知りたい宮島

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知りたい宮島 詳細編 1

2023年03月25日 17時59分07秒 | 世界遺産
知りたい宮島の詳細編となります。

このブログでは、写真は掲載していません。宮島に関する「写真」は多くの方々が、ありとあらゆる写真を撮られておられます。写真を掲載することにより、紙面が少なくなるので、あえて、その様にしています。ご理解ください。JR宮島口フェリーに乗り、約10分で宮島に到着。  フェリーは2本あります、JRフェリーと松大フェリーです。松大は直行で宮島に向かいますが、   JRフェリーは途中「大鳥居」の前に大きく迂回してゆきますので、約15分かかります。
厳島神社についての話の前に、もともと、海の上に浮かぶかの様な厳島神社の社殿の造形のもととなった発想は?平安時代の後期「浄土教思想」の影響も考えられるところであり、「阿弥陀如来の極楽浄土の殿堂は、極楽の蓮池の上」にそびえ立っているのである。
宇治平等院の鳳凰堂も同じ機構で「池の中の島に建つ」、そうした構想を膨らませると、海上に建つ大殿堂となる阿弥陀の宮殿が蓮池の中にあんると言うなら「厳島神社は神の住む宮殿を壮大な海の中に造営したい」と言うのが清盛の崇高な発想であったと思われる。   宮島に渡り、桟橋を過ぎてからの、案内を順を追って述べていきます   日本三景の島「宮島」、世界文化遺産の島「宮島」、特別史跡・名称に選ばれている「宮島」   また、弥山頂上付近、180haは特別天然記念物に指定されている「宮島」、日本三大奇襲戦のあった「宮島」更には明治時代から昭和の時代にかけて、明治天皇、昭和天皇、上皇・上皇后美智子様 更には今上天皇・雅子妃殿下様が参詣に寄られた島「宮島」   神の島と言われた「宮島」、その為「人が住まないでいたことから、里山二次林が発達せず、この島特有の植物が育成」している    1500種もの植物が植生し植物の正倉院とも言われている「宮島」、これらの事は「植物学者」からも驚嘆の目で見られている島、「宮島」   モミ・ツガ・カヤ・ミミズバイがセットになって育成している所は世界中どこにもありません   絶滅危惧種の「ミヤジマトンボ」の生息地がラムサール条約に登録された(参考)、   (現在日本には53箇所あり、40番目に宮島が登録されている。)   海岸から海まで天然の砂浜がある場所も日本では大変珍しい島です、映画のロケにも使用されました。   宮島は降雨量は、年間約1674ミリあり 平均気温は15度前後の気候である   宮島は「奥」が深い島です、このブログを読み、皆さんの宮島についての知識に、新たに追加して頂ければ幸いです   安芸の宮島「厳島神社」は、推古天皇即位元年(593年)初申日に地元有力者・佐伯鞍職(さえきくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て三笠の浜に社殿を創建したのが最初と言われています。   諸説ありますが、この島は「斎島」といわれており、斎を「いつき島にまつれる神」という意味から、   原始宗教の名残で島全体が「神の島」として崇められていましたので、陸地に社を創るのは恐れ多いと言う事で海中に社殿を建立しました。   創りは「神殿造」で屋根は「桧皮葺」となっています。御祭神は天照大神の娘である宗像三女人の、  「市杵島姫命」「田心姫命」「湍津姫命」で相殿神は「国常立尊」「素戔鳴尊」「天照皇太神」、その他30数柱の神が祀られています。  「伊都岐島大明神」「厳島神社」等呼称され、現在に至っています。   伊勢平氏の流れをくむ「平清盛」はここ「厳島神社」を氏神にしました、   というのも平氏には正式には「氏神」がありませんでした、平野神社が氏神ともいわれていましたが、   この神社は桓武天皇との関係から「平氏の氏神」としての性格が濃かったのですが、   源氏・高階氏(たかしな)・大江氏の氏神でもあったのでした。       ** 平野神社 八氏(はちし)の祖神(八姓 はちしょう、とも言う) 1秋篠氏 2大江氏 3清原氏 4源氏 5菅氏 6高階氏(たかしな) 7中原 8平氏   清盛が久安2年(1146年清盛29歳)の安芸の守に任官され、その後平氏の氏神として尊崇し平家一門の権力が増大するにつれて、この社を尊崇する度合いも増し仁安3年(1168年清盛51歳)社殿を現在のような姿に造営しました。   安芸守(あきのかみ)・・・瀬戸内海は西国や九州・大陸からの産品が京へ入る最大の通商路で海上交通の要衝である                                               安芸守を支配する事で清盛は莫大な利益を得ることになる。是により平家一門の経済的地盤は強化された。   日宋貿易を推進したのもこの安芸国で国守の経験から得た物である。後の1156年保元の乱が起こる(この時は播磨守)   「この時には清盛は播磨守に任官」、経盛(1156年)9月17日 頼盛(1158年)と続けて安芸守に任官される   保元3年、清盛が播磨守になった事で、頼盛は清盛の知行国・安芸の国を受領する   国司(国守)・・・大国(13カ国)「播磨の守」 上国(35カ国)「安芸守」 中国(11カ国) 下国(9カ国)。地方行政単位である   国の行政官として中央から派遣された官吏、四等官である守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)等を指す   当時都からは、後白河上皇・建春門院・中宮徳子・高倉上皇・建礼門院をはじめとする貴族や皇族が訪れたので、都の文化や建築が宮島に入ってきました。   現在も厳島神社に伝承されている「舞楽」は清盛によって、約820年前に大坂の四天王寺から移されたものです。   社殿は自然災害により何度か建て替えられていますが、   清盛が造営した当時の姿を今に伝えています。(日本に寝殿造といわれる建物はこの厳島神社だけとなっています)   当時は内宮に37宇、鳥居4基。外宮には19宇、鳥居1基、内宮・外宮あわせて56宇と5基の鳥居がありました。   神の島と崇められていた為人は住んでおらず、社家・供僧は対岸の外宮から毎日通っていました(外宮は対岸の地御前にありました)。   内侍(他の神社では巫女という)のみは、内侍の館が築かれ住んでいたようです。   内侍については後段で詳しく説明を致します。   全部で56宇と5基の建造物があると言う壮大な建築物は、当時の藤原氏の春日大社に比較しても、   容積でいえば約10倍というから、いかに大きなものか(しかも海の中に建っている)驚きます。   なお仏教建築が混じっているのは、平安時代以降の神仏習合の影響であった、
明治時代以降の神仏分離以降では徹底的に仏教建築が取り壊されており、日光東照宮・厳島神社が往時の仏教建築を多く残す神社の双璧となっています。

神社本殿、幣殿・拝殿等17棟、大鳥居・五重塔・多宝塔・千畳閣からなる建造物群は6棟が国宝、11棟が国の重要文化財に指定されています。
(20棟は明治時代に取り壊しになっています)。
具体的に言うと、東回廊47間・西回廊61間(合計108間)・
本社本殿・幣殿・拝殿・祓殿、客神社本殿・幣殿・ 拝殿・祓殿、朝座屋、高舞台、平舞台、左右門客神社、左右楽房、火焼前、大国神社、天神社、能舞台、
能楽屋、反橋、長橋、揚水橋左右内侍橋などの建造物からなっています。
寝殿造りの場合「客神社」が釣殿(涼をとる場所)にあたるといわれています
入り口左側で「昇殿券」を購入して入ると、右側に「寛文2年(1689年)と記した手水鉢」がありここでお清めを行い、いよいよ東回廊の入り口に入ります、
入り口上部の屋根を見ると、簡素な切妻の屋根となっています。
普通は入り口は立派な構えになっているのですが、これは出口の西の回廊の屋根を見ると解ります、ここの屋根は「唐派風」の立派な構えとなっています。
昔はどうやら西の回廊が入り口といわれていた為、と言われています。
国宝回廊幅は4メートル、長さは262メートルあり、回廊の柱と柱の間を「一間(ま)」と呼んでおり、入り口から出口までは108間あります
(一説には107間とも言いますが、これは内側と外側の違いと言われています)。一間の間には「国宝の回廊板」が8枚敷いてあります、
また一間の長さは2,4メートルで昔の尺貫法では8尺になります。八は末広がりとも言われ「縁起の良い数字」と言われている為と思われます。
ここで「国宝の回廊」を土足で歩いても良いのと思われるかも知れませんが、
よく見ると「国法の回廊」の上に別の板が敷いてあります(養生板といいます)ので土足でも良いのです。
高欄(手すり)から外側に見えるのが、「国宝の回廊」です。昭和47年までは土足厳禁で、靴を脱いで入いるか又は、
入り口で「わらじ」に履き替えて入っていました。この時は職員の方達が出口から「わらじ」を入り口まで運ぶのが大変だったようです。

治承4年(1180年)までは、神様が弥山に滞在されるとされ、旧暦の11月から2月までの4か月間は登山禁止でもあった。
島は今から約6000年くらい前に対岸と分離して出来ました(大野瀬戸海峡は浸食によってできました)、また全島花崗岩で出来ております。
対岸の山々を見るとわかると思いますが、弥山(535m)とほぼ同じ高さの山々が連なっていいます。
中国地方は(兵庫県~山口県にかけて)は花崗岩の台地です。中国地方と四国の間には「中央構造線」が走っており、地質は全く異なっています。
四国から紀伊半島にかけては同じ構造体になっています。大阪 京都当りまでも一部は中国山地と同じ構造体になっています
瀬戸内海をよく見ると「灘」と呼ばれる数か所がありますが、これは昔地殻変動によって出来たものです、地図をよく見ると、広島湾の所だけ大きく北側に窪んでいますが
太田川からの流水による浸食により出来たものです、これだけ大きく浸食をしているところはあまりありません
その為、上流から「牡蛎」の餌になる植物プランクトン、窒素、リン、シリカ等が多く流れ込み、日本で一番の牡蛎の産地となっています。

参考 1
厳島が歴史書に記されるのは、「日本後期」(840年成立)弘仁2年(811)年の項に「安芸国佐伯郡速谷神、伊都岐島神」
とあるのが最初で、佐伯郡内に速谷・伊都岐島の神社があり、この伊都岐島神社が現在の厳島神社とされている。
更に「伊都岐島中子天神」「伊都岐島宗像小専神」(三代実録)との記述があり、800年代後半にそれぞれ鎮座地は不明
であるが、厳島神社周辺及び海岸部にはいくつかの神社が存在し、島が伊都岐島と呼ばれていた。
そして、厳島神社は「延喜式」(927年成立)に速谷神社(現在の速谷神社)・安芸群多家神社(現在の多家神社)とともに
「名神大」と位置づけられ、安芸群を代表する神社のひとつとなり、天慶(てんぎょう)3年(940)年藤原純友(すみとも)
の乱には追捕祈願が行われるなど、神の鎮座する島として他地域には見られない特異な歴史をたどることとなった。
参考 2
現在(平成30年10月1日)、廿日市市の人口は117、320人、世帯数52、241世帯
その内、宮島町は1.591名 849世帯
1995年(23年前)当時2.518人に比べ、927人減少(36.8%減)
昭和22年(1947年)当時は人口最も多くて5.197人で、平成17年に廿日市市に合併当初は1.944人であった。
宮島町は平成17年の大合併により廿日市市に編入合併、人気の観光地(宮島)を抱え込んだ事で廿日市市は
一躍観光都市となったが、来島者は増えても宿泊客は少なく、宮島の「経済効果」は今一つだ。
重要伝統的建造物保存地区(重伝建)の対称、約600件の内、2割強の130件が空き家となっている為
町並み保存に支障が出る可能性があるのが現状である。
鹿について
*人が鹿に餌を与えると、鹿は動かずして餌にありつける為、動かなくなり、ひいては健康に良くないと言う結果になります。
島内において、鹿の食べれる植物は少なく、食べれない植物が残っています。
① 有毒植物としては、アセビ シキビ
② 物理的な障害(トゲ等)で食べれない植物は、ホウロクイチゴ、コシダ、ウラジロ、カンコの木
③ その他(におい等)で食べらない植物は、ハスノハカズラ、レモンエゴマ、シバ 等々  がある。

重複するかもしれませんが、鹿について少し述べておきます
鹿の胃袋は4つあります。1~3の胃袋は微生物が住んでいます。4番目の胃袋は胃液が出てくるようになっています。
鹿は一日に約3~6キロの草(植物)を食べます。糞は1回で約100箇位出し、1日に12回廃糞します。
鹿は約1000種の植物を食べます。したがって、東北地方では寒い為、鹿の食害が少ないです。
鹿の角
4月から初夏に生え出し秋に完成し、翌年3月頃に抜け落ちます。
1歳・・・・1本の棒の様な角
2歳・・・・少し枝分かれする
4歳・・・・3本か4本の枝分かれした、立派な、角が這える。
鹿の寿命
オス・・・・4~6歳
メス・・・・6~8歳、が平均寿命です。
鹿の妊娠
餌が豊富な場合、1歳で妊娠します。1歳の秋には妊娠出来る様になります。

参考 3
鹿について
昔から「宮島」には 野生の鹿が多く住み着いています、現在全島で約500頭前後で推移(毎年11月にはボランテイアが数を確認)
お土産店辺りには、鹿が多く見ることが出来ますが、平成8年世界文化遺産に認定されたのを継起に「鹿の餌」が販売禁止となりました。
神鹿(しんろく)宮島の鹿は大昔から宮島に住みついており、神の使いで神鹿(しんろく)と呼ばれてきましたが、
山口大学の先生によると、鹿のDNAを調べたら、山口の鹿と同じであった。という事から宮島の鹿は遠く昔に山口から来た
鹿とわかりました。鹿については、人から鹿へ、鹿から人へ病気や寄生性の「動物やマダニ」などを媒介者とした、
ウイルス性の病気あり注意が必要(現実に山口県では何人かが死亡している、特に赤ちやんや幼児は注意が必要)
鹿の耳辺りは特に「マダニ等」の寄生虫がいるので、要注意であります。可愛いからといって、むやみに触らないほうが良い
かと思います
*人が鹿に餌を与えると、鹿は動かずして餌にありつける為、動かなくなり、ひいては健康に良くないと言う結果になります。
島内において、鹿の食べれる植物は少なく、食べれない植物が残っています。

① 有毒植物としては、アセビ シキビ
② 物理的な障害(トゲ等)で食べれない植物は、ホウロクイチゴ、コシダ、ウラジロ、カンコの木
③ その他(におい等)で食べらない植物は、ハスノハカズラ、レモンエゴマ、シバ 等々  がある。

植物について
広島県で見られる1/3強(732種)が宮島で確認されている。(県下では約2200種)

対岸の山並みを見ると、宮島の弥山の高さとほぼ同じ高さの山々が連なっています、昔は対岸と宮島は陸続きでした。(約6千年前)
浸食により出来た海峡です、大野瀬戸は対岸まで焼く1,8キロしかありません、海の深さもわずか7mです。
一番狭い所で対岸まで約500m、大潮の時は300m位しかありません。雄鹿は時々対岸まで泳ぎ着きます。
(島の反対側の呉、江田島方面の海の深さは80m前後あり、獅子岩展望台からは、海上自衛隊の船舶の航行を見ることができます)
宮島は神の宿る島、「伊都岐島(いつきしま)」と呼ばれており、昔しは人が住む事は出来ない島、「厳島」でした。
平成17年11月には、全国規模で実施された「広域合併」により、新生廿日市市(はつかいち)と
して、生まれ変わりました。それまでは佐伯群郡宮島町と呼んでいました。
この時の町の木は「紅葉」で、花は「馬酔木(あせび)」と言い、小さな袋状の花を咲かせます。
開花時期は2月下旬から4月の上旬です。珍しい「ピンク色」の花を五重塔の横で見ることが出来ます。
しかし[アセボドキシン」と云う猛毒を含むため、鹿は食べません
ツツジ科の植物には「グラヤノトキシン」、などの有毒物質が含まれています。
個々の種の有毒物質含量は大きく異なります。したがって中毒量の決定は難しいのですが、ネジキの場合、
牛では体重の1%の摂取で死亡すると家畜有毒植物学には記述されています。またアセビでは、山羊の場合、体重の0.1%の摂取で中毒が起きます。
広島県では「ミヤジマ」でしか見る事の出来ない極めて稀な植物があります。
① ミミズバイ(ハイノキ科) 広島県内では極めて稀で瀬戸内海では宮島でしか見る事の出来ない.7月の20日過ぎ暑くなる頃、
白い花が咲き、花が咲いてから2年半かかって実が熟す.牧野博士によると、実の形が「ミミズの頭」に似ているから
ミミズバイと呼ぶそうです.宮島のミミズバイは分布の北限に近い貴重な存在であります。
   *  紅葉谷-博打谷にかけてありモミ・ツガ・カヤ・ミミズバイがセットになって育成している所は世界中どこを探しても無い
   * モミ ツガ冷涼を好み、常緑針葉樹  カヤ ミミズバイは熱帯系植物
② サカキカズラ(キョウチクトウ科) 葉が榊に似ている、県内では大変珍しく宮島以外では知られていない。
宮島付近が分布の北限で寒さに弱い、花はあまり美しいとは言えないが種子は見事である、
2個の果実がくっついて角のように成長し長さ6~7cmになる。3月頃にはその果実が裂けて美しい
白い花をつけた種子が飛び出す(タンポポのような種子が風に乗ってフワフワと飛ぶ)
③ カンザブロウの木(レッドデータブック) 山口にある  
宮島は分布の北限、8月下旬に白い花を咲かせる、正月過ぎに黒い実が熟す
④ トサムラサキ(クマツヅラ科)レッドデータブック  延岡 愛媛   実はやぶムラサキの1/5位の大きさ
宮島で一番美しい果実(紫の果実がびっしりと付ける)、弥山干満岩に大木あり、大変珍しい木で
広島県では宮島でしか見る事が出来ない。渓流沿いに多く咲く、弥山・干満岩に大木あり
⑤ ホウロクイチゴ(バラ科) 沖縄では野鼠が実を食べに来、それをハブが捕食する、近づかない 2
大きな葉を焙烙(ほうろく)に例えたとも、本土側や他島では極めて稀で個体数も少なく、
日本の木苺(きいちご)属の中では葉が大型である。
⑥ オオカナメモチ   沖縄 岡山(綜合グランド) 大変珍しい木 バラ科常緑小高木で南西諸島にかけて
  点在的に分布がある、徳之島のみ自然自生が確認されている。樹高は5から10m
  になり、材は印材や細工用で樹皮から昔は鳥もちを得た、
  葉は大きい(10~20cm)のでこの名がある。水族館前にあります
⑦ 大元公園のモミの原生林、標高300m以上でしか自生しない木が沿岸部に、しかも巨木となっている

昨年後半から、今年(今現在)は外国人観光客の方達の来島が大変多くなっています。昨年は外国人の観光客は約30万人でしたが、
今年はどうやらその2倍位の観光客こられる予定です、今年に入ってからは「昨年に比べ明らかに外国人観光客」が増えています。
なり東京オリンピックにむけて、外国の方々の来島を島内挙げて歓迎しています

アメリカの旅行サイトの「満足度ランキング」でトップが、ここ世界遺産の宮島です。
更に、最新の調査で、寺や神社を含む世界遺産の内、行って見たい所はどこですか?の問いかけに対しては、
第一位が「古都京都の文化財」で38%、 第二位が宮島「厳島神社」で32%となっています。
桟橋を抜けると、すぐ左手に「日本三景の松」が植樹されています、なかなか気がつかない人が多いようです、
宮島と天橋立は「黒松」 松島は「赤松」です、この三箇所に共通するのは、 松・海・牡蠣と寺・神社です。宮島・松島は「冬牡蠣」 天橋立は「夏牡蠣」です。
更に良く見ると、横に「紅葉」の木があります。この木は大変変わった木で、毎年11月20日前後にと、「赤」「黄色」「緑」の三色が同時にでてくる珍しい紅葉の木ですが、
残念な事に心無い人によって枝が折られ枯れてしまいました。水族館の前の「大元公園」に2本あり、全島で2本されています。

黒松の花の開花時期は4月25日頃、赤松は1週間後れの5月始め頃になります。
(黒松・赤松の二種は松葉の針葉が2本の二葉系、ハイマツ・キタゴヨウマツ・ヒメコマツは五本の針葉の五葉系となります)
「松」は万葉の頃から常緑の樹姿を美しいとされ、日本人の心の伝統の中に高貴の象徴とされて着ました。
宮島は当然、厳島神社。天橋立は智恩寺 松島は瑞巌寺 となっています

参考 4
「牡蠣」について
広島は牡蠣の養殖は全国の60%を占めています。
なぜ牡蠣の養殖が盛んになったのか、それには広島は牡蠣の要職に適した3つの条件があるからです。
①海水温度、 水深5メートル付近での温度は、夏で25度 冬で20度が最適でこの様な条件が揃うと牡蠣の活動元となる
       「グリコーゲン」が蓄積されていきます
②牡蠣の餌、 広島湾には太田川が注いでおり、この河川から「牡蠣の餌」である、植物プランクトン、窒素、リン、シリカなど
       が多く含む海となっている。
③海水の塩分濃度  牡蠣は濃度の薄い海水を好む(0,8%~3%位)、太田川からの河川水が広島湾に注ぐ事で海水濃度は年間2.3%
       に保たれている(通常の海水の塩分濃度は3.5%であることに比べると、その濃度の薄さがわかる。

農林水産省の漁業・養殖業 生産統計(2016年)では、
広島県のカキ・・・・10万2000トンで全国一位
都道府県別の生産量で言えば
宮城県・・・・・・・2万1417トン
岡山県・・・・・・・1万3746トン
広島県の呉のみでは・・・2万2966トン

