知りたい宮島

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知りたい宮島 詳細編 6

2023年04月28日 20時41分28秒 | 世界遺産
現在日本には約4700棟の国宝、重要文化財があると言われているが、その1/4を「檜皮葺き」「杮葺き」が占めている。
軒釘は、2500本/坪、平葺は4000本/坪 必要とされている。
しかし、高いのが難点で、坪当り50~55万円かかる、これは、ちなみに銅板・瓦葺の価格に比べると5~10倍

現在、重要文化財に指定されている檜皮葺の建物は約700棟(重要文化財以外も含めると1,650棟)あり、
700棟の維持に年間約3,500㎡の葺き 替えが必要である。

正面の裳階(もこし)
正面の軒の中央部分を切り離して、一段上げる、面倒な工法がとられている。平安時代の建物にはしばしば
見られるが、その後はほとんど構えられなくなった。誠に美しい軒で、「平等院鳳凰堂(宇治市国宝)」
「日野法界寺阿弥陀堂(京都市伏見区・国宝)」などがその典型的な例として挙げられる。

二重虹梁・蟇股
祓殿の拝殿側の妻は「二重虹梁・蟇股」になっている。大虹梁、二重虹梁と二重に架け、「その間に3個
の蟇股を用いたもので、奈良時代以来多く使われた形式で雄大豪壮な感じがする。
虹梁は、下の長大なのを「大虹梁」、上の短い方を「二重虹梁」と言う。誠に巧妙な構架法である。

蟇股
平安形式で輪郭の曲線は、宇治上神社(京都市・国宝)のそれと、同じである
拝殿・祓殿(舞殿)、は鎌倉時代の仁治2年(1241年)の再建で全国最古の建物です。
** 「影弘解文」と通称される、仁安3年(1168年)11月の「伊都岐島社神主佐伯景弘解」と
「伊都岐島社千層供養日記」は、平安末期の厳島社の社殿の様相を示し、かつ
それぞれの建物が当時の祭祀の中でどの様に使われたかを示す唯一の資料である
以下この資料に基づき、記述をする。

「影弘文書」によれば、厳島社の建立は推古天皇の時代の事である、この時従来の板葺きを全て桧皮葺に改め
更に金銅により荘厳華麗を施したと、述べている
仁平2年(1152年)に平清盛が再興、但し現在の社殿は貞応元年(1222年)から建立を始めて
寛喜2年(1230年)に遷宮したと報告あり(厳島野坂文書1896)
大宮御殿は将軍・足利義昭から毛利輝元に命じて中興し、元亀3年(1572年)に遷宮した。

この造営による厳島社の建物規模は、本宮37宇、間数300間。外宮19宇、間数77間となっており、
従来より「厳島社」の祭祀を司っていた「佐伯氏」は島内外にこうした大規模な社殿を造営する事で安芸国内
での地位を強固なものとし、中央政府との繋がりを深めていったものと考えられる。
以後の修理・造営に関する費用は「国司の重任の功」をもって充て、神主職は「佐伯氏」が継承する事も
「影弘文書」には述べられている。

** 社殿の構成については
本社(大宮)本殿、屋根は桧皮葺で「宝殿」と称される、又 拝殿(三棟造)で「影弘解文」には「二棟」とあり、
火災の後の再建で「三棟」に変更されたのかも知れない。
幣殿にあたるものは無く、祓殿にあたるものは、現在の客神社祓殿と共に「舞殿」と記されている。
これらの「宝殿」「拝殿」「舞殿」が現在の本社・客神社のそれらと同じ位置にあり、その他付属する建物との間
を113間の回廊が結んでいたものと考えられる。
この様な厳島の海上社殿に
➀ 承安4年(1174年)3月に後白河法皇。 10月には「一切経」の法会がおこなわれた
➁ 更に治承元年(1177年)10月には、清盛ら平家一門により「千層供養」が開催され「行道会」が行われた
➂ 治承4年(1180年)3月。9月と高倉上皇が参詣する。
この時の供は、入道大相国(平清盛)、前右大将宗盛、大納言邦綱、藤大納言実国、源宰相中将通親、
頭左中将重衡、宮内少輔宗範、安芸守在経、らであった.(源平盛衰記、巻23)

蟇股(かえるまた)について
祓殿の「蟇股」は平安時代末期のもので、特徴は左右が別々に作られている事です(二木造)、合掌造とも言う。
蟇股(二木造)
蟇股について更に詳しく触れておきましょう
二木造りは珍しくなかなか見ることが出来ないと言われますが、京都の宇治上神社と厳島神社は約1168年頃に作られた物と言われていますが、
一乗寺三重塔・醍醐寺本堂・中尊寺金色堂に見られる二木造りの蟇股は、時代が更に100年古く、約1065年位に作られた物と言われています。
又、見て比較するとよく解りますが、時代の古い蟇股は高さが新しい蟇股に比較して、かなり高い物になっています。
高さの高い蟇股は時代が古く、高さの低い蟇股は時代が少し下がり、100年位あたらしくなります。
又、刳り貫きのない 「板蟇股」と刳り貫きのある 「本蟇股」があります

寝殿造りについて触れると、
寝殿造りは社殿と中心に鳥が翼を広げたような形に、「渡り廊下」でつないで「対屋(たいのや)」を配し,前面には祭礼の場である「庭」、更に南には「池」を配する建築様式を言う

屋根は「桧皮葺(ひわだぶき)」
ここ厳島神社の屋根は全国でも珍しい、桧皮葺きに瓦を積んだ「化粧棟」となっています。
また、ツルが飛んでいるような優美な曲線を描いています。

本社本殿・客殿などは 五色の色(赤・白・青・黄・黒)が塗られています。これは中国の「陰陽五行説」に由来するもので
赤は 柱・梁・垂木  白は 壁などの板材(神社では漆喰は使用禁止です、お寺は漆喰の白い壁をしよう)
青は 窓や格子戸・連子窓(緑青に塗られていた)  黄色は 材木の木口 黒は 蔀(しとみ)・破風板の上の部材

祓殿で行われていた祭典は以下のようであった
当初は「直会(なおらい)」の場として使用されていた。
明治10年 「36歌仙板絵」 
明治29年 「長沢蘆雪の山姥図」他、多くの絵馬が「廻廊」「祓殿」にが掲げられていた、しかし明治33年に台風による大きな高潮が発生、
  絵馬が流出する事となる、その為現在は「千畳閣」に一部を掲げ、残りは保管(170枚の絵馬を保有・これは日本一の数です)
明治13年 厳島学校生徒の社篭(しゃろう)が行われ、ここで昼食を取る
明治24年9月 29年6月 宮島で「海軍兵学校の運動会」が行われ、ここで昼食を取る
明治29年2月(旧暦)晦日に「相立場」が行われた、これは従来大晦日に行われていた「年越相場」にならって始めたと言われ、
その後は「米取引」の形を取り入れた。「宮島相場」と言う、催しとし戦後はしばらく続いた。
明治29年10月 厳島町の各町内が社篭として、祓殿・楽房で酒宴を催した
明治32年10月 ここでの飲食の禁止、廻廊内を喫煙したままでの徘徊を禁止となる。
厳島小学校の「書道大会」も開かれ、
現在では「御衣献上式」や「市立祭」のお祓いなどの他に、諸芸能の奉納の場として使用される

明治4年には、千木・勝男木がつけられていた。
明治34年に「古社寺保存法」により、千木・勝男木が下ろされる
明治34年1月28日から大正8年7月までは、俗に言う「明治・大正の大修理」がおこなわれる(20年かかる)

高舞台(国宝)
舞楽が舞われる所です。桃花祭・菊花祭などで舞楽奉奏が演奏されます
舞楽とは、管弦による舞踏のことで、振鉾・陵王・納曽利・万歳楽・延喜楽・太平楽・抜頭など二十数曲が今なお厳島神社に伝承されています。(舞楽の演目は三十六曲ある)
この舞台の擬宝珠には、1546年(天文15年)棚守佐伯房顕(たなもりさえきふさあき)の銘があり、奉納した事が判ります。
(約468年前、本殿に近い方の一番左右の二つの擬宝珠に書いてあります)
ちなみに、この擬宝珠を造ったのは、廿日市の鋳物師で「久枝綱家」の作、五重塔の擬宝珠も同様です。
以下の文字が刻印されています。
「木帽子(擬宝珠)鋳奉檀那當棚守左近蒋監房顕天文十五年丙午六月」
きぼうし いたてまつる だんなとう たなもりさこんしょうげんふさあき てんぶんじゅうごねん ひのえうまろくがつ
檀那(だんな)・・・・・・施主のことをあらわしている。
左近将監(さこんしょうげん)・・・・・棚守代々の官職名
房顕(ふさあき)・・・・・・毛利元就時代の有名な棚守(現在の野坂宮司の先祖)

日本三舞台の内の一つで、大坂四天王寺の石舞台・住吉大社の石舞台を日本三舞台と云う。

舞楽は清盛が社殿を造営した時に、大阪の四天王寺から舞楽を厳島に伝えたのが始まりと言われています。
今日でも毎年正月二日の「二日祭」と三日の「元始祭」の舞楽は「天王寺楽所雅亮会(がくそがりょう)」の応援を得て行われている。
実は「舞楽鑑賞」の日にちは決まっております。
1月1日 歳旦祭(さいたんさい) 午前5時から  振鉾
1月2日 二日祭(ふつかさい)  午前8時30分から 万歳楽 延喜楽
1月3日 元始祭(げんしさい)  午前9時から 太平楽 狛鉾 胡蝶楽 陵王 納曾利 長慶子
1月5日 地久祭(ちきゅうさい) 午後5時30分から 振鉾 甘州 林謌 抜頭 還城楽 長慶子 
4月15日 桃花祭(とうかさい) 午後5時から 振鉾 万歳楽 延喜楽 桃李花 一曲 曾利古 散手 喜徳 陵王 納曾利 長慶子
5月5日 外宮の地御前神社にて舞う ここ最近は 陵王を舞う
5月18日 推古天皇祭遥拝式(すいこてんのうさいようはいしき) 振鉾 万歳楽 延喜楽 陵王 納曾利 長慶子
7月7日(旧暦6月5日開催) 市立祭(いちだてさい) 午前9時から 振鉾 万歳楽 延喜楽 陵王 納曾利 長慶子
10月15日 菊花祭(きっかさい) 午後5時から 振鉾 万歳楽 延喜楽 賀殿 一曲 曾利古 散手 喜徳 陵王 納曾利 長慶子
10月23日 三翁神社祭(さんのうじんじゃ) 午前10時から 振鉾 万歳楽 延喜楽 この時は神社裏手にある「三翁神社」にて舞楽を舞う
この実施日以外でも、神社に舞楽舞の要請をすると舞ってくれます、但し少しお金が必要ですが、平舞台は貸し切りとなり、一般の方々は
平舞台に入る事は出来ません(要請者の貸し切りになり、目の前で鑑賞できます)。
舞楽は、7月 8月 9月 の三ヶ月は「暑い」ので舞いません。

舞楽を舞う人が「舞楽を舞うのにこれ以上舞台が小さいと舞えない」と呟くのを耳にします、
これは以下の様な考えのようです。
「高舞台正面の幅はほぼ本社祓殿の中央柱間と同じ大きさである、本社祓殿の原形は仁安の造営(1241年)の「舞殿」
であった。
この舞殿の前に置かれた舞台(高舞台)を使って治承元年の千層供養の時には舞楽が行われた様である。
舞殿(現在の祓殿)の中には蓋高座が設けられた、この蓋高座を使って千層供養時には舞楽が行われた
この蓋高座を高舞台の元祖と考えると、舞殿(祓殿)の中に設置しても使用できる大きさでなければならない事になる、
すると、おのずと舞台の大きさも限られて小さな舞台になってのではないかと思われます。

旧暦の6月17日には「管弦祭」が行われると先に言いましたが、旧暦では6月が二度訪れる年があります。
この時は「居管弦祭」と言う、管弦祭が催しされます。
「居管弦祭(いかんげんさい)」とは、居ながら行う管弦祭の事で、御座舟は使用しません、
高舞台を利用して、平舞台の上で行います。
高舞台の前に船の帆先を付けて祀ります(高舞台が御座舟の代わりをします)。
三艘分の船の帆先は千畳閣に置いてありますので、
誰でも見ることが出来ます。屋形と高舞台の間に12ヶ月の造花つけて飾る。
1月は松 2月は梅 3月は桜 4月は山吹 5月は花菖蒲 6月は若竹 7月は萩 8月は朝顔 
9月は桔梗 10月は菊 11月は紅葉 12月は水仙 の花を飾る 。
この時は「鳳蓮」は移動しない(昭和5年・16年・35年・54年・62年に居管弦祭が実施されている.)
なお、この高舞台は平舞台の上に置いてある様に見えるが、実際は平舞台とは関係なく、
海底から花崗岩の柱を建ててその上に高舞台を造っているものです。

四隅の親柱の外側に直径4分(約5センチ)の穴が付いている。
これは「幡飾り付きの鉾」を立てるときに使ったものと思われる。こうした金具の取り付けは、
他の舞楽舞台には見られない装飾である

右楽房・左楽房(国宝)
舞楽の時に管弦を奏するところです。左右ありますが「舞楽」を舞う時には二つの流れがあります。
左の舞、・・・・インド・唐(中国)から伝わった舞を言い、
左舞を舞う時は左楽房で奏します「これを唐楽(とうがく)及び林邑楽(りんゆうがく)と云う」
右の舞、・・・・朝鮮半島から伝わった舞を言い、
右舞を舞う時は右楽房で奏します(「麗楽(こまがく)及び渤海楽(ぼっかいがく)」
衣装については
右舞・・・・・青色(緑色)衣装で金具は銀色で、メロデイで舞うと云われています
左舞・・・・・赤系の衣装で金具は金色で、リズムで舞うと云われています

平舞(ひらまい)・・・・優美な装束を着て4人以上で演じるゆったりした舞い
走舞(はしりまい)・・・華燭な装束を着て1人、又は2人で演じる
番舞(つがいまい)・・一つの演目に対して割り当ての演目が決まっている舞い
             例:蘭陵王の舞と納曽利、 延喜楽と万歳楽 の様に

舞楽面も厳島神社に伝わっており、平清盛が大坂の「四天王寺」から舞楽を移した時には、「舞楽面」が9面伝えられた
千層供養時には舞楽は24曲あり、その内12曲が現在も厳島神社で舞われている。

「舞楽」は平清盛によって、
大坂四天王寺(聖徳太子が開く)から約820年前に伝えられたものが現在も神職によって伝承されています。
左右楽房・左右門客神社は、清盛が神社を建立した時にはまだ存在しておらず、当時は簡単な建物を立てテントで覆うて、
使用していたようです。(是を幄舎(あくしゃ)とも幄(あく)の屋と呼んでいた。
幄屋(あくのや)・幄舎(あくしゃ)・・・・・・五色の布で出来た一種のテントで祭礼日に臨時に張られた  
参考
芸能が演じられる為には「場(舞台)」、「人(演者や見る人)」、「動機(目的)」が必要。
厳島においては、弥山原始林を背景に優美な社殿が海上に浮かび、この上ない「場」の設定がある
また神主や、巫女、楽人、舞人、役者、平家一門、や海上参詣する信仰厚い人々など多くの「人」
がいる。そして人々には神を祀り、一門の栄達や天下安穏・五穀豊穣・息災延命・海路の安全など
さまざまな祈りを捧げる「目的」があった。

ここ厳島には8百年余の伝統を持つ「舞楽」、4百年来演じられている「神能」がある。
厳島神社 舞楽 神能について
舞楽
現存する神社の伝統的芸能の内、厳島神社の舞楽は最も長い歴史を持っている。
清盛の参拝
仁安4年(1167年) 2月 9月。この年は平家納経33巻奉納、太政大臣に昇任する
承安3年(1173年) この年「舞楽面」7面が奉納される
治承元年(1177年)10月。 千層供養行われる(下記に示す)
治承3年(1179年) 1月 6月 
治承4年(1180年) 8月 10月
など、10数回にわたり宮島に参詣している。
清盛の度重なる厳島参詣の中で「舞楽」は招来されたに違いないと思われる。
すなわち厳島神社の招来は記録に表れた、清盛の厳島参詣の永禄元年(1160年)8月から
厳島舞楽の初見とされる承安4年(1174年)3月の間と考える。   みなもとすけかた
 後白河法皇の厳島参詣は承安4年(1174年)3月16日。建春門院・清盛・源質賢など
を伴って、京を出発3月26日に厳島に到着している。
これが後白河法皇の厳島参詣と厳島舞楽の初見とされている。
 「内侍2名が唐装束で舞楽の「五常楽・狛鉾」を舞う。
  前年の承安3年(1173年)には、舞楽面7面が奉納されている。
  いずれも檜の木彫彩色で、大型の薄手で軽く、都の当時一級の彫技によるもの。
  ➀ 二の舞(笑面) 尉(じょう) 平盛国が調達する
  ➁ 二の舞(腫面) 姆(うば)
  ③ 抜頭 尊勝寺の仏師の「行命」・・・平安時代後期に活躍した仏師
  ➃ 納曾利
  ➄ 還城楽 京都 六勝寺の一つ「尊勝寺」の舞楽面を模して厳島に調達
  ➅ 散手
  ➆ 貴徳

治承元年(1177年)10月の千層供養について
11日 清盛一行来島
12日 予行演習
13日 昼より次のように行われた
南廊  66間+仮設の20間=86間 に500人の僧侶
北廊  59間+客神社の拝殿、舞殿(祓殿)、粥座の他
院御所の殿上廊、朝座屋 などに500人の僧侶 を並べた
夜は「万燈会」が行われた。
大鳥居の外、社殿を囲むように東の宮崎と西の西崎から海中に柵を渡し、三尺間隔で上下二段
に松明を結び付け、対岸の浜にも数十町にわたって柵を設けて、五尺間隔で松明を結び付けた
更に千僧の座の後、一間ごとに大松明を立てるという大がかりなものであった。
松明に一斉に火が点じられると、まるで海底に火を敷き詰めたようであった。

当日(13日)は清盛、三位 らの上臈は早朝から参詣し、
左方 36人
右方 37人が「粥座」まで行進する。
内侍(妓女)たちによって「五聖楽(五常楽)、狛鉾」が舞われ、次いで「安摩・二の舞・
万歳楽・延喜楽・太平楽・皇仁・散手・貴徳・陵王・納曾利」の舞楽が奉納された。
15日
帰京の安全を発願する。恒例の一切経会が30人の僧侶によって、恒例の作法と順序で行われる。
この時の舞楽は24曲になるが、今現在12曲が舞われている。
➀ 振舞 ➁ 万歳楽 ③ 延喜楽 ➃ 陵王 ➄ 抜頭 ➅ 狛鉾 ➆ 太平楽
➇ 散手 ⑨ 喜徳  ⑩ 林歌  ⑪ 甘州  ⑫ 納曾利 
以上12曲が八百数十年を経た今日まで伝えられている。
また、曲目だけではなく先導する神宮の名や多くの舞人・楽人の名が書き留められている
(14日の千層供養)
平家一門を中心に神宮・象僧・妓女(内侍)・舞人・楽人を多数動員した「千層供養」「行道会」
「一切経会」が中央社寺の祭礼に勝るとも劣らない盛大な祭儀であった事が知れる。
12名の妓女(内侍)により「五常楽・狛鉾」などの女舞があったことも明らかである。
「春鶯囀(しゅんのうでん)・新鳥蘇・甘州・敷手」の四曲がこの時新たに習った曲であった。
この内「甘州」は、先に妓女による女舞であったが廃れたので改めて男舞として習い留めた。
清盛が帰京した後も「平三殿」は残り、厳島の人達に舞楽を伝授している。
15日の舞楽の内「納曾利」、奉楽の「太鼓」を平家一門の小松少将維盛が勤め、維盛の弟清常
に比定される、平三殿は「陵王・万歳楽・振舞・春鶯囀(しゅんのうでん)・抜頭」など多くの
曲を舞っている。清盛は藤原氏が支援する京都・奈良の舞楽に対抗して、大阪市天王寺の
「天王寺流舞楽」を厳島に移入してのではないかと言われている。
厳島と四天王寺の舞楽の関係は、平家の時代以来続き、今日でも毎年正月二日の「二日祭」と
三日の「元始祭」の舞楽は「天王寺楽所雅亮会(がくそがりょう)」の応援を得て行われている。

