知りたい宮島

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知りたい宮島 詳細編 8

2023年03月25日 17時57分07秒 | 貴方の知らない宮島
話は変わりますが、国宝 の認定基準について、大変判りやすい基準が最近発表になったので、
知っている方も多いかと思いますが、2015年5月15日の決まった、松江城について触れてみます。

下村博文文部科学相に答申した
松江城の天守は1611(慶長16)年に完成。近世城郭の最盛期を代表する建築として評価された。
1950年(昭和26年)、文化財保護法の施行により重要文化財に指定され、
翌51年に松江市が国に国宝指定の陳情を開始。その後、市民による署名活動や勉強会を続けていた。

松江城は松江開府の祖・堀尾吉晴が築城し、江戸時代には藩主の堀尾、京極、松平各家の居城だった。
「堀尾吉春」・・・信長・秀吉・家康に仕えた人物で、極めて実践的な城(戦う城)を造った
加藤清正・福島正則 は堀尾吉春の弟子である

国宝指定の答申の決め手は、築城年を記した「祈祷(きとう)札」の発見だった。
1937年以降所在不明となっていたが、松江市は懸賞金500万円をかけて捜し、
2012年に市職員らが天守そばの松江神社で見つけた。2階分の長さの柱を多用して荷重を分散させる
当時の最新技法に加え、柱を板で囲む「包板(つつみいた)」なども高い評価を受けた
「包板」に付いた「キズが2箇所」あり、祈祷札を止めていた「釘穴?」の穴の位置と「包板」にある「釘穴」
の位置がぴったりと一致したため、「松江城の建立は慶長6年1611年」と確認され、国宝指定となる

城の特徴
城の下半分に「大屋根」の建物あり、その上に「櫓」が乗っている。
この様な構造を「望楼型」と言う。天守の型としては大変古いものである
現在、大型天守では唯一松江城が残っており、正統派天守の唯一のもの・・・生ける化石の様なもの
信長が「安土城」で造り、秀吉が「大阪城」で造っている。
「付け櫓」
天守の前に、まるで取って付けた様な建物があるがこれが「付け櫓」である。
敵が侵入してきても「闇討ち」に出来る様に、又「狭間(ざま)」と呼ばれる所がある、
これは、「鉄砲」「弓矢」で対応するが、どうしても「死角」ができる、それを補う為にある
「井戸」
天守の中に「井戸」があるのは、現存天守では「松江城」のみ。長期のろう城に耐える為
「柱・包板」
慶長年間(1596年から1615年 約20年間)は全国で築城が盛んに行われた
その為、「太い柱」が品薄になり、柱の周りを板で囲み補強をした(これを包板という)
約400本ある「柱」の内「1/3」が「包板」となっている
「大黒柱」
姫路城には大きな大黒柱が2本通つている
当時この様な大きな「大黒柱」は無く、仕方が無いので、「一階・二階」と階を重ねるごとに
「短い柱」を足していった。この構造が「現存する城」の造りの中で最も古いもので
「国宝」になった理由の一つに挙げられる。
名古屋城・大阪城もこの様な形式の造りとなっている。

宝物館
国指定登録文化財 大江新太郎の設計
鉄筋コンクリート平屋、入母屋造り、昭和9年(1934)建造、厳島神社には平安時代末期
から現代まで、数々の奉納物が保存されています。懸魚には猪の眼がある  
国宝中の国宝といわれる、「平家納経33巻」をはじめ、
「古神宝」「舞楽面」「能衣装」「刀剣」「甲冑」「絵馬」等美術工芸品54点を含む261点が所蔵されている。
入り口にある「厳島宝物館」と記した額は、明治38年 九鬼隆一の筆によるものである
明治30年(117年前)、古社寺保存法(後の国宝保存法、昭和4年)が制定
九鬼隆一・・・・・古社寺保存会会長、帝室博物館総長を勤めた人.文部官僚として重職を歴任、「文部の九鬼か、九鬼の文部か」
と言われる程の人物。貴族院議員も務めた男爵で「枢密院顧問」
大鳥居の前にも九鬼隆一の石碑が建っていましたね。

明治32年 岡倉天心、フェノロサなど来島、神社・大願寺などの宝物や仏像の調査が行われ、
(1899年) 「平家納経」は「国宝」に指定される。
フェノロサはハーバード哲学科卒、アメリカ東洋美術史家、東大から東洋美術学校設立に参画する
大鳥居・五重塔・多宝塔などの神社の重要な建物が「特別保護建造物」に指定、それぞれの建物は、
綿密な調査を基に創建時の姿に復元する工事が始まり、明治の初めに改造されていた、本社の
千木や勝男木も取り除かせ、回廊・祓殿(美術工芸54点等 261点あり)の絵馬は千畳閣へ移される。明治33年
その後、刀剣・甲冑・舞楽面・能装束などが相次いで
国宝になった。「宮島は文化財の宝庫」と呼ばれるようになる。

入り口にある「厳島宝物館」と記した額は、明治38年 九鬼隆一の筆によるものである
九鬼隆一・・・・・古社寺保存会会長、帝室博物館総長を勤めた人.文部官僚として重職を歴任、「文部の九鬼か、九鬼の文部か」
と言われる程の人物。貴族院議員も務めた男爵で「枢密院顧問」
長沢藘雪・・・円山応挙に学び、応挙門下の俊才と言われた(山姥図は本殿、祓殿に掲げてあった))
「山姥図」は寛政9年(1797年)、広島の富士屋喜兵衛など10人によって奉納されている。国の「重要文化財」に指定されている。

小林千古・・・・・・・・・・・明治3年、佐伯郡地御前村(現・廿日市市地御前)に生まれる、本名小林花吉
              18歳の時に多くの移民と共にアメリカに渡りカルフォルニヤで美術学校を卒業する
              更にヨーロッパでは黒田清輝などと親交し、帰国後白馬会に所属、日本洋画壇に鮮烈
              なデビューを飾りながらわずか41歳の若さで病没した。
              当時アメリカにおいては多くの百万長者が現れ「ミレー」風の絵を好んだ、千古もまた
              その様な絵を描くことによって生活がなりたっていた。
              彼の作風はミレーに見られるような「バルビゾン派」風であった。母校の展覧会で得た
              最優等エブリー金牌賞などを土産に、一旦28歳で帰国その後ヨーロッパに渡り、パリ
              ロンドンなどで画業に励むが日本画壇主流からは認められなかった。
              画風が時代の流行に合わなかったと思われる。
              特に代表作の「誘惑」「パッション」などは画題が内面的で難解だった為と言われている。

国宝・・・・・古神宝類(後白河法皇や高倉上皇などが、本社・客神社の神物として奉献された物の一部)
       及び佐伯景弘の奉納した、松喰鶴蒔絵唐櫃(まつくいつるまきえからびつ)
       甲冑、小桜韋黄返威鎧(こざくらかわきかえしおどしよろい) 源為義所有の物で平安期の物
       紺糸威鎧(こんいとおどしよろい) 平重盛の寄進
       浅黄綾威鎧(あさぎあやおどしよろい) 源義家の甲冑と言われている
       藍韋肩赤威鎧(あいかわかたあかおどしよろい) 大内義隆が「太刀・神馬」と供に奉納したもの

国宝・・・・・・・・・甲冑(小桜韋黄返威鎧・兜 こざくらきかえしおどしよろい) 源 為朝所用のもの。平安期のもの
紺糸威鎧(平重盛寄進)、 浅黄綾威鎧(あさぎあや)源 義家の甲冑
*一つの鎧を作るには約2000枚の木札(こざね)が必要である、この練皮を完全に干すには、夏からは
   195日、冬には265日の日数を要した。あらゆる部分を念入りに拵えるとすれば、2年近く要した
国宝・・・・・・・・工芸、金銀荘雲竜文銅製経箱(きんぎんそううんりゅうもんどうせいきょうばこ)平家納経を納める3段箱
彩絵檜扇(さいえひおうぎ)、  蔦蒔絵唐櫃(つたまきえからびつ)福島政則奉納
国宝・・・・・・・刀剣   友成作(平安時代)、古備前派を代表する刀工の一人 「芸州厳島図会」には平宗盛公太刀とある

能面  面が約 130点伝世している    狂言面 約20種 32点の面が伝世している
「堤婆達多品」・・・・・・・女人成仏を説く。

宝物館前(宝物収蔵庫前)には三十万円並びに御翠簾(すだれ)及び石灯籠、青銅製灯篭一基と刻銘された石灯篭がある

「平家納経」は33巻からなるが、その大半は大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の経典の一つ「法華経」から成る
なぜ法華経信仰が貴族の信仰をあつめたのか?
法華経は全8巻28の詳説からなり、それをただ受け入れ読むだけで、功徳があると考えられていた。
更に「提婆達多品」では当時、罪深い存在と考えられていた女性も成仏できると説きこれが宮廷の女房ら、
女性から信仰も集める事になった。こうした法華経信仰に加え更に拍車をかけたのが「末法思想」の流行である。
釈迦の入滅後2000年後に仏法が衰退し争乱の時代が訪れるという思想で、承久7年(1052年)が入末法の年にあたる
と考えられていた。その為人々は末法の世の到来を恐れ、ひたすら極楽浄土への往生を願うようになった。
そして宮廷の貴族の間に「写経」が流行していった。
これは法華経の「法師品(ほっしぼん)」の中で「経文を写経すればくどくが増す」と書かれていた為で、貴族らは
仏の加護を得、極楽浄土への往生をひたすら願って「写経」に励んだのである。
やがて経文を写すだけでなく、華美な装飾を施した経巻を作れば一層の加護を得ることが出来ると言う信仰が
貴族らの間に生まれ、自らの財力をかけて経文に「美」を尽くすようになる。
これが「法華経」信仰への結びつき、更なる装飾、趣向を凝らしたものへと発展した。
一人一人が死後の極楽浄土への往生を願い、仏と縁を結んだ。 これを「結縁(けちえん)」と言い
この結縁の媒介となる「平家納経」の様な写経を「結縁経(けちえんきょう)」と言う
写経の文字は「金泥」「銀泥」「群青(ぐんじょう)」「緑青(ろくしょう)」の四色が使用されている。

長寛2年(1164)に清盛自身が作った願文によると、願文には「平家納経を本殿に安置する」とあるので、
清盛による、厳島神社の造営は「太政大臣」に任官(1167年)する前までに完了していたと思われる
(1164年9月には結縁32人揃って厳島に詣で、神社の十一面観音菩薩像の前に奉納する。
 翌67年(仁安2年)2月に太政大臣となり、般若心経を自筆で書き「奉納」している。)
仁安3年(1168年) 本殿造営
通常は能書の誉れ高い公卿が清書をするのが通例であるが、願文の豊潤な筆至や筆運びの技巧から「清盛」の
技量の高さを知ることが出来る
平家一門32名により「一品経供養」の精神に基づき、一人一巻の写経を作っている(結縁経という)

平家納経
開経 無量義経
第一 序品 第十六 如来寿量品(にょらいじゅりょうぼん)
第二 方便品 第十七 分別功徳品 盛国
第三 謦喩品ひゆほん) 第十八 随喜功徳品
第四 信解品 第十九 法師功徳品 清盛
第五 薬草喩品 第二十 常不軽菩薩品
第六 授記品 第二十一 如来人力品
第七 化城喩品(けじょう) 第二十二 嘱累品
第八 五百弟子授記品 第二十三 薬玉菩薩本事品 盛信
第九 授学無学人記品 第二十四 妙音菩薩品
第十 法師品 第二十五 観世音菩薩普賢品
第十一 見宝塔品 第二十六 陀羅尼品(だらにほん)
第十二 提婆達多品 第二十七 妙荘厳王本事品 重康
第十三 勧持品(かんじ) 第二十八 普賢菩薩勧発品
第十四 安楽行品
第十五 従地涌出品
結経 観普賢経
阿弥陀経 清盛 * 1165年2月太政大臣に為ったのを記念して
般若心経 清盛自筆の般若心経を奉納
願文 清盛 * 他は1164年9月に奉納する
*この後 仁安3年(1168年) 社殿の大改築と造営がある。 神主の佐伯景弘

大聖院(多喜山水精寺大聖院たきざんすいしょうじ)  
宮島で最古の歴史を持つ寺院
真言宗御室派の大本山で、806年(大同元年)に弘法大師が唐からの帰途、弥山で求聞持の百日修法を
修め開創されたと伝えられています,明治維新までは十二坊の末寺を有し、厳島神社の法会祭事を司る別当職。
(別当とは、寺務を統括する長官に相当する僧職)
仁王門を過ぎると、急階段ありそこには大般若経筒があり、三蔵法師がインドより持ち帰った経で触って参れば
無量の福が得られる。御成門から見る景色は「宮島随一」と言われる。
勅願堂は鳥羽天皇勅願道場で、豊臣秀吉が朝鮮出兵の文禄の役(1592-1596)の折、海上安全を祈る為、    
軍船宝丸の守護仏とした、波切不動明王像が祀られています(念持仏)
観音堂には十一面観音菩薩像が祀られています、明治維新までは厳島神社の後園にあった本地堂に祀られていた本持仏で、行基作と伝えられています。

仏画の十一面観音像においては、奈良時代の仏像は10面を頂く像であったが、平安時代後期になると、1面を
加えて11面になった、(赤外線を与えて判明した)。国宝奈良国立博物館所蔵の11面観音像、元は奈良の
「法起寺(ほうきじ)」に伝来していたもの。
摩尼殿は、弥山三鬼大権現のご祈祷所です、弥山の三鬼堂に同じく,時眉鬼神(大日如来の化身)
追帳鬼神(虚空蔵菩薩)、摩羅鬼神(不動明王の化身)、の三鬼神をお祀りしています。
   時眉鬼神(大日如来の化身)
   追帳鬼神(虚空蔵菩薩)
   摩羅鬼神(不動明王の化身)
摩尼殿の二階は「阿弥陀仏1000体」 が安置されている(摩尼殿菩提所)
「宮島のさんきさん」として広く信仰されている
初代総理大臣伊藤博文は三鬼大権現を深く信仰し何度も訪れ弥山山頂道の改修にも尽力されました。当時7千円の浄財で造る
(丁石の文字のみあるのはこの時のもの、地蔵などがあるものはそれ以前のもの) (現在の1億4千万円くらい)
  伝: 日本三景の真価は頂上にあり     伊藤博文「長州藩士 初代内閣総理大臣(44歳2か月)」
伊藤博文の名を刻む、弥山登山道改修の石碑が仁王門手前にある、(碑題は山縣有朋の記)
大聖院の入り口の左には、西方院「雪舟園」あり、この塀の瓦は「菊の御紋章」が入っている
登山口のところにある、石鳥居の側には、弥山山頂まで24丁 と刻んである石柱(丁石)があります。
24丁は2616mです   1丁=109m
宮島座主とは、厳島社の別当寺であった、滝山水精寺大聖院の住職の事を言い,座主は供僧を率いて
神前で祭礼の行事に参加し、時には之を御叶った

火渡り神事、4月15日、11月15日に行われる、真言密教の柴燈護摩修法(さいとうごましゅうほう)
火は「きえずの火」の霊火堂の火から点火される
後奈良天皇の猶子で仁和寺の門跡である任助法親王(仁和寺代20世任助法親王(厳島御室おむろ)が1584年大聖院にて死去、赤碕に荼毘に付される
これは秀吉来島の3年前にあたる。 なお赤崎の墓地は宮内庁管轄地となっている。
猶子・・・甥・姪・後見人の意味がある
昭和50年現在の赤碕の地が「宮内庁管轄御陵」と決定、現在に至っている。任助法親王が荼毘に付される
但し、法親王の位牌は極楽寺に安置されている
戒壇めぐり・・・・母親の胎内の様な暗闇の中に入ってもう一度本質に立ち返り生まれ変わっ出てくると言う
戒壇とは・・・・僧尼に戒律を定める為の作法壇のことを言う

天正15年(1587)には座主が「細川幽斎ほそかわゆうさい」に発句を所望したり、天正18年(1590)には
連歌師「里村紹巴さとむらしょうは」と共に連歌を催したり、文禄元年(1592)には豊臣秀吉が歌会を開いている

観音堂(かんのんどう)
大聖院で最も大きな建物が観音堂。もとは嚴島神社の御本地仏で行基菩薩の作と伝えられる
十一面観世音菩薩が安置されているほか、チベット密教の僧によって制作された砂曼荼羅、弥山開創1200年
記念事業の一環として平成18年秋に建立された金色の弥勒菩薩(みろくぼさつ)も公開されています。

