知りたい宮島

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知りたい宮島 詳細編 1

2023年03月25日 17時59分07秒 | 世界遺産
知りたい宮島の詳細編となります。

このブログでは、写真は掲載していません。宮島に関する「写真」は多くの方々が、ありとあらゆる写真を撮られておられます。写真を掲載することにより、紙面が少なくなるので、あえて、その様にしています。ご理解ください。JR宮島口フェリーに乗り、約10分で宮島に到着。  フェリーは2本あります、JRフェリーと松大フェリーです。松大は直行で宮島に向かいますが、   JRフェリーは途中「大鳥居」の前に大きく迂回してゆきますので、約15分かかります。
厳島神社についての話の前に、もともと、海の上に浮かぶかの様な厳島神社の社殿の造形のもととなった発想は?平安時代の後期「浄土教思想」の影響も考えられるところであり、「阿弥陀如来の極楽浄土の殿堂は、極楽の蓮池の上」にそびえ立っているのである。
宇治平等院の鳳凰堂も同じ機構で「池の中の島に建つ」、そうした構想を膨らませると、海上に建つ大殿堂となる阿弥陀の宮殿が蓮池の中にあんると言うなら「厳島神社は神の住む宮殿を壮大な海の中に造営したい」と言うのが清盛の崇高な発想であったと思われる。   宮島に渡り、桟橋を過ぎてからの、案内を順を追って述べていきます   日本三景の島「宮島」、世界文化遺産の島「宮島」、特別史跡・名称に選ばれている「宮島」   また、弥山頂上付近、180haは特別天然記念物に指定されている「宮島」、日本三大奇襲戦のあった「宮島」更には明治時代から昭和の時代にかけて、明治天皇、昭和天皇、上皇・上皇后美智子様 更には今上天皇・雅子妃殿下様が参詣に寄られた島「宮島」   神の島と言われた「宮島」、その為「人が住まないでいたことから、里山二次林が発達せず、この島特有の植物が育成」している    1500種もの植物が植生し植物の正倉院とも言われている「宮島」、これらの事は「植物学者」からも驚嘆の目で見られている島、「宮島」   モミ・ツガ・カヤ・ミミズバイがセットになって育成している所は世界中どこにもありません   絶滅危惧種の「ミヤジマトンボ」の生息地がラムサール条約に登録された(参考)、   (現在日本には53箇所あり、40番目に宮島が登録されている。)   海岸から海まで天然の砂浜がある場所も日本では大変珍しい島です、映画のロケにも使用されました。   宮島は降雨量は、年間約1674ミリあり 平均気温は15度前後の気候である   宮島は「奥」が深い島です、このブログを読み、皆さんの宮島についての知識に、新たに追加して頂ければ幸いです   安芸の宮島「厳島神社」は、推古天皇即位元年(593年)初申日に地元有力者・佐伯鞍職(さえきくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て三笠の浜に社殿を創建したのが最初と言われています。   諸説ありますが、この島は「斎島」といわれており、斎を「いつき島にまつれる神」という意味から、   原始宗教の名残で島全体が「神の島」として崇められていましたので、陸地に社を創るのは恐れ多いと言う事で海中に社殿を建立しました。   創りは「神殿造」で屋根は「桧皮葺」となっています。御祭神は天照大神の娘である宗像三女人の、  「市杵島姫命」「田心姫命」「湍津姫命」で相殿神は「国常立尊」「素戔鳴尊」「天照皇太神」、その他30数柱の神が祀られています。  「伊都岐島大明神」「厳島神社」等呼称され、現在に至っています。   伊勢平氏の流れをくむ「平清盛」はここ「厳島神社」を氏神にしました、   というのも平氏には正式には「氏神」がありませんでした、平野神社が氏神ともいわれていましたが、   この神社は桓武天皇との関係から「平氏の氏神」としての性格が濃かったのですが、   源氏・高階氏(たかしな)・大江氏の氏神でもあったのでした。       ** 平野神社 八氏(はちし)の祖神(八姓 はちしょう、とも言う) 1秋篠氏 2大江氏 3清原氏 4源氏 5菅氏 6高階氏(たかしな) 7中原 8平氏   清盛が久安2年(1146年清盛29歳)の安芸の守に任官され、その後平氏の氏神として尊崇し平家一門の権力が増大するにつれて、この社を尊崇する度合いも増し仁安3年(1168年清盛51歳)社殿を現在のような姿に造営しました。   安芸守(あきのかみ)・・・瀬戸内海は西国や九州・大陸からの産品が京へ入る最大の通商路で海上交通の要衝である                                               安芸守を支配する事で清盛は莫大な利益を得ることになる。是により平家一門の経済的地盤は強化された。   日宋貿易を推進したのもこの安芸国で国守の経験から得た物である。後の1156年保元の乱が起こる(この時は播磨守)   「この時には清盛は播磨守に任官」、経盛(1156年)9月17日 頼盛(1158年)と続けて安芸守に任官される   保元3年、清盛が播磨守になった事で、頼盛は清盛の知行国・安芸の国を受領する   国司(国守)・・・大国(13カ国)「播磨の守」 上国(35カ国)「安芸守」 中国(11カ国) 下国(9カ国)。地方行政単位である   国の行政官として中央から派遣された官吏、四等官である守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)等を指す   当時都からは、後白河上皇・建春門院・中宮徳子・高倉上皇・建礼門院をはじめとする貴族や皇族が訪れたので、都の文化や建築が宮島に入ってきました。   現在も厳島神社に伝承されている「舞楽」は清盛によって、約820年前に大坂の四天王寺から移されたものです。   社殿は自然災害により何度か建て替えられていますが、   清盛が造営した当時の姿を今に伝えています。(日本に寝殿造といわれる建物はこの厳島神社だけとなっています)   当時は内宮に37宇、鳥居4基。外宮には19宇、鳥居1基、内宮・外宮あわせて56宇と5基の鳥居がありました。   神の島と崇められていた為人は住んでおらず、社家・供僧は対岸の外宮から毎日通っていました(外宮は対岸の地御前にありました)。   内侍(他の神社では巫女という)のみは、内侍の館が築かれ住んでいたようです。   内侍については後段で詳しく説明を致します。   全部で56宇と5基の建造物があると言う壮大な建築物は、当時の藤原氏の春日大社に比較しても、   容積でいえば約10倍というから、いかに大きなものか(しかも海の中に建っている)驚きます。   なお仏教建築が混じっているのは、平安時代以降の神仏習合の影響であった、
明治時代以降の神仏分離以降では徹底的に仏教建築が取り壊されており、日光東照宮・厳島神社が往時の仏教建築を多く残す神社の双璧となっています。