廊嘴(したさき)とも言い、平舞台から突き出た部分をいいます。名前の由来は諸説あるようですが、
昔管弦祭の時、御座舟が厳島神社に帰ってくる時に、ここに篝火を焚いて、是を目安に御座舟が入ってきた為とか、
空から見ると回廊がうねうねとまるで「龍」がうねっている様に見え、
その口先(舌先)の様に見えるので、火焼前・廊嘴と言ったと言われている。
参考
表参道商店街を出た所、左右の土産物店に挟まれるように注連柱があります、そこには以下の様に文字が書いてあります。
 かいろうさんようげんりゅうし  かひょうちゅうしんきゅうかくよく
海側には 「廻 廊 蘸 影 現 龍 姿」     山側には 「華 表 柱 深 休 鶴 翼」
蘸(さん)…・・・水中に入れる 水に浸す。  
現・・・あらわす、見えなかったものが見えてくる
 巖国老田塩谷處書、と書いてあるのが解ります
塩谷處・・・周防の出身で幕末・明治前期の儒学者。維新後福岡県の大参事(副・県知事)となる

大鳥居からの距離は「88間」あります
先端には、寛文10年(1670年)の銘のある青銅製の燈篭が、寛政9年(1797年)の築かれた石の台上にある、
左右門客神社の脇には、天明5年(1785年)銘の青銅製燈篭が二基並んでいる。
管弦祭の時にはここから、祖祭神を遷した鳳輦が浜に降りて、大鳥居沖に待っている御座船に乗せます、

平舞台、平らな屋根の無い部分を「平舞台」といいます。神殿造りの場合、前面に祀り事を行う庭があり、その前には池があり、
池には右側から小川が注いでいないといけない、と云う決まりごとがあり、その庭に当たる所は平舞台です、
前の大鳥居までの海を「池」に見立てています(玉御池と云う)。
束石は「赤間石」で毛利元就が寄進したといわれています。元亀2年(1571年)の「元亀の遷宮」に際しての元就の寄進
広さは「187坪」もあり、この平舞台は「束石」の上に載せてあるだけなので、台風などの高潮時には浮き上がり、その後は又元に戻ります。 
束石は全部で218基ありました。
 
平舞台は清盛の頃よりあり、その時は廻廊と同じ朱塗りの高欄が設けてありました.
1177年10月14日の千層供養では大勢の人々が極楽浄土の仮装をして行列を組み境内を歩く
「大行道会(だいどうぎょうえ)」の行事があり、その出発点が「平舞台」であった。

「元亀の遷宮」について
元亀2年(1571年)の本殿を遷宮している。本殿は3度建て替えていると、先に言いましたが、
1207年 本殿焼失8年後に遷宮   1223年 本殿焼失 遷宮は20年かかりました                                                                  
1568年 和知兄弟の謀反
(元就の長男・毛利隆元を毒殺したと言う、疑いのかかった兄弟が12月に本殿に逃げ込み 69年1月に本殿にて自刃する。)
 本殿が「血」で穢れたといい、建て替える。是を「元亀の遷宮」と呼んでいる
1571年 本殿遷宮終わる

この時の遷宮における「お金」は現在世界文化遺産に指定されている「石見銀山」からのものです。
銀の供給を受け(銭に換算して約26万両とも言われています)。
この時の石見銀山奉行は「平佐就之(ひらさなりゆき)」で後に(1584年)銀山の狛犬を寄進している。
この狛犬が大変珍しく、薄い銀の板数枚を繫ぎ合わせて作ってあります、大変小さな狛犬ですが、大きな目をした愛くるしい顔をしています、
切手にもなっています。かつて、神社の廻廊には多額の寄付をした、檀那の名を記した「棟札(寄進札)」が掲げられていました。
主に戦国時代 114枚の棟札が記録されていましたが、その内23枚(約20%)は石見銀山の住人によるものでした。
時は「菊花祭」の時におおく参詣しています。

石見銀山は、当時山口 北九州 遠くは備前辺りまで支配下にあった「大内義興」の武力下にあり、大永6年(1526年)
3月には、筑前博多の豪商「神屋寿貞」によって始められ、鷺銅山(さぎどうざん)の門」とそ銅主「三島清右衛の弟子
や「堀子」たちを連れて入山する。
1533年8月には「神屋寿貞」は南朝鮮から「慶寿」と言う銀吹師(かねふきし)を招き「灰吹精錬(はいふきせいれん)」
と云う新しい技術による精錬法式を伝える。この事により、銀山は目覚しい量産に入る(銀算出の歩留まりが大変高くなった)

灰吹き法による著しい銀の産出情報が伝わると、近隣の武将たちが狙い始めた。
銀山を目指して「大内氏」「尼子氏」が対立、大内氏が滅びると、銀山を巡る抗争は「毛利」「尼子」の熾烈な戦いとなる。
元就が完全占領するまで30年余り、激戦は8回にも及んでいる。

左右門客神社
清盛が厳島神社を造営した当初はありませんでした
鎌倉時代に新設され、室町時代に再々造られたものです。 門(もん)を司る神様で左右にあります。
厳島神社のご祭神をお守りする神様がいる所で、
右門客神社には、櫛磐窓神(くしいわまどのかみ)、 左門客神社には、豊磐窓神(とよいわまどのかみ)がお祀りされています。
中の玉殿は「見世棚構(みせだなかまえ)」の一間社流造(いっけんしゃながれつくり)になっており、
古くは戎社(えびすしゃ)と云う名で呼ばれ、俗に「沖恵比寿」と言っていました。
玉殿を良く見ると、細部にわたり違いが有ります、意匠・木鼻、等々
流れ造り・・・・・屋根の軒の長さが、手前と奥川で違います、手前が長い作りをいいます。
玉殿の屋根は栃葺きとなっています。

屋根の葺き方
杮葺き(こけらぶき)・・・・・・最も薄い板を使用する(2~3ミリ)
木賊葺き(とくさぶき)・・・・・杮葺きよりも厚い板を使用する(4~7ミリ)
橡葺き(とちぶき)・・・・・・・・最も厚い板を使用する(1cm~3cm)、大和葺き(やまと)とも呼ばれるが

大国神社(だいこく)
厳島神社の摂社にあたり、ご祭神は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」がお祀りされています。
時々、おおくに神社という人がいますが、正しくは「だいこく神社」です。
大国主命は、「国造りの神・農業神・商業神・医療神・縁結びの神」です
一段高い幣殿の右側が、昔 「神饌(しんせん)」の仮案所」で御本社裏の御供所から運ばれて来た神饌をここに置き
ここから先は「内侍」が運び本殿にお供えしました。
黒塗りの格子戸がありますが、これにまつわる面白い話があります
一説によると、大黒様は耳が不自由だったので、願掛けをする際には、この格子戸「コト・コト」と動かして、音を立ててから
お願いしないと願が通じないとも言われ、「コト、コト 大国様」とも呼ばれています。
なおこの神社は、「二礼四拍手一礼」となっています、神社本殿は二礼二拍手一礼、です。
四回も拍手を打つのは、お耳が遠いからと言われています。(ちなみに伊勢神宮の神官さんは正式には忍び手の八拍手です)
現在でも、四拍手の神社は、出雲大社(島根県) 弥彦神社(新潟県) 宇佐神宮(大分県)となっています。

長橋(国の重要文化財)
長さ33m、幅3m、橋脚には「赤間石(安山岩)」が使用されている。以前は「平橋(ひらはし)」と呼んでいましたが
明治11年に「長橋」と云う名前になっています。

橋を渡りきったところに、「石柱」があります. よく見ないとわかりませんので注意して見てください。
20センチ四角で高さは約130センチ位の石柱
明治の探検家、「松浦武四郎(1818-1888年)」は天神信仰に篤く、全国の「天神社」25箇所を参拝し、
明治17年10月に「聖跡25拝の石柱」を寄進しています。宮島は20番目です
北海道を命名した人。
以下、武四郎 について、簡単に触れておきます
松浦武四郎(1818-1888) 江戸時代の探検家 70歳没
三重県出身、 28歳の時に蝦夷地(えぞち)と呼ばれていた、
今の北海道に初めて渡る

アイヌ民族と寝食を共にし、協力してもらいながら13年間で6回の旅をし、
従来よりも詳しい地図や記録を残した。

明治の時代になり、蝦夷地の名を変える際に、
政府の役人となっていた「武四郎」が、
「北加伊道(ほっかいどう)」と言う名前から、
現在の「北海道」に決まる(1869年明治2年、8月15日)
「武四郎」はアイヌ民族の長老から、
「ここに生まれた人を、カイ、と呼ぶ」と教わり
「北にアイヌの人々が暮らす大地」の意味を込めて命名した。
アイヌ民族との親交がうかがえる。

札幌、富良野、など現在179ある市町村名の約8割が、
アイヌ語が由来になっているそうだ。
2018年は150年目の節目になる。2020年の東京オリンピックの年には
南部白老町(しらおい)にアイヌ文化の発信拠点となる

知りたい宮島 詳細編 3

2023年04月28日 20時38分45秒 | 世界遺産
富くじ・・・・1700年頃江戸幕府が始めて寺社に限り公認し、許可された寺社が修復費用調達のの手段として
発売した。寛政3年(1791年)に一時廃止となったがその後復活し、明治になり全国一律禁止になる
扶持米・・・・主君ら家臣に給与される米
山師・・・・・・山林の伐採や立ち木の売買を取り仕切る人。

「島のかおり」には以下の様に記述あり
大正15年(1926年)昭和元年、日本の人口は6000万人、杓子の年間出荷数が約1200万本(約234、000円)。
(* 平均家族を4人とすると、約1500万世帯、この時1200万本の杓子であるから、約8割のシエアーか?)
当時正月には各家庭で新しい杓子を使用する習慣があった為、特に12月は正月を迎え多忙であった。
この時の「挽き物(主に盆)」は約40万組出荷で金額は約80万円(単価2000円)であった。
杓子は一把・二把と数える。 1把は200本   単価は400円/1把
1981(昭和56年)~1991年(平成3年)までは、全国の70%のシエアーがあった
1993年(平成5年)後にプラスチック製の「抗菌杓子(イボイボのある杓子)」が発売され、8年間で300万本も売れる
ヒット商品になる。
明治~大正にかけて、宮島にあった杓子問屋は10軒前後、そのうち2軒が古く
1軒は「宮忠」・・・・初代宮郷忠兵衛の父親、宮郷保兵衛が「山師」との協力により、
 材料を島外から持ち込む道筋を作る
1軒は「宮豊商店」・・・現在は饅頭製造元「ミヤトヨ本店」として営業
  現在当主で5代目は宮郷武氏
  昭和50年(1975年)問屋業を廃業、紅葉饅頭の販売を開始

当時の宮島の名物と言えば、「五色箸」と「色楊枝」のみで、日頃から来島者が土産物
として持ち帰るものが非常に少ないと残念に思っていた「誓真さん」は役所からの通達
もあり杓子を製作し町民に模範を示した。この杓子は「誓真杓子」と呼ばれた。


大杓子
昭和53年島根県出雲から、長さ13メートルケヤキの原木を1300万円で町が買う
これを10mの長さにカット、2年乾燥、荒仕上げ、6ヶ月乾燥 その後制作にかかる
宮島で親しまれている唄に、「安芸の宮島、回れば七里、浦は七浦七福神」
の「浦は七浦七福神」から7.7メートルにした杓子職人「羽山忠(ただし)」氏により制作された。
顔の部分の3枚をつなぐボルトを埋め込むための穴あけに苦労したとの事(制作は包が浦の作業場にておこなう)
杓子完成後は桟橋をスタートして町内を練り歩いた
織田信長も行ったと言われる「七浦巡り」は、古くからの風習のようです

長さ7,7m 顔の部分上下2,7m 重さ2,5トン 材は樹齢270年の 欅
製作期間2年10ヶ月 製作者は 宮島細工共同組合 昭和58年(1983年)に製作
作ったはいいが、設置場所が無く、しばらくは「倉庫」に眠っていましたが、平成8年(1996年)に
世界文化遺産に認定されたのを契機に表参道商店街の中央に展示されましたが、
現在は新しい展示場(新設のコンベンションホールの表に展示予定)に設置されるまでは、倉庫に眠っています。

現在、宮島島内に来島される方々をお迎えする「コンベンションホール」を旧宮島庁舎を改築中です。
高さを7メートル低くし(景観が良くなる)来年(2020年)にはオープンになるのでは、となっています。
しかし現在は工事が遅れ、2021年になるかもしれません
この「コンベンションホール」の一画に「大杓子」を展示します。それまでは商店街から一時倉庫に保管いたします。
跡地には「企業協賛による、トイレ」が出来上がります。これにより、今までご不便をかけていた「トイレ」の問題も
少しは解消するのではないかと思われます、なお観光案内所も同時に出来る予定です。ちなみに総工費は約1億2000万円です
宮島の伝統工芸である「宮島細工」を後世に残すと共に、杓子発祥の地である、宮島のシンボルとして製作しました。
江戸時代には「色楊枝」「五色箸」など土産物としてありましたが、それ以外には主だった「土産」はありませんでした。
宮島の恩人と言われる「僧誓真(そうせいしん)」が厳島弁才天がもっている「琵琶」の形から杓子を考案したと伝えられ、
島民に作り方を伝授しました。世界一の大杓子。伝統工芸である、宮島細工を後世に残すと共に、杓子(しゃくし)発祥に地である
宮島杓子の特徴は、飯粒が付きにくく、木の匂いが飯に移らず、又熱によって変形しない。
最初の土産は「色楊枝」「五色箸」、特に色楊枝は参拝者は必ず買って帰るといわれた
色楊枝・・・・頭には「厳島八景の灯篭」「鹿」「猿」「桜」などが細工されている。しかし明治30年(1897)頃に姿を消した
挽物(ひきもの)は県の文化財で、轆轤挽き=刳物(くりもの)=彫刻、と移る
この時宮島に「轆轤技術」を伝えたのが、「小田権六」で1848年から1854年まで6年伝える
存光寺には小田権六の記念石碑があります、
又彫刻については、江戸時代末期に甲斐の国(山梨県)の彫刻師、「波木井昇斎(はぎいしょうさい)」
が木彫りの技術を伝えました。
明治20年(1888年)勧業博覧会で受賞し「宮島彫り」は全国に知られるようになりました。
宮島彫りは、「浮き彫り」「しずめ彫り」「線彫り」などがあります。

今 島内には「轆轤屋」が1軒あり、また 三代目で木工芸 日本工芸会会員の方の土産物店の店の奥で
材料から轆轤 製作まで一貫製作している「店」が1軒あります。探して?

海岸通りの「有の浦」に出てきました。
その昔、厳島八景の一つに数えられたところです(有ノ浦客船)。
松原の沖に白い帆を張った多くの船の美しさを、  
「つなぎよる たよりや有の 浦波に 泊定むも 船ぞ数そう」 風早参議公長卿 と読んでいます。
参議・「勅を奉じ宮中の政事を参議する意なり」とある。大臣、納言に次ぐ重職で8人(少数精鋭)。
1185年(文治元)3月24日(新暦4月25日)決戦後、壇ノ浦で平家が源氏に敗れた後、入水した二位の尼の遺体が有ノ浦に
辿り着いたと言われ、別名 「尼の洲」とも言う、島民は二位の尼の屍を「神泉寺」に弔い、二位の尼木像を祀っていましたが
廃寺となり、光明院に移されました。神泉寺は「時寺」とも呼ばれていました。(石碑あり)。安徳天皇(言仁親王ときひとしんのう)
現在は二位の尼の御霊は、三翁神社に祀られている。(木像は神泉寺ー光明院ー今は歴史民俗資料館に展示)
この時生け捕られた平家一門は、平高清(六代・妙覚で北条時政に捕まる)ら男38人(打ち首)、女官43人(女官は出家)、
(六代)は一時出家して許されるが、頼朝の「頭は剃っても、心は剃るまい」と言う命令で殺された(14歳の時)

三種の神器
後鳥羽天皇即位、・・・安徳天皇が退位しないまま、後鳥羽天皇が即位したが、天皇の象徴である三種の神器が無いまま
治生を過ごした後鳥羽天皇にとって、この事は一種のコンプレックス(?)になり、これを克服する為に強行的な政治姿勢を行い
これが「承久の乱」へと繋がった遠因になる。
後鳥羽天皇は太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚(せんそ)し、その儀式は剣璽関係を除けば譲位の例
に倣って実施された。即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、同様に神器のないままに実施された
既に上皇になっていた後鳥羽天皇は奇しくも三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇
に献上された剣を宝剣とみなすこととした。

践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐこと
太上とは、最上・至高の意味
"院宣(いんぜん)とは天皇の発する宣旨に相当する
"
天皇が移動するときは必ず、八咫鏡(やたのかがみ)を安置した「内侍所(ないしところ)」と「宝剣」「勾玉」も共に移動しました。
参考
壇ノ浦での戦いの模様
船は源氏方が3000艘、平氏方は1000艘で、唐船も少し混じっていた、(合計4000隻になるが、本当か?)
元暦2年(1185)3月24日朝、長門の赤間が関 壇ノ浦で陣を合わせた、間隔は3,58km(古代尺で30町余り)
源氏の船は潮に向かい押し返される、平氏の船は潮に乗って進む、平氏で阿波(徳島)の田口重能(しげよし)は
子息の教能(のりよし)を生け捕られ、仕方がないと思ったのか源氏に寝返った。
平氏は身分のある者は「兵船」に乗せ、「唐船」には雑兵を乗せて、源氏が唐船に攻め入れば取り込めて討ち取る
手はずであったが、この寝返りにより目算が狂う、源氏は大将軍が隠れ乗った兵船に攻め込んだ、
やがて四国・九州の兵も背き、天皇に弓を引き主君に太刀を抜く、源平の国争いも今日限りと見えた。
当日は午前すぎ西流れが最強となり、やがて東流に反転、同11時過ぎに最強に再び反転して午後5時過ぎ
西流が最強となった。
平氏は午前中から動き、当初東流にのって優勢だったが、源氏はよく防戦、午後3時過ぎから逆転した西流
にのって反撃平氏を壊滅させた。これは「玉葉」(九条兼実の日記)の「正午開戦、午後4時終結」と符号する。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、按察局(あぜちのつぼね)が安徳天皇を抱いて入水、
二位の尼は宝剣(雨の群雲の剣)を抱いて入水した、徳子(建礼門院)は傍で見ていただけとある。       
後に建礼門院(徳子)は、京都の「寂光院」で余生を過ごす。   
 天皇家は肉親を抱かない、お付(乳母・傅役(ふやく)に指示するだけ(宮廷の仕組み)
「愚管抄」では神璽(しんじ)、宝剣、安徳天皇を抱いて入水とある
「語り本系」(覚一本)と、「読み物本系」(吾妻鏡)の大きく分かれる
 語り本系  「覚一本」(平家物語・琵琶法師により全国に?伝えられる)
 清盛の命令で焼き討ちされた、南部の寺院を復興する国家的事業の中で成立する
 内容・表現には異なる異本が数多くあるが、最も流布したのが「語り本の覚一本」である
 読み物本系  「吾妻鏡」に代表される本
天皇が移動する時は必ず「八咫鏡(やたのかがみ)」を安置した「内侍所(ところ)と宝剣・勾玉も共に移動する
上卿雁木(石階段)
明治維新前までは厳島神社でも最も重要な祭事、御鎮座祭に際し、安芸国府中(現在府中町)
から、勅使(奉幣使ほうべいし)勅使代行役を務める、上卿(しょうけい)が来島する時にここから上陸していた。
勅使・・・・天皇・皇帝・王 など 国の元首が出す使者の事を言う
上卿は棚守・祝師(ものもうし又は、ほうり)などと共に、厳島神社を司る主要な神職の一人である
御鎮座祭・・・・12月初申日(さるび)に行われる。市杵島姫命が神烏と共に御降臨され、御 鎮座地を探される
に辺り、この地を治める佐伯鞍職(さえきのくらもと)に神勅が下った 。
上卿屋敷・・・・現在の「林家」で、大聖院に向かう通りにある
上卿雁木(石階段)の近くには、海抜2.5mと表示看板がありますが、大潮の時にはこの雁木の上部(歩道部分)にまで海水が上がってきます。
海抜とは、「海水面から測った陸地の高さ」と一般的に思いますが、
国土地理院(測量法)では、東京湾 の平均海面 を0mの基準面 としています。
基準面からの高さを標高とよびます。
また、近隣の海面(たとえば大阪湾など)からの高さは海抜とよびます。
基準点とは、 東京都千代田区永田町1丁目、日本水準原点
東京湾の平均海面からの標高 24.39 メートル
水準点 は正確 な高 さを求 める測量 をおこなうときに基準 となる点 です。
国土地理院で設置 した水準点は、約 2 万点 あります。
全国 の主な道路沿 いに約2kmごとに設置されています。対岸の廿日市にも2か所あり、
一つは外宮の地御前神社境内にあります。あと一つは廿日市材木港近くの陸橋の下に(国道2号線の横)にあります

