知りたい宮島

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

知りたい宮島 詳細編 6

2023年04月28日 20時41分28秒 | 世界遺産
現在日本には約4700棟の国宝、重要文化財があると言われているが、その1/4を「檜皮葺き」「杮葺き」が占めている。
軒釘は、2500本/坪、平葺は4000本/坪 必要とされている。
しかし、高いのが難点で、坪当り50~55万円かかる、これは、ちなみに銅板・瓦葺の価格に比べると5~10倍

現在、重要文化財に指定されている檜皮葺の建物は約700棟(重要文化財以外も含めると1,650棟)あり、
700棟の維持に年間約3,500㎡の葺き 替えが必要である。

正面の裳階(もこし)
正面の軒の中央部分を切り離して、一段上げる、面倒な工法がとられている。平安時代の建物にはしばしば
見られるが、その後はほとんど構えられなくなった。誠に美しい軒で、「平等院鳳凰堂(宇治市国宝)」
「日野法界寺阿弥陀堂(京都市伏見区・国宝)」などがその典型的な例として挙げられる。

二重虹梁・蟇股
祓殿の拝殿側の妻は「二重虹梁・蟇股」になっている。大虹梁、二重虹梁と二重に架け、「その間に3個
の蟇股を用いたもので、奈良時代以来多く使われた形式で雄大豪壮な感じがする。
虹梁は、下の長大なのを「大虹梁」、上の短い方を「二重虹梁」と言う。誠に巧妙な構架法である。

蟇股
平安形式で輪郭の曲線は、宇治上神社(京都市・国宝)のそれと、同じである
拝殿・祓殿(舞殿)、は鎌倉時代の仁治2年(1241年)の再建で全国最古の建物です。
** 「影弘解文」と通称される、仁安3年(1168年)11月の「伊都岐島社神主佐伯景弘解」と
「伊都岐島社千層供養日記」は、平安末期の厳島社の社殿の様相を示し、かつ
それぞれの建物が当時の祭祀の中でどの様に使われたかを示す唯一の資料である
以下この資料に基づき、記述をする。

「影弘文書」によれば、厳島社の建立は推古天皇の時代の事である、この時従来の板葺きを全て桧皮葺に改め
更に金銅により荘厳華麗を施したと、述べている
仁平2年(1152年)に平清盛が再興、但し現在の社殿は貞応元年(1222年)から建立を始めて
寛喜2年(1230年)に遷宮したと報告あり(厳島野坂文書1896)
大宮御殿は将軍・足利義昭から毛利輝元に命じて中興し、元亀3年(1572年)に遷宮した。

この造営による厳島社の建物規模は、本宮37宇、間数300間。外宮19宇、間数77間となっており、
従来より「厳島社」の祭祀を司っていた「佐伯氏」は島内外にこうした大規模な社殿を造営する事で安芸国内
での地位を強固なものとし、中央政府との繋がりを深めていったものと考えられる。
以後の修理・造営に関する費用は「国司の重任の功」をもって充て、神主職は「佐伯氏」が継承する事も
「影弘文書」には述べられている。

** 社殿の構成については
本社(大宮)本殿、屋根は桧皮葺で「宝殿」と称される、又 拝殿(三棟造)で「影弘解文」には「二棟」とあり、
火災の後の再建で「三棟」に変更されたのかも知れない。
幣殿にあたるものは無く、祓殿にあたるものは、現在の客神社祓殿と共に「舞殿」と記されている。
これらの「宝殿」「拝殿」「舞殿」が現在の本社・客神社のそれらと同じ位置にあり、その他付属する建物との間
を113間の回廊が結んでいたものと考えられる。
この様な厳島の海上社殿に
➀ 承安4年(1174年)3月に後白河法皇。 10月には「一切経」の法会がおこなわれた
➁ 更に治承元年(1177年)10月には、清盛ら平家一門により「千層供養」が開催され「行道会」が行われた
➂ 治承4年(1180年)3月。9月と高倉上皇が参詣する。
この時の供は、入道大相国(平清盛)、前右大将宗盛、大納言邦綱、藤大納言実国、源宰相中将通親、
頭左中将重衡、宮内少輔宗範、安芸守在経、らであった.(源平盛衰記、巻23)

蟇股(かえるまた)について
祓殿の「蟇股」は平安時代末期のもので、特徴は左右が別々に作られている事です(二木造)、合掌造とも言う。
蟇股(二木造)
蟇股について更に詳しく触れておきましょう
二木造りは珍しくなかなか見ることが出来ないと言われますが、京都の宇治上神社と厳島神社は約1168年頃に作られた物と言われていますが、
一乗寺三重塔・醍醐寺本堂・中尊寺金色堂に見られる二木造りの蟇股は、時代が更に100年古く、約1065年位に作られた物と言われています。
又、見て比較するとよく解りますが、時代の古い蟇股は高さが新しい蟇股に比較して、かなり高い物になっています。
高さの高い蟇股は時代が古く、高さの低い蟇股は時代が少し下がり、100年位あたらしくなります。
又、刳り貫きのない 「板蟇股」と刳り貫きのある 「本蟇股」があります

寝殿造りについて触れると、
寝殿造りは社殿と中心に鳥が翼を広げたような形に、「渡り廊下」でつないで「対屋(たいのや)」を配し,前面には祭礼の場である「庭」、更に南には「池」を配する建築様式を言う

屋根は「桧皮葺(ひわだぶき)」
ここ厳島神社の屋根は全国でも珍しい、桧皮葺きに瓦を積んだ「化粧棟」となっています。
また、ツルが飛んでいるような優美な曲線を描いています。

本社本殿・客殿などは 五色の色(赤・白・青・黄・黒)が塗られています。これは中国の「陰陽五行説」に由来するもので
赤は 柱・梁・垂木  白は 壁などの板材(神社では漆喰は使用禁止です、お寺は漆喰の白い壁をしよう)
青は 窓や格子戸・連子窓(緑青に塗られていた)  黄色は 材木の木口 黒は 蔀(しとみ)・破風板の上の部材

祓殿で行われていた祭典は以下のようであった
当初は「直会(なおらい)」の場として使用されていた。
明治10年 「36歌仙板絵」 
明治29年 「長沢蘆雪の山姥図」他、多くの絵馬が「廻廊」「祓殿」にが掲げられていた、しかし明治33年に台風による大きな高潮が発生、
  絵馬が流出する事となる、その為現在は「千畳閣」に一部を掲げ、残りは保管(170枚の絵馬を保有・これは日本一の数です)
明治13年 厳島学校生徒の社篭(しゃろう)が行われ、ここで昼食を取る
明治24年9月 29年6月 宮島で「海軍兵学校の運動会」が行われ、ここで昼食を取る
明治29年2月(旧暦)晦日に「相立場」が行われた、これは従来大晦日に行われていた「年越相場」にならって始めたと言われ、
その後は「米取引」の形を取り入れた。「宮島相場」と言う、催しとし戦後はしばらく続いた。
明治29年10月 厳島町の各町内が社篭として、祓殿・楽房で酒宴を催した
明治32年10月 ここでの飲食の禁止、廻廊内を喫煙したままでの徘徊を禁止となる。
厳島小学校の「書道大会」も開かれ、
現在では「御衣献上式」や「市立祭」のお祓いなどの他に、諸芸能の奉納の場として使用される

明治4年には、千木・勝男木がつけられていた。
明治34年に「古社寺保存法」により、千木・勝男木が下ろされる
明治34年1月28日から大正8年7月までは、俗に言う「明治・大正の大修理」がおこなわれる(20年かかる)

