知りたい宮島

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知りたい宮島  詳細編  2

2023年03月25日 17時58分51秒 | 世界遺産
世界遺産とは
「世界的に価値の高い、人類共通の自然・文化遺産を各国が協力をして保存を図る」と言うものです。
参考
世界遺産登録数の推移(1978年-2018年)
西暦年号 登録件数 西暦年号 登録件数 西暦年号 登録件数 西暦年号 登録件数 開催地
1978 12 1991 22 2004 34 2017 21 ポーランド・クラクフ
1979 45 1992 20 2005 24 2018 19 バーレーン・マナマ
1980 28 1993 33 2006 18 2019 29 アゼルバイジャン バクー
1981 27 1994 29 2007 22 2020 中國  福建省福州市
1982 24 1995 29 2008 27
1983 29 1996 37 2009 13
1984 23 1997 46 2010 21
1985 30 1998 30 2011 25
1986 31 1999 48 2012 26
1987 41 2000 61 2013 19
1988 27 2001 31 2014 26
1989 7 2002 9 2015 24
1990 17 2003 24 2016 21 トルコ・イスタンブール
小計 341 小計 419 小計 300 69 1129 現在は1121か所が世界遺産登録
以上であるが、世界遺産が合併したり、登録を抹消された世界遺産もある為、(登録数合計=世界遺産総数ではない)
世界遺産登録が始まった1978年以降の登録物件数の推移は上記である
各国が推薦した物件の世界遺産リストへの記載の可不可は毎年行われる世界遺産委員会で決まる。
近年目立つのが推薦の取り下げだ、と言うのも世界遺産委員会では各物件について「登録」「情報紹介(追加資料の提出で再審査が可能)」
「登録延期」「不登録」の4段階の判定を行うのだが、ここで「不登録」の決定を受けると再推薦が認められなくなる。
この為イコモス(国際記念物遺跡会議)やIUCN(国際保護連合)が事前調査を行って提出する評価報告書の内容が悪いと
推薦を取り下げる事が多くなっている。

宮島の世界遺産
具体的には、厳島神社社殿群、社殿の前の大鳥居までの海、神社本殿裏の弥山原始林(天然記念物指定)
で全島の約14%(面積は431,2ha)です。
2014年は「富岡製糸」が認定されました
2015年は「明治日本の産業革命遺産」が新たに認定されました。
(九州5ヶ所、佐賀・長崎・熊本・鹿児島・福岡。山口、岩手、静岡)
2016年はトルコ・イスタンブールにて行われた会議で国立西洋美術館(本館)が認定されています。
2017年はポーランド・クラクフにて沖ノ島が登録されました、
2018年は、バーレーン・マナマにて長崎・天草の潜伏キリシタン関係を申請し登録されました
2019年の世界遺産は、アゼルバイジャン・バクーで行われ、文化遺産の「大阪府の百舌鳥・古市古墳群」が決まりました。
これで国内には23か所の世界遺産があります。
自然遺産19か所 自然遺産4か所です
世界遺産は今回2001年以来、最も多い29か所が追加認定されました
文化遺産 24か所(869か所)  自然遺産 4か所(213か所) 複合遺産1か所(39か所) 全部で1121か所となります。  
第一位 はイタリア・中国55件)第三位はスペイン(48件)第四位はドイツ(46件) 日本は12位(23件)です
令和元年 5月15日 朝日新聞
今年は「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されました
ユネスコの諮問機関「イコモス」が世界遺産への登録が正式に決定
世界遺産登録候補 百舌鳥古墳群 大山古墳「仁徳天皇陵」
百舌鳥陵山古墳(みささきやま)「覆中天皇陵」
田出井山古墳「反正天皇陵」
ニンザイ天皇陵     など
古市古墳群 誉田御廟山古墳(ごんだごびょうやま)「応神天皇陵」
仲津山古墳「仲姫命陵(なかつひめのみこと)」
岡ミンザイ古墳「仲哀天皇陵(ちゅうあい)」
市野山古墳「允恭天皇陵(いんぎょう)」
軽里大塚古墳「白鳥陵」       など
中でも「仁徳天皇陵」として知られる大山古墳はおなじみだ。前方後円墳 の形をしている。
その他巨大な古墳が次々と造られた4世紀から5世紀後半には様々な大きさ形のものが49基ある。
「古墳時代にはリーダーの王玉(おおきみ)(後の天皇)や豪族が亡くなると、土を積み上げて
大きなお墓をつくった。これを今は「古墳」と呼ぶ。
前方後円墳・円墳・方墳・帆立貝形墳など大きさも形も多様な古墳群である。
大阪の百舌鳥(堺市)と古市(羽曳野市と藤井寺市)のエリアでも200基以上築かれたようだ。
「仁徳天皇陵は全長486m、堀を含めると甲子園球場が12箇も入る大きさ」

