援蒋行為が行われていても、日本としては国際法を盾に援助を中止するように迫ることはできなかった。

 

日本の事情

日本が「これは戦争なのだ」と宣言をすれば、支援行為は止められる。

しかし、日本には宣戦布告ができない事情があった。

宣戦布告をしてしまうとアメリカが中立法を発動させることで、日本に向けて石油などの輸出を禁止することが目に見えていたからである。

今、アメリカに石油を止められてしまえば、日本経済は立ちゆかなくなり、戦争どころではなくなる。

こうした背景があるため、米英仏ソの支援行為を止める手立てが日本にはなかったのである。

 

東京裁判インド代表 パール判事

東京裁判にてA級戦犯全員の無罪判決を下したインド代表のパール判事は、東京裁判でただ一人の国際法の専門家だが、この問題(宣戦布告)について次のように述べている。

右記の日付(*1941〈昭和16〉年12月7日)の前の段階における日本と中国との間の戦闘行為は、明らかに戦争の特徴を持っていた。

しかし困ったことには、敵対していた関係国自身がそれがそうであるとは決して宣言してはいなかったのであり、少なくともアメリカはその活動のためにそれが戦争であるとは認めない道を選んだのである。

一般に認識されているように、可能となるすべての援助をアメリカは中国に提供していたのであり、そのような援助提供はその国が中立であるとの特徴とは軌を一にはしないのである。

もし我々が、アメリカはかかる戦闘行為を戦争であると承認したのだと解釈するならば、国際法によればアメリカは自国の活動によりその交戦行為にすでに参加をしていたのであり、真珠湾攻撃に関する主張は絶対的に無意味となるのである。

その場合においては、真珠湾攻撃のはるか以前にアメリカは自国の活動により交戦国となっていたのであり、日本が中国に対して遂行していた戦争の性格がいかなるものであろうとも、アメリカが中国の側に味方してそれに参加することを選んだ瞬間に、日本はいつでもアメリカに対してあらゆる交戦措置を執る資格を持つに至ったのである。

 

パール判事

極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対した。

パール判事は、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した。

<パール判事顕彰碑 靖国神社>

 

蒋介石政権への支援行為はそれ自体が敵対行為であり、その戦いに参戦しているも同然であるとパール判事は判じている。

したがって真珠湾攻撃の際に、日本が宣戦布告をする義務がなかったと主張した。

もちろんパール判事の言は国際法の専門家としてのひとつの主張に過ぎず、それが正しいかどうかはまた別の問題ではある。

されど、国際法の見地から蒋介石政権への支援行為に問題があることはたしかであり、日本が援蒋行為を行っていた米英仏ソに対して抗議を行ったことには正当性があったと言える。

昔から言われているように「勝てば官軍」なのであり、歴史の事実や正義と言うものは勝者が作ったり決めるもののようである。

因みに、アメリカは数多く戦争をしているが、大半は戦争布告せずに軍事行動を起こしている。

【Wikipediaより】

アメリカ合衆国が他国に対して宣戦布告したのは、1942年が最後であり、その後のベトナム戦争、イラク戦争(2003年)などは宣戦布告をしていない。

また、朝鮮戦争、湾岸戦争などは安保理決議を背景にして軍事行動を起こした。

 

2.2.5.日本の南進

大正3年(1914年)の第一次世界大戦参戦にともない、日本海軍がドイツ領ミクロネシア(南洋群島)を占領した。

戦後この地が日本の委任統治領として事実上の植民地になると、南洋群島は東南アジア島嶼部への進出拠点と位置づけられ、一時的な南進ブームが高まった。

この時期の南進論の主流は貿易・投資・移民を軸に平和的な経済進出を唱道するものであった。

 

