煙草のハイライト並びにそのパッケージ・デザインについて、
子供達は ”ダサい、臭い、きつい、オヤジ、古い、土方(どかた…死語?)のタバコ”という印象を持っているのではないだろうか?
一方、オヤジである僕は、
”ブルーとホワイトのコントラストがシャープ、きつさの中に味がある、香り良し、トラディッショナル” と思っている。
ハイライトのパッケージ・デザインをしたのが、稀代のイラストレーター兼デザイナーの和田誠さんであることを知っているから、特別贔屓目に見てしまうのかもしれない。(和田さんの奥さんはいつも元気な料理家の平野レミさんです。)
しかし、そもそもタバコはきつくて、臭いもの。そして大人への階段だ。若者を相手にしている商品とは違う。
まるで、味の無い低ニコチン、低タールのタバコを吸うのならば止めてしまった方がよい。
お酒も、臭いシングル・モルトやバーボンより、フルーツ・リキュールを使ったカクテルが受ける。
それならば、お砂糖まぶしたお菓子でも食べてくれ。
そんな時代に、JAZZという音楽が受ける筈がない。
甘さベタベタのPOPSか、ノータリンがシャウトするだけのROCKか、色情狂の男女が身体を露出しながら歌うDance Music、ワン・パターンのRap、そんなシーンの中で、誰がJAZZに振りむくだろうか。
山ほどのカラフルなタバコが陳列された自販機の中で、片隅に追いやられたハイライトと同じ存在がJAZZだ。
しかし、JAZZが好きな大人は、ハイライトしか吸わない大人が居るようにきちんと存在する。
和田誠さんが描いたJAZZミュージシャンのイラストに、村上春樹が文章を載せていったのが、「ポートレイト・イン・ジャズ」という本だ。
和田誠の強烈なイラストというソロ演奏に対し、村上が文章というインプロヴィゼ-ションで応酬する。これは、知的で深い、味合いあるジャム・セッションのようだ。
JAZZは、肉体と楽器が直結した音楽だ。従い、演じ手そのものの人間性が露出する或る意味では残酷な音楽だ。
だからこそ、JAZZは、明るさと暗さ、思いやりと酷薄、熱さと冷たさ、ストレートと逡巡、甘さと苦さ、肯定と否定、大胆と細心、楽天と悲観、広さと狭量、至福と悲嘆という人間の持つ自己矛盾をスゥインギィーかつファンキィーなリズムに乗せて重層的に聞かせることが出来る音楽なのだ。
これは、演る方にとって誠にしんどい。
従い、才気溢れるまま幸せに一生を終えたミュージシャンは、サー・デユーク・エリントン(イラスト) 他数えるほどしかいない。 皆、一時期、強烈な光を放ちながら、流星のように燃え尽きてしまう。
そこに、JAZZの凄さがあるわけで、肉体を削ってまでやるミュージシャンが居なくなったから、現代のJAZZは退屈な室内楽になってしまった。
和田、村上の全てのセッションが素晴らしいが、スタンゲッツのヴァージョンで、村上にとってJAZZはスタン・ゲッツ、小説はスコット・フィッツジェラルドに究極的には行き着くことを告白しているのが興味深かった。
そして印象に残るのが、マイルス・デイビス・ヴァージョン。
この日を超えたら、もう過去の自分には戻れない日が必ず人にはある。それが「失われた日」だ。「失われた日」に村上は、東京の街を彷徨い、一軒の小さなJAZZ喫茶に入る。そこで、何か好きなものをかけましようかと問われる。村上は何故だかマイルスの「フォア&モア」をリクエストする。「フォア&モア」はマイルスがエレキに走る以前の最も激しくスピード感のあるライヴだ。
何故だか、村上は「フォア&モア」を選んだ。
しかし、今となっては必然のような選択に僕は思える。
子供達は ”ダサい、臭い、きつい、オヤジ、古い、土方(どかた…死語?)のタバコ”という印象を持っているのではないだろうか?
