知りたい宮島

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知りたい宮島 詳細編 5

2023年03月25日 17時57分56秒 | 世界遺産
神社入り口(東の回廊)から入るとすぐ右手に見えるのが
客神社です、
この神社は鎌倉時代(1241年)の再建で、後に更に室町時代永享5年(1433年)に再建されました。
清盛の頃には「客人宮(まろうどのみや)と呼んでいました。」厳島神社本社の摂社にあたり、
摂社の中では一番大きく厳島神社の祭典では、 初めに祭典が執行される社です。
御祭神は、天照大神の子供で、五人の男の神様で①「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」、
②「天穂日命(あめのほひのみこと)」③「活津彦根命(いきつひこねのみこと)」④「天津彦根命(あまつひこねのみこと)」
⑤「熊野楠樟命(くまのくすびのみこと)」が祀られています。(いつはしらのおおかみ、と呼ぶ)
天忍穂耳命は天照大神の長子で皇族に連なる神様です
(更に長子は邇邇芸尊(ににぎのみこと)で天孫降臨して現在の天皇家の祖神につながる、この時道案内をしたのが猿田彦神です)。
天穂日命は農業の神様でもあり、更には 菅原道真の祖神になります
天津彦根の命は、日の神・雨の神・風の神・火難除神の神として崇拝されています。

左手一番奥が本殿です、よく見ると本殿の前には御簾(みす)、壁代(かべしろ)と云う布が掛けられており、
その奥に御神体を安置する「玉殿」が置かれています、

玉殿の安置されている場所は「内陣」と呼ばれ、朱塗りの階段上の4段目にあります。
ここは清盛建立以来一度も海水には浸かって要らず、3段目までは海水が来たという記録があります。
永正5年(1509年)には清盛以来最大の高潮があり、回廊上約1,5メートルに達したと記録があります、

また近年では平成3年の台風19号来襲により、回廊上80センチまで達した事は、記憶に新しいところです。この時の潮位は496cmでした。

右手が「祓殿」でここの海側を良く見ると、白い板が切れた所があります、昔はここから「参拝者」が舟を付けてお参りをしていました。
白い板は本社本殿辺りにも見ることが出来ますが、これは「波除け高欄」といい海水がかかるのを防ぐ意味から取り付けられています。
また祓殿には天井があります(珍しいですね)、種類は「折上子組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)」と言い、
天井の格式の中では一番上の天井です。

現在でも毎月1日と17日は「月次祭(つきなみさい)」と言い、神官29名が朝座屋の前に当時の姿で並び、客神社の祓殿に入る
お払いをし、その後拝殿に入り「祭り事」を行う
拝殿の左右には「籠り所(こもりしょ)」と「経座」があり経座は社僧の「読経所」であった。この経座があった場所で祭り事を行う

本社祓殿にはもっと立派な天井があります。
拝殿の上を見ると大きな「板蟇股」がありますね、目をこらしてみると「ハート型」の刳り貫きを見ることが出来ます。
これは「猪の眼」と言い、神様をお守りするものです。本殿にもあります探してみてください。
祓殿の上部を見ると「蟇股」を見ることが出来ます、本殿の祓殿にも同じものがあります、よく見てください。

