Crónica de los mudos

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ガルシア・マルケス『百年の孤独』2

2024-05-23 | 北中米・カリブ
 一六世紀に海賊フランシス・ドレイクがリオアチャを襲撃したとき、ウルスラ・イグアランの曾祖母は警鐘の連打と大砲の轟音に錯乱し、火のついたかまどに腰を下ろした。やけどは彼女を生涯やくたたずの妻に変えてしまった。クッションにもたれて斜めにしか座ることができず、きっと歩けばどこかぎこちなさが残っていたことだろう。なにしろ人前には二度と姿を現さなかったからだ。自分の体が焦げた匂いを発しているという考えに取りつかれた彼女はあらゆる社会的慣習を放棄した。夜明けには一睡もせず中庭にいることがあって、それは獰猛な軍用犬を連れたイギリス人たちが寝室の窓から押し入り、真っ赤に焼けた鉄をつかって彼女に破廉恥な拷問をくわえる夢を見るからだった。あいだに二人の子どもがいたアラゴン出身の商人の夫は、妻の恐怖を和らげる方法を求めて店の資産の半分を薬や楽しみごとに費やした。ついには店をたたみ、家族を連れて、海から遠い山地のあいまに位置する平和なインディオが暮らす家に引っ越し、そこで悪夢の海賊たちが入ってくる隙間がないよう窓のない寝室を妻のために建てさせた。(2-1)