高舞台(国宝)
舞楽が舞われる所です。桃花祭・菊花祭などで舞楽奉奏が演奏されます
舞楽とは、管弦による舞踏のことで、振鉾・陵王・納曽利・万歳楽・延喜楽・太平楽・抜頭など二十数曲が今なお厳島神社に伝承されています。(舞楽の演目は三十六曲ある)
この舞台の擬宝珠には、1546年(天文15年)棚守佐伯房顕(たなもりさえきふさあき)の銘があり、奉納した事が判ります。
(約468年前、本殿に近い方の一番左右の二つの擬宝珠に書いてあります)
ちなみに、この擬宝珠を造ったのは、廿日市の鋳物師で「久枝綱家」の作、五重塔の擬宝珠も同様です。
以下の文字が刻印されています。
「木帽子(擬宝珠)鋳奉檀那當棚守左近蒋監房顕天文十五年丙午六月」
きぼうし いたてまつる だんなとう たなもりさこんしょうげんふさあき てんぶんじゅうごねん ひのえうまろくがつ
檀那(だんな)・・・・・・施主のことをあらわしている。
左近将監(さこんしょうげん)・・・・・棚守代々の官職名
房顕(ふさあき)・・・・・・毛利元就時代の有名な棚守(現在の野坂宮司の先祖)

日本三舞台の内の一つで、大坂四天王寺の石舞台・住吉大社の石舞台を日本三舞台と云う。

舞楽は清盛が社殿を造営した時に、大阪の四天王寺から舞楽を厳島に伝えたのが始まりと言われています。
今日でも毎年正月二日の「二日祭」と三日の「元始祭」の舞楽は「天王寺楽所雅亮会(がくそがりょう)」の応援を得て行われている。
実は「舞楽鑑賞」の日にちは決まっております。
1月1日 歳旦祭(さいたんさい) 午前5時から  振鉾
1月2日 二日祭(ふつかさい)  午前8時30分から 万歳楽 延喜楽
1月3日 元始祭(げんしさい)  午前9時から 太平楽 狛鉾 胡蝶楽 陵王 納曾利 長慶子
1月5日 地久祭(ちきゅうさい) 午後5時30分から 振鉾 甘州 林謌 抜頭 還城楽 長慶子 
4月15日 桃花祭(とうかさい) 午後5時から 振鉾 万歳楽 延喜楽 桃李花 一曲 曾利古 散手 喜徳 陵王 納曾利 長慶子
5月5日 外宮の地御前神社にて舞う ここ最近は 陵王を舞う
5月18日 推古天皇祭遥拝式(すいこてんのうさいようはいしき) 振鉾 万歳楽 延喜楽 陵王 納曾利 長慶子
7月7日(旧暦6月5日開催) 市立祭(いちだてさい) 午前9時から 振鉾 万歳楽 延喜楽 陵王 納曾利 長慶子
10月15日 菊花祭(きっかさい) 午後5時から 振鉾 万歳楽 延喜楽 賀殿 一曲 曾利古 散手 喜徳 陵王 納曾利 長慶子
10月23日 三翁神社祭(さんのうじんじゃ) 午前10時から 振鉾 万歳楽 延喜楽 この時は神社裏手にある「三翁神社」にて舞楽を舞う
この実施日以外でも、神社に舞楽舞の要請をすると舞ってくれます、但し少しお金が必要ですが、平舞台は貸し切りとなり、一般の方々は
平舞台に入る事は出来ません(要請者の貸し切りになり、目の前で鑑賞できます)。
舞楽は、7月 8月 9月 の三ヶ月は「暑い」ので舞いません。

舞楽を舞う人が「舞楽を舞うのにこれ以上舞台が小さいと舞えない」と呟くのを耳にします、
これは以下の様な考えのようです。
「高舞台正面の幅はほぼ本社祓殿の中央柱間と同じ大きさである、本社祓殿の原形は仁安の造営(1241年)の「舞殿」
であった。
この舞殿の前に置かれた舞台(高舞台)を使って治承元年の千層供養の時には舞楽が行われた様である。
舞殿(現在の祓殿)の中には蓋高座が設けられた、この蓋高座を使って千層供養時には舞楽が行われた
この蓋高座を高舞台の元祖と考えると、舞殿(祓殿)の中に設置しても使用できる大きさでなければならない事になる、
すると、おのずと舞台の大きさも限られて小さな舞台になってのではないかと思われます。

旧暦の6月17日には「管弦祭」が行われると先に言いましたが、旧暦では6月が二度訪れる年があります。
この時は「居管弦祭」と言う、管弦祭が催しされます。
「居管弦祭(いかんげんさい)」とは、居ながら行う管弦祭の事で、御座舟は使用しません、
高舞台を利用して、平舞台の上で行います。
高舞台の前に船の帆先を付けて祀ります(高舞台が御座舟の代わりをします)。
三艘分の船の帆先は千畳閣に置いてありますので、
誰でも見ることが出来ます。屋形と高舞台の間に12ヶ月の造花つけて飾る。
1月は松 2月は梅 3月は桜 4月は山吹 5月は花菖蒲 6月は若竹 7月は萩 8月は朝顔 
9月は桔梗 10月は菊 11月は紅葉 12月は水仙 の花を飾る 。
この時は「鳳蓮」は移動しない(昭和5年・16年・35年・54年・62年に居管弦祭が実施されている.)
なお、この高舞台は平舞台の上に置いてある様に見えるが、実際は平舞台とは関係なく、
海底から花崗岩の柱を建ててその上に高舞台を造っているものです。

四隅の親柱の外側に直径4分(約5センチ)の穴が付いている。
これは「幡飾り付きの鉾」を立てるときに使ったものと思われる。こうした金具の取り付けは、
他の舞楽舞台には見られない装飾である

右楽房・左楽房(国宝)
舞楽の時に管弦を奏するところです。左右ありますが「舞楽」を舞う時には二つの流れがあります。
左の舞、・・・・インド・唐(中国)から伝わった舞を言い、
左舞を舞う時は左楽房で奏します「これを唐楽(とうがく)及び林邑楽(りんゆうがく)と云う」
右の舞、・・・・朝鮮半島から伝わった舞を言い、
右舞を舞う時は右楽房で奏します(「麗楽(こまがく)及び渤海楽(ぼっかいがく)」
衣装については
右舞・・・・・青色(緑色)衣装で金具は銀色で、メロデイで舞うと云われています
左舞・・・・・赤系の衣装で金具は金色で、リズムで舞うと云われています

平舞(ひらまい)・・・・優美な装束を着て4人以上で演じるゆったりした舞い
走舞(はしりまい)・・・華燭な装束を着て1人、又は2人で演じる
番舞(つがいまい)・・一つの演目に対して割り当ての演目が決まっている舞い
             例:蘭陵王の舞と納曽利、 延喜楽と万歳楽 の様に

舞楽面も厳島神社に伝わっており、平清盛が大坂の「四天王寺」から舞楽を移した時には、「舞楽面」が9面伝えられた
千層供養時には舞楽は24曲あり、その内12曲が現在も厳島神社で舞われている。

