5.様々な入隊(続き4)
5.5.菅本博文
菅本博文は、学徒出陣で陸軍に入隊し、その後前橋陸軍予備士官学校に入学した。
昭和19年9月、卒業すると、海上挺進戦隊に入隊した。
菅本博文は海挺進第三十連隊の副官となった。
前橋陸軍予備士官学校に入学
昭和18年(1943年)菅本博文は、大学生だった。
同年10月2日に公布された「在学徴集延期臨時特例」(勅令第755号)により学生の徴兵延期の特権が廃止となった。
菅本は徴兵検査を受けて、12月1日に陸軍に入隊した。
この頃の学生は愛国心に目覚め「我らがやらなければ」との使命感を持ち、銃後の人々の期待に応えて「ペンを銃に持ち代えて戦おう」を合言葉に張り切って出征していった、と菅本は書いている。
半年間の初年兵生活中に幹部候補生試験に合格し、昭和19年5月1日、菅原寛は前橋陸軍予備士官学校に入学した。
当時は下級将校を急いで現地に送り出す必要に迫られており、訓練は日夜行われ、徹底的に鍛えられ、軍人精神を叩き込まれた。
予備士官学校在学中は外部との接触は全くなく、日米の戦闘の状況は全く知らされておらず、演習に次ぐ演習の日々であり、必勝の信念に燃えていた生徒達は日本が戦争に負けるとは少しも思わず 、日本の勝利を心から信じていた。
昭和19年の7月末頃から、次第に「戦争は我に利あらず」との情報が教官から生徒たちに伝えられるようになってきた。
キリバスのマキン島、タラワ島、北マリアナのサイパン島、ベーリング海のアッツ島など日本軍が守備している島々が米軍の攻撃を受け、「守備軍全員玉砕」の報も伝えられた。
その頃の米軍の攻撃方法は日本軍の守備している島々を本土に向かって飛び石的に攻撃を加え、一つの島を陥落させるとそこを拠点として次の島を狙うという作戦を採っていた。
士官学校での日々の演習は今までの大陸戦闘方式を取り止め、島嶼防禦に専心せざるを得なくなり、敵の上陸を水際で撃退する作戦(ア号作戦)に変わって行った。
米軍の攻撃は上陸地点を決めるとその沖合に戦艦・巡洋艦・駆逐艦・輸送船 等多数の艦艇を集めて泊地を作り、その物量にものを言わせて空襲と艦砲射撃を行い、徹底的に日本軍を叩いて地上軍の 消耗を確認して後上陸する作戦である。
士官学校でもこれに対する防禦の演習が繰り返され、千葉県九十九里浜において敵の上陸に備えての演習が行われた。
学科でも「敵の包囲を受け、攻撃された場合、守備隊はどう対処したらよいか」の課題が出されて日夜真剣に論議された。
包囲している敵艦船泊地に対して、丸木船に爆雷を積んで夜陰に乗じて体当たりせよ」とか「一人一人が爆雷を背負って、泳いで敵艦に近づき体当たりせよ」等およそ原始的な発想しか案は浮かばなかった。
そして最後は大和魂、神風に頼るのみであった。
特攻要員への志願
八月の初め、朝の点呼の際に中隊長は真剣な顔をして次のことを学生に申し渡した。
「今日の戦況は我に利無く、 我が軍は日々窮地に立たされている。
この難局を打開するため上層部において色々研究を 尽くした結果、物量によらない特殊な方法、すなわち陸海空とも捨て身の戦法で体当たりする方法、つまり特攻戦闘方法を採用するほかない。
と言うことが決まり、参謀本部に於いて取り上げることになった」
陸軍の特攻戦闘
昭和19年4月27日、船舶司令部は正式に肉迫攻撃艇という型で試作艇を作ることを計画し技術面での研究も促進させた。
7月8日使用に耐える試作第一号艇(甲一号型)が完成する。
陸軍は同じ目的海軍で作成されたの艇(後の震洋)との比較をテストを行い検討した結果、甲一号型を採用することを決め、大量生産に取り掛かった。
8月11日に、特攻戦闘部隊である海上挺身戦隊が、小豆島の船舶特幹隊内で発足することになった。
続けて中隊長は「目下の我が軍の劣勢を挽回するには諸君らの忠誠心を待つより外は無い。
よってこの作戦を実行するため、諸君達の中より”決死生還を期せざる要員”を募集する。
勿論諸君等は全員希望するであろうが、当方では指名しない。
明朝までよく考えて区隊長の許まで志願の旨を申し出るよう」といった。
菅本は『国家存亡のこの時、日本男児として中隊長の求めに応じて志願すべきか、否か』 と、一日中あれこれと考えたが、考えはまとまらなかった。
もし、皆が志願して自分一人だけが志願しなかったならば、臆病者と罵られ、父母は不忠者の親と烙印を押される。其れこそ不忠不孝者になる。
さりとて死にたくはないし 。
考えても考えても結論はだせず、堂々巡りするだけであった。
一睡もせず翌朝となった。
だが、決断する時間が迫ってくると、不思議にも今まで悩んだことが、嘘のように「志願する」と決めることが出来た。
菅本は区隊長室へ向かった。
ノックをして区隊長室に入り、沖田区隊長に向かって「菅本候補生は志願をさせて頂きます」と一気に伝えた。
区隊長は菅本の顔をじっと見つめ、菅本の手を取ってうっすらと目に涙を浮かべて言った。
「そうか君のような忠勇なる生徒を私の区隊から出すことは区隊長として非常に嬉しい、そして名誉な事である。早速中隊長に報告する」
この時、菅本は自分の中隊の生徒は全員志願するであろうと思っていたので、区隊長のあまりにも真剣な態度には些か戸惑った。