神社本殿、幣殿・拝殿等17棟、大鳥居・五重塔・多宝塔・千畳閣からなる建造物群は6棟が国宝、11棟が国の重要文化財に指定されています。
(20棟は明治時代に取り壊しになっています)。
具体的に言うと、東回廊47間・西回廊61間(合計108間)・
本社本殿・幣殿・拝殿・祓殿、客神社本殿・幣殿・ 拝殿・祓殿、朝座屋、高舞台、平舞台、左右門客神社、左右楽房、火焼前、大国神社、天神社、能舞台、
能楽屋、反橋、長橋、揚水橋左右内侍橋などの建造物からなっています。
寝殿造りの場合「客神社」が釣殿(涼をとる場所)にあたるといわれています
入り口左側で「昇殿券」を購入して入ると、右側に「寛文2年(1689年)と記した手水鉢」がありここでお清めを行い、いよいよ東回廊の入り口に入ります、
入り口上部の屋根を見ると、簡素な切妻の屋根となっています。
普通は入り口は立派な構えになっているのですが、これは出口の西の回廊の屋根を見ると解ります、ここの屋根は「唐派風」の立派な構えとなっています。
昔はどうやら西の回廊が入り口といわれていた為、と言われています。
国宝回廊幅は4メートル、長さは262メートルあり、回廊の柱と柱の間を「一間(ま)」と呼んでおり、入り口から出口までは108間あります
(一説には107間とも言いますが、これは内側と外側の違いと言われています)。一間の間には「国宝の回廊板」が8枚敷いてあります、
また一間の長さは2,4メートルで昔の尺貫法では8尺になります。八は末広がりとも言われ「縁起の良い数字」と言われている為と思われます。
ここで「国宝の回廊」を土足で歩いても良いのと思われるかも知れませんが、
よく見ると「国法の回廊」の上に別の板が敷いてあります(養生板といいます)ので土足でも良いのです。
高欄(手すり)から外側に見えるのが、「国宝の回廊」です。昭和47年までは土足厳禁で、靴を脱いで入いるか又は、
入り口で「わらじ」に履き替えて入っていました。この時は職員の方達が出口から「わらじ」を入り口まで運ぶのが大変だったようです。