ちなみに、江戸時代の広島藩の人口は以下のとおりである。
広島藩の人口  第8代藩主 浅野斉賢(あさのなりかた)の時代
文政12年(1829年)芸藩通志 刊  文政13年(1830年)58歳で死去
 浅野藩は12代(浅野長勲ながこと)まで続く
広島藩 戸数 人口 牛数 馬数 船数 1戸の牛馬の保有数

広島藩 154,235 726,113 64,408 9,907 7,499
安芸国 113,630 546,635 41,639 8,717 6,404
 厳島 1,028 3,734 0 0 79 0
豊後国 40,605 179,478 22,769 1,190 1,095

島で行なってはいけない事を書いておきます
参考
厳島の禁忌
古くから島自体が「神」として祀られている。鎌倉時代、神職が住みつき、南北朝時代をこえるころから
商人を中心に人々が生活を始めたが、神の島へ住むのであるから様々な禁忌のもとで生活を強いられた。
「厳島服忌令(宝永7年1710年)」は厳島の禁忌を集大成したものである、次の様な禁忌が示されている。
① 妊婦が産気づくと、対岸の大野赤崎に渡し、産後50日を過ぎるまでは島に帰ることを許されなかった。
② 島の東西には血山(あせやま)が設けられており、月経中の女子や赤碕から帰ってきた人を当分ここ
で過ごさせた。 イ、お産の場合は25日。 ロ、月経の場合は9日など、と定められていた
③ 死人が出るとただちに、神域を通らない様うにして赤崎に運ばれた。勿論墓は「赤碕」に建てたから
島には「一基の墓」も無い。これは今も存続している。
④ 鹿は「神鹿」として古くより保護されている。かつては「鹿を殺した者」は屍を背に負い、引き回しの上
追放された。犬は鹿の敵であり飼育を禁じられた
⑤ 農耕は「神体」へ鍬を入れる事として、許されなかったから、島民は生産に恵まれなかった。
誓真と言う「僧」は大願寺弁才天の「琵琶」にヒントを得て「杓子」作りを島民に教えた。

上記詳細は以下の通り
芸藩通史  巻17「厳島の風俗」の項に禁制事項として記している

1 島に絶えて五穀を作らず、菜蔬(さいそ 野菜の事))はよそより船に載せ来るを買うなり。
又紡績織紝(じん)のこともせず。此のことは明神の御誓ありとて土俗禁制の如く云ひ習はせり
毛利氏の掟にも布をり布さらす事を禁止するの條あり、古例を存せるなるべし、されば島内の
千戸の民、衣食乏しかるべきに、饑寒(きかん)の憂いなきは、みな神を仰きて、生理を成せり
神の恵大ならずや。
2 島に猿鹿多く市中に馴れ居る、猿は常に人家に入りて食物をぬすめども、これを罰せず、
但し神の供物にさはる時は、島人相集まりて狩り捕へ、牽(ひ)きまわして、能美島、
黒神島などへ放つ。
3 鹿は角切とて、八月頃海に牽き行き、船より角を鋸断す、角老いぬれば人に触の患あればなり、
又鹿の角は春落れど己が食物とするといへり、此の島にて、春に限らず、これを拾う事あり、
中にも袋角(ふくろづの)を得るを福とす。島に狗(犬)は飼わず、是鹿を害する故なるべし
もし里の狗(犬)渡り来れば、島民捕らえて地の方に渡すなり、また島に鹿を殺したる人
あれば、その死鹿を負わせて市を引き巡し、地の方へ渡すという
4 盗賊を捕らえれば、偽鬢偽眉(かたびんかたまゆ)を剃って地の方に渡す
5 島に一向宗の寺かつてなし、外より来り家するもの、まずこの宗旨を改めて後に住居
せしむとなん
6 島人、白木の箸を用いるるを禁ず、正月四日の祭祀に、白箸を神に奉献するゆえとかや、
されば五彩の楊枝、島の名産とす。

むかし市杵島姫の命が神烏(おがらす)と共に御降臨され、御鎮座地を探されるにあたり、
この地を治める「佐伯の翁(佐伯鞍職(さえきくらもと)、岩木の翁、所の翁」に神勅が下った。
お知らせ
2018年の花火大会、及び管弦祭は、中国地方を襲った「豪雨」により、中止となりました。
2019年は管弦祭は実施済、花火大会は実施予定(8月24日)です、お楽しみにしてください。

宮島を代表する「朱の大鳥居」ですが、1919年6月から1920年8月までの14か月間修理を行う予定です
しかし、他の人の意見では2021年までかかる、と言っています(柱の中が思った以上に腐食が進んでいる為と言っています)
8月になると、鳥居全体に覆いがかかります。しかし「スケルトンタイプ」のようですので、鳥居全体は見ることが出来ます。

宮島には古くから数多くの石灯籠(どうろう)が寄進され、今も夜景の演出に一役買っている。御笠浜の石灯籠には、
奉献者とともに「取次」として「大根屋好右衛門」の名が残っています、(弘化2年、1845年)。灯籠は地域貢献の証しでもありました。
また、表参道商店街の出口にも願主「大根屋芳右衛門」として明治29年(1896年)に寄進された石灯籠・常夜灯があります。

「華 表 柱 深 休 鶴 翼(かひょうちゅうしんきゅうかくよく)]  (右側 山側の主注柱)
「廻 廊 蘸 影 現 龍 姿(かいろうさんようげんりゅうし)」  (海側の主注柱)   と書いてある
これは、厳島神社本殿の回廊、及び大鳥居の姿を言葉にしたもので、
「大鳥居は鶴が羽を休めている姿に見える」「本殿回廊は竜がうねっている姿に見える」
と注連柱に書いてあります。
 蘸(さん)…・・・水中に入れる 水に浸す。  現・・・あらわす、見えなかったものが見えてくる
書いた人は、「塩谷處」
塩谷處(しおのやさだむ)・・・周防の出身で幕末・明治前期の儒学者。維新後福岡県の大参事(副・県知事)となる

この前の常夜灯の前には、地面に埋もれて解りずらいのですが、長さ約20mにも及ぶ「防潮堤」が隠れています。
平成3年の台風19号により、商店街に高潮が押し寄せ甚大な被害をもたらしました(人の膝上位まで海水が押し寄せた)
その為出来たものです(地面を良く見ると、白いパイプが埋まっています、ここを中心に防潮堤が起き上がります)。

ここからは、狛犬が出迎えてくれます。
右は「獅子」で左が「狛犬」です、一般的には両方あわせて「狛犬」とよんでいます、宮島には14対の狛犬がいます、

類聚雑要抄では、狛犬を次の様に言っています。
「獅子は色黄にして口を開き、狛犬は色白く口を開けず、角あり」
昔は、清涼殿の御簾や几帳の裾に鎮子として置かれていたのが始まりです、その後神社の本殿の前の幣殿の左右の
置かれました(屋内ですから木造で出来ていました、本物は対岸廿日市の国幣中社速谷神社の宝物館に展示してあります)。
現在宮島には14対の獅子・狛犬がいます。ブロンズ像が2対 木製が4対 石でできているもの宮島島内にある狛犬は現在13対あり
石造 7対 大元神社 雪舟園横、四ノ宮神社 大願寺 本殿裏 三笠の浜参道(2対)
青銅 2対 石鳥居横  平舞台
木製 5対 幸神社   御山神社(3対あり)、あと1対は、狛犬が京都博物館、獅子は宮島にて保管。
宮島町内の「石造物」に刻まれた「石工名」は48例あり
尾道24。 このように「尾道」の石工が大多数を占めており、近世から近代にかけて「尾道石工」の技術が高く
18世紀半ばから19世紀半ばにかけては「石工・山根(屋)」が活躍していた
「山城屋惣八」は作品の全てが「石造狛犬」であることから、「狛犬」を得意とした石工であった
が7対 探してみてください

幸神社には木造製の狛犬がおります、探して下さい
しかし、時代が下がるにつれ、幣殿より外に出、更には木造から石(又はブロンズ)に変化していきました。

狛犬を過ぎると、大きな石の鳥居に出ます。
この石鳥居は高さ9.8m 横幅11.5mあり、主注は一つの石(花崗岩)で出来ています、明治10年に、海の大鳥居にちなんで、
日本一の「石の鳥居」を作ろうと発願し、山口・広島・愛媛・北海道の信徒さんの寄付により作り始めました、
完成は明治38年で28年間かかりました(浄財がなかなかうまく集まらなかった為と言われています)
石は山口県の周防大島(岩国空港から南に約30分走った所)の東端、椋野の田尻から運んだものです。 
鳥居の種類は「明神鳥居」に分類されるものです。鳥居を「華表」とも言います。
大島は昔、屋代島と言われ、日本書紀によると11番目に出来た「島」、1番めの島は「淡路島」2番は「四国」と続く、
参考
周防大島(屋代島)
平家の総大将「平知盛」が山城を築城した島、荘園もあった。壇ノ浦の戦いの総大将
「古事記」によると、「イザナミ・イザナギ」により出来た日本の島。最初は淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐の島、津島、佐渡、
本州、の8つの島(大八島・おおやしま)。その後「日本書紀」では児島半島、小豆島、「周防大島」の、姫島、五島列島、男女群島。
6つの小さな島。11番目の「周防大島(屋代島)」は大変由緒ある島と言える。
「イザナミ・イザナギ、が天浮橋(あまのうきはし)に立ち、天之瓊矛(あめのぬぼこ)で台地をかき混ぜた。その矛先から滴り落ちた
 滴が固まって出来たのが、淡路島(おのころ島)」と言われている。

ここで鳥居の「言われ」について、諸説あると言われていますが、概ね次のようです。

「伊勢神宮の神の使いは「鶏」でありますが、神の使いである「鶏」は神社境内を自由に駆け巡り遊んでいたが、時々犬・猫が襲ってくるので
食事の時以外は安全な場所を求めて見通しの良い庭先に建っている「門」の横木に止まって休んでいた。そして神社を参詣する人々が訪れ、
お供え物を供える準備をしていると直ちに飛び降りて啄む、お供え物が無くなると元の止まり木に帰る、この事が繰り返されていました、
やがて庭先にある正面の門の事を「いつも鳥が居座っている門」つまり「鳥居」に変わったといいます。

中国では「城郭」・「官庁」又は「墓所」の入り口に建てる門を「華表」とよんでいます。
千畳閣の中には、明治8年に朱の大鳥居を再建した時に使用した、長さ16メートルの「華表尺度」が展示してあります、探してみてはいかがですか。

鳥居をくぐると、そこは「三笠の浜」になります、厳島八景の一つです、「御笠濱暮雪」と云い、積もった雪の美しさを詠っています。

さらに左の千畳閣下にあたる石垣は、豊臣秀吉の時代の石積で、広島県内最古の豊臣系の城郭の石垣です。

所々に大きな石を挟めて飾りにしてあります(この石を鏡石という)。毛利元就の領地で、豊臣系の石垣で「野面石の乱積み」です。
隅の巨大な「立石と古式な算木積み」は関が原の合戦直後の滅びた古い技法で全国でもわずかしか見ることが出来ない。
(三重県 松阪市の松阪城の一部がこの積みかたになっている)

穴太衆(あのうしゅう)の技法が入っていると言われています、
穴太衆は琵琶湖畔(比叡山山麓)の石工集団で信長の安土城築城を行う、熊本城、彦根城・広島城、九州熊本の通順橋などなどで、
現在は、第15代 穴太衆 粟田純徳氏
石の加工方法には、①打込接(うちこみはぎ)・・・石を成形し積む、②切込接(きりこみはぎ)石を完全成形し積む、③それと野面(のずら)とあります。
石の積み方は、
①布積(ぬのづみ)・・・横方向に目地がよく通っている(本殿回廊の鏡の池の後ろの石垣は、毛利・吉川元晴の技術によるもので特徴をよく表している。)、
②乱積(らんづみ)・・・横目地が全く通らない
③谷積(たにづみ)・・・石材を斜めに落とし込んだもの(明治以降)、④亀甲積(きっこうづみ)・・・6角形に成形した石材を積み上げたものを言う。
石垣の隅部(角のところ)の積み方
①算木積(さんぎづみ)・・・チャックの様に大きな石を交互に積む(慶長10年頃以降に確立した石垣隅部の積み方)
参考
この時熊本城の城壁は崩れ落ちたが、飯田丸五階櫓の建物の角の算木積の部分は残っていたのを、記憶されている方もいると思います
算木積以外の部分は、中に水の通る「水路」が設けてあります、したがって大きな雨量の場合は、今回の様に崩れ落ちる場合があります

隣に「トイレ」がありますが、入り口に格子戸が付いています。押すと開きません、手前に引くと開きます。これは鹿は入るのを防ぐための扉で
「鹿戸(しかど)」と呼んでいます。以前は商店の前にはありましたが、現在ではほとんど見ることがありません。
町屋通りの旅館ではまだ見ることが出来る所があります。

トイレの横には、縦1m、横0.8m 厚さ15センチ位の石碑があります(気が付くかな?)。
石碑には、「花嫁に 見せてやりたい 安藝なすび」とあります。これは神奈川県横浜の靴師 渡辺為吉氏の寄贈
鎌倉時代の和歌集【夫木和歌集(ぶぼくわかしよう)】には、「秋茄子わささの粕につきまぜて よめにはくれじ棚に置くとも」とあり
これが、秋茄子は嫁に食わすなの語源とも言われているが、どうでしょうか?。
*ネズミは別名「嫁が君(よめがきみ)」、「嫁(夜目)」とも言い、
 酒粕に漬けた秋茄子を美味しくなるまで棚に置いておくのは良いが、ネズミに食べられないように注意しなさい。
*「夏野菜のナスには体を冷やす働きがあるので、涼しくなってきた秋にナスを食べて出産を控えたお嫁さんの体が冷えすぎないように」という、
 姑さんのお嫁さんを気遣う優しさからの言葉もあり、また
*「秋ナスはとても美味しいので嫁なんかに食べさせるのはもったいない」という姑さんの意地悪な気持ちを表しているというもの
 諸説あります。

大鳥居の近くに、威海衛戦(いかいいえせん)・記念碑がある
日清戦争時の威海衛海戦における勝利の記念碑(現在の威海衛市・250万人都市)中国は三東省の三東半島、東部の市を言う
日清戦争の指揮官は「有栖川宮熾仁親王」である。広島に大本営があったゆえに連隊があった
明治27年7月~28年3月まで、広島に「大本営」が置かれた。明治27年9月15日には明治天皇が来広している。
威海衛の戦い(いかいえいのたたかい)は、日清戦争における戦闘である。その日本陸海軍共同作戦の目的は、
第二期作戦「直隷決戦」にむけて制海権を完全に掌握するため、威海衛湾に立てこもる北洋艦隊の残存艦艇撃滅と海軍基地の制圧にあった。
直隷(ちょくれい、直隷省とも) 明代から清代にかけて、黄河下流の北部地域を指した行政区画。
石碑には次のように書かれている
阿者れとも神を
  免天ませ大皇軍
かちし志るしのあたの矢玉を     藤原利昌
小泉甚右ヱ門
奉納 枢密願問官正三位勲一等 九鬼隆一・・・・古社寺保存会の会長。帝室博物館総長
九鬼隆一     宝物館の扁額の文字を書いた人
帝室博物館
明治22年(1889)~明治33年(1900)まで存在した
①東京帝室博物館 ②京都帝室博物館 ③奈良帝室博物館
帝国博物館の総称。現在の「東京国立博物館」の前身

常夜灯の横には、九鬼隆一の建立した石柱もある。 世話人は小泉甚右衛門
奉納 枢密顧問官正三位勲一等九鬼隆一

大鳥居の前に来ました
多くの方々が写真を撮っておられます。宮島写真さんは大鳥居の前の椅子を並べ、主に団体さんを撮っておられます。
その横に、海に降りる階段があります、藍屋講中が寄進した「常夜灯」の横です。 講については後段を参照してください。
階段横から2つ目の灯篭がいわれのある灯篭で、「ヘレンケラーの灯篭」と呼ばれています
個々の前に立ち、大鳥居を見ると、灯篭、松の枝、大鳥居がファインダーの中に入り、小グループの写真はここが一番です
参考
ヘレンケラーの灯篭
1937年(昭和12年) 4月15日 初めて来日、横浜港に着く(三ヶ月半日本各地を訪問する)
岩橋武夫氏(日本の社会事業家)の要請を受け来日する。
全国33都市、80回以上の講演を行い、8月10日アメリカに帰国する
* 昭和天皇に拝謁
* お土産に、秋田犬を送られる、名は かみかぜと言う

1948年(昭和23年) この時は2ヶ月間日本に滞在。広島原爆ドーム(広島浜井市長が対応する)、宮島を訪れる
1950年(昭和25年) これを記念して、社会法人「ヘレンケラー財団」を設立(障害者支援事業を行っている)
1955年(昭和30年) 三度目の来日
 訪日の目的は、1954年(昭和29年)に死去した、岩橋武夫氏に花を手向ける為
 勲三等瑞宝章を受ける
 この時も「宮島」を訪れている
1968年(昭和43年) 6月1日 87歳で死去 88歳の誕生日の4週間前であった。

*  1936年(昭和11年)10月20日 サリバンさん死去 ヘレンケラー氏来日の前年
したがって、日本に来た時随行した女性は、指話通訳者(しわ)の「ポリー・トンプソン」さんと思われる


