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旅日記

望洋−33(宮古島(続き2))

20.宮古島(続き2)

 

20.4.証言(戦時下の官吏の業務)

前回の話で触れたが、当時の宮古支庁の経済課長であった東風平(こちんだ)恵令氏が「戦時下の経済業務」について証言をしている。

業務で生じた、軍との関係・軋轢などの証言も含まれており、興味深い。

この証言に注釈を加えて以下に記述する。

   
宮古支庁経済課長(当時)東風平(こちんだ)恵令氏の証言

(1)青木切るべし

(配給)

米の配給は最後までやりました。

馬や豚のある人もいましたし、住民の食生活は軍隊よりよかったと思います。

砂糖をうんと配給しましたから、酒をつくる方もおりました。

非職員は全部疎開させる予定でしたが、残ったんですね。

残されたものは自活班と位置づけられました。

輸送船の関係で、運びきれずに残ったわけですが、自活班ということで、軍に奉仕する立場ですから、農家の畑はみんな軍需品の芋や野菜を作っていたという形ですね。

たとえば、鮮魚組合は供出長の指示で鮮魚を供出して軍の経理部に納めますし、経理部は供出班長を通じて鮮魚の供出を命じてきました。

軍の主力がまいります前に、親展の文書が、県の経済部長から宮古支庁長あてにまいりましたね。 

茅束や藁網を何万も準備しておくようにということがあって、最初に工作隊がやってまいりました。

それからあとに主力の上陸がありましたね。

有無をいわさない時代ですね。

国家総動員法が実施されて、勅令で物の配給や価格も統制されていましたね。

生産から配給までが統制されていましたが、県知事がそれをやり、宮古では支庁長がやるという次第ですね。

国家総動員法は、昭和13年(1938年)に制定された法律。
日中戦争の長期化により、国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。

ところが支庁長の納戸粂吉さんが病気で、そのために、実際の仕事は私にまかされたわけです。

私は当時宮古支庁の経済課長でしたが、納戸支庁長は私に、「民側に立ってやってくれ 」と頼まれました。

(軍との折衝)

軍が宮古に上陸してきてから、そのやることなすことは大変なものでした。 

私は支庁長の命に従って、従来の線で押し進めたんですが、軍側は、「頭をきりかえ、経済業務はすべて自分らに移せ!」と迫りました。そのとき私は、はっきりいいました。

「それはできません。戒厳令は出ていないじゃありませんか。私は、軍命令ではなく、地方長官の命で動かなければなりません」

軍は「よろしい、わかった」と答えましたが、次第に酷すぎることが現われてきました。

そこで、私はある夜、密かに会合をもち、年に対する強硬派の青木雅英県会議員、新城長保宮古警察署長と三人で、「あくまで民側に立って、お互い覚悟をきめて三人でやろう」と誓い合いました。

青木雅英県会議員
青木雅英は多良間島出身の沖縄県会議員である。
海上挺進第四戦隊が座間味島から宮古島に向かう途中暴風などのトラブルに遭い、一部の隊員が、多良間島に辿り着き、数ヶ月多良間島で過ごすことになった。
その時、青木雅英が隊員達の面倒を見ていたことが知られている。
それについては、後述する。

(青木切るべし)

先ず最初に、「青木切るべし」の声が軍側で起こりました。供出成績が不良だ、それは、「 青木のしわざだ。青木がそそのかしたのだ」というのです。

特にこの声は経理部で起こりました。

早速情報を青木県議に伝えました。

そのうち、軍内部で澎湃とこの声が起るようになった​​ので 、そのことを伝えると、県議は、共同戦線でやったが、現在のままではいかんから、策を変えようということになりました。

今の平良市下里在の公設市場の東側の民家の二階に県農業会支所がありましたが、そこで部隊長以上と、我々三人で、定期的に会合して話し合おう、軍民協力して立ち上がる体制をつくろう、と軍に提案しました。

櫛淵師団長も、それはいい考えだと応じ、費用は全部軍がもちましょうということで、親睦機関 の三日会がもたれることになりました 。

青木県議と、櫛淵師団長との二人の仲は、それ以後親しくなりました。師団長の長男の戦死が伝わったときは、二人は抱き合って泣いていました。

このように親しくなったのですが、私どもは、それでも基本は崩しませんでした。

協力すべきは協力するが、あくまで軍のやり方で行き過ぎがあると、批判していくという線でいきました。

(新城署長切るべし)

「青木切るべし」の次には、「新城署長切るべし」の声がおこりました。

三日会では仲良くしていったんですが、新城署長は、何か問題が起こると、軍の横暴を突きました。

あっちこっちで、軍のやり方は間違っている、と言いました。

それが軍に聞こえ、「新城署長切るべし」の声が起こったわけです。 

それで、署長は、首里(那覇市)署長に転勤していきました。

(青木県議最後の仕事)