広島県のカキ生産量が突出している事が判ると思います。

更に広場に出ます。この広場は昭和51年に海だったところを埋め立てた所となっています。
目の前に岩肌の小山が見えますが、「潜流門」といいます。このトンネルの前は「海」でした。
すぐそばには、雁木がありました。手前の「コーヒーショップ」の横は、埋め立て前は、かなり広い沼地(湿地帯)でした
トンネルを抜けた所(食堂 山一の方向)の辺りは、海岸線は3m位の小さな道でした、当然前は海でした。
広場には「平清盛」の像が立っています、平成26年3月20日に来島者の方々の寄付により出来たものです。
東の方角を臨んでいますが、これは昔の都(京都)の方角に当たります。更には来島者の方々を歓迎する意味からでもあります。姿は僧ですが、
これは清盛が50歳の時(1167年)太政大臣まで上りつめた後、出家して「浄海(じょうかい)」を名乗っていた時の姿です
静海(じょうかい)とも言います、テレビ放映等では「浄海」と言っていますが、
台座は花崗岩となっていますが(よく見るといろいろの色があります)、参考5
宮島は全島が花崗岩の島であり(前述参考)、この花崗岩の鉱物の粒が大きいので、風化するとばらばらに崩れて
石英や長石などで砂を作る、石英は透明で、長石は白色や桃色です。黒雲母は小さいので全般に白砂に見える。
参考 5
花崗岩の成分は以下のとおり
① 石英(灰色をしている)。   宮島は「水晶」の産地であった. 瀬戸内で最も多く取れた。(薄茶色)
大聖院の観音堂の前には大きな水晶(透明に近い色)が置いてある、宮島で採取したものではない
② カリ長石(ピンク色)。 花崗岩の大きな特徴、 カリウムが入っているからカリ長石
 花崗岩はマグマから出来る、地下20~30キロで出来る。温度は850°~900°あり、
 1、冷える時に割れ目(節理)が出来る。立方体でキュウビックの様な形で割れたもの
 2、日本列島全体に大きな力が加わって、ある時地下深い所で割れたのではないか
   と言う考え方
 御影石には「カリ長石」は入っていない(厳密には花崗岩と違う)
カリウムは「マントル」の中には少なく「地殻」の中に多い物質
岩は節理に沿って割れる
③ 斜長石(白色)。 ナトリウム、カルシュウムを含んだ鉱石
④ 黒雲母(黒色)。 小さいけど「鉄」を含んでいる処がある
山陰地方の花崗岩は「鉄(磁鉄鉱マグネタイト FE3O)」を多く含む、・・・・・・・たたら製鉄の発達。
同じ花崗岩でも磁鉄鉱を多く含んでいる
ハガネ(鉄と炭素の合金)で強い
花崗岩が硬い石であったら「たたら製鉄」は出来なかった。
花崗岩が風化して「磁鉄鉱(砂鉄)」が出来て、そこで集めて鉄を作る。
山陽地方の花崗岩は「鉄にチタン」が入ってくる。(チタン鉄鉱イルメナイトを含む)

     風化すると、鉱物が自分の形を崩して別の鉱物になる

ねんど鉱物になる。 斜長石は「ねんど鉱物」になりやすい
「黒雲母」「カリ長石」も風化しやすい

しかし、「石英」は風化しない。・・・・残っている
石英だけが残る、小さな砂粒になっているのは、ほとんどは「石英」
高い所は侵食される、対岸と宮島はほぼ同じ位の高さで、この間に「段差」があり
風化しやすくなる、紅葉谷も風化しやすい方向に割れ目(断層)が出来る

水が浸み込んでいって「粘土鉱物」に変っていく。

中国地方は標高500m位の台地が広がっており(チビ高原面)、花崗岩でできており、表面下100m
位は風化しているので、土石流・崩壊、がどんどん起き、災害が発生する。

宮島の花崗岩の特徴は「割れ目」があるということ
割れ目を「節理(自然の裂け目)」と言う、きれいに割れている状態。・・・野面石の表面がきれい

花崗岩のある所には「石英」があり、石英のある所には「金」があると書いたが、
水(熱水350度~500度)があって、マグマがあってであるが、少しpH(ペーハー)が変ると、
元素がそこに集まってくる。
金は石英と一緒にあることが多い。
岩脈等に、小さな割れ目があると、そこに熱水は入ってきて、石英の細かい物が集まってくる
そこに「金」が集まる。

金の採掘に関しては、どの位の量があれば採算が取れるのか、と言うと
約 5g/1トン これだけあれば、採算が取れるといわれている。
地殻の中には「金」の含有量は少なく、「核」の中には「金」を多く含んでいる
** 「核」の金からドーンと上にあがってきた(マグマ)やつ、その中に「金」が多くある
日本には、佐渡金山 が2000年くらい前には多くの金の含有量があった。世界的にも「アフリカ」にも金山あり
現在、日本には、鹿児島県の「菱刈」には、多くの金を含んだ「金鉱山」が在る
1981年、住友鉱山が発見した金鉱山で、30~43g/1トン の金を含んでいる。
* 2019年3月の時点で、242.2トンの金を産出し、今も年間6~7トンの金を産出している
オーストラリア・パースでの産出量は、3~4グラム/1トン当たり。となています
その前は串木野が金生産量は日本一でしたが、現在休山となっています

今では珍しく、めったに見ることが出来ませんが「白い狸」が多くいたと、地元のお年寄りから話を聞きました。
以前 実際に私も夕方8時ころに桟橋前広場の「日本三景碑」の近くで白い狸を見ています。
昭和30年前後には宮島にも多くの狸を見ることが出来ましたが、最近は夕方から夜半にかけて時々見るくらいです。

日本三景の碑が見えてまいります。
寛永20年(1643年)儒学者 林春斎(はやししゅんさい)によって書かれた「日本国事跡孝」
の中において、「三所の奇観」と紹介し、後に 福岡藩の儒学者、貝原益軒が元禄2年(1689年)に出した
「安芸国宮島景勝図并記事」の中で「日本三景」と云う言葉が初めて使われ、それ以降「日本三景」と呼ばれるようになる。
貝原益軒は儒学者でもあり、博物学者でもありましたが、江戸時代有数の「旅行家」でもありました。
「東路記(あずまじのき)」「己巳紀行(きしきこう)」などにまとめられています。
これらはその後の「紀行文」に大きな影響を与えた名著としても知られています。
「日本国事跡孝」・・・・・現在のルルブの様な「観光本」です、本物は「歴史民俗資料館」において
             展示してあります、大きさは縦20cm横10cm位の本です
ちなみに、新日本三景は①大沼(北海道)②三保の松原(静岡)③耶馬溪(大分)となっています。 大沼は宮島と同じ「ラムサール条約」にも登録されていますね。
現在日本には52箇所ありますが、宮島は40番目に登録されています。「みやじまとんぼ」の生息地です
2018年には東京都江戸川区の葛西海浜公園と宮城県南三陸町の志津川湾の2か所を候補地として登録申請し登録される見通しとなりました。
更にすでに登録済みの兵庫県豊岡市円山川下流域は、国の特別天然記念物「コウノトリ」の野外生息数が増えた為、区域を2倍近く広げることとなった(1094h)。
これにより現在日本のラムサール条約登録湿地帯は15万4696haになっている。
宮島のラムサール条約に登録されている湿地帯に生息している「ミヤジマトンボ」の数は330匹から420匹位です。
世界でもここ宮島と香港に一部に生息しているのみで、世界希少種になっています。
ミヤジマトンボはシオカラトンボの1/3位の大きさのトンボです。生息の湿地帯は秘密になっています。
  絶滅危惧種の「ミヤジマトンボ」が生息しており、その湿地が平成24年(2012年)の7月3日に、参考4
ラムサール条約に登録されました。(平成25年8月1日「宮島ラムサール条約連絡協議会」発足)       
 生息数は平成25年 432匹  26年327匹  の確認がある 
 *会長 広島工業大学 上嶋英機教授   副会長 村上光春(宮島パークボランテイア会長)
 *日本は1980年(昭和55年)「釧路湿原」をラムサール条約湿地
 として条約に加入、現在では52箇所、 15万4696千ヘクタールの条約湿地がある、宮島は40番目の登録
参考 6
ラムサール条約
水鳥の生息地等として国際的に重要な湿地及びそこに生息・生育する動植物の保全と
賢明な利用を促進することを目的としています
平成30年10月21日(日)~29日(月)にドバイ(アラブ首長国連邦)で開催されました
ラムサール条約第13回締約国会議にて、我が国から新規に登録する湿地の候補地
及び登録区域を拡張する湿地の候補地について。
環境省は2日、国際的に重要な湿地を保全するラムサール条約の新たな登録候補地を決定した。
 
葛西海浜公園(東京都)と志津川湾(宮城県)の2カ所で、今月中旬にも登録される見込み。
これで国内の登録湿地は52カ所となる。
同省が同日、中央環境審議会(環境相の諮問機関)の小委員会に報告した。
葛西海浜公園には多くの水鳥が越冬のため飛来。登録されれば東京都としては初めてとなる。
志津川湾は500種以上の海洋生物のえさ場や生息地として知られる。 
環境省は2日、国際的に重要な湿地を保全するラムサール条約の登録地に、
東京都江戸川区の「葛西海浜公園」(367ヘクタール)と
宮城県南三陸町の「志津川湾」(5793ヘクタール)を新たに登録すると発表した。
21日からアラブ首長国連邦のドバイで開かれる締約国会議で正式決定する。
日本の登録地は52カ所(15万4696ヘクタール)となる。

葛西海浜公園は東京湾にある干潟。高度成長期以降、生活排水で水質が悪化したが、下
水道の整備のほか、カキやアサリなどの繁殖によって水質改善が進み、
約2万羽のガン・カモ類が飛来するようになった。

しかし水質改善に取り組むNPO法人「ふるさと東京を考える実行委員会」の
関口雄三理事長(70)は「増えた水鳥が貝類を食べ、再び環境が悪化する恐れもある。
水鳥も大事だが、海の生物多様性全体を考えるべきだ」と懸念を示す。

一方、志津川湾には、海流がぶつかり合い、
寒い海のマコンブと暖かい海のアラメなどが共存する珍しい藻場がある。
東日本大震災に伴う津波で海藻が流された場所があったが、
その後生息地は回復に向かっており、登録に支障はないと判断した。
参考
福沢諭吉(大分県中津出身)、慶應義塾創設
九州耶馬渓、絶壁がそびえる「競秀峰(きょうしゅうほう)」の岸壁沿いの難所、ここを行く人馬が命を落とす事に心を痛め「禅海」
は30年かけて「青の洞門」を完成させる。
福沢諭吉はこの地が売りに出されている事を知り、心ない者に買われて絶景が損なわれる事を懸念、中津に住む義兄の名義で
約1.3ヘクタールの土地を3年かけて少しづつ購入する。後にすべて国に寄付をする。
1923年(大正12年)に国の名勝に、1950年(昭和25年)には、耶馬日田英彦山国定公園に指定される。
「禅海」が青の洞門を掘った事に着想を得た、菊池寛の小説「恩讐の彼方(おんしゅうのかなた)」はこの地を一躍有名にした。
現在の「景観保全運動」の先駆けとされる。
諭吉による、「学問の勧め」は、天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。
元々、市立学校設立に際し、当地の若者に学問の重要性を伝えようとして書いたもの。
江戸・築地の中津藩中津屋敷の長屋を借りて「蘭学」を教えたのが「慶應義塾」の始まり。

隣には
世界文化遺産碑があります。今年で登録後23年になりました。
平成8年(1996年)メキシコ メリダ市で行われた、第20回世界遺産委員会で正式に
「世界文化遺産」に登録が決まりました。同時に広島の「原爆ドーム」も登録されています。
メリダ市 メキシコ東南端の魚の尾びれの様な形をした半島で、メキシコ、ベリーズ(旧ホンジュラス)、グワテマラ
の3か国が存在する
4世紀から10世紀にかけて「マヤ文明」が栄えた土地である。


知りたい宮島  詳細編  2

2023年03月25日 17時58分51秒 | 世界遺産
世界遺産とは
「世界的に価値の高い、人類共通の自然・文化遺産を各国が協力をして保存を図る」と言うものです。
参考
世界遺産登録数の推移(1978年-2018年)
西暦年号 登録件数 西暦年号 登録件数 西暦年号 登録件数 西暦年号 登録件数 開催地
1978 12 1991 22 2004 34 2017 21 ポーランド・クラクフ
1979 45 1992 20 2005 24 2018 19 バーレーン・マナマ
1980 28 1993 33 2006 18 2019 29 アゼルバイジャン バクー
1981 27 1994 29 2007 22 2020 中國  福建省福州市
1982 24 1995 29 2008 27
1983 29 1996 37 2009 13
1984 23 1997 46 2010 21
1985 30 1998 30 2011 25
1986 31 1999 48 2012 26
1987 41 2000 61 2013 19
1988 27 2001 31 2014 26
1989 7 2002 9 2015 24
1990 17 2003 24 2016 21 トルコ・イスタンブール
小計 341 小計 419 小計 300 69 1129 現在は1121か所が世界遺産登録
以上であるが、世界遺産が合併したり、登録を抹消された世界遺産もある為、(登録数合計=世界遺産総数ではない)
世界遺産登録が始まった1978年以降の登録物件数の推移は上記である
各国が推薦した物件の世界遺産リストへの記載の可不可は毎年行われる世界遺産委員会で決まる。
近年目立つのが推薦の取り下げだ、と言うのも世界遺産委員会では各物件について「登録」「情報紹介(追加資料の提出で再審査が可能)」
「登録延期」「不登録」の4段階の判定を行うのだが、ここで「不登録」の決定を受けると再推薦が認められなくなる。
この為イコモス(国際記念物遺跡会議)やIUCN(国際保護連合)が事前調査を行って提出する評価報告書の内容が悪いと
推薦を取り下げる事が多くなっている。

宮島の世界遺産
具体的には、厳島神社社殿群、社殿の前の大鳥居までの海、神社本殿裏の弥山原始林(天然記念物指定)
で全島の約14%(面積は431,2ha)です。
2014年は「富岡製糸」が認定されました
2015年は「明治日本の産業革命遺産」が新たに認定されました。
(九州5ヶ所、佐賀・長崎・熊本・鹿児島・福岡。山口、岩手、静岡)
2016年はトルコ・イスタンブールにて行われた会議で国立西洋美術館(本館)が認定されています。
2017年はポーランド・クラクフにて沖ノ島が登録されました、
2018年は、バーレーン・マナマにて長崎・天草の潜伏キリシタン関係を申請し登録されました
2019年の世界遺産は、アゼルバイジャン・バクーで行われ、文化遺産の「大阪府の百舌鳥・古市古墳群」が決まりました。
これで国内には23か所の世界遺産があります。
自然遺産19か所 自然遺産4か所です
世界遺産は今回2001年以来、最も多い29か所が追加認定されました
文化遺産 24か所(869か所)  自然遺産 4か所(213か所) 複合遺産1か所(39か所) 全部で1121か所となります。  
第一位 はイタリア・中国55件)第三位はスペイン(48件)第四位はドイツ(46件) 日本は12位(23件)です
令和元年 5月15日 朝日新聞
今年は「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されました
ユネスコの諮問機関「イコモス」が世界遺産への登録が正式に決定
世界遺産登録候補 百舌鳥古墳群 大山古墳「仁徳天皇陵」
百舌鳥陵山古墳(みささきやま)「覆中天皇陵」
田出井山古墳「反正天皇陵」
ニンザイ天皇陵     など
古市古墳群 誉田御廟山古墳(ごんだごびょうやま)「応神天皇陵」
仲津山古墳「仲姫命陵(なかつひめのみこと)」
岡ミンザイ古墳「仲哀天皇陵(ちゅうあい)」
市野山古墳「允恭天皇陵(いんぎょう)」
軽里大塚古墳「白鳥陵」       など
中でも「仁徳天皇陵」として知られる大山古墳はおなじみだ。前方後円墳 の形をしている。
その他巨大な古墳が次々と造られた4世紀から5世紀後半には様々な大きさ形のものが49基ある。
「古墳時代にはリーダーの王玉(おおきみ)(後の天皇)や豪族が亡くなると、土を積み上げて
大きなお墓をつくった。これを今は「古墳」と呼ぶ。
前方後円墳・円墳・方墳・帆立貝形墳など大きさも形も多様な古墳群である。
大阪の百舌鳥(堺市)と古市(羽曳野市と藤井寺市)のエリアでも200基以上築かれたようだ。
「仁徳天皇陵は全長486m、堀を含めると甲子園球場が12箇も入る大きさ」

 濠(ほり)の状態については、第一濠での浸食が課題となっている。水深は最も深い所で3.7m、水量は
 25mプール約700杯分にもなる」

クフ王のピラミッドや、秦の始皇帝のお墓と並ぶ、世界的に巨大なお墓の一つである。
現在は宮内庁が今の天皇家の祖先のお墓として厳しく守っており、入る事は出来ない。
学者の発掘調査もほとんど出来ていない。「*49基中29基は宮内庁管理」、の陵墓となっている。

「百舌鳥に44基、古市に45基が残っている内保全状態の良いものを選び、それぞれ23基と26基
に合計49基になりました」
百舌鳥古墳群は5世紀で終わるが、古市が6世紀まで続きました。
「古市古墳群の誉田御廟山古墳(伝応身天皇陵)を境に、中型古墳が消え小型古墳が増える様に、
古墳群の変化は政治構造が反映される。古墳群は当時の権力や富の所在を表したものであった。」
天皇家の陵墓として立ち入りが制限される構成資産を含む異例の資産群であるが、それも
また全人類の財産とイコモスは判断したという事。
昨年(2018年)は文化財保護法が改正され、先人が残した歴史遺産を暮らしにどう生かすか
社会との共生や活用の流れは加速するばかりで、閉鎖性えお持つ「古墳群」も例外ではない。
「世界遺産」に意義は、「私たちの財産を後世の世代へ手渡す事」。
天皇陵の積極的な公開や、より踏み込んだ「学術調査」を求める声もあり、「静安と尊厳」
を重視する従来の姿勢とのバランスなど学会の見解との矛盾をどう解決するのか。
勧告は多様化する「文化遺産」の在り方を考えるきっかけにとなればよい。

緑の古墳と調和していく町並みを目指して、重点ゾーンを設定し、建物の高さを10m又は
15mに制限がしてあり、更に色彩・建物の形態や意匠(デザイン)屋外広告も制限しました。
**陵墓とは歴代(れきだい)天皇や皇后など天皇家のお墓のことで、宮内庁が管理している。
「静安(せいあん)と尊厳(そんげん)」を保つために一般の立ち入りは禁じられています。
陵墓に誰が眠っているのかは、幕末から明治時代に「日本書紀」や「延喜式(えんぎしき)」といった古い記録などをもとに決められました。
ユネスコにも「仁徳天皇陵古墳」といった名前で推薦された。ところが、考古学の研究が進んで、墳丘(ふんきゅう)の形や
埴輪(はにわ)などをもとに、いつ造られたのかをかなり絞り込めるようになったんだ。
宮内庁がお墓に葬(ほうむ)られたとする人と、古墳のできた時期との間で時間的なずれが出てきた。
陵墓の多くで「実際に葬られた人は違うのでは」という見方が学界で強くなっている。そこで
一部の研究者たちは、古墳の名前は学術的に未確定の人物名ではなく、地名などからつけた考古学での名前にするべきだと主張しているんだ。
一方で、従来の陵墓の名も広く親しまれているから、両方の名前が併記(へいき)されるようになった。
世界遺産登録後も、研究者が自由に入って調査することは認められないだろう。仮に発掘調査ができたとしても、
お墓の主をはっきりと記録した墓誌(ぼし)などがない限り、特定は難しい。

世界遺産には、景観を守る緩衝地帯(バッファーゾーン)が求められ、大阪府と堺市・羽曳野市
藤井寺市の3市は百舌鳥で517ha、古市で373haを設定している。2016年からは
建物の高さ・外観、屋外広告部物を規制している。
6月30日から始まる世界遺産委員会で正式に決まりました。これで自然遺産を含め国内では23件目となる
「ユネスコの諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)は世界遺産に登録推奨する」
会議は「アゼルバイジャン」で行われました。

構成資産の名称 陵墓 国史跡
  百舌鳥エリア 堺市 1 反正天皇陵古墳 〇
2 仁徳天皇陵古墳 〇
3 茶山古墳 〇
4 大安寺山古墳 〇
5 永山古墳 〇
6 源右衛門山古墳 〇
7 塚廻古墳 〇
8 収塚古墳 〇
9 孫太夫山古墳 〇
10 竜佐山古墳 〇
11 銅亀山古墳 〇
12 菰山塚古墳 〇
13 丸保山古墳 〇 〇
14 長塚古墳 〇
15 旗塚古墳 〇
16 銭塚古墳 〇
17 覆中天皇陵古墳 〇
18 寺山南山古墳 〇
19 七観音古墳 〇
20 いたすけ古墳 〇
21 善右ヱ門山古墳 〇
22 御廟山古墳 〇 〇
23 ニンザイ古墳 〇 〇

 古市エリア 羽曳野市 1 応神天皇量古墳 〇 〇
2 誉田丸山古墳 〇
3 二ツ塚古墳 〇
4 東馬塚古墳 〇
5 栗塚古墳 〇
6 向墓山古墳 〇
7 西馬塚古墳 〇
8 峯ヶ塚古墳 〇
9 白鳥陵古墳 〇
藤井寺市 10 津堂城山古墳 〇 〇
11 仲哀天皇陵古墳 〇
12 鉢塚古墳 〇
13 允恭天皇陵古墳 〇
14 仲姫命陵古墳 〇
15 鍋塚古墳 〇
16 助太山古墳 〇
17 中山塚古墳 〇
18 八島塚古墳 〇
19 古室山古墳 〇
20 大鳥塚古墳 〇
21 東山古墳 〇
22 はざみ山古墳 〇
23 野中古墳 〇
24 浄元寺山古墳 〇
25 青山古墳 〇
26 墓山古墳(羽曳野・ 〇
藤井寺市、両市) 〇 〇

更に2020年(オリンピックイヤー)には
①北海道・北東地の縄文遺跡群
②奄美大島・徳之島・沖縄島北部及び西表島
この2つの内、どちらかをを推薦することが決まっています(1国からの申請は1件と決まっている為)
開催地は中国、福建省福州市です(港湾都市で、琉球王国との交易指定都市でした、人口743万人)