知りたい宮島 詳細編 1

2023年03月25日 17時59分07秒 | 世界遺産
知りたい宮島の詳細編となります。

このブログでは、写真は掲載していません。宮島に関する「写真」は多くの方々が、ありとあらゆる写真を撮られておられます。写真を掲載することにより、紙面が少なくなるので、あえて、その様にしています。ご理解ください。JR宮島口フェリーに乗り、約10分で宮島に到着。  フェリーは2本あります、JRフェリーと松大フェリーです。松大は直行で宮島に向かいますが、   JRフェリーは途中「大鳥居」の前に大きく迂回してゆきますので、約15分かかります。
厳島神社についての話の前に、もともと、海の上に浮かぶかの様な厳島神社の社殿の造形のもととなった発想は?平安時代の後期「浄土教思想」の影響も考えられるところであり、「阿弥陀如来の極楽浄土の殿堂は、極楽の蓮池の上」にそびえ立っているのである。
宇治平等院の鳳凰堂も同じ機構で「池の中の島に建つ」、そうした構想を膨らませると、海上に建つ大殿堂となる阿弥陀の宮殿が蓮池の中にあんると言うなら「厳島神社は神の住む宮殿を壮大な海の中に造営したい」と言うのが清盛の崇高な発想であったと思われる。   宮島に渡り、桟橋を過ぎてからの、案内を順を追って述べていきます   日本三景の島「宮島」、世界文化遺産の島「宮島」、特別史跡・名称に選ばれている「宮島」   また、弥山頂上付近、180haは特別天然記念物に指定されている「宮島」、日本三大奇襲戦のあった「宮島」更には明治時代から昭和の時代にかけて、明治天皇、昭和天皇、上皇・上皇后美智子様 更には今上天皇・雅子妃殿下様が参詣に寄られた島「宮島」   神の島と言われた「宮島」、その為「人が住まないでいたことから、里山二次林が発達せず、この島特有の植物が育成」している    1500種もの植物が植生し植物の正倉院とも言われている「宮島」、これらの事は「植物学者」からも驚嘆の目で見られている島、「宮島」   モミ・ツガ・カヤ・ミミズバイがセットになって育成している所は世界中どこにもありません   絶滅危惧種の「ミヤジマトンボ」の生息地がラムサール条約に登録された(参考)、   (現在日本には53箇所あり、40番目に宮島が登録されている。)   海岸から海まで天然の砂浜がある場所も日本では大変珍しい島です、映画のロケにも使用されました。   宮島は降雨量は、年間約1674ミリあり 平均気温は15度前後の気候である   宮島は「奥」が深い島です、このブログを読み、皆さんの宮島についての知識に、新たに追加して頂ければ幸いです   安芸の宮島「厳島神社」は、推古天皇即位元年(593年)初申日に地元有力者・佐伯鞍職(さえきくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て三笠の浜に社殿を創建したのが最初と言われています。   諸説ありますが、この島は「斎島」といわれており、斎を「いつき島にまつれる神」という意味から、   原始宗教の名残で島全体が「神の島」として崇められていましたので、陸地に社を創るのは恐れ多いと言う事で海中に社殿を建立しました。   創りは「神殿造」で屋根は「桧皮葺」となっています。御祭神は天照大神の娘である宗像三女人の、  「市杵島姫命」「田心姫命」「湍津姫命」で相殿神は「国常立尊」「素戔鳴尊」「天照皇太神」、その他30数柱の神が祀られています。  「伊都岐島大明神」「厳島神社」等呼称され、現在に至っています。   伊勢平氏の流れをくむ「平清盛」はここ「厳島神社」を氏神にしました、   というのも平氏には正式には「氏神」がありませんでした、平野神社が氏神ともいわれていましたが、   この神社は桓武天皇との関係から「平氏の氏神」としての性格が濃かったのですが、   源氏・高階氏(たかしな)・大江氏の氏神でもあったのでした。       ** 平野神社 八氏(はちし)の祖神(八姓 はちしょう、とも言う) 1秋篠氏 2大江氏 3清原氏 4源氏 5菅氏 6高階氏(たかしな) 7中原 8平氏   清盛が久安2年(1146年清盛29歳)の安芸の守に任官され、その後平氏の氏神として尊崇し平家一門の権力が増大するにつれて、この社を尊崇する度合いも増し仁安3年(1168年清盛51歳)社殿を現在のような姿に造営しました。   安芸守(あきのかみ)・・・瀬戸内海は西国や九州・大陸からの産品が京へ入る最大の通商路で海上交通の要衝である                                               安芸守を支配する事で清盛は莫大な利益を得ることになる。是により平家一門の経済的地盤は強化された。   日宋貿易を推進したのもこの安芸国で国守の経験から得た物である。後の1156年保元の乱が起こる(この時は播磨守)   「この時には清盛は播磨守に任官」、経盛(1156年)9月17日 頼盛(1158年)と続けて安芸守に任官される   保元3年、清盛が播磨守になった事で、頼盛は清盛の知行国・安芸の国を受領する   国司(国守)・・・大国(13カ国)「播磨の守」 上国(35カ国)「安芸守」 中国(11カ国) 下国(9カ国)。地方行政単位である   国の行政官として中央から派遣された官吏、四等官である守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)等を指す   当時都からは、後白河上皇・建春門院・中宮徳子・高倉上皇・建礼門院をはじめとする貴族や皇族が訪れたので、都の文化や建築が宮島に入ってきました。   現在も厳島神社に伝承されている「舞楽」は清盛によって、約820年前に大坂の四天王寺から移されたものです。   社殿は自然災害により何度か建て替えられていますが、   清盛が造営した当時の姿を今に伝えています。(日本に寝殿造といわれる建物はこの厳島神社だけとなっています)   当時は内宮に37宇、鳥居4基。外宮には19宇、鳥居1基、内宮・外宮あわせて56宇と5基の鳥居がありました。   神の島と崇められていた為人は住んでおらず、社家・供僧は対岸の外宮から毎日通っていました(外宮は対岸の地御前にありました)。   内侍(他の神社では巫女という)のみは、内侍の館が築かれ住んでいたようです。   内侍については後段で詳しく説明を致します。   全部で56宇と5基の建造物があると言う壮大な建築物は、当時の藤原氏の春日大社に比較しても、   容積でいえば約10倍というから、いかに大きなものか(しかも海の中に建っている)驚きます。   なお仏教建築が混じっているのは、平安時代以降の神仏習合の影響であった、
明治時代以降の神仏分離以降では徹底的に仏教建築が取り壊されており、日光東照宮・厳島神社が往時の仏教建築を多く残す神社の双璧となっています。

神社本殿、幣殿・拝殿等17棟、大鳥居・五重塔・多宝塔・千畳閣からなる建造物群は6棟が国宝、11棟が国の重要文化財に指定されています。
(20棟は明治時代に取り壊しになっています)。
具体的に言うと、東回廊47間・西回廊61間(合計108間)・
本社本殿・幣殿・拝殿・祓殿、客神社本殿・幣殿・ 拝殿・祓殿、朝座屋、高舞台、平舞台、左右門客神社、左右楽房、火焼前、大国神社、天神社、能舞台、
能楽屋、反橋、長橋、揚水橋左右内侍橋などの建造物からなっています。
寝殿造りの場合「客神社」が釣殿(涼をとる場所)にあたるといわれています
入り口左側で「昇殿券」を購入して入ると、右側に「寛文2年(1689年)と記した手水鉢」がありここでお清めを行い、いよいよ東回廊の入り口に入ります、
入り口上部の屋根を見ると、簡素な切妻の屋根となっています。
普通は入り口は立派な構えになっているのですが、これは出口の西の回廊の屋根を見ると解ります、ここの屋根は「唐派風」の立派な構えとなっています。
昔はどうやら西の回廊が入り口といわれていた為、と言われています。
国宝回廊幅は4メートル、長さは262メートルあり、回廊の柱と柱の間を「一間(ま)」と呼んでおり、入り口から出口までは108間あります
(一説には107間とも言いますが、これは内側と外側の違いと言われています)。一間の間には「国宝の回廊板」が8枚敷いてあります、
また一間の長さは2,4メートルで昔の尺貫法では8尺になります。八は末広がりとも言われ「縁起の良い数字」と言われている為と思われます。
ここで「国宝の回廊」を土足で歩いても良いのと思われるかも知れませんが、
よく見ると「国法の回廊」の上に別の板が敷いてあります(養生板といいます)ので土足でも良いのです。
高欄(手すり)から外側に見えるのが、「国宝の回廊」です。昭和47年までは土足厳禁で、靴を脱いで入いるか又は、
入り口で「わらじ」に履き替えて入っていました。この時は職員の方達が出口から「わらじ」を入り口まで運ぶのが大変だったようです。

治承4年(1180年)までは、神様が弥山に滞在されるとされ、旧暦の11月から2月までの4か月間は登山禁止でもあった。
島は今から約6000年くらい前に対岸と分離して出来ました(大野瀬戸海峡は浸食によってできました)、また全島花崗岩で出来ております。
対岸の山々を見るとわかると思いますが、弥山(535m)とほぼ同じ高さの山々が連なっていいます。
中国地方は(兵庫県~山口県にかけて)は花崗岩の台地です。中国地方と四国の間には「中央構造線」が走っており、地質は全く異なっています。
四国から紀伊半島にかけては同じ構造体になっています。大阪 京都当りまでも一部は中国山地と同じ構造体になっています
瀬戸内海をよく見ると「灘」と呼ばれる数か所がありますが、これは昔地殻変動によって出来たものです、地図をよく見ると、広島湾の所だけ大きく北側に窪んでいますが
太田川からの流水による浸食により出来たものです、これだけ大きく浸食をしているところはあまりありません
その為、上流から「牡蛎」の餌になる植物プランクトン、窒素、リン、シリカ等が多く流れ込み、日本で一番の牡蛎の産地となっています。

参考 1
厳島が歴史書に記されるのは、「日本後期」(840年成立)弘仁2年(811)年の項に「安芸国佐伯郡速谷神、伊都岐島神」
とあるのが最初で、佐伯郡内に速谷・伊都岐島の神社があり、この伊都岐島神社が現在の厳島神社とされている。
更に「伊都岐島中子天神」「伊都岐島宗像小専神」(三代実録)との記述があり、800年代後半にそれぞれ鎮座地は不明
であるが、厳島神社周辺及び海岸部にはいくつかの神社が存在し、島が伊都岐島と呼ばれていた。
そして、厳島神社は「延喜式」(927年成立)に速谷神社(現在の速谷神社)・安芸群多家神社(現在の多家神社)とともに
「名神大」と位置づけられ、安芸群を代表する神社のひとつとなり、天慶(てんぎょう)3年(940)年藤原純友(すみとも)
の乱には追捕祈願が行われるなど、神の鎮座する島として他地域には見られない特異な歴史をたどることとなった。
参考 2
現在(平成30年10月1日)、廿日市市の人口は117、320人、世帯数52、241世帯
その内、宮島町は1.591名 849世帯
1995年(23年前)当時2.518人に比べ、927人減少(36.8%減)
昭和22年(1947年)当時は人口最も多くて5.197人で、平成17年に廿日市市に合併当初は1.944人であった。
宮島町は平成17年の大合併により廿日市市に編入合併、人気の観光地(宮島)を抱え込んだ事で廿日市市は
一躍観光都市となったが、来島者は増えても宿泊客は少なく、宮島の「経済効果」は今一つだ。
重要伝統的建造物保存地区(重伝建)の対称、約600件の内、2割強の130件が空き家となっている為
町並み保存に支障が出る可能性があるのが現状である。
鹿について
*人が鹿に餌を与えると、鹿は動かずして餌にありつける為、動かなくなり、ひいては健康に良くないと言う結果になります。
島内において、鹿の食べれる植物は少なく、食べれない植物が残っています。
① 有毒植物としては、アセビ シキビ
② 物理的な障害(トゲ等)で食べれない植物は、ホウロクイチゴ、コシダ、ウラジロ、カンコの木
③ その他(におい等)で食べらない植物は、ハスノハカズラ、レモンエゴマ、シバ 等々  がある。

重複するかもしれませんが、鹿について少し述べておきます
鹿の胃袋は4つあります。1~3の胃袋は微生物が住んでいます。4番目の胃袋は胃液が出てくるようになっています。
鹿は一日に約3~6キロの草(植物)を食べます。糞は1回で約100箇位出し、1日に12回廃糞します。
鹿は約1000種の植物を食べます。したがって、東北地方では寒い為、鹿の食害が少ないです。
鹿の角
4月から初夏に生え出し秋に完成し、翌年3月頃に抜け落ちます。
1歳・・・・1本の棒の様な角
2歳・・・・少し枝分かれする
4歳・・・・3本か4本の枝分かれした、立派な、角が這える。
鹿の寿命
オス・・・・4~6歳
メス・・・・6~8歳、が平均寿命です。
鹿の妊娠
餌が豊富な場合、1歳で妊娠します。1歳の秋には妊娠出来る様になります。

参考 3
鹿について
昔から「宮島」には 野生の鹿が多く住み着いています、現在全島で約500頭前後で推移(毎年11月にはボランテイアが数を確認)
お土産店辺りには、鹿が多く見ることが出来ますが、平成8年世界文化遺産に認定されたのを継起に「鹿の餌」が販売禁止となりました。
神鹿(しんろく)宮島の鹿は大昔から宮島に住みついており、神の使いで神鹿(しんろく)と呼ばれてきましたが、
山口大学の先生によると、鹿のDNAを調べたら、山口の鹿と同じであった。という事から宮島の鹿は遠く昔に山口から来た
鹿とわかりました。鹿については、人から鹿へ、鹿から人へ病気や寄生性の「動物やマダニ」などを媒介者とした、
ウイルス性の病気あり注意が必要(現実に山口県では何人かが死亡している、特に赤ちやんや幼児は注意が必要)
鹿の耳辺りは特に「マダニ等」の寄生虫がいるので、要注意であります。可愛いからといって、むやみに触らないほうが良い
かと思います
*人が鹿に餌を与えると、鹿は動かずして餌にありつける為、動かなくなり、ひいては健康に良くないと言う結果になります。
島内において、鹿の食べれる植物は少なく、食べれない植物が残っています。

① 有毒植物としては、アセビ シキビ
② 物理的な障害(トゲ等)で食べれない植物は、ホウロクイチゴ、コシダ、ウラジロ、カンコの木
③ その他(におい等)で食べらない植物は、ハスノハカズラ、レモンエゴマ、シバ 等々  がある。

植物について
広島県で見られる1/3強(732種)が宮島で確認されている。(県下では約2200種)

対岸の山並みを見ると、宮島の弥山の高さとほぼ同じ高さの山々が連なっています、昔は対岸と宮島は陸続きでした。(約6千年前)
浸食により出来た海峡です、大野瀬戸は対岸まで焼く1,8キロしかありません、海の深さもわずか7mです。
一番狭い所で対岸まで約500m、大潮の時は300m位しかありません。雄鹿は時々対岸まで泳ぎ着きます。
(島の反対側の呉、江田島方面の海の深さは80m前後あり、獅子岩展望台からは、海上自衛隊の船舶の航行を見ることができます)
宮島は神の宿る島、「伊都岐島(いつきしま)」と呼ばれており、昔しは人が住む事は出来ない島、「厳島」でした。
平成17年11月には、全国規模で実施された「広域合併」により、新生廿日市市(はつかいち)と
して、生まれ変わりました。それまでは佐伯群郡宮島町と呼んでいました。
この時の町の木は「紅葉」で、花は「馬酔木(あせび)」と言い、小さな袋状の花を咲かせます。
開花時期は2月下旬から4月の上旬です。珍しい「ピンク色」の花を五重塔の横で見ることが出来ます。
しかし[アセボドキシン」と云う猛毒を含むため、鹿は食べません
ツツジ科の植物には「グラヤノトキシン」、などの有毒物質が含まれています。
個々の種の有毒物質含量は大きく異なります。したがって中毒量の決定は難しいのですが、ネジキの場合、
牛では体重の1%の摂取で死亡すると家畜有毒植物学には記述されています。またアセビでは、山羊の場合、体重の0.1%の摂取で中毒が起きます。
広島県では「ミヤジマ」でしか見る事の出来ない極めて稀な植物があります。
① ミミズバイ(ハイノキ科) 広島県内では極めて稀で瀬戸内海では宮島でしか見る事の出来ない.7月の20日過ぎ暑くなる頃、
白い花が咲き、花が咲いてから2年半かかって実が熟す.牧野博士によると、実の形が「ミミズの頭」に似ているから
ミミズバイと呼ぶそうです.宮島のミミズバイは分布の北限に近い貴重な存在であります。
   *  紅葉谷-博打谷にかけてありモミ・ツガ・カヤ・ミミズバイがセットになって育成している所は世界中どこを探しても無い
   * モミ ツガ冷涼を好み、常緑針葉樹  カヤ ミミズバイは熱帯系植物
② サカキカズラ(キョウチクトウ科) 葉が榊に似ている、県内では大変珍しく宮島以外では知られていない。
宮島付近が分布の北限で寒さに弱い、花はあまり美しいとは言えないが種子は見事である、
2個の果実がくっついて角のように成長し長さ6~7cmになる。3月頃にはその果実が裂けて美しい
白い花をつけた種子が飛び出す(タンポポのような種子が風に乗ってフワフワと飛ぶ)
③ カンザブロウの木(レッドデータブック) 山口にある  
宮島は分布の北限、8月下旬に白い花を咲かせる、正月過ぎに黒い実が熟す
④ トサムラサキ(クマツヅラ科)レッドデータブック  延岡 愛媛   実はやぶムラサキの1/5位の大きさ
宮島で一番美しい果実(紫の果実がびっしりと付ける)、弥山干満岩に大木あり、大変珍しい木で
広島県では宮島でしか見る事が出来ない。渓流沿いに多く咲く、弥山・干満岩に大木あり
⑤ ホウロクイチゴ(バラ科) 沖縄では野鼠が実を食べに来、それをハブが捕食する、近づかない 2
大きな葉を焙烙(ほうろく)に例えたとも、本土側や他島では極めて稀で個体数も少なく、
日本の木苺(きいちご)属の中では葉が大型である。
⑥ オオカナメモチ   沖縄 岡山(綜合グランド) 大変珍しい木 バラ科常緑小高木で南西諸島にかけて
  点在的に分布がある、徳之島のみ自然自生が確認されている。樹高は5から10m
  になり、材は印材や細工用で樹皮から昔は鳥もちを得た、
  葉は大きい(10~20cm)のでこの名がある。水族館前にあります
⑦ 大元公園のモミの原生林、標高300m以上でしか自生しない木が沿岸部に、しかも巨木となっている

昨年後半から、今年(今現在)は外国人観光客の方達の来島が大変多くなっています。昨年は外国人の観光客は約30万人でしたが、
今年はどうやらその2倍位の観光客こられる予定です、今年に入ってからは「昨年に比べ明らかに外国人観光客」が増えています。
なり東京オリンピックにむけて、外国の方々の来島を島内挙げて歓迎しています

アメリカの旅行サイトの「満足度ランキング」でトップが、ここ世界遺産の宮島です。
更に、最新の調査で、寺や神社を含む世界遺産の内、行って見たい所はどこですか?の問いかけに対しては、
第一位が「古都京都の文化財」で38%、 第二位が宮島「厳島神社」で32%となっています。
桟橋を抜けると、すぐ左手に「日本三景の松」が植樹されています、なかなか気がつかない人が多いようです、
宮島と天橋立は「黒松」 松島は「赤松」です、この三箇所に共通するのは、 松・海・牡蠣と寺・神社です。宮島・松島は「冬牡蠣」 天橋立は「夏牡蠣」です。
更に良く見ると、横に「紅葉」の木があります。この木は大変変わった木で、毎年11月20日前後にと、「赤」「黄色」「緑」の三色が同時にでてくる珍しい紅葉の木ですが、
残念な事に心無い人によって枝が折られ枯れてしまいました。水族館の前の「大元公園」に2本あり、全島で2本されています。

黒松の花の開花時期は4月25日頃、赤松は1週間後れの5月始め頃になります。
(黒松・赤松の二種は松葉の針葉が2本の二葉系、ハイマツ・キタゴヨウマツ・ヒメコマツは五本の針葉の五葉系となります)
「松」は万葉の頃から常緑の樹姿を美しいとされ、日本人の心の伝統の中に高貴の象徴とされて着ました。
宮島は当然、厳島神社。天橋立は智恩寺 松島は瑞巌寺 となっています