魔尼殿(まにでん)      魔尼は福寿とも訳す     
弥山の守護神・三鬼大権現の本坊御祈祷所。三鬼大権現は大小の天狗を従え、強大な神通力で衆生を救う
とされる全国唯一の鬼神で、初代総理大臣の伊藤博文も篤く信仰したといわれます。摩尼は福寿とも訳し、
幸せな日々の暮らしと健康・長寿などを願う参拝者が絶えません。
摩尼殿の二階は「阿弥陀仏1000体」 が安置されている(摩尼殿菩提所)
魔尼殿に行く途中に階段があり、そこには「魔尼車」ばある。1回まわすと、般若心経一巻を読んだ功徳を得られる

勅願堂(ちょくがんどう)
鳥羽天皇勅願道場として創建されたと伝えられる大聖院の本堂。豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に軍船「宝丸」に安置
して必勝・海上安全を祈願した本尊(念持仏(ねんじぶつ)で、天下統一後に奉納された波切不動明王を
本尊としています。堂内では毎日、家内安全・心願成就等の護摩祈願が行われています。
釈迦涅槃堂(しゃかねはんどう)
釈迦涅槃像と十六羅漢を祀る、千躰不動、三十三変化観音(衆生の人々の為33に姿を変えた観音菩薩を祀る)

遍照窟(へんじょうくつ)
大師堂の地下にあり、四国八十八ケ所の本尊が安置されています。遍照窟とは世の中を平和にする為、
幸せの火を「あまねく(遍)てらす(照)道場(窟)」の意。
本尊前には各四国八十八ヶ所霊場の砂が埋めてあり、お砂踏みをすると四国霊場巡りと同じご利益があると言われます。

大師堂(だいしどう)
本坊最古の建物で、大同元年(806年)、弥山を開基されたと伝わる弘法大師空海を祀った大師堂。
その周りには西国三十三観音、一願大師、稚児大師等が祀られた小さなお堂が取り囲むように
建っています。本坊境内や瀬戸内海を見下ろす高台にあり、絶景ポイントでもあります。

霊宝館(れいほうかん)
弥山開創1200年記念事業の一環として平成18年秋に完成した建物。仁王門をくぐり、御成門へとつながる
階段脇にあり、かつて弥山大日堂に祀られていた重要文化財の不動明王や、平成16年の台風で倒壊した
弥山仁王門の仁王像などを収蔵しています

塔の岡と龍髭の松(りゅうぜん)
五重塔・千畳閣のあるこの塔の岡は、亀居山とも宮崎(平安時代)とも言われ、この尾根は社殿を風や波から守る
重要な山です。厳島合戦の折には、勝山城から移った、陶軍の本陣が敷かれた所です。
(廿日市の西行寺には蓮華松「樹齢300年」、草津の浄教寺の「臥龍山の松」、左右20m)
「龍髯の松」、2本の黒松からなる
空に向かった幹が 2段(多宝塔)、5段(五重塔)に剪定されている。
江戸時代後期の、寛政12年(1800年)に 松岡文右衛門が植えたものである。
又此の地には料亭「遠翠楼(えんすいろう)」がありその主でもあった。

五重塔   (重要文化財)
1407年(応永14)7月の造立です(芸藩通志第15巻)。 4代将軍「足利義持」の時代に建立。
高さ約27.6m、檜皮葺、和洋と唐様を融合した見事な建造です。
内部は非公開ですが、天井や周囲の板壁(来迎壁)には彩色されて蓮池図と白衣観音図、瀟湘八景図、真言八祖図、
が描かれています。神仏分離令までは大願寺厳島伽藍の塔で、本尊は釈迦如来像で脇士は普賢菩薩像
と文殊菩薩像でしたが現在は大願寺に移されています。内部は彩色がしてあり豪華絢爛。内陣の天井には龍が、
外陣の天井には葡萄唐草の模様が描かれています。その他壁板には迦陵頻伽や鳳凰が極彩色で描かれている
迦陵頻伽・・・・極楽にいて、美しい声で鳴くと言う想像上の鳥。
内陣天井には「龍」、 外陣天井には「葡萄唐草」、 来迎壁の、表には「蓮池」、裏には「白衣観音像」
さらに、周囲 八面の壁には「真言八祖図」「瀟湘八景図」 が極彩色で描かれている。
逆蓮
一層の柱は16本あり、1本ごとに寄進者の名前が書かれている(14本は女性で2本は大願寺・大聖院の僧) 開花蓮
擬宝珠には文正2年(1819年)の紀年名あり、2層・5層は蓮の花を逆さにした「逆蓮」で、3層・4層は蓮の花が
開いている「開花蓮」になっている、又斗束も蓮の形をしているので「握蓮(にぎりばす)」と言われる
組物から突き出る尾垂木(おだるぎ)。 これ程までに濃厚な唐様の塔は
① 尾道の天寧寺(てんねいじ)の五重塔(今は三重塔)  ②向上寺(こうじょうじ)の三重塔しかない 
他県では 長野県上田市の安楽寺(あんらくじ)の八角三重塔 しかない
風が当たると、木材は100年で3ミリ目減りすると言われており、五重塔は600年前の建物なので柱
が「貫」と交差する部分をよく見ると2センチほど、風食で目減りしているのが確認できる。
心柱が2層目で止まっていて、下まで達していないのが珍しく、2層目で止まっていることで、
振り子のように横揺れに強く、台風の風にも耐えられる構造になっています、
ここで言う「心柱」を「擦(さつ)」と言う全国で5例のみ。
①明王院(福山) ②最勝院(弘前) ③羽黒山(山縣) ④海住山寺(京都) ⑤宮島五重塔
柱上部には金欄巻(きんらんまき)と言う装飾絵あり、下を朱漆柱として1本づつ寄付者の名がある

初重柱銘については以下の通り
① 応永14年(1407年)7月創建、 文政8男(1825年)成立の「芸藩通史」、巻十五に記載
➁ 天文2年(1533年)3月九輪(くりん 相輪そうりん の事)の再興そして、檜皮による屋根
   の葺き替え。藤原興藤(大永3年4月・1221年~藤原広就(天文10年10月・1541年)の時代

五十の塔初重の16本の、朱柱に黒い文字。
 釈迦三尊像の寄進者名。慶応4年(1868年 明治元年)神仏分離により大願寺に移される。
四枚の板扉の両脇の壁に2枚づつ計8枚の真言八祖図(シンゴンハッソズ、空海を含む)
 8人の僧侶の背景には瀟湘八景図(ショウソウハッケズ、禅宗絵画の定番)
 釈迦三尊像の本尊奥の壁壁面には白衣観音図(ビャクエカンノンズ)が描かれている。
柱の寄進者は16名の者で14名は女性・女人往生(ニョニンオウジョウ)の強い願望のもと
 女性信仰の高まりの表れ。女性は、社家(シャケ)、厳島島内の有力町民(町衆)
 廿日市の町衆(商人・職人)、社領衆(神主家の一族や家臣)
 二本は、大願寺の僧尊海、 大聖院僧

和様と唐様(禅宗様)の建物となっているが、和様の特徴は「垂木が平行」に組んである。
一部、日光東照宮の最上階の垂木は「放射状」に組んである。
更に「尾垂木(おだるぎ)」は長く突き出ている。

豊国神社(通称 千畳閣)
(重要文化財) 明治5年から千畳閣、以前は大経堂と言い、この辺りは「宮崎」と呼ばれていた
「豊国神社(ほうこくじんじゃ)」は秀吉の神号(神としての名前)の豊国大明神からきている。     
桁行41m、梁間22m、単層本瓦葺入り母屋 木造の大径堂
1587年(天正15)、豊臣秀吉が島津攻めの途中(3月17日 桜尾城、3月18日厳島神社参詣、19日岩国)、厳島に参詣し将兵の戦没者供養の為、
月に一度、千部教の転読供養(読誦)をする為に大径堂を建てる様、発願し、毛利輝元の使僧
安国寺恵瓊(えけい、此の時は造営奉行)に命じ、その費用1万石を与え(今の10億円に相当する)
建てさせるが、11年後1598年8月18日、秀吉公の死(伏見城にて死去)により未完成のまま現在に至る。
(1592年文禄の役 1597年慶長の役 秀吉朝鮮出兵).
 安国寺恵瓊=瑶甫恵瓊(ようほえけい)が正式名
入り母屋造りの大伽藍で857畳の畳を敷くことが出来、完成していれば、金箔瓦に見られるように
豪華な桃山文化を取り入れた大径堂になっていたと思われる。金瓦(漆で金箔を押した瓦)
明治8年に大鳥居が再建された時に使われた、尺杖(しゃくつえ)があり、長さ16mあり「華表尺度」
と書かれている。この「華表」は大鳥居を表している。16mは大鳥居と同じ高さである。工事の際に、
おやつ代わりに餅をつき、きな粉をまぶしたものを「太閤の力餅」といって宮島の名物でもありました。
明治維新の神仏分離までは、ご本尊が釈迦如来像で脇士に阿難尊者と摩詞迦葉尊者が祀られていましたが、
大願寺に遷されています、現在は秀吉と加藤清正が祀られ、豊国神社となっています。
(明治5年4月に秀吉を祀り豊国神社に改める、厳島神社の末社となる)、内部には絵馬が掲げられています、
絵馬は明治33年の台風災害に遭うまでは祓殿や廻廊に掲げてありましたが、流失(33枚の扁額)や損壊の
被害を受けた為、翌年(明治34年)、千畳閣に移されました。流出は8月19日の事
厳島神社、春日大社、成田山新勝寺(千葉県)と並んで日本三大絵馬場所とされているが、
正しくは質・量・共に日本一です(170個の絵馬がある)
廻り縁の床は上下2段に縁板があり「二重廻縁」になっており、全国でも珍しいものである
安国寺恵瓊は、毛利元就によって攻め滅ぼされた安芸国守護武田信重の遺児で、
毛利家・豊臣家の外交僧として活躍した。秀吉からは、九州征伐後に伊予6万石の大名に
抜擢された人です。
安芸安国寺(不動院)の安国寺から取っている
  119本の柱がある
  当初柱94本、その内
  大正6年18本根継柱
  楠24本 杉31本
  栂(つが)39本
  大正年間交換柱22本
  材は檜木

国内の仏堂では唯一床下通路がある
中の神社の祭殿の横にある、2本の大きな柱は他の柱に比べ「キズ」が多く付いている、これは昔、戦争に行く人達が
「戦勝祈願」のため杓子に願い事を書き、柱に打ち付けたために付いた傷で、昔の「写真」にも残っている。
手前の大きな二本の柱には「天保15年」と読み取れる、落書きがある(現在では落書きは不許)
ここが本来なら入り口になるであろうという場所の近くの柱を見ると判るが、色は塗っていない為、
年輪と年輪の間が腐食(風化)している、これは100年で3ミリ腐食(風化)していくといわれている。床板を見ると、
「埋め木」が数多く見られる、これはこの場所が広い為昔からいろいろなことに使用されたことを物語っている。
廻縁の床は上下2段に縁板が敷いてある「二重廻縁」で、全国でも珍しいものである
風が当たると、木材は100年で3ミリ目減りすると言われており、千畳閣は400年前の建物なので柱下をよく見ると
1センチほど、風食で目減りしているのが確認できる。明治の神仏分離令により、仏を取り払い「神」を取り入れた。
     
祭壇の横を見ると、横木は「ぞうの形」に成形してある、(木鼻・掛鼻・拳鼻こぶしばな)、
横木は頭貫(かしらぬき)とも虹梁(こうりょう)とも言う明治5年以降、堂内の仏像は大願寺
へ移され又、木鼻2個が切り取られたことが、(右側の2つの木鼻のうち、1つの木鼻が基の位置に戻された)、
明治24年1月24日(1892)銘の墨書板に書かれている。
三つの船の舳先があるが、これは「居管絃際(いかんげんさい)」のときに使用する
昭和5・16・35・54・62年に居管絃祭が行われている(旧暦の6月には2回の閏月がある)
屋根瓦(軒丸瓦のきまるかわら)の「丸王」の金箔が張ってあるものである。 桃山時代の建物である
伏見の桃山城や聚楽第(じゅらくてい)は軒瓦に金箔を押して飾ったと伝えられる。金瓦(漆で金箔を押した瓦)。
豊国神社の軒丸瓦の模様のある所には金箔を押した痕跡があった。これに基づいて昭和60年(1985年30年前)
からの、修理工事では「金箔押しの軒瓦」が復元された。「王」の字が配せられているが、「国」の字の図案化
したものと聞いている。平瓦には桐葉の紋章あり、丸瓦を貫ける鉄釘の長さ1尺5寸(約45cm)あり。
鬼瓦には、天正17年(1589)の刻銘が読み取れる。(2年後の1591年に屋根が載っている)
424年前 1587年から4年後にあたる
昭和60年(1985年)からの修理工事で金箔押しの軒瓦が復元、平成元年(1988年)屋根修理工事が竣工し、
軒丸瓦が金箔瓦となる(3年後)

元々は、織田信長が天正4年(1567)に築城を開始した安土城(滋賀県近江八幡市)の屋根に金箔を押した瓦を葺いたのが最初で、
その後、豊臣秀吉へと引き継がれていく。秀吉は城館のみならず秀吉と関係の深い有力大名の城館や寺社なども金箔瓦で飾る。
瓦は鬼瓦の残された銘文から、播磨国・英賀(あが、兵庫県姫路市)の瓦工によって制作されている。
金箔は漆が接着剤に使われますが、これは金箔を美しく輝かせる効果があります。しかし漆は非常に強固な物質であるが、反面
紫外線に弱いという弱点もある。
 古くから千畳閣の呼び名で親しまれた豊国神社は、近年屋根瓦の老朽化が進み野地板等の傷みが放置できない状態
になったため、昭和60年(1985年)7月からその保存修理の調査及び工事を開始しました。(34年前)
 瓦は奈良瓦を使用し、その総数54,529枚の62.5%にあたる34,071枚を取り替えました。
本瓦葺で、平瓦は筋葺、箕甲は破風への重量軽減のため空葺とし、平成元年(1989年)3月、45ヶ月の工期を経て完成しました。
取り替えられた平瓦は、巾38㎝・長さ40㎝のもので、これを全て平面に並べると4,866㎡(1475坪)となり、
テニスコート約19面を覆う広さになる。

① 天正15年(1587)3月に秀吉により経堂として建立が発起された
② 明治の神仏分離令までは「大径堂」「千畳敷」と呼ばれる
③ 明治5年4月から「千畳閣」と称す
④ 明治43年特別保護建築物に指定され「豊国神社本殿」と称す。

納涼の場、交流の場、「博覧会」、「日露戦争では戦勝祈願」
「広島予備病院転地療養所となり戦傷者の収容」、剣道大会

秀吉が島津征伐の途中、毛利輝元の案内で厳島神社に参拝した時
この丘にあった大楠をみて経堂を建立することを思い立ち、
武将安国寺恵瓊に命じてこれを宰領せしめた、と大願寺文書にあり
天正15年(1587)3月18日

千畳閣の西側正面の小高い丘の柵の中にある「正岡子規の俳句記念碑」 明治28年句 昭和46年建 秋山謙蔵 刻 山徳文一
*汐みちて鳥居の霞む入江哉        子規
*朝顔の花くふ鹿やいつく嶋        子規

① 天正15年(1587)3月に秀吉により経堂として建立が発起された
② 明治の神仏分離令までは「大径堂」「千畳敷」と呼ばれる
③ 明治5年4月から「千畳閣」と称す
④ 明治43年特別保護建築物に指定され「豊国神社本殿」と称す。

塔の岡と龍髭の松(りゅうぜん)
五重塔・千畳閣のあるこの塔の岡は、亀居山とも宮崎(平安時代)とも言われ、この尾根は社殿を風や波から守る
重要な山です。厳島合戦の折には、勝山城から移った、陶軍の本陣が敷かれた所です。
(廿日市の西行寺には蓮華松「樹齢300年」、草津の浄教寺の「臥龍山の松、左右20m、)
「龍髯の松」、2本の黒松からなる
空に向かった幹が 2段(多宝塔)、5段(五重塔)に剪定されている。
江戸時代後期の、寛政12年(1800年)に 松岡文右衛門が植えたものである。
又此の地には料亭「遠翠楼(えんすいろう)」がありその主でもあった。

