11.座間味島
11.1.座間味島で待機
12月12日、あと一日で宮古島に到着する予定であったが、軍命令により、座間味島にて下船し、次の船を待って宮古島に行くことになった。
ここで、下船の命令が出たのは、この大譲丸で沖縄にいる武兵団(第九師団)を台湾に送るためであった。
第九師団
この第九師団は第3軍の指揮下で満州の治安活動を主としていたが、戦局が緊迫化したため昭和19年7月に沖縄担当の32軍に編入され防衛計画を固めていた(人員は約2万5千名)。
しかし、急を要するフィリピン島防衛のため、第32軍の一兵団を転用することになり、この第九師団は取り合えず台湾に向かうことになった。
なお、台湾に移転した第九師団は連合国軍が台湾を素通りして沖縄に向かったため、戦うことなく、同地で終戦を迎えた。
このため第四戦隊は座間味島で下船して待機し、改めて船団を編成してから宮古島に向かうことになったのである。
この変更が第四戦隊に思わぬ苦難と悲劇をもたらすことになるのである。
座間味島
座間味島は慶良間諸島に属する島で、北側に位置する。
海上挺進第四連隊は軍司令の命令により座間味島にて大譲丸から下船し次の船を待つことになった。
大譲丸は座間味島の安護の浦に停泊した。
12月13日は、風雨が強いため、上陸を一日延期した。
12月14日、朝5時に起床して、舟艇を下ろし大発で安護の浦の大浜(うはま)の海岸に上陸した。
大譲丸は同日16時に台湾に向けて出帆した。
夜通しで、糧秣を運搬し運び終わったのは、翌日の朝4時を過ぎていた。
この座間味島には既に第一戦隊〜第三戦隊が上陸していた。
第一戦隊
戦隊は昭和19年(1944年)9月5日に宇品を発って、陸路鹿児島に向かい、鹿児島港で輸送船に搭乗し、9月7日鹿児島港を出航した。
10日に座間味島に上陸し、舟艇を慶良間海峡に面した古座間味海岸に配備していた。
戦隊の戦死者は隊員104名中70名(戦隊長生還、中隊長全員戦死)
基地大隊は892名中675名が戦死(大隊長戦死)
第二戦隊
昭和19年9月11日に宇品を輸送船で出航した。
本隊は9月13日に門司港を出航、23日に鹿児島港を出航、26日に那覇港に到着。
同夜に任務地の阿嘉島に上陸した。
その他の中隊は出航が遅れて11月3日に鹿児島港を出航し、7日に阿嘉島に上陸した。
舟艇は慶留間島北部、阿嘉島の南部に秘匿した。
戦隊の戦死者は隊員104名中41名(戦隊長生還、中隊長1名戦死)
基地大隊は881名中675名が戦死(大隊長戦死)
第三戦隊
主力は9月10日に宇品港を出航し、鹿児島港を経由して26日に渡嘉敷島に上陸した。
慶良間海峡に面する渡嘉志久、阿波連地区に舟艇を秘匿した。
戦隊の戦死者は隊員104名中21名(戦隊長生還、中隊長全員生還)
基地大隊は886名中599名が戦死(大隊長生還)
ところで、昭和20年3月26日に座間味島で、3月28日に渡嘉敷島で集団自決するという事件が起こった。
この座間味島の集団自決は、第一戦隊長の梅沢少佐の命令によるもの、また渡嘉敷島で集団自決は、第三戦隊長赤松大尉の命令によるもの、とされ戦後論議が起こった。
この論議については次回触れることとする。
11.2.座間味島滞在
座間味島は美しい海に囲まれていた。
海は澄み切っていた。
海の色は遠くになるにつれエメラルドグリーンから徐々にコバルトブルーに色が変わっていった。
砂浜は白く輝いていた。
眺めていると時間が経つのを忘れてしまうようだった。
第四戦隊の隊長を含む隊員全員は安佐の民家に数名づつ分散してお世話になることになった。
彼らはこの地で約1ヶ月滞在することになる。
16日から、各種訓練が再開された。
だが、この頃はさほどの緊迫感もなく日常生活を送っていた。
合間に、野球や相撲などのスポーツもした。
民家には、付近の若い男女が訪ねてきた。
彼らと談笑したり、民謡などを習ったりした。
座間味島で越年
宮古島に向かう機帆船が座間味島阿佐海岸に入港してきたが、この船は何と驚いたことに瀬戸内海を走る100トン前後の木造帆船であった。
船舶がいかに不足しているのか、目の当たりにしたのだった。
海浜に陸揚げしている舟艇を海に下ろし、手巻きウインチで機帆船に積み込む作業が続いた。
