知りたい宮島

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知りたい宮島 1新宮島口

2024年06月05日 09時33分55秒 | 貴方の知らない宮島
世界文化遺産 安芸の宮島について触れさせて頂きます。
その前に
2023年5月に、大鳥居の事について発表があります。
内容は、令和4年(2022年)12月18日には「大鳥居が完成」しました。
柱の模様(くしびきの模様が施してある)。炭素系カーボンで外回りを覆っている為、半永久的?とも言われています
施行途中の画像です、参考までに


いよいよ宮島に向けて出発です

JR宮島口駅を降り、国道2号線の下(地下道)を抜けると、フェリー乗り場が見えてまいります。また広島電鉄宮島口駅(終点)下車からは目の前が宮島口になります。 正面ロータリーの前には「蘭陵王」の銅像が皆様を迎えてくれます。

現在は正面に向かって左側には、新しくなった「広電電車、宮島口駅」が7月にオープンしました。その隣には来年2023年3月に完成した「立体駐車場」があります。(料金1200円)他の駐車場は1000円、既に多くの観光客が利用しています」。いままでは何かと宮島に来島される方々には「駐車場」でご不便をかけていましたが、今後は解消される事と思います。また、国道2号線の赤坂交差点も改修される予定で、出来上がればより一層宮島に来るのが楽しみになります。


フェリー桟橋、向かって右側が「JRフェリー」左側が「松大フェリー」となっています。どちらも宮島に向けての所用時間は10分です。また乗船券を購入される観光客の方が多く並んでおりますので、早めに購入された方が良いかも?。
JRフェリーは途中大鳥居の前を通過する為、大きく迂回します。その為5分位時間が多くかかります。帰りは10分です。フェリー料金は大人200円で、
別途入島税が100円必要です。(PASPY,Kitaca,momoPASMO,SUiCa,manako,Toica,Pitapa,Icoca,nimoka,Suica,はやかけん等11種類)使用することが出来ますが、窓口に利用できるカード名が表記してあります。)フェリー乗船後約5~6分位すると、前方右手の弥山山頂を見てみてください。山のかたちが「仏様」横たわっている様に見えます、(顔、眼 唇 胸)などがよく解ると思います。(広島から宮島に車で行く途中の、広島バイパス 国道2号線 からも、寝観音を見ることが出来ます)

(目)の所にあたるのが、弥山登山コースの「大聖院コース」の途中にある、幕岩と呼ばれる部分で、高さ30m位 幅200m位の花崗岩がむき出しの部分です。
お顔のすぐ左手にほんの少し低く見える山が「弥山」です。535mあります。また海上には多くの「筏」が見えます。これは広島牡蛎の養殖筏です。広島の牡蛎は全国の約7割(10万2千トン)を生産しています。宮島に渡ると多くの牡蛎を食すお店があります。
宮島の桟橋は「繁忙期」には大変混雑します。現在の桟橋は昭和51年に完成、当時は来島者250万人位を予想しての桟橋建設でしたが、現在は約460万人からの観光客があります。

世界文化遺産の島「宮島」、日本三景の島「宮島」、特別史跡・名称に選ばれている「宮島」。弥山頂上付近、6%(180ha)は特別天然記念物に指定。日本三大奇襲戦のあった「宮島」
更には明治時代から昭和の時代にかけて、
明治天皇、大正天皇、昭和天皇、上皇・上皇后美智子様 更には現天皇陛下・雅子妃殿下が参詣に寄られた島、「宮島」。

大変残念なのですが、大願寺の松 昨年末より「松枯れ」が見られる要に也、9本の内5本を切り倒し、対処してきましたが、この度松枯れを食い止める事が出来なくなり、残り4本を切り倒してしましました。
「松枯れ」の原因は、マツノザイセンチュウと言う線虫がマツノマダラカミキリによって運ばれ松が枯れる状態を一般的に松枯れと云います。「伊藤博文がお手植えした松」でしたが、残念です。今現在(令和6年5月末)には、松の根も撤去されて何もありません>

1500種もの植物が植生し植物の正倉院とも言われている「宮島」(植物については、広島県で見られる1/3強 732種が確認されている)、
弥山頂上は「弥山天然記念物」に指定されており、またこの島は「里山が形成されなかった」
神の島と言われ、人が住まないいたことから、里山二次林が発達せず、この島特有の植物が育成している海岸から海まで天然の砂浜がある場所も日本では大変珍しい島です、映画のロケにも使用されました。これらの事は「植物学者」からも驚嘆の目で見られている島、「宮島」モミ・ツガ・カヤ・ミミズバイがセットになって育成している所は世界中どこにもありません。
絶滅危惧種の「ミヤジマトンボ」の生息地がラムサール条約に登録された、「宮島」です。
(現在日本には52箇所あり、40番目に宮島が登録されている。)

宮島は「奥」が深い島です、神社だけではありません、ゆっくりと観て、味わって下さい。
(2020年)(令和2年)10月21日には、宮島水族館において、ミヤジマトンボの実物の幼虫や保護活動の解説パネルを展示した企画展「ミヤジマトンボのキセキ」が開催されました。またこの様な機会があればいいですね
世界で宮島と香港の一部のみに生息が確認されており、宮島での生息地も僅か4か所。場所は非公開となっており、陸路では困難の為、一般の人が野生で見るのは難しい。もともとミヤジマトンボのヤゴは他のトンボのヤゴよりも弱く、捕食されやすい。ただ、他のヤゴが生きられない、海水が入り込む潮汐(ちょうせき)湿地に住むため、生き延びたと言います。後段にて出てきますが、8月5日に保護活動の方々が交尾直後のトンボを虫取り網で捕獲し(6匹)、その場で採取した卵(6000個)から生まれた。
会場ではメスの尻尾を水に付けて採卵する様子や、羽化する瞬間を撮った貴重な映像も展示してあります。是非一度足を運んでみてください。その他「絶滅危惧種」のハクセンシオマネキ、スナガニを、回廊入口のすぐ左手で見ることもできます
更に、嬉しいニュースがあるので皆様にお知らせいたします。
紅葉谷川の
「庭園砂防公園」施設が国の重要文化財に指定(建造物)されました



画面をクリックすると、拡大写真が見れます

2020年10月16日、全国初の指定となるこの庭園が「歴史的な価値や景観に配慮した形状が評価された」として国の文化審議会において指定される見通しとなった。弥山から厳島神社南側に流れる紅葉谷川沿いには、紅葉の名所「紅葉谷公園」がある
重要文化財指定区間は約688mに及び、高さ約3~3.5mの五つの堰堤や護岸施設等からなる。堰堤の役目は段状で、川の勾配を緩めて土石流の勢いを抑える効果がある。
「知りたい宮島 23」を参照してみて下さい。
(この場所は宮島の最高峰弥山に登る弥山登山ルートを通る道であり、このルートには堰堤が15設けられている)
元々は1945年9月の枕崎台風による土石流により大きな被害を被り復旧には1948年から2年間の工事において「砂防施設(堰堤)」が完成しました。
治承4年(1180年)までは、神様が弥山に滞在されるとされ、旧暦の11月から2月までの4か月間は登山禁止でもあった。
島は今から約6000年くらい前に対岸と分離して出来ました、全島全体が花崗岩で出来ております。
対岸の山並みを見ると、宮島の弥山の高さとほぼ同じ高さの山々が連なっています、昔は対岸と宮島は陸続きでした。浸食により出来た海峡です、大野瀬戸は対岸まで焼く1,8キロしかありません、海の深さもわずか8m弱です。(島の反対側の呉、江田島方面の海の深さは70m前後あり、海上自衛隊の船舶の航行を見ることができます)
全島が花崗岩からなる島で周囲約30km、島の面積は30.2k㎡、一番高い山は弥山(みせん 535m)、となっています。宮島は広島湾の最西端に位置し、広島市中心部からは約20kmの南西海上にあります。北東約9km、南西約4kmの長方形に近い形をしています。冬季には内陸の冷え込んだ風が太田川の谷を通って広島湾に吹き込みます。「弥山おろし」はこうした冷たい風のことを言い町の人には厳しい風となります。対岸から眺めると、島の美しい稜線は「観音様の寝姿」にたとえられています。(鎌倉から室町にかけて人が住むようになる)

