知りたい宮島

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知りたい宮島 5 神社 管弦祭

2024年06月05日 09時32分09秒 | 貴方の知らない宮島
いよいよ、厳島神社にまいりますが、ここで神社に少し触れておきましょう、

安芸の宮島「厳島神社」は、推古天皇即位元年(593年)初申日に地元有力者・佐伯鞍職(さえきくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て三笠の浜に社殿を創建したのが最初と言われています。
諸説ありますが、この島は「」島といわれており、斎を「いつき島にまつれる神」という意味から、「伊都岐島大明神」「厳島神社」等呼称され、現在は「厳島神社」と呼ばれています。

原始宗教の名残で島全体が「神の島」として崇められていましたので、陸地に社を創るのは恐れ多いと言う事で海中に社殿を建立しました。
創りは「神殿造」で屋根は「桧皮葺」となっています。御祭神は天照大神の娘である宗像三女人の、
市杵島姫命」「田心姫命」「湍津姫命」で相殿神は「国常立尊」「素戔鳴尊」「天照皇太神」、その他30数柱の神が祀られています。

伊勢平氏の流れをくむ「平清盛」はここ「厳島神社」を氏神にしました、
というのも平氏には正式には「氏神」がありませんでした、平野神社が氏神ともいわれていましたが、この神社は桓武天皇との関係から「平氏の氏神」としての性格が濃かったのですが、源氏・高階氏(たかしな)・大江氏の氏神でもあったのでした。

** 平野神社 八氏(はちし)の祖神(八姓 はちしょう、とも言う)
1 秋篠氏 2 大江氏 3 清原氏 4  源氏
5 菅氏  6 高階氏(たかしな) 7 中原  8 平氏


清盛が久安2年(1146年清盛29歳)の安芸の守に任官され、その後平氏の氏神として尊崇し平家一門の権力が増大するにつれて、この社を尊崇する度合いも増し仁安3年(1168年清盛51歳)社殿を現在のような姿に造営しました。

安芸守・・・瀬戸内海は西国や九州・大陸からの産品が京へ入る最大の通商路で海上交通の要衝である
安芸守を支配する事で清盛は莫大な利益を得ることになる。是により平家一門の経済的地盤は強化された。
日宋貿易を推進したのもこの安芸国で国守の経験から得た物である。後の1156年保元の乱が起こる(この時は播磨守)
「この時には清盛は播磨守に任官」、経盛(1156年)9月17日 頼盛(1158年)と続けて安芸守に任官される
保元3年、清盛が播磨守になった事で、頼盛は清盛の知行国・安芸の国を受領する
国司(国守)・・・大国(13カ国)「播磨の守」 上国(35カ国)「安芸守」 中国(11カ国) 下国(9カ国)。地方行政単位である
国の行政官として中央から派遣された官吏、四等官である守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)等を指す
当時都からは、後白河上皇・建春門院・中宮徳子・高倉上皇・建礼門院をはじめとする貴族や皇族が訪れたので、都の文化や建築が宮島に入ってきました。
現在も厳島神社に伝承されている「舞楽」は清盛によって、約820年前に大坂の四天王寺から移されたものです。社殿は自然災害により何度か建て替えられていますが、清盛が造営した当時の姿を今に伝えています。
(現在、日本に寝殿造といわれる建物はこの厳島神社だけとなっています)
当時は内宮に37宇、鳥居4基。外宮には19宇、鳥居1基、内宮・外宮あわせて56宇と5基の鳥居がありました。神の島と崇められていた為人は住んでおらず、社家・供僧は対岸の外宮から毎日通っていました(外宮は対岸の地御前にありました)。
内侍(他の神社では巫女という)のみは、内侍の館が築かれ住んでいたようです。
内侍については後段で詳しく説明を致します。

全部で56宇と5基の建造物があると言う壮大な建築物は、当時の藤原氏の春日大社に比較しても、容積でいえば約10倍というから、いかに大きなものか(しかも海の中に建っている)驚きます。

なお仏教建築が混じっているのは、平安時代以降の神仏習合の影響であった、
明治時代以降の神仏分離以降では徹底的に仏教建築が取り壊されており、日光東照宮・厳島神社が往時の仏教建築を多く残す神社の双璧となっています

