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旅日記

望洋−8(様々な入隊(続き))

5.様々な入隊(続き)

 

5.2.田中隆雄

田中隆雄は、ハワイ生まれのハワイ育ちであるが、13歳の時に父母の故郷の熊本に帰った。

田中は中学校在学中に校長推薦で陸軍船舶特別幹部候補生隊に入隊した。

そして海上挺進戦隊が発足すると、海上挺進第四戦隊に編入された。 

 

ハワイからの帰国

田中隆雄はハワイに移住していた両親のもとで大正14年(1925年)に出生した。

ところが、昭和13年(1938年)父親が病死したため、母・兄達と郷里の熊本県御船町に帰った。

田中はハワイ生まれハワイ育ちのため、英語はできたが、日本語は不得手のまま熊本県に帰った。

 

熊本に帰った、田中は小学校五年生に編入された。

旧学制で13歳ならば、高等科2年か中学校2年のはずであるが、恐らく日本語が十分でないためか、またはハワイで通っていた学校での学習レベルが日本の学校のレベルよりも低かったことがわかり、格下の小学校5年に編入されたものと思われる。

当時は、すでに戦時色が濃かったため、日本語が不得意な田中は非常に苦労したり、嫌な思いも味わった。

近所の子達は「混血の子」 「キリスト教」とののしったりした。

しかしこれは子供のイジメであるが、担当教師も同じ様に差別をしたという。

子供は、異端なものに興味をしめし、それに対する態度はイジメや過剰な干渉となるが、これは相手をよく理解していないために、精神の発展途上中に起こるものである。

だが、大人が同じ様にするということは、その大人の精神が幼稚であるのか、あるいは世間の風に逆らうことを恐れ、自分で考えるのを放棄したからである。

しかし、残念ながらこの現象は少なくない、いや多いと言ったほうがいいかもしれない。

それは、

村の駐在巡査が田中の兄がラジオをもっているのを見つけると、そのラジオを取り上げ「アメリカのスパイ」をしていると云って無残にもハンマーでたたき壊してしまった。

という事件があったことからも見て窺い知れる。

 

これらの仕打ちや、人々の態度に接した田中は、日本への憧れや信頼は完全に破壊されてしまったのである。

田中は小学校を卒業すると、御船中学校(旧制)に入学した。

ここで、同じハワイから日本に帰った久川秀雄と知り合った。

田中は久川も自分と同じような境遇であることを知った。

二人の話は、もっぱら生まれ故郷のハワイの話だった。

そして、二人はいつも「いつかもう一度ハワイに帰りたいなぁ」と話していた。

二人が知っているハワイは対米戦争が始まる前のハワイであったので、戦争が始まってからの日系人に対する抑圧は経験していない。

貧しかったけど、ハワイは子供にとって忘れられない思い出の場所であったのである。

陸軍船舶兵特別幹部候補生に応募

昭和18年(1943年)11月に日本陸軍が「陸軍船舶兵特別幹部候補生」の制度を創設して、公募を行うと、御船中学校の校長は、田中と久川に応募することを勧めた。

「田中君、久川君、君たちはハワイの移住民であったことから、世間の人から色眼鏡で見られていることを、知っている。

これは、いけないことだが、今の状況下では如何ともし難い。

だが、君たちが日本のために戦うといえば、世間の風当たりも和らぐだろう。

君たちは他の同級生より3歳年上で、もう18歳である。

来年から、徴兵年齢が19歳になり君たちも兵役に服すことになる。

話は変わるが、日本陸軍が「陸軍船舶兵特別幹部候補生」というものを募集している。

これに入隊すると、いきなり一等兵として扱われるらしい。

君たちはこれに応募する気はないか?

普通は徴兵を受けて入隊すると、二等兵から始めなければならない。

二等兵は古参兵からの扱いが酷いと聞いている、もし、君たちが元ハワイの移住民であることが分かると

さらに酷い扱いをされる。

君たちがこれに応募する気があるなら、私は推薦状を書いても良いと思っている。

校長の推薦状があれば、入隊試験は免除されることになっている」

田中と久川は、突然の校長先生の言葉に驚き、戸惑って、言葉がでなかった。

モジモジしていると、校長は「今ここで、返事をしなくていい。帰って家族のひとと良く相談しなさい」と言った。

田中と久川が「家族と相談します」と言うと、校長は「良く相談して来なさい」ともう一度言った。

 

田中は、入隊することに不安があった。

だが、いつまでも入隊しなくて済むはなしではない事は、理解していた。

校長先生は、今入隊すると有利である、といった。

なら、いっそのこと入隊してみようかと、帰る路すがらあれこれ考えたが、結論はでなかった。

 

