Crónica de los mudos

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ドゥニ・ヴィルヌーブ『デューン 砂の惑星 part2』

2024-04-03 | 映画
 ホドロフスキーの未完に終わった構想とテレビシリーズを含めると4度目の映像化となったヴィルヌーブ版『デューン』だが、私にとっては子どもころに読んだハヤカワ文庫旧訳のなかで見た石ノ森章太郎先生のイラストのイメージがどう覆されるかだけが問題になっているような気がする。
 漫画って偉大ですね。
 さて、パート2と題されているのでパート3もあるのかと思いながら見ていたが、やはりあるのだろうか、あの結末は。ポールによる贖罪を経てアラキスに秩序が戻るというパート、小説でいうと『メサイア』も映像化するのか監督に訊いてみたいところではある。
 今回最大の特徴は、物語の主軸のひとつが、魔女集団ベネ・ジェセリットの系譜になっていて、ミュータントで形成された航宙士集団ギルドという映像化に際してもっとが見栄えのするキャラクターがほとんど削除されているところだろう。代わりに皇帝直属の私兵集団サルダウカーがパート1ではいい味を出していたのだが、今回パート2では案の定砂漠の民にやられまくりで、個人的には「もう少し頑張ってほしかった」ところでした。
 リンチ版はいわば男子のお話、カイル・マクラクラン演じるポールが亡き父の予言「眠れるものは目覚めねばならない」を反芻しながらそれを実現し、復讐を果たすまでの軸だけに重きが置かれ、ベネ・ジェセリットもギルドも等しく際物のわき役としてエキゾチックに描かれていた。テレビシリーズは時間がかけられるメリットもあって、もともとの小説の面白さでもあったアラキスの生態とそこへの主人公の同化のプロセスに重きが置かれ、主軸のほうではジェシカとチャニがともにコンキュバイン(正妻ではない実質上の妻)として自己確立していく過程が綿密に描かれていたように記憶している。
 いずれにしても、これらは男の子による男の子のお話であって、女たちはあくまでそのツマミに過ぎなかった。
 今回はそこが抜本的に改変されている。
 すべてを操っているのが本当にベネ・ジェセリットだという見立ての元、皇帝の娘イルーランやハルコンネンの官吏(たしか原作でもリンチ版でも人間計算機の男性)までもがベネ・ジェセリット出身者の女性になっていて、そういえば砂漠生態学者のカインズ博士までもが女性で、さらには命の水をのんだジェシカの胎内でミュータント化するアリアの未来像までもがポールの夢のなかでアニャ・テイラー・ジョイの姿をして現れて、このアリアが史上最強のベネ・ジェセリットとして兄に引導を渡すことになる未来の物語も予見させる流れになっている。ただひとり魔女集団とは縁のないフレメンのチャニも、なんだか宿命とか大義とかで煮詰まっているポールのことは見限って、最後はひとりで砂虫に乗ってどこかへ行ってしまう。そういえばこのサンドワームが今回は激走するので爽快感がありましたね、大きなミミズ(リンチ版)ではなく、敏捷かつ巨大な知的生物という原作のイメージがきちんと再現されていました。
 いずれにしても、男子の系譜が暴力の連鎖によって結ばれていくのに対して、そうした愚かな男どもを巧みに操って「裏の秩序」の維持をはかる知的な母系集団こそがベネ・ジェセリットなのだ、という見立ての筋。
 誰が脚本を書いたのか、上手だな~、と思う。
 とはいえ、映画館でそんな感心をしていたのはたぶん私だけだろう、なにしろ3時間の長丁場、いびきかいてるオジサンもいたので。いびきだけはかくなよな~、日常の音を遮断したいためだけに映画館に来ているのに。例のあの上映前の「やったらあかんこと」シリーズに加えてほしいものです。どれだけ退屈で寝落ちしてもいびきだけはかかない!、と。
 ところで、この小説が書かれた時代、あるいは現代もなおかもしれないが、世界を動かす原動力スパイス・メランジとは石油の隠喩であったに違いない。それを産出する砂漠に暮らし救世主の出現を待つフレメンとは、もちろんイスラム教徒を想定していただろう。ヴィルウーブ版ではフレメン語が再現されていて、ヨーロッパ人が原型となっている主人公たちとの差異化がはかられている。このフレメンの暮らす砂漠の星を代々統治する各ハウスとは、地球に置き換えれば当然ながら近代ヨーロッパの列強国であり、中東からアフリカにかけて植民地をつくったイギリスやフランスを思い浮かべることができる。
 現実の地球にポールはいない。
 植民地という不条理が徐々に解消され、各ハウスが去った後に現地でなにが起きているかは、ガザを見れば明らかなように、アラキス以上のカオスである。アメリカ本国は知らないが、おそらく世界中でこの映画を観た人々は現実世界の中東を思い浮かべて複雑な気持ちになったろう。
 日本人としては最後の30分くらいで「だから原爆という兵器を手りゅう弾みたいに気軽に使うなってばさ!」とスクリーンに向かってきつーく注意してやりたくなりましたが。
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