だが、機帆船の数が足らず全てを積み込むことができず、残りは1月初めにやってくる船を待つしかなかった。
昭和20年(1945年)の元旦をこの地で迎えた。
1月1日に拝賀式を行った。
2日には座間味島に駐屯している第一戦隊と野球試合をした。
3日には地元の人達と会食、演芸会も開催し、地元の人達から、「お国のために頑張ってくれ」と励まされた。
4日から舟艇整備などを再開し、薪集め、魚介類の採集も行った。
薪集めは毎日行った。
食料採集
座間味島滞在中の魚介類の採集は面白く楽しい作業であった。
ある日、北の方から爆音が聞こえた。
島中を揺るがすような大音響である。
すわ、敵の来襲かと思ったが、地元の人は至って冷静であった。
地元の人々が言うには、あれは浮遊機雷が点在する岩に接触して爆発したものだ、という。
中村達は、それを聞いて阿佐の裏山を越えて東支那海側のコヒナの浜に行った。
海を眺めると爆発した事を伺えるものはなかった。
様子を伺いながら、浜辺を歩いてみると機雷の爆発によって死んだと思われる数十匹の魚が浜に打ち上げられていた。
これは良いものを見つけたと、集めて帰った。
これをきっかけに、魚介類を採りにコヒナの浜によく行くようになった。
海岸の大きな石をひっくり返すと、いくつもの鮑がくっついており簡単に捕獲できた。
持ち帰った鮑は、村の小母さんが、砂糖と味噌で煮つけしてくれた。
穏やかな日々が続いたが、時折機雷の爆発する音が島中に轟き、戦争中であるという厳しい現実に引き
戻され、敵が徐々に近づいていることを実感するのであった。
ドラム缶の風呂
風呂は砂浜にドラム缶で作り、入った。
ドラム缶風呂に入って見る夕暮れの海辺や、星空は何とも言えない光景だった。
後年、この事を思い出し懐かしがった隊員が多くいた。
原山が、ドラム缶風呂に入っているときに、湯加減の火の世話をしていた菊田池隊員が話しかけてきた。
「群長殿の故郷の星空は、どうですか?、自分の故郷は茨城で星空が綺麗でしたが、ここの美しさには驚きます」
「儂の故郷は山奥で山に囲まれているため、空は狭かった。でも星は綺麗に見えた。
朝鮮で見た星空も綺麗だった。しかし、ここは海に囲まれており、別格だな」
と原山は言った。
「群長殿は、朝鮮におられたのですか?」
「そうだ、朝鮮で師範学校をでて、朝鮮で3年間国民学校の訓導をした」
「そうですか、それで群長が優しい理由が分りました」
「儂が、優しいと思うか?」
「そう思います。他の隊員も同じ思いだと思います。
群長は、今まで一度も部下を殴ったことがありません。
何故ですか?」
と中村はと尋ねた。
原山は暫く考えて言った。
「お前たちは、殴られると嬉しいか?」
「そういうことはありませんが、殴られることはある程度仕方ないと思います」
「何故、仕方ないか?」
「自分たちが義務違反した時や、訓練を上手に出来なかった場合、体罰を受けるのは仕方ないかなと思います」
「お前は、そういう義務違反を、わざとしたのか?」
「そういうことは、全くありません。自分ではこれで充分と思ったことが、上官には気に入らなかった様です」
「そんな事なら、口頭で済む話ではないか?」
「普通はそう思いますが、しかし、今はそう思うのは群長だけです」
「儂は朝鮮の学校でも生徒を殴ったことはない。いくら悪戯をしても殴ったことはない。
殴っても本当の効果がないと思っているからだ。
もっと威厳を持つべきだ、と言って忠告してくれた先生もいたが無視した。
威厳など、実社会、教育社会にあまり役に立たないと思っていたからだ。
儀礼や格式、祭礼においてのみ、威厳というものが意味を持ち、人の心を震わすと思っている」
原山はちょっと説教がましく喋りすぎた、と思い少し悔やんだ。
そして話題を変える様に「儂も殴られるのは、いやだ。だから他人にしない。それだけだ」
と言って、空を見上げた。
菊田池隊員も同じ様に空を見上げた。
宮古島へ
輸送する機帆船が全部揃わなかったが、先を急ぐため二個梯隊として別々に宮古島に向けていよいよ出発することになった。
(梯隊とは縦に長く配列された隊のことである)
第一悌隊は戦隊本部、及び第2、3中隊であり、1月8日に宮古島へ出航した。
第二悌隊は機帆船が揃うのを待って1月20日に出航した。
宮古島までの航行は第一、第二悌隊とも悲惨なものだった。
<続く>