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旅日記

望洋−32(宮古島(続き))

20.宮古島(続き)

20.3.地元官民の活動

20.3.1.島外疎開

政府は昭和19年(1944年)7月7日の閣議で南西諸島 (沖縄、宮古、八重山諸島)からおよそ十万人の老幼男女を台湾及び九州へ疎開させることを決めた。

宮古、八重山からの疎開先としては台湾が指定され、軍の輸送船や小型帆船を利用して輸送が行なわれ、10月一杯でほぼ終ったが、宮古からおよそ一万人が台湾へ渡ったものと推定されている。

これらの疎開民は殆どが海路無事目的地に到着、戦後海上遭難の一部を除き、全員が引掲げている。

児童だけ行われたいわゆる「学童疎開」は宮崎県小林町(現在の小林市)が疎開先で、宮古島から疎開したのは、引率教師3名を含め合計83名だった。

大徳丸に乗って宮古島から出港し、那覇→名護→鹿児島の順で、約1週間の船旅だったという。

(沖縄からの学童疎開船撃沈される)

一方で、沖縄から疎開した学童疎開船が撃沈されるという悲劇があった。

8月22日沖縄からの学童疎開船対馬丸が、鹿児島県・悪石島の北西約10㎞の地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃により、沈没した。

対馬丸に乗船していた疎開学童、引率教員、一般疎開者、兵員ら1,788人のうち、疎開学童784人を含む1,484人が死亡した。

救助された人々は、対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁止されたという。

しかし、上記の大徳丸に乗っていた疎開児は、鹿児島に着く頃、その話を聞いたと証言している。

<対馬丸>

  

 

20.3.2.軍・官民の決戦態勢強化

軍・官民の融和を図り、決戦体制を確立するため、陸路参謀(第28師団参謀)、青木雅英県議らの肝入りで「七日会」と称する軍民連絡懇談会を設け、昭和19年12月7日県農業会支部 に於て初会合を開き、軍官民の親睦を図った。

出席者は軍側から陸路、杉本両参謀、浜高級副官、官民側から納戸支庁長、青木雅英、西原雅一両県議を始め各官衙長、市町村長団体、新聞代表らでおよそ二十数名、議題は特になく、雑談程度だった。

この会合は青木県議が12月末県会出席のため上沖したので、二回ほど開いただけだった。

これ以外に、次のように軍官民の集会等が行なわれた。

①第28師団長櫛淵中将は昭和20年元旦料亭月見亭に地元官民代表(支庁長、市町村長、民間団体代表)を招き、年始の宴を催し、顔合わせを兼ねて懇談した。

②1月12日に師団長が櫛淵中将から納見敏郎中将に替わった。

納見敏郎中将は同月地元官民代表を司令部に招き、新任の挨拶を行なうと共に戦局の逼迫を説き、奮起を促した。

席上、陸路参謀は各地区隊の担任を発表し宮古の戦場化必至を示唆した。

③軍は2月15日頃敵大機動部隊南西諸島方面へ近づくとの飛報を受け、同日午後宮古支庁養さん室に官民代表の参集を求め、民側の避難地の指定、食糧確保などについて指示、協力を申し入れた。

敵上陸の場合、一般非戦闘員をどの地域に収容するかについては軍でも研究していたが、平良地域では添道一帯、城辺、下地村は野原越を 中心とした盆地あたりを考えていたようである。

陸路参謀の回想では各主要陣地の中間地帯に誘導収容する計画だったという。

   

 

20.3.3.行政機能

昭和19年初頭迄は宮古島は未だ直接戦火に曝されることなく、人心も比較的平穏だった。

しかし5月に入って陸海軍の大部隊が乗り込み、飛行場工事が急速に始まり、更に8月島外疎開が推進されるに及んでようやく事態の容易ならざる事に気付き始めた。

民心は騒然とし、ここが戦場化するのではないか、との緊迫した空気が満ち始めたのである。

昭和19年初頭から昭和20年にかけての一般状況は次のようなものであった。

公共機関の多くは職員の防衛召集、奉給不渡りなどで通常の業務遂行は不可能に近く、食糧の調達、空襲からの避難に追い回され、行政はストップ状態と云ってよかった。

宮古郡の行政

宮古郡の行政区画は平良町、城辺、下地、伊良部、多良間村の一町四村で、これを監督する機関としての沖縄県宮古支庁 (大正末迄は島庁)が置かれ、支庁長が地方行政の最高責任者であった。

町村の行政は町会若しくは村会で選任された首長が当たり、町内会、隣組などの組織を通じて戦時体制の強化が図られていた。

当時の支庁長は納戸粂吉氏(前中頭地方事務所長で昭和19年4月から宮古支庁長)で、ベテランの地方行政官だった。

宮古支庁の機構は総務(久場川清氏)、 学務(当銘由憲氏→昭和19年12月以降は垣花恵昌氏)経済(野口享氏→昭和19年以降は東風平恵令氏)の三課が置かれ、戦時下の地方行政を担当した。