神社本殿、幣殿・拝殿等17棟、大鳥居・五重塔・多宝塔・千畳閣からなる建造物群は6棟が国宝、11棟が国の重要文化財に指定されています。(20棟は明治時代に取り壊しになっています)。
具体的に言うと、東回廊47間・西回廊61間(合計108間)・本社本殿・幣殿・拝殿・祓殿、客神社本殿・幣殿・ 拝殿・祓殿、朝座屋、高舞台、平舞台、左右門客神社、左右楽房、火焼前、大国神社、天神社、能舞台、能楽屋、反橋、長橋、揚水橋左右内侍橋などの建造物からなっています。
寝殿造りの場合「客神社」が釣殿(涼をとる場所)にあたるといわれています
入り口左側で「昇殿券」を購入して入ると、右側に「寛文2年(1689年)と記した手水鉢」がありここでお清めを行い、いよいよ東回廊の入り口に入ります、
入り口上部の屋根を見ると、簡素な切妻の屋根となっています。
普通は入り口は立派な構えになっているのですが、これは出口の西の回廊の屋根を見ると解ります、ここの屋根は「唐派風」の立派な構えとなっています。昔はどうやら西の回廊が入り口といわれていた為、と言われています。

現在(令和5年3月)東回廊を入った所の「客神社(まろうどじんじゃ)」を過ぎたあたりから、回廊の檜皮葺の屋根の葺替を行っている為、左右が白いテントで覆われており
ます、既に入口の客神社の屋根の葺替は終わり(令和4男10月)、本殿に向かう回廊の屋根を順番に葺替中です。本殿の「平舞台」から見ると、新旧の屋根の違いがよく解ります。
国宝回廊幅は4メートル、長さは262メートルあり、回廊の柱と柱の間を「一間(ま)」と呼んでおり、入り口から出口までは108間あります(一説には107間とも言いますが、これは内側と外側の違いと言われています)。一間の間には「国宝の回廊板」が8枚敷いてあります、また一間の長さは2,4メートルで昔の尺貫法では8尺になります。八は末広がりとも言われ「縁起の良い数字」と言われている為と思われます。

ここで「国宝の回廊」を土足で歩いても良いの? と思われるかも知れませんが、
よく見ると「国法の回廊」の上に別の板が敷いてあります(養生板といいます)ので土足でも良いのです。
高欄(手すり)から外側に見えるのが、「国宝の回廊」です。昭和47年までは土足厳禁で、入り口で「わらじ」に履き替えて入っていました。この時は職員の方達が出口から「わらじ」を入り口まで運ぶのが大変だったようです。

客神社です、この神社は鎌倉時代(1241年)の再建で、後に更に室町時代永享5年(1433年)に再建されました。
清盛の頃には「客人宮(まろうどのみや)と呼んでいました。」厳島神社本社の摂社にあたり、摂社の中では一番大きく厳島神社の祭典では、 初めに祭典が執行される社です。

御祭神は、天照大神の子供で、五人の男の神様で①「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」、②「天穂日命(あめのほひのみこと)」③「活津彦根命(いきつひこねのみこと)」④「天津彦根命(あまつひこねのみこと)」⑤「熊野楠樟命(くまのくすびのみこと)」が祀られています。(いつはしらのおおかみ、と呼ぶ)

天忍穂耳命は天照大神の長子で皇族に連なる神様です(更に長子は邇邇芸尊(ににぎのみこと天孫降臨して現在の天皇家の祖神につながる、この時道案内をしたのが猿田彦神です)。
天穂日命農業の神様。菅原道真の祖神にあたる
天津彦根の命は、日の神・雨の神・風の神・火難除神の神として崇拝されています。

「五柱の男神について、素戔嗚尊が天照大神の「髪」に巻いた「玉」をもらい受け噛み砕いて吐き
 出すと息の霧から五柱の男神が現れる。」・・・客神社の5人の男神
「天照大神が素戔嗚尊の剣をもらい、三つに折って「天真名井(あめのまない)」で洗い清めて噛み
 砕いて出すと三柱の女神が現れる。・・・三人の女神

*五柱の大神の、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)は初代天皇の神武天皇の祖神で、
現在の天皇に続く神です。
*三柱の女神の内の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)は別名「道主貴(みちぬしのむち)」
と言い、天照大神は別名「大日要貴(おおひるめのむち)」と言い。大国主命は別名で「大己貴神
(おおなむちのかみ)と言い。神名に「貴(むち)」の名前が入いるのはこの三神のみ。

