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ちいさなさえずり

柏崎と刈羽の現在の鳥を柏崎の人が柏崎から発信していく。

良寛様、石油、漁業、そしてバラ③

2021-08-22 06:47:09 | 地鳴き

 ご夫婦でバラ園の手入れをされている方がいらっしゃいました。2021年6月10日のことです。やはり人知れず手入れをされる方がいらっしゃるから、バラ園がきれいに咲き続けるものと思います。

 

 半世紀以上前に出雲崎中学を卒業された同級生の皆さんが手造りされ、そしてメンテナンスもされていると聞いています。頭が下がるという言葉しか浮かびません。

 

 バラについての知識だけでなく、園芸全般についても全くの素人ですので、詳しい手入れの方法は分かりません。この日はたまたま花を摘んでいらっしゃいました。花の健康のための手入れを随時実施されているそうです。このご夫婦だけでなく、近くにお住まいの方が誰に言われることなく、ご自身で行っているそうです。この方たちが学んだ学年は思い出がいっぱい詰まった教室で学んでいたのでしょう。楽しい思い出が詰まった教室を想像するだけでうらやましくなります。

 コロナ禍で帰りたくても帰れない同級生の皆さんもこのバラ園のことを気遣っているでしょう。同級生の心を一つにするバラ園でもあります。一見の価値有り、です。

 

 出雲崎町の文化遺産のひとつです。昭和、平成を生き抜き、そして令和を生きている方たちが造った出雲崎町の文化遺産です。永遠に残って欲しい心の通った遺産です。

 

 晴れた6月の1日、汐の香りとバラの香り、これにコーヒーの香りが加わったらまさに至福の時間です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


コメリとブルボン

2020-09-06 09:20:55 | 地鳴き

 現役のサラリーマン時代、出張や転勤で、数は多くありませんでしたが全国を廻りました。北は北海道から、南は九州まで行かせいただきました。そのおりに気にかけるのが、コメリの看板と、スーパーやコンビニにブルボンのお菓子が置いてあるかです。
 私自身は、この両社の業務には全く無関係の仕事をしていました。しかし、この2社は新潟県に本社を置く会社ですが、全国展開しています。ローカル色のある会社が全国展開することの大変さ、難しさが沢山あるなか、本当にすごいと思うのです。人口の多い関東圏や関西圏に本社のある会社では当たり前のことでも、新潟県という立地が困難さを大きくしていると思っています。

 

 

 北海道や東北を移動中に、コメリの看板を見つけた時に感じる力強さにいつも励まされていました。こんなところにも店舗があるんだ、といつも感心していました。初めの頃は、特に意識していませんでしたが、いつしか積極的に看板を探すようになりました。ホームページには、北海道から九州まで、全国に約1,200店舗あるそうです。

 

 

 

 

 

 

 東京勤務時代、ラジオを聞いていたところ、TBSの女子アナがブルボンのお菓子総選挙をやっていると、言っていました。確か、その番組はブルボン提供でなかったと思います。例のアイドルグループの総選挙全盛時代です。全国ネットのラジオでアナウンサーが取り上げるくらいブルボンの名前はメジャーになっていることを、その時あらためて知りました。その結果をTBSのホームページで見たのですが、残念ながら記憶から消えてしまったようです。うろ覚えの記憶で間違ったことを書いて誤解を招くこともできませんので、これは割愛さていただきます。
 荒浜工場前の看板に、工場は撮影禁止とありましたので、遠くから撮った本社の写真を載せさせていただきます。

 

 

 

 

 

 正式な会社名とせず。通称を使用さていただきました。また、敬称も略させていただきました。申し訳ありません。 

 

 


2011.03.11の夜

2020-03-08 05:57:35 | 地鳴き

 当時、私は東京の事務所に勤務していました。その日、栃木県の大田原市にある現場事務所へ打ち合わせに行っていました。そして、その日の午後東北大震災に遭遇しました。何度か、外に飛び出しましたが、何回かは記憶にありません。当時でも携帯電話の動画は見みられましたので、大規模な津波と、それによって流された数多くの建物があることを知りました。また、嘘みたいですけど私の携帯電話が1回だけ東京の事務所に繋がり、自分の無事を本課へ伝えることができました。