中世以降、厳島神社の門前町や瀬戸内海航路の港町として発展し、近世には芝居や浄瑠璃の興行も行われ、名勝地となる。
神社の東西には東町・西町が存在し繁栄しました。西町は社家・供僧・武士が住み、東町は一般町民が暮らしていた。町の個数は、天明3年(1783年)の「厳島町絵図」によれば、東町で394戸、西町で288戸になっていた(全部で683戸)
宮島町は平成17年(2005)11月3日に近隣町との広域合併により新生廿日市市として生まれ変わりました。現在は人口1418名(2023年12月1日現在) 戸数787戸。(昭和25年には5027名(70%減)、1191(30%減)世帯が住んでいました)
平成17年11月には、全国規模で実施された「広域合併」により、新生廿日市市(はつかいち)として、生まれ変わりました。それまでは佐伯群宮島町と呼んでいました。
この時の町の木は紅葉で、花は「馬酔木(あせび)」と言い、小さな袋状の花を咲かせます。ぼちぼち蕾が赤くなり始めています、しかし「アセボドキシン」と云う猛毒を含むため、鹿は食べません。ツツジ科の植物には「グラヤノトキシン」、などの有毒物質が含まれています。個々の種の有毒物質含量は大きく異なります。したがって中毒量の決定は難しいのですが、ネジキの場合、牛では体重の1%の摂取で死亡すると家畜有毒植物学には記述されています。またアセビでは、山羊の場合、体重の0.1%の摂取で中毒が起きます。

現在、来島される観光客の方達は年間450万人以上の方達が「宮島」を訪れています。
昨今、コロナ前は外国人の観光客は約30万人でしたが、最近はその2倍位の観光客こられる予定と言われています、今年アメリカの旅行サイトの「満足度ランキング」でトップが、ここ世界遺産の宮島です
更に、最新の調査で、寺や神社を含む世界遺産の内、行って見たい所はどこですか?の問いかけに対しては、第一位が「古都京都の文化財」で38%、 第二位が宮島「厳島神社」で32%となっています。昔から「宮島」には 野生の鹿が多く住み着いています、現在全島で約500頭前後で推移(毎年11月にはボランテイアが数を確認)
お土産店辺りには、鹿が多く見ることが出来ますが、平成8年世界文化遺産に認定されたのを継起に「鹿の餌」が販売禁止となりました。神の使いで神鹿(しんろく)と呼ばれてきましたが、神鹿(しんろく)宮島の鹿は大昔から宮島に住みついており、
山口大学の先生によると、鹿のDNAを調べたら、山口の鹿と同じであった。という事から宮島の鹿は遠く昔に山口から来た鹿とわかりました。
鹿については、人から鹿へ、鹿から人へ「病気や寄生性の動物やマダニ」などを媒介者とした、ウイルス性の病気あり注意が必要
(現実に山口県では何人かが死亡している、特に赤ちやんや幼児は注意が必要)
鹿の耳辺りは特に「マダニ等」の寄生虫がいるので、要注意であります。可愛いからといって、むやみに触らないほうが良いかと思います
*人が鹿に餌を与えると、鹿は動かずして餌にありつける為、動かなくなり、ひいては健康に良くないと言う結果になります。
島内において、鹿の食べれる植物は少なく、食べれない植物が残っています。
① 有毒植物としては、アセビ シキビ
② 物理的な障害(トゲ等)で食べれない植物は、ホウロクイチゴ、コシダ、ウラジロ、カンコの木
③ その他(におい等)で食べらない植物は、ハスノハカズラ、レモンエゴマ、シバ 等々  がある。
重複するかもしれませんが、鹿について少し述べておきます
鹿の胃袋は4つあります。1~3の胃袋は微生物が住んでいます。4番目の胃袋は胃液が出てくるようになっています。鹿は一日に約3~6キロの草(植物)を食べます。糞は1回で約100箇位出し、1日に12回廃糞します。鹿は約1000種の植物を食べます。したがって、東北地方では寒い為、鹿の食害が少ないです。
鹿の角
4月から初夏に生え出し秋に完成し、翌年3月頃に抜け落ちます。
1歳・・・・1本の棒の様な角
2歳・・・・少し枝分かれする
4歳・・・・3本か4本の枝分れした立派な角が這える
鹿の寿命
オス・・・4~6歳
メス・・・6~8歳が寿命です。
鹿の妊娠 餌が豊富な場合1歳で妊娠します、1歳の秋には妊娠できるようになります。

桟橋を抜けるとすぐ左手に「日本三景の松」が植樹されています。なかなか気が付かない
人が多いい様ですが


宮島と天橋立は「黒松」 松島は「赤松」です、この三箇所に共通するのは、松・海・牡蠣と寺・神社です。宮島・松島は「冬牡蠣」 天橋立は「夏牡蠣」です。更に良く見ると、横に「紅葉」の木があります。(残念ですが現在はここにありません)
この木は大変変わった木で、毎年11月20日前後になると、「赤」「黄色」「緑」の三色が同時にでてくる珍しい紅葉の木ですが、残念な事に心無い人によって枝が折られ枯れてしまいました。水族館の前の「大元公園」に2本あり、全島で2本確認されています。
黒松の花の開花時期は4月25日頃、赤松は1週間後れの5月始め頃になります。
(黒松・赤松の二種は松葉の針葉が2本の二葉系、ハイマツ・キタゴヨウマツ・ヒメコマツは五本の針葉の五葉系となります)
「松」は万葉の頃から常緑の樹姿を美しいとされ、日本人の心の伝統の中には高貴の象徴とされて着ました。
宮島は当然、厳島神社。天橋立は智恩寺 松島は瑞巌寺 となっています

「牡蠣」について
フェリーで宮島に来るときに海の上に見える「筏」が牡蛎筏です、多く見えますがほんの一部です。
広島は牡蠣の養殖は全国の60%を占めています。
なぜ牡蠣の養殖が盛んになったのか、それには広島は牡蠣の要職に適した3つの条件があるからです。
①海水温度、 水深5メートル付近での温度は、夏で25度 冬で20度が最適でこの様な条件が揃うと牡蠣の活動元となる「グリコーゲン」が蓄積されていきます
②牡蠣の餌、 広島湾には太田川が注いでおり、この河川から「牡蠣の餌」である、植物プランクトン、窒素、リン、シリカなどが多く含む海となっている。
③海水濃度牡蠣は濃度の薄い海水を好む(0,8%~3%位)、太田川からの河川水が広島湾に注ぐ事で海水濃度は年間2,3%に保たれている(通常の海水の塩分濃度は3,5%であることに比べると、その濃度の薄さがわかる。
水温について、
   水面(水温)   水面 水面
  水面の近く 餌が多い 〇〇〇〇 夏場       秋には水温が下がる
  が餌が多い 牡蛎  水温が高い 〇〇〇〇       と餌が多くある 〇〇〇〇

牡蛎を上下する事で
       餌が少ない 水温が低い〇〇〇〇     牡蛎は産卵を続ける 〇〇〇〇
                〇〇〇〇
   夏場は水面温度が高い為 秋になると牡蛎を上げる
   牡蛎を下に下げる
これまでは         最近は
     冬春 夏 秋         冬春 夏  秋
  餌が多い       表面温度が高い


表面水温が下がると餌が多い 餌が多い、しかし深いところは
           酸素が十分でない為牡蛎が死ぬ
             その為牡蛎を引き上げるタイミングが難しい

