とうとう東海道・山陽筋から、ブルートレインが姿を消す日がやって来ました。
「ありがとう」=富士・はやぶさ、ラストラン-東京発ブルトレ、半世紀の歴史に幕(時事通信) - goo ニュース
あの~…。
時事通信…。
>カメラを手にした約3000人が「ありがとう」「ウォー」という歓声を上げ手を振った。
>カメラを手にした約3000人が「ありがとう」「ウォー」という歓声を上げ手を振った。
>カメラを手にした約3000人が「ありがとう」「ウォー」という歓声を上げ手を振った。
>カメラを手にした約3000人が「ありがとう」「ウォー」という歓声を上げ手を振った。
それは「歓声」じゃなくて「奇s(以下略
それはともかく。
とうとう東京駅から出る、定期の客車列車がなくなる日がやって来た。
何とか一目見ようと、経路上の駅や道端に詰めかける人達。
それを冷ややかな目で見る人達。
なぜ「ブルトレがなくなる」となると、ファンは大挙して押し寄せるのか。
そんなに押し寄せるほどの需要があるなら、いつも乗ってやっていたらよかったのに。
そうした巷間の声はよく聞くし、実際それは間違いなく俺達自身の声でもあった。
そりゃあ、いつも乗れるほどほいほい旅行に行ける身分ではないから、「乗ってやっていたらよかったのに」という批判は当たらないものだと思うが、それ以上に、JR発足時の20年前に比べて、飛行機が格安チケットで対抗して、高速道路網が整備されてあちこちに夜行バスが走るようになり、新幹線でさえも、ブルトレが発車した後に出る「のぞみ号」に乗れば、ともすれば目的地まで日着できるようになり、或いは翌日の始発の「のぞみ号」に乗れば、目的地まで夜行列車より速く到着できるようになった現状からすれば、当然まずビジネスとしての利用対象から外れるのは自明の理で、そうした中で、わざわざ夜行列車を選ぶ人達が、果たして通年でどれくらいいるのだろうか…ということを鑑みると、このような批判は、実は的外れな意見であるとも言えなくはない。
おいらも、東海道・山陽筋のブルトレに乗ったのは、2003年夏の福岡遠征が最後で、行きは「あさかぜ」のA寝台を奮発し、九州からの帰りは「あかつき」のレガートシートで岡山へ出て、瀬戸大橋線で四国の高松に渡っている。
その前年には「さくら・はやぶさ」で小倉までB個室「ソロ」の旅。
その前となると、専門学校に進学する春の1994年2月~3月にかけて九州をぐるぐると回っていた時、行きは大阪から佐賀まで「あかつき」のレガートシート、帰りは博多から「さくら」の上段ハネで、昼前まで惰眠をむさぼりながらの優雅すぎる旅の終わり。
それより前…となると、小学校4年生だった1984年7月29日に、初めて乗った上り「はやぶさ」の久留米~東京間での思い出…ということになる。
その思い出を、とうとう封印する日がやって来た。
そんなわけで、廃止当日、厳密に言えば最終列車前夜の、定期列車としては最後の列車を出迎えに、13日の朝の出勤前に、東京駅まで足を運びました。
「富士・はやぶさ」には、1列車、2列車の番号が与えられているのだけれど、13日夕方に発車する列車は、ダイヤ改正の移り変わりの日をまたぐので、その日限り運転の臨時列車扱いになり、9001列車、9002列車としての運転となる。
その昔、夜行列車華やかりし頃は、時刻表にも「ダイヤ改正前日・当日の夜行列車の移り変わりダイヤ」が掲載されていて、列車の設備(A寝台が連結されないなど)や運転区間が変更されたり、定期列車とは運転時刻もよく変更されたりしていたので、昔の時刻表を見てみると、苦心して移り変わりダイヤを作成したところがそこかしこに見受けられて面白かったものだ。
さて、東京駅は、朝の10時だというのに、結構な人の数。
