知りたい宮島

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知りたい宮島15 山辺の小路

2024年06月05日 09時28分19秒 | 貴方の知らない宮島
昔は厳島神社への参道であった「山辺の小路」について少しふれてみます。
宮島に渡り、桟橋前をまっすぐ進むと(山一別荘)すぐ右手に入る小さな路地があります
ここを入ると「鹿戸(しかど)」がありますが、この扉を手前に引いて中に入ります。
この路路は私道ではありませんので心配いりません。
入りすぐ左に曲がると、井戸があります。この井戸を誓真釣井(せいしんつるい)と呼んでいます。
ここから、参道に入る前の助走となります。

誓真釣井 1700年代末
僧誓真は島民の生活用水の為に井戸を10箇所掘った,現在4箇所が残っている。
広島で米屋を営んでいましたが、厳島詣での参詣人が増えているが、これといった土産物が無いので、
弁財天の琵琶をヒントに杓子を考案し島民に教え普及しました、又水不足を解消する為に井戸を掘り(誓真釣井)、
又階段を作るなど、宮島の恩人の一人として今でも慕われています、光明院の近くには
その遺徳を称え「誓真大徳頌徳碑」が建立されています。
毎月1月中旬には1000本の杓子を用いての「杓子供養」が行われる



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僧誓真
本名を村上頼冬(よりふゆ)と言い、伊予来島村上水軍の末裔であったが、それでは生活が出来なかったので、広島城下
の大工町(今の広島市 堺町・榎町・十日市(西側)の辺りを言う。愛宕町(東側)に移り,ここで米穀商を営む。
広島城下には東西に宿場町があった。(東側は愛宕町、西側は堺町)
ある日「この着物を米に換えてください」と一人の母親らしき人が着物を胸に抱き体を小刻みに震わしながらか細い声で
言った。その着物に手を触れてみるとまだ温かく、なにか事情があるのではと思い訊ねてみたところ
「自分は三日前から何も食べていない、明日朝子供達に食べさせる米が無いので、先ほど子供達が寝たのを待って
着物を脱がせて来た、薄着の子供は私が背負えば良いと思った」。この話を聞き頼冬は驚き、その温もりが残る着物を
突っ返しながら、米と少々の野菜を持たせて帰らせた。
しかし、その夜は寝付かれず、つくずくと世の無常を感じこれからの人生を貧しい人々の為に捧げる事を決心した。
後日心の苦しみを家族にも告げず、置手紙を残し家を飛び出し、厳島に渡り、光明院、15代住職・了単上人を訪ね
頼冬は一生命をかけて不運な人々に愛を捧げる決心である事を上人に告げると、上人は頼冬の態度と眼を見て
弟子入りを許す事になった(従僧である)。出家時の名前は「誓真」で年は25歳であった。
やがて島民の暮らしや、生活状況が徐々に解る様になり、特に飲料水に大変困っている事に気付き、自ら水脈を
求めて島中を歩きまわり10箇所の井戸を掘り当てた(天明2年1783-寛政7年1795めでの12年間)。その資金は自ら
托鉢して得たものを全て充てた。なお誓真は琵琶の形から「宮島杓子」を発案したり、道路整備や石段を築き災害
を防ぐなど公共事業に尽くした、として寛政3年(1791)広島藩より特別表彰されている。
この誓真の遺徳をたたえた「誓真大徳頌徳(だいとくしょうとく)」の記念碑が建てられた。毎年1月この「大徳碑」の
前で宮島杓子供養が行われる。 誓真は宮島の恩人と言われている。
厳島の恩人ベスト6 ①平清盛 ②神主佐伯景弘 ③棚守房顕 ④毛利元就 ⑤林春斎 ⑥僧誓真

仁王門跡
桟橋前広場を進むと、目前に階段が見えます(60段あります)この階段は「雁木(がんぎ)」と呼ばれるもので、昔の船着き場でした
参拝者はここから上陸し、尾根を越えて、仁王門を過ぎて、大御堂の前を通り、現在の旧参道を通っていました。
今伊勢神社の東にあり、杉の浦の道に通じる、力士像が現在大願寺楼門の中にある。
神力寺の門が仁王門で、ここに阿・吽形の仁王像があった、鎌倉時代、眼は玉眼と言い水晶であった
金剛は「那羅延金剛(ならえん)」、力士は「密迹力士(みっしゃく)」の事、共に佛を守護する「夜叉神」である
大御堂の寺門であったこの辺りを「大佛原(おおぼとけはら)」と言う    仏を守る役目
仁王は仏を守る役目をする、ここにあった本尊・阿弥陀如来像は不動堂にある。
仁王門は厳島神社を鎮護する「不動堂の山門」であった、つまり、北方向から厳島神社に侵入しようと
する「妖怪」を追い払う「門」であった。

今伊勢神社
伊勢神宮を勧請した事から「今伊勢神社」と呼ばれる、例祭は11月1日。祭神は天照大神・八幡大神
春日大神・猿田彦神・興津彦神・興津姫神・素戔鳴尊である。100段雁木の麓は「伊勢町」という
今が付くと「新しく祀られて」と言う意味ある。伊勢神宮よりも新しく建立した神社。


行者堂(角仏堂 かくぶつどう。昔の呼び方)
修験道の開祖といわれる「役の小角」が祀られている
 えん おづの
役 小角(えん の おづの )、
役 小角、「舒明天皇(じょめいてんのう)6年(634年ー701年)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。
姓は君(くん)。修験道の開祖とされている。後の平安時代に山岳信仰、の隆盛と共に役の行者(えんの)
と呼ばれるようになった、実在の人物であり、天河大弁財天社や大峯山龍泉寺なども開いた。
32歳の時に葛城山(かつらぎさん)に入って30余年の苦しい修業の末に
不思議な験術を得たと言われている。
「撰集抄」に厳島の記事があり、これを書いたとされる「西行」が厳島を訪れた際に、
この付近から引き返した為、「西行戻し」と云われている
西行戻し
西行法師が此の山で老婆に会い、道を尋ねたが返事が無かったので
うちせみの もぬけのからに事問えば 山路さえもおしえざりけり」 と歌ったところ
老婆は
もぬけのからなれば、何も教える事はありません」 と答えた
優れた歌人である西行は返す言葉も無くここで引き返したと伝えられている
要害山(宮ノ尾城跡)
標高27m、三方は海に囲まれ、周囲は約60度の急傾斜地である。
元就はこの場所に本陣を築いてのは最大の失敗であったと偽りの情報を流し続けた(スパイがいた為)
陶軍は囮の城とも知らず、今津から500隻の軍船に2万人の兵を乗せて多宝塔付近に陣地を設ける、しかしここは
毛利の本陣がよく見えないので、五重塔付近に本陣を設ける。毛利軍は、石や巨木などを落下させ、又城壁が
倒れそうになると兵士達の着物で紐を作り引き起こすなどし、陶軍の攻撃から守り又翻弄した、毛利軍が陶軍の後方に
回るまでの間の時間稼ぎの為、全力を挙げて戦ったのである。