* その為、夏に涼しい所にいた牡蛎を秋に水面の戻すのを遅らすとどうか?
その為10月からの出庫開始となった(全国出庫は11月1日から)。しかしこの「ずらす」タイミングが難しい
その為最近では,CTTV(インフォメーション、&コミュニケーション テクノロジー)のブイを海面に浮かべ、1時間ごとに海面温度情報
を水面下1,5,10m毎に情報を得て養殖を始める(県内17か所)。水温が27度以上になると死んだ牡蛎が増える事が解った
ところが最近は温暖化の為、従来の養殖方法が適用しなくなってきている

1971年から2000年の平均海水温度は以下の通り
      5月 6月 7月 8月 9月 10月
      14.8 17.6 20.6 24.2 24.8 23.3
昨年の令和4年は 15.5 18 23 25.2 25.9 25.4
特に9月~10月の水温が高いままが問題で
高いと産卵期間が長くなり、牡蛎が死滅する
①夏場の高水温が続く間、牡蛎は産卵を繰り返す  ➁しかし、秋になって海水温が下がらなければ、牡蛎は産卵を続ける
➂その為体力を激しく消耗する(牡蛎は温度が高いと産卵を繰り返す)
④牡蛎はすごく痩せてしまい、その後回復が遅れて死にやすくなる ⑤水産量が減る ➅価格の上昇のため売れない

このCTTVを利用し始めて、令和5年から広島の牡蛎がヨーロッパは輸出される事になった(尾道の水産加工会社)
広島カキの特徴は2~3年かけて育てるので牡蛎の殻が大きくて(ゴツい)丈夫な牡蛎となり、冷凍出庫をしている
ヨーロッパは昔から殻付き牡蛎の生の食文化の為、カラ付きカキを冷凍で出荷(殻が薄いと、旨みが殻をあけた時に外に出るので
カラの厚さが重要になってくる
2~3年物はカラの厚みが4~5倍仁なる、東広島(三津湾)の牡蛎は「EUの生食用の基準をクリアー」した
令和5年2月から出庫開始し3月から本格的な輸出開始となる。EUでは5億人のマーケットがある

参考として
農林水産省の漁業・養殖業 生産統計(2016年)では、
広島県のカキ・・・・10万2000トンで全国一位
都道府県別の生産量で言えば
宮城県・・・・・・・2万1417トン
岡山県・・・・・・・1万3746トン
広島県の呉のみでは・・・2万2966トン
広島県のカキ生産量が突出している事が判ると思います。

 更に広場に出ます。この広場は昭和51年に海だったところを埋め立てた所となっています。
目の前に岩肌の小山が見えますが、「潜流門」といいます。このトンネルの前は「海」でた。
更に コーヒーショップの当りから隣の大きなホテル(錦水ホテル)辺りは、湿地帯でした。
トンネルを抜けた辺り(山一食堂)の前は幅が3mくらいの小路でそぐその前は海でした。今となっては考えられません。
広場には「平清盛」の像が立っています、2014年(平成26年)3月20日に寄付により出来たものです。東の方角を臨んでいますが、これは都の方角に当たります。更には来島者の方々を歓迎する意味からでもあります。



姿は僧ですが、これは清盛が50歳の時(1167年)太政大臣まで上りつめた後、出家して「静海・浄海(じょうかい)」と名乗っていた時の姿です

この広場には夜な夜な「狸」が出没します、普通の色の狸と「白い狸」を見ることが出来ます。以前は「白狸」多くいたそうです。私も最近見ました(夜8時以降ですけどね) 先日(令和5年5月)も旅行者の方が、宮島に宿泊した際に見たと言われていました。。
明治生まれの方のお話では、昔は「野生の鶴」がいたとい言うそうです
日本三景の碑が見えてまいります。

寛永20年(1643年)儒学者 林春斎(はやししゅんさい)によって書かれた「日本国事跡孝」の中において、「三所の奇観」と紹介し、後に 福岡藩の儒学者、貝原益軒が元禄2年(1689年)に出した「安芸の国宮島景勝図并記事」の中で「日本三景」と云う言葉が使われ、それ以降「日本三景」と呼ばれるようになる。
貝原益軒は儒学者でもあり、博物学者でもありましたが、江戸時代有数の「旅行家」でもありました。「東路記(あずまじのき)」「己巳紀行(きしきこう)」などにまとめられています。
これらはその後の「紀行文」に大きな影響を与えた名著としても知られています。
「日本国事跡孝」とは現在のルルブの様な「観光本」です、本物は「歴史民俗資料館」において展示してあります、大きさは縦20cm横10cm位の本です
        神社       寺
三ヶ所に共通する 松島    鹽竈神社(しおがま)    瑞巌寺
    天橋立  籠神社(この)    知恩寺
    宮島    厳島神社    大願寺 大聖院 


ちなみに、新日本三景は①大沼(北海道)②三保の松原(静岡)③耶馬溪(大分)となっています。 大沼は宮島と同じ「ラムサール条約」にも登録されていますね。現在日本には53箇所ありますが、宮島は40番目に登録されています。絶滅危惧種みやじまとんぼの生息地です
2020年7月31日、新しい情報があります。
31日、ミヤジマトンボの繁殖に伴う画期的な行事がありました。世界で初の試みと言われています。「ミヤジマトンボ保護管理連絡協議会(会長、坂本 充)」の方達により、新しく作った「保護地」にミヤジマトンボの成虫6匹(メス)から取り出した6000箇の卵を移しました。ヤゴからトンボになるのは来春を待たないといけないのですが、なんだか夢のある、ワクワクするようで来春が待ちどおしいです。
*「ミヤジマトンボ保護管理連絡協議会」13名の方々により構成されています。
広島市森林公園こんちゅう館、広島虫の会、宮島自然植物実験所、広島工業大学、日本トンボ学会ミヤジマトンボ保護部会、
広島県野性生物保護推進員ミヤジマトンボ担当、広島森林管理署、環境省中国四国地方環境事務所、広島県環境県民局自然環境課、宮島水族館、廿日市市環境政策課、宮島パークボランテイア、広島県環境県民局自然環境課。の方々により構成されています。

東京都江戸川区葛西海浜公園と宮城県南三陸町志津川湾が今年新たに登録されました。
更にすでに登録されていますが、兵庫県豊岡市丸山川下流域の、湿地面積が574haから1094haへと拡大され、全国で15万5174haになっています。
15万5174ヘクタールといってもピンとこないので、具体的に示してみます。ちなみに100m×100mが1ヘクタールですよね。
東京ドームに換算すると約3300個分   広島のマツダスタジアムに換算すると約3070個分
甲子園球場に換算すると約2860個分   福岡の福岡ドーム球場に換算すると約2240個分 になります。
でもあまり実感はわきませんね。東京23区が619㎢あるので、約2.5個分の広さになります
ラムサール条約は正式には「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」と言います。

絶滅危惧種については、宮島には他に2種の絶滅危惧種をみる事が出来ます。
2006年に指定された「ハクセンシオマネキ」「シオマネキ」「スナガニ」です(神社を入るとすぐ左手の砂浜で見る事が出来ます)。
*昭和30年代より護岸工事等の為、全国で干潟が無くなりはじめました。その為大きく数を失いました
現在、熊本の天草 永浦干潟が国内で最大級の干潟で多くのカニを見ることが出来る
宮島は、世界遺産の島、日本三景の島、特別史跡・名称の島、絶滅危惧種(ミヤジマトンボ・ハクセンシオマネキ(画像参照)・シオマネキ・スナガニ)の生息地
として、日本でも稀有な存在の島となっています。

* 新日本三景   北海道大沼 静岡県三保の松原 大分県耶馬渓
* 日本三舞台   厳島神社高舞台、 住吉大社石舞台、 四天王寺石舞台
* 日本三弁財天  宮島大願寺、 江の島、 竹生島
* 宗像三女人   市杵島姫命 田心姫命 湍津姫命
* 文化遺産の中で
日本三大木造建築  厳島神社 姫路城 法隆寺
 以上、日本人は、「日本○○三〇〇」が好きですね!

