Crónica de los mudos

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ガルシア・マルケス『百年の孤独』1

2024-05-16 | 北中米・カリブ
 何年もあと、銃殺部隊の前で、アウレリアーノ・ブエンディーア大佐は、父が氷というものを見せに連れていってくれたあの遠い日の午後を思い出すことになる。あのころのマコンドは、先史時代の卵のようなつるつるの白い巨大な石が転がる底を透明な水が流れる川の岸辺に、泥と藁で建てられた二十軒ほどの家々からなる村だった。世界はあまりにも新しく、多くのものが名前を欠き、そうしたものの話をするには指さしをせねばならなかった。(1ー1)

 伝説的な書き出し。
 大昔の外大生に暗誦させたことがあって、その際に私も暗記したのはマケドニアの錬金術師という単語まで。
 この名作を今期のゼミで読むことになった。
 週に1章ずつ進んで「すごいねえ」と言い合うだけの企画なのだが、備忘録代わりに気付いたことをメモしていくことに。
 記号は章番号と段落番号である。
 まず、語り手がどこにいるのかよくわからない第一文だが、いわゆる全知のナレーターと考えて深くは掘り下げない。何年もあと、というのはアウレリアーノ・ブエンディーア大佐が四歳で氷を見た日からの時間経過を指すと考えていいだろう。そしてこの文章、元のスペイン語では había de recordar というフレーズが、この小説ではこのあとも何回も繰り返されることになる。
 1-2では地図と六分儀をつかって知恵を絞った末に地球がオレンジのように丸いと告げたときの父の様子を<子供たちは父が……したときの厳かな表情を残りの生涯を通して思い出すことになる(1-2)>とある。1-5ではロマのメルキアデスがブエンディーア父子を魅了し、その結果、次男アウレリアーノは<その日の午後に見た彼の姿を残りの生涯を通して思い出すことになる(1-5)>とあり、また長男ホセ・アルカディオ(父と同じ名前)は<その驚くべき姿を代々語り継ぐ記憶として子々孫々にまで伝えることになる(1-5)>とある。アウレリアーノ自身が数々の「何年もあと」と反復する。たとえば文明世界を求めて旅立ったホセ・アルカディオが見つけたガレオン船に関しても<何年もあと、アウレリアーノ・ブエンディーア大佐がまたその地域を横切ることになったとき(1-17)>と父と同じものを見、また父ホセ・アルカディオが息子たちに物理のレッスンを施していた様子を<何年もあと、国軍将校が銃殺部隊に発砲命令を下す一秒前、アウレリアーノ・ブエンディーア大佐はあの三月の生ぬるい午後をまた生きた(1-29)>とあって、この小説が特定フレーズの反復を大きな文体上の特徴とすることは第1章からも明白であろう。
 話を戻すとロマのメルキアデスはマコンドという辺境の村と文明世界をつなぐ架け橋である。彼はいろいろなものを運んでくる。ここにも文体上の反復があって最初は<マケドニアの錬金術師による第八の驚異(1-1)>である磁石、次は<アムステルダムのユダヤ人による最新の発見(1-2)>である望遠鏡と巨大な虫眼鏡、そのあとプレゴンはないけれどポルトガル製の地図と六分儀をはじめとする航海道具や化学の実験器具がきて、それから<ナチアンツ人によるもっとも素晴らしい発見(1-9)>はただの入れ歯と、このメルキアデスというロマは、あんたは寅さんか!と、思わず言いたくなるような口八丁で、想像力が増進しすぎているホセ・アルカディオをどんどんと「文明中毒」にしてしまう。
 まわり(=妻ウルスラ)困る……
 ということが繰り返されてゆく。
 ホセ・アルカディオの孤独とは、文明の利器(のようなモノたち)にとりつかれて身近な人間関係を忘れがちな彼自身の「想像力増進癖」に由来している。ホセ・アルカディオだって最初はまともな人間だった。父祖的役割を忠実に果たしていて村をいいほうにまとめていた。それが急速に変貌していく。<(彼の)そのような社会的な指導力は、磁石に対する熱情、天体観測、変化の夢と、世界の驚異に触れてみたいという熱い思いに引きずられてあっというまに消えてしまった(1-4)>。これはいまふうにいえばオタクというやつになるのでしょうか、うちの大学なんかには本職のオタク、本職のホセ・アルカディオがわんさかいそうですけど。ただし、オタクはオタクでも、長男が14歳、次男が5歳になったオジサンが人生の途中でオタク化してしまうわけだから、実に困った話である。
 こういうわけでマラビージャ、これって英語のマーベルですが、マーベルという名の要するに「見たこともない素晴らしいもの=近代物質文明」に取りつかれたホセ・アルカディオは文明を探す旅に出て結局挫折する。マコンドに戻った失意の彼に、現実的な妻ウルスラは、子供たちを見なさいと言う。それで何かが起きて改心したホセ・アルカディオ、マコンドに平和な日常が戻ってきた……と思っていたところへ、久しぶりにロマの一座がやってくる。<メンフィスの賢人たちによる最新の驚くべき発見(1-29)>を携えて。しかしメルキアデスは死んでいた。父はそれに驚くが、子供たちはロマのじーさんよりメンフィスの賢人の発見が見たくてたまらない。そしてふたを開けると……
 それは氷だった。
 ここで冒頭に戻る、という仕組み。
 最初はマケドニアとかアムスステルダムとか言っていたのがメンフィスになり、そしてその実態は氷だから、普通に考えればこれはアメリカに象徴される現代文明社会の利器、すなわち冷凍庫のような電気製品のイメージだと考えていいだろう。日本風に言えば、越後の刀鍛冶が鍛えた最新の絶対に折れない刀(=プラスチック)、琉球に伝わるマル秘の若返り薬(ハブの粉)だのいっていたのが、いつのまにかパナソニックのテレビがやってきた、みたいな感じでしょうか。
 表現のポイントには el mundo という単語の使用もある。
 この語はガルシア・マルケスの小説では客観的な世界ではなく人物たちの主観世界を指す(スペイン語レベルで言うと todo el mundo が「みんな」という身近な人間集団を漫然と示す感じに近い)から訳しにくいのだが、世界と訳していいと私は考えています。上記の冒頭にも出てくるし、文明を求めて旅に出たホセ・アルカディオの一行がジャングルで迷子になるときも<世界は永久に悲しいものになってしまった(1-10)>という形で現れる。わりと随所に現れるのでいつか「ガルシア・マルケス小説におけるムンドの位相」という論文を書いてみたいくらいです。
 それからガルシア・マルケスが明らかに意識していると思われるのがホセ・アルカディオの増進する想像力に触れた文章で、直訳すると<その限度を超えた想像力が自然の才知のはるか彼方をいっていたホセ・アルカディオ(1-1)>ということになるのだが、この自然の才知の「才知」、つまりスペイン語の ingenio は明らかにドン・キホーテを意識しているだろう。この語があることでスペイン語のよき読者ならだれもがセルバンテスを思い出すという仕掛けも冒頭に施してあって、やっぱりこの本は世界遺産だよなあ、と改めて感慨を深くする。
 来週は二章を読む。
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