左手一番奥が本殿です、よく見ると本殿の前には御簾(みす)、壁代(かべしろ)と云うが掛けられており、
その奥に御神体を安置する「玉殿」が置かれています、

玉殿の安置されている場所は「内陣」と呼ばれ、朱塗りの階段上の4段目にあります。
ここは清盛建立以来一度も海水には浸かって要らず、3段目までは海水が来たという記録があります。
永正5年(1509年)には清盛以来最大の高潮があり、回廊上約1,5メートルに達したと記録があります、

また近年では平成3年の台風19号来襲により、回廊上80センチまで達した事は、記憶に新しいところです。

右手が「祓殿」でここの海側を良く見ると、白い板が切れた所があります、昔はここから「参拝者」が舟を付けてお参りをしていました。
白い板は本社本殿辺りにも見ることが出来ますが、これは「波除け高欄」といい海水がかかるのを防ぐ意味から取り付けられています。

また祓殿には天井があります(珍しいですね)、種類は「折上子組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)」と言い、天井の格式の中では一番上の天井です。

現在でも毎月1日と17日は「月次祭(つきなみさい)」と言い、神官29名が朝座屋の前に当時の姿で並び、客神社の祓殿に入る
お払いをし、その後拝殿に入り「祭り事」を行う
拝殿の左右には「籠り所(こもりしょ)」と「経座」があり経座は社僧の「読経所」であった。この経座があった場所で祭り事を行う



本社祓殿にはもっと立派な天井があります。
拝殿の上を見ると大きな「板蟇股」がありますね、目をこらしてみると「ハート型」の刳り貫きを見ることが出来ます。

これは「猪の眼」と言い、神様をお守りするものです。本殿にもあります探してみてください。
祓殿の上部を見ると「蟇股」を見ることが出来ます、本殿の祓殿にも同じものがあります、よく見てください。

この「蟇股」の特徴
① 平安時代末期のもので、特徴は左右が別々に作られている「二木造り(ふたぎつくり)」と言い
鎌倉時代からは一体作りになる。

この様な「二木造り」は宇治上神社、平泉中尊寺、醍醐寺金堂、一乗寺三重塔でしか見ることは出来ない。

② 一乗寺三重塔・醍醐寺金堂・中尊寺金堂、は時代が「1065年~」で蟇股の高さが、
厳島神社の蟇股に比較して「」。 

宇治上神社、厳島神社の蟇股は時代が「1168年~」となり、
約100年くらい時代が下がる更に「蟇股」の高さが低くなっている、とこの様な特徴を見て取ることが出来きます。

次は、「鏡の池」が見えてきます。厳島八景の一つで「鏡池秋月」とも云われ、この池に写る月が秋を代表する景色の一つで、最も美しいものとされ和歌や俳句に詠まれています。

「みやしろに かくる光もくもりなき かがみの池に すめる月影」  宣阿         と詠んでいます

宣阿は陰徳太平記の著者です。陰徳太平記とは、日本の古典文学の一つで、戦国時代の山陽・山陰を中心に室町時代13代将軍足利義輝の時代から、慶長の役までの90年間を書いた軍記物語(1507年~1598年頃までの90年間)

潮引いて後 くぼき処ありて 別に一小池をなすが如し 秋夜一輪の月光をすましむ」とも詠んでいます。

境内には「三つの鏡の池」があります。その内の一つです(他には、卒塔婆石の所、天神社の裏にあります)
昔からの言い伝えとして、「一夜にしてこの池が出来たのは、この造営が御神慮(ごしんりょ)に叶った為である」と人々がたいそう喜んだと云われています。

またこの池は干満時において火災が発生した時の消火用水の役割を果たしたとも云われています。さらによく見ると池の中から水が湧いて流れていますこの水は海水ではなく「真水」が流れ出ています、不思議ですね。

廻廊の傍らには「明和7年(1770年)に寄進」された石灯籠があります。この石灯籠は岡野権左衛門正英が建立寄進したもので、合わせて諸経費として20両を寄付している。

