Crónica de los mudos

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アキ・カウリスマキ『枯れ葉』

2024-01-26 | 映画
 日本では『枯れ葉』の題で公開されているカウリスマキの新作はスペイン語ではこういう題になっている。
 ヘルシンキのどこかで淡々と生きている二人の男女。
 スーパーをくびになったアンザは場末のレストランで働きだすも店主が逮捕されてまたもや失業、最後は工場で荷車を運ぶ仕事についている。いっぽう中東からと思しき連中と年上の不思議なカラオケ男と住み込みで冶金工場で働く男はアル中。酒が原因で仕事を転々とする。そして二人が出会う。
 もちろんアル中に救いはない。
 アル中に救済ははく一時的中断か死あるのみだ。
 というのはマット・スカダーの言葉だったか誰かの妄言だったか忘れたが、ふつうに考えて治癒の難しいドツボだというのは私もよくわかる。
 救済などない。やめるというか中断して様子を見るしかない。
 その程度かなとも思うし、その程度のなかにしか救いはない。
 それはともかく、いつものように役者たちは無表情の棒読み。
 それがいいのだろう。
 テレビのドラマは見ないけれど、たまにうっかり民放の夜の国産ドラマをみてみると、それは相変わらず若い男女の恋愛だったり、国際的な陰謀に巻き込まれる公務員の信じがたい冒険譚だったり、無名の歌手の出世話だったりするわけだが、どれもこれも見るに耐えないのは優秀なのであろう役者たちの演技過多による。
 特に若い人が演じすぎで、黙って立ってりゃいいのにさ、と思うような可愛い子ほど顔を変に歪めようとしたり、すきっとしたハンサムなアイドル顔の男子ほど激怒や号泣に走りがちなのはいったいなぜ。感情移入が仕事だと思っているなら仕方のない話ですが。
 それにしてもフィンランドには子どもがいない。街中を行くのは大人ばかり。見方によれば衰亡の一途をたどる文明の終着点のような黙示録的光景であるが、私は「別にこれでもいいのかもしれない」と思うようになってきた。幸福じゃなくてももういい、という本が話題になったが、賑やかでなくてももういい、という気持ちがどこかにあって、こういうことはこれから社会に出ていく若者には言えないが、いっぽうで同年配や年上の男がなにやら「一生賑やかでいたい」とか「一生燃えていたい」とか激しくしているのを見るにつけ、もはや病気だな、と思ってつい声をかけたくなることも。
 もう枯れてもいいんじゃないでしょうか、と。
 いつまでも枯れない、もしくは枯れたくない人たち、それをまさしく昭和の病というのだとすれば時が解決(=いずれみな死に絶える)してくれるでしょうか。昨今の若い皆さんを見ていると中年以降にきちんと枯れてくれそうな気配を感じさせて、とても変な角度から「頼もしいな」と思うこともある。昭和オジサンなら「いまどきの若者は覇気がない」というかもしれないですけど。
 カラオケ王子が朗々と歌うフィンランドの国民的歌謡。とってもよかったので今度CDを探してみたい。でも最近CDってどこに売ってるんでしょうか?

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