この「蟇股」の特徴
① 平安時代末期のもので、特徴は左右が別々に作られている「二木造り(ふたぎつくり)」と言い
鎌倉時代からは一体作りになる。
この様な「二木造り」は宇治上神社、平泉中尊寺、醍醐寺金堂、一乗寺三重塔でしか見ることは出来ない。
② 一乗寺三重塔・醍醐寺金堂・中尊寺金堂、は時代が「1065年~」で蟇股の高さが、
厳島神社の蟇股に比較して「かなり高い」。 
宇治上神社、厳島神社の蟇股は時代が「1168年~」となり、
約100年くらい時代が下がる、更に「蟇股」の高さが低くなっている、とこの様な特徴を見て取ることが出来きます。
次は、「鏡の池」が見えてきます。厳島八景の一つで「鏡池秋月」とも云われ、
この池に写る月が秋を代表する景色の一つで、最も美しいものとされ和歌や俳句に詠まれています。
「みやしろに かくる光もくもりなき かがみの池に すめる月影」  宣阿 と詠んでいます
宣阿は陰徳太平記の著者です。陰徳太平記とは、日本の古典文学の一つで、
戦国時代の山陽・山陰を中心に室町時代13代将軍足利義輝の時代から、
慶長の役までの90年間を書いた軍記物語(1507年~1598年頃までの90年間)
「潮引いて後 くぼき処ありて 別に一小池をなすが如し 秋夜一輪の月光をすましむ」とも詠んでいます。
境内には「三つの鏡の池」があります。その内の一つです(他には、卒塔婆石の所、天神社の裏にあります)
昔からの言い伝えとして、「一夜にしてこの池が出来たのは、この造営が御神慮(ごしんりょ)に叶った為である」と
人々がたいそう喜んだと云われています。
またこの池は干満時において火災が発生した時の消火用水の役割を果たしたとも云われています。
さらによく見ると池の中から水が湧いて流れています、この水は海水ではなく「真水」が流れ出ています、不思議ですね。
廻廊の傍らには「明和7年(1770年)に寄進」された石灯籠があります。
この石灯籠は岡野権左衛門正英が建立寄進したもので、合わせて諸経費として20両を寄付している。
鏡の池の廻廊からまっすぐ五重塔の方角を見ると、石垣が見えます、
この石垣は、毛利元就・吉川元春の技術による石垣でよく見ると「布積み」になっています。
千畳閣の下の石垣は豊臣系の石垣で「乱積み」になっていましたね。
この布積みの石垣を良く見ると、なんだか変と思いませんか。道と海の底面が約3~3.5m位の段差になっていますね、
昔約6000年くらい前から、この神社のあった場所には「紅葉谷川・白糸川」が長い時間流れ込んでおり、
その為この部分は「砂洲」になっていました。平清盛はこの砂洲の部分を除去して、その跡に「厳島神社」を建立したのです。
理由は既に解っていますね、そうこの島は「神の島」と呼ばれ、島に建物を建立することなど、とんでもないことと言われて
海の中に社殿を建立したと云われています、そう理解すると解りやすいですね。
さらに廻廊を進むと正面に「朝座屋(あさざや)」が見えてきます。
この建物は「国の重要文化財」で1168年の造営記録にも名があります。 
社家・供僧・内侍 の方達が祭典の時に集合したといわれています「社家三方(しゃけさんぽう)と云う」
屋根を良く見ると、東側は「切妻屋根」西側は「入り母屋」の造りとなっており、三方に「庇の間」がある、
これは神殿造り様式の特徴のひとつである、対屋(たいのや)の要素をもった建造物です。
明治維新後 昭和42年までは厳島神社の社務所として使用していましたが、現在は結婚式の控え室に使用されています。
平安末期、島内には「内侍」が居住するのみで、
他の祭事に仕える社家・供僧は対岸の地御前神社(外宮になります)辺りに住んでいました。
(神の島であるから人は住む事が出来ず、毎日対岸の外宮より舟で通っていた)
内侍の館のみはあり、内侍はそこに住んでいたといわれている。
島に人が住むようになったのは1300年の頃からと言われています(鎌倉時代の後期ごろからか)

眼の前には廻廊に囲まれた四角い海の部分がありますが、ここを「枡形(ますがた)」と呼んでいます。
厳島神社の神様を慰める為に行われる雅な海上渡御の祭りで、王朝絵巻を繰り広げる宮島最大の神事です
当時都で盛んであった管弦を奏する遊学を宮島に移したもので、毎年旧暦の6月17日に「管弦祭」が行われます。
(管弦祭は下記参照してください。)
船先に篝火を焚いた御座舟や呉の阿賀、広島の江波から来た引き舟がこの枡形に入ってきて、三匝(さんそう)
します。三匝とは本来、右回りに三回廻る事を言います(仏教における一番格式の高いお参りの仕方)

「右遶三匝 (うにょうさんそう)
 遶仏(にようぶつ),施遶(せによう)ともいう。インドでは右手を浄,左手を不浄とする思想があり,
 比丘たちは仏に対して右遶三匝(うにようさんそう)する(右回りに3回回る)のが例法となった。
 中国では左を上位とする考えがあって戒壇を巡るときに左回りすることもあり,日本でも座禅のときに眠けを覚ます
 為の香版(警策)をもって回る役の巡香(じゆんこう)は左回りであるが,その他はすべて右回りである」
管弦祭のクライマックスが見れる所で大勢のお客様が詰め掛けるところです。
また大鳥居が写しこむ写真撮影の人気スポットになっています。
「管弦祭」は
日本三大船神事の一つでもあります。他には大坂の「天神祭り」、松江の「ホーランエンヤ」があります。
松江のホーランエンヤは10年に1度行われますが、今年2019年6月に3回の日程によって行われました。
次回は2029年になりますね!
管弦祭の行事予定は旧暦で示すと次の様になります

6月5日   「市立祭」 春(2週間)、夏(3週間)、秋(2週間)、と市が立つ
        夏、が一番盛大で臨時の露天などが出て芝居などが行われた(12日前から行われる)