 その事務所に勤めていた方々に怪我人はなく、早々に自宅へ帰ってもらいました。事務所の中は机、鉄庫などが散乱し、当然電気、電話は繋がりません。今でもヒヤッとするのは、オープンスペースの事務所の天井のガラス製の仕切りです。おそらく事務所内の空気の流れや、美観上を考慮して設置されたものでしょうが、それが総て床に落下していました。下に人がいたら、万が一の事態もあったでしょう。

 3月ですので未だ暖房は必須です。急遽、工事用の発電機を動かし最低限の電気は確保できました。電話も、なぜか古いアナログ電話が1回線だけあり、それが外部への連絡手段となりました。また、外からの情報は主としてラジオから入りました。

 公共交通機関や近くのビジネスホテルも利用できないという情報が入りました。地震後、直ちに東京へ向かってもどこかの駅でストップとなったでしょう。帰るに帰れなくなってしまいましたが、最悪の場合はそこの事務所に泊まる気でいましたので、未だ楽観していました。東京の事務所は夜間の業務に備えて泊まる設備がありましたので、栃木もあるだろうと思っていたのですが、そういった設備のないことが判明しました。

 夜遅く、残ったそこの事務所の幹部に私を交えて、それまでに集めた情報を基に明日からの業務の打ち合わせを行い自宅へ戻ることになりました。公共交通機関で通っていた方は、自動車通勤されている方に同乗させてもらって帰ることになりました。残るは私ですが、東京から通勤している人がいることが分かりました。この人も帰れなくなりましたが、会社の車を利用していいと、事務所所責任者が判断し、それに私ともう一人が同乗することになりました。

 帰る手段は見つかりましたが、どのルートを選ぶかです。東京へ向かう国道4号線は、随分前から上りの渋滞を伝えています。とりあえず、4号線を避け、行けるだけ行ける県道などを選んで出発しました。停電が続いていますので、真っ暗です。当然のように信号機もありません。国道に乗ってから少しの間は、特に渋滞もありませんでしたが、東京に近付くにつれて車が混んできました。ラジオは機能していましたので、NHKをズーッと聞いていました。栃木県を離れる少し前で、もう1人の方を降ろしました。そこまで奥様が迎えに来るということでした。このように携帯電話も全く繋がらないわけでなく、運が良ければ通話ができていました。

 

 2人で東京へ向かっていました。その時、ラジオが柏崎と言うたように聞こえました。何故、ここで柏崎が出てくるのか想像できませんでした。果たして柏崎と言ったのかどうかも分かりません。しかし、何度か聞いているうちに東電柏崎刈羽原発と間違いなく言っていることが分かりました。1回でなく、何回か言っています。やがて概要が分かりました。東電柏崎刈羽原発から移動電源車が福島原発に向かっているという内容でした。到着すれば福島原発は復旧するというようなことも言っていました。事故のさいは、原発相互で連携し復旧にあたっていたのかと少し安心しながら聞いていました。確か、その時福島原発の被災の様子は放送されていなかったと思います。多くの方が被災されたのですから、人命に関わるニュースは優先されて当たり前と今では思っています。


 東京に近付き、外がうっすらと明るくなってきているのが分かり始めた頃、道路を歩いて方が多くなってきました。勤務地に残る人がいる一方、沢山の人が歩いて帰っていると、ラジオも伝えていました。また、道路の渋滞も少しずつ緩和されてきていましたが、どの辺りから普通に走れるようになったかは記憶にありません。ともかく早朝無事にアパートに戻ることができました。

 勿論、コンビニにも、スーパーにも食料はありませんでした。そして、福島原発の水蒸気爆発をテレビで見ました。柏崎原発から福島に向かった移動電源車が少しでも役に立ったのかどうかは今でもわかりません。

 時間も随分と経過していますので、誤解や記憶違いはあると思いますが、以上がその夜の顛末です。

 

