新聞記者になりたい人のための入門講座

新聞記者は、読者に何を伝えようとするのか。地球の危機や、庶民の喜怒哀楽かもしれません。新聞記者のABCを考えましょう。

新聞への思い 2

2011年08月28日 | ジャーナリズム

 ☆政治と社会部☆

  新聞で政治という場合、政治部が担当すると思うかもしれない。しかし、私が長くいた社会部も政治の世界を受け持ち、私も担当記者だった。

  現在も変わらないはずだが、私が若いころは国会議事堂のなかに国会記者クラブがあった。議事堂のなかといっても衆院議員面会所の2階で、政治部の記者クラブが議事堂中央部にあるのに対し、社会部の記者クラブは議事堂の隅っこにひっそりという感じだった。政治部が首相官邸や各政党ごとに記者クラブに所属し、議事堂内にもその出先があり開会中は詰めているのに対し、国会記者クラブには国会図書館以外に担当する部門は何もなかった。つまり、何かことがあれば政治全体が持ち場といってよかった。

  政治部が政治の本筋を担当するといえば、社会部は政治家及び政治のスキャンダルを追及するといわれていた。特に「政治とカネ」問題で記事を書かれた政治家にしてみれば、社会部記者は目の敵のような存在だったのだろう。議員会館の部屋を訪ねると面会を断られたり、多忙を理由に短時間しか会えないことが珍しくなかった。

  1980年代の後半、私がこの記者クラブにいたころ、政界の関心事はロッキード事件で逮捕、起訴された田中角栄元首相の一審判決がどうなるかに集中していた。捜査の中心、東京地検特捜部や東京地方裁判所は社会部の管轄であり、事件は最初から社会部マタ―といってよかった。それでも最初のうち、国会記者クラブは日常的には事件の影が薄かった。

 しかし、田中元首相は裁判を受ける身でありながら田中派の議員を増やし、永田町の闇将軍として君臨しており、判決の行方は政界全体に及ぶとみられていた。事件を担当する社会部として、より積極的に紙面を作らねばならなかった。

 私は田中派の議員を中心に判決への関心、推測、動向を探りに国会議員を訪ねて歩き回った。ほとんどの田中派議員が田中有罪判決を心配し、身の振り方などに気を遣っていた。そんななかで、田中元首相の法廷に家族傍聴券で欠かさず通っていた小沢一郎衆院議員(民主党元代表)にインタビューし、判決への気持ちを取材したことがあった。多くの田中派議員が社会部の記者と聞いただけで面会を拒否していたのに、小沢議員は驚くほど気軽に面会に応じた。「判決を前にどんな気持ちですか?…」と聞くと、小沢議員は「別に…」と答え、微動だにしなかった。有罪であろうとなかろうと、田中元首相への気持ちは変わらないと受け止めるしかなかった。

 また、田中派のパーティにもよく通った。田中元首相が姿を見せることも多く、その言動を取材しては原稿を書いていた。田中派のパーティは自派担当以外の記者を締め出して行われることが多く、こちらが政治部の田中番記者が付ける色のリボンを上着に付けて潜り込もうとすると、秘書に社会部記者と見破られ追い出されたこともあった。

 国会記者クラブは大きな政治イベントや政治とカネにからむ不祥事があると、常に社会部の前線拠点として利用された。自民党の衆院議員が企業からカネを受け取り、国会で質問していた共和製糖事件で毎日新聞社会部が日本新聞協会賞を受けたのはこの記者クラブを中心にした取材だった。ロッキード事件、リクルート事件など事件は後を絶たなかった。社会部は常に政治とカネの問題点を見つめ続けている(写真:フランス・ノルマンディーの海岸のオック岬はかつての激戦地。私の風景写真アルバムから)


新聞への思い 1

2011年08月24日 | ジャーナリズム

 