参考 4
「牡蠣」について
広島は牡蠣の養殖は全国の60%を占めています。
なぜ牡蠣の養殖が盛んになったのか、それには広島は牡蠣の要職に適した3つの条件があるからです。
①海水温度、 水深5メートル付近での温度は、夏で25度 冬で20度が最適でこの様な条件が揃うと牡蠣の活動元となる
       「グリコーゲン」が蓄積されていきます
②牡蠣の餌、 広島湾には太田川が注いでおり、この河川から「牡蠣の餌」である、植物プランクトン、窒素、リン、シリカなど
       が多く含む海となっている。
③海水の塩分濃度  牡蠣は濃度の薄い海水を好む(0,8%~3%位)、太田川からの河川水が広島湾に注ぐ事で海水濃度は年間2.3%
       に保たれている(通常の海水の塩分濃度は3.5%であることに比べると、その濃度の薄さがわかる。

農林水産省の漁業・養殖業 生産統計(2016年)では、
広島県のカキ・・・・10万2000トンで全国一位
都道府県別の生産量で言えば
宮城県・・・・・・・2万1417トン
岡山県・・・・・・・1万3746トン
広島県の呉のみでは・・・2万2966トン

広島県のカキ生産量が突出している事が判ると思います。

更に広場に出ます。この広場は昭和51年に海だったところを埋め立てた所となっています。
目の前に岩肌の小山が見えますが、「潜流門」といいます。このトンネルの前は「海」でした。
すぐそばには、雁木がありました。手前の「コーヒーショップ」の横は、埋め立て前は、かなり広い沼地(湿地帯)でした
トンネルを抜けた所(食堂 山一の方向)の辺りは、海岸線は3m位の小さな道でした、当然前は海でした。
広場には「平清盛」の像が立っています、平成26年3月20日に来島者の方々の寄付により出来たものです。
東の方角を臨んでいますが、これは昔の都(京都)の方角に当たります。更には来島者の方々を歓迎する意味からでもあります。姿は僧ですが、
これは清盛が50歳の時(1167年)太政大臣まで上りつめた後、出家して「浄海(じょうかい)」を名乗っていた時の姿です
静海(じょうかい)とも言います、テレビ放映等では「浄海」と言っていますが、
台座は花崗岩となっていますが(よく見るといろいろの色があります)、参考5
宮島は全島が花崗岩の島であり(前述参考)、この花崗岩の鉱物の粒が大きいので、風化するとばらばらに崩れて
石英や長石などで砂を作る、石英は透明で、長石は白色や桃色です。黒雲母は小さいので全般に白砂に見える。
参考 5
花崗岩の成分は以下のとおり
① 石英(灰色をしている)。   宮島は「水晶」の産地であった. 瀬戸内で最も多く取れた。(薄茶色)
大聖院の観音堂の前には大きな水晶(透明に近い色)が置いてある、宮島で採取したものではない
② カリ長石(ピンク色)。 花崗岩の大きな特徴、 カリウムが入っているからカリ長石
 花崗岩はマグマから出来る、地下20~30キロで出来る。温度は850°~900°あり、
 1、冷える時に割れ目(節理)が出来る。立方体でキュウビックの様な形で割れたもの
 2、日本列島全体に大きな力が加わって、ある時地下深い所で割れたのではないか
   と言う考え方
 御影石には「カリ長石」は入っていない(厳密には花崗岩と違う)
カリウムは「マントル」の中には少なく「地殻」の中に多い物質
岩は節理に沿って割れる
③ 斜長石(白色)。 ナトリウム、カルシュウムを含んだ鉱石
④ 黒雲母(黒色)。 小さいけど「鉄」を含んでいる処がある
山陰地方の花崗岩は「鉄(磁鉄鉱マグネタイト FE3O)」を多く含む、・・・・・・・たたら製鉄の発達。
同じ花崗岩でも磁鉄鉱を多く含んでいる
ハガネ(鉄と炭素の合金)で強い
花崗岩が硬い石であったら「たたら製鉄」は出来なかった。
花崗岩が風化して「磁鉄鉱(砂鉄)」が出来て、そこで集めて鉄を作る。
山陽地方の花崗岩は「鉄にチタン」が入ってくる。(チタン鉄鉱イルメナイトを含む)

     風化すると、鉱物が自分の形を崩して別の鉱物になる

ねんど鉱物になる。 斜長石は「ねんど鉱物」になりやすい
「黒雲母」「カリ長石」も風化しやすい

しかし、「石英」は風化しない。・・・・残っている
石英だけが残る、小さな砂粒になっているのは、ほとんどは「石英」
高い所は侵食される、対岸と宮島はほぼ同じ位の高さで、この間に「段差」があり
風化しやすくなる、紅葉谷も風化しやすい方向に割れ目(断層)が出来る

水が浸み込んでいって「粘土鉱物」に変っていく。

中国地方は標高500m位の台地が広がっており(チビ高原面)、花崗岩でできており、表面下100m
位は風化しているので、土石流・崩壊、がどんどん起き、災害が発生する。

宮島の花崗岩の特徴は「割れ目」があるということ
割れ目を「節理(自然の裂け目)」と言う、きれいに割れている状態。・・・野面石の表面がきれい

花崗岩のある所には「石英」があり、石英のある所には「金」があると書いたが、
水(熱水350度~500度)があって、マグマがあってであるが、少しpH(ペーハー)が変ると、
元素がそこに集まってくる。
金は石英と一緒にあることが多い。
岩脈等に、小さな割れ目があると、そこに熱水は入ってきて、石英の細かい物が集まってくる
そこに「金」が集まる。

金の採掘に関しては、どの位の量があれば採算が取れるのか、と言うと
約 5g/1トン これだけあれば、採算が取れるといわれている。
地殻の中には「金」の含有量は少なく、「核」の中には「金」を多く含んでいる
** 「核」の金からドーンと上にあがってきた(マグマ)やつ、その中に「金」が多くある
日本には、佐渡金山 が2000年くらい前には多くの金の含有量があった。世界的にも「アフリカ」にも金山あり
現在、日本には、鹿児島県の「菱刈」には、多くの金を含んだ「金鉱山」が在る
1981年、住友鉱山が発見した金鉱山で、30~43g/1トン の金を含んでいる。
* 2019年3月の時点で、242.2トンの金を産出し、今も年間6~7トンの金を産出している
オーストラリア・パースでの産出量は、3~4グラム/1トン当たり。となています
その前は串木野が金生産量は日本一でしたが、現在休山となっています

今では珍しく、めったに見ることが出来ませんが「白い狸」が多くいたと、地元のお年寄りから話を聞きました。
以前 実際に私も夕方8時ころに桟橋前広場の「日本三景碑」の近くで白い狸を見ています。
昭和30年前後には宮島にも多くの狸を見ることが出来ましたが、最近は夕方から夜半にかけて時々見るくらいです。

日本三景の碑が見えてまいります。
寛永20年(1643年)儒学者 林春斎(はやししゅんさい)によって書かれた「日本国事跡孝」
の中において、「三所の奇観」と紹介し、後に 福岡藩の儒学者、貝原益軒が元禄2年(1689年)に出した
「安芸国宮島景勝図并記事」の中で「日本三景」と云う言葉が初めて使われ、それ以降「日本三景」と呼ばれるようになる。
貝原益軒は儒学者でもあり、博物学者でもありましたが、江戸時代有数の「旅行家」でもありました。
「東路記(あずまじのき)」「己巳紀行(きしきこう)」などにまとめられています。
これらはその後の「紀行文」に大きな影響を与えた名著としても知られています。
「日本国事跡孝」・・・・・現在のルルブの様な「観光本」です、本物は「歴史民俗資料館」において
             展示してあります、大きさは縦20cm横10cm位の本です
ちなみに、新日本三景は①大沼(北海道)②三保の松原(静岡)③耶馬溪(大分)となっています。 大沼は宮島と同じ「ラムサール条約」にも登録されていますね。
現在日本には52箇所ありますが、宮島は40番目に登録されています。「みやじまとんぼ」の生息地です
2018年には東京都江戸川区の葛西海浜公園と宮城県南三陸町の志津川湾の2か所を候補地として登録申請し登録される見通しとなりました。
更にすでに登録済みの兵庫県豊岡市円山川下流域は、国の特別天然記念物「コウノトリ」の野外生息数が増えた為、区域を2倍近く広げることとなった(1094h)。
これにより現在日本のラムサール条約登録湿地帯は15万4696haになっている。
宮島のラムサール条約に登録されている湿地帯に生息している「ミヤジマトンボ」の数は330匹から420匹位です。
世界でもここ宮島と香港に一部に生息しているのみで、世界希少種になっています。
ミヤジマトンボはシオカラトンボの1/3位の大きさのトンボです。生息の湿地帯は秘密になっています。
  絶滅危惧種の「ミヤジマトンボ」が生息しており、その湿地が平成24年(2012年)の7月3日に、参考4
ラムサール条約に登録されました。(平成25年8月1日「宮島ラムサール条約連絡協議会」発足)       
 生息数は平成25年 432匹  26年327匹  の確認がある 
 *会長 広島工業大学 上嶋英機教授   副会長 村上光春(宮島パークボランテイア会長)
 *日本は1980年(昭和55年)「釧路湿原」をラムサール条約湿地
 として条約に加入、現在では52箇所、 15万4696千ヘクタールの条約湿地がある、宮島は40番目の登録
参考 6
ラムサール条約
水鳥の生息地等として国際的に重要な湿地及びそこに生息・生育する動植物の保全と
賢明な利用を促進することを目的としています
平成30年10月21日(日)~29日(月)にドバイ(アラブ首長国連邦)で開催されました
ラムサール条約第13回締約国会議にて、我が国から新規に登録する湿地の候補地
及び登録区域を拡張する湿地の候補地について。
環境省は2日、国際的に重要な湿地を保全するラムサール条約の新たな登録候補地を決定した。
 
葛西海浜公園(東京都)と志津川湾(宮城県)の2カ所で、今月中旬にも登録される見込み。
これで国内の登録湿地は52カ所となる。
同省が同日、中央環境審議会(環境相の諮問機関)の小委員会に報告した。
葛西海浜公園には多くの水鳥が越冬のため飛来。登録されれば東京都としては初めてとなる。
志津川湾は500種以上の海洋生物のえさ場や生息地として知られる。 
環境省は2日、国際的に重要な湿地を保全するラムサール条約の登録地に、
東京都江戸川区の「葛西海浜公園」(367ヘクタール)と
宮城県南三陸町の「志津川湾」(5793ヘクタール)を新たに登録すると発表した。
21日からアラブ首長国連邦のドバイで開かれる締約国会議で正式決定する。
日本の登録地は52カ所(15万4696ヘクタール)となる。

葛西海浜公園は東京湾にある干潟。高度成長期以降、生活排水で水質が悪化したが、下
水道の整備のほか、カキやアサリなどの繁殖によって水質改善が進み、
約2万羽のガン・カモ類が飛来するようになった。

しかし水質改善に取り組むNPO法人「ふるさと東京を考える実行委員会」の
関口雄三理事長(70)は「増えた水鳥が貝類を食べ、再び環境が悪化する恐れもある。
水鳥も大事だが、海の生物多様性全体を考えるべきだ」と懸念を示す。

一方、志津川湾には、海流がぶつかり合い、
寒い海のマコンブと暖かい海のアラメなどが共存する珍しい藻場がある。
東日本大震災に伴う津波で海藻が流された場所があったが、
その後生息地は回復に向かっており、登録に支障はないと判断した。
参考
福沢諭吉(大分県中津出身)、慶應義塾創設
九州耶馬渓、絶壁がそびえる「競秀峰(きょうしゅうほう)」の岸壁沿いの難所、ここを行く人馬が命を落とす事に心を痛め「禅海」
は30年かけて「青の洞門」を完成させる。
福沢諭吉はこの地が売りに出されている事を知り、心ない者に買われて絶景が損なわれる事を懸念、中津に住む義兄の名義で
約1.3ヘクタールの土地を3年かけて少しづつ購入する。後にすべて国に寄付をする。
1923年(大正12年)に国の名勝に、1950年(昭和25年)には、耶馬日田英彦山国定公園に指定される。
「禅海」が青の洞門を掘った事に着想を得た、菊池寛の小説「恩讐の彼方(おんしゅうのかなた)」はこの地を一躍有名にした。
現在の「景観保全運動」の先駆けとされる。
諭吉による、「学問の勧め」は、天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。
元々、市立学校設立に際し、当地の若者に学問の重要性を伝えようとして書いたもの。
江戸・築地の中津藩中津屋敷の長屋を借りて「蘭学」を教えたのが「慶應義塾」の始まり。

隣には
世界文化遺産碑があります。今年で登録後23年になりました。
平成8年(1996年)メキシコ メリダ市で行われた、第20回世界遺産委員会で正式に
「世界文化遺産」に登録が決まりました。同時に広島の「原爆ドーム」も登録されています。
メリダ市 メキシコ東南端の魚の尾びれの様な形をした半島で、メキシコ、ベリーズ(旧ホンジュラス)、グワテマラ
の3か国が存在する
4世紀から10世紀にかけて「マヤ文明」が栄えた土地である。


知りたい宮島  詳細編  2

2023年03月25日 17時58分51秒 | 世界遺産
世界遺産とは
「世界的に価値の高い、人類共通の自然・文化遺産を各国が協力をして保存を図る」と言うものです。
参考
世界遺産登録数の推移(1978年-2018年)
西暦年号 登録件数 西暦年号 登録件数 西暦年号 登録件数 西暦年号 登録件数 開催地
1978 12 1991 22 2004 34 2017 21 ポーランド・クラクフ
1979 45 1992 20 2005 24 2018 19 バーレーン・マナマ
1980 28 1993 33 2006 18 2019 29 アゼルバイジャン バクー
1981 27 1994 29 2007 22 2020 中國  福建省福州市
1982 24 1995 29 2008 27
1983 29 1996 37 2009 13
1984 23 1997 46 2010 21
1985 30 1998 30 2011 25
1986 31 1999 48 2012 26
1987 41 2000 61 2013 19
1988 27 2001 31 2014 26
1989 7 2002 9 2015 24
1990 17 2003 24 2016 21 トルコ・イスタンブール
小計 341 小計 419 小計 300 69 1129 現在は1121か所が世界遺産登録
以上であるが、世界遺産が合併したり、登録を抹消された世界遺産もある為、(登録数合計=世界遺産総数ではない)
世界遺産登録が始まった1978年以降の登録物件数の推移は上記である
各国が推薦した物件の世界遺産リストへの記載の可不可は毎年行われる世界遺産委員会で決まる。
近年目立つのが推薦の取り下げだ、と言うのも世界遺産委員会では各物件について「登録」「情報紹介(追加資料の提出で再審査が可能)」
「登録延期」「不登録」の4段階の判定を行うのだが、ここで「不登録」の決定を受けると再推薦が認められなくなる。
この為イコモス(国際記念物遺跡会議)やIUCN(国際保護連合)が事前調査を行って提出する評価報告書の内容が悪いと
推薦を取り下げる事が多くなっている。

宮島の世界遺産
具体的には、厳島神社社殿群、社殿の前の大鳥居までの海、神社本殿裏の弥山原始林(天然記念物指定)
で全島の約14%(面積は431,2ha)です。
2014年は「富岡製糸」が認定されました
2015年は「明治日本の産業革命遺産」が新たに認定されました。
(九州5ヶ所、佐賀・長崎・熊本・鹿児島・福岡。山口、岩手、静岡)
2016年はトルコ・イスタンブールにて行われた会議で国立西洋美術館(本館)が認定されています。
2017年はポーランド・クラクフにて沖ノ島が登録されました、
2018年は、バーレーン・マナマにて長崎・天草の潜伏キリシタン関係を申請し登録されました
2019年の世界遺産は、アゼルバイジャン・バクーで行われ、文化遺産の「大阪府の百舌鳥・古市古墳群」が決まりました。
これで国内には23か所の世界遺産があります。
自然遺産19か所 自然遺産4か所です
世界遺産は今回2001年以来、最も多い29か所が追加認定されました
文化遺産 24か所(869か所)  自然遺産 4か所(213か所) 複合遺産1か所(39か所) 全部で1121か所となります。  
第一位 はイタリア・中国55件)第三位はスペイン(48件)第四位はドイツ(46件) 日本は12位(23件)です
令和元年 5月15日 朝日新聞
今年は「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されました
ユネスコの諮問機関「イコモス」が世界遺産への登録が正式に決定
世界遺産登録候補 百舌鳥古墳群 大山古墳「仁徳天皇陵」
百舌鳥陵山古墳(みささきやま)「覆中天皇陵」
田出井山古墳「反正天皇陵」
ニンザイ天皇陵     など
古市古墳群 誉田御廟山古墳(ごんだごびょうやま)「応神天皇陵」
仲津山古墳「仲姫命陵(なかつひめのみこと)」
岡ミンザイ古墳「仲哀天皇陵(ちゅうあい)」
市野山古墳「允恭天皇陵(いんぎょう)」
軽里大塚古墳「白鳥陵」       など
中でも「仁徳天皇陵」として知られる大山古墳はおなじみだ。前方後円墳 の形をしている。
その他巨大な古墳が次々と造られた4世紀から5世紀後半には様々な大きさ形のものが49基ある。
「古墳時代にはリーダーの王玉(おおきみ)(後の天皇)や豪族が亡くなると、土を積み上げて
大きなお墓をつくった。これを今は「古墳」と呼ぶ。
前方後円墳・円墳・方墳・帆立貝形墳など大きさも形も多様な古墳群である。
大阪の百舌鳥(堺市)と古市(羽曳野市と藤井寺市)のエリアでも200基以上築かれたようだ。
「仁徳天皇陵は全長486m、堀を含めると甲子園球場が12箇も入る大きさ」

 濠(ほり)の状態については、第一濠での浸食が課題となっている。水深は最も深い所で3.7m、水量は
 25mプール約700杯分にもなる」

クフ王のピラミッドや、秦の始皇帝のお墓と並ぶ、世界的に巨大なお墓の一つである。
現在は宮内庁が今の天皇家の祖先のお墓として厳しく守っており、入る事は出来ない。
学者の発掘調査もほとんど出来ていない。「*49基中29基は宮内庁管理」、の陵墓となっている。

「百舌鳥に44基、古市に45基が残っている内保全状態の良いものを選び、それぞれ23基と26基
に合計49基になりました」
百舌鳥古墳群は5世紀で終わるが、古市が6世紀まで続きました。
「古市古墳群の誉田御廟山古墳(伝応身天皇陵)を境に、中型古墳が消え小型古墳が増える様に、
古墳群の変化は政治構造が反映される。古墳群は当時の権力や富の所在を表したものであった。」
天皇家の陵墓として立ち入りが制限される構成資産を含む異例の資産群であるが、それも
また全人類の財産とイコモスは判断したという事。
昨年(2018年)は文化財保護法が改正され、先人が残した歴史遺産を暮らしにどう生かすか
社会との共生や活用の流れは加速するばかりで、閉鎖性えお持つ「古墳群」も例外ではない。
「世界遺産」に意義は、「私たちの財産を後世の世代へ手渡す事」。
天皇陵の積極的な公開や、より踏み込んだ「学術調査」を求める声もあり、「静安と尊厳」
を重視する従来の姿勢とのバランスなど学会の見解との矛盾をどう解決するのか。
勧告は多様化する「文化遺産」の在り方を考えるきっかけにとなればよい。

緑の古墳と調和していく町並みを目指して、重点ゾーンを設定し、建物の高さを10m又は
15mに制限がしてあり、更に色彩・建物の形態や意匠(デザイン)屋外広告も制限しました。
**陵墓とは歴代(れきだい)天皇や皇后など天皇家のお墓のことで、宮内庁が管理している。
「静安(せいあん)と尊厳(そんげん)」を保つために一般の立ち入りは禁じられています。
陵墓に誰が眠っているのかは、幕末から明治時代に「日本書紀」や「延喜式(えんぎしき)」といった古い記録などをもとに決められました。
ユネスコにも「仁徳天皇陵古墳」といった名前で推薦された。ところが、考古学の研究が進んで、墳丘(ふんきゅう)の形や
埴輪(はにわ)などをもとに、いつ造られたのかをかなり絞り込めるようになったんだ。
宮内庁がお墓に葬(ほうむ)られたとする人と、古墳のできた時期との間で時間的なずれが出てきた。
陵墓の多くで「実際に葬られた人は違うのでは」という見方が学界で強くなっている。そこで
一部の研究者たちは、古墳の名前は学術的に未確定の人物名ではなく、地名などからつけた考古学での名前にするべきだと主張しているんだ。
一方で、従来の陵墓の名も広く親しまれているから、両方の名前が併記(へいき)されるようになった。
世界遺産登録後も、研究者が自由に入って調査することは認められないだろう。仮に発掘調査ができたとしても、
お墓の主をはっきりと記録した墓誌(ぼし)などがない限り、特定は難しい。