武力南進が実際に国策として決定されたのは昭和15年(1940年)のことである。

昭和15年(1940年)4月から6月のドイツの欧州侵攻により東南アジアに植民地を持つオランダ・フランスがドイツに降伏し、イギリスも危機に瀕していた。

日中戦争の泥沼に陥っていた日本は、この機会に東南アジアを自国の勢力に組み込むことにより、危機的状況からの脱出を目論んだ。

そこで日本軍は武力による南進を決意したのである。

2.2.5.1.北部仏印進駐

日本の武力南進の最初はフランス領インドシナ(仏印:ラオス、カンボジ、ベトナムなどの地域)であった。

当時のインドシナは中国国民政府(蔣介石政権)に対する英米の支援ルートになっており、日本軍はフランスと合意の上、昭和15年9月この地に進駐した。

 

昭和15年9月27日に日本、ドイツおよびイタリア王国との間で日独伊三国条約を締結して同盟関係(日独伊三国同盟)を築いた。

しかし、この同盟はアメリカ合衆国の警戒心を招くことになる。

アメリカは10月12日に三国条約に対する対抗措置を執ると表明し、10月16日に屑鉄の対日禁輸を決定した。

翌昭和16年に入ると、銅などさらに制限品目を増やした。

 

2.2.5.2.南部仏印進駐

主要な資源供給先であるアメリカやイギリスの輸出規制により、日本は資源の供給先を他に求めることになった。

対象としてあげられたのはオランダ領東インド(現在のインドネシア)であったが、連合国であるオランダ政府が日本への輸出規制に参加する可能性も懸念されていた。

日本はオランダ領東インド政府に圧力をかけて資源の提供を求めたが(日蘭会商)、この行動はかえってオランダを英米に接近させることとなった。

昭和16年(1941年)にはオランダ領東インド政府との交渉が決裂し、陸海軍首脳からは資源獲得のために南部仏印への進駐が主張されるようになった。

経済的側面以外では、南部仏印はタイ、イギリス領植民地、そしてオランダ領東インドに軍事的圧力をかけられる要地であり、またさらなる援蔣ルートの遮断も行えると考えられた。

当時陸海軍は北部仏印進駐への反発が少なかったことからみて、南部仏印への進駐は、米英の反発を招かないという見通しを立てていた。

昭和16年(1941年)7月2日の御前会議において仏印南部への進駐は正式に裁可された。

しかしイギリスはこの時点で仏印進駐の情報をつかんでおり、7月5日には駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが日本の南進について外務省に懸念を申し入れている。

7月14日には加藤外松駐仏日本大使がヴィシー政府(第二次世界大戦中の1940〜44年,フランス中部の保養地ヴィシーを臨時首都として成立したフランスの政権)の副首相のフランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐許可を求めた。

ヴィシー政府は、7月19日の閣議で日本側の要求を受け入れることを決定した。

フランス領インドシナ軍が日本軍に対して劣勢であることは明らかであり、決定的な敗戦を迎えれば植民地喪失の危険性があったからだ。

また日本に対して強い影響力を持つドイツや、アメリカなどの中立国がこの事態に介入してくれる可能性も皆無であり、植民地の継続には日本軍にすがるほか無かったのだ。

 

2.2.5.3.アメリカの石油禁輸

イギリスとアメリカは以前から日本の南進を警戒しており、日本が南部仏印進駐を行った場合には、共同して対日経済制裁を行うことで合意していた。

このため、日本が南部仏印進駐すると、アメリカは極めて強硬な態度を取るようになった。

8月1日、アメリカは「全侵略国に対する」石油禁輸を発表したが、その対象に日本も含まれていた。

またイギリスも追随して経済制裁を発動した。

これらの対応は日本陸海軍にとって予想外なことであった。

当時の石油備蓄は一年半しか存在せず、海軍内では石油欠乏状態の中でアメリカから戦争を仕掛けられることを怖れる意見が高まり、海軍首脳は早期開戦論を主張するようになっていく。

<日本の石油消費量 単位千KL>

因みに、2022年の日本の石油消費量は151,844 千トンで、昭和18年(1943年)の18.5倍であるが、天然ガスの消費量なども考慮すると、エネルギー消費量としては更に増加している。

なお、世界でみると日本は石油消費量で6番目の国で、1番が米国で822,676千トンで全世界使用量の約19%を占めている、2番が中国で659,170千トンである。(出典 EI(Enegy Insutitute))

<開戦ときの石油の需給予測 単位万KL>

 

2.3.開戦に踏み切った思惑

当時のGNPで10倍以上の国力差があるアメリカとの戦争に何故踏み切ったのか?