 ☆ニュース読む☆

 まで担当していた大学の文章講座で、「ニュースを見る」と書くことはあっても「ニュースを読む」と書く学生はいなかった。私は現役の新聞記者時代を含めて12年間授業を担当し、合計約1000人の文章を添削してきて1人もいなかったと断言できる。ニュースはテレビ、最近ではインターネットで見るものであり、新聞など活字で読むものではないといわんばかりだった。学生の原稿を添削していて、「ニュースを見る」との表現が出てくるたびに「かつて、ニュースは“見る”ものではなく、“読む”ものでしたよ。できれば、新聞を読んでほしいですね」と可能な限り丁寧にコメントを書き込んできたが、新聞の存在がますます遠くなるようで空しい無力感に襲われていた。

 若者たちの間で、どうして新聞など活字メディアの存在が薄くなってしまったのだろう。無論、熱心に新聞を読み続ける若者はいる。そのような学生は、ひいき目でなくても社会の動きに敏感で問題意識も鋭い。しかし、就職活動が近付き、必要に迫られて急きょ新聞を読み始める学生が何と多いことか。読まないより読む方がましなことは当然だが、新聞が日常生活の一部であるかないかでは全く異なる。新聞を読むことは、テレビやインターネットをみることと根本的に違う。新聞を読む意味を考えてみる必要がある。

 例えば、事件や事故など大きな出来事があったとする。出来事が大きければ大きいほど、新聞は一面、二面、三面から社会面まで使って記事を載せる。内容は本記、関連、解説、特集記事など多岐にわたり、場合によっては社説欄、投書欄、科学欄や生活家庭面にまで及ぶ。この出来事の実態を知ろうとする読者はまず、本記の記事を読み、さらに事柄の背景に関心を持つ読者は関連記事や解説などにアプローチする。社説、投書、特集まで読み進むと、その時点で判明している事態がほぼつかめる。

 一連の流れをみると、新聞を読むことは読者が読みたい出来事の記事、解説など記事の内容などを選択し、考えながら記事を読んでいくことだと分かる。関心を持ったなら、同じ記事を何回でも繰り返して読める。この「考える」過程が、社会を理解するつながりになる。速報性や映像の持つ迫力はテレビの比ではなくても、新聞が警察など公権力に頼らず独自に取材する調査報道で、世のなかに隠された犯罪や問題点を暴露することもある。私は考えながらこれらの新聞記事を読むことが、社会を理解するのに最適と考えている。

 大学で指導した学生が、記事を読んだ感想をもとに書いた小論文を紹介したい。結論はありきたりでも記事で読んだ内容とうまく連動し、説得力のある文章になっている。

 

    最近気になったニュース

 人間以外の霊長類で、メスよりオスが長生きするのは、何百種もいる中でたった三種という記事を見た。これは最新の統計調査による結果で、疑いようのないデータであるが、とても驚いた。

 女性は男性よりたくましい。平均寿命を考えてみても、男性よりも女性の方が長い。夫婦で妻が先に死ぬと、夫も後を追うかのように死ぬケースはあるが、女性が後追いしたニュースは聞いたことがない。私の家では今、父が単身赴任で山口県にいる。父はお酒を飲むと寂しく感じるらしく、母や私に電話をする。普段は威厳を保っている父だが、本心は違うようだ。私たち兄弟はもう大人なので、母には「山口で一緒に暮らせばいいのに」というと、返ってくるのは「東京にいる方が楽しいし」。母強し、と感じる発言である。

 広く霊長類に目を向けてみても、メスがたくましいのは変わらないようである。オスの方が長生きするという三種類の動物の共通点を目にして、がく然とした。その特徴は、この三種類だけはメスではなく、オスが子育てをすることだった。キーポイントは、子育てだったのである。面白いデータである。

 子育てが長生きにつながるのか。その記事について、友達と話した。子育ては未経験のことで苦労する。しかし、苦労しながらも子供の成長を見届け達成感を味わうことが、子育て後の人生において自信へとつながり、たくましく生きていけるのではないか、と考えた。

