
湾岸戦争報道
空爆のバグダッドへ一番乗り
多国籍軍が1991(平成3)年1月17日、イラクのバクダッドを空爆、湾岸戦争が始まっても、イラクは日本の新聞記者の入国を認めようとしなかった。毎日新聞外信部の伊藤芳明記者は東京のイラク大使館にビザを申請したが、認めそうにない。伊藤記者は一芝居打った。「毎日新聞ほどイラクの主張を理解している社はない!」とイスを蹴飛ばし、肩を怒らし社に引き上げた。すると、イラク大使自ら電話でビザの発給を告げてきた。
伊藤記者はヨルダンのアンマンに飛び、イラクの指示で2月17日午前6時、国境に集合し、空爆の跡が生々しく残る道を車で走り続けた。同日午後4時にバクダッドに着き、日本の新聞記者として一番乗りだった。翌日の18日付朝刊1面に、伊藤記者の第1報が掲載された。「空爆におびえ9時間」「硝煙と瓦れきのバクダッドに入る」の見出しが躍っていた。だが、最後に「この記事は衛星通信を使って英語で送っている。日本語は使えない。イラク側にどんな内容か知らせるためだ」と異例の断り書きが付いていた。イラクに不都合な記事を送らせない検閲体制が敷かれ、英語かアラビア語の使用を強制された。原稿は監視役のイラク人の前で、先に入国していたNHKの衛星通信を借りて送らねばならなかった。
これでは、戦時下のイラクの実情を報道できない。伊藤記者は原稿を陸路で直接、アンマンにいる同僚に届ける方法を思いついた。アンマンのホテルに届ければ謝礼を支払うと約束し19日、トラックの運転手に小さな文字で紙にびっしり書いた原稿を運ぶように頼んだのだ。日本に届く保証はなかった。もし、イラク側に知られたら、国外追放される恐れもあった。しかし、この原稿は、早くも21日付朝刊1面に大きく掲載された。
見出しには「空爆の街 バクダッドの実像」「ルポを運転手に託す」「給水1時間 ロウソクの灯で」「厳しい規制下本社特派員」とあった。街道沿いのレーダー基地、変電所、石油貯蔵タンクが空爆で破壊された姿や、高射砲陣地の配置などが細かく報道された。この後も伊藤記者は、家族あての遺書を書きながら空爆下の街を車で駆け回った。原稿や撮影した写真のフィルムをタクシー運転手などに託し、アンマンに送り続けた。
伊藤記者の後を追うように、ライバル紙も次々とバクダッド入りしてきた。だが、イラク側の厳しい監視のもとで、原稿を送るのに苦労しようだ。
前年8月、イラク軍がクウェートに侵攻し「湾岸危機」が起きた直後、毎日新聞パリ支局の西川恵特派員は、西側記者としてバクダッドに一番乗りしていた。戦争が起きれば、記者は誰よりも早く戦場、現場を目指す。毎日(東京日日)新聞初代社長、福地桜痴が西南戦争で果たして以来、その競争は延々と続けられている。伊藤記者は今、東京本社の編集局長として新聞づくりの先頭に立っている。(「Maiぱれっと」2008年6月号から。伊藤記者が苦労して取材、送稿したバグダッド一番乗りの記事は、1991年2月21日付毎日新聞朝刊に掲載された)