陶軍が囮の城を攻めあぐんでいる間、毛利軍は夜半暴風雨をついて宮島の裏側「包が浦」に上陸。陶軍の後方
陣地であった博打尾を襲撃し毛利軍の勝利となる。
夜明けの4時に総攻撃をかけ、昼の午後2時には終わっていた程の激しい戦いであった。
堀切を設け、西側に5郭、東側に10郭が構築されていた。「郭」とは囲いの事
厳島合戦
弘治元年(1555年) 元就は宮尾城の築城を始める(決戦の前)、  500人(300人とも言う)の兵を置く
天文23年(1554年) 5月13日 陶軍の攻撃
7月7日  陶方白井越中守賢胤の攻撃あり・・・・落城せず
7月21日 陶晴賢は1200余隻に分譲して厳島に上陸・・・落城せず
この時 6~7挺だが鉄砲が使用された。
陶晴賢は大内義隆を弑逆した後、厳島ではそれまで村上衆が取っていた交通の警護料金の徴収を禁止した
弑逆(しぎゃく)  弑逆とは下士が上士を強制的に自刃に追い込むことを言う」
(陶晴賢は厳島を商業港として発展させる為、自由に諸国の商人や船を寄らせようとした、しかしこの事は
村上衆にとっては、不利益なことなので陶晴賢は村上衆の恨みを買ったと考えられている)
9月26日    村上の警護船200~300隻が廿日市沖に碇を下ろす、
(能島武慶 来島道康 村上宗勝とその一門が毛利方に見方する)
9月27日    これらの人々の働きによって、宮尾城と連絡が取れる

桂元澄は(桜尾城主)陶晴賢を厳島におびき出す謀略の中心であった。

海からの 攻撃 陶晴賢 厳島、 仁保島の 毛利の本城 陶の本陣に  合流
宮尾城の落城 城を落城 吉田へ進行


桂元澄 桜尾城 草津の児玉就方
を破って



陸からの 攻撃 陶晴賢 大野より陸路で東進すれば たとえ元澄が城を明け渡して
桜尾城との合戦になる 陶晴賢に見方しても、元就にとっては
たいして痛手にはならないだろう

だから是非厳島に渡って、もし毛利元就が厳島に出てくればこれを挟み撃ちにすれば良いと進言する、
陶晴賢は全面的に信じたわけではないので陶は桂元澄に「七枚の起誓文」を書かせた、
元澄は魂まで売って、毛利元就に忠誠を尽くした、と言う事
厳島合戦
1555年(弘治元年)9月末、  水軍力の力関係
陶晴賢軍 主力部隊は屋代島(山口県大島郡)
毛利元就軍 主力部隊は毛利元就が育った、川の内警護隊と小早川警護衆
因島(因島市)、能島(愛媛県越智郡宮窪町)、来島(今治市)、三島の水軍をどちらが抱き込むかが、カギであった。

9月21日 陶晴賢が厳島に上陸して、陣を構えた日
9月23日 毛利元就は宮尾城を立てなおす為に歴戦の重臣「熊谷信直」を同城に差し向ける。
宮尾城は総攻撃に向けた「おとりの城」として重要な役割を担っている為、絶対に落城させてはならなかった
9月26日 毛利は因島村上衆の支援は取り付けた、しかし残る二島の村上衆の態度はこの時点では不明であった。
9月27日 毛利元就は吉田を出発する
9月28日 来援が懸念された、能島・来島の両村上衆の警護船団の到着と、毛利元就の軍勢が地御前から包が浦まで、
嵐をついて渡海を強行する29日までは、わずか1日しかなかった。
小早川の120隻に、村上水軍の200隻を加えた320隻の兵船を整えて、火立岩に陣を敷いた
9月30日 総攻撃の日である (火立山がありその麓)
陶晴賢は2万の大軍を率いて厳島に渡り、宮尾城の攻略にあたる。厳島の沿岸の平地は以外に狭く、城攻め
に参加できる人数は2000人位、新兵器の鉄砲も利用した。 来島・因島は毛利方。 能島は陶方(参戦せず)

元就は軍令を発す、士卒すべて3日分の食料として「餅袋・焼餅袋・米袋各一つと棚用の木一本、縄一筋を
携帯させ「勝つか」といえば「勝つ、勝つ」の合言葉を定めて夜陰に乗じて出陣した

10月1日 30日は闇夜、しかも暴風気味の荒天となる、未明から宮島水道に多数の兵船が乗り出してくる(2000人)
これを見た「陶軍」は 勝った と思った(決して油断をしていたわけではない)
2万の大軍のところに4000人で上陸してくれば、撃滅出来ると思ったのは確実である
前方の海上に気を取られていた陶軍は大混乱に陥り、前方に遊弋(ゆうよく)していた、
小早川勢も上陸してきた、又 巧みな時間差攻撃となった。
未明、包が浦に上陸する

村上水軍
毛利家臣、浦兵部丞宗勝が、水軍の元に駆けつけ先陣を努めることを願い出、能島村上通康が快諾する
この時、敵をけん制する為「射手」を200名乗船さす
陶軍が「鉄砲隊」を持っていた、・・・・・6丁

10月4日 戦闘は終結、敗走した陶晴賢については「大江(西浦地区)と言う所にて腹を切らせ申す」とある、
討ち取った首 8000の数字も見られる。 陶軍の戦死者は4785人と毛利の資料、「芸候三家誌」にある