2016年から申請は「各国1件祖申請」となっています。
また、2013年の「富士山」登録は条件付での文化遺産となります。

広場左手の小高い丘(標高は27m)は1555年10月1日にあった「厳島合戦」場です。
宮尾の城(要害山)、厳島合戦(1555)で陶晴賢軍を誘き寄せる為に、毛利元就が築いた
「囮」の城。城には約300~500名の毛利軍が立て籠もる(元就は大将として歴戦の重臣で熊谷信直(50~60の船にて入城)
(くまがいのぶなお)を差し向ける)・熊谷信直は9月26日に宮尾ノ城に入る・陶軍は21日に上陸陣を構える
陶晴賢軍2万人 毛利軍3~3.5千人とも言われ、9月30日の夜陰から、翌10月1日の早朝に掛け 
博打尾峠を越え一気に攻め1日(4-14時)で陶軍を滅ぼす(合言葉は勝つか、と言えば勝つ・勝つ、でした)堀割を設け、
西側に5郭、東側に10郭が構築されていた。「郭」とは囲いの事。この時3日分の食料(炒り米等)、棚木1本 縄1束を全員に支給
1551年大内義隆は陶に弑逆される、毛利隆元にとって義隆は岳父にあたる為、陶討つべしと元就に強く迫る
1553年毛利元就は陶を討つべく兵を挙げる(大内とは盟友関係であった)

弑逆・・・・下士が上士を強制的に自刃に追い込むこと
1555年9月21日、陶晴賢は「宮島」に入る。これは神社で「秋の法会」が執り行われていた。厳島神社の法会を保障
することは、この地域の支配者の義務でありまた、権力の正当性を示す絶対の機会であった。
参考
「元県立広島大学の秋山教授の言葉」
最近の研究で判ったことは、陶軍の人員は2万とも言われているが実際、大内氏の家臣で重鎮といわれる人は
陶軍には参加していなかった,また、毛利軍が3千名とも言われているが、瀬戸内の有力者が多数参加した為、
陶軍は多めでも1万人。また毛利軍は少なめでも5千人と言うことが判ってきた、実際の戦いでは
言われている様にな、大きな差は無かったのではないか、と言うことが解った。厳島合戦については後程詳しく述べています。参照してください。

小高い丘の麓には「石碑」があります、皆さん気がつかないで通り過ぎていかれますが、昭和天皇が皇太子の時大正15年5月27日に来島され
厳島神社を参拝また宮島の最高峰弥山に登られた記念碑となっています。
横の階段は「雁木」です、途中から湾曲になっていますが(近年造った)ここに、以前は「二位殿灯篭」が置いてありました
現在は「有の浦 海岸通り」の最後辺りに移設されています。説明がないとわからないですよね。
「雁木」とは、潮の干満にかかわらず、船を着ける事が出来る、階段状の船着場の事です。
広島の原爆ドーム前の、本川 元安川の護岸では「昔の雁木」がいまだに残っています。宮島から原爆ドーム行の船に乗るとよくわかりますよ。
又 明治天皇も来島されています.明治18年7月31日のことで、岩国から来島され、大聖院を行在所とされお泊りになられています、
翌日には対岸の外宮のある地御前神社前に舟で着かれ(今もここにお上がり場海岸として、立派なモニュメントがあります。
今上天皇、雅子妃殿下、上皇 上皇郷も来島されています。歴代の内閣総理大臣も幾多の方々が来島されている島です。    
広島に「首都」が225日間置かれた事を知っていますか。

おあがり場公園
ここに「西幸記念碑」と書いてある石碑がある。昭和6年に建立されたものであるが、明治天皇が明治18年8月1日に
西国巡礼の際の行幸先の「宮島・大聖院」からこの場所に船にて上陸した場所である。
桟橋が急遽造られた。二か所の桟橋の大きさは次のとおりです
長さ 76.5m 幅 5.4m  高さ 3.3m
長さ 21.6m 幅 3.6m  高さ 3.3m  と言う大変大きな桟橋でした
上陸後は、岩尾澤太郎邸で休まれ、その後、明治天皇は廿日市を経て広島へ向かわれる。
廿日市には岩尾氏が私財を投げ打って購入した土地に「廿日市招魂社」を建て、その敷地内には「明治天皇御用品奉置殿」があります
招魂社は、国家の為に殉職した人達の礼を祀った神社で各地に立てられました。
明治12年明治天皇の命名により、東京招魂社は「靖国神社」に又、地方の招魂社は昭和14年「護国神社」と改称しました。

この石碑の「文字」を書いたのが、最後の大名と言われた「浅野長勲(ながこと)」日本で初めての「用紙製造工場」を経営、
更には閉鎖されそうになっていた「広島藩校修道館」を再興。縮景園に「浅野学校」を開校後に、校名を「修道学校」と改め、
その後この学校は「修道中学」「修道高等学校」と言って世を支える多くの人材を輩出している。
長勲公は「外交官・元老院議官・貴族院議員」を務め、昭和12年93歳で逝去
明治27年(1894年)9月10日 広島に「大本営」が置かれる,15日 明治天皇 広島に入る
明治28年(1895年)4月  清との間に「下関条約」が締結される,4月27日  大本営は京都に移る

参考
大本営とは、戦前の日本において天皇のもとで戦争を指導する最高統師部の事
広島大本営
明治27年(1894年6月5日)設置され、9月10日に広島に移った。以後講和条約締結後
の明治28年4月27日に京都に移るまで7ヶ月以上(225日間)に渡って広島に大本営が置かれた。
明治27年9月15日、明治天皇が大本営に来る(225日間は広島に首都がおかれました)
大本営には、臨時帝国議会仮議事堂が設置。右に貴族院、左に衆議院 中央には玄関と車寄を設ける。  
更に天皇の休憩所である「御便殿(ごべんでん)現在の比治山公園内になります」もあり、広島憲兵隊本部もあった 
広島に移ったことは、軍の士気を高め戦略上の利点を得ただけでは無く、開戦に消極的だった
「明治天皇」が率先して戦争を指導する契機になると共に政府に反対する勢力や、
旧大名を戦争に協力させて挙国一致体制を作りあげ、日清戦争勝利するうえで大きな役割を果たした
この時、広島藩最後の広島城主、浅野長勲(ながこと)が広島に到着した明治天皇を広島停車場で出迎え、
又11月6日には浅野家の私邸であった泉邸(今の縮景園)に天皇を迎えている。

浅野長勲(ながこと)明治2年(1869年)藩主となるが、廃藩置県により「県知事」となる。広島修道高校 中学の前身を設立する。
広島停車場(北部大須賀町で現在の南区松原町) 多くの将兵や軍幹部、政府高官、帝国議会議員、
天皇をはじめとする貴族が鉄道で広島を訪れここで乗り降りした所
廃藩置県では旧藩主は全て東京に移住となるが、移住阻止しようとして騒動が起きた(武一騒動)    
昭和12年(1937年)96歳で死去、昭和に入って最後の大名経験者として有名であった

威海衛戦勝碑 ・・・・大鳥居の前にあります、良く見てください。山東半島の先端にある「威海衛市」 
現在の威海市(人口約240万人)、明治28年1月20日~2月12日の間に行われた、
日本海軍による清国の制海権を完全に掌握する為北洋艦隊襲撃と海軍基地の制圧を行う。


広場の前を過ぎると、小高い丘の麓に「加福食堂」が見えます、その横には階段があり(前述の通り)、この階段の上が
1555年に厳島合戦が行われた時に「毛利元就軍は陣を構えた所」で15の廓があり、
毛利軍約300名から500名がいた所です。(要害の地で宮尾の城跡と呼んでいます)
この時元就は大将として、歴戦の重臣で熊谷信直(くまがいのぶなお)を差し向ける、信直は9月26日に宮尾の城に入る、
この時陶晴賢軍は既に21日には、五重塔の横(現在の千畳閣の所)に陣を構える
陶軍は2万人 毛利軍は3千人ともいわれた、9月30日の夜陰、嵐をついて対岸の「火立岩(ほたていわ)」から兵を伴い、
島の裏側、現在の「包が浦」に上陸、博打尾峠を越えて、陶軍の背後に迫り、10月1日 早朝4時に総攻撃をかけ、
昼過ぎの2時には決戦が終わったという、日本三大奇襲戦の一つで厳島合戦が行われた場所です
この時「陶軍」は鉄砲隊がいた為(6丁あった)、元就軍は敵をけん制する為「射手」を200名乗船させていた。
元就はこの時、3日分の食料(煎り米等)と棚木1本 縄1束を全員に支給していた

この時の、合言葉が「勝」と言えば「勝・勝」と連呼した
陶晴賢は、高安ヶ原で自刃(35) 弘中隆兼・隆助 父子は2日間戦い、
駒が林(フェリーから見ると、右側の山肌(岩肌)が見える山)にて討ち死にする
(駒が林はフェリーから宮島山頂を仰ぐと一番高く見える山で裏側は焼く80mの断崖絶壁の山)
この時、陶晴賢は「何をおしみ、何をうらまん もとよりも この有様の 定まる身に」と詠んでいる

その階段の横に, 前述しましたが
「皇太子殿下行啓記念」の石碑を見ることが出来ます、
これは、既に 崩御された「昭和天皇」が皇太子殿下の時、大正15年5月27日に宮島に参詣に寄られ
弥山頂上まで登山をされた時の「記念石碑」です。
14~15年位前(2005~2006年)には、この横の石段(昔の雁木です)の所に「二位の尼灯篭」が置いてありました
、現在は場所を移動し、商店街出口付近の防潮堤の側にあります。
石段をよく見ると扇状の部分は後から造った事がよく判ると思いますが、昔の雁木と後から付け足した石段が鮮明にわかります。

弥山頂上付近には同じ様な石碑(四角い形をしている)が建立しています、どこにあるかさがして?
皆さん気が付かないで登山しておられますよ?登山道の左手にあります。
その年の12月25日、大正天皇が逝去(午前1時45分)され、2時間後には皇太子殿下から「天皇陛下」になられています。
更に言うと、明治18年7月31日には「明治天皇」が御行幸されています。
この時の「行在所」が大聖院の観音堂です。
観音堂の屋根瓦を見ると、「金色の菊の御紋章」が入っています。
また、明治27年9月15日には、明治天皇は広島大本営にこられました。
日清戦争において、広島に「大本営が設置」されたためです。
(明治27年7月~28年3月 日清戦争 広島に首都が225日間おかれる)

この時の大本営の参謀総長が、有栖川宮熾仁親王で後述の「朱の大鳥居」の「扁額」を書いた人です
参考
有栖川宮熾仁親王(有栖川宮家 第9代)
旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜(よしのぶ)の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。
貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。
明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。
明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、明治28年(1895年)に61歳で薨去。
熾仁親王は時の皇族の第一人者として明治天皇から絶大な信任を受けた。
明治15年(1882年)にはロシア帝国の旧首都モスクワで行われたアレクサンドル3世の即位式に
天皇の名代として出席し、帰路には欧州諸国とアメリカ合衆国を歴訪した。

有栖川宮(ありすがわのみや)は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。
四親王家「伏見宮(ふしみのみや)、桂宮(かつらのみや)、閑院宮(かんいんのみや)とならぶ世襲親王家の一つ。
第2代良仁(ながひと)親王は皇統を継ぎ、後西天皇(ごさいてんのう)となった。

今上天皇と美智子妃殿下も、昭和53年10月5日に来島、参詣されています。
この時は、島の裏側にある「包が浦自然公園」が都市公園に指定、その除幕式に出席の為、来島されました。

特別史跡・名称 の石碑を見ることが出来ます。
大正12年(1923年)史跡・名称天然記念物保存法により、全島が「史跡・名称」に指定
その後
昭和27年 文化財保護法により、全島が「特別史跡・及び特別名称」に指定される
現在全国に、特別史跡・名称 と名のつく場所は「36箇所」あり、その内同時に指定されているのは
宮島を含め「11箇所」となっています。
関東で有名なのが、①小石川後楽園  ②浜離宮恩賜公園 です

文化財保護法
昭和24年(1949年)1月26日早朝、奈良県斑鳩町の法隆寺・金堂が堂内より出火、金堂壁画(国重要文化財)
にあった「釈迦」「薬師」などの群像を示す大壁画4面、と各種「菩薩像」「を描いた小画の計12面の壁画
のほとんどの「色彩」を喪失する。この火災をきっかけに昭和25年(1950年)「文化財保護法」が成立した
金堂壁画は焼けても「国宝」の上をいくという意味で「至宝」と呼ぶ
文化財保護法は後に昭和29年(1954)、昭和50年(1975)、平成8年(1996)令和1年4月1日(2019)に改定が行われている

大鳥居の近くには、威海衛戦勝記念碑(いかいえ)があります、よく見て探してください。
現在の威海市(いかいし)で山東半島の北東端の港湾都市で人口248万人、当時は清国の北洋艦隊の根拠地でした。
明治28年1月20日~2月12日の間に行われた、日本海軍による清国の制海権を完全に掌握する為北洋艦隊襲撃、と海軍基地の制圧を行う。
威海衛の戦い(いかいえいのたたかい)は、日清戦争における戦闘である。その日本陸海軍共同作戦の目的は、第二期作戦「直隷決戦」にむけて
制海権を完全に掌握するため、威海衛湾に立てこもる北洋艦隊の残存艦艇撃滅と海軍基地の制圧にあった。
直隷(ちょくれい、直隷省とも)
明代から清代にかけて、黄河下流の北部地域を指した行政区画。

参考
明治30年(1897年)6月10日 古社寺保存法
昭和 4年(1929年) 国宝保存法
昭和25年(1950年) 文化財保護法
    昭和29年(1954年) 改定が行われる
    昭和50年(1975年)
    平成 8年(1996年)

表参道商店街を通ると、郵便局の隣にに大変大きな「杓子」がありました。
一般的には「しゃもじ」と言いますが、ここ宮島では「杓子(しやくし)」といいます。
残念ですが、現在は「大杓子」は展示してありません。この場所は現在「最新のおもてなしトイレ」があります。
「観光案内所・休憩所」も併設されています。
しかし杓子の新たな展示場所の休憩所(旧宮島庁舎)は完成がまだあと1年以上かかる予定です。
杓子について
誓真さん(俗名を木屋政次郎という、1741年~1800年 享年59歳)は、
伊予務司(むし)城主、村上頼冬を祖先とする。
1662年(寛文2年)、木屋家初代の木屋太郎左衛門が広島の大工町に移住した
大工町は当時大工が多く、木屋家でも代々大工を営むようになり祖父の代からは組頭を務めていた。
宮島に渡り光明院代16代住職「了単上人」の下で出家した。25歳の時、光明院の隣地の
神泉寺の敷地内の「竹林庵」を住まいにし修行に勤めた。
頼杏坪(らいきょへい)によって編纂された「芸藩通志」には以下のように記してある
「誓真といえる道心者、かつて種々の器物を作りし,木杓子尤も多し今も続けて作るものあり」
芸藩通志・・・・1825年(文政8年)に完成した安芸の国広島藩の地誌。
更には、頼杏平の「芸藩通志」には毎日200人以上の住民が薪作りの為に山野に入り込んでいた。明治19年には
山肌の森林土壌は荒廃がその極に達していた。その後明治・大正・昭和と100年に及ぶ保護育成は森林の回復に大きく寄与する

神泉寺にあった「阿弥陀仏」は、東京西巣鴨にある大正大学礼拝堂に安置されている。
また[二位の尼木造]は、本殿を出た所から右に30m位のところにある「宮島歴史民俗資料館」に安置されている。
天明の大飢饉(1782-1788)による人々の困窮は宮島も例外では無く、誓真は自ら
托鉢をして回り得た財を投じて島内に10箇所の井戸を掘る、さらには道、石段(雁木)を築いたり
と町のインフラ整備に尽力をしている。その功績は大いに評価され、1791年(寛政3年)
誓真50歳の時,広島藩から「賞銀」を与えられている。
1800年(寛政8年)、59歳で亡くなる。
参考
 宮島と対岸の地御前辺りは当時、大変困窮していたと思われ、誓眞は広島辺りまで托鉢に出かけていたようだ
 祖父の代から、大工の組頭をやっていた関係で、知人などを廻り托鉢をしていたと思われる。
 井戸掘り、雁木作り 他には、大きなお金が必要と思われるが、とても宮島近辺での托鉢では間に合わなかったのではないか。

1791年(寛政3年)4月、お役所から御触書が出された、主旨は「富くじの廃止」であるが
その中に「手仕事の産業は楊枝以外は何物も見当たらない」とあり、富くじ廃止により
島民の生活が困窮しないように手細工を宮島の産業にしていく必要がある。と言うものだ
廃止により、これらの配当金や藩からの扶持米(藩主から家臣に給与される米「俸米」)
が打ち切られ、島民は経済的な自立を迫られることとなる。
その為島民の多くは「山師」になり、手先の器用な者は杓子等木工細工の職人になる
「山師」・・・・山林の伐採や立ち木の売買を取り仕切る人

大正~昭和にかけて、杓子職人は50人以上で推移する(明治30年には70名いた)
大正15年・昭和元年(1926年)日本の人口は約6000万人(世帯数は約1500万)、この時の杓子の年間出庫数
は12、000万本。正月には家庭で新しい杓子を使う習慣があった為、12月は特に多忙であった。

明治以降の宮島杓子
寛政3年(1791年)当時は宮島のお土産と言えば「五色箸」と「色楊枝」のみで、厳島神社参拝者に
対する土産物となっていた。
安土桃山時代の天正年間(1573-1592年)から厳島神社で執り行なわれるている、御楊枝献上
の神事に準じて作られたもの。日頃から来島者が土産物として持ち帰る物が非常に少ない事を残念に
思っていた誓真は、役所からの通達もあり「杓子」を製作し、町民に模範を示した。ゆえにこの杓子を
「誓真杓子」と呼んだ
「五色箸」「色楊枝」・・・五色箸は箸に色をつけたもの、同じく色や飾りをつけた、色楊枝共々宮島土産となる
**御楊枝献上・・・現在でも厳島神社で1月4日に行われている。御楊枝とは白木の箸の事
参考
色楊枝
昔は「白色楊枝」を奉納する儀があった。
この楊枝とは「木の皮の付いた白い箸」のことで、神に奉納する「白い箸」を
「宮島の名産にするとは」、いかがなものか? と言うことで箸に「色」を付けて
五色箸」として考案し土産にした。
まだ、歯ブラシが無い時代、割り箸の様な木の先に細い割れ目を入れたもので代用していた
その「切れ目のは入った木」を「楊枝」と呼んだ様だ。
材は「ヒノキ・ケヤキ・クス」を使っている。長さ7センチ位、「赤・黄・緑・紫・藍」の五色に染めている
楊枝の頭には、厳島八景の「燈篭・桜・蛍・月・鹿・雪・船・烏」を大豆ほどの大きさに細かく削って
いる。明治30年頃まで作られていた。「歴史民俗資料館には現物が展示してあります」
現在は「くろもじの木」が最高級品の楊枝である

「島のかおり」によると、明治22年の島内の様子は、
杓子職人「飯杓子」30名 匙杓子「さじ」13名(合計43名)いた
(その他、轆轤細工職人、竹木工、陶器工、彫刻工、塗り師工、全部で80人いた)
その後「芸備日日新聞」によれば
明治30年(1897年)になると、杓子工70名余で組合を作る(70名余の職人がいた)

「島のかおり」・・・・・・・宮島の産業沿革史
「芸備日日新聞・・・・・明治21年(1888年)から昭和23年(1948年)まで刊行された。 広島の地方紙

明治37年(1904年)出版の「厳島案内記」によると
竹木細工190人、轆轤師100人、杓子削(匙さじ類を含む)60人、産物店54戸
旅人宿42戸、大工職65人、渡船業者38人、飲食店30戸、案内者20人、穀物商18戸
彫刻職18人、樵夫(しゃふ)17人。   *樵夫(しゃふ)・・・きこり、森林伐採で生計を立る人

以上の事から、明治時代、島内には60人~70人の杓子職人がいた事が分かる。
宮島での杓子の発達には「明治維新」が大きく影響している。
明治5年(1872年)、「冨くじ」が国内で全面的に廃止される。これにより配当金や「藩」
からの扶持米が打ち切られ、島民は経済的な自立を迫られた。
その多くが「山師」になり、手先の器用な者は杓子等の木工細工の職人になる。

知りたい宮島 詳細編 4

2023年03月25日 17時58分16秒 | 世界遺産
三笠の浜を過ぎると、いよいよ日本を代表する「朱の大鳥居」が見えてまいります。
鳥居の建っている場所は「玉御池(たまみがいけ)玉の御池(たまのみいけ)」と呼ばれた聖地となっており、
世界文化遺産はこの鳥居より内側と神社社殿群、神社裏手の弥山までの原始林、全部で431.2ヘクタール(全島の約14%)の部分を言います。

鳥居は昔は「有の浦大鳥居」とよばれており、現在の鳥居は、明治8年(1875年)に再建されたものです、
平安時代から8代目にあたり、木造(天然木)で種類としては両部鳥居です
高さは16.6m、棟の長さは24.2mあり、主注周りは約く9.9m、総重量は60トン、木部は丹塗り(にぬり)となっています。
平成13年4月に塗り替えが行われて現在に至っています。(丹塗りとは光明丹に酸化鉛を混合したもの)
  赤・・・塗料の鉛丹(光明丹)が防虫など木造鳥居の保存に効果的。破邪の呪力を秘めた特別の色
主柱は楠木の自然木を使用、袖柱(稚児柱とも言います)は杉の自然木を使用しています。
平安時代(1168年には建立)から数えて8代目になります。
鳥居の重量は60トンあり海の中に置いてあるだけで立っています、
各柱の下には、約60センチ前後の松の柱が30本から100本縦に埋め込まれており、
その上に更に厚さ20㎝前後の平たい置石が敷かれその上に鳥居が乗っている状態です、
(千本杭工法と言います)。また屋根の様に見える下の所を笠木・島木(鳥居の呼称名)といいますが、
ここの部分は箱状になっていて、中には石が約7トン入っています(この石を含めて総重量60トン)、
また石には経文が書かれており、更には石の数は278個あると言われています
(この数は般若心経の文字数と同じ、と言われている、実際には数はこじつけと思われます)。
笠木の部分には、太陽(金色の丸)と月(金色の月)の印があり、陰陽道の影響といわれています
(風水では北東を鬼門の方位とする為、太陽は鬼門封じの為ともいわれている)
大きな扁額が見えますが、
手前には「伊都岐島神社」と6文字で、反対側には「厳島神社」と4文字で、万葉仮名で筆書きされています。
現在の扁額は明治8年(1875年)の再建時のもので、有栖川宮熾仁親王による染筆となっています。
(有栖川宮熾仁親王は有栖川家第9代当主で、戊辰戦争・西南戦争・日清戦争における指揮官でもあった人です)