治承4年(1180年)までは、神様が弥山に滞在されるとされ、旧暦の11月から2月までの4か月間は登山禁止でもあった。
島は今から約6000年くらい前に対岸と分離して出来ました(大野瀬戸海峡は浸食によってできました)、また全島花崗岩で出来ております。
対岸の山々を見るとわかると思いますが、弥山(535m)とほぼ同じ高さの山々が連なっていいます。
中国地方は(兵庫県~山口県にかけて)は花崗岩の台地です。中国地方と四国の間には「中央構造線」が走っており、地質は全く異なっています。
四国から紀伊半島にかけては同じ構造体になっています。大阪 京都当りまでも一部は中国山地と同じ構造体になっています
瀬戸内海をよく見ると「灘」と呼ばれる数か所がありますが、これは昔地殻変動によって出来たものです、地図をよく見ると、広島湾の所だけ大きく北側に窪んでいますが
太田川からの流水による浸食により出来たものです、これだけ大きく浸食をしているところはあまりありません
その為、上流から「牡蛎」の餌になる植物プランクトン、窒素、リン、シリカ等が多く流れ込み、日本で一番の牡蛎の産地となっています。

参考 1
厳島が歴史書に記されるのは、「日本後期」(840年成立)弘仁2年(811)年の項に「安芸国佐伯郡速谷神、伊都岐島神」
とあるのが最初で、佐伯郡内に速谷・伊都岐島の神社があり、この伊都岐島神社が現在の厳島神社とされている。
更に「伊都岐島中子天神」「伊都岐島宗像小専神」(三代実録)との記述があり、800年代後半にそれぞれ鎮座地は不明
であるが、厳島神社周辺及び海岸部にはいくつかの神社が存在し、島が伊都岐島と呼ばれていた。
そして、厳島神社は「延喜式」(927年成立)に速谷神社(現在の速谷神社)・安芸群多家神社(現在の多家神社)とともに
「名神大」と位置づけられ、安芸群を代表する神社のひとつとなり、天慶(てんぎょう)3年(940)年藤原純友(すみとも)
の乱には追捕祈願が行われるなど、神の鎮座する島として他地域には見られない特異な歴史をたどることとなった。
参考 2
現在(平成30年10月1日)、廿日市市の人口は117、320人、世帯数52、241世帯
その内、宮島町は1.591名 849世帯
1995年(23年前)当時2.518人に比べ、927人減少(36.8%減)
昭和22年(1947年)当時は人口最も多くて5.197人で、平成17年に廿日市市に合併当初は1.944人であった。
宮島町は平成17年の大合併により廿日市市に編入合併、人気の観光地(宮島)を抱え込んだ事で廿日市市は
一躍観光都市となったが、来島者は増えても宿泊客は少なく、宮島の「経済効果」は今一つだ。
重要伝統的建造物保存地区(重伝建)の対称、約600件の内、2割強の130件が空き家となっている為
町並み保存に支障が出る可能性があるのが現状である。
鹿について
*人が鹿に餌を与えると、鹿は動かずして餌にありつける為、動かなくなり、ひいては健康に良くないと言う結果になります。
島内において、鹿の食べれる植物は少なく、食べれない植物が残っています。
① 有毒植物としては、アセビ シキビ
② 物理的な障害(トゲ等)で食べれない植物は、ホウロクイチゴ、コシダ、ウラジロ、カンコの木
③ その他(におい等)で食べらない植物は、ハスノハカズラ、レモンエゴマ、シバ 等々  がある。

重複するかもしれませんが、鹿について少し述べておきます
鹿の胃袋は4つあります。1~3の胃袋は微生物が住んでいます。4番目の胃袋は胃液が出てくるようになっています。
鹿は一日に約3~6キロの草(植物)を食べます。糞は1回で約100箇位出し、1日に12回廃糞します。
鹿は約1000種の植物を食べます。したがって、東北地方では寒い為、鹿の食害が少ないです。
鹿の角
4月から初夏に生え出し秋に完成し、翌年3月頃に抜け落ちます。
1歳・・・・1本の棒の様な角
2歳・・・・少し枝分かれする
4歳・・・・3本か4本の枝分かれした、立派な、角が這える。
鹿の寿命
オス・・・・4~6歳
メス・・・・6~8歳、が平均寿命です。
鹿の妊娠
餌が豊富な場合、1歳で妊娠します。1歳の秋には妊娠出来る様になります。