知りたい宮島 詳細編 9

2023年03月25日 17時56分49秒 | 貴方の知らない宮島
秀吉の造った経済都市
秀吉の行った最大の事業は、貨幣経済(又は流通経済)について徹底的な合理化を行った事
国内の重要な商品(米・木材)の市を「大阪」に置いた。あらゆる重要商品の取引は大阪で行わなければならなかった。
大阪せ「相場」が立ち、それが全国の値段になった。 日本最南端の米も、最北端の米も「大阪」に運ばれ相場が立ち
再び全国に配られた。その為「海運業」が発展した。
この様に、秀吉は全国経済の唯一つの「核」を大阪に沖事によって日本中を支配した。

例として、九州「島津」をあげると、
九州全州を支配していた「島津」を秀吉は全力を挙げて討つ。
やり方は相手の息の根を止めるのではなく、あくまで「戦争」を外交の手段として使い、相手に致命傷をおわせる事無く
戦争終結させる「名人」であった。
島津を元の領地(鹿児島)に閉じ込めてしまうが、島津は秀吉を恨まなかった。なぜか
島津は実は経済的に困っていた、大きく膨張した家臣団たちを、鹿児島一つで、養うのは無理であった為。
秀吉の、奉行の一人「石田三成」が島津に対する事務的な終戦処理をおこなった。
内容は「財政思想を転換すれば、小さな領土でもやっていけます」と言って、大きな方法と、小さな方法を教える。
大きな方法
   米等の重要な商品は、領内での消費分を除くすべてを、大阪の市場に運んで現金化する

小さな方法
   帳簿の作り方。近代的な簿記の様に精密なものではなかったが、その祖形とも言うべき帳簿思想を島津に教える

秀吉の城造りにおいて、完成後にはそこには、城下町が出来ていた。
作事人には、当時としては珍しい、「銭」によって労働の対価を支払った。すると、そこには店が出来、店が出来ると
更に人が集まり、商人が集まり、町が出来上がっていた。

城の構造の基礎は「石垣」であり、石垣をさまざまにめぐらす事で外郭を作り出す。
この外郭は当時(1600年代秀吉の時代)の建築用語で「惣構(そうがまえ)」と呼ばれた
当時は、土木の事を「普請(ふしん)」と言い、建築の事を「作事(さくじ)」と言った。
土木技術の方が建築よりも高度とされた。
当時の秀吉は「土木家」と言われて良いほどに十分な経験を持っていた。
「大阪城」のマスタープランは「秀吉」が作った。なお秀吉の政権が誕生したのは1582年である。

縦引き鋸は室町時代(1336-1573)、大陸や朝鮮半島から 二人挽きの大型縦挽き鋸(大鋸 おが)が伝来する。
江戸時代になると、鋸「前挽き」や細工用の鋸など、各用途に適した鋸が出来る

出雲大社は昔は高さ96メートルあったと言う、現在は24メートルである。
注連縄は左本右末で厳島神社本殿と同じ

 古くから千畳閣の呼び名で親しまれた豊国神社は、近年屋根瓦の老朽化が進み
野地板等の傷みが放置できない状態になったため、昭和60年(1985年)
7月からその保存修理の調査及び工事を開始しました。(34年前)
 瓦は奈良瓦を使用し、その総数54,529枚の62.5%にあたる34,071枚を取り替えました。
本瓦葺で、平瓦は筋葺、箕甲は破風への重量軽減のため空葺とし、
平成元年(1989年)3月、45ヶ月の工期を経て完成しました。

大元公園 モミの原生林  弥山の登山コース  厳島八景の一つ  大元桜花

大元神社
重要文化財 ・摂社 ・三間社流れ造り ・板葺、
本殿の玉殿は嘉吉3年(1443)の造立、本殿は大永3年(1523年)の再建
ご祭神は、国常立尊、大山祗尊、保食神(うけもちのかみ)などで3神で、厳島神社よりも一番古くからお祀り
している神社。(地主神と言われている)。屋根は杮葺(こけらぶき)で大変珍しい、六枚重三段葺「大元葺」
と呼ばれている。壇葺・・・杮板の屋根面に木の桟が打たれ壇葺になっている
中世の絵巻物の中でしか見られないもので、現存する唯一の建物である。
毎年1月20日、百手祭が行われ、神餞(しんせん)は古い形式を残し、熟餞(じゅくせん)である餝飯(ほうはん)を
お供えします。百手祭の中で「鬼射」がおこなわれ、終わると直会(なおらい)がおこなわれる、「直会」に
「餝飯ホウハン」を食べる。流鏑馬神事が行われる。厳島八景の一つ「大元桜花」として、名所になっていた所
御島巡りを無事成就したお礼に、大元神社に額「報賽額(ほうさいがく)」を奉納する慣わしがある。
大元神社の奥にはあせ山(血山)があった。他にも不動堂の山側にあった。厳島服忌令が発布される。
1684年江戸幕府による「服忌令」が発布、26年後の1710年2月には「厳島服忌令」が発布される(喪に関する法令)


宮島歴史民俗資料館(旧江上家住宅)    国指定登録文化財
江上家は醤油の醸造販売を営み、幕末には島内でも並ぶ者がないほどの豪商で
あったとされる。厳島神社廻廊の出口の石橋や、国民宿舎みやじまの杜の宿前
の石灯籠は江上家の寄進によるものである。
主屋は1840年代に建てられたと言われている、江戸時代の特徴ある宮島の民家
の姿をよく伝えている。(170年前の建物)
二位の尼像、色楊枝 誓真が作った「杓子」
江上家の「玄関・旧台所」にも、台所の天井に「エツリ」を見ることが出来る
竹割りを編んで要所要所を垂木に釘打ちで打ち付ける工法

粟島神社  末社
滝小路にあり、商業・醸造・医薬の守護神で、諸々の病気平癒・家内安全の神です
男神ですが、女性の守護神で特に安産の神として信仰が篤く、5月3日に例会が行われる
御祭神は「少彦名命すくなひこなのみこと」で安産、家内安全で、女性の信仰が
篤い神社。例祭は5月3日で参拝客が絶えない。
神社裏から大聖院に至る白糸川に沿う、滝町は宮島で最も早く家が建ったと
言われ、石垣のある道路の山側には神社に仕える神職の屋敷や寺院が並んで
いた。上卿屋敷など

上卿屋敷
国指定重要文化財建造物 入母屋造 江戸時代の神職の屋敷 鹿戸
上卿は棚守、祝師(ものもうし)などとともに、厳島神社を司る主要な神職の一人であった
石段を上がると表門があり、このもんの形式を「薬医門やくいもん」と呼ぶ、門に打ち付けられた
祈祷札から17世紀元禄期に建てられたことが判る。この庭は江戸時代中期の
「池泉鑑賞式」の庭園と云われ、広島県内の名園の一つに数えられている。

元禄16年(1703)頃建てられたもの、
昭和48年宮島町は林家住宅を「町文化財」に指定。
昭和53年1月21日に敷地と共に国の重要文化財に指定
昭和58年に復元整備が完成する
がんぶりがわら
屋根は桟瓦葺である、棟は瓦を積み上げないで、大きな「雁振瓦」
を伏せてあるだけである。かつては宮島の民家ではよく見られた
棟工法であったが、今ではほとんど見ることは出来ない。
入母屋の中の妻飾りは「扠首(さす)」と「扠首束(さすずか)」である。
民家でこれを設ける事は珍しい。(神職の屋敷であるからかも知れない)
懸魚は「切懸魚」で寺社のものとは違っている。
玄関上には千鳥破風があり、懸魚は「蔐懸魚(かぶらげぎょ)」である
鰭(ひれ)はかなり込み入った若葉の絵菜の彫刻で「室町時代末期」の風格がある。
台所の天井には「エツリ」を見ることが出来る
竹割りを編んで要所要所を垂木に釘打ちで打ち付ける工法
江上家の「玄関・旧台所」にも見ることが出来る

宝蔵
重要文化財 寄棟造 桧皮葺
校倉造りの建物、当初から「神庫」と称して神社に奉納された宝物を収蔵していた。日本で31棟ある(国宝11棟)
校倉造りの巧みな防湿効果によって宝物を守ってきた、壁を形成する「校木」は外気の乾湿の度合いによって、
その重ね目が開閉する、こうして内部の空気の流れを良くし、湿気を防いできたのである。東大寺の正倉院と同じ
1168年には既に出来ていた(平家納経は1164年に奉納されている)その他、多くの美術工芸品などの宝物
は、平安期以来800年間この中に大切に保存されていた。
昭和40年に厳島神社収蔵庫が出来るまでは、国宝「平家納経」をはじめとする、数多くの珍宝の類がこの中に
厳重に管理されていた。江戸時代には前面に「拝見所」が設けられ、参拝者が宝物を拝観していた。
7月7日の虫干しの日に際しては、本社に宝物が並べられ参詣の人々は拝観する事が出来た。
また、この日が夏市の最終日であった
校倉造   現在日本では31棟ある  その内「国宝の校倉造は11棟」ある、
奈良時代はこうそう(校倉)と呼ばれていたが、やがて訓読みで「あぜくら」となる

正倉院(756年6月21日建立)、今から約1260年前
100年ぶりとなる大修理が平成26年10月に終わる(3年2ヶ月かかる)。瓦35、000枚の内、8世紀の
瓦が843枚残っていた。その内状態の良い瓦279枚はそのまま使用する。

「校倉造り」
湿度により壁が伸縮し、内部の湿度を保つと言われているが、近年は「実際には伸縮しない」との説は一般的だ。
しかし、今回の修理で梅雨時に埋めた壁の隙間が、秋には開いているのが確認された。
「1200年以上たっても木は生きている」、定説の復権につながると思われる・

「校倉造り31」の時代別内訳は以下の通り
奈良時代  7棟 室町時代  5棟 また31棟のうち 13棟が不等辺六角形。  
平安時代  2棟 桃山時代  3棟 18棟が不等辺五角形 となっている
鎌倉時代  2棟  江戸時代  12棟
鎌倉時代は六角形で(厚さが薄く)、
室町時代になると五角形で(厚さよりも高さが高くなる)
厳島の宝蔵は、五角形の断面をした木材を組み合わせた校倉(あぜくら)としては最古の建物であ


 室町時代  奈良時代
 厳島  東大寺
  末坊



江戸時代  平安時代
多賀神社  聖語蔵
(広島県
 府中町)



藩主や幕府の巡見使などの来島社参に際しても「宝蔵」の宝物拝観が定例化していた
長崎奉行は任地への往路・復路で厳島に来島し、社参・宝物拝観をする事が慣わしと成っていた。
元禄10年(1697年)7月7日の虫干しの日に際しては、本社に宝物が並べられ参詣の人々は拝観する事が出来た。
明治30年(1897年) 現在の社務所付近に「宝物陳列館」が建設される
昭和9年(1965年)には現在の宝物館が竣工する
昭和40年(1934年))には厳島神社収蔵庫が完成、宝蔵にあった物が移される


昭和20年9月17日 宮島の戦後はこの災害復旧から始まったと言える、二度とこの様な災害が起こらない様に、
又 山を愛する願いを込めて、その時流れ出た多いわを川沿いに置いた
「潮の香の みたらしふくみ 初詣」 と名叛が付けられている

三翁神社の手前、社務所の前及び、宝物収蔵庫の前に 尻上がり狛犬「一対」がある,人生全て、尻上がりに良くなる事を祈願して
奉納されたことから、特に「富くじ」フアンには富札を左手に、右手で狛犬の頭をなでながら縁起をかついだ。
ここにある注連柱を見ると、ハワイの住民からの寄進とわかる。これは対岸の地御前村の人々による寄進です
地御前村は貧しく広島県下でも2番目に貧しいとも言われ、「移民」の方々の多い村でした。その方々が移民先で成功され
その寄付により建立されたものです。

紅葉谷川庭園砂防
1945年(昭和20年)9月17日
枕崎台風が直撃、土石流で紅葉谷川筋が被災、厳島神社が埋没。1948年(昭和23年) 自然の石を生かし、
コンクリートは人の目に触れないように工夫して工事をする(自然に溶け込んだ美しい庭園砂防)
平成20年白糸川渓流砂防完成(平成17年被災),土砂は18000トン(10トンダンプ、1800台分)

紅葉谷川は、上流は紅葉谷川、中流は御霊川(ごりょう)、 下流は御手洗川と呼んでいる
御手洗川は昔、御供米を洗ったところから、この名が付いている。

四宮神社
末社  たのもさん 四宮神社祭
ご祭神は、加具土神(かぐつちのかみ、神話における火の神)で祭礼は旧暦の8月1日(八朔)で夕刻になると人々が飾りつけをした
「田実船(たのもせん)」を四宮神社に持ち寄り、ご祈祷を受けた。右ページ参照
後、米粉で作った家族の数の人形と、守り神としての犬の人形を船の中に入れ、ローソクを提灯に灯し社殿
(火焼前前)や付近の海岸から船を流します。厳島は田畑を耕すことを禁じられていた為、島民の農作物への
感謝の気持ちが厚くまた、家内安全・子供の健やかな成長を願っておこなわれる行事。
対岸の大野の人々はこの「田実船」を引き上げると、その年は豊作と信じている。

三翁神社  摂社
一間社流造の桧皮葺、 桃山時代の様式を持った本殿三社が並び、
入り口には宮島で唯一の銅製の明神鳥居
平安時代清盛が、比叡山延暦寺の鎮守の山王社(日枝神社)から勧請したと伝えられている
当初の祭神は、佐伯の翁・岩木の翁・所の翁であったと伝えられている。
祭礼は毎年10月23日で祭典中に舞楽が奉奏される(舞楽を見ることの出来る陸上の神社)。この場所は
昔「坂本」と呼ばれていて、比叡山の山の麓「坂本の山王」「明治以前は、山王社といわれていました」を
勧請したといわれています。江戸時代には傍らに常設の芝居小屋があり、大変賑わっていました。常設になる
のは元禄期からと云われ、「御垣ヶ原(みがきがはら)」と呼ばれていた神社裏にあった。大芝居と称した歌舞伎
ばかりでなく、曲芸や人形浄瑠璃などの演じられ、神社にちなみ「明神座」と呼ばれていた
ご祭神は以下のとおり

中央   佐伯鞍職、所翁(ところのおきな)、岩木翁、安徳天皇、二位の尼、
大綿津見命(だいわたつみのみこと) (いわのきのおきな)、
左殿   大巳貴命(おおなむちのみこと)、猿田彦神(瓊瓊杵尊が天孫降臨した時、道案内した神様)
(向かって右)
右殿   竹林内侍(たけばやしないし)、徳寿内侍(とくじゅないし)  御子内侍(みこないし)
(向かって左) 上﨟順では
1番竹林内侍 2番徳寿内侍 3番御子内侍 となる

竹林内侍、内侍の中では一番トップの内侍である
ここに平清盛の御霊が祀っててあった・・・今は清盛神社に祀ってある。

この辺りは島内では数少ない平地で「御垣ヶ原」と呼ばれていた
宮島歌舞伎は江戸時代の中期には既に歌舞伎芝居として行われていた.富くじもあり
1682年刊行の、井原西鶴の「好色一代男」に宮島への旅興行の歌舞伎芝居が載っている事から江戸時代の中期には
歌舞伎芝居が行われていた。6月の夏市(管弦際)の宮島芝居は好評を博し、1825年(文政8年)には、全国の芝居を
番付けにした,「諸国芝居繁盛数望(くにぐにしばいはんじょうすもう)」では前頭5枚目に位置づけられていた。
こうして宮島は歌舞伎・浄瑠璃のみならず、瀬戸内海西部地域の芸能文化の中心地の役割を果たしていた。
義太夫の創始者で初代竹本義太夫もここ宮島の小屋で芸道精進したと言われている。
1800年代からの触れ込み番付口上錦絵には、来援俳優の名前があり
天保6年(1835年)市川海老蔵、天保12年(1841年)尾上(おのえ)菊五郎などが来援公演していた。
特に市川海老蔵はたびたび来演し
七代目 市川海老蔵 8代目 団十郎は神社の永代常夜灯を奉納している
千畳閣にはその奉納額が掲げられている。
「厳島絵馬鑑(天保3年1832年刊行)に、初代及び二世の市川団十郎の芝居絵(元禄17年)が
「俳優竹抜五郎の図」として回廊に掲げられていたとあり、これを市川海老蔵が見たと記されている

現在の社務所辺りは、昔「明神座」があった所で厳島大明神にちなんで名付けられた。
琴平・出雲・宮島、が西の三大歌舞伎で 宮島で500両、琴平で500両、取って千両役者と言う・・・・・説がある

三季の祭り、 春(桃花祭)、 夏(管絃祭)、 秋(菊花祭)は 祭礼市を継承するもので
羅紗(らしゃ)、虎革(こひ)、繻珍(しちん)、白紗綾(しろさや)、白砂糖等、江戸時代の初期、
船載品が売買されており、鎖国以前には貿易市場となっていた。

