知りたい宮島

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知りたい宮島 7 宝物館

2024年06月05日 09時31分14秒 | 貴方の知らない宮島
宝物館
昭和9年(1934年)建造、鉄筋コンクリート平屋造り、大江新太郎氏の設計によるものです。
国宝中の国宝といわれる、「平家納経33巻」をはじめ、「古神宝」「舞楽面」「能衣装」「刀剣」「甲冑」「絵馬」等美術工芸品54点を含む261点が所蔵されている。
 
明治30年、古社寺保存法(後の国宝保存法、昭和4年)が制定される
明治32年、岡倉天心、フェノロサなどが来島、神社・大願寺などの宝物・仏像の調査が行われる
        「平家納経」は国宝に指定される。

       フェノロサ・・・・ハーバード哲学科学、アメリカ東洋美術史家、東大から東洋美術学校設立に参画す   
       大鳥居・五重塔・多宝塔などの神社の重要な建物が「特別保護建造物」に指定され、それぞれの建物は
       綿密な調査を基に創建時の姿に復元する工事が始まり、明治の初めに改造されていた、本社の
       「千木(ちぎ)・勝男木(かつおぎ)」も取り除かれ、廻廊・祓殿の絵馬は千畳閣へ移される
       その他、刀剣・甲冑・舞楽面・能衣装などが、相次いで国宝になった。
       その為、宮島は「文化財の宝庫」と呼ばれるようになった。

入り口にある「厳島宝物館」と記した額は、明治38年、「九鬼隆一」の筆によるものである。

九鬼隆一・・・・・文部官僚として重職を歴任、「文部の九鬼か、九鬼の文部か」と言われる程の人物。
          貴族院議員も務めた男爵で枢密院顧問となっている。
          大鳥居近くにある、日清戦争時の戦勝記念日の文字も九鬼隆一が書いている。
入口横には、昭和26年に根継ぎをした、大鳥居の主柱を切り取ったものが展示してあります。周囲が約10mある楠です。


大鳥居の根継ぎが終わった後の、切り離した古い柱の塊、これをスライスした物が宝物館前に展示してある
平家納経33巻」・・・・長寛2年(1164年)に清盛が作った「願文」によると、願文には「平家納経を本殿に安置する」
              とあるので、清盛による厳島神社の造営は、「太政大臣」に任官する前までには完了していた
              と思われる。


「平家納経」は33巻からなるが、その大半は大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の経典の一つ「法華経」から成る
なぜ法華経信仰が貴族の信仰をあつめたのか?
* 法華経は全8巻28の詳説からなり、それをただ受け入れ読むだけで、功徳があると考えられていた。
更に「提婆達多品」では当時、罪深い存在と考えられていた女性も成仏できると説きこれが宮廷の女房ら、
女性から信仰も集める事になった。こうした法華経信仰に加え更に拍車をかけたのが「末法思想」の流行である。
釈迦の入滅後2000年後に仏法が衰退し争乱の時代が訪れるという思想で、承久7年(1052年)が入末法の年にあたる
と考えられていた。その為人々は末法の世の到来を恐れ、ひたすら極楽浄土への往生を願うようになった。
そして宮廷の貴族の間に「写経」が流行していった。
これは法華経の「法師品(ほっしぼん)」の中で「経文を写経すればくどくが増す」と書かれていた為で、貴族らは
仏の加護を得、極楽浄土への往生をひたすら願って「写経」に励んだのである。
やがて経文を写すだけでなく、華美な装飾を施した経巻を作れば一層の加護を得ることが出来ると言う信仰が
貴族らの間に生まれ、自らの財力をかけて経文に「美」を尽くすようになる。
これが「法華経」信仰への結びつき、更なる装飾、趣向を凝らしたものへと発展した。
* 一人一人が死後の極楽浄土への往生を願い、仏と縁を結んだ。 これを「結縁(けちえん)」と言い
この結縁の媒介となる「平家納経」の様な写経を「結縁経(けちえんきょう)」と言う
* 写経の文字は「金泥」「銀泥」「群青(ぐんじょう)」「緑青(ろくしょう)」の四色が使用されている。

* 長寛2年(1164)に清盛自身が作った願文によると、願文には「平家納経を本殿に安置する」とあるので、
清盛による、厳島神社の造営は「太政大臣」に任官(1167年)する前までに完了していたと思われる
(1164年9月には結縁32人揃って厳島に詣で、神社の十一面観音菩薩像の前に奉納する。
 翌67年(仁安2年)2月に太政大臣となり、般若心経を自筆で書き「奉納」している。)
仁安3年(1168年) 本殿造営

