42.足利直冬(2)
42.1.直冬石見に入る
文和2年/正平8年(1353年)6月に直冬は南朝に降伏した。
南朝は時氏の奏上により、直冬を大将(総追捕使)とし、尊氏討伐を決めた。
直冬は義詮追討の綸旨が下されたので、馳せ参じるように、と諸将に書状を送っている。
(益田家文書)
朝敵義詮追討の事、論旨を下されし所なり。 馳せ参じて軍忠を致さば本領相違あるべからざるの状件の如し
正平八年六月二十三日 (直冬判)
◻田彦三郎殿
注)上記文書は「益田家文書」中のものであるが、この宛先は岩田彦三郎胤時ではないかという説がある。
これまで北朝方であった益田兼見が直冬寄りとなったので、石見の北党勢力は大きく南朝方へと寝返った。
石見の大半は南朝方に寝返っている状況下、石見に下った守護荒川詮頼は邑智郡川本の小笠原長氏の拠る温湯城を拠点とし、君谷地頭所城の出羽実祐を守備陣とし、また安芸の武田氏信と手を組んで宮方に対抗していた。
足利直冬は、長門、周防、安芸を経由して石見に入った。
益田兼見が美濃郡大屋形村に高嶽城(益田市馬谷町)を築いて直冬に住まわせ、平家ヵ城(益田市下種町)を枝城とした、といわれている。
42.3.1.足利直冬挙兵
文和2年/正平8年(1353年)6月に南朝に降伏した直冬は吉野南朝より総追捕使に任命された。
総追捕使といえば文治元年に源頼朝が掌った、武家の棟梁としての最高官職である。
直冬は総追捕使に任命されると同時に、京都を奪還すべく、 山陰軍の上洛を要請された。
直冬はこれまでに京都進攻を企て、山陰の諸国へ秘かに挙兵を募っていた。
かねてより西は周防の大内弘世、東は因幡の山名時氏とも手を組み、石見軍と共に山陰勢が一挙に京都へ攻め上る大計画をもっていた。
時氏は山陰の東部五ヶ国を領有する強大な勢力を持っている。
それに北国の丹後若狭に引き こもっている斯波高経や桃井直常らを加えると、十ヶ国にもなる大軍団である。
この大きな勢力 は山陰道の全域にわたって鳴動を起こし、京都を脅やかす風雲となって動き出すのである。
明けて文和3年/正平9年(1354年)の4月、南朝の重鎮をなしていた北畠大納言親房が賀名生で死去した。享年62であった。
北畠親房は文武両道にすぐれた大器量人だった。
その卓絶した才略には、尊氏も常に翻弄されていたぐらいで、これまで南朝勢力を支えていた大黒柱でもあった。
それが死んだのだから、代わって兵を動かすほどの人物が今の南朝には居ない。
直冬は親房ほどの大器ではないにしても、北朝の将軍尊氏の庶子であって、今は亡き副将軍直義の養子でもあり、その直義派の勢力が近畿・諸国に可成り残在しているということから、南朝の直冬に対する期待は否が応でも高まっていった。
南朝は、石見に居る直冬の上洛を一刻も早くと、急使を派遣して催促した。
直冬は翌、5月のはじめ、早速その手筈を山陰東部の山名時氏と西部の大内弘世らと申し合わせて、上洛の準備に取りかかった。
ところが石見には未だに直冬に応じない者がいた。
邑智郡にいる、石見守護の荒川三河三郎詮頼、それに小笠原左近将監長氏らであった。
そこで、直冬はなんとかこれを無血に合従させることを努めた。
その説得に適役に、 同族の小笠原蔵人三郎長光を派遣しようとした。
しかし、この蔵人長光は
「長氏は気の剛い男、それに、幕府の命ずる石見守護荒川詮頼も居るし、味方へなどとは思いも よらぬこと―――」
と断わった。
直冬は止むを得ず、この上は攻め降すしかほかはないと、直冬は防・長・ 石の一万五千騎ばかり率いて川本城へ向った。
42.3.2.小笠原征伐
石見の東南奥地に位する邑智郡は、かつて、南朝勢力の支柱をなしていた佐和善四郎顕連、青杉城の陥落と共に亡び去って以来、郡内の三分の二は北朝勢力に帰属し、その中心を小笠原一族によってなされ、諸所に十数城を置いて固められていた。
これと手を組んで、安芸と備後の北朝軍が中国山脈を越えて援軍に向えば、合戦が長引き、味方の中から元の北朝への寝返り者が出る惧さえあった。