宮島奉行所跡   寛永12年(1635)、広島浅野藩は宮島に奉行所を置き、明治維新まで町方として支配した
浅野藩の支配は①町と在(ざい)郡村農村(年貢徴収)②浦方(海辺島の郡村、船奉行の配下・船を動かす)
に区別、町政は①広島城下 ②三原 ③尾道 ④宮島の4町  宮島奉行は38名が在任する
(1635―1868年、233年間)

幸神社
厳島神社末社道祖神社   午王社(ごおうしゃ)・・・かっての名前
ご祭神は猿田彦神で道祖神、町も幸町と言い、かつては神社の前の通りに金鳥居があったと言い伝えられ、
「芸洲厳島図会」にその絵が書かれている。
例祭は旧暦の8月15日(新暦9月12日)である。この日は「ススキ」と「萩」が配られ、神社の中を見ることが出来ます。
神社の裏には「陰陽石・・陰石(女石)  陽石(男石)」があり、道祖神のご神体と云われ道祖神社とも
呼ばれています。子宝の神、疫病や火難・水難を封じる神、日々の幸いをもたらす神,として大切に崇め
られている。導きの神、旅の神、安産子宝、夫婦和合の神(縁結びの神とも言われる)、
鳥居の横には、往来安全・碑(石灯籠)が在り、「往来安全」「天保二(1831)年辛卯(かのと・う)三月吉日」
と書かれている。 (180年前)
一間社流造の本殿と拝殿・幣殿があり、また石造りの四脚鳥居がある、石の玉垣を前面に造っている、
その石段を降りた所に未完成の鉄鳥居(金鳥居?)がある。昔はこの辺りに辻君(立君)がいたと伝えられている。
入り口に明治30年(1896)の石鳥居あり、「芸洲厳島図会」にも同一場所に見ることが出来るが、
笠木の屋根の部分が桧皮葺の様に見えるので、当時は木造の鳥居であったと推測される。
前には「往来安全」と記す「天保2年(1831)」銘の石灯籠1基ある、厳島図会にはこの場所には石灯籠は
描かれていないので他の地点から移動してきている。厳島図会発行は天保13年1842年)
玉垣(天保6年1835年)銘あるが、これも厳島図会には描かれていないので他よりもってきている。

金鳥居(かなとりい)
高さ5丈(15m)、鉄にて、回り8尺(2.4m)、神前より3町(327m)御王前(ごおうまえ)と言う所にあり、
即ち金鳥居の町と云う1800年には幸神社

宮島「幸神社」の中には、木造りの向かって右に「角のない獅子で口を開けた阿形」
「左には角のある狛犬で吽形」,木造りの獅子・狛犬を一対、本殿「大床」に置いて御扉を守るのは、
平安時代の伝統をふまえたものである。(神社本殿では廻縁の事を「大床」と言う)
宮島遊郭跡   
桟橋前の「潜龍門(センリュウモン)」の入り口辺りに大門があったと伝えられている。
江戸中期の全国遊郭番付けには前頭3枚目にランクされるなど広くその名が知られていた。

町屋通り
宮島が最も華やいだ時代のメインストリートとなっていた古い町並みで、江戸時代に建てられた商家や民家
が残っている。切妻造りで平入りの構造。表の間を「店(みせ)・二の間を「おうえ」、階段室・神棚がある
奥の間を「座敷」と言う。縁側・中庭・廊下の先に便所・風呂場・反対側が台所となっている。
1630年頃に埋め立てられ、江戸時代後期(1780)頃には表参道が埋め立てられていた。
町屋通りが埋め立てられてから約150年後のころに埋め立てられた(江戸時代1603―1868年)
明治になって、更に沖が埋め立てられた(海岸の家ぎりぎり辺りまで)
吉田家は間口4間、もとは畳屋であった事から「みせ」の床は取り除かれて「土間」になっている
屋根は「平入」りで創建は18世紀後半(1700年代の終わり)頃、その他に「河内家」「熊田家」
「村上家」「武本家」などがあったが、現在はありません。

宝永7年当時(1710)、島民には五穀や野菜の栽培、木材の伐採などが禁止されていた、島の土地を傷つけ
ない様にとの配慮から出た物と思われる、島内で犬を飼う事も禁止(鹿・猿を驚かせないようにする為)

「宮行きさん」昭和40年代まで続いた対岸大野で作った野菜・果実を毎日船で運び宮島に売りに行った人々の呼び名、
耕作を禁じられていた宮島の人達にとっても新鮮な野菜を毎日家まで運んでくれる大野の「宮行き」は無くてはならない存在


弥山山頂までの道のり
冒頭にも述べたように、宮島は神の島・植物の正倉院・文化財の宝庫の島 等々呼ばれている世界でも類を見ない島です

山頂の弥山は弘法大師が開基したと伝えられています。

弘法大師の開基哉、「須弥山(しゅみせん)」、を表して「弥山(みせん)」と名づくといへり、
弥山は「三鬼神」おはしまして、仮令(かり)にも不敬不浄(悪人・穢れている人)の人
登山なりがたし、かたく酒を禁(いま)しめて、飲むことは更に念にも出す事ならず。  
須弥山・・・古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山であり
弥山本堂は大同元年(806年)に弘法大師(空海)が建立、真言密教の道場とする

治承4年(1180年)までは、神様が弥山に滞在される 旧暦の11月から2月までの4ヶ月間は登山禁止であった、
しかし江戸時代になると徐々に緩和された。

ここから弥山山頂までを紹介します。

なお、535mの山と思って、軽装備で登山される方がいますが、弥山は中級クラスの登山コースです。
最低でも「靴」は登山に適したものを履いて行かれる事をお勧めします。(平均傾斜角度は33度位あります)


宮島ロープウエイ
無料バスの乗車時間は約3分(徒歩にて約7~10分)。紅葉時期は徒歩を勧めます
紅葉谷駅~榧谷駅(かやだに)~獅子岩駅
獅子岩駅から約20分で山頂下の弥山本堂に着く、ここから更に10分で山頂展望台に着きます。
循環式と交差式の2種類の方式のロープウエイを使用する。全国的にも珍しい形式で運行
循環式・・・・・少人数乗りのゴンドラを所定の間隔で順次出発する。6人乗り
交差式・・・・・15分間隔で、2台の客車が山頂と山麓を交互に往復するシステム28人乗り
ロープウエイからは宮島の谷や林、また広島湾に浮かぶ島々をダイナミックに一望できる
瀬戸内の島々は約3000の島からなる

ロープウエイにのる時は、折角宮島に来たのだから、景色を楽しもう。
最初の6人乗りゴンドラは、山側(頂上側)に乗ると、瀬戸内を眼下に見ることが出来ますよ、(降りる時も一緒です)。
榧谷(かやだに)駅で乗り換えですが、28人乗りのゴンドラになります。
このときは進行方向に向って「左側」に座ると、左方は能美島、江田島を見る事が出来、運が良ければ、眼下に海上自衛隊の艦船、潜水艦等を見る事が出来ます。
宮島に来島する時のフエリー航路は水深約9mですが、ロープウエイから見える宮島の裏側の海の水深は70から80mあります。

安芸の国(日本国事跡考(抄))
厳島の神社、市杵島の姫を祭る、是れ素戔鳴神の女(むすめ)なり。潮満る時は
即ち華表・回廊・皆海中にあり、潮引く時は即ち陸地と為る。朝暮の晴天 明月の夜
真に一方の佳景なり、 俗に宮島と号す。
平清盛 安芸の守と為りし時 尤も(もっとも)之(これ)を崇信(すうしん)して身を終うるまで変ぜず。

宮島と言えば「厳島神社」と言う様に、宮島は文化財の島として知られているが、植物の多様性
と言う点でも大変貴重な存在です。
厳島神社は世界遺産として登録されたのも、背後に迫る天然記念物「弥山原始林」の存在無くしては
語れません。宮島は6000千年前に島になった時から、瀬戸内地方の植生を良く残し(二次林なし)
ている、大変貴重な島である。
宮島は30平方キロの小島ですが、その6%にあたる 180ha 程の「弥山」を中心とした
常緑広葉樹(照葉樹)が国の天然記念物「弥山原始林」に指定されている。


紅葉谷
江戸時代末期に好事家の老人が雑木を取り除き紅葉の苗木を植えたのが紅葉谷公園の始まりと言う
庭園式砂防公園(巨木や樹木は傷つけず、新たに置く石材も現地のものだけを使う、画期的な工法)
紅葉谷公園で約700本の紅葉がある、全体では1100本と言われている。紅葉谷橋を渡ると宮島で
最初に色づくと言う「山もみじ」がある。ちなみに桜の木は全体で1900本程度ある
風光明媚な場所である、普段は水の少ない小川であるが、風化した花崗岩地帯を急勾配で
流れ下っている、その為、豪雨時には土石流を起こす原因になる、
200年に一度の割合で大きな土石流が発生している。(天文10年1541年 1739年 昭和20年1945年)
昭和20年9月17日の枕崎台風による土石流発生、この時の土砂は「清盛神社」より沖に埋設する

当時の日本の状況を考えると、戦争に敗れ、国内は混乱し、とても宮島の災害復旧における予算付は、
広島県・国にとっても難しい状態であった。
大被害を受けた紅葉谷川の復旧には、広島県・宮島町・有志による必死の復旧作業が行われ、
戦後の財政難にもかかわらず、宮島の景観や文化財の価値から効率の国庫補助により、
昭和23年から25年にかけて「史跡名勝厳島災害復旧工事」として実施され、
当時の金額2,415万円で施行されている。(現在の約160億円位)
この災害復旧にあたっては、治水上の機能の復旧のみならず、史跡名勝に最もふさわしい施工をする為に、
広島県では文部省・県教育委員会・県職員・県議会議員・史跡名勝天然記念物調査委員・地元民代表・学識経験者による
「史跡名勝厳島災害復旧工事委員会」を設置し、日光・京都・鎌倉・長野・九州等の関連場所の視察を
行ったりして、工事の実施に万全を期した。(東大名誉教授・丹波鼎三氏の指導を仰ぐ)
しかし、1946年11月にたまたまGHQの「美術記念部長であった、チヤーチル・ギャラガー氏」が宮島の
国宝文化財に興味を示し来島、宮島の惨状を目の当たりにして、直ちにGHQより「国」に交渉し予算を取り付けることになり、
今日に至っている。この災害復旧工事の特徴は、史跡名勝の環境にふさわしいように、
全国でも類の無い巨石を庭園風に組み合わせた「渓流砂防工事」による岩石公園と言う点である。
その精神・施工の方針は、工事着手時に以下の5項目の「岩石公園建築造趣意書」が作られて実施されている。
1 巨石・大小の石材は絶対に傷つけず、割らない。野面のまま使用する。
2 樹木は切らない
3 コンクリートの面は、眼に触れないように野面石で包む
4 石材は他地方より運び入れない、現地にあるものを使用する
5 庭園師に仕事をしてもらう。いわゆる石屋さんもノミと金槌は使用しない
併せて施行中には、造園の専門家の意見を聞くほか地元民の意見を尊重し、造る人の立場ばかりでなく、
見る人の立場にも重点が置かれて、趣意書の趣旨を忠実に守りながら工事は進められた。
この紅葉谷側庭園砂防工事は、戦後復旧期の窮乏時代のことであり、今日の様に環境整備が重要視される時代でないときに、
この事業を完成させた当時の関係者の並々ならない熱意が感じられます。この工事の精神・施工の方針は、今日の環境
対策としても卓越したものであり貴重な資源になっている。

四の宮神社の裏手には、コウヤマキ「高野槙」の樹がある。
岩舟岳の頂上付近、乾燥した岩盤の間には、平成18年9月6日に誕生した「秋篠宮悠仁(ヒサヒト)」
親王のお印として有名になった「コウヤマキ」「高野槙」が逞しく育成している
日本特産のスギ科の常緑高木で高さが40mにもなる、木材は腐りにくいことから、桶 船材 橋梁材
として利用。樹皮は「まいはだ」と称して、水槽 船などの隙間に押し込み水漏れ防止の材料に使用

知りたい宮島 詳細編 10

2023年03月25日 17時56分34秒 | 貴方の知らない宮島
登山コースは大きく分けて6コースある、

紅葉谷コース、大聖院コース、博打尾コース、大元コース、(多宝塔コース、四宮コース、)
多宝塔 四宮コースは現在登山禁止になっています。
最も一般的な「紅葉谷コース」を紹介します。
このコースを登るには、「砂防・堰堤」を確認しながら登ると面白いかと思います。
宮島の砂防・堰堤について
紅葉谷コース
紅葉橋      紅葉谷橋      奥紅葉谷橋   と続いているが
紅葉谷橋を上側と下側の公園設計者が異なっている
上側  大きな石を使用し、「豪快」なつくりになっている
下側  小さな石を使用し、女性的な造りとなっている

9号堰堤、ここの堰堤の上流側には、大変大きな石が数個あるが、これは
昭和20年(1945年)の枕崎台風の時、上流から落ちてきた石
堰堤は下流から上流に向かって、1号・・2号・・と続く
1号堰堤から16号堰堤まであり、昭和24年から昭和30年までの10年間に
作られた。通常1つの堰堤を作るには費用として、約1~2億かかる
16基の堰堤のうち
野面積 4基  
谷積 12基

昭和24  7基    昭和31 4基
昭和26 1基    昭和33 1基
昭和28 1基    昭和34 1基
昭和30 1基    計   16基

実際には16基が奥の方にあるので、15基しか見ることが出来ません

丁石についても少し触れておくと(1丁・・・・109メートル)麓から山頂までは
丁石が見られるが、1~24丁まである(頂上展望台)
8と17丁が一番古く、江戸時代のものも30基ほどあると言われている
展望台頂上には「昭和天皇は皇太子殿下の時に登山された記念の石碑24丁石がある」
大正15年5月27日 に登山をされている事が解る。
山頂の建造物については後段で述べるとして、

大聖院コースを紹介すると、
堰堤
上流から1号堰堤・・・2号 と続く
1号堰堤(平成19年完成)
この堰堤を造る時、大量の土砂を運び出すにしても、大変で、この土砂を利用して「堰堤」を
造ることにした。
「ソイルセメント」と言う特殊なセメントを使用して石を混ぜて「堰堤」を造った
2号堰堤(平成20年完成)
2号堰堤もソイルセメントを使用している
この場所の堰堤を造る時は、周りが大きく削り取られており、また大雨が降ると、土石流の発生が
予想され、更には、下流の大聖院・一般民家への被害が予想される為、多くのセンサーが使用された
① ワイヤーによるセンサー(ワイヤーを張り、土砂流出があるとワイヤーが伸びる事により知らせる
② カメラによる「視認」監視
2号堰堤から、下の一般住宅辺りまでは、土石は約「2分~3分」と到達すると予想されていた
この堰堤を造るにあたり、
① 海からみて、「白糸の滝」が見える高さにしてある
この為、堰堤の高さを低く設計してある、その為、堰堤の底を掘り返し深く掘ってある
上流側に、一本の木がぽつんと残してあるが、この場所は排除できない
理由は「貴重な植物(苔かも)」がこの場所にあるからである。

② 堰堤があるのがよくわかってはいけない(見苦しいから)、ロープウエイも同様で見えません
川の曲がった所に堰堤を設けて、直接見えない様な位置にある

2号堰堤の少し上流(登山道より反対側)を見ると、古い小さな堰堤を見ることが出来る

紅葉谷川付近の堰堤
紅葉橋付近(紅葉谷公園)の砂防堰堤
昭和20年(1945年)枕崎台風による、甚大な被害の為大掛かりな砂防堰堤工事が行われた
川底は一旦セメントにて固め、その上に石をおいて自然のままの様な感じを出している、
当然川の淵もセメントで固められその上に縁石が置かれている
また、川底にも工夫があり、水流により洗掘されるのを防ぐ為「置石」が置かれている
橋の真下には「堰板(せきいた)」を積み重ねてはめ込み、堰(せき)とし、水位を調整している

大聖院コースを麓から登ってみると、まず最初に
1 入り口の階段の所に「案内石碑」在り
頂上24丁 (石碑の左側に書いてある)

仁王門18丁(石碑の右側に書いてある)。確認して登るとよいと思います

全部で74丁の丁石が確認されている。丁石は大きく分けて3種類り
① 明治(1906年)頃のもの、伊藤博文が置いたもので、数字のみ(新しい為である)
② 一番古い丁石(1599年頃)慶長4年・・・・・1箇所あり
③ 江戸時代(1739年頃)元文年間・・・・・・1箇所あり