6月11日  「御洲掘」  鳥居の内側の水深を深くする為、水底の土砂などを取り除くもの。
今年(2019年)は7月13日に行われました。
6月15日  「御船組」  客神社前で、呉の倉橋から挽かれてきた、和船3艘を繋ぎ、
                根太を渡し屋根を架け御座舟が 出来上がる
6月16日  「御試乗式」 御座舟の試乗を行う、大鳥居をうまく漕ぎ抜けるか、などを調べる

6月17日  「本番の管弦祭」が行われる。 今年(2019年)は7月19日です

満潮時にこの枡形から大鳥居を見ると、素晴らしい景色を見ることが出来ます。
日本を代表する画家で「平山郁夫」画伯もここから「絵」を描いています。
その他にも、客神社の真ん前(反対側)から客神社・五重塔を見た景色、
五重塔を仰ぎ見る所(旧参道コース、光明院前の坂道)からも描いています。
今年(2019年)は没後10年目に当たります

* 有の裏、三笠の浜 辺りでは瀬戸内周辺から来た多くの船の繋留を見ることが出来る。
   商店街には、呉の「阿賀」 広島の「江波」の方達の常店が決まっているのでそれを見つけるのも面白いかも。
   「店」の前にはそれぞれの「のぼり」が掛かっているのでわかり易いと思いますよ。

枡形の反対側には、二つ目の「鏡の池」と「揚水橋」があります。

「鏡の池」の中に大きな「石」がありますが、この石を「卒塔婆石」と呼んでいます。
治承元年(1177年、約830年前)、京都東山鹿ヶ谷の山荘(後白河法皇の近臣で、
靜賢法印(じょうけんほういん)の山荘)において、平家滅亡を企てた罪により、
平康頼・僧俊寛・藤原成経らは喜界が島に流される(この時密告をしたのは、多田蔵人綱行ただのくろうどつなゆき)
喜界が島は現在の、鹿児島沖の「硫黄島」とも言われています。
島に流された「平康頼」は都に住んでいる老母を偲んで、二種の歌を千本の卒塔婆に書いて流します。
(京には老いた母が住んでいたが場所は現在の、京都柴野大徳寺付近「金閣寺の近く」である)
「思いやれ しばしと思う 旅だにも なお故郷は 恋しきものを」
「薩摩潟 沖の小島に我ありと 親には告げよ 八重の潮風」
ところが、その念願が「神」に通じたのか、卒塔婆の1本が「あの石」の所に流れ着き、
おりしも康頼の安否を確認する為の旅の途中厳島神社に参詣に立ち寄った「僧」により都に伝えられ、
程なくして「康頼」は帰京を許されました。
(1178年の事です、事実は徳子懐妊による恩赦で、7月に赦免の使者 9月20日に赦免になっています)
参考
徳子が身ごもった時、高倉天皇は18歳、徳子22歳、しかし徳子は月がたつにつれて、苦しみ、死霊が取り付く
清盛の弟「教盛(のりもり)」が、これは惨殺処分した藤原成親の死霊のせいとか、喜界が島の流人3人を赦せば
安産が叶うはず、と進言する。直ちに成経・康頼 二人を許す「赦文(ゆるしぶみ)」の使いが喜界が島に出された。

帰京した「平康頼」はこれも厳島大神のおかげと、お礼の為にと奉納したのが「康頼灯篭」です(鏡の池の先に見えます)
この燈篭は、島内にある数ある燈篭の中で一番古く、棹には「昇り竜」「下り流」が彫ってあります、また火袋は八角形で
「六地蔵」が彫ってあります。棹の部分はほとんど確認できません、また「六地蔵」は明治維新の時に削り取られました。

六地蔵とは①天道 ②人間道 ③修羅道 ④畜生道 ⑤餓鬼道 ⑥地獄道 を守護する「地蔵尊」を言う
参考
平康頼と藤原成経は赦免後二人して教盛(のりもり・清盛の弟)の領地である肥前国鹿瀬庄(佐賀市喜瀬町付近)で
年を越し翌年(1179年)治承3年正月に備前の児島に到着、藤原成経の父成親の供養をしたうえで、3月に鳥羽から
成経の山荘である、洲浜殿に立ち寄り、やがて二人は京の七条川原で別れた。(成経の妻は教盛の娘)

成経は教盛の娘を妻にした、よって教盛を頼って屋敷に戻り妻子と再会する。その後文治元年(1184年)に
右近衛中将に昇進、4年後には蔵人頭。建久元年(1190年)にはついに高級公家と言って良い「参議」になる。
建久4年(1194年)には参議を辞して「正三位皇太后大夫」のまま、建仁2年(1202年)3月18日亡くなる