昭和16年(1941 年)の日米の海軍力を比較すると、日本が保有する海軍艦艇の総トン数は、対米比率で約7割であった。

そのうち戦艦の総トン数では、日本はアメリカに比べて約5割と劣勢であったが、空母においてはほぼ均等であった。

また航空機数は、約6割という数字であった。

だが、日本海軍は、対米比率の7割を確保していれば、なんとかアメリカに対抗できると主張した。

それは太平洋方面に限っていうと、全ての海軍艦艇で、日本海軍はアメリカを上回っていたからである。

というのは、アメリカはヨーロッパ戦線に対応するために、海軍力を大西洋にも配置する必要があったことと、太平洋側に置いてでもハワイからインド、シンガ ポール、フィリピンに至る広大な領域を守らなくてはならなかったからである。

それに比べ、日本は攻撃拠点に海軍力を集中投入できるという優位性を持っていた。

< 太平洋方面における日米の海軍力の比較>

      戦艦  空母  巡洋艦  駆逐艦  潜水艦
  日本    10   10    38   112   65
  アメリカ  9    3    24   80   56 
(出典:Stephen Pelz, Race to Pearl Harbor, p.221) 

ところが、こうした太平洋でのわずかな日本の軍事的優勢はそう長くは続かない事は既に日本も分かっていた。

というのも、アメリカはドイツの快進撃に対抗するため、太平洋、大西洋の両方面に同時に対応可能な戦力を保持することを目的とした、スターク計画(昭和15年(1940年)に提案され7月に予算化)が実行中であったからである。

この計画は、昭和16年から向こう5年間で、アメリカ海軍の艦艇の総トン数を約7割も増やすものであった。

この計画が実現した暁には、アメリカは、戦艦35隻、空母20隻、巡洋艦88隻、駆逐艦378隻、潜水艦180隻を保有することになる。

これに対して、日本も「第 6次補充計画」を打ち出し、アメリカに対抗しようとしたが、経済力が追いつかないという理由で断念した。

その結果、海軍力における日本の対米比率は、昭和17年(1942年)は7割、昭和43年は6 割、昭和44年には3割と低下することが予測されていた。

このように、日本はアメリカに対して時間の経過とともに、わずかながらの軍事的有利さを急速に失い、そのあとは劣勢に立たされる一方になると予測されていた。

そして、日本の政策決定者は、時間が経てば経つほど、日本が不利になると認識していた。

その結果、日本はアメリカに対する脅威感をますます強く持つとともに、手遅れにならない今のうちに戦争を仕掛けるという決定を下すに至ったのである。

この様に勝ち目のない戦に踏み切ったのは、石油の枯渇する前に早期決戦に集中し局地戦での勝利を持って全面戦争になる前に和睦にもっていこうとしたのである。

正に日露戦争と同じ結末を夢見たのだった。

勿論世論、マスコミの煽りも大いに影響していると思われる。

戦争の機運が盛り上がると、戦争に慎重な者は臆病者、非国民とやり玉に上げられるようになり、次第に戦争反対と言えなくなっていく。

また、「負けるはずがない、絶対勝つと」と言い続けると、根拠も無くそれを信じてしまうものなのだろう。

 

次回は、アメリカとの戦争を「早期に終結するためのシナリオ」と開戦後の状況をみていく。

 

<続く>

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