* 戦国時代の年齢感覚は、1.2倍してプラス3 とする
厳島合戦の後2年たらずで防長2国を完全制圧、北の尼子家を攻略、1566年(永禄9年)に尼子を平定する
この時の元就70歳(今では87歳に当たる)、75歳(1571年)で逝去する(現代の93歳位)。
存光寺(ぞんこうじ) 横の階段を百雁木と言う(昔は回りは入り江になっていた)100段ある
要害山の麓は海で、「存光寺の浜」と呼ばれていた
要害山の麓にある曹洞宗の寺で島内唯一の「禅宗寺院」である。開基は不明ですが、約300年前に出雲の一畑薬師から
十二神将を持ち帰って開いたと伝えられる薬師如来像が薬師堂に祀ってあり、目の不自由な人に対して
ご利益があるとして信仰されています。かつては厳島合戦で敗れた陶軍の将兵の霊を弔うために、
毛利軍が甲冑をつけて舞った事に由来する「湯立神楽」が行われていました。        毛利は25石を寄進したと言われている
十二神将(じゅうにしんじょう)・・・・薬師如来を信仰する者を守護する12体の武神の事 現在の250万円位
神前で湯を沸かし、神職がその熱湯に笹の葉を浸して参拝人達に降りかけ、無病息災を祈る行事で
その時舞うのが「湯立神楽」である。御文庫前にあった2棟の輪蔵でも行われていた
廿日市・洞雲寺の末寺なり、毎年11月八朔、寺内にて今伊勢の湯立てを行う
山門は「薬医門」と呼ばれ、侍屋敷の表門やお寺の山門に使われた形式。(医・薬とは無関係)
薬医門・・門の後背に控え柱を立てる門形式
この門は更に前面に明治以降、控え柱を付加している。材はケヤキ、を主材料としており、扉にも
ケヤキの一枚板」を使用した高級品

ロクロ技術を宮島に伝えた「小田権六(おだごんろく)」の碑がある (嘉永年間 1848-1854、6年間在島 前ロクロ)
対岸の廿日市、洞雲寺・潮音寺には「轆轤屋」「木地屋」のお墓がある。 明治新政府の20年前の事
ろくろ屋利助夫妻の墓
木地屋久右衛門夫妻  木地屋与三郎の墓   がある
入り口横の地蔵尊像は昔は反対側の「東側」にあった(厳島図会)、・・・・安政南海地震 東予海峡地震 が
厳島図会発行(天保13年1842年)時には反対側の位置にあった    原因と思われる

安政東海地震(M8.4) 東海道沖 安政三大地震
1854年12月23日    大地震ある
津波最大22.7m
安政南海地震(M8.4~ M8.5) 安政三大地震
1854年12月24日    広島大地震ある 16時半ころ発生
津波最大16.1m
東予海峡地震(M8.4) 9時~10時頃
1854年12月26日    大地震ある
   40時間後に発生 四国南海道沖
四国南海道沖
安政江戸地震(M6.9~ M7.4) 安政三大地震
1855年11月11日 津波はなかったと記録されている
江戸直下地震
江戸時代中期の宮島市内の大工技術の上京を知る上で重要な資料である。
「けやき」を主材料としており、扉もケヤキの一枚板を使い高級な建築である、屋根の桟瓦葺は近年のもので
建築当時は杮葺であった。 扉は鉄製の肘壷(ひじつぼ)である。組物は大斗絵様肘木(だいとえようひじき)
とし、虹梁・大瓶束(こうりょう・たいへいずか)の装飾を支える。
小田権六の石碑あり(存光寺)島に轆轤技術を伝える(1848-1854)、前ロクロ。波木井昇斎(彫刻師)甲斐の国(山梨県)出身
明治20年勧業博覧会(1788年)にて宮島彫りが受賞し全国に知られるようになる。(線彫り・沈め彫り・浮彫)などあり

丸山定夫、 桜隊の隊長。  原爆投下後の10日後(8月16日)に亡くなった(名舞台俳優) 1888年
仲みどり
被爆後、東京まで逃れる、それから 斗(ます)と肘木(ひじき)の組合わせ
17日 脱毛が始まり、背中の傷が急に悪化 三手先斗栱(みてさきときょう)と言う
19日 体温が39度に上がる 斗(ます)・・・・四角い形の受け皿
21日 体温40度知覚になる 17時から25分間、悪寒と戦慄が続く。輸血 肘木(ひじき)・・・・斗の上に載る
22日 白血球 300に減少、傷の回りに感染症の潰瘍が出来る。 輸血  細長い木
23日 注射を刺した部位に感染症の潰瘍。米粒大の出血斑があちこちに出る。輸血
24日 体温40.4度に。 午後0時30分 死亡
神谷研二・広島大学原爆放射線医科学研究所教授は、「症状や爆心地からの距離を考えると
100% 致死的な、8000ミリシーベルト以上の被爆であろう」と見ている。

築地小劇場代1期のメンバー、新劇の発展に貢献し、新劇の団十郎と賞賛される。広島市中区中町平和大通り、
北側緑地に「移動演劇桜隊原爆殉難碑」が建立されている
移動演劇隊の丸山定夫(新劇俳優1901-1945)は広島市堀川町99番地で被爆し、比治山付近に避難し、
やがて、坂町の鯛尾臨時収容所に収容され、その後宮島町の存光寺に移り敗戦を迎え、翌日8月16日に亡くなる

演劇移動体「桜隊」
桜隊の女優「仲みどり」氏は広島で被爆し、世界で始めて「原子爆弾症」と診断された人
享年36歳 「幻のカルテ」として研究者が探していたが此のたび見つかった(8月4日朝日新聞1面)
日本橋に今も続く塗料問屋の2代目、45年1月「桜隊」に参加。新藤兼人監督の「さくら隊散る」88年」
でも描かれた。大柄で気っぷがよく個性的な約を演じた
広島に原爆が落ちた後は、広島の似の島から、被爆者が多く移されてきた、ほかの寺にも被爆者が収容され
「町当局より、四斗樽一杯の、赤チンが届くがそれもやがて無くなる。」
参考
1シーベルト(1000ミリシーベルト)だと、吐き気を感じる
2シーベルト(2000ミリシーベルト)で頭髪が抜ける
3シーベルト(3000ミリシーベルト)を越えると30日以内に50%の人が死亡する、と言われている。
放射線を短期間に全身に被爆した場合
5% 致死量線 2000ミリシーベルト
50% 致死量線 4000ミリシーベルト
100% 致死量線 7000ミリシーベルト
広島「似の島」から被爆者が多く移されてきた、他の寺にも被爆者は収容された
「町当局より、四斗樽(18ℓ×4=72ℓ)一杯の、赤チンが届くが、それもやがて無くなる」

白血病 年、5ミリシーベルト以上     1年たって発病
悪性リンパ腫 年、25ミリシーベルト以上
多発性骨髄腫 累積、50ミリシーベルト以上
胃がん 累積、100ミリシーベルト以上     5年たって発病
食道がん