国宝・・・・・・・・古神宝類(後白河法皇や高倉上皇などが本社・客神社の神物として奉献されたものの一部)
及び松喰鶴蒔絵小唐櫃(まつくいつるまきえからびつ)佐伯景弘の奉納したもの
国宝・・・・・・・・・甲冑(小桜韋黄返威鎧・兜 こざくらきかえしおどしよろい) 源 為朝所用のもの。平安期のもの
紺糸威鎧(平重盛寄進)、 浅黄綾威鎧(あさぎあや)源 義家の甲冑
*一つの鎧を作るには約2000枚の木札(こざね)が必要である、この練皮を完全に干すには、夏からは
   195日、冬には265日の日数を要した。あらゆる部分を念入りに拵えるとすれば、2年近く要した
国宝・・・・・・・・工芸、金銀荘雲竜文銅製経箱(きんぎんそううんりゅうもんどうせいきょうばこ)平家納経を納める3段箱
彩絵檜扇(さいえひおうぎ)、  蔦蒔絵唐櫃(つたまきえからびつ)福島政則奉納
国宝/・・・・・・・刀剣   友成作(平安時代)、古備前派を代表する刀工の一人
能面  面が約 130点伝世している    狂言面 約20種 32点の面が伝世している
堤婆達多品」・・・・・・・女人成仏を説く
宝物館前(宝物収蔵庫前)には三十万円並びに御翠簾(すだれ)及び石灯籠、青銅製灯篭一基と刻銘された石灯篭がある

長沢蘆雪・・・・・・・・・・・丸山応挙に学び、応挙門下の俊才と云われた
              「山姥図」は寛政9年(1797年)広島の富士屋喜兵衛など、10人によって奉納された
              国の「重要文化財」に指定されている。

小林千古・・・・・・・・・・・明治3年、佐伯郡地御前村(現・廿日市市地御前)に生まれる、本名小林花吉
              18歳の時に多くの移民と共にアメリカに渡りカルフォルニヤで美術学校を卒業する
              更にヨーロッパでは黒田清輝などと親交し、帰国後白馬会に所属、日本洋画壇に鮮烈
              なデビューを飾りながらわずか41歳の若さで病没した。
              当時アメリカにおいては多くの百万長者が現れ「ミレー」風の絵を好んだ、千古もまた
              その様な絵を描くことによって生活がなりたっていた。
              彼の作風はミレーに見られるような「バルビゾン派」風であった。母校の展覧会で得た
              最優等エブリー金牌賞などを土産に、一旦28歳で帰国その後ヨーロッパに渡り、パリ
              ロンドンなどで画業に励むが日本画壇主流からは認められなかった。
              画風が時代の流行に合わなかったと思われる。
              特に代表作の「誘惑」「パッション」などは画題が内面的で難解だった為と言われている。

国宝・・・・・古神宝類(後白河法皇や高倉上皇などが、本社・客神社の神物として奉献された物の一部)
       及び佐伯景弘の奉納した、松喰鶴蒔絵唐櫃(まつくいつるまきえからびつ)
       甲冑、小桜韋黄返威鎧(こざくらかわきかえしおどしよろい) 源為義所有の物で平安期の物
       紺糸威鎧(こんいとおどしよろい) 平重盛の寄進
       浅黄綾威鎧(あさぎあやおどしよろい) 源義家の甲冑と言われている
       藍韋肩赤威鎧(あいかわかたあかおどしよろい) 大内義隆が「太刀・神馬」と供に奉納したもの

工芸  金銀荘雲竜文銅製経箱(きんぎんどうせいきょうばこ)、平家納経を納める経箱
     彩絵檜扇(さいえひおうぎ) 平安時代の物、蔦蒔絵唐櫃(つたまきえからびつ) 福島正則が奉納

刀剣  太刀・友成作。 友成は古備前派を代表する刀工の一人、「芸州厳島図会」には平宗盛公太刀とある

その他 能面が約130点伝世している。 狂言面 約20種 32点の面が伝世している。

通常は能書の誉れ高い公卿が清書をするのが通例であるが、願文の豊潤な筆至や筆運びの技巧から「清盛」の
技量の高さを知ることが出来る


平家一門32名により「一品経供養」の精神に基づき、一人一巻の写経を作っている(結縁経という)

平家納経
開経 無量義経
第一 序品         第十六 如来寿量品(にょらいじゅりょうぼん)
第二 方便品      第十七 分別功徳品 盛国
第三 謦喩品ひゆほん)     第十八 随喜功徳品
第四 信解品      第十九 法師功徳品 清盛
第五 薬草喩品       第二十 常不軽菩薩品
第六 授記品       第二十一 如来人力品
第七 化城喩品(けじょう)    第二十二 嘱累品
第八 五百弟子授記品     第二十三 薬玉菩薩本事品 盛信
第九 授学無学人記品     第二十四 妙音菩薩品
第十 法師品       第二十五 観世音菩薩普賢品
第十一 見宝塔品     第二十六 陀羅尼品(だらにほん)
第十二 提婆達多品     第二十七 妙荘厳王本事品 重康
第十三 勧持品(かんじ)       第二十八 普賢菩薩勧発品
第十四 安楽行品
第十五 従地涌出品
結経 観普賢経
阿弥陀経 清盛   * 1165年2月 太政大臣に為ったのを記念して奉納
般若心経 清盛  * 1165年2月太政大臣に為ったのを記念して清盛自筆の般若心経を奉納  
願文 清盛   * 他は1164年9月に奉納
する