「舞楽」は平清盛によって、
大坂四天王寺(聖徳太子が開く)から約820年前に伝えられたものが現在も神職によって伝承されています。
左右楽房・左右門客神社は、清盛が神社を建立した時にはまだ存在しておらず、当時は簡単な建物を立てテントで覆うて、
使用していたようです。(是を幄舎(あくしゃ)とも幄(あく)の屋と呼んでいた。
幄屋(あくのや)・幄舎(あくしゃ)・・・・・・五色の布で出来た一種のテントで祭礼日に臨時に張られた  
参考
芸能が演じられる為には「場(舞台)」、「人(演者や見る人)」、「動機(目的)」が必要。
厳島においては、弥山原始林を背景に優美な社殿が海上に浮かび、この上ない「場」の設定がある
また神主や、巫女、楽人、舞人、役者、平家一門、や海上参詣する信仰厚い人々など多くの「人」
がいる。そして人々には神を祀り、一門の栄達や天下安穏・五穀豊穣・息災延命・海路の安全など
さまざまな祈りを捧げる「目的」があった。

ここ厳島には8百年余の伝統を持つ「舞楽」、4百年来演じられている「神能」がある。
厳島神社 舞楽 神能について
舞楽
現存する神社の伝統的芸能の内、厳島神社の舞楽は最も長い歴史を持っている。
清盛の参拝
仁安4年(1167年) 2月 9月。この年は平家納経33巻奉納、太政大臣に昇任する
承安3年(1173年) この年「舞楽面」7面が奉納される
治承元年(1177年)10月。 千層供養行われる(下記に示す)
治承3年(1179年) 1月 6月 
治承4年(1180年) 8月 10月
など、10数回にわたり宮島に参詣している。
清盛の度重なる厳島参詣の中で「舞楽」は招来されたに違いないと思われる。
すなわち厳島神社の招来は記録に表れた、清盛の厳島参詣の永禄元年(1160年)8月から
厳島舞楽の初見とされる承安4年(1174年)3月の間と考える。   みなもとすけかた
 後白河法皇の厳島参詣は承安4年(1174年)3月16日。建春門院・清盛・源質賢など
を伴って、京を出発3月26日に厳島に到着している。
これが後白河法皇の厳島参詣と厳島舞楽の初見とされている。
 「内侍2名が唐装束で舞楽の「五常楽・狛鉾」を舞う。
  前年の承安3年(1173年)には、舞楽面7面が奉納されている。
  いずれも檜の木彫彩色で、大型の薄手で軽く、都の当時一級の彫技によるもの。
  ➀ 二の舞(笑面) 尉(じょう) 平盛国が調達する
  ➁ 二の舞(腫面) 姆(うば)
  ③ 抜頭 尊勝寺の仏師の「行命」・・・平安時代後期に活躍した仏師
  ➃ 納曾利
  ➄ 還城楽 京都 六勝寺の一つ「尊勝寺」の舞楽面を模して厳島に調達
  ➅ 散手
  ➆ 貴徳

治承元年(1177年)10月の千層供養について
11日 清盛一行来島
12日 予行演習
13日 昼より次のように行われた
南廊  66間+仮設の20間=86間 に500人の僧侶
北廊  59間+客神社の拝殿、舞殿(祓殿)、粥座の他
院御所の殿上廊、朝座屋 などに500人の僧侶 を並べた
夜は「万燈会」が行われた。
大鳥居の外、社殿を囲むように東の宮崎と西の西崎から海中に柵を渡し、三尺間隔で上下二段
に松明を結び付け、対岸の浜にも数十町にわたって柵を設けて、五尺間隔で松明を結び付けた
更に千僧の座の後、一間ごとに大松明を立てるという大がかりなものであった。
松明に一斉に火が点じられると、まるで海底に火を敷き詰めたようであった。

当日(13日)は清盛、三位 らの上臈は早朝から参詣し、
左方 36人
右方 37人が「粥座」まで行進する。
内侍(妓女)たちによって「五聖楽(五常楽)、狛鉾」が舞われ、次いで「安摩・二の舞・
万歳楽・延喜楽・太平楽・皇仁・散手・貴徳・陵王・納曾利」の舞楽が奉納された。
15日
帰京の安全を発願する。恒例の一切経会が30人の僧侶によって、恒例の作法と順序で行われる。
この時の舞楽は24曲になるが、今現在12曲が舞われている。
➀ 振舞 ➁ 万歳楽 ③ 延喜楽 ➃ 陵王 ➄ 抜頭 ➅ 狛鉾 ➆ 太平楽
➇ 散手 ⑨ 喜徳  ⑩ 林歌  ⑪ 甘州  ⑫ 納曾利 
以上12曲が八百数十年を経た今日まで伝えられている。
また、曲目だけではなく先導する神宮の名や多くの舞人・楽人の名が書き留められている
(14日の千層供養)
平家一門を中心に神宮・象僧・妓女(内侍)・舞人・楽人を多数動員した「千層供養」「行道会」
「一切経会」が中央社寺の祭礼に勝るとも劣らない盛大な祭儀であった事が知れる。
12名の妓女(内侍)により「五常楽・狛鉾」などの女舞があったことも明らかである。
「春鶯囀(しゅんのうでん)・新鳥蘇・甘州・敷手」の四曲がこの時新たに習った曲であった。
この内「甘州」は、先に妓女による女舞であったが廃れたので改めて男舞として習い留めた。
清盛が帰京した後も「平三殿」は残り、厳島の人達に舞楽を伝授している。
15日の舞楽の内「納曾利」、奉楽の「太鼓」を平家一門の小松少将維盛が勤め、維盛の弟清常
に比定される、平三殿は「陵王・万歳楽・振舞・春鶯囀(しゅんのうでん)・抜頭」など多くの
曲を舞っている。清盛は藤原氏が支援する京都・奈良の舞楽に対抗して、大阪市天王寺の
「天王寺流舞楽」を厳島に移入してのではないかと言われている。
厳島と四天王寺の舞楽の関係は、平家の時代以来続き、今日でも毎年正月二日の「二日祭」と
三日の「元始祭」の舞楽は「天王寺楽所雅亮会(がくそがりょう)」の応援を得て行われている。

廊嘴(したさき)とも言い、平舞台から突き出た部分をいいます。名前の由来は諸説あるようですが、
昔管弦祭の時、御座舟が厳島神社に帰ってくる時に、ここに篝火を焚いて、是を目安に御座舟が入ってきた為とか、
空から見ると回廊がうねうねとまるで「龍」がうねっている様に見え、
その口先(舌先)の様に見えるので、火焼前・廊嘴と言ったと言われている。
参考
表参道商店街を出た所、左右の土産物店に挟まれるように注連柱があります、そこには以下の様に文字が書いてあります。
 かいろうさんようげんりゅうし  かひょうちゅうしんきゅうかくよく
海側には 「廻 廊 蘸 影 現 龍 姿」     山側には 「華 表 柱 深 休 鶴 翼」
蘸(さん)…・・・水中に入れる 水に浸す。  
現・・・あらわす、見えなかったものが見えてくる
 巖国老田塩谷處書、と書いてあるのが解ります
塩谷處・・・周防の出身で幕末・明治前期の儒学者。維新後福岡県の大参事(副・県知事)となる

大鳥居からの距離は「88間」あります
先端には、寛文10年(1670年)の銘のある青銅製の燈篭が、寛政9年(1797年)の築かれた石の台上にある、
左右門客神社の脇には、天明5年(1785年)銘の青銅製燈篭が二基並んでいる。
管弦祭の時にはここから、祖祭神を遷した鳳輦が浜に降りて、大鳥居沖に待っている御座船に乗せます、