青木県議は軍に信用されていましたから、飛行機を利用することができました。

当時、宮古からは三人の県議がでていましたが、一人は本土にいました。 

それが戦前の最後の県会となったのですが、沖縄県会があるというので、青木県議はすぐ飛行機を利用して那覇に向かいました。

もう一人の県議(西原雅一)は経済課長の私を通じて、飛行機の利用を申し出ましたが、軍は問題にしませんでした。

青木県議からの便りがありました。それが最後の手紙になったのですが、衣料品を船に積んだということでした。

「これが、私の最後のおみやげになると思う。大事に保管して、配給してくれ」ということがかかれ、 那覇にあったものをかきあつめて送ったということが書かれていました。

(3月1日空襲)

その衣料品が積みこまれたという豊坂丸と大建丸が入港する朝、私は港の見える郵便局の丘に立っていました。

ところが、グラマンがきて、ジグザグコースでにげる両船をおそい炎上させてしまいました 。

午後三時頃までただ呆然と、それを眺めていました。

青木(県議))も新城(警察署長))も島(宮古島))を去り、残るは私一人となりました。

一人でも、軍に強く当たっていかねばならないと、決意をかためていました。

 

(2)ここは外地ではなく、本土です

(師団長)

平良には二つの砂糖倉庫がありました。軍はそれを引き渡すよう要求してきました。

私は、それを拒みましたは。

国には行政機関があるんだから、それがある限り、私はどこまでもその決定に従うだけだと答えました。

しかし、その二つの砂糖倉庫が空襲(*1)で燃えてしまいました。

(*1)3月24日、7時半コルセヤー・グラマン15機平良港爆撃、砂糖工場爆破され一面砂糖の海となった、と記されている。
この空襲は、米軍の沖縄攻略戦の一環であった。

米軍による沖縄攻略戦の開始
昭和20年(1945年)3月23日、沖縄本島は朝から夕方まで延べ355機の艦載機による空襲を受けた。
米軍による沖縄攻略戦が開始されたのである。
翌24日には、沖縄本島南部に対し、およそ30隻のアメリカ軍艦船が艦砲射撃を開始した。この日の艦載機襲来は延べ600機となり、艦砲射撃は約700発に及んだ。
そして3月26日、米軍は慶良間諸島に上陸した。

師団長(*2)に呼び出され、お前が軍にさからうから、大量の砂糖が燃えてしまったではないか、こうなっても、お前はいうことをきかないのか、と迫りました。

(*2)1月12日に師団長は交代しており、この時の師団長は納見敏郎中将で、櫛淵鍹一中将は関東軍隷下の​​第34軍司令官に就任している。

「しかたがありません」と答えると、「お前のやったことは利敵行為だ」といいます。

「燃えたのは、不可抗力です。県知事がいなくなっても、内務大臣がいる。私はその決定にどこまでも従います。」と主張しました。

「お前は理屈ばかりこねている。それは何の為か。」と師団長は申します。

私はそれに対し、

「勝ち抜くためです。ここは外地ではなく、本土です。その点で、今までの戦争とは違う筈です。戦争に勝ち抜くために軍に協力はするが、民の生活を守るのは行政官の仕事です」

というてやった。

さすがに師団長は、「よくわかった」というてくれました。

(軍民協力)

暫くして、もう一度よばれたとき、もっと考えてみようと、策を考えました。

民の生活を軍が保障するならば、あんたのいうこともきいてあげよう、ということにしました。

三日会のあった頃、「軍民協力要綱」というものが、三名打ち合わせて作ったのですが、それを実際に行なうことになりました。

食糧は軍が全部管理して配給してくれることになりました。

経済課長は、月に一回、軍の将校や兵の食事を視察しました。

十九年の中頃、先島定期船の客船も沈められましたが、軍は食糧確保のため、西表島の船浮に穴を掘って中継地を作ってありました。

百屯ほどの船で台湾から、夜間を利用して、そこに運んできて集積していました。

それを更に、宮古の方に運んでいこうというわけです。

その基地には山崎少将が司令としていました。

私も、その中継地を視察しましたが、そこには、朝鮮の人や台湾の人が働いていました。

穴堀りが終って、七、八十人ほどいた朝鮮の方は、宮古にやってきて、平良市内の第二小学校にいましたが、西表にいた頃は、マラリアで腹が膨れていて、見ていて気の毒でした。