1丁は109m 1丁は畳60枚分 36丁は1里

2 懺悔地蔵の所に「18丁」の丁石在り、地蔵建物の基礎部分にあるのでよく見ないと解らない。
昔は18丁で現在よりも短かったことが確認できる。

3 少し登った大岩の所に「1丁」の丁石があった、伊藤博文の作ったもの(数字のみの丁石)

4 2号堰堤のところに「お堂」あり、ここに「③}の江戸時代元文年間の丁石があった
またここには「2丁石」が横たわっている。ここには昔7体の地蔵があったが今は無い(土石流の為)

5 滝宮神社の手前には「旧道」に掛かる、橋が掛かっていた

6 御幸石あり。・・・・・・高倉上皇がここに腰をかけて「白糸に滝」を見たといわれる所
滝宮神社の前の階段が「明治時代」に作られた道である
7 右手に登山道を登る入り口付近に「88箇所霊場石碑あり33番札所」在り、解り難いので注意

8 少し登り階段途中の休憩椅子のある所には「うりはだかえで」あり
この先に「6丁石」あり。・・・この丁石は明治時代のものである。

9 もと茶屋のあった、休憩場所
江戸時代唯一の地蔵あり、デザイン、角度、長さ、など美術的にはすばらしいものである
と言われて居る。歴史的な「いわれ」などもいろいろ言われているが、信憑性は疑わしい
この茶屋跡の休憩所からは「幻の滝」を見ることが出来る
落差70m、2段の滝で、降雨が続いた後にしか見ることが出来ないのでその様に呼ばれている。
この広場の上に7丁石がある。標高150m付近

10 次の「広場」は「なかん堂跡」と呼ばれており、標高1800m付近で、休憩椅子の前には
「うりはだかえで」の樹がある
この少し先に7丁石ありこの辺りが200m付近と為る

11 「8丁石」ここには、地蔵と丁石が一緒に置いてある。
8丁石は「元文年間の物である、地蔵の姿がある」


12 「9丁石」・・・・寄進者は、満足屋で地蔵姿あり。
「10丁石」・・・数字だけで、明治時代のもの(伊藤博文)・・・・・地蔵姿あり

13 11丁を過ぎ12丁あたりが「350m限界」となる、ここを堺に樹木が大きく変化する。
「ミミズバイ」は350mの温暖な地域に育つ樹木である。
瀬戸内では極めて稀で瀬戸内海では宮島でしか見る事が出来ない
宮島のミミズバイは分布の北限に近い貴重な存在

14 幕岩 14丁石辺りであるが、この幕岩は一説によると、厳島神社までつながっている
と言われて居る大きな石壁である。(宮島全体が花崗岩の島である)

15 かなり長い階段を上がる(188段ある)。ちなみに大聖院住職が下から上まで登った階段数は
2615段と言われている。
「一号堰堤」に着く

16 満願地蔵 白髯大明神がある・・・・・堰堤の中

17 1号堰堤からすぐ上には「15丁石」があり、ここには「遊女石畳」ある
2本の石柱あり、右の石柱には寄進者名は「置屋の名前あり」
地蔵姿の丁石で、「元文の丁石」である

18 右に大きな石を見て横の細い登り道を右に回りながら登ると、石に約10cm位の穴がある
この穴に向けて石を投げ、穴に入ると願いがかなうと言われている、「石」

19 「18丁石」が仁王門手前にあり、ここには「23丁石」もある(駒が林のカンバンの後ろにある)
この丁石は、丁は町(ちょう)になっている。埋まっているので良く見ないと判らない

20 「16丁石」あり、この丁石にも地蔵姿あり、平成3年の台風19号の影響で、約10m下に転落
していたがボランテイアの人達(佐藤・横山・岩崎氏他により引き上げられる)

21 「19丁石」付近には、環境省が設置した、登山人員カウント装置が設置してある。
紅葉谷コースに方にも設置してあり、登山客の人員をカウントしている。

22 くじら岩の裏には「お堂」があった

23 「20丁石」があるが、よく見ると半分に折れたものを接着して立ててある

24 御山神社の分岐点より、5m位の所の左手に「3基の丁石」がある、更に左手には弁財天の石碑あり

25 一段登った広場(大日堂と弥山本堂の分岐点)には「18丁石」がある
この丁石は2基ある、江戸時代初期のものと中期のものである。前の大木(サルの腰掛あり)の前には
分岐を示す「石柱」がある。この大木の上部にはピンク色の「せっこくの花」が咲く
現在は、木が腐り、倒木の恐れがある、という事で切り倒されています。残念です。

26 左の登り大日堂に向うと、「21丁石」が右手にあるが、樹木の覆われてよく見えないので注意が必要
大日堂の前には「17丁石」がありこれは「慶長時代の丁石」で貴重な丁石である。

27 上に登ると「カクバン道(空海の弟子)と言われている人
更に上に登り右手にいくと「疥癬岩」に行き着く

28 疥癬岩の前を登ったところにも「丁石」があり。右側の丁石は慶長時代のものである。

29 干満岩の上には、日輪・月輪があり、「岩倉」と言われている

30 陰陽石があり、上が陰・下が陽であるが、台風の影響か崩れていて判別は困難である

31 「弁慶のかかと」と言われている所を過ぎると頂上広場に到着

32 三角点の石柱あり、上部には「GPS」により高さを観測する「印」が埋め込まれている(過去は529,7m)

33 弁財天のところには「21丁石」がある、ここのは21と丁は分かれている。

34 「24丁石」があるが、側面には「大正15年5月27日に昭和天皇が皇太子殿下の時に登山した」と言う事が書いてある


宮島の植物について少し触れてみます。

Ⅰ  宮島の植物


宮島は1996年(平成8年)に人類共通の貴重な財産であるとして、ユネスコの世界遺産として登録された。
世界遺産と対象とされたのは「厳島神社、社殿群」と人の影響から逃れ豊かな自然を残している弥山原始林
の部分であるが、宮島の自然は海も含めて全島に貴重なものを有している。


宮島の植物相(植物の種類)と植生(植物の社会)の特徴

1 宮島は本土と近い位置にありながら、植物の種類が本土とは著しく異なる。
2 たくさんの希少種が存在する。オオカグマ、カギカズラ、カンコノキ、カンザブロウノキ、
コケセンボンギク、コテリハキンバイ、コバンモチ、ミヤジマシモツケ、シロバイ、シバナ、
ヒメハシゴシダ、ヒナノシャクジョウ、ホウライカズラ、ホウロクイチゴ、ホンゴウソウ、マツバラン
ミミズバイ、モロコシソウ、ヤマモガシ、などなど。

3 宮島の植物相は豊富であり、723種の維管束植物が確認されている

4 寒いところに生息する植物と、暖かいところに生息する植物が共存している

5 希少植物でなく普通に見られる植物であっても人の影響を免れて、自然の状態で生活して
いる事に価値がある。

6 豊かな自然植生がある:ハマゴウ群落、ヒトモトススキ群落、モミーミミズバイ群落
モミ・ツガ群落、コジイ群落、ヒノキ・コウヤマキ群落など。

7 沢山の希少種がある反面、本土や他の島には普通に見られる植物が少ない。特に里山の
植物が欠如しているか、極めて少ない:アベマキ、イヌツゲ、コナラ、クリ、ナツハゼ、
ネザサ、フジ、など多数。

8 人里た路傍植物の植物が少ない:ウツボグサ、キンミズヒキ、ササクサ、スギナ、スズメノテッポウ
チヂミザサ、ツリガネニンジン、ノアザミ、ノビル、ヒガンバナ。

宮島の自然が豊かに保たれてきたのはなぜか

宮島は周囲30キロの島である。一般に島は外界と隔離されていることから、島への生物の進入と定着の
プロセス、それに続く生物の進化、生態遷移、帰化植物の進入と拡散が明瞭な形で捉えられる。
宮島は少なくとも7世紀以後は神の島として全島が保護され、人の影響をあまり受けることなく今日に至った
全く人が森林を伐採しなかったと言うのではなく、許可を得て適当に利用したようであるり、全島の9割は
アカマツ二次林となり、林内には炭焼き窯の遺跡もある。しかし本土に比べてはるかに自然性の高い二次林である。
宮島の自然がよく保たれてきた最大の要因は、水田耕作を中心とした農業が営まれてこなかった事であり、
里山が見られないことである。宮島には、年間300~400万人の観光客が訪れて
おり、植生にかなりの影響を及ぼし続けてきたが、植生に与える人の影響は宮島の森林を里山化させる
方向には作用していない。

宮島以外の島の植生は本土と似ている

人の住む島では、宮島よりも、本土から離れた位置の島であっても、本土と似た植生になっている。
外界から隔離された島であっても、どの島にも特異な植生が存在する訳ではない。
宮島だけが特異な植生を保持しているのである。宮島ではほとんど稲作農業が行われなかった事により
里山が形成されなかったことから、特異な植生を保つことが出来たと思われる。小さな無人島では特異
な植生が見られるが、それほど豊かな植物相は見られない。


弥山原始林の植物と植生

宮島のシンボルである、モミジ(モミジは広島県の県木、県花でもある)はイロハモミジやオオモミジで
あるが、それらは本来宮島に自生しない植物で、植栽されたものである。紅葉谷公園のモミジには
その他に、トウカエデのような外国のカエデも植栽されている。ウリハダカエデは比較的寒い地域に
生息するが、宮島に自生している。
弥山原始林(天然記念物)は弥山(535m)の北斜面一帯の森林を指しており、宮島では最も自然の保たれた所
である。弥山原始林の植生は大まかに3つの帯に分けられる

(山麓部の緩斜面、海抜300mより低い山地、300m以上の山地)。

1 宮島では山麓部の緩斜面には、クスノキ、クマノミズキ群落が、大元公園や紅葉谷公園
ではモミ・ミミズバイ群落が見られる
モミ、クスノキ、カヤ、ミミズバイ、カンザブロウノキ、シキミ、アセビ、イヌガシ、シロダモ
タイミンタチバナ、ホウロクイチゴ、ハスノハカズラ、イズセンリョウ、ヒメイタビ、キッコウハグマ

2 海抜300m以下の斜面には、コジイ群落が発達する。タイミンタチバナ、シリブカガシ、
トキワガキ、ウバメガシ、ミミズバイなどは300m以下の所に出現する
ブナ科 (コジイ、シリブカガシ、アラカシ)
ツバキ科 (ヤブツバキ、サカキ、ヒサカキ、モッコク)
クスノキ科 (シロダモ、イヌガシ、ヤブニッケイ)
ハイノキ科 (クロキ、クロバイ、ミミズバイ、カンザブロウノキ)
モクセイ科 (ネズミモチ)
バラ科 (カナメモチ)
シキミ科 (シキミ)
などの照葉樹が豊富であり、サカキカズラ、テイカカズラ、マツブサ、ウラジロマタタビ
ミツバアケビ、サンカクヅル、などの木生つる植物が多く見られ林床にはベニシダなどの
陰性植物が見られる。

3 海抜300m以上の斜面に、モミ・アカガシ群落が発達する。
アカガシ、ウラジロガシ、ツクバネガシ、ハイノキ、ミヤマシキミ、などは主として300m以上の山地に見られる
モミ、ツガ、アカガシ、ツクバネガシ、ウラジロガシ、カゴノキ、イヌガシ、シロダモ、
ヤブニッケイ、シキミ、ソヨゴ、クロバイ、ハイノキ、ヤブツバキ、ヒサガキ、サカイなど
が出現し、林床に、ミヤマキリシマ、サンヨウアオイ、ベニシダ、などの陰性植物が見られる

弥山原始林内の二次林として、アカマツ・クロバイ群落がある。
アカマツ二次林にはクロバイ、ヤブツバキなどの照葉樹の他に、ネジキ、リョウブ、ウリハダカエデ、
コバノミツバツツジなどの落葉広葉樹が混生し、林床には陽性植物の、コシダ、ウラジロ、が密生
する事が多い。
ネズ、ヤマツツジ、ススキ、ガンピ、ミヤジマママコナ、などの陽性植物を持つ型と
イニガシ、シロダモ、などの陰性植物を持つ型に分けられる。


Ⅲ  四季の花


春 アセビ ヤブツバキ イヌガシ タイミンタチバナ

オガタマノキ カマツカ



初夏 ウラジロマタタビ テイカカズラ ハイノキ サカキカズラ

ナンゴクウラシマソウ ハマクサギ ヤマグルマ

ミヤマガマミズ ガンピ マツブサ ヤマボウシ

ホウロクイチゴ(白い花) カヤ  カギカズラ



夏 ヤマモモ ホウロクイチゴ(赤い実) ミミズバイ

ヤブニッケイ シャシャンボ カンザブロウノキ ヤマモガシ



秋 カゴノキ イズセンリョウ ウラジロマタタビ

イヌガシ サカキカズラ

植物の多様性と云う意味から、「毒性」「薬草」などについて少し触れておきます



毒性・薬草等、を含む植物

1 テイカカズラ ツル性、別名 マサキノカズラ
草の成分は「リュウマチの痛みを癒す」又「のど」「関節」の痛みを取り除く
強烈な「毒性」を持つ
毒の成分は「トラチェロシド等」、心臓麻痺 呼吸困難を招く

2 フクジュソウ 別名 元日草
春一番に咲くので「縁起の良い花」とされ、正月の床飾りに使用される
強心・利尿効果がある
根や根茎に有毒成分がたんまりとあり、根を煎じて飲んで死亡した例もあり
けっこう恐い。心臓麻痺 呼吸困難 嘔吐 長時間の心臓無収縮
毒の成分は「シマリン」「アセドキシン」

3 トリカブト 毒草界の大御所
世界一有名な毒草、
芽が出始めた頃の若葉は、「ゲンノショウコ」「ニリンソウ」「モミジガサ」などの
山菜として「食用」になっている、植物の葉と類似しているので注意が必要。
「ギリシャの本草」には、根でオオカミを退治すると言う。その為「オオカミ殺し」の別名あり

4 ドクゼリ 別名 オオゼリ  24時間以内に死亡
根の部分だけではなく、葉にも複合不飽和アルコールが含まれ痙攣を引き起こす
春 草全体に有毒成分
夏 球根の様な地下茎に毒が集まる
地下茎の大きなものを2つ食べた人が、1,5時間以上に渡って「痙攣」を起こし
その後、心臓が止まって死亡。
また、根で作った「汁」を 「かゆみ止め」 に使い死亡した例もある
この中毒にかかると「大半」が死亡する
ケイレン・・・(適切な処置)、呼吸困難・・・(気道確保)。をすれば死亡確率は低い
毒の成分は「シクドキシン」

5 ソテツ
毒だけではなく、発ガン物質があり、ガンになる。
以前は「赤い実」は食用として用いられていたが、発ガン物質の「サイカソシン」が
発見され、食卓から姿を消した
毒の成分は「サイカソシン」

6 キョウチクトウ
心臓に一発。 特に葉の部分に強い有毒成分が含まれる。
「ジキトキシン」は心臓毒の代名詞と言える「ジキタリス」の主要毒である
ジキタリス並の激しい毒を持つ恐い植物
毒の成分は「ジキトキシン」「オレアンドリン」

7 ジキタリス 心臓直撃
今流行の、青汁 にして飲むと あっと言う間に昇天する。
毒の成分は「ギトキシン」「ジギトキシン」

8 ヒガンバナ
毒は鱗茎に含まれる、乾燥したものを、すりおろして足の裏に貼ると「腹膜炎」「むくみ」
などを癒す。これは利尿効果によるもの
口に入れて食べると「吐き気」「下痢」を引き起こす
毒の成分は「リコリン」「ガランタミン」

9 チョウセンアサガオ 発狂
死に至る「発狂状態」になる。・・・・煎じて飲むと発狂する
「葉」「花」「根」「種子」を食べたり、その液汁が「皮膚」や「眼」に付くと激しい中毒症状や
炎症を起こす
毒の成分は「コスポラミン」「アトロピン」

10 ジャガイモ
芽・緑の部分に毒性を含有
「神経麻痺」「胃腸障害」
毒の成分は「ソラニン」

11 シキミ 正真正銘の猛毒植物 植物の中で日本でただ一つの「毒物及び劇物取締法」で指定を受けている植物
*植物が「抽出エキス」では無くダイレクトに「毒のある危険なもの」と法律で
  定められているのは「シキミ」だけ
「悪しき実」の悪が略され「シキミ」と呼ばれている。厄除け・魔除けに使用されていた
「墓」あげるのは「魔がたたらない様にする」の意味がある
毒の成分は「シキミン」「イリシン」「アニサチン」

