新聞記者になりたい人のための入門講座

新聞記者は、読者に何を伝えようとするのか。地球の危機や、庶民の喜怒哀楽かもしれません。新聞記者のABCを考えましょう。

新聞への思い 6

2012年03月21日 | ジャーナリズム

 

 3月末、新聞で初任地・水戸の偕楽園で梅祭り始まるのニュースを読んで、支局員3年生の時、書いた記事を思い出した。梅まつりの話ではない。以前、私が書いた梅まつりの原稿を、書き出しで「梅は3分、人は満開」とズバリ書き直して表現した支局デスクの思い出だ。「駆け足母さん」の語句を読んで、読者は何を連想するだろうか。

 茨城県政記者になっていた私に、5月の「母の日」を前にしたある日、そのデスク(次長)は「『母の日』の県版に、ふさわしい話題ものの記事を書いてくれるかな」と注文を付けてきた。広い意味で水戸市政も県政に含まれると考え、私は市の福祉事務所を訪ね、「母の日」に記事として取り上げるのにふさわしいお母さんを紹介してくれるように頼んだ。そこで紹介されたのが、交通事故で夫を失い、小学生以下の子供4人か5人を懸命に育てて働きながら毎日を送っているお母さんだった。

 早速、私はその家庭を訪ね、取材に入った。すぐに家庭に招き入れられ、お母さんの話を聞いていると、狭い家を幼い子供たちは走り回り、それを追いかけるお母さんは「危ないでしょっ!」と後を追う。そうかと思うと仕事から帰ってまだ間もないのに、仕事着のまま夕飯の支度に入り、合間を縫って洗濯ものを洗濯機に入れた。「母の日」といっても、カーネーションの花束をプレゼントするのに子供たちはまだまだ幼い。私は夕食を皆と一緒にご馳走になって、「新聞の記事でこのお母さんを励まそう」と支局に帰って、徹夜でそのお母さんの奮闘ぶりを微に入り細に入り原稿を書いた。

 翌日、原稿をデスクに渡すと、デスクは丹念に読んで少し考え、サラサラっと原稿の前文に「駆け足母さん」と書き込み、前文から本文へお母さんの頑張りぶりを続けた。

「母の日」の当日、朝刊の茨城版に「頑張る 駆け足母さん」と大きな見出しが躍る私のトップ記事が掲載された。どんなに詳しく丁寧に書いても、読者に伝えたいことをズバリと簡潔に分かりやすく書かなくては意味がない。読者の気持ちを奮い立て、興味を持ってもらわねばならない。私はこの記事で、そのことをいやというほど思い知らされた。他紙の女性記者から、「『駆け足母さん』の記事、とてもよかった」と褒められうれしかった。

 そのデスクは、愛称をヨシビンさんと言った。正式社員として採用されたのではなく、地方支局で臨時(赤伝票)採用された人だった。しかし、その能力が評価されて正式社員になり、社会部ではナンパの名文記者の一人になっていた。しかし、水戸支局から社会部へ帰任後、程なくして肺がんで亡くなってしまった。私の36年間に及ぶ新聞記者の文章暮らしの原点は、ヨシビンさんの教えだとかみしめている。現在の新聞記事にも、立派に通用すると固く信じている。(写真:ギリシャ・アテネのピレウス港には、多数の地中海クルーズ船が係留されていた。)

 


新聞への思い 5(下)

2012年01月19日 | ジャーナリズム

 

 ゲバ、反暴力運動の先頭に立つH君の周りには、当然のことながら多くの新聞記者が集まった。私もその一人で、「川口君はどのセクトにも属していなかった」などと説くひげ面学生の一挙手一投足を細かく取材し、記事にして本社に送った。お互い顔なじみになり、彼の主張を分かりやすく書き、社会面トップの記事になったこともあった。その関係で、私が早大担当を離れてからもその学生との交流は続いた。

 数年後、私が大阪本社に転勤していたとき、彼から朝日新聞記者として入社が決まった」と連絡があった。大阪に行く用があるとのことで、一晩、千里ニュータウンのわが家に招き、合格のお祝いをすることになった。そのとき、彼がしみじみと言った。大学4年生のときと次の年、私がいた毎日新聞を受験しようとしたが、経営難で採用中止のためチャンスがなかった。このため朝日新聞を受験し、合格したのだという。面接では本来、毎日新聞希望だったことなどを包み隠さず打ち明け、私から取材された経験なども話したという。