康頼は頼朝からかつて尾張国(愛知県西部)在官当時に、頼朝の父・義朝の墓を整備した事があり、その功が認められ
文治2年(1186年)頼朝から阿波の国(徳島県)の保司(ほし)に任ぜられる。喜界ヶ島から帰京後は「和歌の腕」を
磨くことに専念、多くの歌集に詩が載るようになる。昭治2年(1200年)に、石清水若宮の歌会に出席した記録があるが
その後そ消息は途絶えている。
康頼は喜界が島に流される途中で「出家」して、「性照」の法名を持っていた

僧俊寛は法勝寺の執行(しつぎょう)であったが、執行になる時、清盛に便宜を図ってもらっている、にもかかわらず
「陰謀」の場所を提供し陰謀に係わっていた事が清盛にとって許しがたく、ゆえに俊寛だけは赦免にならなかった。

本来、燈篭の下には「台座」があるのですが、見ることが出来ません。
これは先にも述べた様に、天文10年(1541年)の大きな土石流により埋没して、現在に至っています。
ここの所には、「大鐘跡」とも言い、昔は「大鐘楼」があり、鐘を合図に神職・供僧が出社していたようです。
明治維新後は無くなりました、梵鐘の「大願寺」の文字が入っていた為、溶解されたようです。

隣の小さな木の橋を「揚水橋」といいます。これも国の重要文化財となっています。
よく見ると、東側の勾欄が高くなり、張り出しているところに「特徴」があります。(この様な工法を桟の間工法と云います)
昔はここから、内侍が「神饌用」の水を汲み上げて、本殿に運んでいたと云われています。

この橋、橋と言えるかどうか解らないほど「短いですね」(現在約5m(約3間)です)、昔は長さ14m(8間の長さ)ありましたが、
天文10年(1541年)の山津波(土石流)により現在の長さになっています。この橋以前は「平橋(ひらはし)」と呼んでいました。
「平橋」と呼ばれている橋は、二箇所あります後の一つは、後で出てくる「長橋(ながはし)」で、明治11年に「長橋」と云う名前になっています。

余談ですが、京都の宇治川に架かる宇治橋には「桟の間」があり、そこから豊臣秀吉が「茶の湯に使う水」を汲み上げたといわれています、
宇治橋は幅8m、長さ155m コンクリート製の橋で欄干は桃色、擬宝珠は緑色をしています。

横には、「天正20年9月吉日」(1592年の秀吉の朝鮮出兵の年)の刻銘の入った「手水鉢」がある。この手水鉢は、
文字の入っている手水鉢では最も古く「国の重要文化財」に指定されています。

朝座屋を背に、廻廊を見ると、正面に「厳島神社本殿」が見えます、ここの屋根を見ると大変面白い事を発見する事が出来ます。
よくよく見てください、左側「本殿の屋根」(軒)と、右側「拝殿」の屋根が「平行」になっていません。手前が狭く(ほぼ重なっている)、
奥に行くに従って広くなっています。つまりこの建物は本来平行に建っていないといけない物が、平行に建っていません。(約50cm位斜めになっています)。
本殿は実は3回建て直しています、一度目は1207年焼失 二度目は1223年焼失により建て替え 三度目は1571年
和知兄弟の謀反により建て替え(「元亀の遷宮)。なお、拝殿 祓殿は1241年鎌倉時代に再建したものでした、その後に「元亀の遷宮」がありました。
この時期は「戦国時代(1493年から1573年までの80年間を言う)で、いろいろな技術が衰退した時期で、建築技術も同様に衰退した時期にあたり、
建物をうまく建てることが出来なかったと思われます。

さらに進むと、左手に小さな「橋」があります。これは「内侍橋」と言い、左右にあり神殿造りにおける「対屋(たいのや)」形式を色濃く残すものです。
内侍橋の柱をよく見ると真ん中の柱が少し細く見えませんか、それもそのはずでこの柱は後から追加した柱で、もともとはありませんでした。
一般的に神社に仕える「女性」を巫女(みこ)さんといいますが、ここ厳島神社にお仕えする女性を「内侍(ないし)」といいます。
昔、内侍がこの橋を渡って神饌をお供えしたところから「内侍橋」と名づけられました。
八乙女(本内侍)制度は久安4年(1148年、清盛が安芸の守になった2年後)の定められました。
したがって厳島神社の海上社殿で竜宮を思わせる「内侍の舞楽」が始まったのはこの様な制度が整備された後と言う事になります。
「平安時代の末期」の内侍は、①五常楽 ②狛鉾 ③万歳楽 ④蘇合香 の四典の「舞楽」を舞っていました。
なお、他の大社では「巫女」が舞楽を舞うことはありませんでした。
この頃は巫女としてよりも「舞姫」としてその名が知れ、しばし都の貴族達に優美な舞楽を疲労している。
その美しさを、「土御門通親(つちみかど みちちか)」は、「天人の降りくだらんも かくやとぞ見ゆる」と表現しています。
土御門通親(源 通親)は「高倉院厳島御幸記」を残しており、「村上源氏」の全盛期を築く。
曹洞宗では、「久我通親(こがみちちか)」と呼ばれている。