鏡の池の廻廊からまっすぐ五重塔の方角を見ると、石垣が見えます、この石垣は、毛利元就・吉川元春の技術による石でよく見ると「布積み」になっています。千畳閣の下の石垣は豊臣系の石垣で「乱積み」になっていましたね。

この布積みの石垣を良く見ると、なんだか変と思いませんか。道と海の底面が約3~3.5m位の段差になっていますね、
昔約6000年くらい前から、この神社のあった場所には「紅葉谷川・白糸川」が長い時間流れ込んでおり、その為この部分は「砂洲」になっていました。平清盛はこの砂洲の部分を除去して、その跡に「厳島神社」を建立したのです。
理由は既に解っていますね、そうこの島は「神の島」と呼ばれ、島に建物を建立することなど、とんでもないことと言われて
海の中に社殿を建立したと云われています、そう理解すると解りやすいですね。

さらに廻廊を進むと正面に「朝座屋」が見えてきます。この建物は「国の重要文化財」で1168年の造営記録にも名があります。 社家・供僧・内侍 の方達が祭典の時に集合したといわれています(社家三方と云う)
屋根を良く見ると、東側は「切妻屋根」西側は「入り母屋」の造りとなっており、三方に「庇の間」がある、これは神殿造り様式の特徴のひとつである、対屋(たいのや)の要素をもった建造物です

明治維新後 昭和42年までは厳島神社の社務所として使用していましたが、現在は結婚式の控え室に使用されています。
平安末期、島内には「内侍」が居住するのみで、他の祭事に仕える社家・供僧は対岸の地御前神社(外宮になります)辺りに住んでいました。(神の島であるから人は住む事が出来ず、毎日対岸の外宮より舟で通っていた)
内侍の館のみはあり、内侍はそこに住んでいたといわれている。島に人が住むようになったのは1300年の頃からと言われています(鎌倉時代の後期ごろからか)

眼の前には廻廊に囲まれた四角い海の部分がありますが、ここを「枡形(ますがた)」といいます。


厳島神社の神様を慰める為に行われる雅な海上渡御の祭りで、王朝絵巻を繰り広げる宮島最大の神事です
当時都で盛んであった管弦を奏する遊学を宮島に移したもので、毎年旧暦の6月17日に「管弦祭」が行われます。

船先に篝火を焚いた御座舟や呉の阿賀、広島の江波から来た引き舟がこの枡形に入ってきて、三匝(さんそう
します。三匝とは本来、右回りに三回廻る事を言います(仏教における一番格式の高いお参りの仕方)


右遶三匝 (うにょうさんそう)
 遶仏(にようぶつ),施遶(せによう)ともいう。インドでは右手を浄,左手を不浄とする思想があり,
 比丘たちは仏に対して右遶三匝(うにようさんそう)する(右回りに3回回る)のが例法となった。
 中国では左を上位とする考えがあって戒壇を巡るときに左回りすることもあり,日本でも座禅のときに眠けを覚ます
 為の香版(警策)をもって回る役の巡香(じゆんこう)は左回りであるが,その他はすべて右回りである


管弦祭のクライマックスが見れる所で大勢のお客様が詰め掛けるところです。また大鳥居が写しこむ写真撮影の人気スポットになっています。

管弦祭」
日本三大船神事の一つでもあります。他には大坂の「天神祭り」、松江の「ホーランエンヤ」があります。

行事予定は旧暦で示すと次の様になります

6月5日   「市立祭」 春(2週間)、夏(3週間)、秋(2週間)、と市が立つ
        夏、が一番盛大で臨時の露天などが出て芝居などが行われた(12日前から行われる)

6月11日  「御洲掘」  鳥居の内側の水深を深くする為、水底の土砂などを取り除くもの

6月15日  「御船組」  客神社前で、呉の倉橋から挽かれてきた、和船3艘を繋ぎ、根太を渡し屋根を架け御座舟が
                出来上がる

6月16日  「御試乗式」 御座舟の試乗を行う、大鳥居をうまく漕ぎ抜けるか、などを調べる

6月17日  「本番の管弦祭」が行われる

* 有の裏、三笠の浜 辺りでは瀬戸内周辺から来た多くの船の繋留を見ることが出来る。
   商店街には、呉の「阿賀」 広島の「江波」の方達の常店が決まっているのでそれを見つけるのも面白いかも。
   「店」の前にはそれぞれの「のぼり」が掛かっているのでわかり易いと思いますよ。

