
19世紀に石炭の存在が確認された。石炭採掘のため周囲を埋め立て、また大正期以降には鉄筋コンクリート造の集合住宅群が建設された。海上から見たそのシルエットが、1921年当時、三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから、軍艦島の通称で呼ばれてきた。
良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年には約41万トンを出炭。最盛期を迎えた1960年には人口5,267人を数え、人口密度は東京特別区部の9倍以上に達した。これは当時としては世界一の人口密度である。炭鉱施設・住宅のほか、学校・店舗・病院・寺院・映画館・理髪店などもあり、島内において完結した都市機能を有していた。
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により漸次衰退。1965年に新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年1月15日に閉山した。
(ウィキペディア フリー百科事典より抜粋)
ニュースで聞いたことのある島名「軍艦島」
まじかに見て、元々の島はわずかに見える岩肌のところまでで、後はすべて埋め立てコンクリートで岸壁を作り、いろんな建物を建設。
木造の建物は、神社だけだったとか。吃驚してしまった。