厳島神社の「内侍」は定員31名と決まっていました。予め内侍となる事が出来る「家柄」は決まっており、誰もがなれるものではありませんでした。
その家柄に生まれた女性の内必ず一人は生娘であることが求められ、「厳島の神」に仕えることになっていた。

内訳は ①上臈内侍 10人  ②本内侍(八乙女とも言う) 8人  ③手長内侍 13人  合計 31人

八乙女やおとめ)は、先にも述べた様に、主に神楽や舞い(巫女神楽・巫女舞)をもって奉仕する 8人で「舞姫」とも呼ばれていました。
特に舞姫の中でも、「世親内侍」「竜樹内侍」は格別に美しく貴族達はこぞって見に来たようです。

上臈・・・・身分の高い女官のこと(先に任じられた者を上臈、後から任じられた者を、中臈・下臈などと区別する
     臈(ろう)とは、洗練された女性の美しさを表す言葉で、美しく気品があることを指します。
一般的に、神社巫女は神事で重役を果たす「神女」と云う、これは「神子(かみんこ)」で神の子を意味します。
伊勢神宮では「斎王(さいおう)」、 賀茂神社では「斎院(さいいん)」 熱田神宮では「惣の市(そうのいち)」などと呼ばれています。

斎王祭りの「斎王役」の方は、五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)俗称 十二単(じゅうにひとえ)を着ます。
上皇の母親(香淳皇后)も大正13年(1924年)に五衣唐衣裳を着用している写真があります

厳島神社社殿
神社建築に用いられる「ヒノキ」は建材としては世界一の樹木である z
強度・耐久性に優れ又、木肌が美しく光沢があり、塗装をしていなくても高級感が生まれる。
神社・・・・白木を使う
寺院・・・・彩色を使う
江戸時代後期になると、秀逸な彫刻で満たされる寺院建築が流行ってくる。
ここでは「彫刻の出来栄えを強調」する為に素木造りとされるのが「一般的」となる。

「両流造」
本殿は1168年に建立(仁安3年)、しかし元亀2年(1571年)再建。
客殿は永享5年(1433年)再建  本殿。客殿は「両流造」の代表例である。
両流造は身舎の前後に庇を設けた本殿形式である
身舎(もや)とは
寝殿造りで,主要な柱に囲まれた家屋の中心部分。庇はこの部分から四方に差し出される。
家人が日常起居する建物。離れなどに対していう。おもや。ほんや。
棟木と軒桁(のきげた)の間にあって垂木(たるき)を受ける水平材。もやげた。 → 小屋組
正面側にだけ屋根が長く伸びる「流造」に対して、両側に屋根が付くので「両流造」と呼ぶ
厳島神社本殿・客殿が両流造りとなっている。
本社本殿は九間社(鎌倉再建以降は柱一本を省略して八間社)
客神社本殿は五間社の両流造で極めて大規模であり、特に本社本殿は、純粋な本殿としては
史上最大の面積を有している。
身舎(もや)を内陣として、そこに玉殿と言う小型の本殿を本社で六基、客殿で五基並べ正面の庇を祭祀
空間の外陣とし、背面の庇を「神宝庫」とする。
本殿内に玉殿を安置するのは、海上に建つ為である。陸上の神社では、春日大社の様な小型の本殿でも
風雨に耐えれるが、海上の風浪では危ういので、小型本殿を玉殿として超大型本殿の中に格納した
ものと考えられる。その結果、史上最大の本殿が誕生した。(全国23社の国宝本殿では最大、出雲大社の本殿の約2.3倍あり)
気比神社(越前一宮、福井県敦賀市)   気多大社(けた、能登一宮 石川県羽昨市)
宗像大社辺津宮「へつみや」(福岡県玄海町)  太宰府天満宮(福岡県太宰府市)
松尾大社(二十二社 京都市)
と言った著名な大社の本殿のみに応用されている。
背面側の「庇」については、特別に高い社格に基づいて神宝(じんぽう)を朝廷等から奉献される事が
多く、それを納める「神宝庫」としての機能があった。したがって一般的な神社には応用出来ない本殿形式。
なお、内陣に玉殿を安置するのは、海上に建つ「厳島神社」だけである。

厳島神社については、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で建物すべてを焼失しています。
大きさは日本一の本殿となっており「本殿は両流造で9間あり」
その後、仁治年間(1240-1243年)以降に造営されたものが現在の建物です。
「現在の建物は、4代目で元亀2年(1571、戦国時代)造り替え。 拝殿・祓殿は仁治2年(1241、鎌倉時代)再建」
広さは82坪あり、伊勢神宮・出雲大社等と比べても断然に大きく、日本一の大きさになっています。
(現在日本には国宝の神社本殿は23棟あり、その中で一番大きな本殿となっている)