枡形の反対側には、二つ目の「鏡の池」と「揚水橋」があります。

「鏡の池」の中に大きな「石」がありますが、この石を「卒塔婆石」と呼んでいます。
治承元年(1177年、約830年前)、京都東山鹿ヶ谷の山荘(後白河法皇の近臣で、靜賢法印(じょうけんほういん)の山荘)において、平家滅亡を企てた罪により、平康頼・僧俊寛・藤原成経らは喜界が島に流される(この時密告をしたのは、多田蔵人綱行ただのくろうどつなゆき
喜界が島は現在の、鹿児島沖の「硫黄島」とも言われています。
島に流された「平康頼」は都に住んでいる老母を偲んで、二種の歌を千本の卒塔婆に書いて流します。

「思いやれ しばしと思う 旅だにも なお故郷は 恋しきものを」

「薩摩潟 沖の小島に我ありと 親には告げよ 八重の潮風」

ところが、その念願が「神」に通じたのか、卒塔婆の1本が「あの石」の所に流れ着き、おりしも康頼の安否を確認する為の旅の途中厳島神社に参詣に立ち寄った「僧」により都に伝えられ、程なくして「康頼」は帰京を許されました。(1178年の事です、strong>事実は徳子懐妊による恩赦で7月に赦免の使者 9月20日赦免になっています)

帰京した「平康頼」はこれも厳島大神のおかげと、お礼の為にと奉納したのが「康頼灯篭」です(鏡の池の先に見えます)
この燈篭は、島内にある数ある燈篭の中で一番古く、棹には「昇り竜」「下り流」が彫ってあります、また火袋は八角形で
六地蔵」が彫ってあります。棹の部分はほとんど確認できません、また「六地蔵」は明治維新の時に削り取られました。

六地蔵とは①天道 ②人間道 ③修羅道 ④畜生道 ⑤餓鬼道 ⑥地獄道 を守護する「地蔵尊」を言う

本来、燈篭の下には「台座」があるのですが、見ることが出来ません。
これは先にも述べた様に、天文10年(1541年)の大きな土石流により埋没して、現在に至っています。
ここの所には、「大鐘跡」とも言い、昔は「大鐘楼」があり、鐘を合図に神職・供僧が出社していたようです。
明治維新後は無くなりました、梵鐘の「大願寺」の文字が入っていた為、溶解されたようです。

隣の小さな木の橋を「揚水橋」といいます。これも国の重要文化財となっています。
よく見ると、東側の勾欄が高くなり、張り出しているところに「特徴」があります。(この様な工法を桟の間工法と云う)
昔はここから、内侍が「神饌用」の水を汲み上げて、本殿に運んでいたと云われています。

この橋、橋と言えるかどうか解らないほど「短いですね」(現在約5m(約3間)です)、昔は長さ14m(8間の長さ)ありましたが、天文10年(1541年)の山津波(土石流)により現在の長さになっています。
この橋以前は「平橋(ひらはし)」と呼んでいました。
「平橋」と呼ばれている橋は、二箇所あります後の一つは、後で出てくる「長橋(ながはし)」で、明治11に「長橋」と云う名前になっています。

余談ですが、京都の宇治川に架かる宇治橋には「桟の間」があり、そこから豊臣秀吉が「茶の湯に使う水」を汲み上げたといわれています、宇治橋は幅8m、長さ155m コンクリート製の橋で欄干は桃色、擬宝珠は緑色をしています。

横には、「天正20年9月吉日」(1592年の秀吉の朝鮮出兵の年)の刻銘の入った「手水鉢」がある。この手水鉢は、
文字の入っている手水鉢では最も古く「国の重要文化財」に指定されています。

朝座屋を背に、廻廊を見ると、正面に「厳島神社本殿」が見えます、ここの屋根を見ると大変面白い事を発見する事が出来ます。
よくよく見てください、左側「本殿の屋根」(軒)と、右側「拝殿」の屋根が「平行」になっていません。手前が狭く(ほぼ重なっている)、奥に行くに従って広くなっています。つまりこの建物は本来平行に建っていないといけない物が、平行に建っていません。(約50cm位斜めになっています)。
本殿は実は3回建て直しています、一度目は1207年焼失 二度目は1223年焼失により建て替え 三度目は1571年
和知兄弟の謀反により建て替え(「元亀の遷宮)。
なお、拝殿 祓殿は1241年鎌倉時代に再建したものでした、その後に「元亀の遷宮」がありました。この時期は「戦国時代(1493年から1573年までの80年間を言う)で、いろいろな技術が衰退した時期で、建築技術も同様に衰退した時期にあたり、建物をうまく建てることが出来なかったと思われます。