12 アセビ ふらつく
農業用の殺虫剤、家畜の寄生虫駆除剤
茎と葉に毒があり「嘔吐」「呼吸困難」を引き起こす
毒の成分は「アセボトキシン」

13 イチョウ
「生きた化石」として、世界中に知れている(古生代・中生代・ジュラ紀)
恐竜に負け時と繁っていた
「銀杏」中毒者のおよそ30%が死亡、年の数以上に食べてはいけない
「嘔吐」「呼吸困難」「ケイレン」が3時間おきに来るので注意
毒の成分は「フェノール性化合物」

14 ネジキ 別名 猿の手温もり
「嘔吐」「運動麻痺」
毒の成分は「リオニアトキシン」

15 ヒメユズリハ
葉や樹皮には「タフニマクリン」と言う、アルカロイドが含まれ、
かつては「駆除剤」として利用されていた 宮島の植物
宮島は約30平方キロの小島であるが、その6%に当たる「180ha」にあたる
「弥山」を中心とした、常緑広葉樹(照葉樹)が国の天然記念物「弥山原始林」
に指定されている。
宮島と言えば「厳島神社」と言う様に、宮島は文化財の島として知られているが
「植物の多様性」と言う点でも大変貴重な存在です。
厳島神社が世界遺産として登録されたのも、背後に迫る天然記念物
「弥山原始林」の存在なしにはかたれません。宮島は6000年前に島になった
時から瀬戸内地方の植生を良く残している大変貴重な島である(二次林の発達なし)

ツガ
弥山山頂付近に、ツガ、アセビ群落が発達しており、「天然記念物・弥山原始林」
の価値を高めるものとして大変貴重な存在である
ミヤジマシモツケ
ミヤジマを基産地とする植物の一つであるが、宮島では絶滅に近い状態である
シカが食べたようである

ツブラ ジイ
コジイとも言い、スタジイに極めて近縁な椎である。
実は小さいが生食して美味しい、標高100~300mの所に育成している
堅果が豊作となると、サル・シカ・ハト(キジバト・アオバト)もヤマドリも毎日この実を
ほおばっている。獣や鳥にとって大変重要な樹種である。
ミミズバイ
ミミズバイは熱帯系の高山に育成する、ハイノキ科の植物で在る。
宮島では100m以下の低地に育成している。
このミミズバイと、モミ・ツガ・カヤ、といった針葉樹と混成して育成しているのは
世界でも宮島だけである。更にこのようなセットが常緑広葉樹林内で見られるのは
、植物学上の奇跡と言う。

モミの木林
300m以上に植生するモミの木が海岸からいきなり群生があるのは大変珍しい
しかし、「シカ」により、「幼樹」が食べつくされている為、今後改善しないと消滅
してしまうであろう。
アセビ(馬酔木)
アセボトキシンを含む危険な植物。宮島の花に指定されている。樹は紅葉である

ヤマグルマ
5月に見ることの出来る「被子植物」別名 ワタカズラ又はウシブドウ
日当たりの良い岩場に育成している、駒が林の断崖下、竜穴付近にある
仮導管をもつ原始的な被子植物で、生きている化石ともいわれます。
初夏に咲く花は、花弁も蕚もありません。

マツブサ
天然記念物に指定されたのが昭和4年(1929年)
エングラー博士が「マツブサとヤマグルマ」を発見したのがきっかけである。
モクレンに近い原始的植物と言われているが、実はサルの格好の食べ物
原始的な形態を残した植物として知られ、果実がブドウの房状に実り、
茎を傷つけると松の匂いがすることからこの名が付いています。
宮島の「マツブサ」は葉の裏が粉を吹いた様に白く、「ウラジロマツブサ」
と呼ばれている。
エングラー博士・・・ベルリン大学教授の世界的な植物学者

シャシャンボ(少少坊)
ブルーベリー類と同じ「アントシアニン」を多く含む、小さな球形の果実
少少坊は小さな丸い果実を意味する
7月頃に白色の壺状の花が咲く
最後に植物ではないのですが、世界的に大変貴重な「ミヤジマトンボ」について
少し述べておきます

ミヤジマトンボ
中国南部の沿岸地域および日本では宮島にしか生息していない貴重種。約300匹前後しかいません
現在では絶滅の危機に瀕しており、広島県の特定野生生物種に指定されています。
平成24年7月宮島トンボの生息地がラムサール条約に登録。全国に52か所の「地」あり
     40番目に登録された所です

広島大学研究所がありますが、この事については次回お知らせいたします


知りたい宮島 詳細編 11

2023年03月25日 17時56分17秒 | 貴方の知らない宮島
商店街は現在は「表参道商店街」と読んでいますが、以前年NHKにて「平清盛」が放映された時は、
一時的に「清盛通り」と呼んでいました。約250mの商店街には70数件のお店が並んでいます。
宮島と言えば「紅葉饅頭」ですが、現在22店舗の製造販売店があり、あんこの種類は18種類もあります。
「紅葉饅頭」の言われ
諸説あるのですが、一つには、伊藤博文が茶屋の娘の手を見て、「まるで紅葉の様だ、
食べたらさぞかし美味しいであろう」といったとか?
また、紅葉谷の前に「岩惣」と云う旅館があり、岩国屋惣兵衛によって嘉永7年(1854年)の創業
この岩惣の女将(岩村栄子)の紅葉谷の宿にふさわしい饅頭を作って、との要望に答えて、
岩惣に出入りしていた、「高津常助」にが考案したのが、現在の「紅葉饅頭」で
「紅葉形焼饅頭」として特許(商標登録)取得する。
対岸の赤碕踏み切りを渡った所に、現在も「高津堂」があり、紅葉饅頭を販売している。

宮島に来られた観光客の方達が、「なま紅葉」はどこで売っていますかと良く聞かれますが、残念
宮島島内では販売していません。(にしき堂さんのお店が島内には無いのです、
しかし宮島口フェリー乗り場まえでは、テントを張りここで販売していますよ)
「なま紅葉」と同じ紅葉饅頭を島内で販売しています、やまだ屋さんの販売している「桐葉菓(とうようか)」です。
「あんこ」もですが、外皮が、もちもちして従来の紅葉饅頭とは少し違います。
従来の饅頭の外皮がカステラのようですが、これは「もちもち」して変わった食感があります。

土産物店の「やまだ屋の桐葉菓のお菓子」の名前の由来を知っていますか。
豊臣秀吉の家門が「五七の桐」であり、家来の上田宗箇(上田重安)は武勇で知られる武将でありました、
流祖上田宗箇は、豊臣秀吉の側近大名として寵愛を受けた桃山時代を代表する武将茶人の一人です。広島藩初代浅野長晟に仕えた、
以来、上田家(広島藩国老)代々により連綿と今日まで広島の地に伝えられています。
豊臣秀吉から拝領した上田家の御家紋「陰上田桐」を焼き印が饅頭に押印してあります

ある建物の「瓦<」をひっくり返すと、裏に「桐葉」と書いてある、この「桐葉」と言う、「言葉」からできました。
どこの建物の「瓦」か、想像してみて下さい。なるほど、と思いますよ


表参道商店街は最後に寄るとして、先に「貴賓通り」を抜けて、海岸通りに向います
すぐに、海岸通りを歩かないで、広島経済大学建物の前に行って見ると、目の前に「有の浦」そして
弥山の山々を望むことが出来ます。
山を良く見ると、まるで観音様が寝ている様に見えます。「観音様の寝姿」といっています。
フェリーからも見ることが出来ます(なかなか気が付かれない人が多いようです)

有の浦の砂浜の綺麗なのに驚かれるでしょう、また「朱の大鳥居」を眼前に見ることが出来ます。
毎年8月11日には、ここで「花火大会」が開催されます、宮島の花火の主役は「水中花火」です
一箇所から15~16発の水中花火が上がる姿は圧巻です、また地響きもすごくて足元にビリビリ伝わってきます。

有の浦は別名「尼の洲」とも言われています、由来は1185年までさかのぼりますが、下関の壇ノ浦において、源平合戦が行われました。
この時清盛の奥様「時子」は1181年に清盛が亡くなった時に
出家して「従二位」に叙せられたので「二位の尼」となっていました。二位の尼は孫の「安徳天皇」を抱いて入水します、
そのお二人の亡骸がこの有の浦に流れ着いたといわれている「浜」で、尼の洲 と呼ばれています。
二人の亡骸を見つけた、島民の人達が、現在の光明院の横にあった「神泉寺(しんせんじ)」に手厚く弔いました、
しかし明治の神仏判然令により、「神泉寺」は取り壊しになり、
現在二人の御霊は厳島神社本殿の裏にある「三翁神社」にお祀りされています。神泉寺は「時寺」とも言われておりました
「二位の尼木造」が神泉寺にありましたが、その後光明院に移り、現在は「歴史民俗資料館」に保管されています。
昨年の12月までは展示してありました、30cm位の「木造」です。
以上「語り本系」ではその様に言われていますが、「読み物本系」の鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」においては、少し違います。
安徳天皇を抱いて「入水」したのは、「按察局(あぜちのつぼね)」で二位の尼は宝剣「雨の群雲の剣」を抱いて入水した、とあります。
当時天皇家は肉親を抱かない、お付に指示するのみである(宮廷の仕組みであった)
現在の天皇家においても、美智子妃殿下以前はこの様な慣例に従っていました。

娘徳子(後の建礼門院で安徳天皇の母)は傍で見ていただけとあります、建礼門院は後に京都の
「寂光院」にて余生をすごしています。

「語り本系」・・・・「覚一本」で平家物語など琵琶法師により全国に伝わったとされる
           人々によって、口から口へと面白可笑しく伝わった。

「読み物本系」・・・・「吾妻鏡」に代表される本

この壇ノ浦の戦いで生け捕られた平家一門は、平高清(六代)ら男38人(打ち首) 女43人
(女官は出家)となる。
女官は殺されることは無かったので、二位の尼も入水することは無かったので、と云う方もいます

なお「高清(六代)」は一時出家して許されるが、頼朝の「頭は剃っても、心は剃るまい」と云う
命令により殺された。

「壇ノ浦での戦いの模様について」
船は源氏方が3000艘、平氏方が1000艘とも言われ唐舟も少し混じっていたと言われています。
元暦2年(1185年)3月24日朝、長門の赤間が関、壇ノ浦で陣を合わせた。
間隔は3.58km、源氏の舟は潮に向かい押し返される、平氏の舟は潮に乗って進む、
この時平氏の阿波の国(徳島)の田口重能(しげよし)は子息の教能(のりよし)が生け捕られ、
仕方が無いと思ったのか、「源氏」に寝返る。
「平氏」は身分のある者は「兵船」に乗せ、「唐船」には雑兵を乗せて、
源氏が唐船に攻め入れば取り込めて討ち取る作戦であったが、この田口重能の寝返りにより目算が狂う。
源氏は大将軍が隠れ乗った「兵船」に攻め込んだ。
やがて、四国 九州 の兵も背き、天皇に弓を引き、主君に太刀を抜く、源平の国争いも今日かぎりと見えた。
当日は午前過ぎに西流れが最強となり、やがて東流れに反転、同11時過ぎに最強に再び反転して
午後5時過ぎに西流れが最強となった。

平氏は午前中から動き、当初東流れにのって優勢であったが、源氏はよく防戦。
午後3時過ぎから逆転した西流れにのって反撃、平氏を壊滅した。
これは「玉葉」(九条兼実の日記)の「正午開戦、午後四時終結」と符号します。

有の浦は「厳島八景」のうちの一つでもあります。

正徳5年(1715年)光明院の第15代上人 恕信(じょしん)により発案され、風早参議公長卿
が中国の「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」を元に厳島の景勝八箇所を選定する。
①厳島明燈 ②滝宮水蛍 ③大元桜花 ④境地秋月 ⑤谷原麋鹿 ⑥三笠の浜暮雪 ⑦有の浦客船 ⑧弥山神烏

*正徳年間(1711-1715年)恕信は、岩清水八幡の神職・柏亭直條、風早参議公長卿、
冷泉中納言為綱卿らに、依頼して「厳島八景」を選定する。
後の元文4年(1739年)上・中・下 の三巻の書冊を発行した。(24年後になる)。


上卿雁木(階段の事です)があります。
どれが「上卿雁木」か解りますか?気が付く人はいないと思いますよ、昨年の暮れに砂を除去して、
7段まで見えるようになっていましたが、現在は、また砂が押し寄せてきて「2段」しか見ることが出来ません
上卿とは・・・・勅使の代行を言い、棚守・祝師(ものもうし)などと共に厳島神社を司る主要な神職の一人である
        
明治維新前までは、厳島神社で最も重要な祭り事の「御鎮座祭」に際し、安芸の国府中(現在の府中町)
から、勅使(奉幣使ほうべいし)、勅使代行を務める、「上卿」が来島する時にここから上陸していた。

御鎮座祭・・・・12月初申日に行われる、市杵島姫の命が神烏(おがらす)と共に降臨され、
御鎮座地を探がされるにあたり、この地を治める「佐伯鞍職(さえきくらもと)」に神勅が下った。       

源氏と平氏の戦いを少し書いたので、ここからは「厳島合戦」について少し触れておきます
まず最初は、簡単に総括をして、その後詳細をお知らせします。

毛利元就、厳島合戦までの経過とその後
大永3年(1523年)8月28日、若冠28歳の元就が「郡山城」に入城し、大江広元以来の本家を
相続してのち、某将ー元就の前半生は厳島合戦の準備時代と言っても過言ではない。
そのうち尼子氏に服属していた時代、「尼子家中興の英雄と言われた経久」が、元就の駿将
ぶりに恐れをなし、再三にわたり彼を呼び出して討ち果たんとした心底にアイソをつかし、
かつまた、毛利本家相続の時、元就の相続を妨害して異母弟の相合元網をたてんとした野心
に立腹し、大内義興の遺言を含んだ陶興房(晴賢)の勧誘に従い、大内家に長男ー隆元を
人質として送り、大内庇護のした安芸・備後の地を統率して安定を計る。
これに怒った尼子軍は天文9年(1540年)9月、大挙して吉田「群山」城下に押し寄せてきた時
大内軍の救援大将として派遣されてきた「陶晴賢」の勇猛ぶりに感心したものの、2年後の
天文11年(1542年)、大内軍が尼子征伐の雲州遠征にさいしては、晴賢が思慮分別の無い
猪突猛進型の武者であることを知り、他日 「厳島合戦に対する重要な参考資料となった」
そして晴賢がその主「大内義隆」を殺して防長豊筑にわたる「将」となるや、なかなか態度を決
めずして時間を稼ぎをして、「晴賢」の名を逆利用して着々、備後両国を制圧し、自分の勢力下に
に置く事を忘れなかった。
天文23年(1555年)3月、晴賢が津和野三本松城の吉見正頼征伐の軍をおこすや、
「戦機まさにこの時」とばかりに、吉見氏と密かに連絡を取り、芸州の各地に討って出て、陶軍の
警備兵をせん滅し、厳島に「おとりの城」を築き、最大限の謀略を駆使して陶軍を招く。
この時、思慮分別のある大将であれば、三万の大軍を、「狭く小さな厳島」に渡海さすことなく、
まず、全軍を三つに分けて1万を渡島させて、厳島城を攻め、他の1万を海田湾に上陸させて、
群山城に向かわせる、くらいの作戦に出て、自ら1万騎を率いて「桜尾本城」を攻めたなら、
元就がいかに智謀にたけた将とはいえ、僅か4千に足りない兵を三分割して戦わざるを得なくなり
対陶作戦は大狂いとなる事は必定であった。
しかも全軍が厳島に渡って後も、のうのうと日を送り、絶好の「総攻撃」の好機を逃し、
全毛利軍に上陸のチャンスを与え、僅か半日のうちに3万の大軍も壊滅することとなった。
陶晴賢の没後、時を移さず毛利軍の防長侵入戦となったが、元就は巧みに大内家内部の深部を
抑え、晴賢が主君を殺した大逆の罪を背負わせて殺した。
重臣「杉重矩の遺児、杉十郎重輔。同彦七」のもとに密使を送り、内部から同士討ちを計り、
陶家の居城「若山城」を陥落させ、投降してくる大内家の武将達を味方の陣営に加え、わずか
2年3か月にして「防長」を完全に掃討してしまった。
その精密な作戦は、「元就の智謀からでたもの」と言える。
厳島合戦
厳島合戦は、毛利元就と陶隆房(陶晴賢の事)との戦いを言う
陶は大内義隆の家来(家老)であったが、陶が主君大内義隆への反逆を志すに至ったのは
以下のとおりである