有栖川宮(ありすがわのみや)は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。
四親王家「伏見宮(ふしみのみや)、桂宮(かつらのみや)、閑院宮(かんいんのみや)とならぶ世襲親王家の一つ。
第2代良仁(ながひと)親王は皇統を継ぎ、後西天皇(ごさいてんのう)となった。
有栖川宮熾仁親王(有栖川宮家 第9代) 
江戸末期~明治時代の皇族、政治家、軍人、陸軍大将大勲位功二級
旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜(よしのぶ)の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。
貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。
明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。
明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、明治28年(1895年)に61歳で薨去。
熾仁親王は時の皇族の第一人者として明治天皇から絶大な信任を受けた。
明治15年(1882年)にはロシア帝国の旧首都モスクワで行われたアレクサンドル3世の即位式に天皇の名代として出席し、
帰路には欧州諸国とアメリカ合衆国を歴訪した。
明治27年(1894)に勃発した「日清戦争」において、親王は参謀総長として広島大本営に下る
また戊辰戦争・西南戦争・の指揮官(軍人)でもあり政治家・皇族でもあった方です)
東征大総督(戊辰戦争時の郡司令官)。総督は「総裁、有栖川宮熾仁親王、参謀には西郷隆盛 板垣退助が任命される)
明治28年(1895)に腸チフスが悪化、61歳にして病没。国葬により豊島岡墓地に埋葬された。

なお現在の扁額は大変綺麗に見えますが、平成19年4月に化粧直しが施されている為です。
元はこの扁額は、天文16年(1547年)大内義隆が、大願寺の尊海の要請により「後奈良天皇の宸筆」の額を贈ったものである。
一番最初は、表側には「小野道風」、裏は「空海」の書いた扁額が掲げてあった
鳥居が大きく変わったのは、4代目の鳥居からで、この時から、両部鳥居(四つ足鳥居)にかわり、また扁額も天皇の書かれた物にかわった。
ここからは余談です
「1代から3代までの鳥居は、明神鳥居でした、その後4代から8代(現在の鳥居)までは両部鳥居でした。
 記録によると、鳥居は今までに7回倒れており、6回は台風で1回は落雷により倒壊しています。
 1168年 仁安3年11月     ➀ 佐伯景弘解にて「鳥居4基」と記述あり   
 1286年 10月19日      ➁ 北条定時による造営により大鳥居再建 野坂文書、但し倒壊した年月は不明
 1371年 応安4年4月4日 ➂ 再建(足利義満の造営) 再建まで45年かかる
 1547年 天文16年 **➃ 造営(但し 倒壊した年月は不明)、両部鳥居になる、
 1548年     * 大内義隆、大願寺の尊海の要望により、後奈良天皇の宸筆による扁額を贈る
 1561年 10月4日   ➄ 毛利元就 隆元父子により再建寄進。この時から、千本杭工法になる
 1739年 9月5日   ➅ 再建、 この時役夫5万人かかる
 1800年 8月21日 ➆ 再建、 浅野重晟の造営
 1875年 7月17日 ➇ 再建  扁額は有栖川野宮熾仁親王の染筆を掲げる(後奈良天皇の宸翰を隣したもの)
                      
*1739年(元文3年)の再建時には、1本柱となる巨木を2本調達する事は困難となっていた。

更には倒壊から再建までかなりの長い年月を要した時期もあり、再建が間々ならない時には「竹」を立て、注連縄を張って過ごした時期も見られたようである。

なお、明治8年の再建時には主注は本殿から向って右が「宮崎県西都市住吉神社」左が「丸亀、和田浜(現在は丸亀市は観音寺市和田浜豊浜八幡神社になっいる)」
から御神木を頂いてきた楠が使用されています、なお昭和26年には根元が腐食をし「根継」が行われています。(25年から26年にかけて行われた)
この時の接ぎ木は「佐賀県佐賀市鍋島村池の上(佐賀市の北西部に位置する)」と「福岡県久留米市」から御神木が使用されました。
社殿より西側の「四国丸亀(観音寺市)・和田浜」から持ってきた楠は、大きさも長さも足りなかったので、亀居山(ききょざん、千畳閣のある所)
から調達した楠を抱き合わせて大きな鉄の輪で締めている)います、しかし明治37年西柱に落雷がありましたが、幸いにして面目を保っています。
(根継後の古い楠の主注の一部は宝物館の前に展示してあります) 現在この「鉄の輪」がかなり腐食しており、これも含めて修理を致します。

* 明治8年再建時には鳥居は「朱色」ではありませんでした。
現在の様に朱色になったのは明治44年2月まで待たなければ為りませんでした。これは明治の初めに「神仏判然令」が施工され、
「朱色」は仏教的との事により着色されませんでした。当然本殿の彩色の除去もされました。
鳥居
鳥居があると「神社」と思っているかも知れないが
鳥居もいろいろな種類があり。「両部鳥居」は密教の影響受けている鳥居です
「両部」とは密教の考え方である「金胎両部(こんたいりょうぶ)」をいい、
神仏習合の名残を表す
別名、四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居(わくざし)などがある

「金胎両部(こんたい両部)」・・・・
大日如来を智徳の面から開示した金剛界と,理から説いた胎蔵界。金胎両界。

神仏習合の時代、お寺にも「鳥居」があった時代が長くあった

明治30年(1897年)6月10日「古社寺保存法(後の国宝保存法)」の施工により、国宝となる
昭和4年(1929年)には「国宝保存法」が施工され、古社寺保存法は廃止になる
昭和25年(1949年)5月「文化財保護法」の施工により従来の国宝はすべて「重要文化財」になり、
   以後順次 特に重要なものは改めて「国宝」に指定され、現在に至っている。
昭和29年(1954年)、昭和50年(1975年)、平成8年(1996年)の三度の亘って文化財保護法の改定が行われる
参考
ハワイ ホノルル にも厳島神社と同じ「大鳥居」がある
高さ 8 m  幅 約11 m と厳島神社の大鳥居の1/3の大きさである
材は宮島大鳥居が「天然木」に対し、ホノルルの鳥居は「鉄」で出来ている
昭和34年(1955年)5月19日、ホノルル市議会が広島市との「姉妹提携」を結ぶ
また、昭和57年(1981年)には広島商工会議所とホノルル日本人商工会議所が「姉妹提携」を締結する。
さらに、平成9年(1997年)5月30日に広島県がハワイ州との間で「友好提携」を結ぶ
平成13年(2001年)、ホノルル日本人商工会議所の100周年を記念して「ジャパンタウン」をつくることになり
その事業の一環として「大鳥居」が寄贈された。
広島とハワイを結びつけたには「移民」の方たちの存在であった

毎年、春は潮が小さく、秋は潮が大きくなり「潮位」の差は約4メートルにもなり、鳥居の沖150メートル位までは歩いて行く事が出来ます。
島全体が「花崗岩」で出来ている為、砂洲は底が固く十分に歩いて渡る事ができます。
鳥居の左右に長さ50m位の杭が打ち込んであります、内側が「世界文化遺産」で外側は瀬戸内海、外では「あさり」を自由に掘ることが出来ます。
貝掘りは無料なので春になると多くの方々が貝堀に来ます。
この浜に降りる所に「常夜灯」があります、よく見ると対岸(西の松原)にも同じ「常夜灯」があります。
目の前の常夜灯は1805年(文化2年)阿波の国の藍屋講中の寄進によるもので、対岸の常夜灯は江上家の寄進した物です。
江上家は島内一の資産家で(醤油醸造を手がけていた)現在の「歴史民俗資料館」は江上家の家でした。
参考
「講」について少し触れておきます。
江戸時代中ごろから庶民の旅が盛んになった背景には「講」の発達があった。
「講」とは特定の寺社に参詣したり、霊山に登山する団体組織の事を言う。
最大の人気を誇った「講」は富士講と伊勢講だ。富士山と伊勢神宮参宮の旅の為の講である。共に100を超える講社があった
富士講などは俗に「江戸八百八講」といわれたほどである。
講の属さず旅をするのは、手形の取得からして、何かと面倒であった。江戸時代、全国の街道 脇街道 裏街道などの要衝には
必ず「関所」があった。 すべて幕府の直轄で総計76箇所、諸大名等による私設の関所は禁じられていた。通常関所を通らずに
旅をする事はまず不可能であった。
関所を通るに必要なのが「関所手形」通常、庶民は往来手形が関所手形の代わりになる。 武家等の女子は別に「女手形」を
取得しなければならなかった。手形無くて通関する事は絶対になかった。

「往来手形」・・・庶民にとっての身分証明書でもあり、檀那寺(菩提寺) や、村役人、町役人に発行してもらい、氏名 住所 
      檀那寺、旅の目的が書かれていた。旅途中の死亡のさいの依頼、行き倒れの場合民家へ泊まる際の依頼状。
      旅籠などでの宿改めの際の身分証明ともなった。
「女手形」・・・・特に武家及び禁中方、尼僧等の女子の場合。発行は特に複雑で、出身地を上り、下りに分け、更に地域別に区分し
         それぞれ発行者が指定されていた。「入り鉄砲出女」で江戸を出る女子のチェックが厳しく、女手形と1箇所でも
       違えば通してもらえなかった。
庶民の旅はそこまで煩わしくないものの、手形の取得、通関 など何かと面倒であった、だが「講」に入っていれば安心だ
手形取得のノウハウから往復の交通手段の手当て、旅行に必要な物品や心得の用達や指導、宿泊等、全ての面倒をみてもらえた
「講元」はいわば団体旅行の旅行会社の様なものであった。参詣、登山に必要な衣装や笠、杖に至るまであらゆる必需品を
手配した。更に様々な土産品、御礼や掛け軸、置物等も用意されていた、まさにいたれり尽くせりであった。
更に、江戸時代の庶民の「旅」について触れてみます。

江戸時代の庶民の旅
中世までの旅は、政治的かあるいは軍事目的・商業目的・宗教活動・情報伝達といった、いわば仕事としての旅がほとんどであった
しかし近世になると五街道をはじめ各街道が整備されて宿泊施設なども整い、寺社参詣や宗教登山を名目とする物見遊山の旅
が登場、やがて各種の「講」なども発達して、一般庶民も娯楽として旅を楽しむようになる。
(東海道は品川より大津まで53宿。 中仙道は板橋より守山まで67宿あり、基本は歩く旅となる)
*一般旅行者が泊まるのは「旅籠(はたご)」である
 旅籠とは本来、旅行の時に馬の飼料を入れる「籠」の事で、旅は自炊が原則であり、旅人は多くの場合「薪や食料」を持参していた
 また、もともと旅のほとんどは仕事であり、他のも荷物が多かった。そこで馬と共に旅行をした、馬の飼料を用意して客を待った宿
 が、即ち「旅籠屋」である。
 「幕府が慶長16年(1612年)に定めた旅籠代は、人が3文、馬6文であり。元和8年(1622年)になると、人が4文 馬8文     となる
 これは飼料の分だけ馬が高い。 これは宿で「薪」を買った時の値段で、薪を持参した時は人馬共に半額となった。
 しかし1泊2泊ならいざしらず、普通は薪まで持参しない、旅籠で薪代即ち「木賃」を払って買うことになる。だから旅籠は
 木賃宿ともいった。その内「旅籠屋」でも食事を出すようになると、「自炊専門の安宿」が木賃宿となり、やがて木賃宿は安宿の
   代名詞となった」
 旅籠代は年代と共に値上がりしていく 人  馬
慶長16年(1612年)では 3文  6文
元和8年(1622年)では   4文 8文
寛永10年(1642年)では 6文  16文
享保3年(1718年)では 主人35文 35文
           従者17文
幕末になると 700文 1貫400文 人の2倍
(食事付きとはいえ、江戸初期の100倍近くにもなる)
  元禄から享保の時代にかけて、一般庶民が旅行を楽しむようなり、旅籠屋にもランクが出来サービスによって宿賃に差がで始める
  普通の旅で1ヶ月くらい(東海道で片道13日、往復約1ヶ月かかる、川止め等あり)かかり荷物だけでも大変な量となる、そこで
  馬か荷担ぎの人足を雇うことになる。料金は宿駅ごとにそれぞれ公定料金が定められていた、山坂においては登りよりも下り道
  の方が料金が高かった(これは馬も人も足に負担がかかり辛く、転ぶ危険もあった為)
  川越人足料金も5種類あり、①常水帯 ②乳下水 ③乳上水 ④脇通水 ⑤渇水期の浅い時
  川止の時は何日か滞在を余儀なくされ、宿代がかさみ、川開きとなっても水高があり高い人足代を支払った
  草鞋(わらじ)は3~4里歩くとちびて履けなくなり、普通1日に2足は必要で、1ヶ月の旅となると何十足も履きつぶす様になる
  茶屋で休めば、茶代 餅等を食べれば餅代 などもかかる。
  関所も通常は無料だが、待たされたり、女性の場合は特にうるさく調べられたり、そこで関所役人に袖の下をつかませたり
  また寺社に詣でれば「賽銭」も必要、ついついお土産も買いたくなる。徒歩旅行といえど、お金はかかるものであった。
しかし、金持ちしか旅が出来なかったのかと言うとそうでもなく、 ほとんど路銀を持たない人も結構多く旅をしていた。「行者僧」「旅芸人」、 また貧しい農家の娘たちが着の身着のままで「霊場巡り」のたびをした例もあった、 「御蔭参(おかげまいり)」りなどの、集団伊勢参宮も、大多数が無銭の下層民衆で、飢饉などで土地を捨て、江戸をはじめ大都市を目指す棄民たちもいた。
かつての「日本」は貧しい人達に対して優しかった、何がしかの施しをしてくれる家が少なくなかった。宿場のはずれや、村々には
宿代を持たない貧しい旅人を泊めてくれる家があった。善根宿(ぜんこんやど)である
 善根宿・・・諸国行脚の修行者・遍路、困っている旅行者を無料で泊める宿。
修行僧や遍路、貧しい旅人などを無料で宿泊させる宿。宿泊させることは、自ら巡礼を行うのと同じ功徳があるとされた。
草鞋などまだ履けるものは、お地蔵さんやお堂に供えておいた、貧しい旅人が利用出来る様に、茶店で休んでも水を飲むだけ
なら「無料」であった。
御蔭参りの場合、豪商達が金品の施行を行い、厖大な無銭旅行者たちの面倒をみた。これは町の治安を守ると言う意味もあった
明和期(1764年ー1772年)の御蔭参りに際しては、大阪だけで「鴻池善右衛門ほかの豪商達が合わせて7千300貫文以上の銭を 施行したという。(これは当時の相場で米、8万4000石に相当する巨額である)
他にも、さしたる路銀を持たずに旅した者に、文人墨客がいる、彼らは貧者では無いそこそこに優雅な旅を楽しんだ。

江上家は本殿回廊を出たところ(西回廊出口)の「石橋」・水族館の前の大きな「燈篭」も寄進しています。

* いよいよ国宝「厳島神社」への入り口へと進むわけですが、
入り口の手前左に「厩舎」があり、中に木生の馬がいます。この馬を「神馬(しんめ)」と言い、
わが国では古代より神社へ生き馬を奉納する習慣がありました。

日照りの際には「祈雨の為に黒毛馬を」、長雨の時には「止雨の為に白馬」を奉納して祈ったと言う記事が「続日本後期」に記してあります。
(宮島は花崗岩で出来た島なので、土石流が多く発生その為、雨はノーサンキュウです)
絵馬について少し述べたいと思います、参考にして下さい
我国では古くから「馬」は神の乗り物として神聖視されてきた、その為神に祈願したり祭りをする時には神霊を迎える為に
「馬」を指し向けなければならなかった、ここに生馬献上の風が当然に生まれた。崇徳天皇の時代(1119年)から鹿嶋明神
に馬を献上する事になったといわれている(常陸国風土記)
一方生馬に代わって「馬形」を献上する風も生まれる、全国各地より「土馬」が出土している、この土製馬形から木製馬形
も出現し木馬献上の事はしばしば「延喜式」などに見ることが出来る。 止雨の白馬献上
この馬形発生の理由について「類聚符宣抄」には天暦2年(948)丹生川上と貴布禰の社に祈雨の黒馬献上に際して
右大臣藤原師輔が「繁餌料をつけられないなら「板立御馬」をもってこれにあてよと命じた」とあり「神道名目類聚符」には
「神馬の索奉る事、及びサル者、木にて馬を造献す」とある。つまり経済的理由から生まれたものであると思われる。
この板立馬は木製馬形を更に簡略化し馬の形を板で作ったものである。板立馬が一層簡略化され絵馬になる。
板立絵馬は板を馬の形に切り抜いて彩色しこれが立つ様に台をつけねばならなかったが絵馬は板に絵を描けばよいのである
絵馬と言う言葉が初めて文献的に現れたのは寛文9年(1012)6月25日大江匡衡が北野天神に御幣ならびに
種々の供え物を目録した中に「色紙絵馬三匹」とある。
平安時代になると 生馬献上の風習とともに一方では生き馬に代わって木製馬形の献上が一般的となり形も
大きく精巧でいろいろな装飾が行われた
鎌倉時代 この時代の絵馬に奉額の中で特殊な系列を示す「36歌仙」を描いたものが見られた
室町時代
中期以降になると画題は「馬以外の物が多くなり」形状も多種多様となりに奉納される絵馬の図柄が仏菩薩を描くようになる
徐々に大型化し、専門絵師・著名画家が筆を振るうようになり絵馬の美術的質の向上を誘発し、やがて絵馬本来の目的を
離れて美術作品としての絵馬と考えられる様になった。絵馬の歴史の中の一つの転換期を迎えた時期で「歌仙絵」の奉納
も流行る。 俵屋宗達、尾形光琳、土佐光起(みつおき)、円山応挙など、室町から桃山時代のかけての有名画家
桃山時代
大型絵馬が更に扁額形式となり豪華になり、ますます大型化する。上流社会や貿易商人によって豪華な絵馬が奉納され
有名絵師もこぞって筆を取った。寺社に絵馬堂が出来、画家達はその作品を絵馬堂に掲げて人気を得んと心掛け、
一般の人も絵馬堂に集まり絵馬の図柄を鑑賞した。
江戸時代
桃山から更に大型化する、「扁額軏範」には、「横6 間縦2 間の大型絵馬」絵馬の公開的開放的性格が一層大衆との
つながりを深め地方の田舎でも扁額形式の大きな絵馬を「産士神(うぶすながみ)」の拝殿に掛けることが流行し、江戸時代
の後期は絵馬奉納の最盛期となる、歌舞伎図のなかでも特に「四十七士討入図」が各神社に目立つようになる。
明治時代
日清・日露の戦いを経て「忠君愛国」の理念が高まっていく風潮に即応した絵馬が多くなり、寺社の霊験や神社の崇高さを
讃えた「社景図」なども奉納された。
大正・昭和
衰退に向かい絵馬の数も減る、しかし戦争中は「戦勝祈願」「武運長久」の絵馬が流行する。ところが戦後には高売繁昌の
小絵馬を参詣者に売る寺社が現れ、最近は時代の要求に応じ「交通安全」「入学祈願」などを描いた絵馬も多い。
①武者絵 ②橋弁慶図 ③弁慶釣鐘負の図
④絹本着色児持山姥図・・・縦150cm 横83cmの大型絵馬 昭和31年6月28日国の重文に指定。長沢藘雪44歳の時
の作。近松門左衛門の浄瑠璃(嫗山姥こもちやまうば)から取材した、坂田金時とその母と言う趣向で醜怪な老婆を迫力ある
筆至で描いてある。
 *坂田公時(俗に金時とも言う)は平安後期の武士で21歳の時、大江山酒てん童子を征伐、土蜘蛛退治で有名な
源頼光に見出された、源頼光 四天王の一人となった。相模国足柄山の山姥と赤竜の子と伝えられている、
その童姿は強健と武勇の象徴で五月人形に作られている。
 *長沢藘雪は寛政11年(1799)6月8日 享年46歳 大阪にて没す(廻向院過去帖)
長沢藘雪は広島に下向し大手町一丁目富士屋と中島本町一丁目三国屋に滞在したのは寛永年間である、
その滞留中に幾つかの絵を描いている。「宮島八景図画柵(重文)」もその一つでこの中の「弥山神烏図」には
「甲寅冬於厳島写、平安蘆和七朗正麗に贈ったもので、これは後に広島市矢賀町の保田伴蔵家の所有となっている。
⑤ 船絵馬
⑥ 算額(数学の問題を書いた絵馬)
日本独特のものである、寛文の頃(1660年代)から始まった習慣で数学の難問が解けたことを感謝して奉納した。
またその問題を広く世に知せる意図も含まれていたので人目を引くように工夫されていた。
◎門弟の就学奨励の為 ◎自分の学力を誇示する為 ◎他流に対する挑戦 など動機は様々であった、又門弟が
師の功績を讃えて奉納する事もあった、現在のように研究発表である学会とか雑誌などが無かった時代だけに算額奉納
は、少なからず数学の進歩に貢献し、江戸時代から開発された「和算」は西洋の数学にも引けを取らない高度な
ものであり和算合戦も行われた。
①呉入船山記念館  明治31年(1891)9月21日 吉田照登が「円扇形 三角形 方形などの複雑な面積の
出し方を和算で解き、この喜びと難問の解き方を後世に残す為」に奉納した
②倉橋町の桂浜神社の扁額 
③福山市 鞆町鞆の沼名前神社
④海田町の熊野神社
⑦36歌仙の絵馬