世界遺産には、景観を守る緩衝地帯(バッファーゾーン)が求められ、大阪府と堺市・羽曳野市
藤井寺市の3市は百舌鳥で517ha、古市で373haを設定している。2016年からは
建物の高さ・外観、屋外広告部物を規制している。
6月30日から始まる世界遺産委員会で正式に決まりました。これで自然遺産を含め国内では23件目となる
「ユネスコの諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)は世界遺産に登録推奨する」
会議は「アゼルバイジャン」で行われました。

構成資産の名称 陵墓 国史跡
  百舌鳥エリア 堺市 1 反正天皇陵古墳 〇
2 仁徳天皇陵古墳 〇
3 茶山古墳 〇
4 大安寺山古墳 〇
5 永山古墳 〇
6 源右衛門山古墳 〇
7 塚廻古墳 〇
8 収塚古墳 〇
9 孫太夫山古墳 〇
10 竜佐山古墳 〇
11 銅亀山古墳 〇
12 菰山塚古墳 〇
13 丸保山古墳 〇 〇
14 長塚古墳 〇
15 旗塚古墳 〇
16 銭塚古墳 〇
17 覆中天皇陵古墳 〇
18 寺山南山古墳 〇
19 七観音古墳 〇
20 いたすけ古墳 〇
21 善右ヱ門山古墳 〇
22 御廟山古墳 〇 〇
23 ニンザイ古墳 〇 〇

 古市エリア 羽曳野市 1 応神天皇量古墳 〇 〇
2 誉田丸山古墳 〇
3 二ツ塚古墳 〇
4 東馬塚古墳 〇
5 栗塚古墳 〇
6 向墓山古墳 〇
7 西馬塚古墳 〇
8 峯ヶ塚古墳 〇
9 白鳥陵古墳 〇
藤井寺市 10 津堂城山古墳 〇 〇
11 仲哀天皇陵古墳 〇
12 鉢塚古墳 〇
13 允恭天皇陵古墳 〇
14 仲姫命陵古墳 〇
15 鍋塚古墳 〇
16 助太山古墳 〇
17 中山塚古墳 〇
18 八島塚古墳 〇
19 古室山古墳 〇
20 大鳥塚古墳 〇
21 東山古墳 〇
22 はざみ山古墳 〇
23 野中古墳 〇
24 浄元寺山古墳 〇
25 青山古墳 〇
26 墓山古墳(羽曳野・ 〇
藤井寺市、両市) 〇 〇

更に2020年(オリンピックイヤー)には
①北海道・北東地の縄文遺跡群
②奄美大島・徳之島・沖縄島北部及び西表島
この2つの内、どちらかをを推薦することが決まっています(1国からの申請は1件と決まっている為)
開催地は中国、福建省福州市です(港湾都市で、琉球王国との交易指定都市でした、人口743万人)

2016年から申請は「各国1件祖申請」となっています。
また、2013年の「富士山」登録は条件付での文化遺産となります。

広場左手の小高い丘(標高は27m)は1555年10月1日にあった「厳島合戦」場です。
宮尾の城(要害山)、厳島合戦(1555)で陶晴賢軍を誘き寄せる為に、毛利元就が築いた
「囮」の城。城には約300~500名の毛利軍が立て籠もる(元就は大将として歴戦の重臣で熊谷信直(50~60の船にて入城)
(くまがいのぶなお)を差し向ける)・熊谷信直は9月26日に宮尾ノ城に入る・陶軍は21日に上陸陣を構える
陶晴賢軍2万人 毛利軍3~3.5千人とも言われ、9月30日の夜陰から、翌10月1日の早朝に掛け 
博打尾峠を越え一気に攻め1日(4-14時)で陶軍を滅ぼす(合言葉は勝つか、と言えば勝つ・勝つ、でした)堀割を設け、
西側に5郭、東側に10郭が構築されていた。「郭」とは囲いの事。この時3日分の食料(炒り米等)、棚木1本 縄1束を全員に支給
1551年大内義隆は陶に弑逆される、毛利隆元にとって義隆は岳父にあたる為、陶討つべしと元就に強く迫る
1553年毛利元就は陶を討つべく兵を挙げる(大内とは盟友関係であった)

弑逆・・・・下士が上士を強制的に自刃に追い込むこと
1555年9月21日、陶晴賢は「宮島」に入る。これは神社で「秋の法会」が執り行われていた。厳島神社の法会を保障
することは、この地域の支配者の義務でありまた、権力の正当性を示す絶対の機会であった。
参考
「元県立広島大学の秋山教授の言葉」
最近の研究で判ったことは、陶軍の人員は2万とも言われているが実際、大内氏の家臣で重鎮といわれる人は
陶軍には参加していなかった,また、毛利軍が3千名とも言われているが、瀬戸内の有力者が多数参加した為、
陶軍は多めでも1万人。また毛利軍は少なめでも5千人と言うことが判ってきた、実際の戦いでは
言われている様にな、大きな差は無かったのではないか、と言うことが解った。厳島合戦については後程詳しく述べています。参照してください。

小高い丘の麓には「石碑」があります、皆さん気がつかないで通り過ぎていかれますが、昭和天皇が皇太子の時大正15年5月27日に来島され
厳島神社を参拝また宮島の最高峰弥山に登られた記念碑となっています。
横の階段は「雁木」です、途中から湾曲になっていますが(近年造った)ここに、以前は「二位殿灯篭」が置いてありました
現在は「有の浦 海岸通り」の最後辺りに移設されています。説明がないとわからないですよね。
「雁木」とは、潮の干満にかかわらず、船を着ける事が出来る、階段状の船着場の事です。
広島の原爆ドーム前の、本川 元安川の護岸では「昔の雁木」がいまだに残っています。宮島から原爆ドーム行の船に乗るとよくわかりますよ。
又 明治天皇も来島されています.明治18年7月31日のことで、岩国から来島され、大聖院を行在所とされお泊りになられています、
翌日には対岸の外宮のある地御前神社前に舟で着かれ(今もここにお上がり場海岸として、立派なモニュメントがあります。
今上天皇、雅子妃殿下、上皇 上皇郷も来島されています。歴代の内閣総理大臣も幾多の方々が来島されている島です。    
広島に「首都」が225日間置かれた事を知っていますか。

おあがり場公園
ここに「西幸記念碑」と書いてある石碑がある。昭和6年に建立されたものであるが、明治天皇が明治18年8月1日に
西国巡礼の際の行幸先の「宮島・大聖院」からこの場所に船にて上陸した場所である。
桟橋が急遽造られた。二か所の桟橋の大きさは次のとおりです
長さ 76.5m 幅 5.4m  高さ 3.3m
長さ 21.6m 幅 3.6m  高さ 3.3m  と言う大変大きな桟橋でした
上陸後は、岩尾澤太郎邸で休まれ、その後、明治天皇は廿日市を経て広島へ向かわれる。
廿日市には岩尾氏が私財を投げ打って購入した土地に「廿日市招魂社」を建て、その敷地内には「明治天皇御用品奉置殿」があります
招魂社は、国家の為に殉職した人達の礼を祀った神社で各地に立てられました。
明治12年明治天皇の命名により、東京招魂社は「靖国神社」に又、地方の招魂社は昭和14年「護国神社」と改称しました。

この石碑の「文字」を書いたのが、最後の大名と言われた「浅野長勲(ながこと)」日本で初めての「用紙製造工場」を経営、
更には閉鎖されそうになっていた「広島藩校修道館」を再興。縮景園に「浅野学校」を開校後に、校名を「修道学校」と改め、
その後この学校は「修道中学」「修道高等学校」と言って世を支える多くの人材を輩出している。
長勲公は「外交官・元老院議官・貴族院議員」を務め、昭和12年93歳で逝去
明治27年(1894年)9月10日 広島に「大本営」が置かれる,15日 明治天皇 広島に入る
明治28年(1895年)4月  清との間に「下関条約」が締結される,4月27日  大本営は京都に移る

参考
大本営とは、戦前の日本において天皇のもとで戦争を指導する最高統師部の事
広島大本営
明治27年(1894年6月5日)設置され、9月10日に広島に移った。以後講和条約締結後
の明治28年4月27日に京都に移るまで7ヶ月以上(225日間)に渡って広島に大本営が置かれた。
明治27年9月15日、明治天皇が大本営に来る(225日間は広島に首都がおかれました)
大本営には、臨時帝国議会仮議事堂が設置。右に貴族院、左に衆議院 中央には玄関と車寄を設ける。  
更に天皇の休憩所である「御便殿(ごべんでん)現在の比治山公園内になります」もあり、広島憲兵隊本部もあった 
広島に移ったことは、軍の士気を高め戦略上の利点を得ただけでは無く、開戦に消極的だった
「明治天皇」が率先して戦争を指導する契機になると共に政府に反対する勢力や、
旧大名を戦争に協力させて挙国一致体制を作りあげ、日清戦争勝利するうえで大きな役割を果たした
この時、広島藩最後の広島城主、浅野長勲(ながこと)が広島に到着した明治天皇を広島停車場で出迎え、
又11月6日には浅野家の私邸であった泉邸(今の縮景園)に天皇を迎えている。

浅野長勲(ながこと)明治2年(1869年)藩主となるが、廃藩置県により「県知事」となる。広島修道高校 中学の前身を設立する。
広島停車場(北部大須賀町で現在の南区松原町) 多くの将兵や軍幹部、政府高官、帝国議会議員、
天皇をはじめとする貴族が鉄道で広島を訪れここで乗り降りした所
廃藩置県では旧藩主は全て東京に移住となるが、移住阻止しようとして騒動が起きた(武一騒動)    
昭和12年(1937年)96歳で死去、昭和に入って最後の大名経験者として有名であった

威海衛戦勝碑 ・・・・大鳥居の前にあります、良く見てください。山東半島の先端にある「威海衛市」 
現在の威海市(人口約240万人)、明治28年1月20日~2月12日の間に行われた、
日本海軍による清国の制海権を完全に掌握する為北洋艦隊襲撃と海軍基地の制圧を行う。


広場の前を過ぎると、小高い丘の麓に「加福食堂」が見えます、その横には階段があり(前述の通り)、この階段の上が
1555年に厳島合戦が行われた時に「毛利元就軍は陣を構えた所」で15の廓があり、
毛利軍約300名から500名がいた所です。(要害の地で宮尾の城跡と呼んでいます)
この時元就は大将として、歴戦の重臣で熊谷信直(くまがいのぶなお)を差し向ける、信直は9月26日に宮尾の城に入る、
この時陶晴賢軍は既に21日には、五重塔の横(現在の千畳閣の所)に陣を構える
陶軍は2万人 毛利軍は3千人ともいわれた、9月30日の夜陰、嵐をついて対岸の「火立岩(ほたていわ)」から兵を伴い、
島の裏側、現在の「包が浦」に上陸、博打尾峠を越えて、陶軍の背後に迫り、10月1日 早朝4時に総攻撃をかけ、
昼過ぎの2時には決戦が終わったという、日本三大奇襲戦の一つで厳島合戦が行われた場所です
この時「陶軍」は鉄砲隊がいた為(6丁あった)、元就軍は敵をけん制する為「射手」を200名乗船させていた。
元就はこの時、3日分の食料(煎り米等)と棚木1本 縄1束を全員に支給していた

この時の、合言葉が「勝」と言えば「勝・勝」と連呼した
陶晴賢は、高安ヶ原で自刃(35) 弘中隆兼・隆助 父子は2日間戦い、
駒が林(フェリーから見ると、右側の山肌(岩肌)が見える山)にて討ち死にする
(駒が林はフェリーから宮島山頂を仰ぐと一番高く見える山で裏側は焼く80mの断崖絶壁の山)
この時、陶晴賢は「何をおしみ、何をうらまん もとよりも この有様の 定まる身に」と詠んでいる

その階段の横に, 前述しましたが
「皇太子殿下行啓記念」の石碑を見ることが出来ます、
これは、既に 崩御された「昭和天皇」が皇太子殿下の時、大正15年5月27日に宮島に参詣に寄られ
弥山頂上まで登山をされた時の「記念石碑」です。
14~15年位前(2005~2006年)には、この横の石段(昔の雁木です)の所に「二位の尼灯篭」が置いてありました
、現在は場所を移動し、商店街出口付近の防潮堤の側にあります。
石段をよく見ると扇状の部分は後から造った事がよく判ると思いますが、昔の雁木と後から付け足した石段が鮮明にわかります。

弥山頂上付近には同じ様な石碑(四角い形をしている)が建立しています、どこにあるかさがして?
皆さん気が付かないで登山しておられますよ?登山道の左手にあります。
その年の12月25日、大正天皇が逝去(午前1時45分)され、2時間後には皇太子殿下から「天皇陛下」になられています。
更に言うと、明治18年7月31日には「明治天皇」が御行幸されています。
この時の「行在所」が大聖院の観音堂です。
観音堂の屋根瓦を見ると、「金色の菊の御紋章」が入っています。
また、明治27年9月15日には、明治天皇は広島大本営にこられました。
日清戦争において、広島に「大本営が設置」されたためです。
(明治27年7月~28年3月 日清戦争 広島に首都が225日間おかれる)

この時の大本営の参謀総長が、有栖川宮熾仁親王で後述の「朱の大鳥居」の「扁額」を書いた人です
参考
有栖川宮熾仁親王(有栖川宮家 第9代)
旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜(よしのぶ)の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。
貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。
明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。
明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、明治28年(1895年)に61歳で薨去。
熾仁親王は時の皇族の第一人者として明治天皇から絶大な信任を受けた。
明治15年(1882年)にはロシア帝国の旧首都モスクワで行われたアレクサンドル3世の即位式に
天皇の名代として出席し、帰路には欧州諸国とアメリカ合衆国を歴訪した。

有栖川宮(ありすがわのみや)は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。
四親王家「伏見宮(ふしみのみや)、桂宮(かつらのみや)、閑院宮(かんいんのみや)とならぶ世襲親王家の一つ。
第2代良仁(ながひと)親王は皇統を継ぎ、後西天皇(ごさいてんのう)となった。

今上天皇と美智子妃殿下も、昭和53年10月5日に来島、参詣されています。
この時は、島の裏側にある「包が浦自然公園」が都市公園に指定、その除幕式に出席の為、来島されました。

特別史跡・名称 の石碑を見ることが出来ます。
大正12年(1923年)史跡・名称天然記念物保存法により、全島が「史跡・名称」に指定
その後
昭和27年 文化財保護法により、全島が「特別史跡・及び特別名称」に指定される
現在全国に、特別史跡・名称 と名のつく場所は「36箇所」あり、その内同時に指定されているのは
宮島を含め「11箇所」となっています。
関東で有名なのが、①小石川後楽園  ②浜離宮恩賜公園 です

文化財保護法
昭和24年(1949年)1月26日早朝、奈良県斑鳩町の法隆寺・金堂が堂内より出火、金堂壁画(国重要文化財)
にあった「釈迦」「薬師」などの群像を示す大壁画4面、と各種「菩薩像」「を描いた小画の計12面の壁画
のほとんどの「色彩」を喪失する。この火災をきっかけに昭和25年(1950年)「文化財保護法」が成立した
金堂壁画は焼けても「国宝」の上をいくという意味で「至宝」と呼ぶ
文化財保護法は後に昭和29年(1954)、昭和50年(1975)、平成8年(1996)令和1年4月1日(2019)に改定が行われている

大鳥居の近くには、威海衛戦勝記念碑(いかいえ)があります、よく見て探してください。
現在の威海市(いかいし)で山東半島の北東端の港湾都市で人口248万人、当時は清国の北洋艦隊の根拠地でした。
明治28年1月20日~2月12日の間に行われた、日本海軍による清国の制海権を完全に掌握する為北洋艦隊襲撃、と海軍基地の制圧を行う。
威海衛の戦い(いかいえいのたたかい)は、日清戦争における戦闘である。その日本陸海軍共同作戦の目的は、第二期作戦「直隷決戦」にむけて
制海権を完全に掌握するため、威海衛湾に立てこもる北洋艦隊の残存艦艇撃滅と海軍基地の制圧にあった。
直隷(ちょくれい、直隷省とも)
明代から清代にかけて、黄河下流の北部地域を指した行政区画。

参考
明治30年(1897年)6月10日 古社寺保存法
昭和 4年(1929年) 国宝保存法
昭和25年(1950年) 文化財保護法
    昭和29年(1954年) 改定が行われる
    昭和50年(1975年)
    平成 8年(1996年)

表参道商店街を通ると、郵便局の隣にに大変大きな「杓子」がありました。
一般的には「しゃもじ」と言いますが、ここ宮島では「杓子(しやくし)」といいます。
残念ですが、現在は「大杓子」は展示してありません。この場所は現在「最新のおもてなしトイレ」があります。
「観光案内所・休憩所」も併設されています。
しかし杓子の新たな展示場所の休憩所(旧宮島庁舎)は完成がまだあと1年以上かかる予定です。
杓子について
誓真さん(俗名を木屋政次郎という、1741年~1800年 享年59歳)は、
伊予務司(むし)城主、村上頼冬を祖先とする。
1662年(寛文2年)、木屋家初代の木屋太郎左衛門が広島の大工町に移住した
大工町は当時大工が多く、木屋家でも代々大工を営むようになり祖父の代からは組頭を務めていた。
宮島に渡り光明院代16代住職「了単上人」の下で出家した。25歳の時、光明院の隣地の
神泉寺の敷地内の「竹林庵」を住まいにし修行に勤めた。
頼杏坪(らいきょへい)によって編纂された「芸藩通志」には以下のように記してある
「誓真といえる道心者、かつて種々の器物を作りし,木杓子尤も多し今も続けて作るものあり」
芸藩通志・・・・1825年(文政8年)に完成した安芸の国広島藩の地誌。
更には、頼杏平の「芸藩通志」には毎日200人以上の住民が薪作りの為に山野に入り込んでいた。明治19年には
山肌の森林土壌は荒廃がその極に達していた。その後明治・大正・昭和と100年に及ぶ保護育成は森林の回復に大きく寄与する

神泉寺にあった「阿弥陀仏」は、東京西巣鴨にある大正大学礼拝堂に安置されている。
また[二位の尼木造]は、本殿を出た所から右に30m位のところにある「宮島歴史民俗資料館」に安置されている。
天明の大飢饉(1782-1788)による人々の困窮は宮島も例外では無く、誓真は自ら
托鉢をして回り得た財を投じて島内に10箇所の井戸を掘る、さらには道、石段(雁木)を築いたり
と町のインフラ整備に尽力をしている。その功績は大いに評価され、1791年(寛政3年)
誓真50歳の時,広島藩から「賞銀」を与えられている。
1800年(寛政8年)、59歳で亡くなる。
参考
 宮島と対岸の地御前辺りは当時、大変困窮していたと思われ、誓眞は広島辺りまで托鉢に出かけていたようだ
 祖父の代から、大工の組頭をやっていた関係で、知人などを廻り托鉢をしていたと思われる。
 井戸掘り、雁木作り 他には、大きなお金が必要と思われるが、とても宮島近辺での托鉢では間に合わなかったのではないか。