 濠(ほり)の状態については、第一濠での浸食が課題となっている。水深は最も深い所で3.7m、水量は
 25mプール約700杯分にもなる」

クフ王のピラミッドや、秦の始皇帝のお墓と並ぶ、世界的に巨大なお墓の一つである。
現在は宮内庁が今の天皇家の祖先のお墓として厳しく守っており、入る事は出来ない。
学者の発掘調査もほとんど出来ていない。「*49基中29基は宮内庁管理」、の陵墓となっている。

「百舌鳥に44基、古市に45基が残っている内保全状態の良いものを選び、それぞれ23基と26基
に合計49基になりました」
百舌鳥古墳群は5世紀で終わるが、古市が6世紀まで続きました。
「古市古墳群の誉田御廟山古墳(伝応身天皇陵)を境に、中型古墳が消え小型古墳が増える様に、
古墳群の変化は政治構造が反映される。古墳群は当時の権力や富の所在を表したものであった。」
天皇家の陵墓として立ち入りが制限される構成資産を含む異例の資産群であるが、それも
また全人類の財産とイコモスは判断したという事。
昨年(2018年)は文化財保護法が改正され、先人が残した歴史遺産を暮らしにどう生かすか
社会との共生や活用の流れは加速するばかりで、閉鎖性えお持つ「古墳群」も例外ではない。
「世界遺産」に意義は、「私たちの財産を後世の世代へ手渡す事」。
天皇陵の積極的な公開や、より踏み込んだ「学術調査」を求める声もあり、「静安と尊厳」
を重視する従来の姿勢とのバランスなど学会の見解との矛盾をどう解決するのか。
勧告は多様化する「文化遺産」の在り方を考えるきっかけにとなればよい。

緑の古墳と調和していく町並みを目指して、重点ゾーンを設定し、建物の高さを10m又は
15mに制限がしてあり、更に色彩・建物の形態や意匠(デザイン)屋外広告も制限しました。
**陵墓とは歴代(れきだい)天皇や皇后など天皇家のお墓のことで、宮内庁が管理している。
「静安(せいあん)と尊厳(そんげん)」を保つために一般の立ち入りは禁じられています。
陵墓に誰が眠っているのかは、幕末から明治時代に「日本書紀」や「延喜式(えんぎしき)」といった古い記録などをもとに決められました。
ユネスコにも「仁徳天皇陵古墳」といった名前で推薦された。ところが、考古学の研究が進んで、墳丘(ふんきゅう)の形や
埴輪(はにわ)などをもとに、いつ造られたのかをかなり絞り込めるようになったんだ。
宮内庁がお墓に葬(ほうむ)られたとする人と、古墳のできた時期との間で時間的なずれが出てきた。
陵墓の多くで「実際に葬られた人は違うのでは」という見方が学界で強くなっている。そこで
一部の研究者たちは、古墳の名前は学術的に未確定の人物名ではなく、地名などからつけた考古学での名前にするべきだと主張しているんだ。
一方で、従来の陵墓の名も広く親しまれているから、両方の名前が併記(へいき)されるようになった。
世界遺産登録後も、研究者が自由に入って調査することは認められないだろう。仮に発掘調査ができたとしても、
お墓の主をはっきりと記録した墓誌(ぼし)などがない限り、特定は難しい。