戦争前の昭和16年(1941年)10月23日、太平洋戦争の病院船(あめりか丸)の看護婦達100名
暁7144部隊 日赤304班の人達が、厳島神社参拝に訪れている。西の松原(砂浜の所)より本殿を
バックに集合写真を撮っている。「5部隊あり全員で500名の従軍看護婦」
あめりか丸(6000トン)の範囲は、北はアリユーシャン列島、 南はニューギニア  ソロモン群島まで
前日の22日には、比治山神社 陸軍墓地行軍 している
(比治山にはもと、明治天皇の住居(御便殿所ごべんでん) 広島憲兵隊本部があった所)
前日の22日には、比治山神社 陸軍墓地行軍 している
大束富くじ跡
徳寿寺(とくじゅじ、子授け地蔵として注名)の前、西蓮町にある。富くじの抽選会場
宮島の特産物「大束」の入札形式をとって興行され、大束支配所と呼ばれていた。
大束は燃料として使用される薪のことで、山林から切り出して販売し、その運用収益
は藩への運上金であり、宮島歌舞伎の興行を招聘する立て替え金にもなったと
言われています。
大束とみくじ
2,5,8,10,11、12・・・・・・6ヶ月は2日 6日 14日 18日 22日の5回
4・7の2ヶ月は・・・・・・・・11日。15日、19日の3日間を入札会
3、6、9、 3ヶ月は、市立てにつき別扱い
正月1月は中止

昔から宮島は島そのものが御神体として崇められていた為、農耕や機織りが禁じ
られており、島民は扶持(扶持米)を与えられ、税を免除される代わりに「大束」
と呼ばれる薪の束を納めることが課せられていた。島民の人々の生活は山仕事
が大きな比重を占めていた、そのような事から木を素材とした、宮島細工が

旧陸軍省 軍用道路分岐点
左側は砲台構築の為に包が浦と室浜の間に作った陸軍専用の道路、
今は「旧杉の浦」や「長浜神社」「宮島小中学校」に通じている、「うぐいす歩道」を歩いて紅葉谷公園
に行くことも出来る
頼杏坪(らいきょへい、頼山陽の叔父)の「芸藩通史」には、毎日200人以上の住民が「薪」作りの為に
山や谷間に入り込んでいた。
明治22年、広島大林区所の所管においては、山肌の森林土壌は荒廃がその極に達していた。
その後、明治・大正・昭和、と約100年に及ぶ保護・育成は森林の回復に大きく寄与する。
(赤松には、マツノザイセンチュウによる被害が発生)
広島大林区所・・・・現在の近畿中国森林管理局
徳寿寺(とくじゅじ)
「金石(きんせき)地蔵」と呼ばれる子授け地蔵で有名な曹洞宗の寺。
廿日市・洞雲寺の末寺で、金岡用兼和尚を勧請し開山した。  金石地蔵の由来とは、
島に住む霧島十五朗と言う中年の夫婦が子どもがいないのを憂い仏様に祈り続けていたところ、ある夜、
竹林の中で輝いている石の地蔵尊の夢をみて、竹林に行ってみると本当に石の地蔵尊があった。
その地蔵を手厚く供養すると男子を授かり、長じて広島藩主お抱えの力士になったことから、
夫婦はこの地蔵尊に深く帰依し正徳5年(1715年)に御堂を創建。さらに安置した石の地蔵尊が
いつの頃からか黄金色となり、以来、金石地蔵と呼ばれるようになったと伝えられます。
1221年 周防前司・藤原親実(ちかざね)が宮島神主家としてくる、その後 藤原成親(なりちか)が大内氏の重心
陶氏の菩提寺である周防龍門寺の金岡用兼を招いて開祖した神主家の菩提寺(洞雲寺)、代官派遣を行う
真光寺(しんこうじ) れいちはっと
島内では唯一の浄土真宗の寺。かつて宮島には厳しい「霊地法度」があり、その中に「一向宗」の事があり、
島には浄土真宗派の寺院はなかった。その中で真宗ご法度が唱えられていましたが、  (一向 俊聖(いっこう しゅんしょう)
**  特に「浄土宗」は、親鸞の教団が「浄土真宗」と自称する事を嫌い、「一向宗」の名を用いた(浄土真宗の公式名)
安芸門徒の移住や婚姻関係等で真宗信者が増え、戦前に説教所が発足。終戦後に法令が改正され、
独立した寺院となりました。阿弥陀如来一仏を礼拝し、親鸞聖人を教祖と仰ぎ浄土真宗の教養を広める
「聞法道場」があり本堂右面には、仏三尊の「日本画」が奉納されている。
呑呑(どんどん)川   晴天続きで他の地区の井戸が枯れた時でも、この川の水は「どんどん、流れていた」
からこの名前が付けられた。 幅2.5m 洗濯物の濯ぎには最適であった。今の上流には砂防堰堤が出来た為
以前のように水が出なくなった。この川は商店街入り口の下を通り海に注いでいる(みや離宮の前)

不動堂(大御堂と言っていた、厳島図会にあり)、辻堂とも言う(お堂だけの仏教施設)、建物は昭和の建築
厳島神社の鬼門鎮護の為に建立されたと言われ、毘沙門天・不動明王・弘法大使を祀っている 
仏の教えを守る不動様、本尊・阿弥陀如来像(背丈4.8mあり)丈六の阿弥陀如来を安置しているので、
大きなお堂(大御堂)と言う名が付いた
丈六・・・立ち上がると1丈6尺(4.8m)の背丈になる仏像
現在は宝寿院が管理する飛地仏堂、毎年5月28日に開扉する
お堂前には、元治元年(1864年)、文化15年(1815年)銘の、「香立て」がる。正面向かって右手の古堂には
石仏(聖観音像)が安置されている。お百度詣?りの石とも言われている
入り口に2基づつ計4基の石灯籠が建てられている、
西側には寛文7年(1667年) 銘の水盤がある、水盤の銘文に「厳島御宝前」とある事から、この水盤は
厳島神社に寄進されていたものが移動したのであろう、と思われる.。1854年に広島に大地震が起きている
(干潮・満潮が二度起きたと記録にあることから、大きな津波の発生があった事が伺われる。2000名死者とある)
安政東海地震・嘉永7年(1854年12月23日、9時15分発生。   32時間後に安政南海地震が発生
安政南海地震・嘉永7年(1854年12月24日、16時30分)マグニチュード8,4~8,5の大地震
東予海峡地震・(1854年12月26日 9時~10寺)マグヌチュード8,4の大地震発生、わずか40時間後に発生している
厳島図会が描かれたのは、1842年である、描かれて12年後に大地震が発生している。
ホテルまことの前辺りは「大仏原」と言われていた、昔大きな大仏があった所
厳島道芝記には (大佛原)
「地御前の傍に百日送りて、島に帰る(産屋の事)、神前へは百日を経て後にまいるなり」とある。
(宮島服忌令の事)
まことの前の「山辺の小路」のカンバンのある所を入ると、  左手の石垣の上には「福寿院・真言宗寺院」があった