庇付きの本殿
厳島神社本殿と客神社本殿は、四面庇本殿の屋根形式になっている。
切妻造りの身舎の正面に庇を付けた本殿形式の代表が「春日造」「流造」である
「春日造」・・・・・・身舎が妻入りのもの、  一間社が正式
「流造」・・・・・・・・身舎が平入りのもの、  三間社が正式
身舎だけなら、階段(木階きざはし)が雨に濡れるが、階段上に被さる「庇」が雨よけとなるので、
極めて実用的な形式で奈良時代に誕生したとされる。
切妻造りの身舎だけでは、硬直で単純な姿にしか見えないが、庇が付くことによって秀麗な造詣の美しさが
生まれた。屋根が桧皮葺(室町時代以降は杮葺も多い)である事も造形美を増している。
身舎(もや)は正式な「円柱」、庇は略式な「角柱」を用いて区別する事が大原則で、
神座である身舎の高い格式を強調
組木や蟇股などの建築装飾は、人目に触れやすい庇のほうに集中し、身舎は相対的に飾り気が少なく、
見えるところを飾るという、日本の伝統的な社寺建築の本質を如実に表している。
向拝(こうはい)・・・・木階(きざはし)に更に庇を付け足したような形
玉殿・・・・・神社本殿内に安置される小型本殿の神体の容れ物を「玉殿」と呼んでいる
厳島神社の仁治2年(1241年)の古文書に「御体玉殿(ぎょくたいぎょくでん)」と在るのが初見。
逗子・・・・・寺院本堂の内陣に安置して秘仏である「本尊」を奉安する容れ物を一般的に逗子と呼ぶ
鎌倉時代後期になって円柱や組物や屋根を供えた建築的な逗子が作られるようになり、
それは「空殿(くうでん)」と呼ばれた
「空殿」では組物は華麗な三手先が標準
「玉殿」では簡素な船肘木や平三斗程度である
寝殿造りの形態の神社は現在日本ではここ厳島神社のみとなっている
対屋(たいのや)形式の建物で、建物の前には祀りごとを行う「庭(平舞台)」があり、
その前には「池(鳥居までの海)」があり向って右側には「川」が流れている建物形式になっている。
また釣殿にあたるのが「客神社」となっている。更に屋根は「桧皮葺」
釣殿・・・・納涼・供宴を行う建物を言う
桧皮葺・・・ヒノキの皮を葺いたものを言う、寿命は約20年から最高にもって30年と言われている。

御祭神の三女人は、「海の神」「交通運輸の神」「技芸の神」 の信仰対象となっています。なお「財福の神」である、厳島弁財天は大願寺に引っ越し。
平清盛は瀬戸内の海賊を平定し、海運業者を支配し、更には「日宋貿易」により莫大な財を築く、更には急速に位階が昇進し、
1167年には「太政大臣」にまで上り詰める(清盛50歳の時)、翌年の1168年には厳島神社の造営がなる。(清盛51歳の時)
平清盛
伊勢平氏の棟梁・平忠盛 の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱 で最終的な勝利者となり、
武士としては初めて太政大臣に任せられる。清盛(虎寿丸)の母は、召名(めしな)を「鶴羽(つるは)本名は、霞(かすみ)」と言い、
元は仙洞御所(せんどうごしょ)に仕える。 仙洞御所・・・退位した天皇(上皇・法皇)の御所を言う 清盛3歳の時に、「鶴羽」がみまかる。 
鶴羽の姉が「是非とも猶子に」と申し出る
この姉が「祇園女語」である。 白河院第一の寵愛(ちょうあい)をこうむる。院の女房で大変な権勢を持っていた。
「女御」とは、皇后又は中宮の下、更衣(こうい)の上にある者で、天皇の宣旨(せんじ)によって定まる
更衣は天皇の居室・ 寝室に立ち入ることが可能なことから后妃としての要素を持つようになる
更衣(こうい)とは、本来天皇の衣替えに奉仕する女官の称であったが、後に嬪・女御に 次ぐ令外の后妃の身位となった。
  定まれば「政所(まんどころ)」を持つようになる
正盛(清盛の祖父)・・・・・忠盛(清盛の父)・・・・・清盛 で正盛を引き立てたのが「祇園女御」である

「清盛」の名前の由来
白河院は皇子(清盛)の事を気にかけていたが、ある時 皇子があまりに夜鳴きが激しいと聞いて次の「歌」を忠盛に送った
「夜なきすと、忠盛たてよ、末の世に、 きよくさかふる  こともこそあれ」
(その子が夜泣きをしても、大事に育ててくれ忠盛よ、将来 平家を繁栄させてくれる事もあるかもしれないのだから)
清く    盛ふる
きよく  さかふる      この二文字から「清盛」と名付けたと言われている