 実はこの小説には現実との接点を示す手がかりがいくつもある。1章やこの2章の冒頭にも表れる地名リオアチャがいい例だろう。コロンビアのカリブ沿岸エリア、ガルシア・マルケスの出身地であるアラカタカよりさらに北東にあるけっこう大きな町で、ワユーなどの先住民が暮らしていたところへ1535年にスペイン人がやってきて植民を開始、ここを町にした。ウィキペディア情報だと現在の人口は28万人ほど、箕面市の二倍程度の、まあまあ大きな町だ。フランシス・ドレイクがこのリオアチャを襲ったのは1595年、つまり町が創設されてからわずか60年後のことである。
 問題はウルスラの曾祖母。
 この小説の「最先端時間」の時代設定は特にないが、刊行年(1967年)やバナナ会社の事件などから考えて19世紀後半から20世紀前半あたりの百年と考えていいように思う。まあ、ざっくりと、ですけど。
 仮にウルスラが生まれたのが19世紀なかごろ、たとえば1867年だったとして、彼女の本当の曾祖母が16世紀最後の十年を生きたと考えるのには生物学的に無理があるよね、という話をさっきしていた。
 もちろん、そこは小説。
 次の段落では<それからずっと後になってそのひっそりした田舎の屋敷に住んでいたのはタバコ栽培業を営むクリオーリョのドン・ホセ・アルカディオ・ブエンディーアで(2-2)>とあって、mucho tiempo で済ますあたりの潔さがガルシア・マルケスらしくていい感じ。当のウルスラは、旦那のホセ・アルカディオが奇行におよぶたびに<偶然がつなげた三百年のときを越えてあのフランシス・ドレイクがリオアチャを襲撃した瞬間のことを呪う(2-2)>のだったとある。
 三百年だから、お母さんで百年、おばあさんでもう百年、そしてドレイクの攻撃にあったひいおばあさんがもう百年、そういう計算でしょうか。現実にはあり得ない数字で、あくまでフィクションだが、三世代前の人ということでちょうど三百年というのはある意味で整合性があるし、またラテンアメリカ史におけるスペイン植民地の持続時間とちょうど重なる。ウルスラの曾祖母の旦那がアラゴン出身だったりと、新大陸のスペイン白人系のルーツがブエンディーア家にも流れているという、いわば歴史を物語に埋め込んでいるのだ。
 この小説は愛と孤独がキーワードである。
 スペイン語では amor と soledad。
 いずれも茫洋とした概念語だが、五世代の最初の夫婦、つまりホセ・アルカディオとウルスラのあいだに愛はあったのだろうか。これについて語り手は<それ(松本注:夫の奇行を嘆くこと)は単なる心の慰めの手段だった。なぜなら二人は本当は愛よりもずっと堅固な絆で死ぬまで結び付けられていたからだ。それは同じ後悔の念である。二人はいとこどうしだったのだ。(2-2)
 1章で長男ホセ・アルカディオの奇形を心配するという形で現れた二人の謎がここで解かれることになる。つまりインセストタブーだ。内陸部の山間にある狭い共同体で2つの血筋がもつれ合ってそういうことになったとしても珍しくはない。あるいはこれは極端な例というよりは、複雑な混血を繰り返してきた結果、解くに解けない宿命を抱えてしまった新大陸のスペイン系の人々、いやあらゆる人種を含めたいまの新大陸に生きる人々の逃れられない運命を象徴する記号といえるかもしれないが、おそらくそのあたりはいくつもの論文が書かれていることだろう。
 それはともかく二人が愛ではなく後悔の念によって結ばれていたというのは面白い。つまりこの二人には愛なんてなかった。幼馴染で結婚の意志を示した(そしたらインセストなのでやめておけと説得される)というだけで、恋とか愛とか、そういう話が一切ない(ままたぶんこの小説も終わる)。ただ彼らの関係性を示すただ一つのテーマである結婚は社会的に許されないものだった。そういう意味では愛なき関係性までもがこの小説では失敗の烙印を押されているところから始まっているともいえるだろうか。
 ちなみに私の世代の多くは、親世代に愛がない。
 説明しにくいことだが、親どうしが愛し合った物理的痕跡は自分だけで、彼らが愛という名の不毛な瞬間状況に拘泥したということを知らない大人が多いように思う。私がそういうこと(親どうしがこういう状況で知り合って恋に落ち、こういう関係性を結んで、こういうふうに結ばれたetc.)をはじめて子の世代の口から聞いたのはペルーで21歳のときが生まれて初めてだった。
 余談はともかく、プルデンシオの亡霊にうんざりしたホセ・アルカディオが夫婦と関係者一同で町を出て行くわけだが、町の「うわさ」が大きな力となって一部の人間を排除するというストーリーはガルシア・マルケスの得意技、前期の『落ち葉』もそうだし『予告された殺人の記録』もその延長線上だろう。内側に向かうベクトルだけで構成された共同体からはじき出された二人、そして彼らが新たに作った新天地。そういう流れになっていることがわかる。
 ちなみに旅路のなかでまた el mundo が現れる。
 <雲に覆われた頂からは世界の向こう側まで延びる広大な沼地の巨大な水面が見えた(2-16)>とあって、やはりガルシア・マルケスにおけるムンドとは「観測者に見えている範囲の世界」を指すと考えて間違いないだろう。ちなみにこの新天地を求めた夫婦の旅を、次男のアウレリアーノが何年かあとにやはり辿って<六日目にその旅が正気の沙汰ではないことを理解した(2-16)>とあるのは1章と同様の話型である。
 さてこうして第一世代夫婦の「そもそも話」が展開した後、17段落目からようやく物語の最新時間に戻っていく。ここから先は、ほとんどが、長男ホセ・アルカディオにまつわるエピソードになっていく。
 それをざっくりまとめると、第二世代ホセ・アルカディオの孤独、とうことになるだろう。そして彼にとっての孤独とは他でもない情欲のことである。異常に大きな男性器といういわば「性のスティグマ」をもって生まれたホセ・アルカディオは(その裸体を見た母ウルスラが<彼は生きるための立派な装備ができていて、彼女にはそれが異常に見えた(2-17)>というくだり、スペイン語では bien equipado となっているが、この「装備」とは要するに息子の男性器を指していると考えられる)満たされない情欲、つまりピラール・テルネーラという性の手ほどきをしてくれそうな年上女への直接的欲望が「かなえられない状態」に悶々とする、というより、どうもその状態事態に中毒し始める。
 孤独(ソレダ)に「居つく」のである。
 実際に相手と会ってみると、彼が惑溺していた孤独という名の魔法が解けてしまって、あれ?ということが、その後も繰り返されていく。そして19段落最後の長い一文(ガルシア・マルケスはセックスを長めの文章で描く傾向にあるのかもしれない)で初めてピラールとことに及んだホセ・アルカディオは、その最中<腎臓のたてる氷のような音や、はらわたのなかの空気、恐怖、そこから逃げたい、と同時にその苛立った沈黙とその恐ろしい孤独のなかに永遠にとどまっていたいという困惑した欲求にもはや耐えられないと感じて(2-19)>いた。
 ホセ・アルカディオはセックスという行為で情欲が満たされる「までのわくわくする時間」を孤独、ソレダといい、そしてそこに強く強く絡み取られてゆく。これに伝染するのが次男のアウレリアーノで、彼は兄の性の冒険譚を聞くうちに兄に感情移入するようになり、しまいには父と取り組んでいた錬金術の実験もないがしろにして兄と二人で<孤独に逃避をするようになった(2-28)>のである。
 やがて町にロマの一座が再び訪れ、空飛ぶ絨毯でマコンド中がわいたとき、情欲が満たされる直前の孤独に居ついてしまって、きっとそれを愛だと勘違いしている思春期のホセ・アルカディオはピラール(これって、高校生が、40台の美魔女と付き合っている感じでしょうか)とお手てつないで歩きながら、ひょっとしてこれが愛かも、とか甘いことを考える。<彼らは群衆のあいだで二人の幸福な婚約者になり、愛というのはあの秘密の夜の、限度を越えてはいるが瞬間で終わる幸福などよりずっと穏便で、ずっと深い感情なのかもしれない、などと思うようになった(2-31)>のだが、世の中は(ガルシア・マルケスは?)そんなに甘くない。
 あんたの子ども出来たし。
 の一言ですべてが終わったホセ・アルカディオは、今度はロマの娼婦の少女(このあたりには「大きな翼をもつ非常に年をとった老人」の蛇女(ここでは蛇男)だの「エレンディラ」の少女娼婦といったカーニバルのモチーフが現れている)に誘われるようにマコンドを出て行く。
 それを追ってしばらく失踪したウルスラが、旦那が探して見つからなかった文明世界の隣人たちを連れてくるというところで、この章は終わり。章題つけるなら「夫婦の原点とホセ・アルカディオの孤独」となるでしょうか。
 来週は3章を読む。

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