平舞台、平らな屋根の無い部分を「平舞台」といいます。神殿造りの場合、前面に祀り事を行う庭があり、その前には池があり、
池には右側から小川が注いでいないといけない、と云う決まりごとがあり、その庭に当たる所は平舞台です、
前の大鳥居までの海を「池」に見立てています(玉御池と云う)。
束石は「赤間石」で毛利元就が寄進したといわれています。元亀2年(1571年)の「元亀の遷宮」に際しての元就の寄進
広さは「187坪」もあり、この平舞台は「束石」の上に載せてあるだけなので、台風などの高潮時には浮き上がり、その後は又元に戻ります。 
束石は全部で218基ありました。
 
平舞台は清盛の頃よりあり、その時は廻廊と同じ朱塗りの高欄が設けてありました.
1177年10月14日の千層供養では大勢の人々が極楽浄土の仮装をして行列を組み境内を歩く
「大行道会(だいどうぎょうえ)」の行事があり、その出発点が「平舞台」であった。

「元亀の遷宮」について
元亀2年(1571年)の本殿を遷宮している。本殿は3度建て替えていると、先に言いましたが、
1207年 本殿焼失8年後に遷宮   1223年 本殿焼失 遷宮は20年かかりました                                                                  
1568年 和知兄弟の謀反
(元就の長男・毛利隆元を毒殺したと言う、疑いのかかった兄弟が12月に本殿に逃げ込み 69年1月に本殿にて自刃する。)
 本殿が「血」で穢れたといい、建て替える。是を「元亀の遷宮」と呼んでいる
1571年 本殿遷宮終わる

この時の遷宮における「お金」は現在世界文化遺産に指定されている「石見銀山」からのものです。
銀の供給を受け(銭に換算して約26万両とも言われています)。
この時の石見銀山奉行は「平佐就之(ひらさなりゆき)」で後に(1584年)銀山の狛犬を寄進している。
この狛犬が大変珍しく、薄い銀の板数枚を繫ぎ合わせて作ってあります、大変小さな狛犬ですが、大きな目をした愛くるしい顔をしています、
切手にもなっています。かつて、神社の廻廊には多額の寄付をした、檀那の名を記した「棟札(寄進札)」が掲げられていました。
主に戦国時代 114枚の棟札が記録されていましたが、その内23枚(約20%)は石見銀山の住人によるものでした。
時は「菊花祭」の時におおく参詣しています。

石見銀山は、当時山口 北九州 遠くは備前辺りまで支配下にあった「大内義興」の武力下にあり、大永6年(1526年)
3月には、筑前博多の豪商「神屋寿貞」によって始められ、鷺銅山(さぎどうざん)の門」とそ銅主「三島清右衛の弟子
や「堀子」たちを連れて入山する。
1533年8月には「神屋寿貞」は南朝鮮から「慶寿」と言う銀吹師(かねふきし)を招き「灰吹精錬(はいふきせいれん)」
と云う新しい技術による精錬法式を伝える。この事により、銀山は目覚しい量産に入る(銀算出の歩留まりが大変高くなった)

灰吹き法による著しい銀の産出情報が伝わると、近隣の武将たちが狙い始めた。
銀山を目指して「大内氏」「尼子氏」が対立、大内氏が滅びると、銀山を巡る抗争は「毛利」「尼子」の熾烈な戦いとなる。
元就が完全占領するまで30年余り、激戦は8回にも及んでいる。

左右門客神社
清盛が厳島神社を造営した当初はありませんでした
鎌倉時代に新設され、室町時代に再々造られたものです。 門(もん)を司る神様で左右にあります。
厳島神社のご祭神をお守りする神様がいる所で、
右門客神社には、櫛磐窓神(くしいわまどのかみ)、 左門客神社には、豊磐窓神(とよいわまどのかみ)がお祀りされています。
中の玉殿は「見世棚構(みせだなかまえ)」の一間社流造(いっけんしゃながれつくり)になっており、
古くは戎社(えびすしゃ)と云う名で呼ばれ、俗に「沖恵比寿」と言っていました。
玉殿を良く見ると、細部にわたり違いが有ります、意匠・木鼻、等々
流れ造り・・・・・屋根の軒の長さが、手前と奥川で違います、手前が長い作りをいいます。
玉殿の屋根は栃葺きとなっています。

屋根の葺き方
杮葺き(こけらぶき)・・・・・・最も薄い板を使用する(2~3ミリ)
木賊葺き(とくさぶき)・・・・・杮葺きよりも厚い板を使用する(4~7ミリ)
橡葺き(とちぶき)・・・・・・・・最も厚い板を使用する(1cm~3cm)、大和葺き(やまと)とも呼ばれるが

大国神社(だいこく)
厳島神社の摂社にあたり、ご祭神は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」がお祀りされています。
時々、おおくに神社という人がいますが、正しくは「だいこく神社」です。
大国主命は、「国造りの神・農業神・商業神・医療神・縁結びの神」です
一段高い幣殿の右側が、昔 「神饌(しんせん)」の仮案所」で御本社裏の御供所から運ばれて来た神饌をここに置き
ここから先は「内侍」が運び本殿にお供えしました。
黒塗りの格子戸がありますが、これにまつわる面白い話があります
一説によると、大黒様は耳が不自由だったので、願掛けをする際には、この格子戸「コト・コト」と動かして、音を立ててから
お願いしないと願が通じないとも言われ、「コト、コト 大国様」とも呼ばれています。
なおこの神社は、「二礼四拍手一礼」となっています、神社本殿は二礼二拍手一礼、です。
四回も拍手を打つのは、お耳が遠いからと言われています。(ちなみに伊勢神宮の神官さんは正式には忍び手の八拍手です)
現在でも、四拍手の神社は、出雲大社(島根県) 弥彦神社(新潟県) 宇佐神宮(大分県)となっています。

長橋(国の重要文化財)
長さ33m、幅3m、橋脚には「赤間石(安山岩)」が使用されている。以前は「平橋(ひらはし)」と呼んでいましたが
明治11年に「長橋」と云う名前になっています。

橋を渡りきったところに、「石柱」があります. よく見ないとわかりませんので注意して見てください。
20センチ四角で高さは約130センチ位の石柱
明治の探検家、「松浦武四郎(1818-1888年)」は天神信仰に篤く、全国の「天神社」25箇所を参拝し、
明治17年10月に「聖跡25拝の石柱」を寄進しています。宮島は20番目です
北海道を命名した人。
以下、武四郎 について、簡単に触れておきます
松浦武四郎(1818-1888) 江戸時代の探検家 70歳没
三重県出身、 28歳の時に蝦夷地(えぞち)と呼ばれていた、
今の北海道に初めて渡る

アイヌ民族と寝食を共にし、協力してもらいながら13年間で6回の旅をし、
従来よりも詳しい地図や記録を残した。

明治の時代になり、蝦夷地の名を変える際に、
政府の役人となっていた「武四郎」が、
「北加伊道(ほっかいどう)」と言う名前から、
現在の「北海道」に決まる(1869年明治2年、8月15日)
「武四郎」はアイヌ民族の長老から、
「ここに生まれた人を、カイ、と呼ぶ」と教わり
「北にアイヌの人々が暮らす大地」の意味を込めて命名した。
アイヌ民族との親交がうかがえる。

札幌、富良野、など現在179ある市町村名の約8割が、
アイヌ語が由来になっているそうだ。
2018年は150年目の節目になる。2020年の東京オリンピックの年には
南部白老町(しらおい)にアイヌ文化の発信拠点となる