世界遺産には、景観を守る緩衝地帯(バッファーゾーン)が求められ、大阪府と堺市・羽曳野市
藤井寺市の3市は百舌鳥で517ha、古市で373haを設定している。2016年からは
建物の高さ・外観、屋外広告部物を規制している。
6月30日から始まる世界遺産委員会で正式に決まりました。これで自然遺産を含め国内では23件目となる
「ユネスコの諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)は世界遺産に登録推奨する」
会議は「アゼルバイジャン」で行われました。

構成資産の名称 陵墓 国史跡
  百舌鳥エリア 堺市 1 反正天皇陵古墳 〇
2 仁徳天皇陵古墳 〇
3 茶山古墳 〇
4 大安寺山古墳 〇
5 永山古墳 〇
6 源右衛門山古墳 〇
7 塚廻古墳 〇
8 収塚古墳 〇
9 孫太夫山古墳 〇
10 竜佐山古墳 〇
11 銅亀山古墳 〇
12 菰山塚古墳 〇
13 丸保山古墳 〇 〇
14 長塚古墳 〇
15 旗塚古墳 〇
16 銭塚古墳 〇
17 覆中天皇陵古墳 〇
18 寺山南山古墳 〇
19 七観音古墳 〇
20 いたすけ古墳 〇
21 善右ヱ門山古墳 〇
22 御廟山古墳 〇 〇
23 ニンザイ古墳 〇 〇

 古市エリア 羽曳野市 1 応神天皇量古墳 〇 〇
2 誉田丸山古墳 〇
3 二ツ塚古墳 〇
4 東馬塚古墳 〇
5 栗塚古墳 〇
6 向墓山古墳 〇
7 西馬塚古墳 〇
8 峯ヶ塚古墳 〇
9 白鳥陵古墳 〇
藤井寺市 10 津堂城山古墳 〇 〇
11 仲哀天皇陵古墳 〇
12 鉢塚古墳 〇
13 允恭天皇陵古墳 〇
14 仲姫命陵古墳 〇
15 鍋塚古墳 〇
16 助太山古墳 〇
17 中山塚古墳 〇
18 八島塚古墳 〇
19 古室山古墳 〇
20 大鳥塚古墳 〇
21 東山古墳 〇
22 はざみ山古墳 〇
23 野中古墳 〇
24 浄元寺山古墳 〇
25 青山古墳 〇
26 墓山古墳(羽曳野・ 〇
藤井寺市、両市) 〇 〇

更に2020年(オリンピックイヤー)には
①北海道・北東地の縄文遺跡群
②奄美大島・徳之島・沖縄島北部及び西表島
この2つの内、どちらかをを推薦することが決まっています(1国からの申請は1件と決まっている為)
開催地は中国、福建省福州市です(港湾都市で、琉球王国との交易指定都市でした、人口743万人)

2016年から申請は「各国1件祖申請」となっています。
また、2013年の「富士山」登録は条件付での文化遺産となります。

広場左手の小高い丘(標高は27m)は1555年10月1日にあった「厳島合戦」場です。
宮尾の城(要害山)、厳島合戦(1555)で陶晴賢軍を誘き寄せる為に、毛利元就が築いた
「囮」の城。城には約300~500名の毛利軍が立て籠もる(元就は大将として歴戦の重臣で熊谷信直(50~60の船にて入城)
(くまがいのぶなお)を差し向ける)・熊谷信直は9月26日に宮尾ノ城に入る・陶軍は21日に上陸陣を構える
陶晴賢軍2万人 毛利軍3~3.5千人とも言われ、9月30日の夜陰から、翌10月1日の早朝に掛け 
博打尾峠を越え一気に攻め1日(4-14時)で陶軍を滅ぼす(合言葉は勝つか、と言えば勝つ・勝つ、でした)堀割を設け、
西側に5郭、東側に10郭が構築されていた。「郭」とは囲いの事。この時3日分の食料(炒り米等)、棚木1本 縄1束を全員に支給
1551年大内義隆は陶に弑逆される、毛利隆元にとって義隆は岳父にあたる為、陶討つべしと元就に強く迫る
1553年毛利元就は陶を討つべく兵を挙げる(大内とは盟友関係であった)

