レンゲソウ;ゲンゲ(マメ科)花言葉は、感化;私の悲しみを和らげる。中国原産のマメ科の植物で、越年草の花。かつては緑肥として刈り取りの終った稲田で広く栽培されていた。葉は互生し、4~6月に葉腋から花柄を伸ばし、先端に蝶形花をつける。「余念なく紫雲英をつむとひとは見む 大島民郎」「指ゆるめげんがげの束を寛がす 橋本美代子」「童女摘むげんげに吾が摘み足りせり 塩川雄三」「どの道も家路とおもふげんげかな 田中裕明」「頭悪き日やげんげだに牛暴れ 西東三鬼」「絞る休みせし吾をげん田に許す 津田清子」「げんげ田へ女がさきに座りけり 星野麦丘人」「げんげ野を来て馬市の馬となる 下村ひろし」。私が蓮華田をみたのは、小学校6年の時修学旅行の列車に乗り、鳥取県若桜町を出て、京都に向かう時に車窓から見える蓮華田の美しい景色に感動した懐かしい思い出がある。その後、鳥取一中を受験するも、鉄棒の逆上がりが出来ず、入学出来ず、東京から長兄英一兄が小学校から浪人とは何事か?と叱られて、東京に戻された。私が7歳の時に父が逝去し母は家政婦、長男英一は、中学2年生で日本橋、箱崎町にある回漕店に住み込み南洋から輸入する果物を艀から引き取る仕事をしていた。次兄實は、山田家に養子に行き、私は、父(東京都港湾局職員で、東京湾の埋め立て事業に従事中に42歳で逝去)したために5年生まで一人暮らしをしていて、勉強していなかった。(その原因は、港湾局の、部下夫妻が私の面倒を見てくださるためであつた。)ところが、奥さんが、だいの酒ずきで、朝食事を終わると、台所で、焼酎を、がぶ飲みして、井戸水で、コツプ一杯飲むと、朝食をかたずけることなく、昼まで食卓のよっこで寝ていた。これを見て、私は8畳の窓から鞄を投げ入れ、友達の家に遊びに行くのが毎日であった。そのことがわかつて、から鳥取県の(母の実家)に送られた。ここで従兄が若桜小学校6年女子組の教諭をしていたので私は、鳥取に預けられ、毎晩夕食後従兄の机の隣で、11時ごろまで勉強させられていた。成績は上がるも、鳥取一中を受験するが、入学試験に鉄棒の逆上がりをさせられるも、鉄棒にぶら下がることも、したことがなく、逆上がりが出来ず入学出来なかつた。このよことから、入学出来ず、東京から英一兄が来て、小学校で浪人とは何事か?と言われて、東京に逆戻りとなったのである。蓮華草と修学旅行までの思い出には、様々な経緯ががある。少年時代の思い出である。(思い出は数々ありて、迷えども、今は我が身の肥やしとなれり ケイスケ)(従姉妹兄弟は、重子、加代子。勝子、豊子、末子とすべて女性であつた。それぞれ婿養子をむらつていた)