参考 3
鹿について
昔から「宮島」には 野生の鹿が多く住み着いています、現在全島で約500頭前後で推移(毎年11月にはボランテイアが数を確認)
お土産店辺りには、鹿が多く見ることが出来ますが、平成8年世界文化遺産に認定されたのを継起に「鹿の餌」が販売禁止となりました。
神鹿(しんろく)宮島の鹿は大昔から宮島に住みついており、神の使いで神鹿(しんろく)と呼ばれてきましたが、
山口大学の先生によると、鹿のDNAを調べたら、山口の鹿と同じであった。という事から宮島の鹿は遠く昔に山口から来た
鹿とわかりました。鹿については、人から鹿へ、鹿から人へ病気や寄生性の「動物やマダニ」などを媒介者とした、
ウイルス性の病気あり注意が必要(現実に山口県では何人かが死亡している、特に赤ちやんや幼児は注意が必要)
鹿の耳辺りは特に「マダニ等」の寄生虫がいるので、要注意であります。可愛いからといって、むやみに触らないほうが良い
かと思います
*人が鹿に餌を与えると、鹿は動かずして餌にありつける為、動かなくなり、ひいては健康に良くないと言う結果になります。
島内において、鹿の食べれる植物は少なく、食べれない植物が残っています。

① 有毒植物としては、アセビ シキビ
② 物理的な障害(トゲ等)で食べれない植物は、ホウロクイチゴ、コシダ、ウラジロ、カンコの木
③ その他(におい等)で食べらない植物は、ハスノハカズラ、レモンエゴマ、シバ 等々  がある。

植物について
広島県で見られる1/3強(732種)が宮島で確認されている。(県下では約2200種)

対岸の山並みを見ると、宮島の弥山の高さとほぼ同じ高さの山々が連なっています、昔は対岸と宮島は陸続きでした。(約6千年前)
浸食により出来た海峡です、大野瀬戸は対岸まで焼く1,8キロしかありません、海の深さもわずか7mです。
一番狭い所で対岸まで約500m、大潮の時は300m位しかありません。雄鹿は時々対岸まで泳ぎ着きます。
(島の反対側の呉、江田島方面の海の深さは80m前後あり、獅子岩展望台からは、海上自衛隊の船舶の航行を見ることができます)
宮島は神の宿る島、「伊都岐島(いつきしま)」と呼ばれており、昔しは人が住む事は出来ない島、「厳島」でした。
平成17年11月には、全国規模で実施された「広域合併」により、新生廿日市市(はつかいち)と
して、生まれ変わりました。それまでは佐伯群郡宮島町と呼んでいました。
この時の町の木は「紅葉」で、花は「馬酔木(あせび)」と言い、小さな袋状の花を咲かせます。
開花時期は2月下旬から4月の上旬です。珍しい「ピンク色」の花を五重塔の横で見ることが出来ます。
しかし[アセボドキシン」と云う猛毒を含むため、鹿は食べません
ツツジ科の植物には「グラヤノトキシン」、などの有毒物質が含まれています。
個々の種の有毒物質含量は大きく異なります。したがって中毒量の決定は難しいのですが、ネジキの場合、
牛では体重の1%の摂取で死亡すると家畜有毒植物学には記述されています。またアセビでは、山羊の場合、体重の0.1%の摂取で中毒が起きます。
広島県では「ミヤジマ」でしか見る事の出来ない極めて稀な植物があります。
① ミミズバイ(ハイノキ科) 広島県内では極めて稀で瀬戸内海では宮島でしか見る事の出来ない.7月の20日過ぎ暑くなる頃、
白い花が咲き、花が咲いてから2年半かかって実が熟す.牧野博士によると、実の形が「ミミズの頭」に似ているから
ミミズバイと呼ぶそうです.宮島のミミズバイは分布の北限に近い貴重な存在であります。
   *  紅葉谷-博打谷にかけてありモミ・ツガ・カヤ・ミミズバイがセットになって育成している所は世界中どこを探しても無い
   * モミ ツガ冷涼を好み、常緑針葉樹  カヤ ミミズバイは熱帯系植物
② サカキカズラ(キョウチクトウ科) 葉が榊に似ている、県内では大変珍しく宮島以外では知られていない。
宮島付近が分布の北限で寒さに弱い、花はあまり美しいとは言えないが種子は見事である、
2個の果実がくっついて角のように成長し長さ6~7cmになる。3月頃にはその果実が裂けて美しい
白い花をつけた種子が飛び出す(タンポポのような種子が風に乗ってフワフワと飛ぶ)
③ カンザブロウの木(レッドデータブック) 山口にある  
宮島は分布の北限、8月下旬に白い花を咲かせる、正月過ぎに黒い実が熟す
④ トサムラサキ(クマツヅラ科)レッドデータブック  延岡 愛媛   実はやぶムラサキの1/5位の大きさ
宮島で一番美しい果実(紫の果実がびっしりと付ける)、弥山干満岩に大木あり、大変珍しい木で
広島県では宮島でしか見る事が出来ない。渓流沿いに多く咲く、弥山・干満岩に大木あり
⑤ ホウロクイチゴ(バラ科) 沖縄では野鼠が実を食べに来、それをハブが捕食する、近づかない 2
大きな葉を焙烙(ほうろく)に例えたとも、本土側や他島では極めて稀で個体数も少なく、
日本の木苺(きいちご)属の中では葉が大型である。
⑥ オオカナメモチ   沖縄 岡山(綜合グランド) 大変珍しい木 バラ科常緑小高木で南西諸島にかけて
  点在的に分布がある、徳之島のみ自然自生が確認されている。樹高は5から10m
  になり、材は印材や細工用で樹皮から昔は鳥もちを得た、
  葉は大きい(10~20cm)のでこの名がある。水族館前にあります
⑦ 大元公園のモミの原生林、標高300m以上でしか自生しない木が沿岸部に、しかも巨木となっている

