川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

熊野一貫さん

2013-02-18 05:23:39 | ふるさと 土佐・室戸

2月15日(金)午後・雨

 浦賀駅後背の高台の住宅に熊野さんを訪ねました。奥さんを亡くされ一人住まいです。善助おんちゃんの葬式以来、二度目の面会ですが、同郷のよしみで話はすぐに佳境に入ります。

写真: 浦賀のお宅に熊野一貫さんを訪ねました。

これが昭和18(1943)年8月、室戸岬の青年が神宮の国民錬成大会「800米継泳」で全国優勝したときの写真です。

前列右が安田善助さん、後列左が熊野一貫さん。今で言えば高校生です。善助さんが熊野さんの一級上で主将。中央は浜田先生。

国民錬成大会メダル(ニッケル製・裏)。「体育」が消え、「錬成」に。

右は「紀元2599年」(昭和14年、1939年)高知県大会(小学生)のメダル。

写真: 少年時代 熊野さん(左)  高知県大会

(少年時代・高知県大会に出場。左が熊野さん。昭和14年度「津呂小学校卒業記念写真帖」より)

今と違ってどの学校にもプールがあるというわけではないので、海で育った室戸の子どもたちが競泳でも強かったのでしょう。県の大会では毎年のように良い成績だったようです。

熊野さんは昭和18年(1943年)12月、海軍航空隊(予科練)に進み、三重県香良洲で軍隊生活。幸いにも生き残って戦後は復活したマグロ船の船員・船頭として昭和38年まで働いたといいます。

写真: 敗戦後 漁師になった熊野さん

(室戸岬の鮪漁船時代の熊野さん)

 昭和37年(1962年)ソロモン海域で台風に巻き込まれ無線連絡も途絶えてしまったときの船頭としての苦闘をタンタンと話してくれました。山のような波と暴風の中で船の難破を避けるための懸命の作業。帰ってきてお子さんから「おかあちゃんの体からいっぱい水がでちょった」と聞かされ、やがて船を下りる決断をしたということです。

 下船後は室戸岬船員同志会の中谷清明会長に誘われて浦賀の事務所で漁労部の仕事を2年ほどしました。船員の賃金保障や年金制度の確立のために中谷さんは東京にもよく出張され、水産庁では有名な存在だったとか。

黒い箱で調べるとこのごろに「室戸岬鮪船労働協約」が結ばれている。

「昭和39年10月24日,室戸岬鰹鮪船主組合と船員同志会は10年来の懸案であり,3’年にわたる交渉の成果である,賃金の一部固定給化に成功した.これは固定給付き奨励金制ともいわれる.」
 ●https://ir.kochi-u.ac.jp/dspace/bitstream/10126/1309/1/H014-10.pdf

 室戸岬鮪漁業の前進基地・浦賀で活躍した人々の名前が次々に出てくるものの、顔を思い出せる方は少ない。「低気圧のオンちゃん」。確かに聞いたことがあるなあ。12歳で故郷をあとにしてしまい、「津呂のことは何も知らない」人間になってしまった僕の宿命です。それでも熊野のおんちゃんにお会いすることができて何かとてもうれしい気持ちになることができました。

先祖は捕鯨の技術を伝えるべく熊野(和歌山)から室戸岬に招聘された一族だといいます。知力にも体力にも恵まれて海の男として生き抜いてこられたのです。娘さんは国際結婚でアメリカ、息子さんは明石の病院のお医者さん。お子さんたちもみなそれぞれに「いごっそう」「ハチキン」をやっているのでしょう。

4時近くにおいとましました。

 

 

 

 

 

 


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