 2019年12月の東電柏崎刈羽原発を海岸から撮影した写真です。

 

 

 

 

 東京電力が柏崎刈羽に原発を作るという話しを私たちが知ったのは1970年より少し前だった思いますが、この辺の記憶は曖昧です。原発建設についての反対運動もありました。その当時の東京電力や市執行部の話しは“絶対安全”でした。確か“絶対”があったと思いますが、これも曖昧な記憶です。
 原発からの放射能は自然の放出レベルと同じである、テレビの画面からも放射能は出ている、爆発事故は起こらない、原爆を作るためのものではない、などなどが建設側の話しとして巷間にありました。“原爆を作る“などは滑稽な話しなのでしょう。一方で、”絶対安全“という言葉も聞いたことがあります。しかし、福島では水素爆発が起こりました。当時、水素爆発を思いついた市民はいなかったかと思いますが、爆発は爆発です。絶対起こらないと言っていたことが、実際は起ったように、私には思えます。


 原発稼働後ですが、大雪が続いたことがありました。これも原発の温排水の影響と言っていた人がいました。しかし、その後は暖冬小雪が続いているように思えます。何もかも原発のせいにする気は全くありません。勝手な誤解も市民の間ではあったと思います。しかし、福島で大きな事故があったのは事実です。それにより沢山の人たちの生活が脅かされました。想定外のことが起こったと言いますが、何故想定しなかった、あるいはできなかったのか大いに疑問が湧きます。最近の東電のテレビCMは安全神話でなく、事故が起こった時の対応を伝えています。今さら、何を言っているのかと思っています。

大震災の夜に経験したことと、原発ができた時のことを1回書きたかったと思っていました。

 

 


良寛様、石油、漁業、そしてバラ②

2020-02-23 05:41:45 | 地鳴き

 

 

 2019年10月でした。ラジオが、国営越後丘陵公園のバラの花について伝えていました。秋のバラは、春のような華麗さはないが、香りが素晴らしい、だったと思います。バラにつきましては、全く知識がありませんので、間違っていたら申し訳ありません。

 

 本ブログで、バラといえば出雲崎は天領の里の前にある石油産業発祥地記念公園のバラです。同町の出雲崎中学1965年卒業の160人により作られたと、以前お伝えしました。このバラの秋の状況をお聞きしたところ、少し咲いていること、さらに来年に向けて冬囲いなどの手入を行っているところだと、おっしゃっていました。

 それではと、10月23日に行ってみました。確かに、少ないですが、汐風を帯びた秋の日差しの中できれいな花を咲かせていました。薄い白、濃いピンク、薄いピンクなどいくつかの色が太陽の中にありました。公園の中をゆっくり歩きながら見ていきました。海風と太陽で気持ちが良かったです。

 また、冬に備えての準備もしてありました。冬の季節風に備えたネットで被われたバラもありました。こんなようにしっかりと手入れがされていれば、春もきっと人が驚く花が咲くでしょう。楽しみしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こんなモニュメントもあります。

 

 

 


みなとまち海浜公園トイレのツバメ巣(2019夏)

2020-01-26 05:36:22 | 地鳴き

 巣造りの場所を、一般の商店や住宅から追われたツバメの一部が、次に選んだのが公園や大型施設にある屋外のトイレでした。しかし、ここも多くの場所で追われてしまいました。ツバメが出入りできないように蛍光テープを吊り下げたり、巣を造りそうな場所にガムテープを貼ったりしました。一部のトイレでは、出入り口にネットを張ったりもしていました。


 写真は、みなとまち海浜公園のトイレです。巣が作られていました。それに対して、糞落下を防護するためのベニヤ板がトイレ上に設置されていました。ここを維持管理されている方に余計な稼働をかけたのでしょうが、巣を落とすことはお止めいただいたようです。1つの巣が救われました。ありがたいことと思います。ツバメへの優しさに感謝です。

 ツバメが巣を造った家には、幸運が舞い込むと言っていた過去とは大きく時代が変わりました。少しでもツバメに優しい人たちが増えていって欲しいと思います。