現NTTの場所には、「宮島劇場」があった。この劇場は明治8年の大鳥居再建時の足場を組んだ「残り木」で
建てたもので、前の広場には、「こうもり傘修理」「なべ修理」「げたの修理」「紙芝居」など多くの商人などが
集まり、また子供たちの遊び場でもあった所。
宮島張子(宮島民芸工房 田中氏)
対岸廿日市市には「廿日市張子」があり、約300年に渡り、大津屋(大島家)が作っている。現在は
伝統工芸品や郷土玩具として注文生産している。(翁・天狗・般若・おかめ・ひょっとこ、などなど)
この裏入り口の所に「梅の木」があり時期になると梅の花が満開となる。馬酔木の木が傍にある
藤井氏の家は「彫刻家」として有名な方であり、すぐ下にある「地蔵」は約20年以上前の自身の作
女人坂 乳地蔵の前辺りは、子供のかくれんぼ遊びの絶好の場所であった所、雪が降ると
スキーの真似事をして遊んだ所でもある。願いごとがかなう坂とも言われている場所
前の坂を「女人坂」と言う、地蔵が何体か祀ってある、
古神寺参道のカンバンもある。(古い神社・寺を経て厳島神社参拝をしていた)
猿瓦 地元の人たちは「大がんぶり」とよんでいた
この場所に小さなカンバンであるが「古神寺参堂」とある
山辺の小路 手前の屋根付近までは、漁船が簡単に出入りする事が出来た程の「入り浜」
だったから、魚を売買する市の事を「魚の棚」と呼ばれている

    りゅうじょうざんさいほうじ
宝寿院(ほうじゅいん) 真言宗御室派  龍上山西方寺と号し京都御室仁和寺に属す
天慶9年(946年)、開基と伝えられる真言宗御室派の古刹。旧護摩堂で天井には煙出し画ある。
この護摩堂の屋根には「宝珠」が載っている(厳島図会にも記載されている)
元文2年(1737)4月、大工山内権左衛門により建立(本堂旧護摩堂)
1802年(享和3年)の棟札がある。  また寺のすぐ裏手の山に「馬酔木(あせび)」
が群生していたことから「あせび寺」とも呼ばれています。本尊の秘仏・阿弥陀如来をはじめ、
数多くの仏像・仏画を所蔵。また像境内の聖天堂に祀られている歓喜天(聖天さん)は、
富(商売繁盛)を与えて男女仲睦まじきとなり、子宝に恵まれる神として有名。
鎮守神として歓喜天を祀っている
戒壇石(かいだんせき)・・・・・葷酒門内入るを許さず。どこの寺にも門の前にある
歓喜天は住職のみが定められた規則によって手入れをするので一般人は見ることが出来ない
出身はインド、仏教を守護する天部の神様です、韋駄天や技芸天はその兄妹だそうです。
姿は頭が象、体は人間、その歓喜天が女性と抱擁している像が安置されている、この女性は
十一面観世音菩薩なのである、観音様は歓喜天を仏道に導く為に女身になって、
「これ、歓喜天よ、もしこの私に触れたくば、私の様に仏の教えを守る人になりなさい、と言うと
歓喜天が誓ったのでその求めに応じて抱擁したと」伝えられている。少々艶かしい。
中央に「如意輪観音」・・・観音菩薩の変化身で六観音の一つと云われ、全て坐像か半跏像で片膝を立てて
座る六臂の像が多い。6本の手の内の2本に尊名の由来である「如意宝珠」と
    しょうめんこんごう 「法輪」とをもっている。
右に青面金剛・・・・・・・・・足元には邪鬼を踏みつけ、六臂で「法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショラケ(人間)」を持つ
忿怒相で描かれる。
左に大きな妙見菩薩・・・・北辰妙見菩薩とも呼ばれ、仏教における信仰対象である天部の一つである。
葛飾北斎 千葉秀作(北辰一刀流)・坂田三吉など

千手観音について(奈良興福寺、5mを越す像)。 他にも33間堂の千手観音あり
千手観音は多くが42臂(ひ)の立像である
臂は腕、国宝館の丈六級千手像はその、42臂千手像の一大傑作だ。
実数で千の手を持つ唐招提寺金堂の千手観音と見比べると良い
丈六は1丈6尺 立像だと485センチ 坐像はそ半分
腕が42本の千手像は、合掌する2本を除く40本の腕がそれぞれ25の実在社会へ手を差し伸べ、
衆生(しゅうじょう)を救済すると言う   
40×25で1000手。 40の手には、観音の功徳や霊験を象徴する法具・宝物・武具・化仏などが持たされている。
衆生とは、生命あるもの全てと言う意味  

屋根は二重の宝形造(ほうぎょうづくり)桟瓦葺きである、屋根一辺が5間(約9m)、と3間(約5m)
広島県内においては例がない、宮島で見られることは珍しい建物である 広島での呼び方

本堂(西方寺)は方形形の二重屋根になっている、江戸幕府が出した「倹約令」の対処として
この様になった。梁の長さを3間に制限。梁を3間、下屋根(下屋げや)を 5 間にして造った。(錣しころ)
廣島では例が無く、関東でよく用いた 1852年嘉永5年6月15日
第8代将軍吉宗の時代の享保の改革(1716-1745)
広島に原爆が落ちた後は、広島の似の島から、被爆者が多く移されてきた、ほかの寺にも被爆者が収容され
「町当局より、四斗樽一杯の、赤チンが届くがそれもやがて無くなる。」
この宝寿院と大聖院で2月3日の節分祭りに豆まきが行われる、この日を境に新しい年が始まると言われている

「我田邸(わがたてい)」、ガーデニングの家。 娘に書道家の「新谷直美氏」がいる
前の道を上がった所左手を「とりい松」と言い、大きな松の木2本の間に注連縄を取り付けていた
北之神社・北之薬師堂・魚の棚地蔵尊     ここまでの路を「お薬師さん通り」と言う
北之神社は厳島神社の末社で、主祭神は猿田彦神です、その下側の空き地には「称妙庵(尼寺)」
があり、今から去ること200年前、光明院15代「僧怒信上人」が老後の為に寺院を建立したものであるが、
2代目からは「尼」さんが相続していたので「尼寺」と言う。
眼の不自由な方が毎日菩薩参りをしたところ、徐々に眼が回復する兆しが見えてきた、この噂を聞いた
眼の患者が多く参拝する様になったところから「お眼目の地蔵さん」とも呼ばれている。
跡継ぎがいないので、全ての本堂や庫裏などは壊されました、しかし供養等・地蔵堂については光明院
が管理しています。対象15年の建立の「宝篋印塔(念仏供養等)」が建てられています。
神社と仏教に関する史跡が一箇所にあることは大変珍しい事です。