知りたい宮島 詳細編 3

2023年04月28日 20時38分45秒 | 世界遺産
富くじ・・・・1700年頃江戸幕府が始めて寺社に限り公認し、許可された寺社が修復費用調達のの手段として
発売した。寛政3年(1791年)に一時廃止となったがその後復活し、明治になり全国一律禁止になる
扶持米・・・・主君ら家臣に給与される米
山師・・・・・・山林の伐採や立ち木の売買を取り仕切る人。

「島のかおり」には以下の様に記述あり
大正15年(1926年)昭和元年、日本の人口は6000万人、杓子の年間出荷数が約1200万本(約234、000円)。
(* 平均家族を4人とすると、約1500万世帯、この時1200万本の杓子であるから、約8割のシエアーか?)
当時正月には各家庭で新しい杓子を使用する習慣があった為、特に12月は正月を迎え多忙であった。
この時の「挽き物(主に盆)」は約40万組出荷で金額は約80万円(単価2000円)であった。
杓子は一把・二把と数える。 1把は200本   単価は400円/1把
1981(昭和56年)~1991年(平成3年)までは、全国の70%のシエアーがあった
1993年(平成5年)後にプラスチック製の「抗菌杓子(イボイボのある杓子)」が発売され、8年間で300万本も売れる
ヒット商品になる。
明治~大正にかけて、宮島にあった杓子問屋は10軒前後、そのうち2軒が古く
1軒は「宮忠」・・・・初代宮郷忠兵衛の父親、宮郷保兵衛が「山師」との協力により、
 材料を島外から持ち込む道筋を作る
1軒は「宮豊商店」・・・現在は饅頭製造元「ミヤトヨ本店」として営業
  現在当主で5代目は宮郷武氏
  昭和50年(1975年)問屋業を廃業、紅葉饅頭の販売を開始

当時の宮島の名物と言えば、「五色箸」と「色楊枝」のみで、日頃から来島者が土産物
として持ち帰るものが非常に少ないと残念に思っていた「誓真さん」は役所からの通達
もあり杓子を製作し町民に模範を示した。この杓子は「誓真杓子」と呼ばれた。


大杓子
昭和53年島根県出雲から、長さ13メートルケヤキの原木を1300万円で町が買う
これを10mの長さにカット、2年乾燥、荒仕上げ、6ヶ月乾燥 その後制作にかかる
宮島で親しまれている唄に、「安芸の宮島、回れば七里、浦は七浦七福神」
の「浦は七浦七福神」から7.7メートルにした杓子職人「羽山忠(ただし)」氏により制作された。
顔の部分の3枚をつなぐボルトを埋め込むための穴あけに苦労したとの事(制作は包が浦の作業場にておこなう)
杓子完成後は桟橋をスタートして町内を練り歩いた
織田信長も行ったと言われる「七浦巡り」は、古くからの風習のようです

長さ7,7m 顔の部分上下2,7m 重さ2,5トン 材は樹齢270年の 欅
製作期間2年10ヶ月 製作者は 宮島細工共同組合 昭和58年(1983年)に製作
作ったはいいが、設置場所が無く、しばらくは「倉庫」に眠っていましたが、平成8年(1996年)に
世界文化遺産に認定されたのを契機に表参道商店街の中央に展示されましたが、
現在は新しい展示場(新設のコンベンションホールの表に展示予定)に設置されるまでは、倉庫に眠っています。

現在、宮島島内に来島される方々をお迎えする「コンベンションホール」を旧宮島庁舎を改築中です。
高さを7メートル低くし(景観が良くなる)来年(2020年)にはオープンになるのでは、となっています。
しかし現在は工事が遅れ、2021年になるかもしれません
この「コンベンションホール」の一画に「大杓子」を展示します。それまでは商店街から一時倉庫に保管いたします。
跡地には「企業協賛による、トイレ」が出来上がります。これにより、今までご不便をかけていた「トイレ」の問題も
少しは解消するのではないかと思われます、なお観光案内所も同時に出来る予定です。ちなみに総工費は約1億2000万円です
宮島の伝統工芸である「宮島細工」を後世に残すと共に、杓子発祥の地である、宮島のシンボルとして製作しました。
江戸時代には「色楊枝」「五色箸」など土産物としてありましたが、それ以外には主だった「土産」はありませんでした。
宮島の恩人と言われる「僧誓真(そうせいしん)」が厳島弁才天がもっている「琵琶」の形から杓子を考案したと伝えられ、
島民に作り方を伝授しました。世界一の大杓子。伝統工芸である、宮島細工を後世に残すと共に、杓子(しゃくし)発祥に地である
宮島杓子の特徴は、飯粒が付きにくく、木の匂いが飯に移らず、又熱によって変形しない。
最初の土産は「色楊枝」「五色箸」、特に色楊枝は参拝者は必ず買って帰るといわれた
色楊枝・・・・頭には「厳島八景の灯篭」「鹿」「猿」「桜」などが細工されている。しかし明治30年(1897)頃に姿を消した
挽物(ひきもの)は県の文化財で、轆轤挽き=刳物(くりもの)=彫刻、と移る
この時宮島に「轆轤技術」を伝えたのが、「小田権六」で1848年から1854年まで6年伝える
存光寺には小田権六の記念石碑があります、
又彫刻については、江戸時代末期に甲斐の国(山梨県)の彫刻師、「波木井昇斎(はぎいしょうさい)」
が木彫りの技術を伝えました。
明治20年(1888年)勧業博覧会で受賞し「宮島彫り」は全国に知られるようになりました。
宮島彫りは、「浮き彫り」「しずめ彫り」「線彫り」などがあります。

今 島内には「轆轤屋」が1軒あり、また 三代目で木工芸 日本工芸会会員の方の土産物店の店の奥で
材料から轆轤 製作まで一貫製作している「店」が1軒あります。探して?

海岸通りの「有の浦」に出てきました。
その昔、厳島八景の一つに数えられたところです(有ノ浦客船)。
松原の沖に白い帆を張った多くの船の美しさを、  
「つなぎよる たよりや有の 浦波に 泊定むも 船ぞ数そう」 風早参議公長卿 と読んでいます。
参議・「勅を奉じ宮中の政事を参議する意なり」とある。大臣、納言に次ぐ重職で8人(少数精鋭)。
1185年(文治元)3月24日(新暦4月25日)決戦後、壇ノ浦で平家が源氏に敗れた後、入水した二位の尼の遺体が有ノ浦に
辿り着いたと言われ、別名 「尼の洲」とも言う、島民は二位の尼の屍を「神泉寺」に弔い、二位の尼木像を祀っていましたが
廃寺となり、光明院に移されました。神泉寺は「時寺」とも呼ばれていました。(石碑あり)。安徳天皇(言仁親王ときひとしんのう)
現在は二位の尼の御霊は、三翁神社に祀られている。(木像は神泉寺ー光明院ー今は歴史民俗資料館に展示)
この時生け捕られた平家一門は、平高清(六代・妙覚で北条時政に捕まる)ら男38人(打ち首)、女官43人(女官は出家)、
(六代)は一時出家して許されるが、頼朝の「頭は剃っても、心は剃るまい」と言う命令で殺された(14歳の時)

三種の神器
後鳥羽天皇即位、・・・安徳天皇が退位しないまま、後鳥羽天皇が即位したが、天皇の象徴である三種の神器が無いまま
治生を過ごした後鳥羽天皇にとって、この事は一種のコンプレックス(?)になり、これを克服する為に強行的な政治姿勢を行い
これが「承久の乱」へと繋がった遠因になる。
後鳥羽天皇は太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚(せんそ)し、その儀式は剣璽関係を除けば譲位の例
に倣って実施された。即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、同様に神器のないままに実施された
既に上皇になっていた後鳥羽天皇は奇しくも三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇
に献上された剣を宝剣とみなすこととした。