平安時代 藤原公任(きんとう)は柿本人麻呂・山部赤人・小野小町ら、歌道の名人36人の有名な歌を挙げて、
その人の歌各一首づつ選んでこれを「36歌仙絵」と云った。
歌仙絵の絵馬は本来絵馬としては異質では在るが広義としては絵馬として取り上げられている。

県内の歌仙絵の遺品の主なものは以下の通り
①八本松町松原 雷八幡神社 赤人・遍昭・深順・兼盛・小大君 5人の歌人を除いたものが31枚ある。江戸末期の奉納
②海田市熊野神社 文化8年(1825)に奉納されたもので36枚揃っている。奉納者は頼一門の9人の人達で、頼山陽の母
 静子は坂上是則と藤原元眞の絵馬を、山陽の長子で事庵は藤原兼輔・中納言朝忠の絵馬を奉納している。
③福山市 両社八幡宮 天和3年(1683)領主水野勝慶が奉納、社伝によると額絵は、土佐家極彩色、色紙は
 冷泉大納言卿御染筆とある
④厳島神社の 扇面形歌仙絵 寛永2年(1625)奉納されたもの、楬心筆 とある。
⑤厳島神社の歌仙絵  永正12年(1505)奉納とある、県内にある年記のはっきりしたものでは最古のもので、
古法眼元信画 歌は山崎宗鑑書とある
その他、有名なものに
兵庫県・賀茂神社に狩野元信の描いた「神馬図」京都・岩清水八幡宮に円山応挙の「群鶏図」などがある
馬図~36歌仙絵~船・生業(なりわい)・風俗・動物となり、絵馬は鑑賞画としての一面をそなえてきた。

いよいよ、国宝厳島入り口です
大きな注連柱が迎えてくれます。右側には「貝闕珠宮閑日月(ばいけつしゅきゅうかんじつげつ)」
厳島町瀬田又一郎 合 吉田百太郎 広島県尾道 寺西易堂揮書 志石園 木田秀助
左側には「璽書鴻寳鎮山川(じしょこうほうちんさんせん)」とあり、明治33年5月、広島市 本明徳兵衛

入り口の右には、棹の部分が細い2本の燈篭が立っています、よく見ないと気がつかないかと思いますが、この燈篭が「曽我兄弟の燈篭」です、
曽我兄弟の愛妾の手越しの少将と、恋人、大磯の虎(白拍子)の二人が彼らの菩提を弔う為に寄進した燈篭です。

更に階段を少し降りると、左右に大きな石灯篭があります、上には「カラスのブロンズ像」があるのですぐわかります。
この石灯篭は広島の、濱田治兵衛という方の寄進で、99歳にもなって元気で御島巡りできるのも、
厳島神社のご祭神のおかげである、と言い寄進したそうです。
ここ宮島では「烏」は神様の使いとして崇められており「神烏(おがらす)」という、「御烏喰式」では烏が主役となります。
ちなみに烏の種類は「はしぼそ烏です」
「鷺の遊ぶ處や い都起しま ほかけて華表 潜る諸船」  九十九暦 雨村  御島廻 廣島 濱田治兵衛
明治三十四年三月   第一月一日建立
5月15日の「お島巡り」では島の裏側にある「養父崎神社(やぶさきじんじゃ)」の前で催しされる「御烏喰式」が行われます、
海上で粢折敷(しとぎおしき)に粢団子(しとぎだんご)を載せ、舟に乗った神官達が雅楽「新楽乱声(しんがくらんじょう)」を奏でると、
弥山頂上から烏が舞い降りてきて「粢団子」を啄む、するとこの御島巡りの参加者には幸運が授かると言われている。
参拝者は全員厳格な斎戒(さいかい・・・清めの事)、をしなければ参加出来ない。

『四鳥の別れ』・・・親子の烏の別れ8世代交代のついてのいわれを記しておきます。
厳島の弥山に住んでいる一双の神鴉は、。雌雄一つがいの子を儲けます。親鴉は、夏にかけて小鴉を養育し、
養父崎の御社まで小鴉をいざない出て、御烏喰を上げる事を学ばせる。
こうして相續(そうぞく)の神鴉が無事育つと旧暦9月28日(現在は10月第四日曜)の大頭神社氏神祭の日、
親子四羽で御烏喰式を行った後、親鴉二羽は紀州熊野へ帰って行き、その翌日より、小鴉一双のみが御島廻りに出られると言われています。
この親子の神鴉の別れの事を『四鳥の別れ』と言い、昔から大野が別鴉里(べつあのさと)と呼ばれているのはその由来によるものです。
大頭神社は、大正2年に妹背の滝のほとりに社殿を遷座してきました。
これに伴い『四鳥の別れ』の神事も伝説化してしまい、現在は、日々、神社の傍らの石に烏喰飯を供えるだけですが、
明治生まれの中の人には、実際に『四鳥の別れ』の神事に列席された方もあり、
「神事の後、親鴉が飛び去りかけては、子鴉を思い、幾度も幾度も舞い戻ってくる別れの様に感涙した。」などの話をされていました。
西角井正慶(にしつのいまさよし)編『年中行事事典』、「四鳥の別れ」の欄にも
「親子のつきぬ別れのさまが数日見られ、ついに親鴉は熊野に飛び去るという」と書かれている
 何故、現在では不吉な鳥とも言われる「烏」の神事なのでしょうか。なぜ神鴉は、遠く熊野
の地まで帰って行くのでしょうか。烏は、鳥の中でも胆勇・知恵・敏捷さが傑出し、寿命も長く
親子、夫婦の愛情も非常に厚いとされています。「古事記」「日本書紀」では八咫烏が先導役として登場します。
烏は、良く方向を知るので、人が知らない地へ往く響導とされ、「日本書紀」には弟磯城(おとうかし)が、
頭八咫烏に木の葉の平たい皿8枚に食物を盛って食べさせた記述があります。
これはまさしく神使としての烏に食を饗するという御烏喰です。
また逆に、宍人者(ししひと、死人に食を与える役)としても登場します。私たちの祖先は今よりも遥かに動物と密接な生活をしていて、
彼らの挙動を以て、これを神と結びつけ、隠れた叡智の指導と解したのです。
また、熊野との関係ですが、八咫烏の伝承にあるようにミサキ(先導)烏として早くから認められています。
厳島では、今の御島廻りの神事の元となった伝承に、島の中に宮処を定める際、島の浦々を先導する陪従として烏が使わされます。
このように、ミサキ烏としての共通点が見出せます。そして、人々の熊野参詣や、御師(おし)・先達などによって熊野信仰が各地に
波及し、遠く紀州から瀬戸内海に進出してきた熊野水軍の信仰と厳島信仰との交渉も相まって熊野の地とつながったのではないでしょうか。
厳島より大頭神社の鎮座する大野郷の地まで一理余り(約4キロ)も海を隔てているにもかかわらず、神鴉が必ず飛来する事や、
年々の相續(そうぞく)の神秘を、人々は、「筆にあらわすもかたじかなし」「奇端まのあたりにする」「信心肝に命ず」などと表現して
いた。

雅楽「新楽乱声」は「鳥向楽(ちょうこうがく)」で嵯峨天皇の時代に舟遊びに奏する由、最も古い日本製の雅楽合奏曲。
そして10月28日には対岸、大野にある「大頭神社」において「四鳥の別れ」を行い、親は途中「速谷神社」に立ち寄り、紀州熊野に飛び立ち、
子供は弥山に住み着く。昔から、弥山山頂の「御山神社」では毎日、朝昼晩の3度 団子を烏に与えていた、
「神烏(おがらす)」はこれ以外の餌は食べないと言う。

いよいよ国宝の「御本社(本殿・幣殿・拝殿・祓殿)」です。昔は「大宮」と呼んでいました。
御祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、端津姫命(たぎつひめのみこと)
の宗像三女人で、相殿神は国常立尊 天照皇太神 素戔鳴尊、その他30数柱の神様が相殿(あいどの)されています。
明治元年以前は、厳島弁才天もお祀りされていましたが、現在は大願寺にお祀りされています。
広さは日本一大きな本殿となっており(純粋な神社の本殿としては国内に23社ありますが日本史上最大の本殿です)
幅24m、奥行き12mあります。これは島根県の出雲大社本殿の約2.3倍の大きさとなっています。
神社には皇室の伊勢神宮 藤原氏の春日大社 京都鎮守の賀茂神社等々ありますが、
春日大社と比較すると平安末期には厳島神社は社殿総量では約10倍位もの社殿がありました。いかに巨大であったかわかります。

安芸の宮島「厳島神社」は、推古天皇即位元年(593年)初申日に地元有力者・佐伯鞍職(さえきくらもと)が社殿造営の神託を受け、
勅許を得て三笠の浜に社殿を創建したのが最初と言われています。諸説ありますが、
この島は「斎島」といわれており、斎を「いつき島にまつれる神」という意味から、「伊都岐島大明神」等呼称され、
現在は「厳島神社」と呼ばれています。
原始宗教の名残で島全体が「神の島」として崇められていましたので、陸地に社を創るのは恐れ多いと言う事で海中に社殿を建立しました。
創りは神殿造」で屋根は「桧皮葺」となっています。御祭神は天照大神の娘である宗像三女人の、
「市杵島姫命」「田心姫命」「湍津姫命」で相殿神は「国常立尊」「素戔鳴尊」「天照皇太神」、その他30数柱の神が祀られています。

伊勢平氏の流れをくむ「平清盛」はここ「厳島神社」を氏神にしました、
というのも平氏には正式には「氏神」がありませんでした、平野神社が氏神ともいわれていましたが、
この神社は桓武天皇との関係から「平氏の氏神」としての性格が濃かったのですが、源氏・高階氏(たかしな)・大江氏の氏神でもあったのでした。
** 平野神社 八氏(はちし)の祖神(八姓 はちしょう、とも言う)
1秋篠氏 2大江氏 3清原氏 4源氏 5菅氏 6高階氏(たかしな) 7中原 8平氏

清盛が久安2年(1146年清盛29歳)の安芸の守に任官され、その後平氏の氏神として尊崇し平家一門の権力が増大するにつれて、こ
の社を尊崇する度合いも増し仁安3年(1168年清盛51歳)社殿を現在のような姿に造営しました。

安芸守・・・瀬戸内海は西国や九州・大陸からの産品が京へ入る最大の通商路で海上交通の要衝である
安芸守を支配する事で清盛は莫大な利益を得ることになる。是により平家一門の経済的地盤は強化された。
日宋貿易を推進したのもこの安芸国で国守の経験から得た物である。後の1156年保元の乱が起こる(この時は播磨守)
「この時には清盛は播磨守に任官」、経盛(1156年)9月17日 頼盛(1158年)と続けて安芸守に任官される
保元3年、清盛が播磨守になった事で、頼盛は清盛の知行国・安芸の国を受領する
国司(国守)・・・大国(13カ国)「播磨の守」 上国(35カ国)「安芸守」 中国(11カ国) 下国(9カ国)。
    地方行政単位である
国の行政官として中央から派遣された官吏、四等官である守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)等を指す
当時都からは、後白河上皇・建春門院・中宮徳子・高倉上皇・建礼門院をはじめとする貴族や皇族が訪れたので、
都の文化や建築が宮島に入ってきました。
現在も厳島神社に伝承されている「舞楽」は清盛によって、約820年前に大坂の四天王寺から移されたものです。
社殿は自然災害により何度か建て替えられていますが、清盛が造営した当時の姿を今に伝えています。
(日本に寝殿造といわれる建物はこの厳島神社だけとなっています)
当時は内宮に37宇、鳥居4基。外宮には19宇、鳥居1基、内宮・外宮あわせて56宇と5基の鳥居がありました。
神の島と崇められていた為人は住んでおらず、
社家・供僧は対岸の外宮から毎日通っていました(外宮は対岸の地御前にありました)。
内侍(他の神社では巫女という)のみは、内侍の館が築かれ住んでいたようです。
内侍については後段で詳しく説明を致します。

全部で56宇と5基の建造物があると言う壮大な建築物は、当時の藤原氏の春日大社に比較しても、
容積でいえば約10倍というから、いかに大きなものか(しかも海の中に建っている)驚きます。

知りたい宮島 詳細編 5

2023年03月25日 17時57分56秒 | 世界遺産
神社入り口(東の回廊)から入るとすぐ右手に見えるのが
客神社です、
この神社は鎌倉時代(1241年)の再建で、後に更に室町時代永享5年(1433年)に再建されました。
清盛の頃には「客人宮(まろうどのみや)と呼んでいました。」厳島神社本社の摂社にあたり、
摂社の中では一番大きく厳島神社の祭典では、 初めに祭典が執行される社です。
御祭神は、天照大神の子供で、五人の男の神様で①「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」、
②「天穂日命(あめのほひのみこと)」③「活津彦根命(いきつひこねのみこと)」④「天津彦根命(あまつひこねのみこと)」
⑤「熊野楠樟命(くまのくすびのみこと)」が祀られています。(いつはしらのおおかみ、と呼ぶ)
天忍穂耳命は天照大神の長子で皇族に連なる神様です
(更に長子は邇邇芸尊(ににぎのみこと)で天孫降臨して現在の天皇家の祖神につながる、この時道案内をしたのが猿田彦神です)。
天穂日命は農業の神様でもあり、更には 菅原道真の祖神になります
天津彦根の命は、日の神・雨の神・風の神・火難除神の神として崇拝されています。

左手一番奥が本殿です、よく見ると本殿の前には御簾(みす)、壁代(かべしろ)と云う布が掛けられており、
その奥に御神体を安置する「玉殿」が置かれています、

玉殿の安置されている場所は「内陣」と呼ばれ、朱塗りの階段上の4段目にあります。
ここは清盛建立以来一度も海水には浸かって要らず、3段目までは海水が来たという記録があります。
永正5年(1509年)には清盛以来最大の高潮があり、回廊上約1,5メートルに達したと記録があります、

また近年では平成3年の台風19号来襲により、回廊上80センチまで達した事は、記憶に新しいところです。この時の潮位は496cmでした。

右手が「祓殿」でここの海側を良く見ると、白い板が切れた所があります、昔はここから「参拝者」が舟を付けてお参りをしていました。
白い板は本社本殿辺りにも見ることが出来ますが、これは「波除け高欄」といい海水がかかるのを防ぐ意味から取り付けられています。
また祓殿には天井があります(珍しいですね)、種類は「折上子組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)」と言い、
天井の格式の中では一番上の天井です。

現在でも毎月1日と17日は「月次祭(つきなみさい)」と言い、神官29名が朝座屋の前に当時の姿で並び、客神社の祓殿に入る
お払いをし、その後拝殿に入り「祭り事」を行う
拝殿の左右には「籠り所(こもりしょ)」と「経座」があり経座は社僧の「読経所」であった。この経座があった場所で祭り事を行う

本社祓殿にはもっと立派な天井があります。
拝殿の上を見ると大きな「板蟇股」がありますね、目をこらしてみると「ハート型」の刳り貫きを見ることが出来ます。
これは「猪の眼」と言い、神様をお守りするものです。本殿にもあります探してみてください。
祓殿の上部を見ると「蟇股」を見ることが出来ます、本殿の祓殿にも同じものがあります、よく見てください。

この「蟇股」の特徴
① 平安時代末期のもので、特徴は左右が別々に作られている「二木造り(ふたぎつくり)」と言い
鎌倉時代からは一体作りになる。
この様な「二木造り」は宇治上神社、平泉中尊寺、醍醐寺金堂、一乗寺三重塔でしか見ることは出来ない。
② 一乗寺三重塔・醍醐寺金堂・中尊寺金堂、は時代が「1065年~」で蟇股の高さが、
厳島神社の蟇股に比較して「かなり高い」。 
宇治上神社、厳島神社の蟇股は時代が「1168年~」となり、
約100年くらい時代が下がる、更に「蟇股」の高さが低くなっている、とこの様な特徴を見て取ることが出来きます。
次は、「鏡の池」が見えてきます。厳島八景の一つで「鏡池秋月」とも云われ、
この池に写る月が秋を代表する景色の一つで、最も美しいものとされ和歌や俳句に詠まれています。
「みやしろに かくる光もくもりなき かがみの池に すめる月影」  宣阿 と詠んでいます
宣阿は陰徳太平記の著者です。陰徳太平記とは、日本の古典文学の一つで、
戦国時代の山陽・山陰を中心に室町時代13代将軍足利義輝の時代から、
慶長の役までの90年間を書いた軍記物語(1507年~1598年頃までの90年間)
「潮引いて後 くぼき処ありて 別に一小池をなすが如し 秋夜一輪の月光をすましむ」とも詠んでいます。
境内には「三つの鏡の池」があります。その内の一つです(他には、卒塔婆石の所、天神社の裏にあります)
昔からの言い伝えとして、「一夜にしてこの池が出来たのは、この造営が御神慮(ごしんりょ)に叶った為である」と
人々がたいそう喜んだと云われています。
またこの池は干満時において火災が発生した時の消火用水の役割を果たしたとも云われています。
さらによく見ると池の中から水が湧いて流れています、この水は海水ではなく「真水」が流れ出ています、不思議ですね。
廻廊の傍らには「明和7年(1770年)に寄進」された石灯籠があります。
この石灯籠は岡野権左衛門正英が建立寄進したもので、合わせて諸経費として20両を寄付している。
鏡の池の廻廊からまっすぐ五重塔の方角を見ると、石垣が見えます、
この石垣は、毛利元就・吉川元春の技術による石垣でよく見ると「布積み」になっています。
千畳閣の下の石垣は豊臣系の石垣で「乱積み」になっていましたね。
この布積みの石垣を良く見ると、なんだか変と思いませんか。道と海の底面が約3~3.5m位の段差になっていますね、
昔約6000年くらい前から、この神社のあった場所には「紅葉谷川・白糸川」が長い時間流れ込んでおり、
その為この部分は「砂洲」になっていました。平清盛はこの砂洲の部分を除去して、その跡に「厳島神社」を建立したのです。
理由は既に解っていますね、そうこの島は「神の島」と呼ばれ、島に建物を建立することなど、とんでもないことと言われて
海の中に社殿を建立したと云われています、そう理解すると解りやすいですね。
さらに廻廊を進むと正面に「朝座屋(あさざや)」が見えてきます。
この建物は「国の重要文化財」で1168年の造営記録にも名があります。 
社家・供僧・内侍 の方達が祭典の時に集合したといわれています「社家三方(しゃけさんぽう)と云う」
屋根を良く見ると、東側は「切妻屋根」西側は「入り母屋」の造りとなっており、三方に「庇の間」がある、
これは神殿造り様式の特徴のひとつである、対屋(たいのや)の要素をもった建造物です。
明治維新後 昭和42年までは厳島神社の社務所として使用していましたが、現在は結婚式の控え室に使用されています。
平安末期、島内には「内侍」が居住するのみで、
他の祭事に仕える社家・供僧は対岸の地御前神社(外宮になります)辺りに住んでいました。
(神の島であるから人は住む事が出来ず、毎日対岸の外宮より舟で通っていた)
内侍の館のみはあり、内侍はそこに住んでいたといわれている。
島に人が住むようになったのは1300年の頃からと言われています(鎌倉時代の後期ごろからか)

眼の前には廻廊に囲まれた四角い海の部分がありますが、ここを「枡形(ますがた)」と呼んでいます。
厳島神社の神様を慰める為に行われる雅な海上渡御の祭りで、王朝絵巻を繰り広げる宮島最大の神事です
当時都で盛んであった管弦を奏する遊学を宮島に移したもので、毎年旧暦の6月17日に「管弦祭」が行われます。
(管弦祭は下記参照してください。)
船先に篝火を焚いた御座舟や呉の阿賀、広島の江波から来た引き舟がこの枡形に入ってきて、三匝(さんそう)
します。三匝とは本来、右回りに三回廻る事を言います(仏教における一番格式の高いお参りの仕方)

「右遶三匝 (うにょうさんそう)
 遶仏(にようぶつ),施遶(せによう)ともいう。インドでは右手を浄,左手を不浄とする思想があり,
 比丘たちは仏に対して右遶三匝(うにようさんそう)する(右回りに3回回る)のが例法となった。
 中国では左を上位とする考えがあって戒壇を巡るときに左回りすることもあり,日本でも座禅のときに眠けを覚ます
 為の香版(警策)をもって回る役の巡香(じゆんこう)は左回りであるが,その他はすべて右回りである」
管弦祭のクライマックスが見れる所で大勢のお客様が詰め掛けるところです。
また大鳥居が写しこむ写真撮影の人気スポットになっています。
「管弦祭」は
日本三大船神事の一つでもあります。他には大坂の「天神祭り」、松江の「ホーランエンヤ」があります。
松江のホーランエンヤは10年に1度行われますが、今年2019年6月に3回の日程によって行われました。
次回は2029年になりますね!
管弦祭の行事予定は旧暦で示すと次の様になります

6月5日   「市立祭」 春(2週間)、夏(3週間)、秋(2週間)、と市が立つ
        夏、が一番盛大で臨時の露天などが出て芝居などが行われた(12日前から行われる)

6月11日  「御洲掘」  鳥居の内側の水深を深くする為、水底の土砂などを取り除くもの。
今年(2019年)は7月13日に行われました。
6月15日  「御船組」  客神社前で、呉の倉橋から挽かれてきた、和船3艘を繋ぎ、
                根太を渡し屋根を架け御座舟が 出来上がる
6月16日  「御試乗式」 御座舟の試乗を行う、大鳥居をうまく漕ぎ抜けるか、などを調べる