直冬は如何に安芸・備後からの北朝方の援軍を防ぎ、短期間にこれらの諸城を陥すかを軍議に計った。
中国山脈を越えて、安芸や備後より邑智郡へ入る道は三つしかない。
一つは、西側にあたる那賀郡境の安芸より通ずる三坂峠である。
ここは市木城主の福屋因幡入道兼宗の領内の城塞口だから北朝勢力は、ここからの侵入を避けるであろうし、また、一兵をも通さぬ守りが備えてあると、福屋因幡入道兼宗がいう。
次の一つは、備後の三次からか或いは作木村あたりより江の川を下る経路であるが、このところの長雨の出水では舟の用をなすまい。
よしんば、江の川を渡って口羽村(邑智郡邑南町)へ出ても、山脈の中とて道は四散絶えている。
もう一つは、東口の出雲と備後の国境にあたる 赤名峠である。
ここは邑智郡への街道でもあって道が近いから、合戦の先がけに手廻しを早く占拠し、峠を塞いで敵との連絡を断てば、いかな小笠原長氏も援軍なくては敵うまい。
との説で策戦は一決した。
そこで、直ちに先方隊として御神本兼継が邇摩・安濃二郡の兵を率いて、佐比売 (サヒメ・三瓶山) 越しに志学の里より赤名峠へ向かいここを占拠した。
直冬軍
益田を出発した直冬軍本体は、上府村から跡市村、清見村、井澤村を通って市山村に出て渡利村に(江津市川越)に本陣を置いた。
ここで、軍を二分して小笠原一族の諸城の攻撃に向かった。
那賀郡勢の三隅兼・周布兼家・都野又五郎・福屋兼氏らの一軍は、江の川の西側を鹿賀村(江津市桜江町)より因原村(邑智郡川本町)へ入り、川本の温湯城(邑智郡川本町市井原)を攻めた。
ここは小笠原長氏の本城であって、ここには、石見守護の荒川三河三郎兼頼と小笠原長性が立て籠っていた。
また、益田兼見の美濃郡勢と大内弘世の周防軍の一軍は江の川を渡り、坂本村(江津市桜江町)より川下村(邑智郡川本町川下)に向かい築紫原城(邑智郡川本町三原)を攻略して、そこより谷戸の飯の山城(別名仙岩寺城)(邑智郡川本町谷戸)を攻めた。
さらに江の川を上り、君谷、都賀などの諸城を攻めた。
一方、福屋因幡入道を大将にした別働隊は邑智備後介・小笠原蔵人長光・桜井領家らの邑智郡勢と厚東武実の長門軍を率いて、上府村から今市村、矢上村、井原村、高見村をとおり、北朝方の諸城を攻略しながら八色石村から、川本に出て、直冬本隊と合流し温湯城を攻撃した。
温湯城は陥落し小笠原長氏は布施村之郷に退いた。
文和3年/正平9年(1354年)の5月の出来事であった。
北朝方石見守護の荒川詮頼は小笠原・出羽両氏の元で再起を図ることとなった。
当時、安芸新庄の吉川経秋はいまだ直冬に従わず、武家方として活躍していたことは荒川詮頼に幸いした。
経秋はその頃、義詮の命により安芸高田の坂城の攻略をはじめ諸所で戦っていた。
荒川詮頼が直冬方の温湯攻撃を受けた時、 出羽氏と連絡してその大きな後盾となったのである。
<温湯城跡 正面の山頂>
温湯城は、江の川の支流である会下川と矢谷川に挟まれ、二つの川の合流地点にある山(標高約220メートル)に築かれた山城である。
直冬らはこの温湯戦後上京の途についたとされているが、太平記によると、山名時氏と直冬は12月13日に伯耆を出発し、この月のうちに丹波まで進出した、としている。
これから見ると、すくなくとも11月頃までは、また各地の反対派討伐やら遠征の準備のため時間が費されたものと考えられる。
こうして、直冬は石見軍を余さず味方にすることを得て、軍を整えて山陰道を上り、12月13日に、山名時氏の率いる五ヶ国軍と合流した。
その勢およそ三万五千騎ともいわれ、直冬を大将軍に、年の末には山陰道を丹波路より疾風の如く大軍が京都へ迫った。
さて、小笠原征伐は5月に温湯城が陥落し、小笠原長氏は布施村之郷に退いて決着がついている。
しかし、12月13日に京に向けて伯耆を出発するまでの約半年間、直冬は石見で何をしていたのであろうか?
これを解く手がかりが、古文書「石見銀山旧記」に見られる。
どうやら足利直冬は、石見銀山と関わりがあったようである。
<続く>