践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐこと
太上とは、最上・至高の意味
"院宣(いんぜん)とは天皇の発する宣旨に相当する
"
天皇が移動するときは必ず、八咫鏡(やたのかがみ)を安置した「内侍所(ないしところ)」と「宝剣」「勾玉」も共に移動しました。
参考
壇ノ浦での戦いの模様
船は源氏方が3000艘、平氏方は1000艘で、唐船も少し混じっていた、(合計4000隻になるが、本当か?)
元暦2年(1185)3月24日朝、長門の赤間が関 壇ノ浦で陣を合わせた、間隔は3,58km(古代尺で30町余り)
源氏の船は潮に向かい押し返される、平氏の船は潮に乗って進む、平氏で阿波(徳島)の田口重能(しげよし)は
子息の教能(のりよし)を生け捕られ、仕方がないと思ったのか源氏に寝返った。
平氏は身分のある者は「兵船」に乗せ、「唐船」には雑兵を乗せて、源氏が唐船に攻め入れば取り込めて討ち取る
手はずであったが、この寝返りにより目算が狂う、源氏は大将軍が隠れ乗った兵船に攻め込んだ、
やがて四国・九州の兵も背き、天皇に弓を引き主君に太刀を抜く、源平の国争いも今日限りと見えた。
当日は午前すぎ西流れが最強となり、やがて東流に反転、同11時過ぎに最強に再び反転して午後5時過ぎ
西流が最強となった。
平氏は午前中から動き、当初東流にのって優勢だったが、源氏はよく防戦、午後3時過ぎから逆転した西流
にのって反撃平氏を壊滅させた。これは「玉葉」(九条兼実の日記)の「正午開戦、午後4時終結」と符号する。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、按察局(あぜちのつぼね)が安徳天皇を抱いて入水、
二位の尼は宝剣(雨の群雲の剣)を抱いて入水した、徳子(建礼門院)は傍で見ていただけとある。       
後に建礼門院(徳子)は、京都の「寂光院」で余生を過ごす。   
 天皇家は肉親を抱かない、お付(乳母・傅役(ふやく)に指示するだけ(宮廷の仕組み)
「愚管抄」では神璽(しんじ)、宝剣、安徳天皇を抱いて入水とある
「語り本系」(覚一本)と、「読み物本系」(吾妻鏡)の大きく分かれる
 語り本系  「覚一本」(平家物語・琵琶法師により全国に?伝えられる)
 清盛の命令で焼き討ちされた、南部の寺院を復興する国家的事業の中で成立する
 内容・表現には異なる異本が数多くあるが、最も流布したのが「語り本の覚一本」である
 読み物本系  「吾妻鏡」に代表される本
天皇が移動する時は必ず「八咫鏡(やたのかがみ)」を安置した「内侍所(ところ)と宝剣・勾玉も共に移動する
上卿雁木(石階段)
明治維新前までは厳島神社でも最も重要な祭事、御鎮座祭に際し、安芸国府中(現在府中町)
から、勅使(奉幣使ほうべいし)勅使代行役を務める、上卿(しょうけい)が来島する時にここから上陸していた。
勅使・・・・天皇・皇帝・王 など 国の元首が出す使者の事を言う
上卿は棚守・祝師(ものもうし又は、ほうり)などと共に、厳島神社を司る主要な神職の一人である
御鎮座祭・・・・12月初申日(さるび)に行われる。市杵島姫命が神烏と共に御降臨され、御 鎮座地を探される
に辺り、この地を治める佐伯鞍職(さえきのくらもと)に神勅が下った 。
上卿屋敷・・・・現在の「林家」で、大聖院に向かう通りにある
上卿雁木(石階段)の近くには、海抜2.5mと表示看板がありますが、大潮の時にはこの雁木の上部(歩道部分)にまで海水が上がってきます。
海抜とは、「海水面から測った陸地の高さ」と一般的に思いますが、
国土地理院(測量法)では、東京湾 の平均海面 を0mの基準面 としています。
基準面からの高さを標高とよびます。
また、近隣の海面(たとえば大阪湾など)からの高さは海抜とよびます。
基準点とは、 東京都千代田区永田町1丁目、日本水準原点
東京湾の平均海面からの標高 24.39 メートル
水準点 は正確 な高 さを求 める測量 をおこなうときに基準 となる点 です。
国土地理院で設置 した水準点は、約 2 万点 あります。
全国 の主な道路沿 いに約2kmごとに設置されています。対岸の廿日市にも2か所あり、
一つは外宮の地御前神社境内にあります。あと一つは廿日市材木港近くの陸橋の下に(国道2号線の横)にあります

ちなみに、江戸時代の広島藩の人口は以下のとおりである。
広島藩の人口  第8代藩主 浅野斉賢(あさのなりかた)の時代
文政12年(1829年)芸藩通志 刊  文政13年(1830年)58歳で死去
 浅野藩は12代(浅野長勲ながこと)まで続く
広島藩 戸数 人口 牛数 馬数 船数 1戸の牛馬の保有数

広島藩 154,235 726,113 64,408 9,907 7,499
安芸国 113,630 546,635 41,639 8,717 6,404
 厳島 1,028 3,734 0 0 79 0
豊後国 40,605 179,478 22,769 1,190 1,095

島で行なってはいけない事を書いておきます
参考
厳島の禁忌
古くから島自体が「神」として祀られている。鎌倉時代、神職が住みつき、南北朝時代をこえるころから
商人を中心に人々が生活を始めたが、神の島へ住むのであるから様々な禁忌のもとで生活を強いられた。
「厳島服忌令(宝永7年1710年)」は厳島の禁忌を集大成したものである、次の様な禁忌が示されている。
① 妊婦が産気づくと、対岸の大野赤崎に渡し、産後50日を過ぎるまでは島に帰ることを許されなかった。
② 島の東西には血山(あせやま)が設けられており、月経中の女子や赤碕から帰ってきた人を当分ここ
で過ごさせた。 イ、お産の場合は25日。 ロ、月経の場合は9日など、と定められていた
③ 死人が出るとただちに、神域を通らない様うにして赤崎に運ばれた。勿論墓は「赤碕」に建てたから
島には「一基の墓」も無い。これは今も存続している。
④ 鹿は「神鹿」として古くより保護されている。かつては「鹿を殺した者」は屍を背に負い、引き回しの上
追放された。犬は鹿の敵であり飼育を禁じられた
⑤ 農耕は「神体」へ鍬を入れる事として、許されなかったから、島民は生産に恵まれなかった。
誓真と言う「僧」は大願寺弁才天の「琵琶」にヒントを得て「杓子」作りを島民に教えた。