昨年後半から、今年(今現在)は外国人観光客の方達の来島が大変多くなっています。昨年は外国人の観光客は約30万人でしたが、
今年はどうやらその2倍位の観光客こられる予定です、今年に入ってからは「昨年に比べ明らかに外国人観光客」が増えています。
なり東京オリンピックにむけて、外国の方々の来島を島内挙げて歓迎しています

アメリカの旅行サイトの「満足度ランキング」でトップが、ここ世界遺産の宮島です。
更に、最新の調査で、寺や神社を含む世界遺産の内、行って見たい所はどこですか?の問いかけに対しては、
第一位が「古都京都の文化財」で38%、 第二位が宮島「厳島神社」で32%となっています。
桟橋を抜けると、すぐ左手に「日本三景の松」が植樹されています、なかなか気がつかない人が多いようです、
宮島と天橋立は「黒松」 松島は「赤松」です、この三箇所に共通するのは、 松・海・牡蠣と寺・神社です。宮島・松島は「冬牡蠣」 天橋立は「夏牡蠣」です。
更に良く見ると、横に「紅葉」の木があります。この木は大変変わった木で、毎年11月20日前後にと、「赤」「黄色」「緑」の三色が同時にでてくる珍しい紅葉の木ですが、
残念な事に心無い人によって枝が折られ枯れてしまいました。水族館の前の「大元公園」に2本あり、全島で2本されています。

黒松の花の開花時期は4月25日頃、赤松は1週間後れの5月始め頃になります。
(黒松・赤松の二種は松葉の針葉が2本の二葉系、ハイマツ・キタゴヨウマツ・ヒメコマツは五本の針葉の五葉系となります)
「松」は万葉の頃から常緑の樹姿を美しいとされ、日本人の心の伝統の中に高貴の象徴とされて着ました。
宮島は当然、厳島神社。天橋立は智恩寺 松島は瑞巌寺 となっています

参考 4
「牡蠣」について
広島は牡蠣の養殖は全国の60%を占めています。
なぜ牡蠣の養殖が盛んになったのか、それには広島は牡蠣の要職に適した3つの条件があるからです。
①海水温度、 水深5メートル付近での温度は、夏で25度 冬で20度が最適でこの様な条件が揃うと牡蠣の活動元となる
       「グリコーゲン」が蓄積されていきます
②牡蠣の餌、 広島湾には太田川が注いでおり、この河川から「牡蠣の餌」である、植物プランクトン、窒素、リン、シリカなど
       が多く含む海となっている。
③海水の塩分濃度  牡蠣は濃度の薄い海水を好む(0,8%~3%位)、太田川からの河川水が広島湾に注ぐ事で海水濃度は年間2.3%
       に保たれている(通常の海水の塩分濃度は3.5%であることに比べると、その濃度の薄さがわかる。