清盛について
清盛25歳の時、父忠盛が武士として始めて内昇殿(天皇の居所)を許される。武士である忠盛が殿上の間に上がる
事を許されるのは破格の待遇であり、ある貴族は「未曾有の事なり」とある。忠盛の内昇殿も「千体の観音像」を納めた
「得長寿院(とくちょうじゅいん)」の造営の功により許されたもの。後年清盛が後白河上皇の為にと建てた「蓮華王院」
(33間堂)はこの得長寿院にならったもの。
清盛51歳(1167年)に出家して「浄海、静海」と言う法名を持ち、引退後は福原で千層供養を度々している。
清盛にとって尊崇する厳島を華麗に仕上げる事は明神への感謝の念もさることながら、平家の権威を高めるもの
であった。藤原氏の春日大社の様に有力貴族は一族の精神的支柱となる「氏神」を持っている。
「平野神社」があるが、八姓の神社としてであり、平家だけのものではない。平氏にも「氏神」が必要と考えた「清盛」
瀬戸内海を掌握し対外貿易を独占した「海の平氏」の権威の象徴として、それは神々しいまでの美しさをたたえて
いなければならなかった。それが「厳島神社」である 

また、清盛が「平家納経33巻」を奉納するにあたり、こだわったのが以下のとおりと思われます
清盛の「法華経」
清盛が特に「法華経」にこだわったのは、法華経信仰が盛んな時代背景もあるが
「堤婆達多品」に現れる「竜王」「龍女」の説話。 
「観世音菩薩普門品」が説く、観音による海難救助の説話に注目した為と言われる。

福原・厳島で千層供養を行ったのは「法華経の力」によって水神・龍神をなだめ
海の平穏を実現することで瀬戸内海の覇者としての存在を誇示するのが狙い。
特に清盛が重視したのが「堤婆達多品」で、この中には文殊菩薩が法華経を説いて
竜王の娘を「即身成仏」させる話がある。

平家納経の軸は伊都岐島神の象徴である「水晶の五輪塔が使用」され、見返しには
海中から出現した龍女が釈迦の前に「宝珠」を捧げながら進み出たところ、が描かれて
おり、清盛の龍神や龍女に関わる信仰を色濃く反映している。
平家納経が納められた長寛2年(1164年)、徳子は堤婆達多品の龍女と同じ8歳
だったとも言われており、清盛が「自身を竜王」に「徳子を龍女」に見立てて将来の
入内への願いを込めたという説もある
瀬戸内や宋との交易船の航海の安全を祈るため、又「瀬戸内海航路の要衝の地であった厳島」を篤く信仰する。
1177年10月14日には 清盛・時子・中宮徳子・重盛ら平家一門が社参し、社殿内・廻廊にて「千層供養」を行う。
平時忠をして「平氏にあらずんば 人にあらず」と言わしめた。

本社 
幣殿
本来、幣帛(へいはく)を供える建物ですが、厳島神社では渡り廊下の役目をしています。
幣帛とは、神道の祭祀において神に奉献する物の内、神饌以外のものを言う。
帛(はく)とは布の意味で古代にあっては貴重であった布帛(ふはく)が神への捧げものの中心であった。

拝殿
参拝者がご祭神と向き合い、お祓い、参拝する施設です。
この拝殿は「三棟造(みつむねつくり)」と言い、奈良時代の建築様式を色濃く残しているものです。
天井辺りをよく見ると、お賽銭箱より本殿に向かい2本目の朱塗りの柱まで屋根があり、更にその奥にも屋根があるのが判ります。つまり、
拝殿の屋根の更に下側に二つの屋根があるのです。合計三つの屋根があるので、この様に呼んでいます。
清盛の住んだ京都の六波羅泉殿の寝殿も「三棟造」であったと思われます。
更には対岸、外宮にある「地御前神社」の拝殿もこの様な「三棟造」なっています。興味深いですね。
本社祓殿