隣には
世界文化遺産碑があります。今年で登録後25年になりました。
平成8年(1996年)メキシコ メリダ市で行われた、第20回世界遺産委員会で正式に
「世界文化遺産」に登録が決まりました。同時に広島の「原爆ドーム」も登録されています。ユカタン半島に位置する(全地域が石灰岩台地)
メリダ市、人口83万人、メキシコ東南端の魚の尾びれの様な形をした半島で、メキシコ、ベリーズ(旧ホンジュラス)、グワテマラ の3か国が存在する4世紀から10世紀にかけて「マヤ文明」が栄えた土地でもあります。

世界遺産とは
「世界的に価値の高い、人類共通の自然・文化遺産を各国が協力をして保存を図る」と言うものです。
具体的には、厳島神社社殿群、社殿の前の大鳥居までの海、神社本殿裏の弥山原始林(天然記念物指定)
で全島の約14%(面積は431,2ha)です。
2014年は「富岡製糸」が認定されました
2015年は「明治日本の産業革命遺産」が新たに認定されました。
(九州5ヶ所、佐賀・長崎・熊本・鹿児島・福岡。山口、岩手、静岡)
2016年はトルコ・イスタンブールにて行われた会議で国立西洋美術館(本館)が認定されています。
この年(2016年)からの申請は、各国1件の申請となりました
2017年はポーランド・クラクフにて開催、沖ノ島が登録されました、 2018年は                                  バーレーン・マナマで世界遺産会議が開催されました。
これにより、現在日本には世界遺産は25か所あります、自然遺産5か所、文化遺産20か所です
世界では1154箇所あります。
文化遺産897件、自然遺産218件、複合遺産39件、更には危機遺産が54件です
2019年の世界遺産会議では、アゼルバイジャン・バクーで開催され。「大阪府の百舌鳥・古市古墳群」を推薦することが決まり、2019年7月には世界遺産に決まりました。
これで、世界遺産は日本では25か所(世界で11番目)、全世界では1154か所になりました。更に2020年(オリンピックイヤー)には
①北海道・北東北の縄文遺跡群
②奄美大島・徳之島・沖縄島北部及び西表島の4島
この2つの内、どちらかをを推薦することが決まっていしたが(1国からの申請は1件と決まっている為)
➀の北海道・北東北の縄文遺跡群を推薦することが決まりました。また2021年には
*世界自然遺産が1ヶ所増えることになりました、ので日本では世界遺産は25ヶ所(文化遺産20 自然遺産5か所)となります。
 「徳之島 沖縄島北部及び西表島」が追加になる、自然遺産です
2020年には中国福州市で世界遺産委員会が開催予定でしたが、コロナの関係で今年「オンライン」にて上記2か所が
世界遺産に決定した次第です。
2023年の世界遺産申請においては、文化審議会は2021年12月28日、世界遺産文化登録を目指す国内の候補に「佐渡金山遺跡」
(新潟県佐渡市)を選びました。
佐渡金山遺跡は、西三川砂金山、相川金銀山、鶴子銀山からなります。「17世紀における世界最大の金生産地。
世界中の鉱山で機械化が進む16~19世紀に、伝統的手工業による金生産システムを示す遺構」
2023年の登録審査を受けるには今年の2月1日までに推薦書の提出が必要。
上手く推薦が叶い、世界遺産になる事を願っています。
しかし、残念なことに今年(令和4年)の申請は取りやめになりました

原爆ドームも同時に世界遺産に登録されていますが(1996)、これは負の遺産と呼ばれるもので、他には
➁アウシュビッツ、ヒルケウナ強制収容所、➂バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群がある
原爆ドームを決める時には、アメリカ、中国が反対し満場一致での遺産登録ではありませんでした。

日本の世界遺産は1993年(平成5年)に「法隆寺地域の仏教建築群」として登録されたのが最初です。
現在(2023年)日本の27の都道府県に世界遺産があります。
原爆ドーム(1996年)は7番目 厳島神社は(1996年)8番目として登録されています。

広場左手の小高い丘(標高は27m)は1555年10月1日にあった「厳島合戦」場です。
宮尾の城(要害山)、厳島合戦(1555)で陶晴賢軍を誘き寄せる為に、毛利元就が築いた「囮」の城。城には約300-500名の毛利軍が立て籠もる。

陶晴賢軍2万人 毛利軍3~3.5千人とも言われ、9月30日の夜陰から、翌10月1日の早朝に掛け 博打尾峠を越え一気に攻め1日(早朝4-14時)で陶軍を滅ぼす(合言葉は勝つか、と言えば勝つ・勝つ、でした)堀割を設け、西側に5郭、東側に10郭が構築されていた。「郭」とは囲いの事。この時3日分の食料(炒り米等)、棚木1本 縄1束を全員に支給する。

「元県立広島大学の秋山教授の言葉
最近の研究で判ったことは、陶軍の人員は2万とも言われているが実際、大内氏の家臣で重鎮といわれる人は陶軍には参加していなかった,また、毛利軍が3000名とも言われているが、瀬戸内の有力者が多数参加した為、陶軍は多めでも10,000人。また毛利軍は少なめでも5,000人と言うことが判ってきた、実際の戦いでは言われている様にな、大きな差は無かったのではないか、と言うことが解った。」厳島合戦については後程詳しく述べています。参照してください。
小高い丘の麓には「石碑」があります、皆さん気がつかないで通り過ぎていかれますが、

明治天皇広島巡幸
1885年(明治18年)4月、福岡県小倉近郊において、広島の第五鎮台と熊本の第六鎮台の諸兵を合同して実施大演習を行うことが企画され、この演習の状況を天皇に親閲を願う事を参謀本部長と陸軍卿が連書して上奏したのであった。
明治18年7月15日に告示があり、明治天皇は山口・広島・岡山の3県下を巡幸の為に7月26日に東京を出発される事になったのである。
この時の山口県から広島に至る巡幸日程は次のようであった。
7月26日 軍船「龍驤」に座乗、春日、筑紫の二軍艦に護衛されて品川を出港
7月27日 午後6時10分に神戸港に投錨。
7月28日 午後7時50分伊予大浦に投錨(現在の愛媛県伊予市、松山市の隣)
7月29日 午後7時45分に、防府 三田尻沖に着艦
7月30日 山口県庁に臨幸
7月31日 午前4時50分山口の宿泊所を出発、8時三田尻に到着、本艦龍驤に座乗、10時45分出港
午後6時 厳島湾に投錨、大聖院の御座所に到着(大聖院 観音堂)
8月1日 厳島神社に参拝されて幣帛神饌を捧げられ、別途神社の修繕費として「金一封」を充てるようにと県令に告げられる
更に浅野宮司の案内の説明を受けられ社内周辺を巡覧されて、午後1時 行宮(天皇御幸時の仮御所、大聖院観音堂)を出発。
対岸の宮島口より広島方面へ電車で5分のところに「阿品駅」がありますが、この駅から150m広島寄りに「明治天皇お揚がり場公園」があります。大きな記念石碑があるので、すぐに解ります。このお上がり場公園は、明治天皇が8月1日に宮島にお泊りになられた後、翌日広島に向かう為に「船を此処に着岸」した場所です。
当時の桟橋は二つ作りました。①長さ75.6m×幅5.4m 高さ3.3m
➁長さ21.6m×幅3.6m 高さ3.3m。の大きな桟橋でした。
一度のみ着岸する為の「桟橋」でした。現人神明治天皇だかですね。

