唯物論者

唯物論の再構築

キャリー

2012-03-15 08:21:07 | 映画・漫画

 「キャリー」1976年 製作アメリカ
           監督 ブライアン・デ・パルマ
           主演 シシー・スペイセク

 古典的な欧米のホラー映画は、フランケンシュタインのような連作を前提にした映画を除けば、映画の終りまでに事件が解決し、映画終了時に恐怖を持続させることは無かった。「キャリー」のラストシーンは、このようなホラー映画におけるラストのハッピーエンドを破壊した。かくして今ではエンドタイトルが出始めるまで、観客はビクビクして映画を見るようになったわけである。もちろんこの図式は、和製ホラーにすれば、四谷怪談の頃から既に常識的なものである。むしろ日本人から見れば、怨念が映画の終りで解消する方が不自然な話だとも言える。しかしこのような経緯は、「キャリー」をホラー映画の歴史におけるエポックメイキングにした。ただしこの映画は、ホラー映画と言うより、思いがけない愛にとまどう超能力少女の「車輪の下」の物語であり、むしろ切なく悲しい青春映画、もしくは特異な恋愛映画と言う怪作であった。

 監督のデ・パルマは、この映画の2年前の1974年に姉妹作とも言える「ファントム・オブ・パラダイス」、そして2年後の1978年に実質的な続編とも言える「フューリー」を撮っている。これら3作品はどれも、救われなかった魂の物語だという点で一致している。ただし作品内容は、報われない愛に対する一途な自己犠牲の物語から、報われない愛を与えた他者への復讐劇に転じている。しかし復讐は、自滅がもたらす自己満足の高揚と違い、虚無感だけを残す。そして「フューリー」以後のデ・パルマは、このような神のいない虚無的世界に閉じこもってしまった。この違いは1981年の「ミッドナイトクロス」を、以前と作品傾向が似ているにも関わらず、古典的な三面記事型悲劇に成り下げている。またベトナム戦争中のレイプを扱った1989年の「カジュアリティーズ」にしても、主人公があまりに中途半端すぎて、お粗末な出来になっている。これらの失敗は、デ・パルマがニヒリズムの解消を企てずに悲劇を作ろうとした結果にすぎない。デ・パルマは「ファントム・オブ・パラダイス」で自ら示したように、敗北において自己満足を見出す映画、言い換えるなら、絶望の中に神を顕示する映画を目指すべきであった。しかし残念ながら「殺しのドレス」以後のデ・パルマは、作品を上手に作るだけが能の、魅力の無い映画職人になってしまった。

 映画に限らず、ドラマにおいて魅力的な善人を描くのは難しい。なぜなら善はもっぱら一般性を代表するのだが、キャラクターの魅力は個別性の内に潜むためである。そして個別性とは、虚偽が世界を支配する場合を除くと、もっぱら善ではなく悪なのである。結果的に善人は、作品世界において常に悪人の魅力に劣後する傾向をもつ。逆に言えば、善は自らが特殊な事態でのみ、その美しさを露呈するものである。言い換えるなら、掃き溜めの中でのみ、鶴はその美しさを見せる。キャリーは、意地悪なハイスクール社会と異常に厳格な母親に囲まれた生活の中で、怒りの炎で世界を焼け焦がす悪鬼に化け、最後にはすがりついた母親にまで裏切られて惨めに死んで行く。しかし死の瞬間まで必死に愛を求め続ける主人公の姿は、愛らしく可憐で美しい。したがって美の表出を芸術と呼ぶのなら、映画「キャリー」はまさしく芸術的であった。またこの映画におけるデ・パルマの一番の巧みさも、この主人公の死なせ方だったように筆者は思う。生と死は越え難い対立にあるのだが、それでいて両者の境界越えはあっさりしたものである。ジャンルを超えた様々な作品で、死において見せる命の尊厳はさんざん描かれている。ところがそれらの多くは無駄な表現が多すぎて、悪い意味でドラマチックである。それに対して「キャリー」での主人公の死は、哀しいまでに簡潔である。しかし突如訪れた人生の幕切れの方が、むしろ命のはかなさと美しさを際立たせたように見える。

 なおデ・パルマがこの映画の2年後に作った「フューリー」は、「キャリー」と比較にならない悪夢のドラマになっている。「キャリー」の主人公は天然素材の超能力者だったが、「フューリー」で主人公が救おうとした息子は国家機関が生み出した人造超能力者である。そして前作と同様に制御の効かなくなった怒りは、愛する者にまで残虐な死を与える破滅的結末をもたらす。この映画の恐怖は、単なるサスペンスではなく、誰しもの心の内に潜む悪魔性から生まれ出ている。この映画には擁護すべき善性は登場せず、美と無縁な、忌まわしいドラマでさえある。論理の介入の余地を失い、情念に支配されて終わる物語の結末は、まるでこの映画の30年後に世界を徘徊するイスラム原理主義を予告したような出来栄えである。またこの映画が暴露した人間の内に潜む悪魔性は、憎悪の呼号に終始した古い型の革命が現実にもたらした悪夢を彷彿とさせる。
(2012/03/15)

※「フューリー」以後の特筆すべきデ・パルマ作品に、「スカーフェイス」があるのを忘れていた。

2014.05.28追記)
 最近になってデパルマがベネチア映画祭銀熊賞をとった「リダクテッド真実の価値」を観た。基本的にこの映画は、「カジュアリティーズ」のセミドキュメンタリー版である。両者の差異は、「カジュアリティーズ」が不良米兵の犯罪を描いただけに終わったのに対し、「リダクテッド」はイラク戦争の大義に隠されたアメリカの主張の不当性を暴いた分だけ進歩している。


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