廃止当日の朝だから、まだこれだけの人で済んでいるのだろうけれど、これが夕方になるにつれて加速度的に人手が多くなるのだろうか。
お陰様で、テールマークを撮影するのも一苦労でございます(泣)。
※↑以下全ての写真は、クリックすると拡大しちゃいます。
「B寝台」の表記が、旅へと誘う役割を果たすのも、あとどれくらいの時間が残っているだろうか。
客車列車が普通に旅客列車としてバリバリ活躍していた頃は、機関車を前後に付け替える「機回し」と呼ばれる作業は、ごくごく日常的に行われていて、夜行列車がまだ元気だった(それでもその頃から「斜陽化」はずいぶんと叫ばれていた)頃は、東京駅でも見慣れた光景だったが、この光景も、明日でとうとう見納めになる。
これらの方向幕で、どれほどの人達が、東京へ夢をはせたことだろうか。
品川まで回送するために、機関車を連結するホーム新橋方は、そりゃもう大変な人手。
やがて、回送列車への進路が開かれ、10番線の出発信号が青に変わる。
国鉄時代なら、機関助士の「10番線出発進行!!」の喚呼が響いたところだろうが、機関助士が廃止されて久しい現在、さすがにこの喧噪では聞こえてくるはずもない。
そして、「俺は今は旅客列車ではなくただの回送列車だから」とでも言いたげに、静かにゆっくり動きだし、喧噪の東京駅を離れ、最後のお勤めの整備を受けるべく、品川まで回送されてゆく。
個人的に別れを告げる中、どうしてもしんみりしてしまうシーンだというのに、注意喚起の放送が流れるのだが、「10番線、回送『電車』の発車です」などという無粋にも程がある放送を流しやがった駅員は、寝台列車のリネンでグルグル巻きにして枕で何十発かぶちのめして差し上げたい気分になった。
「電車」じゃねーだろ。「列車」だろーが。
まったく、「粋」じゃねーな。
東京駅中央乗り換え通路のこの案内も、もうすぐお役ご免に。
ステッカー扱いされているのがもの悲しいが…。
来るべき日のために、東京駅のあちらこちらに、こんなポスターも貼り出され、惜別ムードを盛り立てている。
午後から駅内では廃止記念のブルトレグッズが売られ、これがまたとんでもない行列が出来ていたので、それらの列を横目で眺めつつ(というより、当然仕事が優先なので、平日のど真ん中にこんな行列に並べるワケがないw)、今日の夕食用に、「富士☆はやぶさ記念弁当」に手を出してみる。
これは沿線各地の名物を凝縮した弁当で、ちゃんとお品書きまでついていて、1000円也。
これで、東京駅を発着する定期客車列車が消滅することになるのは、鉄道の輸送体系の、一つの大きな区切りとなることである。
そういえば、こちらはブルトレ廃止に隠れて地味だったけれど、同じブルートレインでも、上野口の青森行き寝台特急「あけぼの」の牽引機が、このダイヤ改正で長岡までEF64が担当することになり、EF81牽引の「あけぼの」も、13日が最後だったようで。
これで、東京口のブルートレインともお別れに。
さようなら、富士・はやぶさ。
生まれて初めて乗った寝台特急「はやぶさ」は、いつまでも思い出として残ってます。
「ありがとう」=富士・はやぶさ、ラストラン-東京発ブルトレ、半世紀の歴史に幕(時事通信) - goo ニュース
「ありがとう」「お疲れさま」-。寝台特急「富士・はやぶさ」(東京-大分、熊本)が13日発の運行で姿を消し、東京駅発のブルートレインが半世紀の歴史を閉じる。同駅などにはファンが詰め掛け、最後の勇姿を見送った。13日午後6時3分、東京駅では富士・はやぶさの連結列車が「ピー」という汽笛を鳴らし、定刻通り出発。カメラを手にした約3000人が「ありがとう」「ウォー」という歓声を上げ手を振った。