① 天文12年(1543年)5月義隆が雲州遠征に敗れて山口に帰還した後のことである。
この敗戦で義隆は養子の「義房」を失い、それまでまがりなりにも父義興の遺命を受けて
軍事に専念してきた義隆がまったく武事を顧みなくなったからである。
一方、陶隆房は武人の心を失わぬ大内氏重臣の随一であった。
(陶氏は大内氏の分家である。大内氏九世の祖である「盛房」の弟「盛長」が周防右田壮を領して
 石田氏を称したが、「陶」氏はその右田氏から分家している。 室町時代の初めに盛長の曽孫「弘賢」
 が周防陶(吉敷郡)を領して分家し陶氏を名乗った。これが「陶氏」の始まりである。
 陶弘政(弘賢の子供)の子「弘長」は応永8年(1401年)長門守護代となり、弘長の孫「盛政」は
 永享4年(1432年)周防守護代となった。まさに大内家随一の重臣である)

陶隆房(晴賢)が陶家を相続したのは弱冠19歳であった。しかし
翌年天文9年の吉田郡山合戦では、この陶隆房は大内軍1万を率いて吉田に出陣し、天子詮久
(晴久)の軍を撃退している。天文11年正月から始まる大内義隆の出雲遠征に積極的な出陣意見
を主張したのも、この「隆房」である。
陶隆房の積極的な意見に対し、消極的な意見を唱えたのが、文治派の「相良武任」「冷泉判官隆豊」
たちであった。
文治派
「相良武任」・・・外様の一介の祐筆に過ぎなかったが、文庫好みの義隆によってたちまち
    政治・軍事の中枢に座ることになる。
武断派
これは武断派である大内家の一族・しんだいの重臣たちにとっては、はなはだ面白くないことであった。
だから隆房と共に戦場で生命を的に戦ってきた武臣たちはこの「相良武任」の存在に悪感情をつのらせ
やがて、この感情が主君「義隆」への悪感情となって転化していく
三大家老 ①陶隆房 ②内藤興盛 ③杉重矩(しげのり)
 陶隆房は、吉川元春と義兄弟の約束をしている
 内藤興盛の娘は義隆の養女になりその後、毛利隆元の妻となる
 内藤興盛 杉重矩、共に昔から両家は公方から直の御家人と同じ様に
 「笠袋鞍覆」を免し(ゆるし)下されていた。

前述の様に、結果は惨憺たる「敗戦」であった。しかも義隆はこの遠征で敗走中に、
出雲の揖屋浦で養子「晴持(義房)」を失っているが、
「晴持(義房)」・・・・土佐一条家に嫁いだ義隆の「姉」の子で、実子の無い義隆がこれを養子として
迎え入れたものであり、若干20歳であった。義隆はこの晴持をことのほか可愛がり、片時も自分の側
から離さなかったという。

晴持(義房)の死、も尋常ではなく「溺死」であった。戦場での死ではなかった。
揖屋浦から小舟に乗り損ねた雑兵どもが海に入って泳ぎだし、船縁にすがった為にとうとう船が
転覆してしまったのである。
甲冑を身にまとっていた「晴持」は泳ぐことが出来ず、そのまま海底の藻屑と消えたという訳だ。

山口遠征の失敗により、大内義隆はこれまでの、「尼子討伐積極策」を放棄して守勢に転じた。
宿敵であった、「尼子」「大友義鎮(よししげ)」の両氏とは和議を結び戦いを避けた。
大内義隆は築山館のある山口で、念願であった小京都づくりに本腰を入れ、明国にも積極的に
勘合船を送り出した。
これは戦国大名として着実に勢力を拡大しようとする「毛利氏」とは対称的な対策である。
 
義隆の中央志向や芸能尊重は大内家から朝廷への「献金」「勅使の接待」
「公家の山口下向歓迎」の費用となって表れ、それが「年貢」「断銭の増徴」「臨時の課訳」として
人民の肩に重くのしかかっていた。


陶隆房があらかさまに武力行使によって山口の町を騒がそうとしたのは、天文19年(1550年)9月
になってからである。
7日からは大内義隆は、毎日犬追物・笠縣・丸物等の遊戯を催し、13日には香積寺で終夜酒宴を
催し、更に15日には今八幡と三ノ宮で管弦の会が催される予定であった。
それほどまでに義隆は遊興にうつつをぬかし、時局の認識が全くなかったのである。

陶隆房は「是こそ願う所の時節なれど、犇々(ひしひし)と思ひ立ち、忍び忍びに軍勢を催し集め
相良武任が館へ夜討ちすべし」
と陰謀を決意し、「暮るる日遅し」と待ち構えていた。
しかし、当初 隆房は「義隆」殺害までは考えていなかった。義隆を隠居させた後に、その養子
「義尊」を擁立することで、政権を「武断派」の意のままに操縦できると考えていたようだ。
(この事は隆房が毛利家の隆元・元就・元春に対して援助を依頼した天文19年8月24日付の
 「吉川家文書」によってもあきらかだ。)
秘中の策として、大内義隆を亡き者にした後は、大友義鎮(よししげ)の弟「八郎晴英」
を主君として迎える事が隆房の秘策であった。
「八郎晴英」・・・母は義隆の姉
それが義隆父子諸共に殺害と決まったのは、家臣達との評議の結果だ。
この評議に加わった者は、野上平兵衛房忠・江良丹後房栄・伊香賀市次郎房明。達である。

天文20年(1551年)隆房は山口討ち入りの日を8月28日と決める。
しかし、義隆は、この儀に及んでもまだ、杉・内藤の両氏は裏切ることはあるまい、と まさに
「平和志向文化人義隆」の優柔不断が戦機を失わせ、ひたすら滅亡の坂を転がり落ちて行く。
家臣13名と共に、深川の大寧寺を左に見ながら、
仙崎港にたどり着き、ここから海を航して石見に逃れ、三本松城の吉見正頼を頼ろうとした。
(吉見正頼は義隆の義兄であり、先に家臣の相良武任をにがして、ここに拠らせていたから)
ところが、小舟に乗って2~3里漕ぎ出した時北風がにわかに起こり、波浪が高く
櫓もままならず、仕方なく「大寧寺」に引き返すのである。
その後、大寧寺にて自刃する

知りたい宮島 詳細編 12

2023年03月25日 17時55分59秒 | 貴方の知らない宮島
折敷畑の戦い(おしきばたのたたかい)
日本の戦国時代(1493-1573の80年間)に行われた合戦のうちのひとつ。
明石口の戦い(あかしぐち)とも呼ばれる。天文23年(1554年)に陶晴賢(派遣部将は宮川房長)と
毛利元就との間に行われた戦いである。厳島の戦いの前哨戦として扱う場合もある。

1551年 大内義隆(31代城主)が陶晴賢に討たれる(自刃)(大寧寺の変(だいねいじ) 
元就の長男、隆元は
大内義隆を岳父としていた為、「逆賊・晴賢討つべし」、 との意見を持っていた
隆元の妻(内藤興盛おきもり・・・長門国の守護大名、の娘)は大内義隆の養女になり、
その後 隆元の妻になる
この時の元就を取り巻く状況は以下の通りであった。
(大内氏は九州北部から中国地方全域にかけて絶大な影響力を持っていた大名で
(大内家は1152年から1551までの約400年間に亘り支配していた)
元就は陶と同盟を維持しながら、大内からの独立を狙っていた。
この様な大内家の内紛につけ込み、尼子晴久が兵を動かした為、対応をせざるを得ず
陶を攻める事は不可能であった

1553年 石見津和野、三本松城主・吉見正頼(大内義隆の姉婿)が陶晴賢に反乱する。ここで、
陶晴賢は「元就」に参戦を促がした。
しかし、元就は「吉見正頼」からも救援を求められていた、決める事が出来ずにいると
* 吉見広頼(ひろより)に嫁いだのが、輝元の妹(尾崎の局)。広頼の父が正頼である
陶晴賢は安芸の国人衆を調略して、毛利からの離反を計ってきた。
この事が毛利に露見し、「元就」は陶と対決する事を決める



1554年 5月11日  陶の諸城をわずか1日で攻略(銀山城・草津城・己斐城・桜尾城)
5月15日  周防にに侵入、玖珂郡小瀬と御庄で「陶軍」撃破
6月5日   陶晴賢は宮川甲斐守房長に兵3000名を与えて先行させ、途中で
 甲田丹後守や山代一揆・里山一揆・大田一揆・反毛利 4000名を合流させ
 桜尾城へ向かう、その途中折敷畑に布陣する、これを知った元就は
 6月4日の夜陰に兵3000名を連れて桜井城を出陣する
この時の布陣は ①元就・隆元父子は正面から毛利軍の主力をひきいて攻める
    ②吉川元春は右翼から、宍戸隆家、福原貞利は別動隊で元春の後塵を受け持つ
    ③小早川隆景左翼から、進行し一気に宮川甲斐守房長の軍を攻め落とす
    この時宮川軍は750人が討ち取られる(毛利軍は70人の死者)宮川甲斐守死亡日

折敷畑の合戦
後に、この合戦は厳島合戦の前哨戦とも言うべきもので、元就は数々の謀略をめぐらせた。一つに
桜尾城の桂元澄は陶晴賢に密使を送り、陶晴賢に味方する旨のことを伝え、戦略として
厳島に進行することを勧め、厳島落城後に桜尾城を打ち出て陶の本陣に合流すると進言し
陶方に7枚の起誓を書いて出した(桂元澄)

     (大板貢の岡)
吉川元春は夜南原に登って 宮川甲斐守 小早川隆景は海辺を通り
折敷畑の背面から攻める 3000余 尾根の南を廻り高砂より進軍した
(右より攻める) 7000余 (左より攻める)

右翼別動隊として 折敷畑山・者尾(はお)両所に陣する
宍戸隆家、福原貞年
元春の後塵となり攻める
正面からは、元就・隆元は本通り(長尾通り)
より進む 3500余名 1554年9月15日



6月7日   元就は「宮内の五十貫の地」を戦勝に祝いとして厳島神社に寄進している
五十貫の地の広さは、11ha(33300坪)になる

★ 宮川甲斐守の兵は農兵などの寄せ集め軍団で、毛利軍は精鋭部隊で固めていた
★ 元就軍が出発しようとした時、厳島神社の棚守房顕の使者「石田六郎左衛門」が来て
  「御供米と巻数(かんじゅう)」を元就に献じた。元就は大いに喜び
  「厳島神社の加護により今日の戦いは必ず勝てる」と将兵を激励する(陰徳太平記)
  巻数(かんじゅう)・・・・米穀や金品と一緒に寄進される場合が多く、寺や僧侶・行者がど読誦した
   経典の数を記録した文書を言う
★ 宮川甲斐守房長は陶晴賢より拝領した「瑤池(ようじ)」と号する駿馬に打ち乗り
   山里を3里逃げてそこで「末田新右衛門」に打たれたとあり、末田新右衛門はその
   「首」を太刀の先に貫いて夜半に帰ってきたと述べているから、宮川甲斐守の敗死は
   津田・浅原あたりとも推測されている。(1554年6月5日宮川甲斐の守の死亡日)

宮川甲斐守房長について
京都に船岡合戦(永正8年大内義興の戦い)以来、度々大内家で功名を表した人(16歳の時),
船岡合戦で手柄を立て、室町幕府第10代将軍足利義稙(よしたね)からその戦功を誉められ
感状(かんじょう、戦功を称える賞状)及び、太刀を賜る、
将軍からこの様な事を受けるのは異例中の異例で一躍有名になった.
折敷畑の合戦は天文23年(1554)6月5日、元就は57歳、陶晴賢は33歳、宮川甲斐守房長は59歳,
この合戦に元就は勝って、厳島合戦の前哨戦とも言える、折敷畑の合戦に勝利した事は
毛利氏にとって大きな意義があった。(宮川軍は3000名)宮川甲斐守房長の死亡は諸説あるが、
折敷畑の合戦で、山麓の明石で討ち死にした、宮川甲斐守切腹岩(市史跡)が佐伯町にあり



山代一揆
国人と呼ばれた「武士達の連合体」の名称で、江戸時代の「百姓一揆」とは違う
毛利家ではその領地を①岩国 ②萩 ③長府の藩領に分けた
山代地方に置かれた「山代宰判」はその管轄が周防国玖珂郡29カ村の内14カ村に拡がり、
行政の中心の代官所所在地は「本郷村」にあった、芸州・国堺の要地には毛利の直接支配ではなく、
これらの地侍を通じての間接支配を以って臨んだことから、当時 人々は「山代一揆」と呼んだ

有事にまとまった兵力を提供する代わりに、領主に自治権を認めさせる、言うなれば
「合意による地方自治」を勝ち取る事に成功した「一揆」である

1555年
10月1日(早朝6時から14時には終わる) 厳島にて、毛利元就と陶晴賢の戦い(厳島合戦)があり一夜に
して、陶軍の敗戦となる、陶晴賢は自刃(高安ヶ原)、弘中隆兼父子は駒が林にて討ち死にする
この時の攻め方も折敷畑の戦いと同じで、三方から陶軍を攻略している(合言葉は、勝つ、勝つ)

要害山(宮ノ尾城跡)
標高27m、三方は海に囲まれ、周囲は約60度の急傾斜地である。
元就はこの場所に本陣を築いてのは最大の失敗であったと偽りの情報を流し続けた(スパイがいた為)
陶軍は囮の城とも知らず、今津から500隻の軍船に2万人の兵を乗せて多宝塔付近に陣地を設ける、
しかしここは毛利の本陣がよく見えないので、五重塔付近に本陣を設ける。
毛利軍は、石や巨木などを落下させ、又城壁が倒れそうになると兵士達の着物で紐を作り引き起こすなどし、
陶軍の攻撃から守り又翻弄した、毛利軍が陶軍の後方に回るまでの間の時間稼ぎの為、
全力を挙げて戦ったのである。

陶軍が囮の城を攻めあぐんでいる間、毛利軍は夜半暴風雨をついて宮島の裏側「包が浦」に上陸。
陶軍の後方陣地であった博打尾を襲撃し毛利軍の勝利となる。
夜明けの6時に総攻撃をかけ、昼の午後2時には終わっていた程の激しい戦いであった。
堀切を設け、西側に5郭、東側に10郭が構築されていた。「郭」とは囲いの事

10月5日  桜尾城で陶晴賢の首実検が行われる(洞雲寺に首塚がある)
なお、洞雲寺には桜尾城主で320年間居城した藤原氏(藤原親実・神主家)の墓もある
① 友田(藤原)興藤(逆修塔)
② 桂元澄の墓(毛利の重臣 家老) 嫡孫に桂太郎(第11・13・15代内閣総理大臣)がいる
③ 穂井田(毛利)元清の墓・・・・元就の四男

厳島合戦
弘治元年(1555年) 元就は宮尾城の築城を始める(決戦の前)、  500人(300人とも言う)の兵を置く
天文23年(1554年) 5月13日 陶軍の攻撃
7月7日  陶方白井越中守賢胤の攻撃あり・・・・落城せず
7月21日 陶晴賢は1200余隻に分譲して厳島に上陸・・・落城せず
この時 6~7挺だが鉄砲が使用された。
陶晴賢は大内義隆を弑逆した後、厳島ではそれまで村上衆が取っていた交通の警護料金の徴収を
禁止した
「弑逆(しぎゃく)  弑逆とは下士が上士を強制的に自刃に追い込むことを言う」
(陶晴賢は厳島を商業港として発展させる為、自由に諸国の商人や船を寄らせようとした、しかしこの事は
村上衆にとっては、不利益なことなので陶晴賢は村上衆の恨みを買ったと考えられている)

9月26日    村上の警護船200~300隻が廿日市沖に碇を下ろす、
(能島武慶 来島道康 村上宗勝とその一門が毛利方に見方する)
9月27日    これらの人々の働きによって、宮尾城と連絡が取れる

桂元澄は(桜尾城主)陶晴賢を厳島におびき出す謀略の中心であった。



陶晴賢
海からの 攻撃 厳島、 仁保島の 毛利の本城 陶の本陣に合流
宮尾城の落城 城を落城 吉田へ進行


桜尾城 草津の児玉就方を破って     
桂元澄


陶晴賢
陸からの 攻撃 大野より陸路で東進すれば、桜尾城との合戦 たとえ元澄が城を明け渡して
陶晴賢に見方しても、元就にとっては
となる たいして痛手にはならないだろう