6月17日  「本番の管弦祭」が行われる。 今年(2019年)は7月19日です

満潮時にこの枡形から大鳥居を見ると、素晴らしい景色を見ることが出来ます。
日本を代表する画家で「平山郁夫」画伯もここから「絵」を描いています。
その他にも、客神社の真ん前(反対側)から客神社・五重塔を見た景色、
五重塔を仰ぎ見る所(旧参道コース、光明院前の坂道)からも描いています。
今年(2019年)は没後10年目に当たります

* 有の裏、三笠の浜 辺りでは瀬戸内周辺から来た多くの船の繋留を見ることが出来る。
   商店街には、呉の「阿賀」 広島の「江波」の方達の常店が決まっているのでそれを見つけるのも面白いかも。
   「店」の前にはそれぞれの「のぼり」が掛かっているのでわかり易いと思いますよ。

枡形の反対側には、二つ目の「鏡の池」と「揚水橋」があります。

「鏡の池」の中に大きな「石」がありますが、この石を「卒塔婆石」と呼んでいます。
治承元年(1177年、約830年前)、京都東山鹿ヶ谷の山荘(後白河法皇の近臣で、
靜賢法印(じょうけんほういん)の山荘)において、平家滅亡を企てた罪により、
平康頼・僧俊寛・藤原成経らは喜界が島に流される(この時密告をしたのは、多田蔵人綱行ただのくろうどつなゆき)
喜界が島は現在の、鹿児島沖の「硫黄島」とも言われています。
島に流された「平康頼」は都に住んでいる老母を偲んで、二種の歌を千本の卒塔婆に書いて流します。
(京には老いた母が住んでいたが場所は現在の、京都柴野大徳寺付近「金閣寺の近く」である)
「思いやれ しばしと思う 旅だにも なお故郷は 恋しきものを」
「薩摩潟 沖の小島に我ありと 親には告げよ 八重の潮風」
ところが、その念願が「神」に通じたのか、卒塔婆の1本が「あの石」の所に流れ着き、
おりしも康頼の安否を確認する為の旅の途中厳島神社に参詣に立ち寄った「僧」により都に伝えられ、
程なくして「康頼」は帰京を許されました。
(1178年の事です、事実は徳子懐妊による恩赦で、7月に赦免の使者 9月20日に赦免になっています)
参考
徳子が身ごもった時、高倉天皇は18歳、徳子22歳、しかし徳子は月がたつにつれて、苦しみ、死霊が取り付く
清盛の弟「教盛(のりもり)」が、これは惨殺処分した藤原成親の死霊のせいとか、喜界が島の流人3人を赦せば
安産が叶うはず、と進言する。直ちに成経・康頼 二人を許す「赦文(ゆるしぶみ)」の使いが喜界が島に出された。

帰京した「平康頼」はこれも厳島大神のおかげと、お礼の為にと奉納したのが「康頼灯篭」です(鏡の池の先に見えます)
この燈篭は、島内にある数ある燈篭の中で一番古く、棹には「昇り竜」「下り流」が彫ってあります、また火袋は八角形で
「六地蔵」が彫ってあります。棹の部分はほとんど確認できません、また「六地蔵」は明治維新の時に削り取られました。

六地蔵とは①天道 ②人間道 ③修羅道 ④畜生道 ⑤餓鬼道 ⑥地獄道 を守護する「地蔵尊」を言う
参考
平康頼と藤原成経は赦免後二人して教盛(のりもり・清盛の弟)の領地である肥前国鹿瀬庄(佐賀市喜瀬町付近)で
年を越し翌年(1179年)治承3年正月に備前の児島に到着、藤原成経の父成親の供養をしたうえで、3月に鳥羽から
成経の山荘である、洲浜殿に立ち寄り、やがて二人は京の七条川原で別れた。(成経の妻は教盛の娘)

成経は教盛の娘を妻にした、よって教盛を頼って屋敷に戻り妻子と再会する。その後文治元年(1184年)に
右近衛中将に昇進、4年後には蔵人頭。建久元年(1190年)にはついに高級公家と言って良い「参議」になる。
建久4年(1194年)には参議を辞して「正三位皇太后大夫」のまま、建仁2年(1202年)3月18日亡くなる

康頼は頼朝からかつて尾張国(愛知県西部)在官当時に、頼朝の父・義朝の墓を整備した事があり、その功が認められ
文治2年(1186年)頼朝から阿波の国(徳島県)の保司(ほし)に任ぜられる。喜界ヶ島から帰京後は「和歌の腕」を
磨くことに専念、多くの歌集に詩が載るようになる。昭治2年(1200年)に、石清水若宮の歌会に出席した記録があるが
その後そ消息は途絶えている。
康頼は喜界が島に流される途中で「出家」して、「性照」の法名を持っていた

僧俊寛は法勝寺の執行(しつぎょう)であったが、執行になる時、清盛に便宜を図ってもらっている、にもかかわらず
「陰謀」の場所を提供し陰謀に係わっていた事が清盛にとって許しがたく、ゆえに俊寛だけは赦免にならなかった。

本来、燈篭の下には「台座」があるのですが、見ることが出来ません。
これは先にも述べた様に、天文10年(1541年)の大きな土石流により埋没して、現在に至っています。
ここの所には、「大鐘跡」とも言い、昔は「大鐘楼」があり、鐘を合図に神職・供僧が出社していたようです。
明治維新後は無くなりました、梵鐘の「大願寺」の文字が入っていた為、溶解されたようです。

隣の小さな木の橋を「揚水橋」といいます。これも国の重要文化財となっています。
よく見ると、東側の勾欄が高くなり、張り出しているところに「特徴」があります。(この様な工法を桟の間工法と云います)
昔はここから、内侍が「神饌用」の水を汲み上げて、本殿に運んでいたと云われています。

この橋、橋と言えるかどうか解らないほど「短いですね」(現在約5m(約3間)です)、昔は長さ14m(8間の長さ)ありましたが、
天文10年(1541年)の山津波(土石流)により現在の長さになっています。この橋以前は「平橋(ひらはし)」と呼んでいました。
「平橋」と呼ばれている橋は、二箇所あります後の一つは、後で出てくる「長橋(ながはし)」で、明治11年に「長橋」と云う名前になっています。

余談ですが、京都の宇治川に架かる宇治橋には「桟の間」があり、そこから豊臣秀吉が「茶の湯に使う水」を汲み上げたといわれています、
宇治橋は幅8m、長さ155m コンクリート製の橋で欄干は桃色、擬宝珠は緑色をしています。

横には、「天正20年9月吉日」(1592年の秀吉の朝鮮出兵の年)の刻銘の入った「手水鉢」がある。この手水鉢は、
文字の入っている手水鉢では最も古く「国の重要文化財」に指定されています。

朝座屋を背に、廻廊を見ると、正面に「厳島神社本殿」が見えます、ここの屋根を見ると大変面白い事を発見する事が出来ます。
よくよく見てください、左側「本殿の屋根」(軒)と、右側「拝殿」の屋根が「平行」になっていません。手前が狭く(ほぼ重なっている)、
奥に行くに従って広くなっています。つまりこの建物は本来平行に建っていないといけない物が、平行に建っていません。(約50cm位斜めになっています)。
本殿は実は3回建て直しています、一度目は1207年焼失 二度目は1223年焼失により建て替え 三度目は1571年
和知兄弟の謀反により建て替え(「元亀の遷宮)。なお、拝殿 祓殿は1241年鎌倉時代に再建したものでした、その後に「元亀の遷宮」がありました。
この時期は「戦国時代(1493年から1573年までの80年間を言う)で、いろいろな技術が衰退した時期で、建築技術も同様に衰退した時期にあたり、
建物をうまく建てることが出来なかったと思われます。

さらに進むと、左手に小さな「橋」があります。これは「内侍橋」と言い、左右にあり神殿造りにおける「対屋(たいのや)」形式を色濃く残すものです。
内侍橋の柱をよく見ると真ん中の柱が少し細く見えませんか、それもそのはずでこの柱は後から追加した柱で、もともとはありませんでした。
一般的に神社に仕える「女性」を巫女(みこ)さんといいますが、ここ厳島神社にお仕えする女性を「内侍(ないし)」といいます。
昔、内侍がこの橋を渡って神饌をお供えしたところから「内侍橋」と名づけられました。
八乙女(本内侍)制度は久安4年(1148年、清盛が安芸の守になった2年後)の定められました。
したがって厳島神社の海上社殿で竜宮を思わせる「内侍の舞楽」が始まったのはこの様な制度が整備された後と言う事になります。
「平安時代の末期」の内侍は、①五常楽 ②狛鉾 ③万歳楽 ④蘇合香 の四典の「舞楽」を舞っていました。
なお、他の大社では「巫女」が舞楽を舞うことはありませんでした。
この頃は巫女としてよりも「舞姫」としてその名が知れ、しばし都の貴族達に優美な舞楽を疲労している。
その美しさを、「土御門通親(つちみかど みちちか)」は、「天人の降りくだらんも かくやとぞ見ゆる」と表現しています。
土御門通親(源 通親)は「高倉院厳島御幸記」を残しており、「村上源氏」の全盛期を築く。
曹洞宗では、「久我通親(こがみちちか)」と呼ばれている。

厳島神社の「内侍」は定員31名と決まっていました。予め内侍となる事が出来る「家柄」は決まっており、誰もがなれるものではありませんでした。
その家柄に生まれた女性の内必ず一人は生娘であることが求められ、「厳島の神」に仕えることになっていた。

内訳は ①上臈内侍 10人  ②本内侍(八乙女とも言う) 8人  ③手長内侍 13人  合計 31人

八乙女やおとめ)は、先にも述べた様に、主に神楽や舞い(巫女神楽・巫女舞)をもって奉仕する 8人で「舞姫」とも呼ばれていました。
特に舞姫の中でも、「世親内侍」「竜樹内侍」は格別に美しく貴族達はこぞって見に来たようです。

上臈・・・・身分の高い女官のこと(先に任じられた者を上臈、後から任じられた者を、中臈・下臈などと区別する
     臈(ろう)とは、洗練された女性の美しさを表す言葉で、美しく気品があることを指します。
一般的に、神社巫女は神事で重役を果たす「神女」と云う、これは「神子(かみんこ)」で神の子を意味します。
伊勢神宮では「斎王(さいおう)」、 賀茂神社では「斎院(さいいん)」 熱田神宮では「惣の市(そうのいち)」などと呼ばれています。

斎王祭りの「斎王役」の方は、五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)俗称 十二単(じゅうにひとえ)を着ます。
上皇の母親(香淳皇后)も大正13年(1924年)に五衣唐衣裳を着用している写真があります

厳島神社社殿
神社建築に用いられる「ヒノキ」は建材としては世界一の樹木である z
強度・耐久性に優れ又、木肌が美しく光沢があり、塗装をしていなくても高級感が生まれる。
神社・・・・白木を使う
寺院・・・・彩色を使う
江戸時代後期になると、秀逸な彫刻で満たされる寺院建築が流行ってくる。
ここでは「彫刻の出来栄えを強調」する為に素木造りとされるのが「一般的」となる。

「両流造」
本殿は1168年に建立(仁安3年)、しかし元亀2年(1571年)再建。
客殿は永享5年(1433年)再建  本殿。客殿は「両流造」の代表例である。
両流造は身舎の前後に庇を設けた本殿形式である
身舎(もや)とは
寝殿造りで,主要な柱に囲まれた家屋の中心部分。庇はこの部分から四方に差し出される。
家人が日常起居する建物。離れなどに対していう。おもや。ほんや。
棟木と軒桁(のきげた)の間にあって垂木(たるき)を受ける水平材。もやげた。 → 小屋組
正面側にだけ屋根が長く伸びる「流造」に対して、両側に屋根が付くので「両流造」と呼ぶ
厳島神社本殿・客殿が両流造りとなっている。
本社本殿は九間社(鎌倉再建以降は柱一本を省略して八間社)
客神社本殿は五間社の両流造で極めて大規模であり、特に本社本殿は、純粋な本殿としては
史上最大の面積を有している。
身舎(もや)を内陣として、そこに玉殿と言う小型の本殿を本社で六基、客殿で五基並べ正面の庇を祭祀
空間の外陣とし、背面の庇を「神宝庫」とする。
本殿内に玉殿を安置するのは、海上に建つ為である。陸上の神社では、春日大社の様な小型の本殿でも
風雨に耐えれるが、海上の風浪では危ういので、小型本殿を玉殿として超大型本殿の中に格納した
ものと考えられる。その結果、史上最大の本殿が誕生した。(全国23社の国宝本殿では最大、出雲大社の本殿の約2.3倍あり)
気比神社(越前一宮、福井県敦賀市)   気多大社(けた、能登一宮 石川県羽昨市)
宗像大社辺津宮「へつみや」(福岡県玄海町)  太宰府天満宮(福岡県太宰府市)
松尾大社(二十二社 京都市)
と言った著名な大社の本殿のみに応用されている。
背面側の「庇」については、特別に高い社格に基づいて神宝(じんぽう)を朝廷等から奉献される事が
多く、それを納める「神宝庫」としての機能があった。したがって一般的な神社には応用出来ない本殿形式。
なお、内陣に玉殿を安置するのは、海上に建つ「厳島神社」だけである。

厳島神社については、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で建物すべてを焼失しています。
大きさは日本一の本殿となっており「本殿は両流造で9間あり」
その後、仁治年間(1240-1243年)以降に造営されたものが現在の建物です。
「現在の建物は、4代目で元亀2年(1571、戦国時代)造り替え。 拝殿・祓殿は仁治2年(1241、鎌倉時代)再建」
広さは82坪あり、伊勢神宮・出雲大社等と比べても断然に大きく、日本一の大きさになっています。
(現在日本には国宝の神社本殿は23棟あり、その中で一番大きな本殿となっている)

庇付きの本殿
厳島神社本殿と客神社本殿は、四面庇本殿の屋根形式になっている。
切妻造りの身舎の正面に庇を付けた本殿形式の代表が「春日造」「流造」である
「春日造」・・・・・・身舎が妻入りのもの、  一間社が正式
「流造」・・・・・・・・身舎が平入りのもの、  三間社が正式
身舎だけなら、階段(木階きざはし)が雨に濡れるが、階段上に被さる「庇」が雨よけとなるので、
極めて実用的な形式で奈良時代に誕生したとされる。
切妻造りの身舎だけでは、硬直で単純な姿にしか見えないが、庇が付くことによって秀麗な造詣の美しさが
生まれた。屋根が桧皮葺(室町時代以降は杮葺も多い)である事も造形美を増している。
身舎(もや)は正式な「円柱」、庇は略式な「角柱」を用いて区別する事が大原則で、
神座である身舎の高い格式を強調
組木や蟇股などの建築装飾は、人目に触れやすい庇のほうに集中し、身舎は相対的に飾り気が少なく、
見えるところを飾るという、日本の伝統的な社寺建築の本質を如実に表している。
向拝(こうはい)・・・・木階(きざはし)に更に庇を付け足したような形
玉殿・・・・・神社本殿内に安置される小型本殿の神体の容れ物を「玉殿」と呼んでいる
厳島神社の仁治2年(1241年)の古文書に「御体玉殿(ぎょくたいぎょくでん)」と在るのが初見。
逗子・・・・・寺院本堂の内陣に安置して秘仏である「本尊」を奉安する容れ物を一般的に逗子と呼ぶ
鎌倉時代後期になって円柱や組物や屋根を供えた建築的な逗子が作られるようになり、
それは「空殿(くうでん)」と呼ばれた
「空殿」では組物は華麗な三手先が標準
「玉殿」では簡素な船肘木や平三斗程度である
寝殿造りの形態の神社は現在日本ではここ厳島神社のみとなっている
対屋(たいのや)形式の建物で、建物の前には祀りごとを行う「庭(平舞台)」があり、
その前には「池(鳥居までの海)」があり向って右側には「川」が流れている建物形式になっている。
また釣殿にあたるのが「客神社」となっている。更に屋根は「桧皮葺」
釣殿・・・・納涼・供宴を行う建物を言う
桧皮葺・・・ヒノキの皮を葺いたものを言う、寿命は約20年から最高にもって30年と言われている。

御祭神の三女人は、「海の神」「交通運輸の神」「技芸の神」 の信仰対象となっています。なお「財福の神」である、厳島弁財天は大願寺に引っ越し。
平清盛は瀬戸内の海賊を平定し、海運業者を支配し、更には「日宋貿易」により莫大な財を築く、更には急速に位階が昇進し、
1167年には「太政大臣」にまで上り詰める(清盛50歳の時)、翌年の1168年には厳島神社の造営がなる。(清盛51歳の時)
平清盛
伊勢平氏の棟梁・平忠盛 の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱 で最終的な勝利者となり、
武士としては初めて太政大臣に任せられる。清盛(虎寿丸)の母は、召名(めしな)を「鶴羽(つるは)本名は、霞(かすみ)」と言い、
元は仙洞御所(せんどうごしょ)に仕える。 仙洞御所・・・退位した天皇(上皇・法皇)の御所を言う 清盛3歳の時に、「鶴羽」がみまかる。 
鶴羽の姉が「是非とも猶子に」と申し出る
この姉が「祇園女語」である。 白河院第一の寵愛(ちょうあい)をこうむる。院の女房で大変な権勢を持っていた。
「女御」とは、皇后又は中宮の下、更衣(こうい)の上にある者で、天皇の宣旨(せんじ)によって定まる
更衣は天皇の居室・ 寝室に立ち入ることが可能なことから后妃としての要素を持つようになる
更衣(こうい)とは、本来天皇の衣替えに奉仕する女官の称であったが、後に嬪・女御に 次ぐ令外の后妃の身位となった。
  定まれば「政所(まんどころ)」を持つようになる
正盛(清盛の祖父)・・・・・忠盛(清盛の父)・・・・・清盛 で正盛を引き立てたのが「祇園女御」である

「清盛」の名前の由来
白河院は皇子(清盛)の事を気にかけていたが、ある時 皇子があまりに夜鳴きが激しいと聞いて次の「歌」を忠盛に送った
「夜なきすと、忠盛たてよ、末の世に、 きよくさかふる  こともこそあれ」
(その子が夜泣きをしても、大事に育ててくれ忠盛よ、将来 平家を繁栄させてくれる事もあるかもしれないのだから)
清く    盛ふる
きよく  さかふる      この二文字から「清盛」と名付けたと言われている

清盛について
清盛25歳の時、父忠盛が武士として始めて内昇殿(天皇の居所)を許される。武士である忠盛が殿上の間に上がる
事を許されるのは破格の待遇であり、ある貴族は「未曾有の事なり」とある。忠盛の内昇殿も「千体の観音像」を納めた
「得長寿院(とくちょうじゅいん)」の造営の功により許されたもの。後年清盛が後白河上皇の為にと建てた「蓮華王院」
(33間堂)はこの得長寿院にならったもの。
清盛51歳(1167年)に出家して「浄海、静海」と言う法名を持ち、引退後は福原で千層供養を度々している。
清盛にとって尊崇する厳島を華麗に仕上げる事は明神への感謝の念もさることながら、平家の権威を高めるもの
であった。藤原氏の春日大社の様に有力貴族は一族の精神的支柱となる「氏神」を持っている。
「平野神社」があるが、八姓の神社としてであり、平家だけのものではない。平氏にも「氏神」が必要と考えた「清盛」
瀬戸内海を掌握し対外貿易を独占した「海の平氏」の権威の象徴として、それは神々しいまでの美しさをたたえて
いなければならなかった。それが「厳島神社」である 

また、清盛が「平家納経33巻」を奉納するにあたり、こだわったのが以下のとおりと思われます
清盛の「法華経」
清盛が特に「法華経」にこだわったのは、法華経信仰が盛んな時代背景もあるが
「堤婆達多品」に現れる「竜王」「龍女」の説話。 
「観世音菩薩普門品」が説く、観音による海難救助の説話に注目した為と言われる。

福原・厳島で千層供養を行ったのは「法華経の力」によって水神・龍神をなだめ
海の平穏を実現することで瀬戸内海の覇者としての存在を誇示するのが狙い。
特に清盛が重視したのが「堤婆達多品」で、この中には文殊菩薩が法華経を説いて
竜王の娘を「即身成仏」させる話がある。

平家納経の軸は伊都岐島神の象徴である「水晶の五輪塔が使用」され、見返しには
海中から出現した龍女が釈迦の前に「宝珠」を捧げながら進み出たところ、が描かれて
おり、清盛の龍神や龍女に関わる信仰を色濃く反映している。
平家納経が納められた長寛2年(1164年)、徳子は堤婆達多品の龍女と同じ8歳
だったとも言われており、清盛が「自身を竜王」に「徳子を龍女」に見立てて将来の
入内への願いを込めたという説もある
瀬戸内や宋との交易船の航海の安全を祈るため、又「瀬戸内海航路の要衝の地であった厳島」を篤く信仰する。
1177年10月14日には 清盛・時子・中宮徳子・重盛ら平家一門が社参し、社殿内・廻廊にて「千層供養」を行う。
平時忠をして「平氏にあらずんば 人にあらず」と言わしめた。

本社 
幣殿
本来、幣帛(へいはく)を供える建物ですが、厳島神社では渡り廊下の役目をしています。
幣帛とは、神道の祭祀において神に奉献する物の内、神饌以外のものを言う。
帛(はく)とは布の意味で古代にあっては貴重であった布帛(ふはく)が神への捧げものの中心であった。

拝殿
参拝者がご祭神と向き合い、お祓い、参拝する施設です。
この拝殿は「三棟造(みつむねつくり)」と言い、奈良時代の建築様式を色濃く残しているものです。
天井辺りをよく見ると、お賽銭箱より本殿に向かい2本目の朱塗りの柱まで屋根があり、更にその奥にも屋根があるのが判ります。つまり、
拝殿の屋根の更に下側に二つの屋根があるのです。合計三つの屋根があるので、この様に呼んでいます。
清盛の住んだ京都の六波羅泉殿の寝殿も「三棟造」であったと思われます。
更には対岸、外宮にある「地御前神社」の拝殿もこの様な「三棟造」なっています。興味深いですね。
本社祓殿