扱われ方はひどく、ちょっと怠けると足でバッとけられるというものでした。

マラリアは、マラリア原虫をもった蚊に刺されることで感染する。
潜伏期間は1週間から4週間ほどで、発熱、寒気、頭痛、嘔吐、関節痛、筋肉痛などの症状が出現する。
また、マラリアは48~72時間の周期で発熱を繰り返し、脾腫(脾臓が腫れて大きくなった状態)や貧血が特徴である。

この船浮中継地に集積されております食糧の中には、民への割り当て分もあります。

しかし、民には、既に輸送船がありません。

輸送は軍に頼らねばなりません。軍優先だということで、民の分を運んでもらえなければ、民は日干しにならねばなりません。

私の強がりにも限界がありました。それで、民の生活を軍が保障してもらうという条件で、管理権を譲ったという次第です。

考えてみると、現在どの程度まできているか、軍の思惑も考えないで、民のためと、粘ったと思います。

「切ってやる」という処まできていたんですね。

戦後わかったことですが、納見という師団長は、宮古支庁経済課つまり私のやり方に、ひどく怒っていたんですね。

明知という前の宮古支庁長に二十年二月に出された納見中将の手紙がそれをかいてあるんですね。

その手紙は、納戸支庁長が、軍の思い通りにならないので、同じ広島県出身であり、台湾在任中親交のあった明知さんに、納戸さんの後任にきてくれという要請の手紙だったんですね。

納戸さんは、第三十二軍の長参謀長と同じ福岡県人だったんですがね。

要するに、意のままにならない民の抵抗に業を煮やしていた証拠ですよ。

(軍への抵抗)

これは、十九年の初め頃の話ですが、軍に対する抵抗を始めるもとになる話です。

当時、燃料は血の一滴といわれていましてね、漁船の場合、漁期は近いが、燃料がたりない、という頃でした。

ここで、朗報がやってきたんです。

南方視察からの帰りに、那覇に立ち寄った東条首相が、島田知事や経済部長に語ったということです。

燃料を持って来てくれることはできないが、自分らで取りに行くならいくらでもかまわないということでした。

このことを伝えると、宮古の水産業者は、是非やろうということになり、平良の町長に了解してもらって、大野山林の松木で船を改装し、九隻の漁船が南方に行きました。

四月の九日に出発し、危険な海を往復して、およそ二か月後の六月十一日に、石油を満載して帰りました。

ところがです。

折角苦労してもってきた燃料を、桟橋の近くにいた暁部隊(*3)がとり上げてしまいました。

船をもです。民は泣き寝入りしなければなりませんでした。

(*3)暁部隊は、大日本帝国陸軍の船舶司令部が統括した陸軍船舶部隊の通称。

軍の方も民のやることには不満だったんですね。

食糧営団宮古支所では、所長は台湾に食糧を求めにいったんですが、帰ってきません。

それでも、そこで、終戦まで、配給は続けられました。

一か月に一度、AからDまでの級差と年令別で決められた基準(*4)で、民には配給が行なわれました。

(*4)昭和16年当時配給量は、年齢によって次のとおりに定められていた。
 1歳~5歳  :120グラム
 6歳~10歳  :200グラム
 11歳~60歳:330グラム
 61歳以上    :300グラム
 

軍はきりつめて民に出していましたね。

私は、添道の親類の疎開先で食事をさせてもらい、配給に通いました。

添道に宮古支庁が移った、というのは間違いですね。

街の東にある東川根の民家に書類を疎開させてありましたね。

支庁長は病弱だし、総務課長は城辺の方に疎開していました。

支庁の仕事というのは、経済課の仕事だけでしたからね。

妻子を台湾に疎開させてありましたから、飛びまわれたわけですね。

(終戦後)

終戦の直後にストリート大尉が最初に島にきました。

その次に正式にきたのが、チェスという少佐ですね。ウッド少将の物資係の証明書をもってきましたね。

兵隊の身につけているのは、ふんどし一本だけが私物で、あとは官の物だという姿勢でした。

日本軍の方がつくってあった軍資材の民への配給計画をみて、チェスはけしからんといい、やりかえとなりましたね。

今の博愛医院の所での米軍と日本側との話し合いでしたが、両軍ともいい合いをしていましたね。

日本軍が引き揚げるとき、アメリカが、桟橋で時計をとりあげる風景もありましたよ。

そのようなことで、おくれて台湾にまいりました。

妻はマラリアで台湾の地でなくなりました。

子どもたちをつれに行ったわけです。

それで、疎開民引き揚げの栄丸遭難の現場を目撃することになったんですね。

ハゲタカがやってきて、浜に打ち上げられた遺体の上を舞っている姿は悲惨でした。

この遭難のとき、疎開民のために、米、醤油などの食瓶を放出してくれた経理の佐藤少尉のことは今でも忘れられません。

 

『(宮古島)の節終わり』

 

<続く>

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