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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−143(足利直冬(2)−5)

42.足利直冬(2)

42.3.足利直冬の上洛

42.3.1.「太平記」​​遊和軒朴翁

話は少し遡るが、足利尊氏に反旗を翻した山名時氏は、直冬と盟約し南朝に降伏した。

これを受け南朝は、文和2年/正平8年(1353年)6月に直冬を総追捕使に任命し、尊氏討伐の綸旨を下した。

 

この出来事を、「太平記」では「​​遊和軒朴翁」なる人物が批判している。

「​​遊和軒朴翁」は、いかなる人物なのか正確には不明であるが、​​玄慧法印(鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した天台宗の僧侶で儒者)という説がある。

​​遊和軒朴翁は天竺と古代中国の、孝と不孝に関する古の事例を長々と説明する。

そして、​​遊和軒朴翁は最後にこういった。

このように、天竺の「​​師子国」の例にあるように、

親孝行の道から外れた中に、どんなに忠功を建てたとしても、どうしようもなく、いずれは罰を喰らう事になる。

その反面、古代中国の「堯帝から舜への禅譲」の例のように、

父に対して孝行厚くしていくならば、たとえ身分が卑しくとも賞せられる。

しかるに、足利直冬は、父を滅ぼさんがために、天皇の命を利用しようとした。

天皇も、これを許容して、彼に大将の号を授けた。

どちらの行為も、道に反している。

 

「太平記」 (巻第三十二 直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事)

・・・・

天竺・震旦(古中国の別称)の旧き迹を尋るに、親のために道なければ忠あれども罪せらる。

師子国の例是也。

為父孝あれば賎しけれ共被賞。

虞舜の徳是也。

然に右兵衛佐直冬は父を亡さん為に君の命を仮んとす。

君是を御許容有て大将の号を被許事旁以非道。

山名伊豆守若此人を取立て大将とせば天下の大功を致さん事不可有。」

と昨木の隠子朴翁が眉を顰て申けるが、果してげにもと被思知世に成にけり。

 

「インド、中国の故事を辿ると、親に対して道を行わなければ忠義であっても罰せられる。

獅子国の例がそれである。

父のために孝行を尽くせば、身分は低くても讃えられる。虞舜の徳がそれである。

しかるに右兵衛佐直冬は父を滅ぼすために帝の勅命を受けようとした。

帝はこれをお許しになって、大将の称号を許されたことは、両方とも道義に外れている。

山名伊豆守がもしこの人を取り立てて大将としたならば、天下の大事業を成し遂げることはないであろう」

と、大木のような隠者朴翁が眉をひそめて言ったのだが、はたして、なるほどと思い知らされる世になったのだった。」

 

42.3.2.足利尊氏、京を脱出

文和3年/正平9年(1354年)12月13日、直冬は山名時氏とその息子・山名師義達と、伯耆より京都を目指して進軍開始した。

但馬から杉原(兵庫県多可郡多可町)を越えて、播磨に進出し、鵤の宿(兵庫県揖保郡太子町)に滞陣していた足利義詮軍を撃破し、丹波に向かった。

丹波では丹波国守護仁木頼章が直冬らを迎え撃って来たが敗れ去る。

時を同じくして、越中の桃井直常、越前の足利高経らから「北国勢を率いて上洛するから、急ぎ攻め上げられたい」という報が、直冬に届き、意気は益々高くなった。

 

一方、これらの情勢に接した足利尊氏は、京にいる残存兵力の少なさに戦う不利を悟り、京を脱出する。

尊氏は直冬らを一旦京に入れて、播磨にいる義詮勢と東西から挟み撃ちにしようと考えたのである。

 

12月24日の暮れ方、尊氏は、後光厳天皇を奉じて、京都を離れて近江国へ退避、太子山武作寺廣済寺(滋賀県・近江八幡市武佐町)へ入った。

開けて翌年の文和4年/正平10年(1355年)1月16日に桃井直常が入京し、1月22日に足利直冬、山名時氏、石塔頼房らが入京した。

 

近江廣済寺

<後光厳天皇石碑>

 

廣済寺由緒によると

推古天皇2年(590年)2月、聖徳太子が、武河綱に命じて寺をこの地に建立し、阿弥陀仏の像を作り一堂に安置し、東金堂と名付けた、とある。

なお、後光厳天皇については
康安元年(1361年)12月に臨幸、60日間滞在された、とあるが、何かの間違いと思われる。
後光厳天皇が臨幸したのは、文和3年/正平9年(1354年)の12月が史実である。

また、明治11年(1878年)10月、明治天皇が北陸御巡幸、御還幸の際、昼食を召され行在所とされた、とあり、「明治天皇武佐行在所」の石碑が、「由緒」板の側に建っていた。

由緒

当寺は推古天皇二年(594)二月、聖徳太子が 武河綱に命じて寺をこの地に建立され、そして阿弥陀仏の像を作り一堂に安置し、東金堂と名づけられた。

これが武作寺廣済寺である。

当寺は天台宗に属していたが嘉禎元年(1235)四月見真大師が関東から御帰洛の途中立ち寄られた時、寺主が師弟の契を結び真宗に改宗されたという。(初代大同房了仙)

元暦元年(1184)左近衛中将平重衡朝臣が鎌倉へ護送されるとき当寺に詣でられ、また康安元年(1361)十二月後光厳天皇が御臨幸六十日間ご滞在になられた。

天正十五年(1587)本願寺 顕如上人は安休房西周に命じて寺嗣とされた(十三代)。安休は浅井長政の異母兄で徳川家と姻戚である。

明治十一年(1878)十月、明治天皇北陸御巡幸、御還幸の際昼食を召され行在所とされる。

また昭和三十二年(1957)十月、西本願寺門主光照貌下御巡教の節にお立ち寄り賜った。

太子山武作寺 廣済寺

 

<明治天皇行在所 石碑>

<参道入口の石碑>

 

<続く>

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