祓殿の広さは、100畳 あり。また平舞台は 660㎡(200坪)ある
お祀りの儀式を行う場所で、ここで祓いの儀を済ませた神官達は拝殿及び幣殿に進み祭典を執り行う
ただ、厳島神社で行う祭事のほとんどは客神社で先祭されるのでまず、客神社祓殿でお祓いの儀式が行
われて、そのまま本社祓殿に向うことになる。祓殿と言われるのは近年の事で、昔は「舞殿」と呼んでいました。
平舞台・高舞台・左右楽房・左右門客神社はこの祓殿の附けたりで、国宝建造物とみなされている。
お祓いをする処で、日本三大船神事の一つ「管弦祭」が行われる時には
鳳輦(ほうれん、神輿のようなもので、天皇の乗り物であった)が置かれる場所であります。
雨天時には「舞楽奉奏」などのも使われます。戦後はしばらくは、2月にここで「米相場」が立っていました。
(大鳥居の前には米の仲買人が寄進した常夜灯はあります)
床板は「楠」で、広島浅野藩の藩船(厳島丸)の材料が寄進さらたと言われています。
記録によると、床板は1.45m × 9.55m の楠を使用、最初の床材は、巾1尺6寸(約50cmくらい)の材が使用されていた。
(板敷材 90枚 長さ2丈2尺 弘1尺6寸 厚2寸とある)

本社の拝殿(皆様がご祈祷・結婚式等を行う所)の横には、ご祈祷を待つ待合室があります。
この中に入られた方はわかりますが(一応断れば誰でも入れます、鍵はかかっていません)、入って真正面にとその左横に大きな
扁額は掛かっています。
真正面の扁額には、「従一位 源 長勲  俊 徳 」と書いてあります。 この源 長勲こそが「広島藩 最後の 第12代藩主 浅野長勲」です。
浅野家は清和源氏頼光流土岐氏の庶流で土岐光衡の次男・土岐光時が土岐郡浅野で「浅野氏」を名乗り光時に始まる土岐氏草創期の一族
であるとされている。本性が「源氏」で苗字が「浅野」であるから「源 長勲(ながこと)」と署名してある。
浅野長勲は日本の江戸時代末から昭和初期の大名で最後の大名と言われ 政治家 外交官 実業家 社会事業家でもありました。

左の扁額には「元 昭  明 光」とあります
これは毛利元就の子孫で毛利宗家 29代当主 毛利 元昭」です
元昭(もとあき)は長州藩最後の藩主で、毛利元徳の長男である

祓殿の天井
天井が出来るのは、平安朝末期からで、主屋にこの様な天井を張り、廂の間は「化粧屋根裏(垂木の見える天井)」
とし、つなぎ虹梁を掛けて側柱と主柱をつなぐ工法は平安末期から鎌倉初期にかけての工法で、
本社・客社の両祓殿などは典型的なもの。(折上小組格天井と言う)
かつては、絵馬・扁額が長押上にも掲げられており、明治の日誌類から見ると、明治11年(1878年)10月には
「36歌仙」の額が祓殿から降ろされ宝蔵に納められ、明治29年(1896年)2月には「山姥図」が掲げられたが
明治33年(1900年)の台風により数点の扁額が流された為、それ以降全て降ろされ、一部は千畳閣に展示、その他は倉庫に納めてあります。
祓殿では、能楽・謡・独吟などの奉納が祓殿で行われている。
(1680年浅野綱長が能舞台を再建するまでは、本社祓殿で能・狂言が行われていた)

厳島神社の社殿を「神殿造」とすれば、本社拝殿が寝殿になり、祓殿は南庭の部分に相当すると考えられる
ここでは、さまざまな「儀式・踊り(舞)・蹴鞠」が行われている(かつては祭典後の「直会(なおらい)」の場としても使われた
厳島神社では、こうした儀式や踊り(舞楽)などを行う為に恒久的な建物が必然的に生まれてきたと考えられる
床板は、幅1,45m。 長さ 9,55mあり、江戸時代以降の変更で「広島藩主」の寄進によるものである(楠木で出来ている)
檜皮について
桧皮葺の檜皮は寿命が約20年から最長で30年とも言われる。檜皮は樹齢80年以上のヒノキの皮を剥離して取る。
一度剥ぐと次は10年後に再度剥ぐ、この繰り返し。長さは3mで剥ぐ。檜皮は表面が「コルク質」で抗菌・防腐作用
がある。一度剥いだ檜皮は、厚さ1,2~1,5の厚さに削ぐ。これを檜皮として使用する。1駄(だ)、2駄と数える

杮の裏甲(檜皮の下の部分)は枌板(そぎいた)が積んである。
枌板は長さ1メートル、厚さ7センチくらいに重ねてあり、段葺きに葺いてある。
その上に「檜皮」を葺く、檜皮は「竹釘」によって止める、竹釘の長さは4.5センチ。ちなみに杮用の「竹釘」は長さ3.6センチである。
竹釘は"錆びず",”腐らず",50年間耐えることが出来る。しかし現在この竹釘を販売しているのは、兵庫県丹波市の「石塚商店」のみ、
神社で抱えている職人は別で、それぞれの職人がいる。
(竹釘を口に含み、素早く取り出して打ち付ける、口の中が荒れないように表面を滑らかにする技が重要で、職人になるには最低10年
  かかると言われている)

知りたい宮島 詳細編 7

2023年03月25日 17時57分23秒 | 世界遺産
天神社(重要文化財)
室町時代末期に出来たもので「能舞台」も同様である、今年(令和1年)は道真没後1115年
ご祭神は、菅原道真公がお祀りしてあります。学問・受験の神様です。お創建は1556年(弘治2年)4月で、
毛利隆元によって寄進されました。この時は天満宮として建立したが、後に天神社と記している
(柱は3本残っている)能舞台と同じく、素木造り、檜皮葺入り母屋造りの建物なのは、社殿郡の中では
新しい建物で、時代が下がるためです。明治の中頃まではここで毎月蓮歌の会が催しされていた為、
別名を蓮歌堂とも言ます。(藩主より、毎月連歌興行をする旨、仰せられている為) 連歌堂としては
現在唯一の「室町時代」の建築、 連歌の創作を加護してもらう為に、学問の神様、菅原道真を祀っている
上の句5・7・5を歌い、下の句7・7を歌い、100まで繋ぐ(100韻連歌と言う)
菅原道真・・・・・「菅原家」は「天穂日命(客神社にお祀りされている)」に起源を持ち、
曾祖父古人(ふるひと)の時代に学問をもって朝廷に仕える家柄となる。
祖父「清公(きよきみ)」は私塾を設け、同所から朝廷の要職に数々の官人を出し、菅原家は一大学閥となる
宇多天皇のときには大変重用される。(道真は正論を掲げ、天皇であっても遠慮なしに進言していた、これが
宇多天皇に重用されるもととなった、一つには香川県・讃岐国に栘封されて世の中の見方が変わったとも言われている、しかし九州の
太宰府に送られての2年間(59歳で亡くなる)は、一切の恨み言は言わなかったと言われる。
江戸時代の年号は、ほとんど道真の子孫により名が付けられた、幕末の「慶応」はもともとは「平成」の元号になるはずであった。
醍醐天皇の時には、右大臣(律令制ではナンバー2)まで上り詰める。
* 60代 醍醐天皇の時、藤原時平の陰謀によりに讒訴(ざんそ)され大宰府へ送られる。 
讒訴(ざんそ)・・・虚位の告発を行って貶(おとしめる)める事を言う
連歌の楽しみは、人が一つのサロンに集まると言う楽しみでもある。 公家や武家・貴族たちが、物好きの僧を交え、
毘沙門堂などに何日も篭って「百韻の連歌」のどを完成する。この様な時のサロンの楽しみは連歌が流行する以前
の人が想像する事の出来なかったものであったと言う。また、連歌の世界も下克上となり、辺りの百姓や職人、
時には野党のたぐいまでが、それぞれサロンを組んで連歌の興行をするのである。これを「地下連歌(じげれんが)」と言った
地下の連中は公家や大名とは違い金や物を賭けて勝負を争うのである、その様な連歌のグループが方々に出来ていた
自然「天者(てんじゃ)」は手が足りぬほど忙しい、「天者にならぬ人ぞなき」と言う落書きが二条川原に建武2年の頃でたと言う。

道真を祀る全国の神社、約12000社の内、「天満宮」「天神」の中から由緒ある25社を祀ってあり、
ここ宮島の天神社は20番目の天神社である。松浦武四郎の聖跡25拝を参考

神社本殿にあるまじき作りの、土壁(漆喰塗り)が使用されている、これは本来考えられない事で社殿建築
には壁土は使わない(板塀を使用、本殿祓殿を見ると良く理解できる)、本殿との時代差は388年
三方に蔀(しとみ)があって開放的(枕草子などには「御格子(みごうし)」と記されている
(雨風を防ぐ戸は「蔀(しとみ)」形式で戦国時代の建築様式が用いられている。)
漆喰が塗られた室町時代の「武者造り」と呼ばれる建造物。桁行3間、梁間3間の真四角な建物である

能舞台
室町時代末期に出来た比較的歴史の新しい社殿、2001年(平成13年)には世界無形遺産になる。
永禄11年(1568年)、毛利氏は観世太夫宗節(かんぜだゆうそうせつ)を招き仮の能舞台を海中に設けさせ、「能」を奉納する。
後に広島藩主となる、福島正則が慶長10年(1605年)に能舞台を寄進する、
現在のものは宝暦8年(1680年)第四代広島藩主の浅野綱長により、舞台と能楽屋、橋掛かりが造立されたものです。
特徴としては、日本で唯一海中に建立されていることで、切妻造りである
笛柱が独立しているのも特徴の一つです。
海中にある為、本来床下にあるはずの共鳴音を出す為に置かれている「甕」がありません、代わりに床下の根太が
三角形でその上に床板を張り、大きく響く様に工夫してあります。
ここで、能が舞われる日にちは決まっており、毎年4月16・17・18日の三日間行われます、
桃花祭神能といいます、当日は廻廊と同じ高さで、「海中」に桟敷が作られ、そこで能を見ることとなります。
能を見る「料金」は別に無く、厳島神社への拝観料として「300円」支払いますが、これで「能」を見ることが出来ます。
初日と二日目は始めに「翁」が舞われ、三日間とも五番立てで、間に「狂言」が入り、江戸時代から続く本式な能を見ることが出来ます。
重要文化財の指定を受けている、六舞台の内の一つです。能楽屋と共に指定を受けている能舞台は日本でここだけです。

能の起こり
毛利元就によって、永禄6年(1563年)を始めにして度々奉納されている
永禄11年(1568年)には観世太夫が下向した際に、
「前略、江の中に舞台を張らせて九番の演能あり、その後、棚守房顕の屋敷で舞台を張らせて十一番を演じた」
と「棚守房顕記」に記されている。
毛利元就に替わり福島正則が芸州の藩主となり、その後は紀州より浅野氏の支配下になった頃から
厳島は藩直属の「宮島奉行」「宮島元締役」「宮島帳元」が置かれ、また交通機関の発達と共に、
神社を中心とした「観光地」の性格を帯びるようになった。
春・夏・秋 の三期の市も立ち、「福島」「浅野」の時代を通して演能が行われ、宮島は次第に賑やかさを増す。

明治時代になり祭典が「新暦」となり、春の大祭を「桃花祭」とし、従来の3月15日を一ヶ月遅れの
4月15日にして、16日から3日間を「桃花祭神能」とする。

16日(初日) 喜多流
17日(2日目) 観世流
18日(3日目) 喜多流

初日と2日目は最初に、天下泰平、五穀豊穣を願う「翁」が演じられ、3日間とも「5番能」が演能される
(時には他派が演じることもある)

江戸時代に能が幕府の式楽としても演じられるようになると、正式な上演形式は一日五番と定められた。
その上演形式を「五番立」(翁付五番立おきなつきごばんだて)という。
能の演目は「神男女狂鬼(しんなんにょきょうき)」、 即ち

初番目物  1「脇能物(わきのうもの)」 「高砂」神が祝福を与える曲
二番目物  2「修羅物(しゅらもの)」  「田村」修羅道に落ちた武将達の霊(男性が主役)
三番目物  3「鬘物(かずらもの)」  「羽衣」女性を主人公とする優艶無比の能で番組の中心になる
四番目物  4「雑能物(ざつのうもの)(狂物)」 「隅田川」劇的要素を持った現実的・写実的な能で、他のいずれの
  分類にも属さない全ての能を集める狂女物はその代表
五番目物  5「切能物(きりのうもの)」  「鞍馬天狗」一日の終わりにふさわしい豪快で爽やかで 
見た目に面白い能、鬼・天狗・妖精などが活躍する
の5種類に分類されている。
五番立の番組は、この5種のグループからそれぞれ一曲ずつ選び、「神男女狂鬼」の順に並べて作る。
このように、五番立は一日の番組で同趣の曲が重ならないようにする機能ももっている。
五番立の上演は長時間に及ぶこともあって、現代ではほとんどみられなくなったが
いまでもこの考え方を踏まえて番組が作られている。

翁 神聖な儀式として古くから重んじられて来、「能にして能にあらず」といわれる「翁」は儀式性の濃い
祝福の舞として、千載(せんざい)・翁・三番叟(三番三さんばそう)の三人の役者が順次歌舞を勤める

喜多流や観世流が参加し、1日目・2日目には天下泰平や五穀豊穣を祈る、翁付きの能が演じられる
演目は毎年1月2日に演じられる初春の祝福会「御松囃子」終了後に取り決められる
平成3年の台風19号で倒壊いたしましたが、古材を出来るだけ使用し、平成6年に再建されました。
能舞台、橋掛(はしがかり)は桧皮葺で能楽屋は杮葺(こけら)です。重要文化財の指定を受け
ている六舞台の内の一つです。能楽屋と共に指定を受けている能舞台はここだけです。
(全国から400人の能楽師・狂言師が集まり執り行われる。朝9時から夕方まで続く)

能と狂言をあわせて「能楽」と言い、能は「人間の運命を描く事を主題」とし狂言は「笑」を基調とした対話劇
秋の献茶祭はここで、表千家・裏千家のお点前(おてまえ)が隔年交互にある(令和1年は11月13日表千家)
令和1年は第71回になる(第1回は昭和23年、1948年である)
地謡座(じうたいざ)、貴人戸 後座(あとざ) 鏡板には老松が描かれている

大瓶束(たいへいずか)・・・懸魚(げぎょ) 六葉(ろくよう)の後方にあり、江戸時代末期の建物の飾り
 (大工雛形見本の絵模様で当時流行した) 文政10年(1827)の時に修理の手がかかっている
笈形(おいがた)・・・・・・・・山伏や修行僧が、法具・仏像・経文・衣類などを収めて背負い歩く箱の事 
大瓶束の左右に付される装飾の事
能楽屋の屋根は1779年に檜皮葺から杮葺に変更されました、明治41年ー43年に大修理が行われているが、
この時能舞台と橋掛りの屋根は杮葺から檜皮葺に変えられた、
平成3年台風19号による被害で倒壊、平成6年(1994)に再建する。
床について
撥転(ばちころ)がし、と言われる床の勾配は、橋掛かりの幕口からシテ柱にかけて下がっており、シテ柱と笛柱
は同じ高さになっている。そして脇座の床と舞台は正面に向かって下がっている。この事によって足の滑り出しが
良く、舞い易いとの事である。又観客席から見やすいこともある。
床材料は「檜木」で、何年もかけて材質の変化が止まるまで調整する、床板は6mの継ぎ目無しの板を使用
厚さ3㎝以上、幅はなるべく広い物を使用(60㎝のものもある)
舞台は、縦、横 は5.5m四方である。床下の瓶は、本舞台に7つ、後座に2つ、橋掛かりに3-4個
柱は本舞台、25-30㎝の柱、その他は20㎝くらいとなっている。
床は一面を一枚の床板にして、根太には釘打していない、。根太は2本で、大引けをその反対側に井桁に入
れてあり、何れも留めていない、従って床は太鼓の皮の様な役目で、足拍子の度に大きく響く、
根太と床の接地部分は「1センチ」となっている。 更に満潮になれば共鳴は大きくなる
本舞台の屋根は、いわゆる船底天井で和船の船底を逆さにして見上げて入る様な形にしてある、天井板は張ってない。

奈良足袋・・・・・白足袋の底の部分に「薄く綿」を敷いた足袋を言う(能役者が舞うとき板の上で演じる為足が大変冷える
 これを防寒の意味合いから考案された足袋)
船底天井は京都三千院の天井も船底天井になっている。
能が舞われる日には前の砂浜が客席になる為、周りの廻廊の床は敷物がひかれ通路を通る人の
「足音」が響かないようにしている。

観世太夫   七代目にあたり、当時京都ではトップスターであった
浅野綱長・・・将軍「家綱」 より名をもらう
神能の初日には「喜多流」が奉仕する。広島藩お抱えの能役者「喜多」が奉仕する
喜多流
能の「シテ方」の流派の一つ、喜多七太夫が興したもので、江戸初期に幕府から認められた「新興の流派」である
現在、能のシテ方には五つの流儀(観世、金春こんぱる、宝生ほうしょう 、金剛、喜多)がある

大蔵流と和泉流がある、和泉流の野村万作は26回も演じている。「猿に始まり狐に終わる」釣狐は狂言の卒業論文にある大曲

* シテ方とは能楽において、シテ、ツレ、子方(こかた)、地謡、後見 の各役を担当する演者とその集団
シテ
シテツレ シテに従属し随伴する役で最も重要な役
子方 少年の演者が扮する役
地謡(ジウタイ) 能や狂言のほか,舞囃子,仕舞,素謡,小舞などにおける合唱団

能衣装の刺繍の技巧は、藤原時代に盛んだった、布地に刺繍して仏像を表した。「繍佛(しゅうぶつ)」法式である、
アカネ・クチナシの根で染めた色(やや沈んだ赤色、赤トンボ色)で400年経過したとは思えない程の「染色美術工芸品」である。
「紅地鳳凰桜雪持笹文唐織(国重文)」
能衣装は60着あり。能面は130点, 狂言面は32点(20種類)。翁面(黒色情)には文明9年(1477)の墨書あり

佐渡では昔島に「200以上の能舞台」があったが、現在では約30くらいある(200から30になる)
佐渡では薪能(たきぎのう)が主であり、日本国内にある能舞台の1/3が集中する佐渡は、日本では他に類をみないほど
能が盛んな土地多くは神社に建てられた

能の大成者といわれる世阿弥が佐渡に流されたのは1434年(583年前)世阿弥ゆかりの正法寺には、
腰掛け石が残されています。同寺には世阿弥が生きた同時代の作といわれる雨乞いの面(県指定文化財)もあり、
佐渡が当時から高い文化を持っていたことが偲ばれます。能は武士の間で愛好され、かつ庇護されてきた芸能です。

能・・・信長は好意的で、秀吉は熱狂的な「能」の愛好者であった。

能衣装60着、狩衣(かりぎぬ)21着、着附熨斗目88着、唐人衣装2着
調度類278点、小道具317点、冠帽子類103点、能面130点
囃し道具61点など、全国で最大の数量と質を誇っている

「鏡板の松」
江戸時代は「松」と「竹」が目出度い植物とされた事から、完全に固定化された様である。
「竹」は根で「松」は松ヤニで他の木を枯らしてしまって、自分たちだけが群生する。この姿が封建社会の武士達
にとって一番望ましい姿と映った事が理由であると言われている。
とりわけ「松」は、当時日本を支配していた「徳川家」の本姓(本当の名字)が「松平」だった事から、一番めでたい木
とされており、一年中緑を保ち勢いのある木として、松を称えた「高砂」「老松」が筆頭祝言曲となる
「松」の絵は一応スタイルが決まっており、一本の幹に二本の枝と言うのが「基本構図」である
モデルは、奈良春日大社にあった「影向の松(ようこうのまつ)」であると言われている。

余談: 横浜市立能楽堂の「鏡板」には「梅」が描かれている。これは「染井家」が所有していた舞台を横浜市に寄贈
されて建てられた「能楽堂」。 染井家は江戸時代の、加賀百万石と言われた、「前田家」である。
前田家の「家紋」が「剣梅鉢(けんうめばち)」だった事から、鏡板に松と共に梅の木を描かせたと言う事

本来の舞台は野外に組まれた簡便な舞台で、その場所を知らす為に大きな木(松)の下で上演されていた。
その後、足利氏により支配階級である武士達の愛好な演劇と為り、江戸時代には「城」「武家屋敷」の庭先に
切り妻の屋根を持った「能舞台」となる。更に鏡板に「松」「竹」を描くようになる。

反橋(そりばし)
別名、勅使橋とも言い、天皇の使いを勅使といいますが、天皇又は勅使の方しか渡れない橋でした。
長さ21m、幅4m、高蘭は丹塗り、橋脚は渋墨塗り、鎌倉時代には既にあったが、現在の橋は
弘治3年(1557年)毛利元就・隆元 父子により再建寄進されています。
渋墨塗・・・(柿渋と松木を焼いた煤(松煙)・清酒を混ぜたもので、防虫・防腐効果がある。) 箱根の関所、松江城に見る
擬宝珠(右中央)にはこの事が書いてあります。
嘉禎5年(1239)正月に反橋20間(36M)とあるのが、47mから21mになる(1557年の時)
記録上の初見である(伊都岐嶋神社造分屋材木等注進状)  36m-47m-21mに変化している
1241年(本殿、祓殿・拝殿の再建時)には「26間(47M)」に延長。14年後
1557年(弘治3年)12間(21M)に短くなる。 「曽利橋一宇」「木帽子四」 再造立(元就・隆元により再建)
回廊から見て、右側の最上部の烏帽子に、元就・隆元の再建した事が記してある。
仁安(元年、1166年847年前)の造営記録には見えず、仁治(元年、1240年773年前)の記録には現れるので、
清盛が参詣していた頃には無かったことになる。74年の開きがある。
御鎮座祭などの重要な祭事にあたって勅使が参向しこの橋を渡って本社内に入った。
御鎮座祭・・・・12月初申日(さるのひ)の行われる。
天文10年(1541)の土石流で海が狭くなった為、橋の長さが短くなった
元々は、橋の長さは現在の物より「約2倍」の、長さがありました(47m)
京より勅使が派遣されるには莫大な費用がかかる為、安芸国府中の地方官(上卿職)を努めていた、「田所伊織家」に委任される。
田所氏が病気・渡船不能の場合には、島に住む「上卿職」の「林家」が勅使代行を挙行している。

表参道商店街を通ると、中ほどに大変大きな「杓子」がありましたが、
今年(2019年8月1日)からは、トイレに変わりました。
休憩所と観光案内所が併設され、「肝心の杓子」は元の宮島庁舎跡地に現在コンベンションホールを建築中で、
完成のあかつきには、この建物の正面に展示される予定です
建物の完成予想は2020年後半になっています。収容人員約400名の立派な建物になる予定です。
商店街のすぐ近くですので、何かと便利が良いかと思います。
この建物が出来るまでは「杓子」は倉庫に今現在眠っています。

なお、一般的には「しゃもじ」と言いますが、ここ宮島では「杓子(しやくし)」といいます。
長さ7,7m 顔の部分上下2,7m 重さ2,5トン 材は樹齢270年の 欅
製作期間2年10ヶ月 製作者は 宮島細工共同組合 昭和58年(1983年)に製作
作ったはいいが、設置場所が無く、しばらくは「倉庫」に眠っていましたが、平成8年に
世界文化遺産に認定されたのを契機に現在の場所に展示されました。
昭和53年に出雲市の材木市に出品された「けやき」で宮島町が当時、1300万円で購入する

宮島の伝統工芸である「宮島細工」を後世に残すと共に、杓子発祥の地である、宮島のシンボルとして製作しました。
江戸時代には「色楊枝」「五色箸」など土産物としてありましたが、それ以外には主だった「土産」はありませんでした。
宮島の恩人と言われる「僧誓真(そうせいしん)」が厳島弁才天がもっている「琵琶」の形から杓子を考案したと伝えられ、
島民に作り方を伝授しました。

挽物(ひきもの)は県の文化財で、轆轤挽き=刳物(くりもの)=彫刻、と移る
この時宮島に「轆轤技術」を伝えたのが、「小田権六」で1848年から1854年まで6年伝える
存光寺には小田権六の記念石碑があります、
又彫刻については、江戸時代末期に甲斐の国(山梨県)の彫刻師、「波木井昇斎(はぎいしょうさい)」
が木彫りの技術を伝えました。
明治20年(1888年)勧業博覧会で受賞し「宮島彫り」は全国に知られるようになりました。
宮島彫りは、「浮き彫り」「しずめ彫り」「線彫り」などがあります。

今 島内には「轆轤屋」が1軒あり、また 三代目で木工芸 日本工芸会会員の方の土産物店の店の奥で
材料から轆轤 製作まで一貫製作している「店」が1軒あります。探して?