世界遺産と一般地の境界の杭(赤い頭のコンクリート柱)、山側が世界遺産地域

樅谷川(もみたにかわ)   平家落人の血なのか、陶晴賢の悔し涙なのか、川が赤い。(島根県・甲斐川)
 「苔」の話 ** 「たんすい・べにまだら」と言う「苔」が赤いので、赤い川に見える
紅藻類 この苔が自生する場所は「自然度の高い所」である
** 自然公園から、「博打尾峠」を越える途中にも、この「たんすいべにまだら」を
見る事が出来る。
桜町の延命地蔵尊
宮島に数ある地蔵さんの中では一番大きな「屋敷」に祀られている。「格子戸を開けると中には可愛い
顔をしたお地蔵さんが細い眼をして微笑んでいる、気落ちした自分を温かく癒してくれる、地蔵さん」
人間は優しいものには同じ気持ちに慣れるのは、又来るねと自然に会釈ができるから?・・・
地蔵際  新しい「よだれかけ」は、子供の幸せを祈って(願って)かける
古い「よだれかけあ」は幼い子供のいる家庭に差し上げると丈夫に育つと言われている、それで大切
に扱われていた。

光明院(こうみょういん)
本堂は寛政元年(1624)で浄土宗の本堂では県内現存最古の物である。(大屋根の建物)
室町時代、以八(いはち)上人が開基したと伝えられる浄土宗の古刹。(以八寺とも呼ぶ)
対岸の廿日市市の潮音寺に、「以八上人」の墓がある
浄土宗にて京都知恩院の末社、本尊は阿弥陀立像・阿弥陀三尊来迎図、は国重文。
町民の信仰のために建てられた宮島で最初の檀家寺です。宮島には壇ノ浦の合戦の際、
海に身を投げた二位の尼の遺体が有之浦に漂着したとう言い伝えがあり、現在の光明院の隣
にあった神泉寺に尼を弔って阿弥陀堂を建て尼の木像を祀っていましたが、神泉寺が廃寺
になり現在は本殿裏の三翁神社に弔っています。また“宮島の恩人”として名高い誓真和尚
が修行した寺でもあり、境内横には誓真大徳碑が建てられています
僧誓真の墓は対岸の赤碕にある、広島市西区土橋の浄国寺にも墓がある。 むなもん
尼の木像は、神泉寺ー光明院ー歴史民俗資料館と移り、現在は歴史民俗資料館に展示してあります
裏門は島内で二番目に古い門で(一番は不明門)、門の形式は「棟門」。 棟門は主柱2本
だけの簡略な門ですが、建築年代が江戸時代初期(17世紀)で極めて古い門である。
扉も開き戸ではなく、片引き戸である(右半分は板壁)、この様な形式は室町~江戸にかけて
多く見られたが、現在広島県内ではここのみ、国内では下関の長府と薩摩の知覧にあるのみ

神泉寺
もと天台宗で俗に「時寺」と言う、この寺の番僧に誓真と言う者あり、仏具・木魚等を作り、厳島名産の杓子も作る。
誓真は広島の人で厳島に来て僧となり、この寺に住み托鉢をして得た銭により、
「路を開き」「井戸を掘り」島民に利を得、させた寛政3年(1791年) 広島藩の賞揚がある。

本殿より西側では大元川や白糸川、御手洗川から水を引いていた、竹や木の管で水を水道管の様に引いていた。
島に唯一残っている、私設水道で「大西水道」と呼んでいた。・・・・・歴史民俗資料館参考
東側は水不足の為、「誓真釣井」が10箇所掘られた。
ここから、五重塔・千畳閣を経て、本殿へと行くことが出来る。

光明院の前を過ぎて、道なりにまっすぐ降りていくと、左手に「牡蠣祝(かきわい)」の出店があります。

秋はここからの眺めは最高です、また、平山郁夫画伯もここからの景色があまりにきれいなものだから「絵」を書いています。

ここから、時代に沿って簡単に宮島の歴史を述べてみます

飛鳥時代
593年 推古天皇元年、佐伯鞍職が厳島神社を創建したと伝えられる
平安時代
1146-1156(10年間) 清盛は安芸守になる(29歳の時)
1156(保元6年)4月 紀州高野山金剛峰寺(ぶじ)大塔の造営にあたり、落慶供養の日に老僧が現れ、
「越前の気比の宮は栄えたけれど、厳島はなきがごとく、荒れ果てて候、このついでに奉聞して修理させたまえ、
宮加階は肩をならぶる人天下にまたもあるまじきぞ」 と立たれけり。
「老僧から安芸の宮島神社の造営をすれば、官位昇進肩を並べる者天下に二人とあるまい」
との予言をされた。  越前国の一宮で、福井県敦賀市の「気比神社」
1160-1180(20年間) 正三位(しょうさんみ)の公卿になる。20年間で清盛は10回厳島神社を社参している。
1164年 平家納経を奉納
1167年 従一位・太政大臣になる、50歳(武士としては初めて)
1168年11月 清盛出家する(静海、清海と名乗る)
(仁安3年) 佐伯景弘は、本宮37宇 外宮19宇を造営。 この時神社内宮・外宮の外観を一新する。
従来、神殿以外は「板葺」であったものを、「檜皮葺」に改めている
厳島神社の造営が行われる
* 廻廊は113間あった、落慶法要では清盛をはじめ貴族達が「観世音菩薩」に扮し社司の奏でる楽に
合わせて舞いながら社殿を巡る「大行道会だいぎょうどうえ」が行われ、夜は松明を灯し廻廊や社殿に
居並ぶ僧侶が「法華経」を読誦する、参集した貴族達はそこに出現する「極楽」の様相に見とれ集まった
おびただしい群集はまたとない光景を眼にした。
1174年 後白河法皇、建春門院(滋子)参詣。 白川上皇になった時のお手植の松あり
1176年(安元2年) 145間  南86間 北59間 千層供養に際して増築をする
1177年 千層供養を催し、舞楽が演じられる、千人の僧が法華経を唱える。中宮徳子、社参する
京都、鹿ヶ谷において、平康頼、僧俊寛、藤原成経らが平家滅亡を企てる
    しかし、発覚し喜界が島に流される。
1178年 平徳子、安徳天皇を懐妊、 同年11月12日 安徳天皇誕生   
赦免(9月20日)にて康頼・成経が都に帰る