弑逆・・・・下士が上士を強制的に自刃に追い込むこと
1555年9月21日、陶晴賢は「宮島」に入る。これは神社で「秋の法会」が執り行われていた。厳島神社の法会を保障
することは、この地域の支配者の義務でありまた、権力の正当性を示す絶対の機会であった。
参考
「元県立広島大学の秋山教授の言葉」
最近の研究で判ったことは、陶軍の人員は2万とも言われているが実際、大内氏の家臣で重鎮といわれる人は
陶軍には参加していなかった,また、毛利軍が3千名とも言われているが、瀬戸内の有力者が多数参加した為、
陶軍は多めでも1万人。また毛利軍は少なめでも5千人と言うことが判ってきた、実際の戦いでは
言われている様にな、大きな差は無かったのではないか、と言うことが解った。厳島合戦については後程詳しく述べています。参照してください。

小高い丘の麓には「石碑」があります、皆さん気がつかないで通り過ぎていかれますが、昭和天皇が皇太子の時大正15年5月27日に来島され
厳島神社を参拝また宮島の最高峰弥山に登られた記念碑となっています。
横の階段は「雁木」です、途中から湾曲になっていますが(近年造った)ここに、以前は「二位殿灯篭」が置いてありました
現在は「有の浦 海岸通り」の最後辺りに移設されています。説明がないとわからないですよね。
「雁木」とは、潮の干満にかかわらず、船を着ける事が出来る、階段状の船着場の事です。
広島の原爆ドーム前の、本川 元安川の護岸では「昔の雁木」がいまだに残っています。宮島から原爆ドーム行の船に乗るとよくわかりますよ。
又 明治天皇も来島されています.明治18年7月31日のことで、岩国から来島され、大聖院を行在所とされお泊りになられています、
翌日には対岸の外宮のある地御前神社前に舟で着かれ(今もここにお上がり場海岸として、立派なモニュメントがあります。
今上天皇、雅子妃殿下、上皇 上皇郷も来島されています。歴代の内閣総理大臣も幾多の方々が来島されている島です。    
広島に「首都」が225日間置かれた事を知っていますか。

おあがり場公園
ここに「西幸記念碑」と書いてある石碑がある。昭和6年に建立されたものであるが、明治天皇が明治18年8月1日に
西国巡礼の際の行幸先の「宮島・大聖院」からこの場所に船にて上陸した場所である。
桟橋が急遽造られた。二か所の桟橋の大きさは次のとおりです
長さ 76.5m 幅 5.4m  高さ 3.3m
長さ 21.6m 幅 3.6m  高さ 3.3m  と言う大変大きな桟橋でした
上陸後は、岩尾澤太郎邸で休まれ、その後、明治天皇は廿日市を経て広島へ向かわれる。
廿日市には岩尾氏が私財を投げ打って購入した土地に「廿日市招魂社」を建て、その敷地内には「明治天皇御用品奉置殿」があります
招魂社は、国家の為に殉職した人達の礼を祀った神社で各地に立てられました。
明治12年明治天皇の命名により、東京招魂社は「靖国神社」に又、地方の招魂社は昭和14年「護国神社」と改称しました。

この石碑の「文字」を書いたのが、最後の大名と言われた「浅野長勲(ながこと)」日本で初めての「用紙製造工場」を経営、
更には閉鎖されそうになっていた「広島藩校修道館」を再興。縮景園に「浅野学校」を開校後に、校名を「修道学校」と改め、
その後この学校は「修道中学」「修道高等学校」と言って世を支える多くの人材を輩出している。
長勲公は「外交官・元老院議官・貴族院議員」を務め、昭和12年93歳で逝去
明治27年(1894年)9月10日 広島に「大本営」が置かれる,15日 明治天皇 広島に入る
明治28年(1895年)4月  清との間に「下関条約」が締結される,4月27日  大本営は京都に移る