 力においては、男性に負けてしまうので悔しい。しかし、精神的に強くたくましいのは女性なのである。女性は不利だと感じることもあるが、男性にない強みがある。私もこれから社会に出て、男性と一緒になって仕事をしたい。女性らしいしなやかさ、そしてたくましさを持った精神的に強い女性でありたい。

 

 *「記事」だけでも分かるが、「新聞の記事」とはっきり書いた方がいい。

*メスよりも長生きする3種類のオスの名前など、もう少し具体的に書けばよかった。文章には具体性が必要だ。

(写真:フランス・ノルマンディーのオマハ・ビーチ近くにある米軍墓地。映画「プライベート・ライアン」ですっかり有名になった。私の風景写真アルバムから)


新聞断想 23・終

2011年08月15日 | ジャーナリズム

 悔いはなかった……新聞記者

 36年間に及ぶ新聞記者生活を終えて定年から6年たった現在、水戸支局や東京・新宿のサツ回りなど駆け出し時代のことをよく考える。私の人生はこの時期、実質的に前途が決まったと言っていい。新聞記者を目指す若い人に「新聞断想」として駆け出しのころの記憶を書いてきたが、何らかの意味で参考になるならこれほどうれしいことはない。

 記者になったばかりのころ、さまざまな先輩から「新聞記者は乞食から内閣総理大臣まで取材の対象にする」と教え込まれた。「乞食」は差別用語として今は新聞では禁句なので、ホームレスとでも言い換えた方がいいだろうか。事実、私は新宿のホームレスを取材し、大分後になってからだが、国会担当記者として時の首相にインタビューしたりした。

 それだけではない。数多くの事件や出来事に臨み、普通の人では不可能なことを体験してきた。人が亡くなる悲しい事件・事故の現場では涙をこらえることができず、その理由を考えたとき、怒りや憤りを覚えた。また、政界の金権腐敗を追及したときは、少しでも日本の政治を良くしようと情熱を込めた。自分が書いた記事が反響を呼び、国会や都・県議会などで取り上げられると、さらに取材に力が入った。機会があるたびに平和の尊さを訴える記事を書き続け、戦後、日本が戦争に巻き込まれないでいることに慰めを感じてもいる。

 つらいこと、悲しいことは山ほどあった。しかし、新聞記者を誠心誠意努め、定年後の今も依頼があれば記事を書くジャーナリストとしていられることに悔いはない。悔いはないどころか、満足している。その多くの部分が、駆け出し時代の恩恵を受けていることは間違いない。

 新聞記者にありがちなことだが、私には財をなす能力などない。筆一本に全知全能を傾け、ささやかでもいい、少しでも世の中のためになればいいと考えてきただけだ。記者仲間で、なかには新聞記者としての能力に加え経営者としていかんなく能力を発揮している人がいる。でも、それはごく限られた人であって、ほとんどの場合、私と同じように、いや私以上に記事を書くことにこだわり続けている。

 「生涯一記者」という言葉がある。私も、その生き方を目指している。最後の最後まで筆(今はパソコンのキーボード)を離さず、書き続ける覚悟だ。新聞記者を目指す若者たちに、この気持ちを分かってほしい。できることなら、新聞ジャーナリズムの未来を信じ「生涯一記者」の志を引き継いでほしい。その原点は、新人記者の駆け出し時代にあることもよく心に刻んでほしい。私が知るかつての若い記者たちは、駆け出しのときに自らの適性、得意分野、興味の対象を見出し、日本の内外を問わず今やジャーナリズムの最先端で活躍している。(写真:ナイル・クルーズの終着、アスワンの川面には無数のフルーカが浮いていた。私の風景写真アルバムから)

 

 


新聞断想 22

2011年08月12日 | ジャーナリズム

 

 意識の高まりにつれ

 犯罪を報道する場合、新聞も警察も最大限に被疑者の人権に配慮している。しかし、私が新聞記者になった40数年前は、今では信じられないような紙面が家庭や会社に届けられていた。例えば1969年3月、水戸市で起きた主婦殺人事件の場合、社会面の本記を受けて私が書いた原稿をもとに制作された茨城版の紙面はこうだ。

