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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−5 (江の川最後の渡し守−1)

1.4. 江の川最後の渡し守

古来江の川全流域には沢山の渡船場があり、人、荷車、牛馬等を舟で渡した。

江の川に橋が架けられる様になったのは、大正に入ってからである。

戦後、橋がかけられたり、自動車が普及しが整備されるに伴い、数多くあった江の川の渡船場も次第に消えていった。昭和56年(1981年)に江の川渡しの最後の桜江町坂本渡船場の閉鎖式があった。

 

1.4.1 船頭月森芳太

江の川沿いの渡船場が次々と消えていく中、最後に残ったのが坂本地区の渡船場であった。

この時の船頭さんは月森芳太さん(明治32年生まれ)で当時の年齢は82歳であった。月森さんは昭和33年からここ坂本の渡船場で専任の船頭を始めた。

舟は集落の持ち物で、当時渡し船は各戸持ち回りで船頭をだしていたが、月森さんが専任で船頭を引き受けたのだった。

専任船頭としての報酬は決まりがなく、集落の各戸で思い思いの心付けを月森さんに渡していた。集落に関係のない人が渡船するときは昭和30年頃で20円の料金を手渡して乗船した。

舟は常駐場所が決まっており、船頭さんもそこにいます。舟に乗りたいときはその控え小屋に船頭さんを尋ね、渡してもらうように依頼する。対岸側から舟に乗りたいときは、大声で川向うから船頭さんを呼んで舟で迎えにきてもらう。

<通勤・通学もこの船で江の川を渡って通いた>

江の川が洪水で水嵩が増した時は、危険なので、舟は利用できなかった。

川越橋ができた後は、山沿いの崖道を通って大貫まで行き、川越橋で川を渡った。

 1.4.2 坂本渡船場の閉鎖式

昭和56年(1981年)4月25日の坂本渡船場の閉鎖式については、桜江町広報誌や山陰中央新報がこの時の様子を記事にした。

坂本地区の人たち30人が82歳の船頭さんの艪さばきで江の川を往復したあと、長さ10mの木製の渡し舟を全員で川から引き揚げてお別れをした。

下の写真で中央より少し左の白く見える岸が、かつての船着き場。

 

・渦巻地区の渡船場

坂本地区には他にもう1箇所、坂本渡船場から約800m上流側の渦巻に渡船場があった。ここでは船頭は専任ではなく、それぞれ必要に応じて住民が家族が舟を操っていた。

ここの渡船場は国道261号線が開通した昭和50年(1975年)に消滅した。

<左下の女性は洗濯中>

 

<続く>

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