農林水産省の漁業・養殖業 生産統計(2016年)では、
広島県のカキ・・・・10万2000トンで全国一位
都道府県別の生産量で言えば
宮城県・・・・・・・2万1417トン
岡山県・・・・・・・1万3746トン
広島県の呉のみでは・・・2万2966トン

広島県のカキ生産量が突出している事が判ると思います。

更に広場に出ます。この広場は昭和51年に海だったところを埋め立てた所となっています。
目の前に岩肌の小山が見えますが、「潜流門」といいます。このトンネルの前は「海」でした。
すぐそばには、雁木がありました。手前の「コーヒーショップ」の横は、埋め立て前は、かなり広い沼地(湿地帯)でした
トンネルを抜けた所(食堂 山一の方向)の辺りは、海岸線は3m位の小さな道でした、当然前は海でした。
広場には「平清盛」の像が立っています、平成26年3月20日に来島者の方々の寄付により出来たものです。
東の方角を臨んでいますが、これは昔の都(京都)の方角に当たります。更には来島者の方々を歓迎する意味からでもあります。姿は僧ですが、
これは清盛が50歳の時(1167年)太政大臣まで上りつめた後、出家して「浄海(じょうかい)」を名乗っていた時の姿です
静海(じょうかい)とも言います、テレビ放映等では「浄海」と言っていますが、
台座は花崗岩となっていますが(よく見るといろいろの色があります)、参考5
宮島は全島が花崗岩の島であり(前述参考)、この花崗岩の鉱物の粒が大きいので、風化するとばらばらに崩れて
石英や長石などで砂を作る、石英は透明で、長石は白色や桃色です。黒雲母は小さいので全般に白砂に見える。
参考 5
花崗岩の成分は以下のとおり
① 石英(灰色をしている)。   宮島は「水晶」の産地であった. 瀬戸内で最も多く取れた。(薄茶色)
大聖院の観音堂の前には大きな水晶(透明に近い色)が置いてある、宮島で採取したものではない
② カリ長石(ピンク色)。 花崗岩の大きな特徴、 カリウムが入っているからカリ長石
 花崗岩はマグマから出来る、地下20~30キロで出来る。温度は850°~900°あり、
 1、冷える時に割れ目(節理)が出来る。立方体でキュウビックの様な形で割れたもの
 2、日本列島全体に大きな力が加わって、ある時地下深い所で割れたのではないか
   と言う考え方
 御影石には「カリ長石」は入っていない(厳密には花崗岩と違う)
カリウムは「マントル」の中には少なく「地殻」の中に多い物質
岩は節理に沿って割れる
③ 斜長石(白色)。 ナトリウム、カルシュウムを含んだ鉱石
④ 黒雲母(黒色)。 小さいけど「鉄」を含んでいる処がある
山陰地方の花崗岩は「鉄(磁鉄鉱マグネタイト FE3O)」を多く含む、・・・・・・・たたら製鉄の発達。
同じ花崗岩でも磁鉄鉱を多く含んでいる
ハガネ(鉄と炭素の合金)で強い
花崗岩が硬い石であったら「たたら製鉄」は出来なかった。
花崗岩が風化して「磁鉄鉱(砂鉄)」が出来て、そこで集めて鉄を作る。
山陽地方の花崗岩は「鉄にチタン」が入ってくる。(チタン鉄鉱イルメナイトを含む)

     風化すると、鉱物が自分の形を崩して別の鉱物になる

ねんど鉱物になる。 斜長石は「ねんど鉱物」になりやすい
「黒雲母」「カリ長石」も風化しやすい

しかし、「石英」は風化しない。・・・・残っている
石英だけが残る、小さな砂粒になっているのは、ほとんどは「石英」
高い所は侵食される、対岸と宮島はほぼ同じ位の高さで、この間に「段差」があり
風化しやすくなる、紅葉谷も風化しやすい方向に割れ目(断層)が出来る