2時20分地御前村阿品に上陸されたが、ここでも村民が花火を打ち上げて祝意を表し、ここから馬車で廿日市市村の岩尾沢太郎宅に着かれしばらく休憩の後、草津村の戸長であり酒造業を営んでいる小泉甚右ヱ門の家に御着きになったのであるが、時は午後3時30分であった。同家には約40分余り休息されて、一路広島に向かわれ、同日午後5時10分広島でのご宿泊所となっていた偕行社(かいこうしゃ)に到着された。

公益法人偕行社(かいこうしゃ)・・・日本の交易財団法人。大日本帝国  陸軍の元将校・将校生徒・軍属高等官および、陸上自衛隊の元幹部の親睦団体
                                          龍驤型  龍 驤・・・・・・竣工1933. 5. 9、最終履歴1942. 8.24小型空母。当時唯一の小型空母鳳翔の代艦として建造された。
上皇、上皇后美智子様も来島されています。歴代の内閣総理大臣も幾多の方々が来島されている島です。    
広島に「首都」が225日間置かれた。
明治27年6月5日から明治28年4月27日までを「日清戦争」と呼んでいる     明治27年(1894年)9月10日 広島に「大本営」が置かれる,15日 明治天皇 広島に入る、明治28年(1895年)4月27日  清との間に「下関条約」が締結される, 4月27日 大本営は京都に移る(この間225日)

大本営とは、戦前の日本において天皇のもとで戦争を指導する最高統師部の事
広島大本営
明治27年(1894年6月5日)設置され、9月10日に広島に移った。以後講和条約締結後の明治28年4月27日に京都に移るまで7ヶ月以上(225日間)に渡って広島に大本営が置かれた
明治27年9月15日、明治天皇が大本営に来る
大本営には、臨時帝国議会仮議事堂が設置。左に衆議院 右に貴族院(後の参議院)、   中央には玄関と車寄を設ける。  更に天皇の休憩所である「御便殿(ごべんでん)現在の比治山公園内になります」もあり、広島憲兵隊本部もあった 広島に移ったことは、軍の士気を高め戦略上の利点を得ただけでは無く、開戦に消極的だった
「明治天皇」が率先して戦争を指導する契機になると共に政府に反対する勢力や、旧大名を戦争に協力させて挙国一致体制を作りあげ、日清戦争勝利するうえで大きな役割を果たした
この時、広島藩最後の広島城主、浅野長勲(ながこと)が広島に到着した明治天皇を広島停車場(現在の広島駅北側)で出迎え、又11月6日には浅野家の私邸であった泉邸(今の縮景園)に天皇を迎えている。
浅野長勲(ながこと)明治2年(1869年)藩主となるが、廃藩置県により「県知事」となる。         昭和12年(1937年)96歳で死去、昭和に入って最後の大名経験者として有名であった。広島修道高校・中学の前身を設立する。

威海衛戦勝碑 ・・・・大鳥居の前にあります、良く見てください。山東半島の先端にある「威海衛市」 現在の威海市(人口約240万人)     明治28年1月20日~2月12日の間に行われた、日本海軍による清国の制海権を完全に掌握する為北洋艦隊襲撃と海軍基地の制圧を行う。その記念碑
大鳥居のすぐ近くにあります。
皆さん何の碑か気が付かれないで通り過ぎる方が多いです

2022年11月~12月のニュース(毎年この時期になると開催しています、今年はコロナの関係で?です)
少し前(1昨年)になりますが、11月17日~12月16日の間、厳島神社本殿の裏にある、「厳島神社宝物収蔵庫」において、
国宝中の国宝と言われる「平家納経33巻」の内、2巻又は3巻が一般公開されています。平成8年(1996年)に世界文化遺産に登録された時には「平家納経33巻」がすべて一般公開されましたが、それ以降は数年に一度の割合で、公開されて
きました(全巻ではなく、2~3巻で他は古神宝類、内衣 などです)。

平家納経33巻は 法華経28巻に開教(かいきょう)の無量義経(むりょうぎきょう)と結経(けっきょう)の観普賢経(かんふげんきょう)、
他に阿弥陀経(あみだきょう)、と般若心経(はんにゃしんきょう)、平家納経を納める目的を記した平清盛の「願文(がんもん)」の計33巻で構成されています。
法華経は「正しい教えの白蓮」と日本語訳され、仏の教えが例え話と共に説かれている、平家一門の繁栄を祈り、一族郎党32人の結縁によって
書写された経文で、平安時代に流行した装飾経の内、現存するものでは最高傑作である。
 装飾には金銀の切箔(きりはく)や砂子(すなご)、野毛(のげ)などが贅沢に使われており、写経部は、黒墨さらには金泥(きんでい)や
銀泥(ぎんでい)、群青(ぐんじょう)、緑青(ろくしょう)で書かれたものもある。
今回の御開帳を見ても、全部の平家納経ではなく、、以下にあるものが展示されています。

➀ 国宝「法華経 人力品(じんりきぼん)」第二十一  平安時代
➁ 国宝「平家納経 法華経 薬王品(やくおうほん)」第二十三 平安時代
➂ 国宝「金銀荘雲龍文銅製経箱(きんぎんそううんりゅうもんどうせいきょうばこ)」 一具  平安時代
➃ 重文「紺紙金泥金剛寿命陀羅尼経(こんしきんでいこんごうじゅみょうだらにきょう)」 平親宗 書  平安時代
➄ 国宝「小桜韋黄辺威鎧(こざくらきかえしおどしよろい)」」 兜・大袖付 一領  平安時代
➅ 重文「木造 狛犬(もくぞうこまいぬ)」 二軀  平安時代
➆ 重文「部額面 陵王(りょうおう) 一面。  舞楽面 納曾利(なそり)一面。舞楽面 抜頭(ばとう)一面。」
➇ 重文「七弦琴(ひちげんきん) 一面」
その他 展示あります。
なかなか見ることが出来ない「平家納経33巻」ですので、来島の折には是非ご覧になってください。

ここで宮島で開催される「祭事」日程をお知らせします
舞楽  
1月1日 歳旦祭(さいたんさい) 午前5時 振鉾
1月2日 二日祭(ふつかさい)  午後1時 万歳楽 延喜楽
1月3日 元始祭(げんしさい)  午後1時 太平楽 狛鉾 胡徳楽 陵王 納曾利 長慶子
1月5日 地久祭(ちきゅうさい) 午前6時 振鉾 甘州 林歌 抜頭(一子相伝の舞) 還城楽 長慶子
2月23日 天長祭(てんちょうさい)午前10時 振鉾 万歳楽 延喜楽 陵王 納曾利 長慶子
4月15日 桃花祭(とうかさい) 午後6時 振鉾 万歳楽 延喜楽 桃李花 一曲 曾利古 散手 喜徳 陵王 納曾利     
                    長慶子
5月18日 推古天皇祭遥拝式   午前10時 振鉾 万歳楽 延喜楽 陵王 納曾利 長慶子
旧6月5日 市立祭(いちだてさい) 午前10時 振鉾 万歳楽 延喜楽 陵王 納曾利 長慶子
10月15日 菊花祭(きっかさい) 午後5時 振鉾 万歳楽 延喜楽 賀殿 一曲 曾利古 散手 喜徳 陵王 納曾利
                     長慶子
10月23日 摂社山王祭(せっしゃさんのうさい)本殿裏の三翁神社にて開催 午前10時 演目は一定しない
なお上記の開催日以外の日でも、神社にお願いすれば、「舞楽」を舞ってくれます。(多少の金額は必要ですが・・・)