上記詳細は以下の通り
芸藩通史  巻17「厳島の風俗」の項に禁制事項として記している

1 島に絶えて五穀を作らず、菜蔬(さいそ 野菜の事))はよそより船に載せ来るを買うなり。
又紡績織紝(じん)のこともせず。此のことは明神の御誓ありとて土俗禁制の如く云ひ習はせり
毛利氏の掟にも布をり布さらす事を禁止するの條あり、古例を存せるなるべし、されば島内の
千戸の民、衣食乏しかるべきに、饑寒(きかん)の憂いなきは、みな神を仰きて、生理を成せり
神の恵大ならずや。
2 島に猿鹿多く市中に馴れ居る、猿は常に人家に入りて食物をぬすめども、これを罰せず、
但し神の供物にさはる時は、島人相集まりて狩り捕へ、牽(ひ)きまわして、能美島、
黒神島などへ放つ。
3 鹿は角切とて、八月頃海に牽き行き、船より角を鋸断す、角老いぬれば人に触の患あればなり、
又鹿の角は春落れど己が食物とするといへり、此の島にて、春に限らず、これを拾う事あり、
中にも袋角(ふくろづの)を得るを福とす。島に狗(犬)は飼わず、是鹿を害する故なるべし
もし里の狗(犬)渡り来れば、島民捕らえて地の方に渡すなり、また島に鹿を殺したる人
あれば、その死鹿を負わせて市を引き巡し、地の方へ渡すという
4 盗賊を捕らえれば、偽鬢偽眉(かたびんかたまゆ)を剃って地の方に渡す
5 島に一向宗の寺かつてなし、外より来り家するもの、まずこの宗旨を改めて後に住居
せしむとなん
6 島人、白木の箸を用いるるを禁ず、正月四日の祭祀に、白箸を神に奉献するゆえとかや、
されば五彩の楊枝、島の名産とす。

むかし市杵島姫の命が神烏(おがらす)と共に御降臨され、御鎮座地を探されるにあたり、
この地を治める「佐伯の翁(佐伯鞍職(さえきくらもと)、岩木の翁、所の翁」に神勅が下った。
お知らせ
2018年の花火大会、及び管弦祭は、中国地方を襲った「豪雨」により、中止となりました。
2019年は管弦祭は実施済、花火大会は実施予定(8月24日)です、お楽しみにしてください。

宮島を代表する「朱の大鳥居」ですが、1919年6月から1920年8月までの14か月間修理を行う予定です
しかし、他の人の意見では2021年までかかる、と言っています(柱の中が思った以上に腐食が進んでいる為と言っています)
8月になると、鳥居全体に覆いがかかります。しかし「スケルトンタイプ」のようですので、鳥居全体は見ることが出来ます。

宮島には古くから数多くの石灯籠(どうろう)が寄進され、今も夜景の演出に一役買っている。御笠浜の石灯籠には、
奉献者とともに「取次」として「大根屋好右衛門」の名が残っています、(弘化2年、1845年)。灯籠は地域貢献の証しでもありました。
また、表参道商店街の出口にも願主「大根屋芳右衛門」として明治29年(1896年)に寄進された石灯籠・常夜灯があります。

「華 表 柱 深 休 鶴 翼(かひょうちゅうしんきゅうかくよく)]  (右側 山側の主注柱)
「廻 廊 蘸 影 現 龍 姿(かいろうさんようげんりゅうし)」  (海側の主注柱)   と書いてある
これは、厳島神社本殿の回廊、及び大鳥居の姿を言葉にしたもので、
「大鳥居は鶴が羽を休めている姿に見える」「本殿回廊は竜がうねっている姿に見える」
と注連柱に書いてあります。
 蘸(さん)…・・・水中に入れる 水に浸す。  現・・・あらわす、見えなかったものが見えてくる
書いた人は、「塩谷處」
塩谷處(しおのやさだむ)・・・周防の出身で幕末・明治前期の儒学者。維新後福岡県の大参事(副・県知事)となる

この前の常夜灯の前には、地面に埋もれて解りずらいのですが、長さ約20mにも及ぶ「防潮堤」が隠れています。
平成3年の台風19号により、商店街に高潮が押し寄せ甚大な被害をもたらしました(人の膝上位まで海水が押し寄せた)
その為出来たものです(地面を良く見ると、白いパイプが埋まっています、ここを中心に防潮堤が起き上がります)。

ここからは、狛犬が出迎えてくれます。
右は「獅子」で左が「狛犬」です、一般的には両方あわせて「狛犬」とよんでいます、宮島には14対の狛犬がいます、

類聚雑要抄では、狛犬を次の様に言っています。
「獅子は色黄にして口を開き、狛犬は色白く口を開けず、角あり」
昔は、清涼殿の御簾や几帳の裾に鎮子として置かれていたのが始まりです、その後神社の本殿の前の幣殿の左右の
置かれました(屋内ですから木造で出来ていました、本物は対岸廿日市の国幣中社速谷神社の宝物館に展示してあります)。
現在宮島には14対の獅子・狛犬がいます。ブロンズ像が2対 木製が4対 石でできているもの宮島島内にある狛犬は現在13対あり
石造 7対 大元神社 雪舟園横、四ノ宮神社 大願寺 本殿裏 三笠の浜参道(2対)
青銅 2対 石鳥居横  平舞台
木製 5対 幸神社   御山神社(3対あり)、あと1対は、狛犬が京都博物館、獅子は宮島にて保管。
宮島町内の「石造物」に刻まれた「石工名」は48例あり
尾道24。 このように「尾道」の石工が大多数を占めており、近世から近代にかけて「尾道石工」の技術が高く
18世紀半ばから19世紀半ばにかけては「石工・山根(屋)」が活躍していた
「山城屋惣八」は作品の全てが「石造狛犬」であることから、「狛犬」を得意とした石工であった
が7対 探してみてください

幸神社には木造製の狛犬がおります、探して下さい
しかし、時代が下がるにつれ、幣殿より外に出、更には木造から石(又はブロンズ)に変化していきました。

狛犬を過ぎると、大きな石の鳥居に出ます。
この石鳥居は高さ9.8m 横幅11.5mあり、主注は一つの石(花崗岩)で出来ています、明治10年に、海の大鳥居にちなんで、
日本一の「石の鳥居」を作ろうと発願し、山口・広島・愛媛・北海道の信徒さんの寄付により作り始めました、
完成は明治38年で28年間かかりました(浄財がなかなかうまく集まらなかった為と言われています)
石は山口県の周防大島(岩国空港から南に約30分走った所)の東端、椋野の田尻から運んだものです。 
鳥居の種類は「明神鳥居」に分類されるものです。鳥居を「華表」とも言います。
大島は昔、屋代島と言われ、日本書紀によると11番目に出来た「島」、1番めの島は「淡路島」2番は「四国」と続く、
参考
周防大島(屋代島)
平家の総大将「平知盛」が山城を築城した島、荘園もあった。壇ノ浦の戦いの総大将
「古事記」によると、「イザナミ・イザナギ」により出来た日本の島。最初は淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐の島、津島、佐渡、
本州、の8つの島(大八島・おおやしま)。その後「日本書紀」では児島半島、小豆島、「周防大島」の、姫島、五島列島、男女群島。
6つの小さな島。11番目の「周防大島(屋代島)」は大変由緒ある島と言える。
「イザナミ・イザナギ、が天浮橋(あまのうきはし)に立ち、天之瓊矛(あめのぬぼこ)で台地をかき混ぜた。その矛先から滴り落ちた
 滴が固まって出来たのが、淡路島(おのころ島)」と言われている。

ここで鳥居の「言われ」について、諸説あると言われていますが、概ね次のようです。

「伊勢神宮の神の使いは「鶏」でありますが、神の使いである「鶏」は神社境内を自由に駆け巡り遊んでいたが、時々犬・猫が襲ってくるので
食事の時以外は安全な場所を求めて見通しの良い庭先に建っている「門」の横木に止まって休んでいた。そして神社を参詣する人々が訪れ、
お供え物を供える準備をしていると直ちに飛び降りて啄む、お供え物が無くなると元の止まり木に帰る、この事が繰り返されていました、
やがて庭先にある正面の門の事を「いつも鳥が居座っている門」つまり「鳥居」に変わったといいます。