水が浸み込んでいって「粘土鉱物」に変っていく。

中国地方は標高500m位の台地が広がっており(チビ高原面)、花崗岩でできており、表面下100m
位は風化しているので、土石流・崩壊、がどんどん起き、災害が発生する。

宮島の花崗岩の特徴は「割れ目」があるということ
割れ目を「節理(自然の裂け目)」と言う、きれいに割れている状態。・・・野面石の表面がきれい

花崗岩のある所には「石英」があり、石英のある所には「金」があると書いたが、
水(熱水350度~500度)があって、マグマがあってであるが、少しpH(ペーハー)が変ると、
元素がそこに集まってくる。
金は石英と一緒にあることが多い。
岩脈等に、小さな割れ目があると、そこに熱水は入ってきて、石英の細かい物が集まってくる
そこに「金」が集まる。

金の採掘に関しては、どの位の量があれば採算が取れるのか、と言うと
約 5g/1トン これだけあれば、採算が取れるといわれている。
地殻の中には「金」の含有量は少なく、「核」の中には「金」を多く含んでいる
** 「核」の金からドーンと上にあがってきた(マグマ)やつ、その中に「金」が多くある
日本には、佐渡金山 が2000年くらい前には多くの金の含有量があった。世界的にも「アフリカ」にも金山あり
現在、日本には、鹿児島県の「菱刈」には、多くの金を含んだ「金鉱山」が在る
1981年、住友鉱山が発見した金鉱山で、30~43g/1トン の金を含んでいる。
* 2019年3月の時点で、242.2トンの金を産出し、今も年間6~7トンの金を産出している
オーストラリア・パースでの産出量は、3~4グラム/1トン当たり。となています
その前は串木野が金生産量は日本一でしたが、現在休山となっています

今では珍しく、めったに見ることが出来ませんが「白い狸」が多くいたと、地元のお年寄りから話を聞きました。
以前 実際に私も夕方8時ころに桟橋前広場の「日本三景碑」の近くで白い狸を見ています。
昭和30年前後には宮島にも多くの狸を見ることが出来ましたが、最近は夕方から夜半にかけて時々見るくらいです。

日本三景の碑が見えてまいります。
寛永20年(1643年)儒学者 林春斎(はやししゅんさい)によって書かれた「日本国事跡孝」
の中において、「三所の奇観」と紹介し、後に 福岡藩の儒学者、貝原益軒が元禄2年(1689年)に出した
「安芸国宮島景勝図并記事」の中で「日本三景」と云う言葉が初めて使われ、それ以降「日本三景」と呼ばれるようになる。
貝原益軒は儒学者でもあり、博物学者でもありましたが、江戸時代有数の「旅行家」でもありました。
「東路記(あずまじのき)」「己巳紀行(きしきこう)」などにまとめられています。
これらはその後の「紀行文」に大きな影響を与えた名著としても知られています。
「日本国事跡孝」・・・・・現在のルルブの様な「観光本」です、本物は「歴史民俗資料館」において
             展示してあります、大きさは縦20cm横10cm位の本です
ちなみに、新日本三景は①大沼(北海道)②三保の松原(静岡)③耶馬溪(大分)となっています。 大沼は宮島と同じ「ラムサール条約」にも登録されていますね。
現在日本には52箇所ありますが、宮島は40番目に登録されています。「みやじまとんぼ」の生息地です
2018年には東京都江戸川区の葛西海浜公園と宮城県南三陸町の志津川湾の2か所を候補地として登録申請し登録される見通しとなりました。
更にすでに登録済みの兵庫県豊岡市円山川下流域は、国の特別天然記念物「コウノトリ」の野外生息数が増えた為、区域を2倍近く広げることとなった(1094h)。
これにより現在日本のラムサール条約登録湿地帯は15万4696haになっている。
宮島のラムサール条約に登録されている湿地帯に生息している「ミヤジマトンボ」の数は330匹から420匹位です。
世界でもここ宮島と香港に一部に生息しているのみで、世界希少種になっています。
ミヤジマトンボはシオカラトンボの1/3位の大きさのトンボです。生息の湿地帯は秘密になっています。
  絶滅危惧種の「ミヤジマトンボ」が生息しており、その湿地が平成24年(2012年)の7月3日に、参考4
ラムサール条約に登録されました。(平成25年8月1日「宮島ラムサール条約連絡協議会」発足)       
 生息数は平成25年 432匹  26年327匹  の確認がある 
 *会長 広島工業大学 上嶋英機教授   副会長 村上光春(宮島パークボランテイア会長)
 *日本は1980年(昭和55年)「釧路湿原」をラムサール条約湿地
 として条約に加入、現在では52箇所、 15万4696千ヘクタールの条約湿地がある、宮島は40番目の登録
参考 6
ラムサール条約
水鳥の生息地等として国際的に重要な湿地及びそこに生息・生育する動植物の保全と
賢明な利用を促進することを目的としています
平成30年10月21日(日)~29日(月)にドバイ(アラブ首長国連邦)で開催されました
ラムサール条約第13回締約国会議にて、我が国から新規に登録する湿地の候補地
及び登録区域を拡張する湿地の候補地について。
環境省は2日、国際的に重要な湿地を保全するラムサール条約の新たな登録候補地を決定した。
 