諸行事
令和5年度4月から12月までの行事予定表
5月 27 ぐるっと宮島再発見
9時受付 10時出発 料金大人3千円 子供2千円
6月 17 厳島弁財天祭 10時30分から16時まで
8月 3日 管弦祭 15時から23時
未定 玉取祭 大鳥居前の浜
9月 10 ぐるっと宮島再発見 9時受付 10時出発
料金大人3千円 子供(6-12才)2千円
未定 万燈会
15 たのもさん 15時~  四宮神社
10月 15 菊花祭 17時~
22 ぐるっと宮島再発見
9時受付 10時出発 料金大人3千円 子供2千円
1~2 写生大会 9時~11時
未定 献茶祭(表千家) 9時~
29 短歌大会 宮島交流館 etto
11月 3日 火渡り式 大願寺
13時から斎藤大護摩
14時から火渡り式
12月 31日 鎮火災 18時~18時30分位

なお、新年度(令和5年4月以降)になりましたら、毎週土日祭日にのみ展開している、「世界遺産コース」「清盛コース」「旧参道コース」についてのみ
参加される観光客を対象に。官製はがきによる「アンケート募集」を行う予定です。内容は「お客様に満足して帰って頂く為のガイドに対する意見」となっています。
開始日は、「先進7か国会議 G7」が終了してからの事となるかと思われます。












知りたい宮島 2 伝統工芸他

2024年06月05日 09時33分37秒 | 貴方の知らない宮島
桟橋前の広場の前を過ぎると、小高い丘の麓に「加福食堂」が見えます、その横には階段があり、この階段の上が
1555年に厳島合戦が行われた時に「毛利元就軍は陣を構えた所」で15の廓があり、毛利軍約300名から500名がいた所です。(要害の地で宮尾の城跡と呼んでいます)
廓とは、城やとりでの、周囲を土や石などで築き巡らしてある囲い。を言います
この時元就は大将として、歴戦の重臣で熊谷信直(くまがいのぶなお)を差し向ける、信直は9月26日に宮尾の城に入る、この時陶晴賢軍は既に21日には、五重塔の横(現在の千畳閣の所)に陣を構える。
熊谷信直は元就の一の家老で、「歴戦の強者」として知られていた人物です。
陶軍は2万人 毛利軍は3千人ともいわれた、9月30日の夜陰、嵐をついて対岸の「火立岩(ほたていわ)」から兵を伴い、島の裏側、現在の「包が浦」に上陸、博打尾峠を越えて、陶軍の背後に迫り、10月1日 早朝4時に総攻撃をかけ、昼過ぎの2時には決戦が終わったという、日本三大奇襲戦の一つで
厳島合戦が行われた場所です。  「火立岩(ホタテ岩)」から対岸宮島に出兵と書きましたが、実際にはこの海峡は潮の流れが大変速く、ここから漕ぎ出したら、宮島に着くことは出来ず、遥か南の大竹市近くあたりまで流される事が、後の研究で解っています、夜陰に紛れ宮島に着く事は到底無理であった。実際には「草津港」から出発したと思われます。ここからだと、船を出せば潮の流れに乗って櫓を漕がなくても南下し容易に宮島に着く事が
出来た。どうもこれが事実の様です。しかし「火立岩」からの話がロマンがあっていいのではとの意見もあります。

この時「陶軍」は鉄砲隊がいた為(6丁あった)、元就軍は敵をけん制する為「射手」を200名乗船させていた。
元就はこの時、3日分の食料(煎り米等)と棚木1本 縄1束を全員に支給していた。
島に着いた時「元就」は後に引けないという事を「皆に知らすため」また「絶対に勝つ」と言う意思を鼓舞するために、乗ってきた船を全部帰したと言われています

この時の、合言葉が「勝」と言えば「勝・勝」と連呼した
陶晴賢は、高安ヶ原で自刃(35) 弘中隆兼・隆助 父子は2日間戦い、「駒が林」にて討ち死にする
(駒が林はフェリーから宮島山頂を仰ぐと一番高く見える山で裏側は焼く80mの断崖絶壁の山)

左のおでこに見える部分から下って目に見える所、更に登って鼻に見える部分が「駒ヶ林」になります

この時、陶晴賢は「何をおしみ、何をうらまん もとよりも この有様の 定まる身に」と詠んでいる
詳しいことは、「知りたい宮島15」を参照してください

その階段の横に
皇太子殿下行啓記念」の石碑を見ることが出来ます。

桟橋前の突き当り(海岸通りに入る前の所にあり)、大方の人が、知らないで通り過ぎる(お土産店のガイドさんもほとんど紹介しないで通り過ぎていきます)食堂の隣、「雁木(階段状の石段)の前にあります。
クリックすれば、拡大写真になります

階段と言いましたが、正式には「雁木(がんぎ)と言い、干満時にでも船を着ける事が出来る船着き場でした。
広島の「原爆ドーム」に近くの川沿いには幾つか見ることが出来ます。
これは、既に 崩御された「昭和天皇」が皇太子殿下の時、大正15年5月27日に宮島に参詣に寄られ
弥山頂上まで登山をされた時の「記念石碑」です。
弥山頂上付近には同じ様な石碑(四角い形をしている)が建立しています、どこにあるかさがして?
その年の12月25日、大正天皇が逝去(午前1時45分)され、2時間後には皇太子殿下から「天皇陛下」になられています。
更に言うと、明治18年7月31日には「明治天皇」が御行幸されています。
この時の「行在所」が大聖院の観音堂です。


観音堂の屋根瓦を見ると、「金色の菊の御紋章」が入っています。
また、明治27年9月15日には、明治天皇は広島大本営にこられました。
日清戦争において、広島に「大本営が設置」されたためです。
(明治27年7月~28年3月 日清戦争 広島に首都が225日間おかれる)

この時の大本営の参謀総長が、有栖川宮熾仁親王で後述の「朱の大鳥居」の「扁額」を書いた人です
大鳥居の近くには、威海衛戦勝記念碑(いかいえ)があります、よく見て探してください。
現在の威海市(いかいし)で山東半島の北東端の港湾都市で人口248万人、当時は清国の北洋艦隊の根拠地でした。

今上天皇と美智子妃殿下も、昭和53年10月5日に来島、参詣されています。
この時は、島の裏側にある「包が浦自然公園」が都市公園に指定、その除幕式に出席の為、来島されました。

特別史跡・名称 の石碑を見ることが出来ます。
大正12年(1923年)史跡・名称天然記念物保存法により、全島が「史跡・名称」に指定
その後
昭和27年 文化財保護法により、全島が「特別史跡・及び特別名称」に指定される
現在全国に、特別史跡(63ヶ所)・名称(36ヶ所) と名のつく場所は「36箇所」あり、その内同時に指定されているのは
宮島を含め「9箇所」となっています。更に国宝・世界遺産に指定されているのは。3か所(宮島。銀閣寺・醍醐寺三方院)のみです
関東で有名なのが、①小石川後楽園  ②浜離宮恩賜公園 です。
後に、文化財保護法は昭和29年(1954年)、昭和50年(1975年)、平成8年(1996年)に改定が
行われています。
昭和24年(1949年)1月26日早朝、奈良県斑鳩町の法隆寺・金堂が堂内より出火、金堂壁画(国重要文化財)
にあった「釈迦」「薬師」などの群像を示す大壁画4面、と各種「菩薩像」「を描いた小画の計12面の壁画
のほとんどの「色彩」を喪失する。この火災をきっかけに昭和25年「文化財保護法」が成立した
金堂壁画は焼けても「国宝」の上をいくという意味で至宝」と呼ぶ