 そこまで聞いて私は胸がいっぱいになり、言葉が出なくなった記憶がある。私の取材や新聞記事を通してワセダの学生の一人が同業の新聞記者を目指すようになり、しかも一時は毎日新聞を希望していたとは……。それにしても、朝日新聞に合格できてよかった。その当時、毎日新聞は経営難で新社として再スタートしており、将来の展望が開けない状態だったからだ。

 新聞記者の取材と記事が、関係者や読者に大きな影響を与えることがある。36年に及ぶ記者生活を通じて他にも同じような経験はあるが、記者として、あるいは人間として身の引き締まる思いがする。

 彼とはその後も交流が続き、結婚する女性を紹介されたり、小料理屋で楽しく酒を酌み交わしたりしてきた。彼も私と同様に社会部を中心に記者生活を送り、大事件の渦中にいたこともある。最近は年賀状だけのやりとりが続いているが、支局長として地方に赴いたときには「遊びに来ませんか」と定年後の私に書いてきたこともあった。その彼も今年、定年を迎える。いったん小休止し、再び意義ある定年後ライフを送ってほしい。(終わり。写真:ポーランド・アウシュビッツ強制収容所跡の入り口に掲げられた「働けば自由になれる」の看板)


新聞への思い 5(上)

2012年01月16日 | ジャーナリズム

 2012年正月、届いた年賀状を見ていて、知人の朝日新聞記者から「私も今年、定年です」とあるのに目が止まった。私はその朝日記者との出会いを思い出し、感極まってしまった。

 それは私が茨城県水戸支局から東京本社社会部に異動し、警視庁第四方面記者クラブ(新宿警察署)常駐のサツ回り記者をしていたときだった。今からちょうど40年前(1972)のことだ。高校時代に知り合った彼女(今のかみさん)と11月7日、母校の早稲田大・大隈会館で結婚式をあげてホテルに1泊後、2泊3日の予定で信州・木曽路への新婚旅行に出かけた。同年8月に本社に転勤し、社会部の登竜門ともいえるサツ回り記者として事件・事故、街の話題などで飛び回る毎日だったので、新婚旅行の最中は「ゆっくりできる」と気楽に構えていた。

 ところが温泉に1泊後、部屋で朝のテレビニュースを見ていると、早稲田大文学部の学生が内ゲバで殺され、東大構内で発見されたというではないか(川口大三郎事件)。この学生は学内を支配するセクトから対立するセクトに所属すると誤認され、激しいリンチを受けて死亡したらしかった。このため早大は騒然とし、学生たちの間でただならない空気が流れていることを知った。早大は私の母校であり、2日前には時計台のある大隈講堂わきの大隈会館で結婚式をあげたばかりだった。しかも…この「しかも」が決定的だった。

 私は4方面担当のサツ回り記者であり、当然のことながら早大も守備範囲に入っていた。ワセダの学生が内ゲバで殺されたのなら、なおさら先頭に立って取材しなければならなかった。多くの大学で学生運動が極度に高まり、その現場を受け持つ社会部もひどく緊張していた。私は当然のように社会部に電話し、指示を仰いだ。電話に出たデスクは「いいよ。新婚旅行を続けろよ」と言った。しかし、私はいても立ってもいられなかった。女房に有無を言わさず新婚旅行を切り上げ、国鉄中央線(当時)の新宿駅に着くと女房と別れ、すぐに早大の取材現場に駆け付けた。新居に落ち着く間もなく、結婚早々から激しい取材が始まり、記者クラブや本社に止まり込むのは当たり前、帰宅できても午前様の日々が始まった。

 早大のキャンパスでは、内ゲバをなくそうとする動きが高まりつつあった。事件を引き起こしたセクトは、対立するセクトの策謀と反撃したが、取材する側の目から見ると、一般学生による内ゲバ追放運動が大きなうねりになっているのは明らかだった。そのような学生の中に、被害者とクラスメイトのリーダーがいた。小柄だがひげを生やし、仲間内ではひげの○×君と呼ばれていた。後に朝日新聞記者となる「ひげのH君」との出会いは、私にとって一生のものとなった。(続く。写真:ポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡には、ナチス・ドイツがユダヤ人の遺体を焼いた焼却炉が残っていた))

 


新聞への思い 4

2011年10月28日 | ジャーナリズム

  

 