中国では「城郭」・「官庁」又は「墓所」の入り口に建てる門を「華表」とよんでいます。
千畳閣の中には、明治8年に朱の大鳥居を再建した時に使用した、長さ16メートルの「華表尺度」が展示してあります、探してみてはいかがですか。

鳥居をくぐると、そこは「三笠の浜」になります、厳島八景の一つです、「御笠濱暮雪」と云い、積もった雪の美しさを詠っています。

さらに左の千畳閣下にあたる石垣は、豊臣秀吉の時代の石積で、広島県内最古の豊臣系の城郭の石垣です。

所々に大きな石を挟めて飾りにしてあります(この石を鏡石という)。毛利元就の領地で、豊臣系の石垣で「野面石の乱積み」です。
隅の巨大な「立石と古式な算木積み」は関が原の合戦直後の滅びた古い技法で全国でもわずかしか見ることが出来ない。
(三重県 松阪市の松阪城の一部がこの積みかたになっている)

穴太衆(あのうしゅう)の技法が入っていると言われています、
穴太衆は琵琶湖畔(比叡山山麓)の石工集団で信長の安土城築城を行う、熊本城、彦根城・広島城、九州熊本の通順橋などなどで、
現在は、第15代 穴太衆 粟田純徳氏
石の加工方法には、①打込接(うちこみはぎ)・・・石を成形し積む、②切込接(きりこみはぎ)石を完全成形し積む、③それと野面(のずら)とあります。
石の積み方は、
①布積(ぬのづみ)・・・横方向に目地がよく通っている(本殿回廊の鏡の池の後ろの石垣は、毛利・吉川元晴の技術によるもので特徴をよく表している。)、
②乱積(らんづみ)・・・横目地が全く通らない
③谷積(たにづみ)・・・石材を斜めに落とし込んだもの(明治以降)、④亀甲積(きっこうづみ)・・・6角形に成形した石材を積み上げたものを言う。
石垣の隅部(角のところ)の積み方
①算木積(さんぎづみ)・・・チャックの様に大きな石を交互に積む(慶長10年頃以降に確立した石垣隅部の積み方)
参考
この時熊本城の城壁は崩れ落ちたが、飯田丸五階櫓の建物の角の算木積の部分は残っていたのを、記憶されている方もいると思います
算木積以外の部分は、中に水の通る「水路」が設けてあります、したがって大きな雨量の場合は、今回の様に崩れ落ちる場合があります

隣に「トイレ」がありますが、入り口に格子戸が付いています。押すと開きません、手前に引くと開きます。これは鹿は入るのを防ぐための扉で
「鹿戸(しかど)」と呼んでいます。以前は商店の前にはありましたが、現在ではほとんど見ることがありません。
町屋通りの旅館ではまだ見ることが出来る所があります。

トイレの横には、縦1m、横0.8m 厚さ15センチ位の石碑があります(気が付くかな?)。
石碑には、「花嫁に 見せてやりたい 安藝なすび」とあります。これは神奈川県横浜の靴師 渡辺為吉氏の寄贈
鎌倉時代の和歌集【夫木和歌集(ぶぼくわかしよう)】には、「秋茄子わささの粕につきまぜて よめにはくれじ棚に置くとも」とあり
これが、秋茄子は嫁に食わすなの語源とも言われているが、どうでしょうか?。
*ネズミは別名「嫁が君(よめがきみ)」、「嫁(夜目)」とも言い、
 酒粕に漬けた秋茄子を美味しくなるまで棚に置いておくのは良いが、ネズミに食べられないように注意しなさい。
*「夏野菜のナスには体を冷やす働きがあるので、涼しくなってきた秋にナスを食べて出産を控えたお嫁さんの体が冷えすぎないように」という、
 姑さんのお嫁さんを気遣う優しさからの言葉もあり、また
*「秋ナスはとても美味しいので嫁なんかに食べさせるのはもったいない」という姑さんの意地悪な気持ちを表しているというもの
 諸説あります。

大鳥居の近くに、威海衛戦(いかいいえせん)・記念碑がある
日清戦争時の威海衛海戦における勝利の記念碑(現在の威海衛市・250万人都市)中国は三東省の三東半島、東部の市を言う
日清戦争の指揮官は「有栖川宮熾仁親王」である。広島に大本営があったゆえに連隊があった
明治27年7月~28年3月まで、広島に「大本営」が置かれた。明治27年9月15日には明治天皇が来広している。
威海衛の戦い(いかいえいのたたかい)は、日清戦争における戦闘である。その日本陸海軍共同作戦の目的は、
第二期作戦「直隷決戦」にむけて制海権を完全に掌握するため、威海衛湾に立てこもる北洋艦隊の残存艦艇撃滅と海軍基地の制圧にあった。
直隷(ちょくれい、直隷省とも) 明代から清代にかけて、黄河下流の北部地域を指した行政区画。
石碑には次のように書かれている
阿者れとも神を
  免天ませ大皇軍
かちし志るしのあたの矢玉を     藤原利昌
小泉甚右ヱ門
奉納 枢密願問官正三位勲一等 九鬼隆一・・・・古社寺保存会の会長。帝室博物館総長
九鬼隆一     宝物館の扁額の文字を書いた人
帝室博物館
明治22年(1889)~明治33年(1900)まで存在した
①東京帝室博物館 ②京都帝室博物館 ③奈良帝室博物館
帝国博物館の総称。現在の「東京国立博物館」の前身

常夜灯の横には、九鬼隆一の建立した石柱もある。 世話人は小泉甚右衛門
奉納 枢密顧問官正三位勲一等九鬼隆一

大鳥居の前に来ました
多くの方々が写真を撮っておられます。宮島写真さんは大鳥居の前の椅子を並べ、主に団体さんを撮っておられます。
その横に、海に降りる階段があります、藍屋講中が寄進した「常夜灯」の横です。 講については後段を参照してください。
階段横から2つ目の灯篭がいわれのある灯篭で、「ヘレンケラーの灯篭」と呼ばれています
個々の前に立ち、大鳥居を見ると、灯篭、松の枝、大鳥居がファインダーの中に入り、小グループの写真はここが一番です
参考
ヘレンケラーの灯篭
1937年(昭和12年) 4月15日 初めて来日、横浜港に着く(三ヶ月半日本各地を訪問する)
岩橋武夫氏(日本の社会事業家)の要請を受け来日する。
全国33都市、80回以上の講演を行い、8月10日アメリカに帰国する
* 昭和天皇に拝謁
* お土産に、秋田犬を送られる、名は かみかぜと言う

1948年(昭和23年) この時は2ヶ月間日本に滞在。広島原爆ドーム(広島浜井市長が対応する)、宮島を訪れる
1950年(昭和25年) これを記念して、社会法人「ヘレンケラー財団」を設立(障害者支援事業を行っている)
1955年(昭和30年) 三度目の来日
 訪日の目的は、1954年(昭和29年)に死去した、岩橋武夫氏に花を手向ける為
 勲三等瑞宝章を受ける
 この時も「宮島」を訪れている
1968年(昭和43年) 6月1日 87歳で死去 88歳の誕生日の4週間前であった。

*  1936年(昭和11年)10月20日 サリバンさん死去 ヘレンケラー氏来日の前年
したがって、日本に来た時随行した女性は、指話通訳者(しわ)の「ポリー・トンプソン」さんと思われる