だが、昭和19年末頃からは軍側の指示、要求を実行することが主なる役目となり、行政機関としての性格、使命は殆んど失なわれた。

昭和20年春庁舎が空襲で焼失してからは、組織機能を添道などに分散したため、行政機能は事実上マヒ状態に陥った。

当時の状況については、上記の「東風平恵令氏」の証言があるので、次回それを記述する。

警察署

宮古警察署は治安維持に任ずる一方憲兵隊と協力して反軍思想、造言蜚語、スパイ行為、言論集会、反戦思想など戦時刑法犯の取り締り、民防空、消防活動の指導などその職務は広範多岐に及び、20数名の署員だけでは手が回らない程だった。

(軍に楯突いた警察署長)

当時の署長新城長保警部(昭和18年5月糸満署長より着任)は律気さと頑固さで知られ、軍側の高飛車な態度に反発、積極的協力の姿勢を示さなかった。 

このため軍側の不興を買い、集団の某参謀から「非国民」と怒鳴られたこともあったと云う。 

宮古署の構内には物見台とサイレンが設けられ、空襲の場合は逸早く報じ各警防団を通じて防空避難指導、時限爆弾などの警戒措置、軍民間のトラブル調整など本業の警察行政以外の仕事が多かった。 

昭和20年2月新城署長は名護署長に転出して宮古島を去り、後任には2月20日付で嘉手納署長の島袋恵輔警部が発令され、3月1日入港の輸送船で着任した。 

この輸送船(大建丸) は島袋署長らが上陸後間もなく米機の空襲で撃沈された。

(3月1日空襲)

昭和20年3月1日に南西諸島を往来する日本船団を狙って米軍は空撃を行った。

鹿児島港から沖縄戦に備えた軍事輸送のため出航した日本の護送船団カタ604船団は、経由地の奄美大島でアメリカ海軍機動部隊の攻撃を受けて、輸送船が全滅した。

カタ604船団に乗船していた海上挺進戦隊第30戦隊(宮古島配置予定)は、㋹艇、弾薬、燃料、食糧等全ての資材を失い、また戦隊の下士官16名が戦死した。

このため、進航は不能となり、引き返した。

この空襲により撃沈された日本艦船は、沖縄本島で水雷艇真鶴・特設砲艦長白山丸、宮古島で敷設艇燕・特設運送船とよさか丸・民間貨物船大建丸の多数に上っている。

宮古島署も空襲が激しくなると宮古署の一部も添道に移り、辛うじてその機能を維持していた。 

(東京大空襲)

東京大空襲と呼ばれる、米軍による無差別爆撃が上記の空襲の9日後の3月10日の夜行われた。

この空襲の罹災者は100万人を超え、死者は9万5千人を超えたといわれている。

 

平良区裁判所

昭和19年11月事務停止(登記事務を除く)となり、今長高雄判事は11月那覇地裁に転任

宮古郵便局

庁舎が戦災から免かれたため、辛うじて一部の業務(主として電話)継続していた。

宮古税務署

田代穂署長の竹田署長転出後は後任発令されず、間税課長宮里良栄氏が署長代理として、昭和20年初頭迄業務を継続した。

泡盛、砂糖の配給割当権を握っていたので、軍から難題を持ち込まれることが多かったと云う。

 国民勤労動員署(職業紹介所)

昭和18年末迄は本土軍需工場に送り出す徴用工の動員事務、平和産業から軍需産業への転換に伴なう人員の配置転換などが主な業務だったが昭和19年後半期からは地元飛行場作業など軍関係作業への動員事務が主体に変った。

南静園(ハンセン病療養所)

空襲で園舎に一部被害はあったが、業務は継続した。

測候所、無線送受信所

空襲で一部の局舎は破壊されたが、場所が郊外に置かれていたので、 業務は辛うじて続けられていたが、軍の管理下に移った。

専売局出張所

煙草、塩の配給割当が主要業務だが、ストック払底によって業務は自然停止となっている。

 

その他の諸官庁も右とほぼ同じようなものだったと考えられる。

20.3.4.教育

昭和19年夏県立女学校と平良第一国民学校は師団司令部、県立中学校は海軍警備隊、平良第二国民学校は特設水上勤務隊などの兵舎にそれぞれ接収されたのを始め、各青年学校、国民学校々舎が殆ど部隊兵舎に充てられた。

そのため、生徒・児童の教育は分教場や民間の空いている建物などを利用して細々と続けられた。

しかし、飛行場など軍施設工事や防空壕造りに動員されることも多く、昭和20年始め以降は空襲が激しくなったので、授業は全面的にストップ状態となった。

(女学生は特志看護婦へ、生徒児童も決戦動員に)
中学生の一部は平良町郊外にバラック教室を造り、授業を続けたが、高学年生は通信隊に入隊して作戦準備に協力した。

又、女学校高学年生は特志看護婦として従軍し、鏡原に設けられた陸軍病院勤務を命ぜられて傷病兵の手当にあたった。(一部は軍雇員として司令部や部隊本部などの業務補助)