田中は家に帰って母親に、今日校長先生から言われたことを説明した。

母親は黙って聞いていたが、「仕方ないなぁ」と呟いた。

母親の目に涙が溜まっていた。

田中は、ひょっとしたら母は反対したいのかもしれないと思ったが、それ以上考えないことにし、明日、校長先生に報告しよう、と思った。

その時、ふと田中は複雑な思いに襲われた。

もし、父が生きていたら、日本に帰ることはなかっただろう。
そうすると、父はアメリカ軍に入って、ひょっとしたら日本軍と戦っていたかもしれない。

だが、現実はその息子が日本軍に入隊してアメリカと戦う事になりかけている。

運命とは、容赦のないものだ。

母は、そのことに気づいていたのかもしれない。

 

翌日、学校で久川に会うと、久米も入隊することに決めた、と言った。

二人は、揃って校長室に向かった。

校長室のドアをノックすると。「どうぞ」と中から声がした。

「田中と久川、入ります」

といってドアを開けて中に入った。

校長先生は窓を背にして机に座っていた。

「お早う、昨日の返事をもってきたのか?」と笑顔で尋ねた。

「はいっ」と二人は声を揃えて答えた。

「それで、どうすることにした?」

「はい、校長先生のおっしゃるとおり、その船舶兵特別幹部候補生に応募しようと思います」と田中が言った。

田中は、応募すると言ったことで、胸のつかえも一緒に出ていったような気持ちになっていた。

続けて、久川も「私も同じです」と言った。

「そうか、よく決心した」と校長は笑みを浮かべて言った。

田中は、その時校長先生のメガネが光ったような気がした。

 

二人は、「陸軍船舶兵特別幹部候補生」に志願書を、渡された。

志願に際しては、予じめ船舶兵の分科を記入することとされており、志願募集要領には

「船舶ニ在リテハ工兵、通信、特殊艇、 整備等ノ希望ノ順序二 記入スルモノトス」

と定めてあり、田中と久米は「通信」を希望として提出した。

ここに 「特殊艇」という名前がでているが、ここでいう「特殊艇」は後に海上挺進隊の使用する特攻艇を意味しない。

なぜなら、この時点では海上挺進隊の使用する艇は研究試作中であり、試作品が出来上がったのは昭和19年5月であるからだ。

ここでいう特殊艇とは、船舶工兵の操作する、大発、小発、一般輸送船舶以外の舟艇、船舶、すなわちイ号高速艇、高速駆逐艇(カロ艇)、潜水輸送艇、装甲艇などを指したものと思われる。

大発(大発動艇)、小発(小発動艇)

大発動艇、小発動艇は、1920年代中期から1930年代初期にかけて開発・採用された大日本帝国陸軍の上陸用舟艇。通称は大発(だいはつ)、小発(しょうはつ)。

 

田中と久川は両親の国のため徴兵期間の二年間現役として勤務して、将来は共に生まれ故郷のハワイに戻ろうと、約束をしていた。

やはり、日本での住みにくさを感じ、生まれ故郷のハワイに郷愁を感じていたと、思われる。

 

船舶兵特別幹部候補生の入隊

入隊試験の合格者は、第一次と第二次に分けて入隊することになった。

田中と久川は第一次採用だった。

第一次採用者は、昭和19年4月10日に入隊すべしとの通知を受けた。

そして、昭和19年4月9日の午後20時迄に、岡山県宇野港波止場に集合との命令を受けた。

田中達は、昭和19年4月8日に熊本を出発した。

 

久川隊員のこと

後の話になるが、田中は海上挺身隊第四戦隊に配属され、久川は海上挺身隊第十八戦隊に配属された。

その、第十八戦隊は昭和19年(1944年)11月3日にフィリピンのルソン島に向かって、門司港を出港する。

戦隊は6隻の輸送船に分乗し、久川秀明は辰昭丸に乗船した。

この辰昭丸は6時20分に東シナ海の男女群島西方280Km付近にて、魚雷攻撃を受けて轟沈した。

この遭難により、久川を含む乗船者125名、船員65名の合計190名が戦死した。

それから48年後の平成4年(1992年)に第十八戦隊の隊員たちの遺書が発見された。

その中で、久川は次のように書いている。

出陣に際し言わんと欲する處を述べん

親思う心にまさる親心
  今日のおとづれ何ときくらむ

この意味は次の通りである。

子が親を思う以上に、親は子を大切に思うものである。
私のこのような状況をきいて、どんな思いだろうか。

 

実は、この句は吉田松陰の辞世の句のうちの一つである。

久川はフィリピンに向かう時に、死を覚悟していたのであろうか。

自分の気持を伝えるのに、この句は最適の句と思ったのであろう。

言い表せない自分の気持と、親を思う気持ちが、ひしひしと伝わってくる。

 

ついでながら

吉田松陰は斬首刑にされる前に、3つの句を残した。

それは、つぎの3句である。

身はたとひ 武蔵の野辺に
朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂

親思ふ 心にまさる 親心
けふのおとずれ 何ときくらん

吾今 国の為に死す
死して 君親に負かず
悠悠たり 天地の事
鑑照 明神に在り

 

<続く>

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