特別史跡・特別名勝の碑を過ぎると、右手に海岸通り、左手に「みや離宮」のホテルを抜けますが、ここの通りの舗装をよく見ると
以前は「黒い色をした舗装道」が現在は「白っぽい舗装道」に変わっています。気が付きましたか、2018年の3月に変えました。
遮熱性舗装」と言い、道路の表面温度を約5度下げる事が出来るそうです。現在2020年の東京オリンピックに向け、東京でも工事を
進めています(マラソンランナーの為とも言われています。ヒートアイランド現象を和らげる、とも言われています)。
良い事と思いますが、問題もあります、それは地表から1.5m上の温度差は約1度しかないという事です。
小さな子供さん、ベビーカーでの来島者にとっては朗報と思いますけどね、
なお、みや離宮の前は、以前 九州の別府に向かう「定期航路」が発着する場所でした

大変大きな(長さ7.7メートル 幅2.4メートル)大杓子が、商店街通りにありましたが、現在はおもてなしトイレになっております。大杓子は現在etto宮島交流センター(元の宮島町役場です)正面玄関前に展示してあります。
おもてなしトイレの隣には、宮島郵便局がありますが、この正面には「明治時代の郵便ポスト(当時は色は黒)」が設置してあります。また宮島には
赤い丸い形のポストがあります。何か所あるか探してみて下さい


「大杓子」については、もとの宮島町役場跡地に建設の、etto宮島交流センターの正面に展示されています。
2021年4月1日に新しく、etto宮島交流センター(旧市民センター)がオープンしました。。
中には展望場所があり、眼の前に五重塔 千畳閣を見ることが出来ます。一度は立ち寄りたい場所です。

杓子について
誓真さん(俗名を木屋政次郎という)は、伊予務司(むし)城主、村上頼冬を祖先とする。
1662年(寛文2年)、木屋家初代の木屋太郎左衛門が広島の大工町に移住した
大工町は当時大工が多く、木屋家でも代々大工を営むようになり祖父の代からは
組頭を務めていた。
宮島に渡り光明院代16代住職「了単上人」の下で出家した。25歳の時光明院の隣地の
神泉寺の敷地内の「竹林庵」を住まいにし修行に勤めた。


誓眞大徳頌徳碑と誓真釣井を探してみて下さい
頼杏坪(らいきょへい)によって編纂された「芸藩通志」には以下のように記してある
「誓真といえる道心者、かつて種々の器物を作りし,木杓子尤も多し今も続けて作るものあり」
芸藩通志・・・・1825年(文政8年)に完成した安芸の国広島藩の地誌。
更には、頼杏平の「芸藩通志」には毎日200人以上の住民が 薪作りの為に山野に入り込んでいた。明治19年には
山肌の森林土壌は荒廃がその極に達していた。その後明治・大正・昭和と100年に及ぶ保護育成は森林の回復に大きく寄与する

神泉寺にあった「阿弥陀仏」は、東京西巣鴨にある大正大学礼拝堂に安置されている。
また[二位の尼木造]は宮島歴史民俗資料館に安置されている。

天明の大飢饉(1782-1788)による人々の困窮は宮島も例外では無く、誓真は自ら
托鉢をして回り得た財を投じて島内に10箇所の井戸を掘る、さらには道、石段を築いたり
と町のインフラ整備に尽力をしている。その功績は大いに評価され、1791年(寛政3年)
誓真50歳の時,広島藩から「賞銀」を与えられている。
1800年(寛政8年)、59歳で亡くなる。

1791年(寛政3年)4月、お役所から御触書が出された、主旨は「富くじの廃止」であるが
その中に「手仕事の産業は楊枝以外は何物も見当たらない」とあり、富くじ廃止により
島民の生活が困窮しないように手細工を宮島の産業にしていく必要がある。と言うものだ
廃止により、これらの配当金や藩からの扶持米(藩主から家臣に給与される米「俸米」)
が打ち切られ、島民は経済的な自立を迫られることとなる。
その為島民の多くは「山師」になり、手先の器用な者は杓子等木工細工の職人になる
「山師」・・・・山林の伐採や立ち木の売買を取り仕切る人

大正~昭和にかけて、杓子職人は50人以上で推移する(明治30年には70名いた
大正15年・昭和元年(1926年)日本の人口は約6000万人、この時の杓子の年間出庫数
12、000万本。正月には家庭で新しい杓子を使う習慣があった為、12月は特に多忙であった。

明治以降の宮島杓子 1
寛政3年(1791年)当時は宮島のお土産と言えば「五色箸」と「色楊枝」のみで、厳島神社参拝者に
対する土産物となっていた。
安土桃山時代の天正年間(1573-1592年)から厳島神社で執り行なわれるている、御楊枝献上
の神事に準じて作られたもの。日頃から来島者が土産物として持ち帰る物が非常に少ない事を残念に
思っていた誓真は、役所からの通達もあり「杓子」を製作し、町民に模範を示した。ゆえにこの杓子を
「誓真杓子」と呼んだ
「五色箸」「色楊枝」・・・五色箸は箸に色をつけたもの、同じく色や飾りをつけた、色楊枝共々宮島土産となる
**御楊枝献上・・・現在でも厳島神社で1月4日に行われている。御楊枝とは白木の箸の事
「島のかおり」によると、明治22年の島内の様子は、
杓子職人「飯杓子」30名 匙杓子「さじ」13名(合計43名)いた
(その他、轆轤細工職人、竹木工、陶器工、彫刻工、塗り師工、全部で80人いた)
その後「芸備日日新聞」によれば
明治30年(1897年)になると、杓子工70名余で組合を作る(70名余の職人がいた

「島のかおり」・・・・・・・宮島の産業沿革史
「芸備日日新聞・・・・・明治21年(1888年)から昭和23年(1948年)まで刊行された。 広島の地方紙

明治37年(1904年)出版の「厳島案内記」によると
竹木細工190人、轆轤師100人杓子削(匙さじ類を含む)60人、産物店54戸
旅人宿42戸、大工職65人、渡船業者38人、飲食店30戸、案内者20人、穀物商18戸
彫刻職18人、樵夫(しゃふ)17人。   *樵夫(しゃふ)・・・きこり、森林伐採で生計を立る人

以上の事から、明治時代、島内には60人~70人の杓子職人がいた事が分かる
宮島での杓子の発達には「明治維新」が大きく影響している。
明治5年(1872年)、「冨くじ」が国内で全面的に廃止される。これにより配当金や「藩」
からの扶持米が打ち切られ、島民は経済的な自立を迫られた
その多くが「山師」になり、手先の器用な者は杓子等の木工細工の職人になる。

富くじ・・・・1700年頃江戸幕府が始めて寺社に限り公認し、許可された寺社が修復費用調達のの手段として
発売した。寛政3年(1791年)に一時廃止となったがその後復活し、明治になり全国一律禁止になる
扶持米・・・・主君ら家臣に給与される米
山師・・・・・・山林の伐採や立ち木の売買を取り仕切る人。

「島のかおり」には以下の様に記述あり
大正15年(1926年)昭和元年、日本の人口は6000万人、杓子の年間出荷数が約1200万本(約234、000円)。
(* 平均家族を4人とすると、約1500万世帯、この時1200万本の杓子であるから、約8割のシエアー)
当時正月には各家庭で新しい杓子を使用する習慣があった為、特に12月は正月を迎え多忙であった。
この時の「挽き物(主に盆)」は約40万組出荷で金額は約80万円(単価2000円)であった。
杓子は一把・二把と数える。 1把は200本   単価は400円/1把

明治~大正にかけて、宮島にあった杓子問屋は10軒前後、そのうち2軒が古く
1軒は「宮忠」・・・・初代宮郷忠兵衛の父親、宮郷保兵衛が「山師」との協力により、
材料を島外から持ち込む道筋を作る
1軒は「宮豊商店」・・・現在は饅頭製造元「ミヤトヨ本店」として営業
現在当主で5代目は宮郷武氏
昭和50年(1975年)問屋業を廃業、紅葉饅頭の販売を開始

当時の宮島の名物と言えば、「五色箸」と「色楊枝」のみで、日頃から来島者が土産物
として持ち帰るものが非常に少ないと残念に思っていた「誓真さん」は役所からの通達
もあり杓子を製作し町民に模範を示した。この杓子は「誓真杓子」と呼ばれた。