後日、志願した者が中隊長室に呼ばれた。
菅本は驚いた、志願した者達は、僅か十数名に過ぎなかった。
一人一人中隊長室に呼ばれ、中隊長から「君は何故要員を志願したか」と志願をした理由を聞かれた。
そこで菅本は「私は五人兄弟の末で、身体強健で演習その他では他の人より優れていると思うから、新しい任務には最適であると思います」 と虚勢を張って答えた。
中隊長は「君がその気でも他に志願者が多数居るから、君が必ず指名されるとは限らない。万一選に漏れても気落ちしないように」と言った。
菅本は「もう志願して面目が立ったのであるから、かえってその方がよい」と考えていた。
菅本は『死ぬ』という言葉をこの時ほど真剣に考えたことはなかった。
八月の末、朝の点呼の際、中隊長から次の申し渡しが有った。
「先般諸君の中から「決死生還を期せざる要員」を募集したところ多数の応募者があり、この旨が上聞に達し、本日天皇陛下の命により次のものが指名された。
謹んで申し渡 す。
「菅本候補生・加藤候補生・山崎候補生・・・・・」
菅本はこの時心の中で指名されなければ良い、と願っていた。
やはり死にに行くのは嫌だったからである。
いくら意気がっていても必ず死ぬということにはすごく抵抗があるものである。
一番最初自分の名前が呼び上げられた瞬間、何か棒で頭の後ろをぶん殴られたようで気が遠くなるのを感じた、倒れてはいけない、と足を踏ん張っていた。幸い他の者には気付かれなかった。
中隊長がその後何を言ったのか菅本は覚えていなかった。
菅本は心の中で『天皇陛下は第一戦で戦闘中に止むを得ず決死隊作戦を遂行することには同意しても、前以て必ず死ぬ作戦を許可する筈はない。
万一出撃しても、其れは日本が滅びる寸前であろう。
その時人より一 足先に死ぬのは仕方ないことだ』と自分に言い聞かせてやっと落ち着きを取り戻した。
そして、中隊長が言った「天皇陛下の命により」と言う言葉は果たして本当であったのだろうか、と考えた。
区隊長が言うには「君達が与えられた作戦は、敵前上陸の際、ジュラルミン製の新兵器で翼をもって飛んで行き、敵の守備する海岸に着陸してトウチカとなって敵の拠点を攻撃し、その間に後方の部隊が上陸をはかるとうような決死隊である」との説明であった。
やがて出戦を前にして生徒全員に面会が許された。
前橋予備士官学校内で家族と面会が許され、そして家族と飲食を共に出来るのは入校以来初めてであった。
東京から母と兄が菅本に面会に来た。
会食をしていると当番が来て中隊長が母を呼んで居ると告げた。
中隊長は菅本の母を中隊長室で迎え、「あなたの息子さんは非常に立派な生徒で、 我が中隊の名誉である」と大層褒めた。
菅本の母は、驚きながらも大層な誉であると思ったが、何故自分だけが中隊長室に呼ばれ、たことをを不思議と思い、
「どうしてかね、南方方面等の戦地へ行く人のお父さんやお母さんが一人も呼ば れないで、内地に残る者の親の私が呼ばれて、こんなに褒められるとはね」と首をかしげながら言った。
菅本は決死隊の事は父母に云ってはならない、と考えていた。
二十数年間子供のために自分の楽しみも忘れて育ててくれた母に、国のためとはいえ、「決死隊に志願しました」とは口に出せなかった。
世間体はともあれ我が子の死を喜ぶ親はいない筈であるから。
こんな事なら子供の時から、もっと親孝行をしておけば良かった、としみじみ残念に思うので あった。
菅本は柔道が強くて体力的に他の者に勝り、成績も良かったので初年兵教官として内地に残るのだ」と告げた。
しかし、母親はすんなりと納得しなかったようであった。
菅本は帰りがけに兄にそっと決死隊志願の事を告げ、「この事は父母に 言わないで欲しい」と付け加えた。
軍隊経験のある兄はあっさりと、「人間死ぬときは何処にいても死ぬさ、後のことは 心配しないでしっかりやれ」と言って慰めた。
昭和19年9月17日、前橋陸軍予備士官学校より選ばれた22名は他の生徒達に先立ち広島に向かって出発した。
校長を始め全校生徒に見送られ勇躍学校を出ていった。
広島から電車で宇品の船舶司令部(船舶練習部)へ行き、ここで江田島の幸ノ浦へ行くよう指示された。
宇品より連絡 船に乗り幸ノ浦へ到着した。
菅本達は桟橋を渡って隊内に入った。
ここが海上特攻隊教育隊の在る第十教育隊であった。
なお、菅本達が宇品に着いた9月17日迄には、既に第一、第二、第三、第六、第十戦隊らが宇品港を出発し任務地に向かっていた。
第三十戦隊
菅本が所属したのは第三十戦隊であった。
この第三十戦隊の配置は宮古島であったが、幸ノ浦での訓練を終え宮古島に向かったのは昭和20年の2月に入ってからである。
昭和20年2月28日に鹿児島港を出発した。
3月1日に航路海上で、延べ239機に及ぶ米軍艦上機の攻撃を受け、奄美群島の大島郡西方村の篠川湾に退避したが、輸送船は沈没し、戦隊の下士官16名が戦死した。
戦隊は、この戦闘により㋹艇、弾薬、燃料、食料等すべての資材を失った。
このため、進航不能となり、32軍司令官の命により宇品に引き返した。
以後は幸ノ浦で新たに編成される戦隊の教育・訓練の援助を担当することになった。
<続く>