*この後 仁安3年(1168年) 社殿の大改築と造営がある。 神主の佐伯景弘
西の松原について、大願寺の「松原」と呼ばれていた。 経の尾一帯を「西崎」とも読んでいた
古くから砂洲や御手洗川からの堆積物で出来た松原です、清盛神社の裏から先は、昭和20年の枕崎台風での
土石流災害で出た土砂を埋めたてたものです。江戸時代初期までは存在しておらず、大願寺付近は
砂州(さす)になり、「熊毛の洲」と呼ばれていた。
1743年(1739年の土石流の4年後)に広島城下の商人4人によって、50丈(約150m)に及ぶ堤防が築出され
108の石灯籠が作られた。(271年前)       光明院恕信によってこの経緯を記した「大灯籠」が立っている。
天文10年(1541年)470年前土石流 元文4年(1739年)270年前土石流 昭和20年(1945年)9月17日土石流
枕崎台風被害 死者2473名 広島県内行方不明者2000名以上の甚大な被害になる。
宮島は当時佐伯郡といっていました、対岸の大野陸軍病院では156名の収容患者、職員が亡くなられています。

200年に一度の割合で土石流が発生している。その土砂を西の松原に埋めている。(清盛神社のある場所)
1541年(約470年前)  1739年(約270年前)  1945年(約68年前) に大きな山津波が起きている
平成17年、白糸川土石流発生、この時の土石は18000㎥(10トンダンプ、1800台分に及ぶ)

清盛神社
西松原にある清盛神社は昭和27年が平清盛没後770年にあたり、その功績にを讃え
昭和29年に創建された。御祭神 平清盛の霊は三翁神社に祀られていたが、
清盛神社に遷された。(清盛奉賛会)毎年3月20日に盛大な清盛祭りをおこなっている。
一間社流造の玉殿の中に、御祭神が祀られている
昭和20年(1945年)9月に来襲した枕崎台風によって御手洗川に大規模な土石流が発生。
新たに堆積した大量の土砂を運んで、西の松原を延長し、有之浦・大元浦が埋め立てられました。

西松原
大願寺の「松原」と呼ばれていた。  経の尾一帯を「西崎」とも読んでいた
古くから砂洲や御手洗川からの堆積物で出来た松原です、清盛神社の裏から先は、昭和20年の枕崎台風での
土石流災害で出た土砂を埋めたてたものです。江戸時代初期までは存在しておらず、大願寺付近は
砂州(さす)になり、「熊毛の洲」と呼ばれていた。
1743年(1739年の土石流の4年後)に広島城下の商人4人によって、50丈(約150m)に及ぶ堤防が築出され
108の石灯籠が作られた。(271年前)       光明院恕信によってこの経緯を記した「大灯籠」が立っている。
天文10年(1541年)470年前土石流 元文4年(1739年)270年前土石流 昭和20年(1945年)9月17日土石流
枕崎台風被害 死者2473名 広島県内行方不明者2000名以上の甚大な被害になる。
200年に一度の割合で土石流が発生している。その土砂を松原に埋めている。
1541年(約470年前)  1739年(約270年前)  1945年(約68年前) に大きな山津波が起きている
平成17年、白糸川土石流発生、この時の土石は18000㎥(10トンダンプ、1800台分に及ぶ)


巌谷一六
清盛神社に行く途中に御手洗川にかかる小さな橋の袂に大きな石柱がある
この石柱の文字は「明治の三筆」と称された、巌谷一六(本名は修)が書いたものである。
巌谷は滋賀県出身の政治家で、明治元年新政府の管使となり、内閣大書記官・貴族議員を歴任する
初めは「中沢雪城」に師事して「菱湖流」を学び、後に揚守敬(ようしゅけい)から六朝書法(りくちょう)
を学び、独自の書風を確立した(魏・晋・唐を極める)。明治38年(1905) 72歳で亡くなる。
明治天皇の書の先生
菱湖流・・巻菱湖(まきりょうこ)、幕末の三筆といわれた人、
将棋の駒に書かれている文字(タイトル戦に使用される高級な駒)
揚守敬・・中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の「楷書体(かいしょたい)」の総称
中沢雪城・・巻菱湖の高弟で、「菱湖四天王の一人」である
現在も書道を目指す人の中には、巌谷一六の書いた文字を手本とする為、「拓本」を取りに来る人もあると言います。

明治の三筆、とは
日下部鳴鶴(くさかべめいかく)
中林梧竹(なかばやしごちく)
巌谷一六(いわやいちろく)


大願寺
正式名を「亀居山方向院大願寺」と言い、真言宗高野山派です(総本山は金剛峰寺)。
開基は不明で鎌倉時代の建仁年間(1201-1203年)に僧了海により再興されたと伝えられています。
大願とは、厳島神社を護る「大願」を意味する、ことで普請奉行として寺社の修理造営をしていました。
明治時代の神仏分離令では、厳島神社をはじめ九州の「筥崎宮(はこさきぐう)」や「宇佐八幡宮」など、多くの寺社の
修理造営を掌っていました。(本願職としては全国を托鉢する許可を受けていました)
「戦国時代以来、厳島の寺社造営の任にあたり、江戸時代には、棚守・座守、と共に重要な役割を果たしていました」

本堂には国の重要文化財である仏像が四体あり、その中の「本尊薬師如来」は空海(弘法大師)の作と伝えられています。
また神仏分離で千畳閣から移された、行基作と伝えられる「釈迦如来座像」と「阿難尊者像」「摩詞迦葉尊者像」、さらには
五重塔から移した、「釈迦如来座像」「文殊菩薩」「普賢菩薩」の三尊像があります。

大願寺の「厳島弁財天」は相模の国の江ノ島(江ノ島神社)、近江の国の竹生島(宝巌神社)と供に日本三大弁才天の一つです。
厳島弁才天大祭は毎年6月17日に開催されます。秘仏とされる弁才天は一年に一度のこの大祭の時にご開帳されます。

2006年(平成18年)4月には「護摩堂」が140年ぶりに再建されました、中には「1丈6尺(約4m)の総白檀(そうびゃくだん)
の本尊「不動明王半迦座像」があり、この像の開眼式が行われました。
「この仏像は仏師・松本明慶(まつもとみょうけい)、が先代住職・平山真明より依頼を受けて4年半年かけて製作したもの」
左足は乳児の足をイメージしたもので、台座はインドネシア産の「桂化木」です。
桂化木・・・・・木が化石化したものを言う

不動明王半迦坐像・・・・・・仏師、松本明慶の作品
1945年(昭和20年)生まれ、100年に1人と言われる天才。
「慶派(けいは)」の流れを汲む。仏師・野崎宗慶に弟子入り
「慶派(けいは)は、平安時代末期から江戸時代の仏師の一派」、運慶・快慶 などの仏師
1980年(昭和55年)  京都仏像彫刻展で、京都市長賞を受賞する
1985(昭和60年) 京都仏像彫刻展で、京都府知事賞を受賞する。
1991年(平成3年)  大仏師の称号を受ける。
その工房は、松本工房という名称で、京都市西京区大原野の、善峰寺や十輪寺の近辺にある。
京都仏像彫刻家協会会長。

白檀(びゃくだん)
熱帯性常緑樹。爽やかな甘い芳香が特徴、香木として利用される
紀元前5世紀頃にはすでに高貴な香木として使われていた。
白檀は仏の宿る木、香は煩悩を絶つ といわれる
雌雄異株で周りに植物がないと生育しないことから
栽培は大変困難で、年々入手が難しくなっており、
インドネシア政府によって伐採制限・輸出規制が掛けられている。

戦国時代の天文7年(1538年)、尊海上人が、山口の大内義隆の援助にて「一切経(いさいきょう)」を求めて、当時の
李朝であった朝鮮国に渡りました。
この時の日記が大願寺所蔵の「瀟湘八景図」の裏面に記録されており、当時の朝鮮国の様子を記した貴重な資料で
「尊海渡海日記(紙本墨書尊海渡海日記)」として国の重要文化財に指定されて居ます。
一切経・・・・・高麗版大蔵経。厳島の神を「観世音菩薩の化身」と記している。 観音は海難を救ってくれるとされている
尊海・・・・・・・天文年間1532年から1544年、芸州平良の庄(現在の廿日市市平良のあたり)の生まれである
        当時の李王朝の都、漢城(現在のソウル)に尊海は行く
        室町時代の160年間は、経済・文化の上で李朝と日本は密接な関係を維持していた。

当時は「五重塔」「千畳閣」「多宝塔」をはじめ、境内にあった、さまざまな堂宇(建物)を含めて「厳島伽藍」と称し、その中心を
「大願寺」が占めていました。

厳島合戦後から10年後の永禄7年(1565年)、大願寺の裏手にあった「大湯屋の再興」がありました。
大願寺の裏手には「千石門」といって、満潮時には「千石船」が着船で切る入り江があり、そこに舟を着け大願寺に参詣後、
清めの「風呂」に入り、真新しい白足袋や履物に取り替えて「西廻廊」入り口から入っていました。
右手には手水鉢(文化10年1800年)があり身を清め、すがすがしい気持ちで参詣していたと言われています。

大願寺の書院では江戸時代の末期、慶応2年(1866年)9月2日第二次長州戦争の際、幕府方の勝海舟と長州藩の
広沢真臣・伊藤馨・木戸孝允(桂小五郎)らが和平会談を行ないました。書院には「伊藤博文の扁額」があります。
「8月21日軍艦奉行・勝海舟が来広し、9月2日には広島藩の辻将曹・植田乙次郎の仲介にて、大願寺書院にて、長州藩の
広沢兵助(1865年に広沢真臣に改名)・春木強四郎(井上馨)らと会見した}

書院の軒の下には「錦帯橋の模型が飾ってあります」、これは明治29年(1896年)に「岩田三郎左衛門より寄進されたもので
19世紀末にパリ万国博覧会に出品した1/25の模型です。(この時・徳川一行が行く団長は徳川昭武 14歳(一行は28名))
徳川昭武(1853年9月24日生)、11代水戸藩主。慶喜の異母兄弟
慶応3 (1867) 年パリ万国博覧会の日本代表として15代将軍慶喜の名代に派遣され,
外国奉行・竹本隼人正,渋沢栄一 ら幕臣を連れて渡仏(ナポレオン3世に会う),
渋沢栄一、・・・日本資本主義の父、理化学研究所の創設
昭和25年(1950年)のキジア台風により錦帯橋が流されてしまいますが、この時再建するにあたりこの模型を参考にしたとも
言われています。(橋脚は残ったが橋は流されてしまった)
「錦帯橋は延宝元年(1673年)岩国第三代領主・吉川広嘉の時に完成。石の橋脚は吉川公が「穴太衆」の所に配下の者を
2年間研修に行かせ、石組みの勉強をさせ、現在に見られる石の橋脚を組んだといわれています」

境内には、変わった「松」が生えています、根っこが一つで上には木が九本生えています、高さは16mあります。
これは初代内閣総理大臣・伊藤博文がお手植えしたものです。
(旧宮島町の天然記念物に指定されています)
大変残念なのですが、今年令和3年4月松枯れの為切り倒されました。





伊藤博文は弥山山頂にある、三鬼大権現を深く信仰していた為、何度もここを訪れています。
弥山登山道の一つ「大聖院登山コース」は彼が整備したものです、
当時のお金で7000円、現在のお金では1億4000万円くらいと言われています

三鬼大権現  ① 時眉鬼神(大日如来の化身) ②追帳鬼神(虚空蔵菩薩の化身) ③摩羅鬼神(不動明王の化身)
          と言われており、山頂の三鬼堂には、伊藤博文の「扁額」が掲げられています。

伊藤博文
1885年(明治18年)、12月22日 初代内閣総理大臣になる
1892年(明治25年)  2次
1898年(明治31年)  3次
1900年(明治34年)  4次   内閣総理大臣を歴任

1909年(明治42年)10月26日  ハルピン駅で「安重根(あんじゅんぐん)」に暗殺される

          大日如来・・・・・・・・密教においては宇宙を司る
          虚空蔵菩薩・・・・・・・知恵と福徳を司る
          不動明王・・・・・・・・人々を迷いや苦しみから救い、あらゆる病を治す

入り口には「楼門」があります
「楼門」が建てられるのは大変格式の高い寺社のみで、江戸時代には広島藩で許された寺社は4社のみである
 ① 大願寺 ② 大聖院 ③ 福王寺(広島市可部) ④ 西国寺(尾道市)
門の横には「仁王像」がおりますが、これはもともとは、桟橋前の小高い丘の上に、「仁王門」がありその横にあった「像」ですが
仁王像(金剛力士像)とは 共に仏を守護する、「夜叉神」である
金剛は那羅延金剛(ならえん)の事、力士は密迹(みっしゃく)力士の事
金剛杵(しょ)を持って仏法を守護する神。大力をもって悪魔を降伏(ごうぶく)する。寺門の左右に置かれる。
門の向かって左が那羅延(ならえん)金剛、右が密迹(みっしゃく)金剛。仁王。金剛手。金剛神。
阿形の開口は「私達の心の眼を開け」と教え、吽形の閉口は「口の門を閉じ、煩悩による一切の悪魔を遮断しなさい」
と教えている。と言われている

明治のはじめに仁王門が取り壊しになろ、「仁王像」のみがこの楼門の横に取り付けられたものです、したがってよく見ると
楼門の内側の柱と外側の柱の時代差を感じると思います、よく見てください。
向って左が「那羅延金剛」、右が「密釈迹力士}像で、金剛杵を持って仏法を守護する神、大力をもって悪魔を降伏する為
なお、広島不動院に桃山時代の楼門があるが、正しくは二重門(屋根が二重の門)で、楼門ではありません。

門に貼ってある「千社札(せんじゃふだ)」について
千社札とは、神社や仏閣に参拝を行った記念として貼る物で、自分の名前や住所を書き込んだ札のことである。
「題名を記した札(題名札)が貼られている間は、参籠(さんろう:宿泊参拝)と同じ功徳がある」と言うことから、
日帰り参拝者が参籠の代わりに自分の札を貼った事から始まり、神社仏閣の許可をもらって御朱印を頂いた上で千社札を張るのが
本来の慣わしである。神社仏閣に無断で貼ったりすることは不道徳である。
外寸法で幅48ミリ高さ144ミリと決められた。比率はいずれも1:3となっている
千社札に使われる文字の書体は、江戸文字の「籠文字」が用いられる。小さく入れる場合は、「寄席文字(よせもじ)」も使われる。
錦絵と同じ江戸木版画によって印刷される。
江戸時代の「厳島図会」を見ると、楼門の向きが変わっています。元は宝物館の方角に、入り口がありました。 
その後前面の道路拡幅工事に伴い、現在のような入り口に変わったようです。

山門と三門の違いは?
浄土宗の総本山「知恩院」は、三門。「山門」は中国でお寺を「○○山」と山号(さんごう)で呼んだことに由来する。
知恩院の三門には「華頂山」の額がある。
「三門」は?、 「三解脱門(さんげだつもん)」の略である。「空(くう)」、「無相(むそう)」、「無願(むがん)」を表すと言う
悟りに通じる三つの解脱の境地を門という形で表している
「空(くう)」・・・・・・愚かさ、物事にこだわらない
「無相(むそう)」・・・・怒り、差別しない
「無願(むがん)・・・・・欲望、欲望を求めない

この三つの迷いから抜け出すことを「三解脱」して、心すっきりしてお参りをする。
東福寺の三門、 禅宗の東福寺三門は「大仏様(だいぶつよう)などが混じっている」
知恩院の三門、 禅宗様式の典型的な門
この二つの門の違いは、①大仏様は白塗りの組物が柱に差し込まれ手前にせり出している
     ②禅宗様式の門は手前にせり出していない、普通の門形式である
そもそも「三門」は中国から禅宗と共に伝わり、特に本山級の寺院、五山で大型の門が建てられる様になった
共通するのは「五間三戸二階二重門(ごけんさんこ)」である事で、
「柱で5つの間に仕切りされた中に3つの扉があり、2階建てで屋根が2つある門」 のことを言う
門は何気なく通るが、本来「三門」をくぐるのは、それなりの重みがある

ここで神社・仏閣を取り巻く現状を少し書いてみましょう

再建 異国の木材頼み
①  徳川家康を祀る、東照宮などと共に世界遺産に登録された、日光山輪王寺(りんのうじ、栃木県日光市)の
   大護摩堂の再建(1998年6月)には、「カナダ 檜」が使用された。
   巾4m 長さ8m 竜の天井を描くには、歪みの無い1枚板が必要であったが、国内では調達出来なかった
   (カナダ・ヒノキ・・・・カナダ南西岸 バンクーバー島より持って来る。樹齢800年以上)

②  1976年再建の奈良薬師寺の「金堂」は、「台湾・ヒノキ」を使用

③  2010年10月 興福寺の中金堂再建は、柱に「アフリカ・カメルーンのケヤキ」を使用

この様に日本の8割近くが外材を用いている。 と言う「宮大工」もいる
寺社に使う「大径木」は国内では既に枯渇、現在は台湾・カメルーンなど、海外でも「輸出」に厳しい制限を
かけており、減少の一途をたどっている。
数百年先を見据えた「森林育成」を国内ではどのようにするのか、現在「林野庁」では国内10箇所の国有林に
植えた、「ヒノキ・スギ・ケヤキ」などを、「直径1m以上・樹齢200年~400年」となるまで見守るとの事。
また「文化庁」では岩手から熊本まで全国62箇所の民有林などで「大経木」を育てる

匠の技も危機にある
現在日本全国に約4700棟ある、国宝・国の重要文化財の建造物の1/4を「桧皮葺・杮葺」が占めている。
これを「固定」するに欠かせないものとして「竹釘」がある
「竹釘」は「錆びず・腐らず」50年間耐えるが、竹釘の製造業者は全国で唯一、兵庫県丹波市の
「石塚商店」のみである(神社で抱えている職人は別・・・・例 京都・下鴨神社では8人の職人が現在2人)
竹釘を作る「職人」になるには最低10年は必要と言われている。
(竹釘を口に含み、素早く取り出して打ち付ける、口の中が荒れない様に表面を滑らかに加工する技が重要)

ちなみに、平葺きの場合竹くぎは4000本/坪必要。檜皮用は4.5㎝ 杮葺は3.6㎝の長さです。
北緯37度以北は「杮葺」以下は「檜葺」をよく見ます。
竹は、厚く弾力性のある「真竹」は3割くらいで、あとは中国からの「孟宗竹」が約半分くらいです

屋根瓦や壁の修理には「深草土(ふかくさつち)」が欠かせない。
藁や石灰・砂を調合するには、長年の勘と熟練の技が必要だ。現在「深草土」は京都市伏見でしか採れない。
この「深草土」を唯一採取・販売する「浜橋組建材」のみで、採算が合わず殆んど「ボランテイア」状態である

国宝・重文の「表具修理」に必要な「打刷毛(うちばけ)」を作るのも、京都下京区の老舗「藤井松華堂」だけ。
本紙と裏打紙(うらうち)を密着させるのには、「毛の適切な硬さ」と手になじんで疲れない「持ち手加工」の技
が必要で「イギリス・大英博物館」の修理担当者も訪れると言う。