参考
大本営とは、戦前の日本において天皇のもとで戦争を指導する最高統師部の事
広島大本営
明治27年(1894年6月5日)設置され、9月10日に広島に移った。以後講和条約締結後
の明治28年4月27日に京都に移るまで7ヶ月以上(225日間)に渡って広島に大本営が置かれた。
明治27年9月15日、明治天皇が大本営に来る(225日間は広島に首都がおかれました)
大本営には、臨時帝国議会仮議事堂が設置。右に貴族院、左に衆議院 中央には玄関と車寄を設ける。  
更に天皇の休憩所である「御便殿(ごべんでん)現在の比治山公園内になります」もあり、広島憲兵隊本部もあった 
広島に移ったことは、軍の士気を高め戦略上の利点を得ただけでは無く、開戦に消極的だった
「明治天皇」が率先して戦争を指導する契機になると共に政府に反対する勢力や、
旧大名を戦争に協力させて挙国一致体制を作りあげ、日清戦争勝利するうえで大きな役割を果たした
この時、広島藩最後の広島城主、浅野長勲(ながこと)が広島に到着した明治天皇を広島停車場で出迎え、
又11月6日には浅野家の私邸であった泉邸(今の縮景園)に天皇を迎えている。

浅野長勲(ながこと)明治2年(1869年)藩主となるが、廃藩置県により「県知事」となる。広島修道高校 中学の前身を設立する。
広島停車場(北部大須賀町で現在の南区松原町) 多くの将兵や軍幹部、政府高官、帝国議会議員、
天皇をはじめとする貴族が鉄道で広島を訪れここで乗り降りした所
廃藩置県では旧藩主は全て東京に移住となるが、移住阻止しようとして騒動が起きた(武一騒動)    
昭和12年(1937年)96歳で死去、昭和に入って最後の大名経験者として有名であった

威海衛戦勝碑 ・・・・大鳥居の前にあります、良く見てください。山東半島の先端にある「威海衛市」 
現在の威海市(人口約240万人)、明治28年1月20日~2月12日の間に行われた、
日本海軍による清国の制海権を完全に掌握する為北洋艦隊襲撃と海軍基地の制圧を行う。


広場の前を過ぎると、小高い丘の麓に「加福食堂」が見えます、その横には階段があり(前述の通り)、この階段の上が
1555年に厳島合戦が行われた時に「毛利元就軍は陣を構えた所」で15の廓があり、
毛利軍約300名から500名がいた所です。(要害の地で宮尾の城跡と呼んでいます)
この時元就は大将として、歴戦の重臣で熊谷信直(くまがいのぶなお)を差し向ける、信直は9月26日に宮尾の城に入る、
この時陶晴賢軍は既に21日には、五重塔の横(現在の千畳閣の所)に陣を構える
陶軍は2万人 毛利軍は3千人ともいわれた、9月30日の夜陰、嵐をついて対岸の「火立岩(ほたていわ)」から兵を伴い、
島の裏側、現在の「包が浦」に上陸、博打尾峠を越えて、陶軍の背後に迫り、10月1日 早朝4時に総攻撃をかけ、
昼過ぎの2時には決戦が終わったという、日本三大奇襲戦の一つで厳島合戦が行われた場所です
この時「陶軍」は鉄砲隊がいた為(6丁あった)、元就軍は敵をけん制する為「射手」を200名乗船させていた。
元就はこの時、3日分の食料(煎り米等)と棚木1本 縄1束を全員に支給していた

この時の、合言葉が「勝」と言えば「勝・勝」と連呼した
陶晴賢は、高安ヶ原で自刃(35) 弘中隆兼・隆助 父子は2日間戦い、
駒が林(フェリーから見ると、右側の山肌(岩肌)が見える山)にて討ち死にする
(駒が林はフェリーから宮島山頂を仰ぐと一番高く見える山で裏側は焼く80mの断崖絶壁の山)
この時、陶晴賢は「何をおしみ、何をうらまん もとよりも この有様の 定まる身に」と詠んでいる