電車の撮影仲間10人と午前4時半に来たという川崎市の高1清水翔平さん(16)は「当たり前に走っていたので寂しい」と熱心に機関車先頭部を撮影。「お疲れ様 はやぶさ 富士」と書かれた横断幕を掲げた新宿区の会社員岡安健一さん(33)は「2月に会社を休み博多まで乗った。昭和のにおいのする電車だった」と廃止を惜しんだ。
一方、大分駅では「富士」の上り列車入線後、車掌と運転士に花束を贈呈。初代「かぐや姫」メンバーの森進一郎さんが「なごり雪」を歌った。横浜市の会社員鈴木淑正さん(36)は乗車を前に「約10回乗った。のんびりした雰囲気が好きだった」と残念そう。約1200人が見守る中、午後4時46分、駅長の合図でゆっくり発車した。
あの~…。
時事通信…。
>カメラを手にした約3000人が「ありがとう」「ウォー」という歓声を上げ手を振った。
>カメラを手にした約3000人が「ありがとう」「ウォー」という歓声を上げ手を振った。
>カメラを手にした約3000人が「ありがとう」「ウォー」という歓声を上げ手を振った。
>カメラを手にした約3000人が「ありがとう」「ウォー」という歓声を上げ手を振った。
それは「歓声」じゃなくて「奇s(以下略
それはともかく。
とうとう東京駅から出る、定期の客車列車がなくなる日がやって来た。
何とか一目見ようと、経路上の駅や道端に詰めかける人達。
それを冷ややかな目で見る人達。
なぜ「ブルトレがなくなる」となると、ファンは大挙して押し寄せるのか。
そんなに押し寄せるほどの需要があるなら、いつも乗ってやっていたらよかったのに。
そうした巷間の声はよく聞くし、実際それは間違いなく俺達自身の声でもあった。
そりゃあ、いつも乗れるほどほいほい旅行に行ける身分ではないから、「乗ってやっていたらよかったのに」という批判は当たらないものだと思うが、それ以上に、JR発足時の20年前に比べて、飛行機が格安チケットで対抗して、高速道路網が整備されてあちこちに夜行バスが走るようになり、新幹線でさえも、ブルトレが発車した後に出る「のぞみ号」に乗れば、ともすれば目的地まで日着できるようになり、或いは翌日の始発の「のぞみ号」に乗れば、目的地まで夜行列車より速く到着できるようになった現状からすれば、当然まずビジネスとしての利用対象から外れるのは自明の理で、そうした中で、わざわざ夜行列車を選ぶ人達が、果たして通年でどれくらいいるのだろうか…ということを鑑みると、このような批判は、実は的外れな意見であるとも言えなくはない。
おいらも、東海道・山陽筋のブルトレに乗ったのは、2003年夏の福岡遠征が最後で、行きは「あさかぜ」のA寝台を奮発し、九州からの帰りは「あかつき」のレガートシートで岡山へ出て、瀬戸大橋線で四国の高松に渡っている。
その前年には「さくら・はやぶさ」で小倉までB個室「ソロ」の旅。
その前となると、専門学校に進学する春の1994年2月~3月にかけて九州をぐるぐると回っていた時、行きは大阪から佐賀まで「あかつき」のレガートシート、帰りは博多から「さくら」の上段ハネで、昼前まで惰眠をむさぼりながらの優雅すぎる旅の終わり。
それより前…となると、小学校4年生だった1984年7月29日に、初めて乗った上り「はやぶさ」の久留米~東京間での思い出…ということになる。
その思い出を、とうとう封印する日がやって来た。
そんなわけで、廃止当日、厳密に言えば最終列車前夜の、定期列車としては最後の列車を出迎えに、13日の朝の出勤前に、東京駅まで足を運びました。
「富士・はやぶさ」には、1列車、2列車の番号が与えられているのだけれど、13日夕方に発車する列車は、ダイヤ改正の移り変わりの日をまたぐので、その日限り運転の臨時列車扱いになり、9001列車、9002列車としての運転となる。