20.3.5.商業活動

(活動はストップ)
宮古の経済活動は砂糖、 上布、鰹節の三大生産業によって維持され、 それに海外出稼ぎ (漁村関係)による送金などもプラスして商業取引きも活発であった。

昭和19年夏以降、海上交通の杜絶と物資の払底、寄留商人の引き揚げなどによって商店街、飲食店街などは殆んど開店休業状態となり、商業活動は事実上閉止した。

金融機関としては第百四十七銀行宮古代理店、南和無尽出張所、興業銀行代理店などがあったが、興銀代理店は閉店、南和無尽は社屋を宮古島憲兵分隊に取られて民家に移転して細々乍ら事業を継続、百四十七銀行代理店は手持ち資金の一部を官公吏の奉給支払いに融資と、金融機関としての機能を維持してきた。

糖業は分蜜、含蜜糖の二本立てで、分蜜糖は沖糖宮古工場で一手に生産されて最盛期には十万ピコル(1ピコル約60Kg)を生産したこともあった。

操業は昭和20年始め迄つづけられ、かなりのストックがあり、軍民の甘味資源をまかなうのに役立った。 

上布は組合事務所が部隊に接収され、原料不足で生産が低下した。

又、漁業は乗組員の不足、漁船の徴用、燃料不足、空襲等による被害率の増大などで操業は著しく低下した。 

このほか、農業生産品の集荷配給を主要業務とする県農業会支部(支部長青木雅英氏)は庁舎を船舶輸送隊に接収され民家に移転するなど、主要な公共建物は軍関係によって占められた。

このため、公共機関は事実上、業務停止を余儀なくされた。

20.3.6.海上交通

昭和18年頃迄は宮古、 那覇、石垣 、基隆(台湾)を結ぶ海上交通は大阪商船所属の貨客船湖南、湖北丸(2,600トンクラス)が定期的に就航、この外小型機帆船が若干就航していたので、大きな支障はなかったが、乗船客は公用(応召、徴用)者が優先されたため、一般郡民の旅行は極めて窮屈になっていた。 

湖南丸:昭和18年12月21日、口永良部島西方で米軍潜水艦により撃沈される648名が死亡した。

湖北丸:昭和19年10月8日、ルソン島​​ボヘアドール岬西方で米軍潜水艦により撃沈される417名が死亡した。

<湖南丸>

昭和18年末からは大型船は慶運丸(1921ト ン)一隻となり、海上の往来は益々不便になった。

昭和19年6月同船は沖縄航路から別の航路に回され、それ以来は輸送船、機帆船に依存するようになった。

当時宮古丸 (宮古商会所有)と云う50トン足らずの小型発動機船が沖縄航路で活動、一般から重宝がられた。

注)昭和19年8月5日、徳之島南方で沈没した宮古丸(1,013トン)とは別船

 

20.3.7.食糧

(辛じて最低維持)

戦前の宮古郡民の常用主食は甘藷が主で、米を常食しているのは一部 だった。

米は台湾から移入、昭和15年配給制施行以来、食糧営団支所の手で配給業務が行なわれていた。

昭和19年半ばからは台湾との海上交通が絶え勝ちになり、食糧の配給制限は一段と強化された。

この外主食の不足を補うため、時たま町内会隣組を通じて甘藷、鮮魚類、営団支所扱いのメリケン粉、大豆、めん類の配給が若干なされていたが、疎開や動員で人口がかなり減っていたので、昭和20年初頭迄は民の食生活は辛うじて維持されていたようである。

昭和19年12月には家庭用大豆が非農家一人当り五合、農家一戸当り一升づつ配給された、という記録がある。

このほか、繊維、雑貨などの日常生活物資も厳重なる統制下に置かれ、切符制で配給されていたが、昭和20年始めからは配給は完全に杜絶し、郡民の日常生活は極めて不自由になっていた。

 

20.3.8.宮古島スパイ事件

昭和20年6月 (一説では7月)沖縄戦が終末に近づきつつある頃平良町下崎部落の民家に身元の怪しい男が潜入しているとの情報が宮古署特高係に入り、通報を受けた憲兵隊が現場に急行してこの男を逮捕・連行し、取り調べた。

その結果は以下の通りであった。

①沖縄北部の収容所で米軍からスパイ行為を強制され、他の数名の仲間と共に潜水艦で宮古近海迄運ばれ、一人だけ降ろされゴムボートで狩俣海岸に辿りついた。 

上陸後しばらく野山に潜伏していたが、飢えと疲労に耐え兼ね、下崎部落に入り、民家に泊めて貰った。

②宮古島に潜入した目的は日本軍の兵力概要、高級指揮官の氏名、司令部の位置などを探り出し、報告することにあった。

③ 使命を達したあとは海岸で信号弾で合図次勢潜水艦が迎えに来るなどが明らかになった。

同人は沖縄生れの新崎コウーと名乗ったが、身元ははっきりしなかったようである。

同人の身柄は憲兵隊で暫く拘留されていたようだが、スパイ容疑は動かせないとして銃殺刑に処せられたと云う。

 

<続く>

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