会部が常に政治を監視していることは先に述べた通りだが、政治とは切っても切れない選挙、それも国政選挙に深くかかわり、選挙情勢を取材し当選、落選を判定するのも社会部、報道部や地方支局が中心である。私が東京都政担当で、衆院選、参院選、都知事選などさまざまな選挙の取材をしていた35、6年前のことだ。ある大政党本部の職員に「取材に応じるのは政治部の記者だけ。社会部記者には対応できない」と拒否されたことがある。今はそんなことはないと思うが、政党のなかに選挙は政治部の専売特許と勘違いしている職員がいて驚いた。

東京・永田町の政党本部で取材を拒否され、私はその職員に説明した。政治部は全国の取材網を通じて送られてくる選挙情勢や各政党に届く情報をもとに分析し、新聞の紙面を作るが、実際に各選挙区の立候補者に取材する政治部記者は特別なケースを除いてほとんどいない。社会部や報道部、各地方支局、通信部の記者たちがそれこそ地べたをはいずり回り、候補者の主張、支援状況、強弱などを取材するのが普通だ。特に東京、大阪など新聞社の組織として社会部のある地域は社会部が大きな責任を持ち、地方支局には社会部出身の記者も多いことを力説すると、その職員は最初のうち怪訝な表情をしていた。近くにいた上司の職員に確認すると私が説明した通りだと分かり、こちらが要求した各種選挙の資料をようやく提供してくれた。

この出来事は衆院選挙が中選挙区制で比例代表制が採用される前なので、現在とは背景が違う。しかし、国政選挙は政治部が担当し、社会部はその補助的な存在にすぎないという考えが意外に多かった。しかし、地方では社会部、政治部、支局など関係なく新聞記者と選挙の関係は政治家の間でよく知られていた。

 私が地方支局にいたとき、よく選挙の行方を尋ねられた。ある村の村長選挙の開票日、今ではとても考えられないことだが、開票所の学校体育館のなかに入り込み、束になって机の上に乗せられた票を勝手に数えて誰が当選したかを知り、学校正門前の交番に駆け込んだことがあった。近くに公衆電話がなく、交番で電話を借りて支局に「当選確実」の報を連絡するためだった。一通り仕事を終えて引き上げようとすると、私の早口が聞き取れなかったのか、交番の警察官が「結果を教えて」と言う。概略を伝えると、今度はその警官が受話器を取って「○×候補が当選しました」と本署へ連絡した。選挙管理委員会が正式に発表するはるか前のことだった。

 東京へ転勤し社会部勤務になってからも、選挙と警察の関係は続いた。投票日が迫ると、われわれは受け持ちの警察署を回り、情勢分析に役立つ情報を集めた。多摩地区の支局にいたある日、都下の警察署に行くと、普段、われわれの窓口になる次長が所用のため不在で署長に会った。いろいろ話しているうちに、こちらの情報を教えてほしいと言う。私は世論調査の結果などさまざまなデータをもとに差し支えのない範囲で説明すると、その署長は受話器を取り「○×新聞記者の情報によりますと、▼▽候補が優勢なようです」と警視庁の担当者に電話で連絡した。取材していたつもりが、逆に警察に取材されていたと気付いたときは、すでに署長は電話を終えていた。

 選挙になると、警察は必ず各候補陣営の動き、公選法違反の状況、有権者の支持などさまざまな情報を集める。それを知っているからこそ、我々は警察を回る。場合いによっては、交番、駐在所まで行く。「「政治部ではないから」と私の取材を拒否した政党の職員は、このように地を這うように、ときには政界の大物を相手に選挙を取材するのが社会部、地方支局記者の仕事とは全く理解していなかったに違いない。

 選挙になれば、新聞社は総力をあげて取材し新聞を発行する。そのなかで、社会部は政治部と並び重要な役割を果たすことを忘れてはならない。(写真:秋の陽光を浴びて、長野県・浅間山の峰が優美に見えた)

 


作文・小論文の実例  5

2011年10月14日 | ジャーナリズム

 

れまで、作文、小論文のいずれでも書くことが可能な抽象的な題の実例を紹介してきたが、就職試験の場合、小論文を書くように求められることが多い。作文は内容が題にうまく関連すれば、何を書いてもいいが、小論文では題に込められたテーマに対し、自分なりのはっきりした意見、見解を書かねばならない。新聞などマスコミ関係に限らず、多くの職種の企業、組織が時事問題、社会問題について題を出す。

多くの場合、その時点で世界やアジア、日本で大きな問題になっている事柄が焦点になる。未来に生き延びなければならない日本の企業、組織は、当然のことながら自社を志望する若者がどのような意見、見解を持っているか関心が強い。例えば円高、世界的な金融不安など経済危機の中で、どのように活路を見出していくか?