   モギ取り…無残 水戸の主婦殺し横見出し)

     働きものだったのに

         鬼畜の犯行 怒り渦巻く(縦見出し二本で計五段)

                疑者「○×」は否認縦見出し二段)

 県版のスペースを大きく使い、最大級の取り扱いだ。おまけに取調室から連れ出され、留置場に入れられる直前の「○×」(記事は被疑者名を呼び捨て)の写真を正面から撮影した写真を三段で扱っている。被疑者の手には両手錠がはっきりと映り、被害者の主婦の顔写真も掲載している。どの新聞も、同じような内容だった。こんな紙面が現在、社会で通用するだろうか。当時は違和感がなくても、現代に通用するはずがない。

 旧刑事訴訟法の影響が残り、自白偏重の捜査の在り方が問題化し、冤罪や凶悪犯罪の無罪判決が各地で相次いだ。警察と同じ視線で逮捕された人間を犯人と決めつけ、場合によっては極悪人扱いしてきた新聞などマスコミの責任はどうなるのか。

「犯罪報道による犯罪報道」が厳しく指摘されたこともあり、新聞は犯罪報道の在り方を見直し、全面的に改めなければならなくなった。報道人の多くが、殺されたり傷付けられる被害者の人権はどうするのかと自問自答しながら、指摘を受け入れざるを得なかった。新聞人を目指す若者たちに、人権意識の高まりとともに報道の在り方も大きく変化してきたことを考えてほしい。犯罪報道は、まさに激動の時代だったと言っていい。

 順不同になるが、被疑者が映った写真はどうするのか。被疑者として逮捕された段階ではあくまで被疑者であり、裁判で有罪が確定するまでは「推定無罪」と考えられている。従って顔がはっきりと分かる連行写真など掲載できないし、手錠をかけられ腰縄をつながれた姿なども論外である。警察も随分以前から連行、現場検証の立会いなど被疑者を人前にさらすときはシートで外界をさえぎり、被疑者の頭に覆いをかぶせるなど気を遣っている。

 また、被疑者の名前も以前は犯人と決め付けるように呼び捨てにしていたが、裁判で有罪が確定もしていないのはおかしいと、今ではすべて名前の後に「容疑者」を付けている。逮捕される前に実名で報道されるのはあり得ない。以前もそうだったが、被疑者が少年の場合、逮捕されても実名はあり得ない。

 さらに水戸の主婦殺人事件の記事のなかでも使われているが、被疑者の犯罪歴、前科が紙面に載ることはない。「鬼畜の犯行」の表現も同様だ。以前、凶悪な犯罪者をすぐ「殺人鬼」と呼んだが、それもあり得ない……

 自分が書いた40数年前の殺人事件をめぐる記事を読み直し、容疑者、被疑者の人権について時代の大きな変化を感じざるを得ない。しかし、現代でもなお冤罪は後を絶たない。被疑者の人権を守るのは当然だが、われわれは殺され、傷付けられる被害者の人権、立場も忘れてはならない。(写真:ベトナム戦争で米軍が上陸し、本格的介入を始めたベトナム・ダナンの海岸。私の風景写真アルバムから)

 

 


新聞断想 21

2011年08月08日 | ジャーナリズム

 

 傾向もの」より生ニュース関連の記事を

 者に赴任して秋になると、県警本部の各部屋にも顔なじみの警官がいて、ある日、鑑識課でとりとめのない話をしていた。そのとき、ある課員が身元不明死体票を点検しており、茨城県警だけで身元が分からず、引き取り手のない遺体が計208体もあることを教えてくれた。