1179年 安芸の国の有力神社としてばかりではなく、石清水(いわしみず)、賀茂(かも)
春日社(かすがしゃ)など、同格の22社に加えようと発議され、我国の大社と
しての特性を強めていく
1179年8月 平重盛、病死する 42歳(1138-1179)
1180年 福原遷都
高倉上皇、厳島神社に参詣する
* 平安末期には島内には「内侍」のみが居住していた、その他の神官・僧侶は対岸の地御前に住んでいた。
1181年閏2月4日 清盛 享年64歳没  満63歳
1185年3月24日 壇ノ浦の戦い(新暦4月25日)

鎌倉以降
1207年 神社「社殿が火災」にあうが再建、完成を急がせる為、藤原親実が安芸守の守護
1208年7月 棟上を行う。
1215年(建保3年) 12月19日 完成 8年間かかる
1221年 承久の乱により、朝廷や公家勢力を弱体化させた、鎌倉幕府は各地に新たな
地頭を配置するなど権力を強化、更に佐伯氏に代わって、関東御家人の
周防前司「藤原親実」を厳島社神主にする。
藤原神主家は「安芸一宮」としての地位を確保する(320年間続く)
それまで在京していた、神主は安芸国の現地に下向して「厳島」を名字と称し、
武士=国人領主としての道を歩む事になる。
1223年12月2日 夕方「神社、炎上」。国司には造営を行う力が無く、その後12年間放置
1224年 朝廷 安芸国を厳島神社に寄進し、国司に社殿を造営させる
1235年 幕府 藤原親実を安芸国守護に任ずる
1236年(嘉禎2年) 外宮の遷宮を行う
1241年 内宮の遷宮を行う、この時は仁治2年(1241年7月)まで5年を要す。180間(1223年の火災に対して)
1243年(20年後) この仁治2年の造営社殿は以前にも増して荘厳なものであり、遷宮を3ヶ月後
に控えた段階でも内宮など未だに竣工していない建物もかなりあった。
伊都岐島社神宮等申状案には「宝殿具屋之華美超過雲泥也」と書かれている
仁治の造営では、回廊180間、平舞台120間とあり、平舞台が常設になっている
1274年・1281年 文永の役・弘安の役 蒙古襲来でともに九州北部が戦場となった
1286年 大鳥居再建
1287年 一遍上人 参詣、この時描かれた「一遍聖絵」は厳島神社の絵画の初見
1293年 元寇に際しては、異国降伏の祈願が行われ、「一遍」・「二条尼」などが参詣、
足利尊氏・大内義弘は造営料を寄進、更に、「博多の商人」からは釣燈籠・
「堺の商人」からは、36歌仙の図が奉納された。
1300年代後半、参詣人や商人たちが多く集まるようになり、島内に人が住むようになる。4月 180間(伊都岐島社来造殿舎造営料案)
1325年 大鳥居 台風により転倒する(楽房 平舞台 門客神社の倒壊もあった)
室町時代
1336年 足利尊氏 厳島神社造営料として造果保(東広島市)を寄進する
1371年 大鳥居が再建される
1376年 弥山御堂神護寺(大日堂)が造立される
1389年 足利尊氏 参詣する
1407年 五重塔が建立される
1523年 多宝塔が建立される
1537年 厳島神社の廻廊、大国社以西を焼失する
1541年 棚守房顕 大内氏の御師(おんし)になる 大土石流が発生
御師・・・参詣者を案内し、参拝・ 宿泊などの世話をする者

5月4日(天文10年) 土石流発生、大内義隆が再建を始めるが各地で戦いが続くなか再建はなかなか
進まなかった。後に毛利隆元による天神社の建立(1556年)が始まると、毛利氏
の援助で社殿の本格的な復旧が始まる。
御手洗川は本殿に流れ込まないように、神社の南側を迂回させ途中白糸川と合流
この時築堤が出来た為、反橋・長橋は短縮せざるを得なかった。
1546年6月 棚守房顕 高舞台を寄進
1547年 大内義隆 大鳥居を再建する
1548年(天保17年) 108間その後、毛利元就により回廊の床板が敷替えられた。こうして元亀の遷宮を迎える事になる
1550年 フランシスコ ザビエル 旅の途中に宮島に立ち寄る
(戦国時代、1493-1573までの80年間)
1555年9月30日~1日 陶軍は塔の岡、毛利軍は宮の尾城(要害山)に布陣、戦闘は1日で終わる
陶軍は、駒ヶ林・大江浦・青海苔浦へと敗走した
1556年 毛利隆元 天神社を建立する
1561年 毛利元就 大鳥居を再建する
1568年 毛利氏により観世太夫を招き「能」を奉納、仮の能舞台を作り舞う(穢れを祓う為)
1571年 厳島神社の本殿の遷宮(元亀の遷宮)が完成、
6月 元就死去、享年75歳
12月 (元亀の遷宮) 1568年12月末に和知兄弟の謀反により、兄弟が本殿に立て籠もり

本殿の修理・造営をする。出来上がり(遷宮)が1571年
元亀の遷宮以降、大内から毛利へと大きく勢力図が変わる時期にあたる
1591年 石田三成 九州下向中に来島する

江戸時代以降
1599年 毛利輝元 弥山神護寺大日堂を再建する
1600年 関が原の合戦
輝元に代わって、福島政則が入る  1605年能舞台を寄進
1601年 福島政則 厳島神社領を収公し代わって祭料・扶持米など1350石を支給する
1605年 能舞台を建立する。  108間 「厳島社間数目録」
1619年 浅野長晟が広島藩主になる、厳島神社に祭料・扶持米など1090石を支給する
1623年 (元和9年)、6尺間で108間「宮島舎堂塔布立下書」に記述。
1635年 宮島奉行設置
祭礼市が春・夏・秋の三季に行われる(桃花祭・管弦際・菊花際)瀬戸内・京都・堺から多くの商人が集まり、
「虎革」「白砂糖」など外国商品も商われていた。神社では「能」や「舞楽」が演じられ。特に雅楽が演奏される、
御座舟が対岸の地御前神社まで渡御する「管弦際」には、装飾を凝らした参詣船が多く集まり我国に広く知れる。

