当時、私は東京の事務所に勤務していました。その日、栃木県の大田原市にある現場事務所へ打ち合わせに行っていました。そして、その日の午後東北大震災に遭遇しました。何度か、外に飛び出しましたが、何回かは記憶にありません。当時でも携帯電話の動画は見みられましたので、大規模な津波と、それによって流された数多くの建物があることを知りました。また、嘘みたいですけど私の携帯電話が1回だけ東京の事務所に繋がり、自分の無事を本課へ伝えることができました。
その事務所に勤めていた方々に怪我人はなく、早々に自宅へ帰ってもらいました。事務所の中は机、鉄庫などが散乱し、当然電気、電話は繋がりません。今でもヒヤッとするのは、オープンスペースの事務所の天井のガラス製の仕切りです。おそらく事務所内の空気の流れや、美観上を考慮して設置されたものでしょうが、それが総て床に落下していました。下に人がいたら、万が一の事態もあったでしょう。
3月ですので未だ暖房は必須です。急遽、工事用の発電機を動かし最低限の電気は確保できました。電話も、なぜか古いアナログ電話が1回線だけあり、それが外部への連絡手段となりました。また、外からの情報は主としてラジオから入りました。
公共交通機関や近くのビジネスホテルも利用できないという情報が入りました。地震後、直ちに東京へ向かってもどこかの駅でストップとなったでしょう。帰るに帰れなくなってしまいましたが、最悪の場合はそこの事務所に泊まる気でいましたので、未だ楽観していました。東京の事務所は夜間の業務に備えて泊まる設備がありましたので、栃木もあるだろうと思っていたのですが、そういった設備のないことが判明しました。
夜遅く、残ったそこの事務所の幹部に私を交えて、それまでに集めた情報を基に明日からの業務の打ち合わせを行い自宅へ戻ることになりました。公共交通機関で通っていた方は、自動車通勤されている方に同乗させてもらって帰ることになりました。残るは私ですが、東京から通勤している人がいることが分かりました。この人も帰れなくなりましたが、会社の車を利用していいと、事務所所責任者が判断し、それに私ともう一人が同乗することになりました。
帰る手段は見つかりましたが、どのルートを選ぶかです。東京へ向かう国道4号線は、随分前から上りの渋滞を伝えています。とりあえず、4号線を避け、行けるだけ行ける県道などを選んで出発しました。停電が続いていますので、真っ暗です。当然のように信号機もありません。国道に乗ってから少しの間は、特に渋滞もありませんでしたが、東京に近付くにつれて車が混んできました。ラジオは機能していましたので、NHKをズーッと聞いていました。栃木県を離れる少し前で、もう1人の方を降ろしました。そこまで奥様が迎えに来るということでした。このように携帯電話も全く繋がらないわけでなく、運が良ければ通話ができていました。
2人で東京へ向かっていました。その時、ラジオが柏崎と言うたように聞こえました。何故、ここで柏崎が出てくるのか想像できませんでした。果たして柏崎と言ったのかどうかも分かりません。しかし、何度か聞いているうちに東電柏崎刈羽原発と間違いなく言っていることが分かりました。1回でなく、何回か言っています。やがて概要が分かりました。東電柏崎刈羽原発から移動電源車が福島原発に向かっているという内容でした。到着すれば福島原発は復旧するというようなことも言っていました。事故のさいは、原発相互で連携し復旧にあたっていたのかと少し安心しながら聞いていました。確か、その時福島原発の被災の様子は放送されていなかったと思います。多くの方が被災されたのですから、人命に関わるニュースは優先されて当たり前と今では思っています。
東京に近付き、外がうっすらと明るくなってきているのが分かり始めた頃、道路を歩いて方が多くなってきました。勤務地に残る人がいる一方、沢山の人が歩いて帰っていると、ラジオも伝えていました。また、道路の渋滞も少しずつ緩和されてきていましたが、どの辺りから普通に走れるようになったかは記憶にありません。ともかく早朝無事にアパートに戻ることができました。
勿論、コンビニにも、スーパーにも食料はありませんでした。そして、福島原発の水蒸気爆発をテレビで見ました。柏崎原発から福島に向かった移動電源車が少しでも役に立ったのかどうかは今でもわかりません。
時間も随分と経過していますので、誤解や記憶違いはあると思いますが、以上がその夜の顛末です。
2019年12月の東電柏崎刈羽原発を海岸から撮影した写真です。




東京電力が柏崎刈羽に原発を作るという話しを私たちが知ったのは1970年より少し前だった思いますが、この辺の記憶は曖昧です。原発建設についての反対運動もありました。その当時の東京電力や市執行部の話しは“絶対安全”でした。確か“絶対”があったと思いますが、これも曖昧な記憶です。
原発からの放射能は自然の放出レベルと同じである、テレビの画面からも放射能は出ている、爆発事故は起こらない、原爆を作るためのものではない、などなどが建設側の話しとして巷間にありました。“原爆を作る“などは滑稽な話しなのでしょう。一方で、”絶対安全“という言葉も聞いたことがあります。しかし、福島では水素爆発が起こりました。当時、水素爆発を思いついた市民はいなかったかと思いますが、爆発は爆発です。絶対起こらないと言っていたことが、実際は起ったように、私には思えます。
原発稼働後ですが、大雪が続いたことがありました。これも原発の温排水の影響と言っていた人がいました。しかし、その後は暖冬小雪が続いているように思えます。何もかも原発のせいにする気は全くありません。勝手な誤解も市民の間ではあったと思います。しかし、福島で大きな事故があったのは事実です。それにより沢山の人たちの生活が脅かされました。想定外のことが起こったと言いますが、何故想定しなかった、あるいはできなかったのか大いに疑問が湧きます。最近の東電のテレビCMは安全神話でなく、事故が起こった時の対応を伝えています。今さら、何を言っているのかと思っています。
大震災の夜に経験したことと、原発ができた時のことを1回書きたかったと思っていました。