一方、オヤジである僕は、
”ブルーとホワイトのコントラストがシャープ、きつさの中に味がある、香り良し、トラディッショナル” と思っている。
ハイライトのパッケージ・デザインをしたのが、稀代のイラストレーター兼デザイナーの和田誠さんであることを知っているから、特別贔屓目に見てしまうのかもしれない。(和田さんの奥さんはいつも元気な料理家の平野レミさんです。)
しかし、そもそもタバコはきつくて、臭いもの。そして大人への階段だ。若者を相手にしている商品とは違う。
まるで、味の無い低ニコチン、低タールのタバコを吸うのならば止めてしまった方がよい。
お酒も、臭いシングル・モルトやバーボンより、フルーツ・リキュールを使ったカクテルが受ける。
それならば、お砂糖まぶしたお菓子でも食べてくれ。
そんな時代に、JAZZという音楽が受ける筈がない。
甘さベタベタのPOPSか、ノータリンがシャウトするだけのROCKか、色情狂の男女が身体を露出しながら歌うDance Music、ワン・パターンのRap、そんなシーンの中で、誰がJAZZに振りむくだろうか。
山ほどのカラフルなタバコが陳列された自販機の中で、片隅に追いやられたハイライトと同じ存在がJAZZだ。
しかし、JAZZが好きな大人は、ハイライトしか吸わない大人が居るようにきちんと存在する。
和田誠さんが描いたJAZZミュージシャンのイラストに、村上春樹が文章を載せていったのが、「ポートレイト・イン・ジャズ」という本だ。
和田誠の強烈なイラストというソロ演奏に対し、村上が文章というインプロヴィゼ-ションで応酬する。これは、知的で深い、味合いあるジャム・セッションのようだ。
JAZZは、肉体と楽器が直結した音楽だ。従い、演じ手そのものの人間性が露出する或る意味では残酷な音楽だ。
だからこそ、JAZZは、明るさと暗さ、思いやりと酷薄、熱さと冷たさ、ストレートと逡巡、甘さと苦さ、肯定と否定、大胆と細心、楽天と悲観、広さと狭量、至福と悲嘆という人間の持つ自己矛盾をスゥインギィーかつファンキィーなリズムに乗せて重層的に聞かせることが出来る音楽なのだ。
これは、演る方にとって誠にしんどい。
従い、才気溢れるまま幸せに一生を終えたミュージシャンは、サー・デユーク・エリントン(イラスト) 他数えるほどしかいない。 皆、一時期、強烈な光を放ちながら、流星のように燃え尽きてしまう。
そこに、JAZZの凄さがあるわけで、肉体を削ってまでやるミュージシャンが居なくなったから、現代のJAZZは退屈な室内楽になってしまった。
和田、村上の全てのセッションが素晴らしいが、スタンゲッツのヴァージョンで、村上にとってJAZZはスタン・ゲッツ、小説はスコット・フィッツジェラルドに究極的には行き着くことを告白しているのが興味深かった。
そして印象に残るのが、マイルス・デイビス・ヴァージョン。
この日を超えたら、もう過去の自分には戻れない日が必ず人にはある。それが「失われた日」だ。「失われた日」に村上は、東京の街を彷徨い、一軒の小さなJAZZ喫茶に入る。そこで、何か好きなものをかけましようかと問われる。村上は何故だかマイルスの「フォア&モア」をリクエストする。「フォア&モア」はマイルスがエレキに走る以前の最も激しくスピード感のあるライヴだ。
何故だか、村上は「フォア&モア」を選んだ。
しかし、今となっては必然のような選択に僕は思える。
思っておりますが、まだまだ未熟者ゆえに
その域へ到達できませんが、最近はJAZZの
ベースラインが意外に自分のフィーリングと
マッチしているのではと思うようになりました。
もっといろいろなアルバムを聴いて
勉強したいと思っています。
お酒は飲めないので、タバコの煙を
くゆらせながら、ゆっくりと聴きたいです。
やがてショートホープ、その次は(学割のきいた)ハイライトに高校時代から大学までお世話になりました。
なんとなく思い入れのある銘柄です。
タバコをやめてもうすぐ8年、いずれ、復活するとしたらハイライトかな。
そんな類の人間ですが、タバコは意思が固すぎて止めれません。
ドラえもんのノビタのお父さんが吸っていたタバコは、チェリーだった気がします。
あんなにヘヴィースモーカーだったのに、よく止めたね。
確かに、ハイライトに学割はあった。確か、20%引きだよね。
僕が学生時代に、彼女は、淑徳に居たはず。
ハイライトというと、次は、やはりチェリーですか。
KENちゃんも、同じ発想しているな。