志望者は時事・社会問題に対する豊富な知識を持ち、さまざまな問題に対する説得力ある意見、見解を小論文で書かなければならない。私が大学で書くように求めた学生たちは必ずしもマスコミ志望ではなかったが、比較的充実した内容の作品を紹介したい。

 

 ジアと日本

ジアに属している。アジアの中でも、境界線が隣国と陸地で接していない島国だ。一見、領土問題はないように思えるが、そうではない。ロシアとの北方領土問題や、今、話題となっている中国との尖閣諸島問題などがある。             

二〇一○年九月七日、尖閣諸島をめぐって事件が起きた。尖閣諸島付近をパトロールしていた海上保安庁の巡視船に、中国の漁船が衝突してきたのである。現在、中国漁船の船長は処分保留のまま中国へ帰されたが、その後の措置はまだ取られていない。しばらくして、日本では漁船衝突映像の流出をめぐっても、大きな問題となっている。  

そもそも、なぜ、このような領土問題が起こったのだろうか。日本とアメリカとの条約では、尖閣諸島は日本の領土であると認められている。しかし、中国側でも、中国固有の領土として考えられており、今回の事件に発展したと考えられる。尖閣諸島付近には、油田などの貴重な資源が埋まっていることからも、中国としては手に入れたい領土である。          

中国は近年、北京オリンピックや上海万博の開催地となり、産業の面でも大きく成長している。いわゆる、日本の高度経済成長期である。貿易面でも、日本より中国が注目されるようにもなっている。日中関係は今後、どうなっていくのだろうか。    

中国が成長し世界に注目されているからといっても、尖閣諸島は日本の領土であるとはっきりと主張する必要がある。日本の対応として良くなかったことは、証拠となる衝突映像をすぐに公開しなかったことと、船長を処分保留のまま帰してしまったことである。この背景には、日中関係悪化の懸念や、中国からの圧力などが予想される。同じアジアの国として協力できる関係が望ましいが、まずは一日も早くこの問題が解決することを願っている。             

 

尖閣諸島での事件があった昨年秋に書かれた文章だが、事件の概要を正確に理解し、経済成長を続ける中国の存在に注目しているのが分かりやすい。海上保安庁撮影による中国漁船衝突の映像がすぐに公開されなかったことと、逮捕した中国人船長を処分保留のまま帰してしまったことの誤りを率直に指摘しており、筆者の明確な立場が伝わる。

身の周りから見た「アジアと日本」を書いた作品もある。

 

 

と日本

 

年、私の地元の大型スーパーでは、中国や韓国からの留学生と思われる店員が増えている。どの人も流暢に日本語を話し、日本式の接客をこなし、日本人のアルバイトより一生懸命に見えてくる。このように、アジアの各地域から来日した人々が日本の労働力となっている。もはや、外国人の助けがなくては、日本の労働現場は成り立たないのだろうか。

最近、人手不足で特に問題になっているのは医療現場である。地方の過疎の地域などで、人を必要としている。そこで、政府は東南アジアなどから研修生を呼び、看護師などを育成しようとしている。ここで、問題が挙げられる。まず、高度な技術を必要とする職場では、言葉の間違いなどからミスが起こる可能性がある。そのため、言語教育に多くの時間を費やし、本来の技術の習得までに時間がかかるのではないだろうか。また、賃金は、同じ職場で働く日本人と平等になるのだろうか。人件費の抑制を目的にして外国人を呼ぶのであれば、長く仕事を続けたいと思う人が少なくなるのではないだろうか。同じ環境で働く以上は、賃金や生活保障などの面で差があってはならない。

一方では、外国人の採用に良い面もある。日本で習得した技術を自国に持ち帰り、広めてもらう。もし、開発途上国であれば、その国に技術面で貢献できる。また、日本の方式を知ってもらうことで、日本の企業が参入する機会が増えるかもしれない。

日本の労働現場は、賃金を抑制するために、アジアなどから人材を得ようとしている面がある。しかし、安易に急いで行うのではなく、受け入れる環境や制度をきちんと整える必要がある。

 

人手不足に悩む医療・介護現場から日本とアジアを書き、「人件費の抑制……同じ環境で働く以上は、賃金や生活保障などの面で差があってはならない」と、自分の意見をはっきりと書いているのが分かりやすい。ただ、外国人研修生がいる医療現場の現実を、もう少し具体的に書けば説得力が出るはず。

 (写真:ベトナム・ハノイに残る撃墜された米軍機の残骸。私の風景写真アルバムから)