1791年(寛政3年)4月、お役所から御触書が出された、主旨は「富くじの廃止」であるが
その中に「手仕事の産業は楊枝以外は何物も見当たらない」とあり、富くじ廃止により
島民の生活が困窮しないように手細工を宮島の産業にしていく必要がある。と言うものだ
廃止により、これらの配当金や藩からの扶持米(藩主から家臣に給与される米「俸米」)
が打ち切られ、島民は経済的な自立を迫られることとなる。
その為島民の多くは「山師」になり、手先の器用な者は杓子等木工細工の職人になる
「山師」・・・・山林の伐採や立ち木の売買を取り仕切る人

大正~昭和にかけて、杓子職人は50人以上で推移する(明治30年には70名いた)
大正15年・昭和元年(1926年)日本の人口は約6000万人(世帯数は約1500万)、この時の杓子の年間出庫数
は12、000万本。正月には家庭で新しい杓子を使う習慣があった為、12月は特に多忙であった。

明治以降の宮島杓子
寛政3年(1791年)当時は宮島のお土産と言えば「五色箸」と「色楊枝」のみで、厳島神社参拝者に
対する土産物となっていた。
安土桃山時代の天正年間(1573-1592年)から厳島神社で執り行なわれるている、御楊枝献上
の神事に準じて作られたもの。日頃から来島者が土産物として持ち帰る物が非常に少ない事を残念に
思っていた誓真は、役所からの通達もあり「杓子」を製作し、町民に模範を示した。ゆえにこの杓子を
「誓真杓子」と呼んだ
「五色箸」「色楊枝」・・・五色箸は箸に色をつけたもの、同じく色や飾りをつけた、色楊枝共々宮島土産となる
**御楊枝献上・・・現在でも厳島神社で1月4日に行われている。御楊枝とは白木の箸の事
参考
色楊枝
昔は「白色楊枝」を奉納する儀があった。
この楊枝とは「木の皮の付いた白い箸」のことで、神に奉納する「白い箸」を
「宮島の名産にするとは」、いかがなものか? と言うことで箸に「色」を付けて
五色箸」として考案し土産にした。
まだ、歯ブラシが無い時代、割り箸の様な木の先に細い割れ目を入れたもので代用していた
その「切れ目のは入った木」を「楊枝」と呼んだ様だ。
材は「ヒノキ・ケヤキ・クス」を使っている。長さ7センチ位、「赤・黄・緑・紫・藍」の五色に染めている
楊枝の頭には、厳島八景の「燈篭・桜・蛍・月・鹿・雪・船・烏」を大豆ほどの大きさに細かく削って
いる。明治30年頃まで作られていた。「歴史民俗資料館には現物が展示してあります」
現在は「くろもじの木」が最高級品の楊枝である

「島のかおり」によると、明治22年の島内の様子は、
杓子職人「飯杓子」30名 匙杓子「さじ」13名(合計43名)いた
(その他、轆轤細工職人、竹木工、陶器工、彫刻工、塗り師工、全部で80人いた)
その後「芸備日日新聞」によれば
明治30年(1897年)になると、杓子工70名余で組合を作る(70名余の職人がいた)

「島のかおり」・・・・・・・宮島の産業沿革史
「芸備日日新聞・・・・・明治21年(1888年)から昭和23年(1948年)まで刊行された。 広島の地方紙

明治37年(1904年)出版の「厳島案内記」によると
竹木細工190人、轆轤師100人、杓子削(匙さじ類を含む)60人、産物店54戸
旅人宿42戸、大工職65人、渡船業者38人、飲食店30戸、案内者20人、穀物商18戸
彫刻職18人、樵夫(しゃふ)17人。   *樵夫(しゃふ)・・・きこり、森林伐採で生計を立る人

以上の事から、明治時代、島内には60人~70人の杓子職人がいた事が分かる。
宮島での杓子の発達には「明治維新」が大きく影響している。
明治5年(1872年)、「冨くじ」が国内で全面的に廃止される。これにより配当金や「藩」
からの扶持米が打ち切られ、島民は経済的な自立を迫られた。
その多くが「山師」になり、手先の器用な者は杓子等の木工細工の職人になる。

知りたい宮島 詳細編 4

2023年03月25日 17時58分16秒 | 世界遺産
三笠の浜を過ぎると、いよいよ日本を代表する「朱の大鳥居」が見えてまいります。
鳥居の建っている場所は「玉御池(たまみがいけ)玉の御池(たまのみいけ)」と呼ばれた聖地となっており、
世界文化遺産はこの鳥居より内側と神社社殿群、神社裏手の弥山までの原始林、全部で431.2ヘクタール(全島の約14%)の部分を言います。

鳥居は昔は「有の浦大鳥居」とよばれており、現在の鳥居は、明治8年(1875年)に再建されたものです、
平安時代から8代目にあたり、木造(天然木)で種類としては両部鳥居です
高さは16.6m、棟の長さは24.2mあり、主注周りは約く9.9m、総重量は60トン、木部は丹塗り(にぬり)となっています。
平成13年4月に塗り替えが行われて現在に至っています。(丹塗りとは光明丹に酸化鉛を混合したもの)
  赤・・・塗料の鉛丹(光明丹)が防虫など木造鳥居の保存に効果的。破邪の呪力を秘めた特別の色
主柱は楠木の自然木を使用、袖柱(稚児柱とも言います)は杉の自然木を使用しています。
平安時代(1168年には建立)から数えて8代目になります。
鳥居の重量は60トンあり海の中に置いてあるだけで立っています、
各柱の下には、約60センチ前後の松の柱が30本から100本縦に埋め込まれており、
その上に更に厚さ20㎝前後の平たい置石が敷かれその上に鳥居が乗っている状態です、
(千本杭工法と言います)。また屋根の様に見える下の所を笠木・島木(鳥居の呼称名)といいますが、
ここの部分は箱状になっていて、中には石が約7トン入っています(この石を含めて総重量60トン)、
また石には経文が書かれており、更には石の数は278個あると言われています
(この数は般若心経の文字数と同じ、と言われている、実際には数はこじつけと思われます)。
笠木の部分には、太陽(金色の丸)と月(金色の月)の印があり、陰陽道の影響といわれています
(風水では北東を鬼門の方位とする為、太陽は鬼門封じの為ともいわれている)
大きな扁額が見えますが、
手前には「伊都岐島神社」と6文字で、反対側には「厳島神社」と4文字で、万葉仮名で筆書きされています。
現在の扁額は明治8年(1875年)の再建時のもので、有栖川宮熾仁親王による染筆となっています。
(有栖川宮熾仁親王は有栖川家第9代当主で、戊辰戦争・西南戦争・日清戦争における指揮官でもあった人です)

有栖川宮(ありすがわのみや)は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。
四親王家「伏見宮(ふしみのみや)、桂宮(かつらのみや)、閑院宮(かんいんのみや)とならぶ世襲親王家の一つ。
第2代良仁(ながひと)親王は皇統を継ぎ、後西天皇(ごさいてんのう)となった。
有栖川宮熾仁親王(有栖川宮家 第9代) 
江戸末期~明治時代の皇族、政治家、軍人、陸軍大将大勲位功二級
旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜(よしのぶ)の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。
貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。
明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。
明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、明治28年(1895年)に61歳で薨去。
熾仁親王は時の皇族の第一人者として明治天皇から絶大な信任を受けた。
明治15年(1882年)にはロシア帝国の旧首都モスクワで行われたアレクサンドル3世の即位式に天皇の名代として出席し、
帰路には欧州諸国とアメリカ合衆国を歴訪した。
明治27年(1894)に勃発した「日清戦争」において、親王は参謀総長として広島大本営に下る
また戊辰戦争・西南戦争・の指揮官(軍人)でもあり政治家・皇族でもあった方です)
東征大総督(戊辰戦争時の郡司令官)。総督は「総裁、有栖川宮熾仁親王、参謀には西郷隆盛 板垣退助が任命される)
明治28年(1895)に腸チフスが悪化、61歳にして病没。国葬により豊島岡墓地に埋葬された。

なお現在の扁額は大変綺麗に見えますが、平成19年4月に化粧直しが施されている為です。
元はこの扁額は、天文16年(1547年)大内義隆が、大願寺の尊海の要請により「後奈良天皇の宸筆」の額を贈ったものである。
一番最初は、表側には「小野道風」、裏は「空海」の書いた扁額が掲げてあった
鳥居が大きく変わったのは、4代目の鳥居からで、この時から、両部鳥居(四つ足鳥居)にかわり、また扁額も天皇の書かれた物にかわった。
ここからは余談です
「1代から3代までの鳥居は、明神鳥居でした、その後4代から8代(現在の鳥居)までは両部鳥居でした。
 記録によると、鳥居は今までに7回倒れており、6回は台風で1回は落雷により倒壊しています。
 1168年 仁安3年11月     ➀ 佐伯景弘解にて「鳥居4基」と記述あり   
 1286年 10月19日      ➁ 北条定時による造営により大鳥居再建 野坂文書、但し倒壊した年月は不明
 1371年 応安4年4月4日 ➂ 再建(足利義満の造営) 再建まで45年かかる
 1547年 天文16年 **➃ 造営(但し 倒壊した年月は不明)、両部鳥居になる、
 1548年     * 大内義隆、大願寺の尊海の要望により、後奈良天皇の宸筆による扁額を贈る
 1561年 10月4日   ➄ 毛利元就 隆元父子により再建寄進。この時から、千本杭工法になる
 1739年 9月5日   ➅ 再建、 この時役夫5万人かかる
 1800年 8月21日 ➆ 再建、 浅野重晟の造営
 1875年 7月17日 ➇ 再建  扁額は有栖川野宮熾仁親王の染筆を掲げる(後奈良天皇の宸翰を隣したもの)
                      
*1739年(元文3年)の再建時には、1本柱となる巨木を2本調達する事は困難となっていた。

更には倒壊から再建までかなりの長い年月を要した時期もあり、再建が間々ならない時には「竹」を立て、注連縄を張って過ごした時期も見られたようである。

なお、明治8年の再建時には主注は本殿から向って右が「宮崎県西都市住吉神社」左が「丸亀、和田浜(現在は丸亀市は観音寺市和田浜豊浜八幡神社になっいる)」
から御神木を頂いてきた楠が使用されています、なお昭和26年には根元が腐食をし「根継」が行われています。(25年から26年にかけて行われた)
この時の接ぎ木は「佐賀県佐賀市鍋島村池の上(佐賀市の北西部に位置する)」と「福岡県久留米市」から御神木が使用されました。
社殿より西側の「四国丸亀(観音寺市)・和田浜」から持ってきた楠は、大きさも長さも足りなかったので、亀居山(ききょざん、千畳閣のある所)
から調達した楠を抱き合わせて大きな鉄の輪で締めている)います、しかし明治37年西柱に落雷がありましたが、幸いにして面目を保っています。
(根継後の古い楠の主注の一部は宝物館の前に展示してあります) 現在この「鉄の輪」がかなり腐食しており、これも含めて修理を致します。

* 明治8年再建時には鳥居は「朱色」ではありませんでした。
現在の様に朱色になったのは明治44年2月まで待たなければ為りませんでした。これは明治の初めに「神仏判然令」が施工され、
「朱色」は仏教的との事により着色されませんでした。当然本殿の彩色の除去もされました。
鳥居
鳥居があると「神社」と思っているかも知れないが
鳥居もいろいろな種類があり。「両部鳥居」は密教の影響受けている鳥居です
「両部」とは密教の考え方である「金胎両部(こんたいりょうぶ)」をいい、
神仏習合の名残を表す
別名、四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居(わくざし)などがある

「金胎両部(こんたい両部)」・・・・
大日如来を智徳の面から開示した金剛界と,理から説いた胎蔵界。金胎両界。

神仏習合の時代、お寺にも「鳥居」があった時代が長くあった

明治30年(1897年)6月10日「古社寺保存法(後の国宝保存法)」の施工により、国宝となる
昭和4年(1929年)には「国宝保存法」が施工され、古社寺保存法は廃止になる
昭和25年(1949年)5月「文化財保護法」の施工により従来の国宝はすべて「重要文化財」になり、
   以後順次 特に重要なものは改めて「国宝」に指定され、現在に至っている。
昭和29年(1954年)、昭和50年(1975年)、平成8年(1996年)の三度の亘って文化財保護法の改定が行われる
参考
ハワイ ホノルル にも厳島神社と同じ「大鳥居」がある
高さ 8 m  幅 約11 m と厳島神社の大鳥居の1/3の大きさである
材は宮島大鳥居が「天然木」に対し、ホノルルの鳥居は「鉄」で出来ている
昭和34年(1955年)5月19日、ホノルル市議会が広島市との「姉妹提携」を結ぶ
また、昭和57年(1981年)には広島商工会議所とホノルル日本人商工会議所が「姉妹提携」を締結する。
さらに、平成9年(1997年)5月30日に広島県がハワイ州との間で「友好提携」を結ぶ
平成13年(2001年)、ホノルル日本人商工会議所の100周年を記念して「ジャパンタウン」をつくることになり
その事業の一環として「大鳥居」が寄贈された。
広島とハワイを結びつけたには「移民」の方たちの存在であった

毎年、春は潮が小さく、秋は潮が大きくなり「潮位」の差は約4メートルにもなり、鳥居の沖150メートル位までは歩いて行く事が出来ます。
島全体が「花崗岩」で出来ている為、砂洲は底が固く十分に歩いて渡る事ができます。
鳥居の左右に長さ50m位の杭が打ち込んであります、内側が「世界文化遺産」で外側は瀬戸内海、外では「あさり」を自由に掘ることが出来ます。
貝掘りは無料なので春になると多くの方々が貝堀に来ます。
この浜に降りる所に「常夜灯」があります、よく見ると対岸(西の松原)にも同じ「常夜灯」があります。
目の前の常夜灯は1805年(文化2年)阿波の国の藍屋講中の寄進によるもので、対岸の常夜灯は江上家の寄進した物です。
江上家は島内一の資産家で(醤油醸造を手がけていた)現在の「歴史民俗資料館」は江上家の家でした。
参考
「講」について少し触れておきます。
江戸時代中ごろから庶民の旅が盛んになった背景には「講」の発達があった。
「講」とは特定の寺社に参詣したり、霊山に登山する団体組織の事を言う。
最大の人気を誇った「講」は富士講と伊勢講だ。富士山と伊勢神宮参宮の旅の為の講である。共に100を超える講社があった
富士講などは俗に「江戸八百八講」といわれたほどである。
講の属さず旅をするのは、手形の取得からして、何かと面倒であった。江戸時代、全国の街道 脇街道 裏街道などの要衝には
必ず「関所」があった。 すべて幕府の直轄で総計76箇所、諸大名等による私設の関所は禁じられていた。通常関所を通らずに
旅をする事はまず不可能であった。
関所を通るに必要なのが「関所手形」通常、庶民は往来手形が関所手形の代わりになる。 武家等の女子は別に「女手形」を
取得しなければならなかった。手形無くて通関する事は絶対になかった。

「往来手形」・・・庶民にとっての身分証明書でもあり、檀那寺(菩提寺) や、村役人、町役人に発行してもらい、氏名 住所 
      檀那寺、旅の目的が書かれていた。旅途中の死亡のさいの依頼、行き倒れの場合民家へ泊まる際の依頼状。
      旅籠などでの宿改めの際の身分証明ともなった。
「女手形」・・・・特に武家及び禁中方、尼僧等の女子の場合。発行は特に複雑で、出身地を上り、下りに分け、更に地域別に区分し
         それぞれ発行者が指定されていた。「入り鉄砲出女」で江戸を出る女子のチェックが厳しく、女手形と1箇所でも
       違えば通してもらえなかった。
庶民の旅はそこまで煩わしくないものの、手形の取得、通関 など何かと面倒であった、だが「講」に入っていれば安心だ
手形取得のノウハウから往復の交通手段の手当て、旅行に必要な物品や心得の用達や指導、宿泊等、全ての面倒をみてもらえた
「講元」はいわば団体旅行の旅行会社の様なものであった。参詣、登山に必要な衣装や笠、杖に至るまであらゆる必需品を
手配した。更に様々な土産品、御礼や掛け軸、置物等も用意されていた、まさにいたれり尽くせりであった。
更に、江戸時代の庶民の「旅」について触れてみます。

江戸時代の庶民の旅
中世までの旅は、政治的かあるいは軍事目的・商業目的・宗教活動・情報伝達といった、いわば仕事としての旅がほとんどであった
しかし近世になると五街道をはじめ各街道が整備されて宿泊施設なども整い、寺社参詣や宗教登山を名目とする物見遊山の旅
が登場、やがて各種の「講」なども発達して、一般庶民も娯楽として旅を楽しむようになる。
(東海道は品川より大津まで53宿。 中仙道は板橋より守山まで67宿あり、基本は歩く旅となる)
*一般旅行者が泊まるのは「旅籠(はたご)」である
 旅籠とは本来、旅行の時に馬の飼料を入れる「籠」の事で、旅は自炊が原則であり、旅人は多くの場合「薪や食料」を持参していた
 また、もともと旅のほとんどは仕事であり、他のも荷物が多かった。そこで馬と共に旅行をした、馬の飼料を用意して客を待った宿
 が、即ち「旅籠屋」である。
 「幕府が慶長16年(1612年)に定めた旅籠代は、人が3文、馬6文であり。元和8年(1622年)になると、人が4文 馬8文     となる
 これは飼料の分だけ馬が高い。 これは宿で「薪」を買った時の値段で、薪を持参した時は人馬共に半額となった。
 しかし1泊2泊ならいざしらず、普通は薪まで持参しない、旅籠で薪代即ち「木賃」を払って買うことになる。だから旅籠は
 木賃宿ともいった。その内「旅籠屋」でも食事を出すようになると、「自炊専門の安宿」が木賃宿となり、やがて木賃宿は安宿の
   代名詞となった」
 旅籠代は年代と共に値上がりしていく 人  馬
慶長16年(1612年)では 3文  6文
元和8年(1622年)では   4文 8文
寛永10年(1642年)では 6文  16文
享保3年(1718年)では 主人35文 35文
           従者17文
幕末になると 700文 1貫400文 人の2倍
(食事付きとはいえ、江戸初期の100倍近くにもなる)
  元禄から享保の時代にかけて、一般庶民が旅行を楽しむようなり、旅籠屋にもランクが出来サービスによって宿賃に差がで始める
  普通の旅で1ヶ月くらい(東海道で片道13日、往復約1ヶ月かかる、川止め等あり)かかり荷物だけでも大変な量となる、そこで
  馬か荷担ぎの人足を雇うことになる。料金は宿駅ごとにそれぞれ公定料金が定められていた、山坂においては登りよりも下り道
  の方が料金が高かった(これは馬も人も足に負担がかかり辛く、転ぶ危険もあった為)
  川越人足料金も5種類あり、①常水帯 ②乳下水 ③乳上水 ④脇通水 ⑤渇水期の浅い時
  川止の時は何日か滞在を余儀なくされ、宿代がかさみ、川開きとなっても水高があり高い人足代を支払った
  草鞋(わらじ)は3~4里歩くとちびて履けなくなり、普通1日に2足は必要で、1ヶ月の旅となると何十足も履きつぶす様になる
  茶屋で休めば、茶代 餅等を食べれば餅代 などもかかる。
  関所も通常は無料だが、待たされたり、女性の場合は特にうるさく調べられたり、そこで関所役人に袖の下をつかませたり
  また寺社に詣でれば「賽銭」も必要、ついついお土産も買いたくなる。徒歩旅行といえど、お金はかかるものであった。
しかし、金持ちしか旅が出来なかったのかと言うとそうでもなく、 ほとんど路銀を持たない人も結構多く旅をしていた。「行者僧」「旅芸人」、 また貧しい農家の娘たちが着の身着のままで「霊場巡り」のたびをした例もあった、 「御蔭参(おかげまいり)」りなどの、集団伊勢参宮も、大多数が無銭の下層民衆で、飢饉などで土地を捨て、江戸をはじめ大都市を目指す棄民たちもいた。
かつての「日本」は貧しい人達に対して優しかった、何がしかの施しをしてくれる家が少なくなかった。宿場のはずれや、村々には
宿代を持たない貧しい旅人を泊めてくれる家があった。善根宿(ぜんこんやど)である
 善根宿・・・諸国行脚の修行者・遍路、困っている旅行者を無料で泊める宿。
修行僧や遍路、貧しい旅人などを無料で宿泊させる宿。宿泊させることは、自ら巡礼を行うのと同じ功徳があるとされた。
草鞋などまだ履けるものは、お地蔵さんやお堂に供えておいた、貧しい旅人が利用出来る様に、茶店で休んでも水を飲むだけ
なら「無料」であった。
御蔭参りの場合、豪商達が金品の施行を行い、厖大な無銭旅行者たちの面倒をみた。これは町の治安を守ると言う意味もあった
明和期(1764年ー1772年)の御蔭参りに際しては、大阪だけで「鴻池善右衛門ほかの豪商達が合わせて7千300貫文以上の銭を 施行したという。(これは当時の相場で米、8万4000石に相当する巨額である)
他にも、さしたる路銀を持たずに旅した者に、文人墨客がいる、彼らは貧者では無いそこそこに優雅な旅を楽しんだ。