 肉親や知人に囲まれ幸せな生活を送ってきた私には信じられない数字で、その鑑識課員が語る身元不明遺体の状況にのめり込んでいった。例えば、1968年10月初めに東茨城郡大洗町の海岸に老人の水死体が漂着、身元が分からず同町の無縁墓地に仮埋葬された。あるいは9月末、水戸市の偕楽園下を走る常磐線の列車に飛び込み自殺した男性も身元不明で、寺の無縁墓地に仮埋葬された。ところがこの男性は自殺する前日と前々日、市内の派出所に花束を持って現れ、「交通事故で亡くなった人の霊を慰めてください」と語ったという。交通事故を起こし、ノイローゼになっていたらしく、その時に名乗った住所、氏名を調べたものの該当者はいなかった。

 私は身元不明遺体の陰に隠された「人生の影」を感じ、茨城版用に原稿を書いた。生ニュース関連ではなかったので、いつでも使える「ヒマダネ」と言ってもよかった。デスクには、この種の原稿は歓迎されるだろうとさえ思った。

 記事は、身元不明死体票を調べる県警鑑識課員の写真を2段で扱い、

 「成仏できない208体  肉親、知人の引き取り待つ」

横見出しで掲載された。

しかし、ある先輩は「役所がまとめた傾向ものよりも、もっと生ニュース関連の記事を探せよ」と厳しく指摘した。新人記者のうちは原則通り、殺し、タタキなど発生ものを中心にその被害者、容疑者関連のニュースを追うべきだとのことだった。

 後から考えると、その通りだと思う。新人記者として、事件報道の最先端を走ってほしいと先輩は願ったのだろう。でも、私はその後も「傾向もの」をよく書いた。数字の裏に、世のなかの動きが隠れている気がして仕方なかった。ただ、原稿にできるだけ生々しい実情を反映させるように工夫をした。

 年が明けたある日、水戸署のパトカーに同乗し、交通違反の取り締まりぶりを取材した。同署や県警本部の許可を得てということではなく、パトカーが出動する際、顔見知りの警官が乗っていたので「一緒に乗っていい?」と頼んで乗り込んだのだ。第一線の警官と、それほど親しくなっていた。また、規則もそれほど厳しくなかった。

 取り締まりの中心は、主にダンプカーなど大型トラックの積載量違反だった。ダンプカーを発見してはサイレンを鳴らして停車を命じ、荷台をチェックするとほぼすべての車が荷台の外側に板をはめ込み、砂利など法定の積載量をオーバーしていた。1回当たりに運ぶ量を可能な限り増やし、運搬料のかさ上げを図ろうとしているのは明らかだった。パトカーの乗員によると、1960年代の末期、茨城県内は鹿島臨海工業地帯など開発が最盛期を迎えており、鹿島、行方郡を中心に県下全域でダンプカーが激しく動いていた。ダンプカーによる交通事故も年々、増えるばかりだった。

 私は県警本部で取材し、ダンプカーによる事故の統計や事故防止のための対策などを取材した。その結果、縦4段の主見出し

    「各地で急増するダンプ事故」

を掲げ、横見出し2本

        「無謀運転や積載量違反」

            「県警、計量器増設し取り締まり強化」

が付いた大々的な「傾向もの」の記事が茨城版に掲載された。

         「開発のカゲに隠れ」

の縦2段見出しも付いていた。

 このときも先輩は、「傾向ものより生ニュースをと言ったのに」とつぶやいた。でも、私はこの記事について悔いは何もなかった。パトカーに乗って実際の取り締まり現場を取材し、鹿島臨海工業地帯造成の現実の側面を込めて原稿を書いたからだ。先輩もそのような趣旨で「傾向もの」をよく書いていた。

 統計上の数字を役所の言う通りに、あるいは頭の中で勝手に解釈するのではなく、生々しい現実を踏まえて統計を理解する――そう教えてくれた先輩に、今でも感謝している。(鹿児島県知覧の旧陸軍飛行場の跡地。戦争中、多くの特攻機が正面の開聞岳を目指して離陸し、沖縄に押し寄せた米軍の攻撃に向かった。私の風景写真アルバムから)