**のある品は宝物館に展示してあります(但し副本)。願文は別に新語にて壁に表示してあります(3m位離れた所に展示)
なお、清盛が「平家納経」を奉納して以来、438年後の1602年(慶長7年)に新たに広島城主となった、福島正則(ふくしままさのり)がこの
平家納経の修復をしている。
前述の第22の、謦喩品(ひゆほん)と第7の、化城喩品(けじょうゆほん)である。この時の状態はかなり悪く「表紙と見返し絵」は傷みがひどく完全に新しいものに作り替えています
又、願文も以前のものとは違い、後年になって修復された物となっている。
。この時「福島正則」から絵の制作を命じられたのが「俵屋宗達」であった。

俵屋宗達は江戸時代初期の画家。通称は野々村 宗達(ののむら そうたつ)
宗達は尾形光琳と並び称せられる近世初期の大画家

なぜ福島正則は「平家納経」を修繕する等して手厚い保護を行ったのであるか?
考えられるのが、正則は幼少のころから豊臣秀吉の小姓(こしょう)として仕え、」側近として重用されていました。
厳島の詣で、千畳閣(豊国神社)の建立を命じた秀吉の側にいて秀吉同様、厳島を信仰するようになったとも考える事が出来ます。
また、ちょうど正則にとって神仏の加護を期待したい時でもあった事が要因ではないか。
当時、正則は42歳の厄年(やくどし)である。修復と言う徳を積むことで厄除けを行いたいと言う気持ちがあったのではないかと
推測できるかと思います。

*この後 仁安3年(1168年) 社殿の大改築と造営がある。 神主の佐伯景弘
西の松原について 大願寺の「松原」と呼ばれていた。                  経の尾一帯を「西崎」とも読んでいた
古くから砂洲や御手洗川からの堆積物で出来た松原です、清盛神社の裏から先は、昭和20年の枕崎台風での
土石流災害で出た土砂を埋めたてたものです。江戸時代初期までは存在しておらず、大願寺付近は
砂州(さす)になり、「熊毛の洲」と呼ばれていた。
1743年(1739年の土石流の4年後)に広島城下の商人4人によって、50丈(約150m)に及ぶ堤防が築出され
108の石灯籠が作られた。(271年前)       光明院恕信によってこの経緯を記した「大灯籠」が立っている。
天文10年(1541年)470年前土石流 元文4年(1739年)270年前土石流 昭和20年(1945年)9月17日土石流
枕崎台風被害 死者2473名 広島県内行方不明者2000名以上の甚大な被害になる。 対岸 大野町には陸軍病院がありましたが、約150名の方々も行方不明になっています。
200年に一度の割合で土石流が発生している。その土砂を西の松原に埋めている。(清盛神社のある場所)
1541年(約470年前)  1739年(約270年前)  1945年(約68年前) に大きな山津波が起きている
平成17年、白糸川土石流発生、この時の土石は18000㎥(10トンダンプ、1800台分に及ぶ)
清盛神社

西松原にある清盛神社は昭和27年が平清盛没後770年にあたり、その功績にを讃え
昭和29年に創建された。御祭神 平清盛の霊は三翁神社に祀られていたが、
清盛神社に遷された。(清盛奉賛会)毎年3月20日に盛大な清盛祭りをおこなっている。
一間社流造の玉殿の中に、御祭神が祀られている
昭和20年(1945年)9月に来襲した枕崎台風によって御手洗川に大規模な土石流が発生。
新たに堆積した大量の土砂を運んで、西の松原を延長し、有之浦・大元浦が埋め立てられました。
(枕崎台風により死者2473名、県内行方不明者2000人を越える甚大な被害であった)
巌谷一六
清盛神社に行く途中に御手洗川にかかる小さな橋の袂に大きな石柱がある
この石柱の文字は「明治の三筆」と称された、巌谷一六(本名は修)が書いたものである。
巌谷は滋賀県出身の政治家で、明治元年新政府の管使となり、内閣大書記官・貴族議員を歴任する
初めは「中沢雪城」に師事して「菱湖流」を学び、後に揚守敬(ようしゅけい)から六朝書法(りくちょう)
を学び、独自の書風を確立した(魏・晋・唐を極める)。明治38年(1905) 72歳で亡くなる。 明治天皇の書の先生
菱湖流 巻菱湖(まきりょうこ)、幕末の三筆といわれた人、将棋の駒に書かれている文字(タイトル戦に使用される
揚守敬 中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の「楷書体(かいしょたい)」の総称 高級な駒)
中沢雪城 巻菱湖の高弟で、「菱湖四天王の一人」である
現在も書道を目指す人の中には、巌谷一六の書いた文字を手本とする為、「拓本」を取りに来る人もあると言います。

    明治の三筆、とは
日下部鳴鶴(くさかべめいかく)
中林梧竹(なかばやしごちく)
巌谷一六(いわやいちろく)


ちなみに 平安時代の三筆

空海
嵯峨天皇
橘逸勢(たちばな はやなり)



































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