新聞記者になりたい人のための入門講座

新聞記者は、読者に何を伝えようとするのか。地球の危機や、庶民の喜怒哀楽かもしれません。新聞記者のABCを考えましょう。

新聞への思い 5(下)

2012年01月19日 | ジャーナリズム

 

 ゲバ、反暴力運動の先頭に立つH君の周りには、当然のことながら多くの新聞記者が集まった。私もその一人で、「川口君はどのセクトにも属していなかった」などと説くひげ面学生の一挙手一投足を細かく取材し、記事にして本社に送った。お互い顔なじみになり、彼の主張を分かりやすく書き、社会面トップの記事になったこともあった。その関係で、私が早大担当を離れてからもその学生との交流は続いた。

 数年後、私が大阪本社に転勤していたとき、彼から朝日新聞記者として入社が決まった」と連絡があった。大阪に行く用があるとのことで、一晩、千里ニュータウンのわが家に招き、合格のお祝いをすることになった。そのとき、彼がしみじみと言った。大学4年生のときと次の年、私がいた毎日新聞を受験しようとしたが、経営難で採用中止のためチャンスがなかった。このため朝日新聞を受験し、合格したのだという。面接では本来、毎日新聞希望だったことなどを包み隠さず打ち明け、私から取材された経験なども話したという。

 そこまで聞いて私は胸がいっぱいになり、言葉が出なくなった記憶がある。私の取材や新聞記事を通してワセダの学生の一人が同業の新聞記者を目指すようになり、しかも一時は毎日新聞を希望していたとは……。それにしても、朝日新聞に合格できてよかった。その当時、毎日新聞は経営難で新社として再スタートしており、将来の展望が開けない状態だったからだ。

 新聞記者の取材と記事が、関係者や読者に大きな影響を与えることがある。36年に及ぶ記者生活を通じて他にも同じような経験はあるが、記者として、あるいは人間として身の引き締まる思いがする。

 彼とはその後も交流が続き、結婚する女性を紹介されたり、小料理屋で楽しく酒を酌み交わしたりしてきた。彼も私と同様に社会部を中心に記者生活を送り、大事件の渦中にいたこともある。最近は年賀状だけのやりとりが続いているが、支局長として地方に赴いたときには「遊びに来ませんか」と定年後の私に書いてきたこともあった。その彼も今年、定年を迎える。いったん小休止し、再び意義ある定年後ライフを送ってほしい。(終わり。写真:ポーランド・アウシュビッツ強制収容所跡の入り口に掲げられた「働けば自由になれる」の看板)



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