さらに進むと、左手に小さな「橋」があります。これは「内侍橋」と言い、左右にあり神殿造りにおける「対(たいのや)」形式を色濃く残すものです。

一般的に神社に仕える「女性」を巫女さんといいますが、ここ厳島神社にお仕えする女性を「内侍(ないし)」といいます。昔、内侍がこの橋を渡って神饌をお供えしたところから「内侍橋」と名づけられました。
厳島の内侍は本来神前に奉仕する巫女(みこ)で、「社家」「供僧」と並び大きな勢力を持つ「女性集団」でした。
八乙女(本内侍)制度久安4年(1148年、清盛が安芸の守になった2年後)の定められました。
したがって厳島神社の海上社殿で竜宮を思わせる「内侍の舞楽」が始まったのはこの様な制度が整備された後と言う事になります。
平安時代の末期」の内侍は、①五常楽 ②狛鉾 ③万歳楽 ④蘇合香 の四典の「舞楽」を舞っていました。
なお、他の大社では「巫女」が舞楽を舞うことはありませんでした。
この頃は巫女としてよりも「舞姫」としてその名が知れ、しばし都の貴族達に優美な舞楽を疲労している。
その美しさを、「土御門通親(つちみかど みちちか)」は、「天人の降りくだらんも かくやとぞ見ゆる」と表現しています。
土御門通親(源 通親)は「高倉院厳島御幸記」を残しており、「村上源氏」の全盛期を築く。
曹洞宗では、「久我通親(こがみちちか)」と呼ばれている。

厳島神社の「内侍」は定員31名と決まっていました。予め内侍となる事が出来る「家柄」は決まっており、誰もがなれるものではありませんでした。
その家柄に生まれた女性の内必ず一人は生娘であることが求められ、「厳島の神」に仕えることになっていた。

内訳は ①上臈内侍 10人  ②本内侍(八乙女とも言う) 8人  ③手長内侍 13人  合計 31人

八乙女(やおとめ)は、先にも述べた様に、主に神楽や舞い(巫女神楽・巫女舞)をもって奉仕する 8人で「舞姫」とも呼ばれていました。
特に舞姫の中でも、「世親内侍」「竜樹内侍」は格別に美しく貴族達はこぞって見に来たようです。

上臈・・・・身分の高い女官のこと(先に任じられた者を上臈、後から任じられた者を、中臈・下臈などと区別する
      (ろう)とは、洗練された女性の美しさを表す言葉で、美しく気品があることを指します。
一般的に、神社巫女は神事で重役を果たす「神女」と云う、これは「神子(かみんこ)」で神の子を意味します
伊勢神宮では「斎王(さいおう)」、 賀茂神社では「斎院(さいいん)」 熱田神宮では「惣の市(そうのいち)」などと呼ばれています。

斎王祭りの「斎王役」の方は、五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)俗称 十二単(じゅうにひとえ)を着ます。
今上天皇の母親(香淳皇后)も大正13年(1924年)に五衣唐衣裳を着用している写真があります

反橋(そりばし)
別名勅使橋とも言い、天皇の使いを勅使といいますが、勅使の方しか渡れない橋でした
長さ21m、幅4m、高蘭は丹塗り、橋脚は渋墨塗り、鎌倉時代には既にあったが、現在の橋は
弘治3年(1557年)毛利元就・隆元 父子により再建寄進されています。
擬宝珠(中央の右側)にはこの事が書いてあります
元の長さは47mありましたが、1557年再建時には21mになっています(1541年の土石流によるもの)。

宝物館
昭和9年(1934年)建造、鉄筋コンクリート平屋造り、大江新太郎氏の設計によるものです。 30
国宝中の国宝といわれる、「平家納経33巻」をはじめ、「古神宝」「舞楽面」「能衣装」「刀剣」「甲冑」「絵馬」等美術工芸品54点を含む261点が所蔵されている。





























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