その階段の横に, 前述しましたが
「皇太子殿下行啓記念」の石碑を見ることが出来ます、
これは、既に 崩御された「昭和天皇」が皇太子殿下の時、大正15年5月27日に宮島に参詣に寄られ
弥山頂上まで登山をされた時の「記念石碑」です。
14~15年位前(2005~2006年)には、この横の石段(昔の雁木です)の所に「二位の尼灯篭」が置いてありました
、現在は場所を移動し、商店街出口付近の防潮堤の側にあります。
石段をよく見ると扇状の部分は後から造った事がよく判ると思いますが、昔の雁木と後から付け足した石段が鮮明にわかります。

弥山頂上付近には同じ様な石碑(四角い形をしている)が建立しています、どこにあるかさがして?
皆さん気が付かないで登山しておられますよ?登山道の左手にあります。
その年の12月25日、大正天皇が逝去(午前1時45分)され、2時間後には皇太子殿下から「天皇陛下」になられています。
更に言うと、明治18年7月31日には「明治天皇」が御行幸されています。
この時の「行在所」が大聖院の観音堂です。
観音堂の屋根瓦を見ると、「金色の菊の御紋章」が入っています。
また、明治27年9月15日には、明治天皇は広島大本営にこられました。
日清戦争において、広島に「大本営が設置」されたためです。
(明治27年7月~28年3月 日清戦争 広島に首都が225日間おかれる)

この時の大本営の参謀総長が、有栖川宮熾仁親王で後述の「朱の大鳥居」の「扁額」を書いた人です
参考
有栖川宮熾仁親王(有栖川宮家 第9代)
旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜(よしのぶ)の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。
貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。
明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。
明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、明治28年(1895年)に61歳で薨去。
熾仁親王は時の皇族の第一人者として明治天皇から絶大な信任を受けた。
明治15年(1882年)にはロシア帝国の旧首都モスクワで行われたアレクサンドル3世の即位式に
天皇の名代として出席し、帰路には欧州諸国とアメリカ合衆国を歴訪した。

有栖川宮(ありすがわのみや)は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。
四親王家「伏見宮(ふしみのみや)、桂宮(かつらのみや)、閑院宮(かんいんのみや)とならぶ世襲親王家の一つ。
第2代良仁(ながひと)親王は皇統を継ぎ、後西天皇(ごさいてんのう)となった。

今上天皇と美智子妃殿下も、昭和53年10月5日に来島、参詣されています。
この時は、島の裏側にある「包が浦自然公園」が都市公園に指定、その除幕式に出席の為、来島されました。

特別史跡・名称 の石碑を見ることが出来ます。
大正12年(1923年)史跡・名称天然記念物保存法により、全島が「史跡・名称」に指定
その後
昭和27年 文化財保護法により、全島が「特別史跡・及び特別名称」に指定される
現在全国に、特別史跡・名称 と名のつく場所は「36箇所」あり、その内同時に指定されているのは
宮島を含め「11箇所」となっています。
関東で有名なのが、①小石川後楽園  ②浜離宮恩賜公園 です

文化財保護法
昭和24年(1949年)1月26日早朝、奈良県斑鳩町の法隆寺・金堂が堂内より出火、金堂壁画(国重要文化財)
にあった「釈迦」「薬師」などの群像を示す大壁画4面、と各種「菩薩像」「を描いた小画の計12面の壁画
のほとんどの「色彩」を喪失する。この火災をきっかけに昭和25年(1950年)「文化財保護法」が成立した
金堂壁画は焼けても「国宝」の上をいくという意味で「至宝」と呼ぶ
文化財保護法は後に昭和29年(1954)、昭和50年(1975)、平成8年(1996)令和1年4月1日(2019)に改定が行われている