その昔、夜行列車華やかりし頃は、時刻表にも「ダイヤ改正前日・当日の夜行列車の移り変わりダイヤ」が掲載されていて、列車の設備(A寝台が連結されないなど)や運転区間が変更されたり、定期列車とは運転時刻もよく変更されたりしていたので、昔の時刻表を見てみると、苦心して移り変わりダイヤを作成したところがそこかしこに見受けられて面白かったものだ。
さて、東京駅は、朝の10時だというのに、結構な人の数。
廃止当日の朝だから、まだこれだけの人で済んでいるのだろうけれど、これが夕方になるにつれて加速度的に人手が多くなるのだろうか。
お陰様で、テールマークを撮影するのも一苦労でございます(泣)。
※↑以下全ての写真は、クリックすると拡大しちゃいます。
「B寝台」の表記が、旅へと誘う役割を果たすのも、あとどれくらいの時間が残っているだろうか。
客車列車が普通に旅客列車としてバリバリ活躍していた頃は、機関車を前後に付け替える「機回し」と呼ばれる作業は、ごくごく日常的に行われていて、夜行列車がまだ元気だった(それでもその頃から「斜陽化」はずいぶんと叫ばれていた)頃は、東京駅でも見慣れた光景だったが、この光景も、明日でとうとう見納めになる。
これらの方向幕で、どれほどの人達が、東京へ夢をはせたことだろうか。
品川まで回送するために、機関車を連結するホーム新橋方は、そりゃもう大変な人手。
やがて、回送列車への進路が開かれ、10番線の出発信号が青に変わる。
国鉄時代なら、機関助士の「10番線出発進行!!」の喚呼が響いたところだろうが、機関助士が廃止されて久しい現在、さすがにこの喧噪では聞こえてくるはずもない。
そして、「俺は今は旅客列車ではなくただの回送列車だから」とでも言いたげに、静かにゆっくり動きだし、喧噪の東京駅を離れ、最後のお勤めの整備を受けるべく、品川まで回送されてゆく。
個人的に別れを告げる中、どうしてもしんみりしてしまうシーンだというのに、注意喚起の放送が流れるのだが、「10番線、回送『電車』の発車です」などという無粋にも程がある放送を流しやがった駅員は、寝台列車のリネンでグルグル巻きにして枕で何十発かぶちのめして差し上げたい気分になった。
「電車」じゃねーだろ。「列車」だろーが。
まったく、「粋」じゃねーな。
東京駅中央乗り換え通路のこの案内も、もうすぐお役ご免に。
ステッカー扱いされているのがもの悲しいが…。
来るべき日のために、東京駅のあちらこちらに、こんなポスターも貼り出され、惜別ムードを盛り立てている。
午後から駅内では廃止記念のブルトレグッズが売られ、これがまたとんでもない行列が出来ていたので、それらの列を横目で眺めつつ(というより、当然仕事が優先なので、平日のど真ん中にこんな行列に並べるワケがないw)、今日の夕食用に、「富士☆はやぶさ記念弁当」に手を出してみる。
これは沿線各地の名物を凝縮した弁当で、ちゃんとお品書きまでついていて、1000円也。
これで、東京駅を発着する定期客車列車が消滅することになるのは、鉄道の輸送体系の、一つの大きな区切りとなることである。
そういえば、こちらはブルトレ廃止に隠れて地味だったけれど、同じブルートレインでも、上野口の青森行き寝台特急「あけぼの」の牽引機が、このダイヤ改正で長岡までEF64が担当することになり、EF81牽引の「あけぼの」も、13日が最後だったようで。
これで、東京口のブルートレインともお別れに。
さようなら、富士・はやぶさ。
生まれて初めて乗った寝台特急「はやぶさ」は、いつまでも思い出として残ってます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます