川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「為やん」の授業風景

2013-02-20 05:48:39 | 父・家族・自分

2月19日(火)曇

室戸で言う「しびくた」日和、東京では昼時に「吹雪」になったとか。一日、コタツにもぐってぼけっとしました。妻は和服のリフォームに余念がありません。今度はどなたに差し上げるのかな?

 浦賀の熊野さんは几帳面な方です。写真はきちんと整理されていました。小学校の卒業記念の写真帳に父の姿が映っていました。

昭和14年度(1939年度)「津呂尋常小学校卒業記念写真帳」

父は熊野さんの2つ上の高等科2年の担任だったと思われます。今で言えば中2にあたります。父は32歳、僕の生まれる2年前です。

熊野さんは習ったことはなかったがお兄さんから「為やんは怖い」と聞いていたそうです。

父は旧姓の「坂井為利」で教壇に立っていましたが地元の人は誰もが「為やん」と呼んでいました。(僕は「啓やん」です)。昭和7年(1932)から20年までは津呂小の「訓導」(今の「教諭」)ですから、「支那事変」から「大東亜戦争」の期間の室戸岬の教育の中核を担ったことになります。

昭和16年(1941年)からは「小学校」が「国民学校」となり、戦時色一色になります。どんな先生だったのでしょう。僕の知らない時代の父の写真を見つけてこの時代に生徒だった方々の証言をほとんど聞いていないことにあらためて気づきました。僕が室戸岬の町を離れて高知や東京で暮らしている間にすっかり故郷の人びとと疎遠になっていたのです。

 善助オンちゃん・熊野のオンちゃんの年から上の人には戦死した人が数多くいます。岬端の「忠霊塔」に刻まれている100数十名の「教え子」の名をなぞりながら、教師になった僕に自らの戦争責任を語ったことがあります。

 師範学校という軍隊式の学校を出ていても大正デモクラシーの空気を吸っている人です。

父には昭和3年の詳しい日記が残されています。10年後の日々の思いはどんなものだったのでしょう?

 参考「川越だより」●「昭和3年 父の日記③ルソー」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/d0f36c3b7c04ab3595ec773aaf402f72


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