大鳥居の近くには、威海衛戦勝記念碑(いかいえ)があります、よく見て探してください。
現在の威海市(いかいし)で山東半島の北東端の港湾都市で人口248万人、当時は清国の北洋艦隊の根拠地でした。
明治28年1月20日~2月12日の間に行われた、日本海軍による清国の制海権を完全に掌握する為北洋艦隊襲撃、と海軍基地の制圧を行う。
威海衛の戦い(いかいえいのたたかい)は、日清戦争における戦闘である。その日本陸海軍共同作戦の目的は、第二期作戦「直隷決戦」にむけて
制海権を完全に掌握するため、威海衛湾に立てこもる北洋艦隊の残存艦艇撃滅と海軍基地の制圧にあった。
直隷(ちょくれい、直隷省とも)
明代から清代にかけて、黄河下流の北部地域を指した行政区画。

参考
明治30年(1897年)6月10日 古社寺保存法
昭和 4年(1929年) 国宝保存法
昭和25年(1950年) 文化財保護法
    昭和29年(1954年) 改定が行われる
    昭和50年(1975年)
    平成 8年(1996年)

表参道商店街を通ると、郵便局の隣にに大変大きな「杓子」がありました。
一般的には「しゃもじ」と言いますが、ここ宮島では「杓子(しやくし)」といいます。
残念ですが、現在は「大杓子」は展示してありません。この場所は現在「最新のおもてなしトイレ」があります。
「観光案内所・休憩所」も併設されています。
しかし杓子の新たな展示場所の休憩所(旧宮島庁舎)は完成がまだあと1年以上かかる予定です。
杓子について
誓真さん(俗名を木屋政次郎という、1741年~1800年 享年59歳)は、
伊予務司(むし)城主、村上頼冬を祖先とする。
1662年(寛文2年)、木屋家初代の木屋太郎左衛門が広島の大工町に移住した
大工町は当時大工が多く、木屋家でも代々大工を営むようになり祖父の代からは組頭を務めていた。
宮島に渡り光明院代16代住職「了単上人」の下で出家した。25歳の時、光明院の隣地の
神泉寺の敷地内の「竹林庵」を住まいにし修行に勤めた。
頼杏坪(らいきょへい)によって編纂された「芸藩通志」には以下のように記してある
「誓真といえる道心者、かつて種々の器物を作りし,木杓子尤も多し今も続けて作るものあり」
芸藩通志・・・・1825年(文政8年)に完成した安芸の国広島藩の地誌。
更には、頼杏平の「芸藩通志」には毎日200人以上の住民が薪作りの為に山野に入り込んでいた。明治19年には
山肌の森林土壌は荒廃がその極に達していた。その後明治・大正・昭和と100年に及ぶ保護育成は森林の回復に大きく寄与する

神泉寺にあった「阿弥陀仏」は、東京西巣鴨にある大正大学礼拝堂に安置されている。
また[二位の尼木造]は、本殿を出た所から右に30m位のところにある「宮島歴史民俗資料館」に安置されている。
天明の大飢饉(1782-1788)による人々の困窮は宮島も例外では無く、誓真は自ら
托鉢をして回り得た財を投じて島内に10箇所の井戸を掘る、さらには道、石段(雁木)を築いたり
と町のインフラ整備に尽力をしている。その功績は大いに評価され、1791年(寛政3年)
誓真50歳の時,広島藩から「賞銀」を与えられている。
1800年(寛政8年)、59歳で亡くなる。
参考
 宮島と対岸の地御前辺りは当時、大変困窮していたと思われ、誓眞は広島辺りまで托鉢に出かけていたようだ
 祖父の代から、大工の組頭をやっていた関係で、知人などを廻り托鉢をしていたと思われる。
 井戸掘り、雁木作り 他には、大きなお金が必要と思われるが、とても宮島近辺での托鉢では間に合わなかったのではないか。