祓殿の広さは、100畳 あり。また平舞台は 660㎡(200坪)ある
お祀りの儀式を行う場所で、ここで祓いの儀を済ませた神官達は拝殿及び幣殿に進み祭典を執り行う
ただ、厳島神社で行う祭事のほとんどは客神社で先祭されるのでまず、客神社祓殿でお祓いの儀式が行
われて、そのまま本社祓殿に向うことになる。祓殿と言われるのは近年の事で、昔は「舞殿」と呼んでいました。
平舞台・高舞台・左右楽房・左右門客神社はこの祓殿の附けたりで、国宝建造物とみなされている。
お祓いをする処で、日本三大船神事の一つ「管弦祭」が行われる時には
鳳輦(ほうれん、神輿のようなもので、天皇の乗り物であった)が置かれる場所であります。
雨天時には「舞楽奉奏」などのも使われます。戦後はしばらくは、2月にここで「米相場」が立っていました。
(大鳥居の前には米の仲買人が寄進した常夜灯はあります)
床板は「楠」で、広島浅野藩の藩船(厳島丸)の材料が寄進さらたと言われています。
記録によると、床板は1.45m × 9.55m の楠を使用、最初の床材は、巾1尺6寸(約50cmくらい)の材が使用されていた。
(板敷材 90枚 長さ2丈2尺 弘1尺6寸 厚2寸とある)

本社の拝殿(皆様がご祈祷・結婚式等を行う所)の横には、ご祈祷を待つ待合室があります。
この中に入られた方はわかりますが(一応断れば誰でも入れます、鍵はかかっていません)、入って真正面にとその左横に大きな
扁額は掛かっています。
真正面の扁額には、「従一位 源 長勲  俊 徳 」と書いてあります。 この源 長勲こそが「広島藩 最後の 第12代藩主 浅野長勲」です。
浅野家は清和源氏頼光流土岐氏の庶流で土岐光衡の次男・土岐光時が土岐郡浅野で「浅野氏」を名乗り光時に始まる土岐氏草創期の一族
であるとされている。本性が「源氏」で苗字が「浅野」であるから「源 長勲(ながこと)」と署名してある。
浅野長勲は日本の江戸時代末から昭和初期の大名で最後の大名と言われ 政治家 外交官 実業家 社会事業家でもありました。

左の扁額には「元 昭  明 光」とあります
これは毛利元就の子孫で毛利宗家 29代当主 毛利 元昭」です
元昭(もとあき)は長州藩最後の藩主で、毛利元徳の長男である

祓殿の天井
天井が出来るのは、平安朝末期からで、主屋にこの様な天井を張り、廂の間は「化粧屋根裏(垂木の見える天井)」
とし、つなぎ虹梁を掛けて側柱と主柱をつなぐ工法は平安末期から鎌倉初期にかけての工法で、
本社・客社の両祓殿などは典型的なもの。(折上小組格天井と言う)
かつては、絵馬・扁額が長押上にも掲げられており、明治の日誌類から見ると、明治11年(1878年)10月には
「36歌仙」の額が祓殿から降ろされ宝蔵に納められ、明治29年(1896年)2月には「山姥図」が掲げられたが
明治33年(1900年)の台風により数点の扁額が流された為、それ以降全て降ろされ、一部は千畳閣に展示、その他は倉庫に納めてあります。
祓殿では、能楽・謡・独吟などの奉納が祓殿で行われている。
(1680年浅野綱長が能舞台を再建するまでは、本社祓殿で能・狂言が行われていた)

厳島神社の社殿を「神殿造」とすれば、本社拝殿が寝殿になり、祓殿は南庭の部分に相当すると考えられる
ここでは、さまざまな「儀式・踊り(舞)・蹴鞠」が行われている(かつては祭典後の「直会(なおらい)」の場としても使われた
厳島神社では、こうした儀式や踊り(舞楽)などを行う為に恒久的な建物が必然的に生まれてきたと考えられる
床板は、幅1,45m。 長さ 9,55mあり、江戸時代以降の変更で「広島藩主」の寄進によるものである(楠木で出来ている)
檜皮について
桧皮葺の檜皮は寿命が約20年から最長で30年とも言われる。檜皮は樹齢80年以上のヒノキの皮を剥離して取る。
一度剥ぐと次は10年後に再度剥ぐ、この繰り返し。長さは3mで剥ぐ。檜皮は表面が「コルク質」で抗菌・防腐作用
がある。一度剥いだ檜皮は、厚さ1,2~1,5の厚さに削ぐ。これを檜皮として使用する。1駄(だ)、2駄と数える

杮の裏甲(檜皮の下の部分)は枌板(そぎいた)が積んである。
枌板は長さ1メートル、厚さ7センチくらいに重ねてあり、段葺きに葺いてある。
その上に「檜皮」を葺く、檜皮は「竹釘」によって止める、竹釘の長さは4.5センチ。ちなみに杮用の「竹釘」は長さ3.6センチである。
竹釘は"錆びず",”腐らず",50年間耐えることが出来る。しかし現在この竹釘を販売しているのは、兵庫県丹波市の「石塚商店」のみ、
神社で抱えている職人は別で、それぞれの職人がいる。
(竹釘を口に含み、素早く取り出して打ち付ける、口の中が荒れないように表面を滑らかにする技が重要で、職人になるには最低10年
  かかると言われている)

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