江上家は本殿回廊を出たところ(西回廊出口)の「石橋」・水族館の前の大きな「燈篭」も寄進しています。

* いよいよ国宝「厳島神社」への入り口へと進むわけですが、
入り口の手前左に「厩舎」があり、中に木生の馬がいます。この馬を「神馬(しんめ)」と言い、
わが国では古代より神社へ生き馬を奉納する習慣がありました。

日照りの際には「祈雨の為に黒毛馬を」、長雨の時には「止雨の為に白馬」を奉納して祈ったと言う記事が「続日本後期」に記してあります。
(宮島は花崗岩で出来た島なので、土石流が多く発生その為、雨はノーサンキュウです)
絵馬について少し述べたいと思います、参考にして下さい
我国では古くから「馬」は神の乗り物として神聖視されてきた、その為神に祈願したり祭りをする時には神霊を迎える為に
「馬」を指し向けなければならなかった、ここに生馬献上の風が当然に生まれた。崇徳天皇の時代(1119年)から鹿嶋明神
に馬を献上する事になったといわれている(常陸国風土記)
一方生馬に代わって「馬形」を献上する風も生まれる、全国各地より「土馬」が出土している、この土製馬形から木製馬形
も出現し木馬献上の事はしばしば「延喜式」などに見ることが出来る。 止雨の白馬献上
この馬形発生の理由について「類聚符宣抄」には天暦2年(948)丹生川上と貴布禰の社に祈雨の黒馬献上に際して
右大臣藤原師輔が「繁餌料をつけられないなら「板立御馬」をもってこれにあてよと命じた」とあり「神道名目類聚符」には
「神馬の索奉る事、及びサル者、木にて馬を造献す」とある。つまり経済的理由から生まれたものであると思われる。
この板立馬は木製馬形を更に簡略化し馬の形を板で作ったものである。板立馬が一層簡略化され絵馬になる。
板立絵馬は板を馬の形に切り抜いて彩色しこれが立つ様に台をつけねばならなかったが絵馬は板に絵を描けばよいのである
絵馬と言う言葉が初めて文献的に現れたのは寛文9年(1012)6月25日大江匡衡が北野天神に御幣ならびに
種々の供え物を目録した中に「色紙絵馬三匹」とある。
平安時代になると 生馬献上の風習とともに一方では生き馬に代わって木製馬形の献上が一般的となり形も
大きく精巧でいろいろな装飾が行われた
鎌倉時代 この時代の絵馬に奉額の中で特殊な系列を示す「36歌仙」を描いたものが見られた
室町時代
中期以降になると画題は「馬以外の物が多くなり」形状も多種多様となりに奉納される絵馬の図柄が仏菩薩を描くようになる
徐々に大型化し、専門絵師・著名画家が筆を振るうようになり絵馬の美術的質の向上を誘発し、やがて絵馬本来の目的を
離れて美術作品としての絵馬と考えられる様になった。絵馬の歴史の中の一つの転換期を迎えた時期で「歌仙絵」の奉納
も流行る。 俵屋宗達、尾形光琳、土佐光起(みつおき)、円山応挙など、室町から桃山時代のかけての有名画家
桃山時代
大型絵馬が更に扁額形式となり豪華になり、ますます大型化する。上流社会や貿易商人によって豪華な絵馬が奉納され
有名絵師もこぞって筆を取った。寺社に絵馬堂が出来、画家達はその作品を絵馬堂に掲げて人気を得んと心掛け、
一般の人も絵馬堂に集まり絵馬の図柄を鑑賞した。
江戸時代
桃山から更に大型化する、「扁額軏範」には、「横6 間縦2 間の大型絵馬」絵馬の公開的開放的性格が一層大衆との
つながりを深め地方の田舎でも扁額形式の大きな絵馬を「産士神(うぶすながみ)」の拝殿に掛けることが流行し、江戸時代
の後期は絵馬奉納の最盛期となる、歌舞伎図のなかでも特に「四十七士討入図」が各神社に目立つようになる。
明治時代
日清・日露の戦いを経て「忠君愛国」の理念が高まっていく風潮に即応した絵馬が多くなり、寺社の霊験や神社の崇高さを
讃えた「社景図」なども奉納された。
大正・昭和
衰退に向かい絵馬の数も減る、しかし戦争中は「戦勝祈願」「武運長久」の絵馬が流行する。ところが戦後には高売繁昌の
小絵馬を参詣者に売る寺社が現れ、最近は時代の要求に応じ「交通安全」「入学祈願」などを描いた絵馬も多い。
①武者絵 ②橋弁慶図 ③弁慶釣鐘負の図
④絹本着色児持山姥図・・・縦150cm 横83cmの大型絵馬 昭和31年6月28日国の重文に指定。長沢藘雪44歳の時
の作。近松門左衛門の浄瑠璃(嫗山姥こもちやまうば)から取材した、坂田金時とその母と言う趣向で醜怪な老婆を迫力ある
筆至で描いてある。
 *坂田公時(俗に金時とも言う)は平安後期の武士で21歳の時、大江山酒てん童子を征伐、土蜘蛛退治で有名な
源頼光に見出された、源頼光 四天王の一人となった。相模国足柄山の山姥と赤竜の子と伝えられている、
その童姿は強健と武勇の象徴で五月人形に作られている。
 *長沢藘雪は寛政11年(1799)6月8日 享年46歳 大阪にて没す(廻向院過去帖)
長沢藘雪は広島に下向し大手町一丁目富士屋と中島本町一丁目三国屋に滞在したのは寛永年間である、
その滞留中に幾つかの絵を描いている。「宮島八景図画柵(重文)」もその一つでこの中の「弥山神烏図」には
「甲寅冬於厳島写、平安蘆和七朗正麗に贈ったもので、これは後に広島市矢賀町の保田伴蔵家の所有となっている。
⑤ 船絵馬
⑥ 算額(数学の問題を書いた絵馬)
日本独特のものである、寛文の頃(1660年代)から始まった習慣で数学の難問が解けたことを感謝して奉納した。
またその問題を広く世に知せる意図も含まれていたので人目を引くように工夫されていた。
◎門弟の就学奨励の為 ◎自分の学力を誇示する為 ◎他流に対する挑戦 など動機は様々であった、又門弟が
師の功績を讃えて奉納する事もあった、現在のように研究発表である学会とか雑誌などが無かった時代だけに算額奉納
は、少なからず数学の進歩に貢献し、江戸時代から開発された「和算」は西洋の数学にも引けを取らない高度な
ものであり和算合戦も行われた。
①呉入船山記念館  明治31年(1891)9月21日 吉田照登が「円扇形 三角形 方形などの複雑な面積の
出し方を和算で解き、この喜びと難問の解き方を後世に残す為」に奉納した
②倉橋町の桂浜神社の扁額 
③福山市 鞆町鞆の沼名前神社
④海田町の熊野神社
⑦36歌仙の絵馬

平安時代 藤原公任(きんとう)は柿本人麻呂・山部赤人・小野小町ら、歌道の名人36人の有名な歌を挙げて、
その人の歌各一首づつ選んでこれを「36歌仙絵」と云った。
歌仙絵の絵馬は本来絵馬としては異質では在るが広義としては絵馬として取り上げられている。

県内の歌仙絵の遺品の主なものは以下の通り
①八本松町松原 雷八幡神社 赤人・遍昭・深順・兼盛・小大君 5人の歌人を除いたものが31枚ある。江戸末期の奉納
②海田市熊野神社 文化8年(1825)に奉納されたもので36枚揃っている。奉納者は頼一門の9人の人達で、頼山陽の母
 静子は坂上是則と藤原元眞の絵馬を、山陽の長子で事庵は藤原兼輔・中納言朝忠の絵馬を奉納している。
③福山市 両社八幡宮 天和3年(1683)領主水野勝慶が奉納、社伝によると額絵は、土佐家極彩色、色紙は
 冷泉大納言卿御染筆とある
④厳島神社の 扇面形歌仙絵 寛永2年(1625)奉納されたもの、楬心筆 とある。
⑤厳島神社の歌仙絵  永正12年(1505)奉納とある、県内にある年記のはっきりしたものでは最古のもので、
古法眼元信画 歌は山崎宗鑑書とある
その他、有名なものに
兵庫県・賀茂神社に狩野元信の描いた「神馬図」京都・岩清水八幡宮に円山応挙の「群鶏図」などがある
馬図~36歌仙絵~船・生業(なりわい)・風俗・動物となり、絵馬は鑑賞画としての一面をそなえてきた。

いよいよ、国宝厳島入り口です
大きな注連柱が迎えてくれます。右側には「貝闕珠宮閑日月(ばいけつしゅきゅうかんじつげつ)」
厳島町瀬田又一郎 合 吉田百太郎 広島県尾道 寺西易堂揮書 志石園 木田秀助
左側には「璽書鴻寳鎮山川(じしょこうほうちんさんせん)」とあり、明治33年5月、広島市 本明徳兵衛

入り口の右には、棹の部分が細い2本の燈篭が立っています、よく見ないと気がつかないかと思いますが、この燈篭が「曽我兄弟の燈篭」です、
曽我兄弟の愛妾の手越しの少将と、恋人、大磯の虎(白拍子)の二人が彼らの菩提を弔う為に寄進した燈篭です。

更に階段を少し降りると、左右に大きな石灯篭があります、上には「カラスのブロンズ像」があるのですぐわかります。
この石灯篭は広島の、濱田治兵衛という方の寄進で、99歳にもなって元気で御島巡りできるのも、
厳島神社のご祭神のおかげである、と言い寄進したそうです。
ここ宮島では「烏」は神様の使いとして崇められており「神烏(おがらす)」という、「御烏喰式」では烏が主役となります。
ちなみに烏の種類は「はしぼそ烏です」
「鷺の遊ぶ處や い都起しま ほかけて華表 潜る諸船」  九十九暦 雨村  御島廻 廣島 濱田治兵衛
明治三十四年三月   第一月一日建立
5月15日の「お島巡り」では島の裏側にある「養父崎神社(やぶさきじんじゃ)」の前で催しされる「御烏喰式」が行われます、
海上で粢折敷(しとぎおしき)に粢団子(しとぎだんご)を載せ、舟に乗った神官達が雅楽「新楽乱声(しんがくらんじょう)」を奏でると、
弥山頂上から烏が舞い降りてきて「粢団子」を啄む、するとこの御島巡りの参加者には幸運が授かると言われている。
参拝者は全員厳格な斎戒(さいかい・・・清めの事)、をしなければ参加出来ない。

『四鳥の別れ』・・・親子の烏の別れ8世代交代のついてのいわれを記しておきます。
厳島の弥山に住んでいる一双の神鴉は、。雌雄一つがいの子を儲けます。親鴉は、夏にかけて小鴉を養育し、
養父崎の御社まで小鴉をいざない出て、御烏喰を上げる事を学ばせる。
こうして相續(そうぞく)の神鴉が無事育つと旧暦9月28日(現在は10月第四日曜)の大頭神社氏神祭の日、
親子四羽で御烏喰式を行った後、親鴉二羽は紀州熊野へ帰って行き、その翌日より、小鴉一双のみが御島廻りに出られると言われています。
この親子の神鴉の別れの事を『四鳥の別れ』と言い、昔から大野が別鴉里(べつあのさと)と呼ばれているのはその由来によるものです。
大頭神社は、大正2年に妹背の滝のほとりに社殿を遷座してきました。
これに伴い『四鳥の別れ』の神事も伝説化してしまい、現在は、日々、神社の傍らの石に烏喰飯を供えるだけですが、
明治生まれの中の人には、実際に『四鳥の別れ』の神事に列席された方もあり、
「神事の後、親鴉が飛び去りかけては、子鴉を思い、幾度も幾度も舞い戻ってくる別れの様に感涙した。」などの話をされていました。
西角井正慶(にしつのいまさよし)編『年中行事事典』、「四鳥の別れ」の欄にも
「親子のつきぬ別れのさまが数日見られ、ついに親鴉は熊野に飛び去るという」と書かれている
 何故、現在では不吉な鳥とも言われる「烏」の神事なのでしょうか。なぜ神鴉は、遠く熊野
の地まで帰って行くのでしょうか。烏は、鳥の中でも胆勇・知恵・敏捷さが傑出し、寿命も長く
親子、夫婦の愛情も非常に厚いとされています。「古事記」「日本書紀」では八咫烏が先導役として登場します。
烏は、良く方向を知るので、人が知らない地へ往く響導とされ、「日本書紀」には弟磯城(おとうかし)が、
頭八咫烏に木の葉の平たい皿8枚に食物を盛って食べさせた記述があります。
これはまさしく神使としての烏に食を饗するという御烏喰です。
また逆に、宍人者(ししひと、死人に食を与える役)としても登場します。私たちの祖先は今よりも遥かに動物と密接な生活をしていて、
彼らの挙動を以て、これを神と結びつけ、隠れた叡智の指導と解したのです。
また、熊野との関係ですが、八咫烏の伝承にあるようにミサキ(先導)烏として早くから認められています。
厳島では、今の御島廻りの神事の元となった伝承に、島の中に宮処を定める際、島の浦々を先導する陪従として烏が使わされます。
このように、ミサキ烏としての共通点が見出せます。そして、人々の熊野参詣や、御師(おし)・先達などによって熊野信仰が各地に
波及し、遠く紀州から瀬戸内海に進出してきた熊野水軍の信仰と厳島信仰との交渉も相まって熊野の地とつながったのではないでしょうか。
厳島より大頭神社の鎮座する大野郷の地まで一理余り(約4キロ)も海を隔てているにもかかわらず、神鴉が必ず飛来する事や、
年々の相續(そうぞく)の神秘を、人々は、「筆にあらわすもかたじかなし」「奇端まのあたりにする」「信心肝に命ず」などと表現して
いた。

雅楽「新楽乱声」は「鳥向楽(ちょうこうがく)」で嵯峨天皇の時代に舟遊びに奏する由、最も古い日本製の雅楽合奏曲。
そして10月28日には対岸、大野にある「大頭神社」において「四鳥の別れ」を行い、親は途中「速谷神社」に立ち寄り、紀州熊野に飛び立ち、
子供は弥山に住み着く。昔から、弥山山頂の「御山神社」では毎日、朝昼晩の3度 団子を烏に与えていた、
「神烏(おがらす)」はこれ以外の餌は食べないと言う。

いよいよ国宝の「御本社(本殿・幣殿・拝殿・祓殿)」です。昔は「大宮」と呼んでいました。
御祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、端津姫命(たぎつひめのみこと)
の宗像三女人で、相殿神は国常立尊 天照皇太神 素戔鳴尊、その他30数柱の神様が相殿(あいどの)されています。
明治元年以前は、厳島弁才天もお祀りされていましたが、現在は大願寺にお祀りされています。
広さは日本一大きな本殿となっており(純粋な神社の本殿としては国内に23社ありますが日本史上最大の本殿です)
幅24m、奥行き12mあります。これは島根県の出雲大社本殿の約2.3倍の大きさとなっています。
神社には皇室の伊勢神宮 藤原氏の春日大社 京都鎮守の賀茂神社等々ありますが、
春日大社と比較すると平安末期には厳島神社は社殿総量では約10倍位もの社殿がありました。いかに巨大であったかわかります。

安芸の宮島「厳島神社」は、推古天皇即位元年(593年)初申日に地元有力者・佐伯鞍職(さえきくらもと)が社殿造営の神託を受け、
勅許を得て三笠の浜に社殿を創建したのが最初と言われています。諸説ありますが、
この島は「斎島」といわれており、斎を「いつき島にまつれる神」という意味から、「伊都岐島大明神」等呼称され、
現在は「厳島神社」と呼ばれています。
原始宗教の名残で島全体が「神の島」として崇められていましたので、陸地に社を創るのは恐れ多いと言う事で海中に社殿を建立しました。
創りは神殿造」で屋根は「桧皮葺」となっています。御祭神は天照大神の娘である宗像三女人の、
「市杵島姫命」「田心姫命」「湍津姫命」で相殿神は「国常立尊」「素戔鳴尊」「天照皇太神」、その他30数柱の神が祀られています。

伊勢平氏の流れをくむ「平清盛」はここ「厳島神社」を氏神にしました、
というのも平氏には正式には「氏神」がありませんでした、平野神社が氏神ともいわれていましたが、
この神社は桓武天皇との関係から「平氏の氏神」としての性格が濃かったのですが、源氏・高階氏(たかしな)・大江氏の氏神でもあったのでした。
** 平野神社 八氏(はちし)の祖神(八姓 はちしょう、とも言う)
1秋篠氏 2大江氏 3清原氏 4源氏 5菅氏 6高階氏(たかしな) 7中原 8平氏

清盛が久安2年(1146年清盛29歳)の安芸の守に任官され、その後平氏の氏神として尊崇し平家一門の権力が増大するにつれて、こ
の社を尊崇する度合いも増し仁安3年(1168年清盛51歳)社殿を現在のような姿に造営しました。

安芸守・・・瀬戸内海は西国や九州・大陸からの産品が京へ入る最大の通商路で海上交通の要衝である
安芸守を支配する事で清盛は莫大な利益を得ることになる。是により平家一門の経済的地盤は強化された。
日宋貿易を推進したのもこの安芸国で国守の経験から得た物である。後の1156年保元の乱が起こる(この時は播磨守)
「この時には清盛は播磨守に任官」、経盛(1156年)9月17日 頼盛(1158年)と続けて安芸守に任官される
保元3年、清盛が播磨守になった事で、頼盛は清盛の知行国・安芸の国を受領する
国司(国守)・・・大国(13カ国)「播磨の守」 上国(35カ国)「安芸守」 中国(11カ国) 下国(9カ国)。
    地方行政単位である
国の行政官として中央から派遣された官吏、四等官である守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)等を指す
当時都からは、後白河上皇・建春門院・中宮徳子・高倉上皇・建礼門院をはじめとする貴族や皇族が訪れたので、
都の文化や建築が宮島に入ってきました。
現在も厳島神社に伝承されている「舞楽」は清盛によって、約820年前に大坂の四天王寺から移されたものです。
社殿は自然災害により何度か建て替えられていますが、清盛が造営した当時の姿を今に伝えています。
(日本に寝殿造といわれる建物はこの厳島神社だけとなっています)
当時は内宮に37宇、鳥居4基。外宮には19宇、鳥居1基、内宮・外宮あわせて56宇と5基の鳥居がありました。
神の島と崇められていた為人は住んでおらず、
社家・供僧は対岸の外宮から毎日通っていました(外宮は対岸の地御前にありました)。
内侍(他の神社では巫女という)のみは、内侍の館が築かれ住んでいたようです。
内侍については後段で詳しく説明を致します。

全部で56宇と5基の建造物があると言う壮大な建築物は、当時の藤原氏の春日大社に比較しても、
容積でいえば約10倍というから、いかに大きなものか(しかも海の中に建っている)驚きます。