1625年 広島城下の材木町にあった娼家を島に移転、更に祭礼時には、「芝居」や「富くじ」
の興行が行われ、常設で「芝居小屋」が設けられ、近代文化の拠点・遊興の地
としての性格を強くしていく。これらは厳島図屏風に描かれている。
1643年 林春斎による「日本国事跡考」に三処の奇観と称され「日本三景」の一つになる
1666年 第3代藩主 浅野綱晟 毎月1夜づつ108基の燈籠に点灯するよう10石を神社に寄進
1680年 浅野綱長により「能舞台・能楽屋・橋掛」が寄進される
1701年 台風の来襲で管弦際の御座舟遭難する、江波・阿賀の船が救出したと伝えられる
1715年 光明院の僧恕信により「厳島八景」が選定
「山林」は、広島藩の管理下に置かれ、材木の切り出しや、薪が特産
1716年 大鳥居 倒壊
1736年 水害により流出した土砂で、御手洗川の河口に松原を築く
1739年 第5代藩主 浅野吉長 大鳥居を再建する
1743年 廣島 中島町の町人4人が 新提に108基の石灯籠を寄進し、西松原の原型が出来る。
1776年 第7代藩主 浅野重晟 反橋を再建
落雷で大鳥居倒壊する
1784年 誓真 幸町に井戸を掘る、以降町内各所に掘られた井戸は「誓真釣井」と呼ばれる
1794年 長沢藘雪 「厳島八景図」を描く
1801年 第9代藩主 浅野斎賢(なりたか) 大鳥居を再建する
1806年 伊能忠敬ら測量の為来島、大願寺を本陣として浦々を調査測量する
1842年 「芸洲厳島図会」を刊行する
1852年6月15日 管弦際に向かう「御供船」を見物する群集の為、廣島城下の京橋が落ちる
1853年 吉田松陰来島
宮島大芝居に「市川海老蔵」来演する
1866年9月2日 大願寺にて第二次長州戦争の休戦和平会談を行う、
幕府方は勝海舟 長州方は広沢実臣、伊藤馨、木戸孝允が参加
明治以降
明治初期 「後白河法皇お手植えの松」が切り倒される
明治元年 神仏判然令が施行される、宮島に大きな変化をもたらす事になる
1868年3月17日 明治新政府
1868年3月28日 神仏判然令発布
神社本殿の本持仏、十一面観音菩薩像は大聖院へ、また千畳閣・五重塔
の本尊も 大願寺に移された。
したがって、仏教的な様相を一掃し「国幣中社」として位置ずけられる。(正式には明治4年)
また、座主以下の供僧の務めていた「経絵(きょうえ)」は廃止され、経済的な
基盤を失った供僧寺院はほとんど廃寺となった。現在は官幣中社に位置付けられ(明治44年5月13日)
ている。(厳島の法会を担っていた、供僧寺院は廃業となる)
1871年、明治4年6月 「国幣中社」に列格される。この時千木・勝男木が新調される
1872年、明治5年 「千畳閣」で博覧会を開催、遊郭は退転し、富くじ興行も廃止、町は大きな転換を迫られる中、
各地の物産が出品されるなど新たな観光地としての模索が始まる
この年から、社殿の造営に際しては「県」に修繕許可を求め、その許可を得てから工事が行われる様に
なる。
更に「公式」に認められた「造営経費」の藩からの支給も廃止され、16世紀以来継続していた「大願寺」に
よる、「修理造営の権限」が無くなった。

1875年、明治8年 大鳥居を再建
1877年、明治10年 東京で「第一回国内勧業博覧会」が開かれ、宮島細工が出品され、
物産組合が造られ、「杓子・盆」などの木工製品の生産が本格化する
第五回は、19世紀末のパリ万国博覧会と重なる為、延期して開催する
1880年、明治13年  1月東回廊、7月西回廊の工事完成。この時期から回廊は「東西」に分けて呼ばれる様になる
1881年、明治14年 厳島神社の大修理が終わり、遷宮式を行う
1885年、明治18年7月31日
明治天皇御行幸 大聖院を行在所とされる 8月1日には対岸の廿日市に渡る
1887年、明治20年 大聖院火災により焼失する
1889年、明治22年 町村制施行により、「厳島町」となる
1893年、明治26年 関西と下関を結ぶ、中国航路の厳島への「定期寄港」の開始
1896年、明治29年 高浜虚子 夏目漱石 が来島する
1897年、明治30年(117年前) JR宮島口の開業
日清戦争では、広島から大陸に向かう将兵は厳島神社で戦勝祈願を行い
出発、帰還報告には宮島を訪れ杓子を土産に買って帰り、宮島の杓子
が全国に広く知れ渡ることと成る。
千畳閣・大願寺・光明院には広島予備病院転地療養所に成り戦傷者を収容した
1897年、明治30年(117年前) 古社寺保存法(後の国宝保存法、昭和4年)が制定



1899年、明治32年
岡倉天心・フェノロサ、など来島、神社・大願寺などの宝物や仏像の調査が行われ、
「平家納経」は「国宝」に指定される。
大鳥居・五重塔・多宝塔などの神社の重要な建物が「特別保護建造物」に指定
絵画・書蹟・彫刻・美術工芸など35点が「国宝」に指定される
それぞれの建物は、綿密な調査を基に創建時の姿に復元する工事が始まり、
明治の初めに改造されていた、本社の千木や勝男木も取り除かせ、回廊・祓殿
の絵馬は千畳閣へ移される。その後、刀剣・甲冑・舞楽面・能装束などが相次いで
国宝になった。「宮島は文化財の宝庫」と呼ばれるようになる。
1901年 厳島神社特別保護建造物修理工事(明治・大正の大修理)が始まる(明治34年から大正8年の19年間)
1902年 明治35年7月19日   本殿の千木・勝男木を取り除く
1906年 明治39年 伊藤博文らの寄進により、弥山登山道の修繕工事が竣工された
1909年 明治42年11月29日   強風の為、火焼前・左右の青銅製灯篭が倒れる(107年前)
1911年 明治44年5月13日    「官幣中社」に列格される(国幣中社列格より40年後)
大正時代
大正2年 造園の大家と言われた、本田静六が来島、地域振興作の一環として厳島公園改良の為、
地形・道路・植生の調査が行われた、
大正6年 チェコ人の「ヤン・レツル」の設計した「宮島ホテル」が落成する。
原爆ドームの設計者でもある
1923年大正11年 アインシュタイン 来島 弥山に登る
1924年、大正12年 「史跡・名勝天然記念物保護法」により全島が「史跡・名称」に認定される






















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旅行情報発信メディアでの記事執筆依頼 (Trip-Partner スカウトチーム)
2020-01-27 12:53:56
はじめまして。 弊社はTrip-Partner(https://trip-partner.jp/ )という新しい旅行情報メディアを運営しております。 弊社は貴殿のような内容に富んだ日本国内情報の記事を扱い、読者に読んで納得感あるメディアにしたいと思っています。是非貴殿に弊社のサイトでも記事を執筆頂きたいと思いまして、ご連絡差し上げました。報酬は1記事3000円~5000円を考えています。 もしご興味ありましたら範國(ノリクニ)宛(japan-director@trip-partner.jp)にメールを頂けますでしょうか? その際メールにブログのURLを記載頂ければ幸いです。 宜しくお願い致します。
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