だから是非厳島に渡って、もし毛利元就が厳島に出てくればこれを挟み撃ちにすれば良いと進言する、
陶晴賢は全面的に信じたわけではないので陶は桂元澄に「七枚の起誓文」を書かせた、
元澄は魂まで売って、毛利元就に忠誠を尽くした、と言う事

厳島合戦
1555年(弘治元年)9月末、  水軍力の力関係
陶晴賢軍 主力部隊は屋代島(山口県大島郡、宇賀島警固衆)
毛利元就軍 主力部隊は毛利元就が育った、川の内警護隊と小早川警護衆
因島(因島市)、能島(愛媛県越智郡宮窪町)、来島(今治市)、三島の水軍をどちらが抱き込むかが、カギであった。

9月21日 陶晴賢が厳島に上陸して、陣を構えた日
9月23日 毛利元就は宮尾城を立てなおす為に歴戦の重臣「熊谷信直」を同城に差し向ける。
宮尾城は総攻撃に向けた「おとりの城」として重要な役割を担っている為、絶対に落城させてはならなかった
9月26日 毛利は因島村上衆の支援は取り付けた、しかし残る二島の村上衆の態度はこの時点では不明であった。
9月27日 毛利元就は吉田を出発する
9月28日 「吉田物語」「温故私記」のよれば、元就は9月28日付けで厳島神社に願文を捧げた。毛利家の
「志道就良」が元就の使者となって2日後にせまる陶晴賢討伐の事を神社に奉告し、戦勝祈願したもの。
志道は、社人に変装して浄衣・烏帽子を着、雑魚を売る小舟に便乗して厳島に渡ったという。
おそらく志道は敵情視察も兼ねたと思われる。
社人は志道就良の帰ったあと願文を陶方にさしだした。陶は黙殺したが、弘中隆兼は、この願文によって
元就が近いうちに厳島渡海を画策していることを予感し晴賢に告げる、しかし晴賢は「冷笑」してこれを受け
止め、城攻めは1日後れの明後10月1日と定めた。この1日後れが「命取り」の結果をもたらす
10月1日の朝、毛利軍が博打尾を占領した時、そこに布陣しているはずの「弘中隆兼」軍が居なかったの
は恐らく、この日に予定されていた「宮尾城総攻撃」に備えて、有利な働きが出来るよう、陣地を下方まで
移動していたと思われる。(宮尾城を攻撃する場合、この博打尾からでは余りに後方で離れすぎている為)
来援が懸念された、能島・来島の両村上衆の警護船団の到着と、毛利元就の軍勢が地御前から包が浦
まで嵐をついて渡海を強行する29日までは、わずか1日しかなかった。
小早川の120隻に、村上水軍の200隻を加えた320隻の兵船を整えて、火立岩に陣を敷いた
9月30日 総攻撃の日である (火立山がありその麓)
新暦11月23日
陶晴賢は2万の大軍を率いて厳島に渡り、宮尾城の攻略にあたる。厳島の沿岸の平地は以外に狭く、
城攻めに参加できる人数は2000人位、新兵器の鉄砲も利用した。
来島・因島は毛利方。能島は陶方(参戦せず)
元就は軍令を発す、士卒すべて3日分の食料として「餅袋・焼餅袋・米袋各一つと棚用の木一本、
縄一筋を携帯させ「勝つか」といえば「勝つ、勝つ」の合言葉を定めて夜陰に乗じて出陣した

10月1日 30日は闇夜、しかも暴風気味の荒天となる、未明から宮島水道に多数の兵船が乗り出してくる(2000人)
新暦11月24日
これを見た「陶軍」は 勝った と思った(決して油断をしていたわけではない)
2万の大軍のところに4000人で上陸してくれば、撃滅出来ると思ったのは確実である
前方の海上に気を取られていた陶軍は大混乱に陥り、前方に遊弋(ゆうよく)していた、
小早川勢も上陸してきた、又 巧みな時間差攻撃となった。
未明、包が浦に上陸する

〇 一方、大野瀬戸を迂回して厳島の正面に向かった軍勢は。小早川隆景率いる沼田三原の警固衆と
厳島神社前から陸上部隊を上陸させるまでは「伊予の海賊衆」も同一行動をとる。
当日は、暴風雨で海上が荒れている為、それほど敵の眼を恐れる心配はなかった。
通常なら陶方・宇賀島の大将(宇賀島十郎左衛門)・大島水軍の配備は厳島の聖崎長浜のあたりから
南の洲屋浦辺りまで、くまなく兵船を配置し船首を廿日市方面に向けているが、9月晦日の夜は暴風雨で
海が荒れて警戒できない為、ほとんどの兵船は入り江に入って碇泊していた。
陶軍の主力水軍は、宇賀島・大浜・桑原・神代・沓屋・浅見、などの屋代島の警固衆
したがって小早川隆景率いる警固衆と島衆は300と言う大船団を組んで厳島神社の正面の大鳥居の所
まで押し寄せても一向に敵は気づくことはなかった。
〇 武家万代代記(三島海賊家軍日記)と万代記(厳島合戦記)を見ると。
三島海賊家日記によると、玖波からの強風により、櫓を使わずに舵ばかりで真夜中厳島に侵入した様が
書かれている。
厳島沖から見ると敵船は繋がり並んでまるで筏のようである、しかも船中の武者は酒に酔い、船に酔い
くたびれて寝転がっているのだからすぐに夜討ちをかけてたいと思ったと言っている。
厳島合戦記によると、
風邪が強くこのままでは乗り組みの武者達は船酔いで戦えなくなる、この様な大雨の中では敵も味方も
区別が出来なくなっている、いっそのこと敵船中を押しのけて、鳥居あたりに船を着けようと、真正面に
押し進んだ。しかし敵は数百隻も船橋をかけ、船筏を組んだように密集しているから中に割り込めない。
すると、乃美兵が一計を案じ「これは筑前国より加勢にきた宗像・秋月・千手の者にて候。陶氏に
お目通りする故、ここを開けたまえ」と大声で叫んだ。闇夜の事であるから陶の水夫もそれが敵の船団
だとは気が付かない。 しかし碇を上げれば船が陸に打ち上げられるから、碇はそのまま、船を少しづつ
寄せて通路を作った。すると小早川の船団はその間から船を鳥居前に押し入れ、徐々に船中の将兵を
社壇へ上陸させた。そして上陸部隊は夜の中に塔の丘の坂下まで詰めかけて、戦闘の熟するのを待った。
かくして、敵の船団の中には、何食わぬ顔で小早川警固衆の兵船が機をうかがい、沖の荒波の向こう
には、三島村上の海賊衆が虎視眈々と合戦の合図を待っていたのである。
〇 卯の刻(午前6時ころ)次第に明けてくる東の空の白さを背にして、元就は三度太鼓を叩かせ
四度目にその太鼓の拍子に合わせて、一斉に鬨の声を上げさせた。突撃命令である。
陶晴賢とその将兵にとっては、全く寝耳に水の出来事であった。今日に予定されていた「宮尾の城」
総攻撃を思い描きながら、勝利の夢に酔いしれていたのである。
その夜明けを襲われたので全軍なす術をしらず、この場合数の優勢さはかえって負の要素となった。
二万と言う大軍が身動きの出来ない程までに、この塔の丘に詰め掛けていたのである。
〇 一説によると、この時博打尾に陣を取っていた「弘中隆兼」は、不意を襲われてなす術もなく
陣容を立て直すために「陶」の本陣に合流したが、これが敵の来襲と見誤られ、かえって陶軍の混乱
を増大させた。
かくして、陶軍は総崩れとなり、大将・陶晴賢の𠮟声怒号も、兵は先を争って大元浦に逃れる。
ところが、その海岸線でもまた、思いがけない出来事が起こっていた。
陶の船団の中に奥深く入り込んでいた「小早川も兵船」が、これまた陸上部隊の攻撃に呼応して
一斉に「陶」の船団めがけて挑みかかったからである。
昨夜来の暴風雨で、碇を下ろし船団を密集させていたので、陶の水軍は身動きが取れない
慌てて碇を上げて沖へ漕ぎだそうとすると今度は外海から、手ぐすねを引いていた「村上水軍」が
襲いかかってくる。
味方の形勢悪しとみて、陶水軍の内「周防大島の桑原入道一族」が、間もなく「小早川水軍」に
加担したのは、戦いの前から予定されていた行動であった。
〇 弘中隆兼、隆助父子は踏みとどまり、「滝の小路」を背に500ばかりの兵で追撃してくる敵を待ち
受けていたが、元春・熊谷信直・天野隆重の軍勢が駆け付け、陶軍に切りかかり弘中父子は
退却した、この時弘中父子は滝の小路の左右の民家に火をつけて、そのどさくさにまぎれ山頂へ
逃げる、元春はこれを追撃しようと思ったが、「厳島神社の寝殿」に火がかかる心配をし、
「弘中を逃がすとも苦しからず、神殿を焼かすな」と言い。すぐさま消化活動を行う。
その後弘中父子は「大聖院」に退き、多宝塔や大元の戦況をうかがい、気を見て攻撃に転じようと
したが、結果谷あいを「駒が林」に逃れ100余人余りで「龍ヶ馬場」に籠る。
この弘中父子は厳島に渡った陶の武将の中では、最も手ごわい相手であり、部下も猛卒揃いであった
から、元就は「一人も残らず討ち殺すべし」と命じる、最後は主従3人のみとなった。
隆助は元春の家臣小坂越中守が「矢」で射、それを熊谷信直の家臣末田新右衛門が走り寄り首を取る
隆兼はこれを見て自害しようとしたところ、阿曽沼豊後守広秀の部下、井上源右衛門が駆け寄り戦いを
挑む、隆兼の応戦したが力尽き対に打ち取られる。
弘中父子に付き添っていた郎党一人も、元春の家臣井尻又右エ門が打ち取る。
10月3日(11月26日)の朝のことである。
〇 陶晴賢は大元浦から船を求め海岸を西に走り、大江浦にたどり着くが、ここにも船は無く、晴賢は自己の
運命が尽きたのを知り、ついにここで「自刃」を遂げる
弘治元年(1555年)10月1日、享年35歳であった。
〇 「晴賢の首」は近侍の、伊香賀民部少輔が介錯する
その首を晴賢が着用していた朽葉の衣に包んで、垣並佐渡守・山崎勘解由と共に山中に持ち込む
板並・山崎は二人が刺し違えて死んだ。伊香賀民部少輔は自分がここで死ねば敵が自分の死体を
見つけて「晴賢の首」を探し出すに違いない。と思い、2から3町浜手にでて自害する。三人の首は、
児玉内蔵充の手の者によって切り取られたが誰の首か不明なので船中に取り入れ掛けていた。
元春の家臣、粟屋三河守・二宮杢助は落人をたずね山中を探し、敵を多く討ち留めたが、その帰る
途中、児玉の船に首が三つ掛けてあるのを見た、二宮は伊香賀達をよく知っていたので、
この三人の首が、伊香賀・垣並・山崎のものであることがわかった。
「さだめて、陶もこの三人と一緒の所で自害したに違いない」と思い探すがどうしても見つからない。
10月4日になって、晴賢の草履取りで乙若と言う、十四、五歳の少年が捕らえられた。この少年が
「一命をお助け下されば、入道(晴賢)の首のある所を教えましょう」と、児玉内蔵充に言った。
そこで、児玉はこの少年を先頭に立てて首の所在を探し当て、晴賢の首級もまた毛利軍の手中
に帰したのである。
この時の晴賢の辞世の句は
「何を惜しみ何を恨みん元よりもこの有様の定まれる身に」
伊香賀民部少輔
「思ひきや千年をかけし山松の朽ちぬる時を君にみんとは」
垣並佐渡守
「莫、論 勝敗迹  人我暫時情   一物不生地  山塞海水清」
山崎勘解由
「有りときき無しと思ふも迷ひ也  迷ひなければ悟りさへなき」

村上水軍
毛利家臣、浦兵部丞宗勝が、水軍の元に駆けつけ先陣を努めることを願い出、能島村上通康が快諾する
この時、敵をけん制する為「射手」を200名乗船さす

陶軍が「鉄砲隊」を持っていた、・・・・・6丁  当時としては大変珍しい

10月4日 戦闘は終結、敗走した陶晴賢については「大江(西浦地区)と言う所にて腹を切らせ申す」とある、
討ち取った首 8000の数字も見られる。 陶軍の戦死者は4785人と毛利の資料、「芸候三家誌」

* 戦国時代の年齢感覚は、1.2倍してプラス3 とする
厳島合戦の後2年たらずで防長2国を完全制圧、北の尼子家を攻略、1566年(永禄9年)に尼子を
平定する。この時の元就70歳(今では87歳に当たる)、75歳(1571年)で逝去する(現代の93歳位)。

弘中隆包(たかかね)
弘中隆包(たかかね) 隆助(たかすけ嫡子)
隆包の予想通り、罠にかかった大内軍は一夜にして壊滅した。大混乱に陥った大内軍の中で唯一陣を保全した
隆包は、自ら盾となって総大将の晴賢を逃がし、大聖院にて吉川元春らの大軍勢に立ち向かった。
やがて晴賢は自刃したが、大内軍の中で弘中軍だけは百名足らずで天険の駒ヶ林(竜ヶ馬場)に残り、
孤軍奮戦したが、3日間の激闘の末、最後は吉川軍に囲まれて遂に討死した。
隆包の智勇と忠節を深く悼んだ毛利元就は、毛利家で登用、保護するなどして弘中の縁者を特に厚く遇した。
そのため、安芸や周防一帯では弘中家の縁の者が住職を勤める寺院が数多くあった。
吉川広家が隆包の領土であった岩国の領主となった時、今地氏を名乗り始めた
隆包の孫が白崎八幡宮の宮司になることが許され今に至る。また、藩内に隆包の曾孫が通津専徳寺を開基
することを許され、昭和16年(1941年)に隆包の墓がその境内に移された。自らの死を知りながら
忠義のために渡海した弘中隆包の悲劇は、西国の悲運譚として講釈等で語り継がれている。
岩国に駐屯した毛利元就に降伏。元就にその智勇を認められて毛利家臣となり、名を弘中就慰と改め、
300貫の所領(66haの土地)を得た
その後は毛利水軍の一員として主に吉川元春を支え、門司城の戦いや立花山城の戦いなどを歴戦。

江良房栄(えらふさひで)
大内義隆、次いで大内義長を傀儡とする陶晴賢に仕えた。天文20年1551年の陶晴賢の謀反(大寧寺の変)
の際も陶軍の主力として活躍する。義隆没後の大内陣営では弘中隆包と並ぶ勇将であった。
その智勇には毛利元就も一目置いており、元就がまだ弱小勢力であった頃、陣を連ねて活動していたため、
元就の手の内を良く知る人物でもあった。
武勇にだけ優れた人物という訳ではなく、陶氏の重臣として厳島を利用する上方商人から通行料を
徴収するための交渉事も行っている。大内義長を迎え、大内家中が一定の安定を保つと、
安芸国内での影響力を高める毛利氏は晴賢にとって不穏分子としか映らなかった
そして吉見正頼が反乱を起こすと、毛利氏と陶氏の緊張は一挙に高まることとなった。元就は先手を打ち、
陶氏の重臣である房栄を味方にすべく、内応の誘いを入れたが拒否されたため、「房栄が元就と内応している」
という虚報を山口周辺に流し、晴賢は疑心暗鬼に陥る。天文23年(1554年)、房栄とその子・彦二郎をはじめとする
江良一族(兄の江良賢宣を除く)は、岩国琥珀院にて、晴賢の指令を受けた弘中隆包らによって暗殺された。
一説によると、房栄は本当に毛利側に内通しており、その強欲な性格から味方に引き入れても危険と判断した
元就によって、陶方に内通の情報を故意に漏らされたともいう。これにより陶軍は大きく戦力を低下させ、
折敷畑の戦い、そして厳島の戦いで敗北を喫することとなる。
なお、生き残った江良賢宣は晴賢が厳島で討たれた後も大内家に仕えていたが、
防長経略で山崎興盛らと須々万沼城に籠城、攻め寄せた毛利軍に降伏した。

元県立広島大学の秋山教授の言葉
最近の研究で判ったことは、陶軍の人員は2万とも言われているが実際、
大内氏の家臣で重鎮といわれる人は陶軍には参加していなかった(内藤興盛 杉重徳 両家老)
また、毛利軍が3000名とも言われているが、瀬戸内の有力者が多数参加した為、
陶軍は多めでも 10.000人。毛利軍は少なめでも5.000人と言うことが判明、
実際の戦いでは、大きな差は無かったのではないか、と言うことが解った。