葛西海浜公園(東京都)と志津川湾(宮城県)の2カ所で、今月中旬にも登録される見込み。
これで国内の登録湿地は52カ所となる。
同省が同日、中央環境審議会(環境相の諮問機関)の小委員会に報告した。
葛西海浜公園には多くの水鳥が越冬のため飛来。登録されれば東京都としては初めてとなる。
志津川湾は500種以上の海洋生物のえさ場や生息地として知られる。 
環境省は2日、国際的に重要な湿地を保全するラムサール条約の登録地に、
東京都江戸川区の「葛西海浜公園」(367ヘクタール)と
宮城県南三陸町の「志津川湾」(5793ヘクタール)を新たに登録すると発表した。
21日からアラブ首長国連邦のドバイで開かれる締約国会議で正式決定する。
日本の登録地は52カ所(15万4696ヘクタール)となる。

葛西海浜公園は東京湾にある干潟。高度成長期以降、生活排水で水質が悪化したが、下
水道の整備のほか、カキやアサリなどの繁殖によって水質改善が進み、
約2万羽のガン・カモ類が飛来するようになった。

しかし水質改善に取り組むNPO法人「ふるさと東京を考える実行委員会」の
関口雄三理事長(70)は「増えた水鳥が貝類を食べ、再び環境が悪化する恐れもある。
水鳥も大事だが、海の生物多様性全体を考えるべきだ」と懸念を示す。

一方、志津川湾には、海流がぶつかり合い、
寒い海のマコンブと暖かい海のアラメなどが共存する珍しい藻場がある。
東日本大震災に伴う津波で海藻が流された場所があったが、
その後生息地は回復に向かっており、登録に支障はないと判断した。
参考
福沢諭吉(大分県中津出身)、慶應義塾創設
九州耶馬渓、絶壁がそびえる「競秀峰(きょうしゅうほう)」の岸壁沿いの難所、ここを行く人馬が命を落とす事に心を痛め「禅海」
は30年かけて「青の洞門」を完成させる。
福沢諭吉はこの地が売りに出されている事を知り、心ない者に買われて絶景が損なわれる事を懸念、中津に住む義兄の名義で
約1.3ヘクタールの土地を3年かけて少しづつ購入する。後にすべて国に寄付をする。
1923年(大正12年)に国の名勝に、1950年(昭和25年)には、耶馬日田英彦山国定公園に指定される。
「禅海」が青の洞門を掘った事に着想を得た、菊池寛の小説「恩讐の彼方(おんしゅうのかなた)」はこの地を一躍有名にした。
現在の「景観保全運動」の先駆けとされる。
諭吉による、「学問の勧め」は、天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。
元々、市立学校設立に際し、当地の若者に学問の重要性を伝えようとして書いたもの。
江戸・築地の中津藩中津屋敷の長屋を借りて「蘭学」を教えたのが「慶應義塾」の始まり。

隣には
世界文化遺産碑があります。今年で登録後23年になりました。
平成8年(1996年)メキシコ メリダ市で行われた、第20回世界遺産委員会で正式に
「世界文化遺産」に登録が決まりました。同時に広島の「原爆ドーム」も登録されています。
メリダ市 メキシコ東南端の魚の尾びれの様な形をした半島で、メキシコ、ベリーズ(旧ホンジュラス)、グワテマラ
の3か国が存在する
4世紀から10世紀にかけて「マヤ文明」が栄えた土地である。


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