1791年(寛政3年)4月、お役所から御触書が出された、主旨は「富くじの廃止」であるが
その中に「手仕事の産業は楊枝以外は何物も見当たらない」とあり、富くじ廃止により
島民の生活が困窮しないように手細工を宮島の産業にしていく必要がある。と言うものだ
廃止により、これらの配当金や藩からの扶持米(藩主から家臣に給与される米「俸米」)
が打ち切られ、島民は経済的な自立を迫られることとなる。
その為島民の多くは「山師」になり、手先の器用な者は杓子等木工細工の職人になる
「山師」・・・・山林の伐採や立ち木の売買を取り仕切る人

大正~昭和にかけて、杓子職人は50人以上で推移する(明治30年には70名いた)
大正15年・昭和元年(1926年)日本の人口は約6000万人(世帯数は約1500万)、この時の杓子の年間出庫数
は12、000万本。正月には家庭で新しい杓子を使う習慣があった為、12月は特に多忙であった。

明治以降の宮島杓子
寛政3年(1791年)当時は宮島のお土産と言えば「五色箸」と「色楊枝」のみで、厳島神社参拝者に
対する土産物となっていた。
安土桃山時代の天正年間(1573-1592年)から厳島神社で執り行なわれるている、御楊枝献上
の神事に準じて作られたもの。日頃から来島者が土産物として持ち帰る物が非常に少ない事を残念に
思っていた誓真は、役所からの通達もあり「杓子」を製作し、町民に模範を示した。ゆえにこの杓子を
「誓真杓子」と呼んだ
「五色箸」「色楊枝」・・・五色箸は箸に色をつけたもの、同じく色や飾りをつけた、色楊枝共々宮島土産となる
**御楊枝献上・・・現在でも厳島神社で1月4日に行われている。御楊枝とは白木の箸の事
参考
色楊枝
昔は「白色楊枝」を奉納する儀があった。
この楊枝とは「木の皮の付いた白い箸」のことで、神に奉納する「白い箸」を
「宮島の名産にするとは」、いかがなものか? と言うことで箸に「色」を付けて
五色箸」として考案し土産にした。
まだ、歯ブラシが無い時代、割り箸の様な木の先に細い割れ目を入れたもので代用していた
その「切れ目のは入った木」を「楊枝」と呼んだ様だ。
材は「ヒノキ・ケヤキ・クス」を使っている。長さ7センチ位、「赤・黄・緑・紫・藍」の五色に染めている
楊枝の頭には、厳島八景の「燈篭・桜・蛍・月・鹿・雪・船・烏」を大豆ほどの大きさに細かく削って
いる。明治30年頃まで作られていた。「歴史民俗資料館には現物が展示してあります」
現在は「くろもじの木」が最高級品の楊枝である

「島のかおり」によると、明治22年の島内の様子は、
杓子職人「飯杓子」30名 匙杓子「さじ」13名(合計43名)いた
(その他、轆轤細工職人、竹木工、陶器工、彫刻工、塗り師工、全部で80人いた)
その後「芸備日日新聞」によれば
明治30年(1897年)になると、杓子工70名余で組合を作る(70名余の職人がいた)

「島のかおり」・・・・・・・宮島の産業沿革史
「芸備日日新聞・・・・・明治21年(1888年)から昭和23年(1948年)まで刊行された。 広島の地方紙

明治37年(1904年)出版の「厳島案内記」によると
竹木細工190人、轆轤師100人、杓子削(匙さじ類を含む)60人、産物店54戸
旅人宿42戸、大工職65人、渡船業者38人、飲食店30戸、案内者20人、穀物商18戸
彫刻職18人、樵夫(しゃふ)17人。   *樵夫(しゃふ)・・・きこり、森林伐採で生計を立る人

以上の事から、明治時代、島内には60人~70人の杓子職人がいた事が分かる。
宮島での杓子の発達には「明治維新」が大きく影響している。
明治5年(1872年)、「冨くじ」が国内で全面的に廃止される。これにより配当金や「藩」
からの扶持米が打ち切られ、島民は経済的な自立を迫られた。
その多くが「山師」になり、手先の器用な者は杓子等の木工細工の職人になる。

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