大杓子
昭和53年島根県出雲から、長さ13メートルケヤキの原木を1300万円で町が買
これを10mの長さにカット、2年乾燥、荒仕上げ、6ヶ月乾燥 その後制作にかかる
宮島で親しまれている唄に、「安芸の宮島、回れば七里、浦は七浦七福神」
の「浦は七浦七福神」から7.7メートルにした
杓子職人「羽山忠(ただし)」氏により制作された。顔の部分の3枚をつなぐ
ボルトを埋め込むための穴あけに苦労したとの事(制作は包が浦の作業場)
杓子完成後は桟橋をスタートして町内を練り歩いた

長さ7,7m 顔の部分上下2,7m 重さ2,5トン 材は樹齢270年の 欅
製作期間2年10ヶ月 製作者は 宮島細工共同組合 昭和58年(1983年)に製作
作ったはいいが、設置場所が無く、しばらくは「倉庫」に眠っていましたが、平成8年に
世界文化遺産に認定されたのを契機に現在の場所に展示されました。
現在、宮島島内に来島される方々をお迎えする「コンベンションホール」を旧宮島庁舎です。
高さを7メートル低くし(景観が良くなる)(2019年)に
オープンしました。

この「コンベンションホール」の一画に「大杓子」を展示します。それまでは商店街から一時倉庫に保管いたします。
跡地には「企業協賛による、トイレ」が出来上がります。これにより、今までご不便をかけていた「トイレ」の問題も
少しは解消するのではないかと思われます、なお観光案内所も同時に出来る予定です。ちなみに総工費は約1億2000万円です
宮島の伝統工芸である「宮島細工」を後世に残すと共に、杓子発祥の地である、宮島のシンボルとして製作しました。
江戸時代には「色楊枝」「五色箸」など土産物としてありましたが、それ以外には主だった「土産」はありませんでした。
宮島の恩人と言われる「僧誓真(そうせいしん)」が厳島弁才天がもっている「琵琶」の形から杓子を考案したと伝えられ、島民に作り方を伝授しました。
世界一の大杓子。伝統工芸である、宮島細工を後世に残すと共に、杓子(しゃくし)発祥に地である
宮島杓子の特徴は、飯粒が付きにくく、木の匂いが飯に移らず、又熱によって変形しない。
最初の土産は「色楊枝」「五色箸」、特に色楊枝は参拝者は必ず買って帰るといわれた
色楊枝・・・・頭には「厳島八景の灯篭」「鹿」「猿」「桜」などが細工されている。しかし明治30年(1897)頃に姿を消した

挽物(ひきもの)は県の文化財で、轆轤挽き=刳物(くりもの)=彫刻、と移る
この時宮島に「轆轤技術」を伝えたのが、「小田権六」で1848年から1854年まで6年伝える
光寺には小田権六の記念石碑があります、
又彫刻については、江戸時代末期に甲斐の国(山梨県)の彫刻師、「波木井昇斎(はぎいしょうさい)」
が木彫りの技術を伝えました。
明治20年(1888年)勧業博覧会で受賞し「宮島彫り」は全国に知られるようになりました。
宮島彫りは、「浮き彫り」「しずめ彫り」「線彫り」などがあります。

今 島内には「轆轤屋」が1軒あり、また 三代目で木工芸 日本工芸会会員の方の土産物店の店の奥で
材料から轆轤 製作まで一貫製作している「店」が1軒あります。探して?

海岸通りの「有の浦」に出てきました。




1枚目と二枚目は伊那路場所です、2枚目には13段の雁木が見えます。昔はこの場所には雁木が13段ありました(上卿雁木と言う) 後述しています、
3枚目と4枚目は同じ場所ですが、4枚目には「柵」を見る事が出来ます。本音では商店街にお客様を呼び込みたいとの願いがあった様です
なお、この道は現在「貴賓通り」と呼んでいます。
貴賓通りは、桟橋から商店街に向かうと、左折が商店街、直進が貴賓通りとなっています(貴賓通り入口の入り口が鉄柵があり、正月三が日は開きます)

その昔、厳島八景の一つに数えられたところです(有ノ浦客船)。
松原の沖に白い帆を張った多くの船の美しさを、                「つなぎよる たよりや有の浦波に 泊定むも 船ぞ数そう」 風早参議公長卿 と読んでいます。
参議・「勅を奉じ宮中の政事を参議する意なり」とある。大臣、納言に次ぐ重職で8人(少数精鋭)。 1185年(文治元)3月24日(新暦4月25日)決戦後、壇ノ浦で平家が源氏に敗れた後、入水した二位の尼(時子)の遺体が有ノ浦
辿り着いたと言われ、別名 「尼の洲」とも言う、島民は二位の尼(時子)の屍を「神泉寺」に弔い、二位の尼木像を祀っていましたが
廃寺となり、光明院に移されました。神泉寺は「時寺」とも呼ばれていました。(石碑あり)。安徳天皇(言仁親王ときひとしんのう)
現在は二位の尼の御霊は、三翁神社に祀られている。(木像は神泉寺ー光明院ー今は歴史民俗資料館に展示)
この時生け捕られた平家一門は、平高清(六代・妙覚で北条時政に捕まる)ら男38人(打ち首)、女官43人(女官は出家)
(六代)は一時出家して許されるが、頼朝の「頭は剃っても、心は剃るまい」と言う命令で殺された(14歳の時)

徳子(とくし 建礼門院)は生きて京へ送還され大原「寂光院」で安徳天皇と平家一門の菩提を弔った。
寂光院に幽閉された建礼門院に仕えたのが、「藤原信西の息女、阿波内侍あわのないし)」が日々の暮らしの足しにする為
洛中へ「柴売り」に出ていたのが、「大原女(おおはらめ)」 の起源とされる。

三種の神器
後鳥羽天皇即位、・・・安徳天皇が退位しないまま、後鳥羽天皇が即位したが、天皇の象徴である三種の神器が無いまま
治生を過ごした後鳥羽天皇にとって、この事は一種のコンプレックスになり、これを克服する為に強行的な政治姿勢を行い
これが「承久の乱」へと繋がった遠因になる。
後鳥羽天皇は太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚(せんそ)し、その儀式は剣璽関係を除けば譲位の例
に倣って実施された。即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、同様に神器のないままに実施された
既に上皇になっていた後鳥羽天皇は奇しくも三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇
に献上された剣を宝剣とみなすこととした。 太上とは、最上・至高の意味
践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐこと "院宣(いんぜん)とは天皇の発する宣旨に相当する
"
天皇が移動するときは必ず、八咫鏡(やたのかがみ)を安置した「内侍所(ないしところ)」と「宝剣」「勾玉」も共に移動しました。

壇ノ浦での戦いの模様
船は源氏方が3000艘、平氏方は1000艘で、唐船も少し混じっていた、(合計4000隻になるが、本当か?)
元暦2年(1185)3月24日朝、長門の赤間が関 壇ノ浦で陣を合わせた、間隔は3,58km(古代尺で30町余り)
源氏の船は潮に向かい押し返される、平氏の船は潮に乗って進む、平氏で阿波(徳島)の田口重能(しげよし)は
子息の教能(のりよし)を生け捕られ、仕方がないと思ったのか源氏に寝返った。
平氏は身分のある者は「兵船」に乗せ、「唐船」には雑兵を乗せて、源氏が唐船に攻め入れば取り込めて討ち取る
手はずであったが、この寝返りにより目算が狂う、源氏は大将軍が隠れ乗った兵船に攻め込んだ、
やがて四国・九州の兵も背き、天皇に弓を引き主君に太刀を抜く、源平の国争いも今日限りと見えた。
当日は午前すぎ西流れが最強となり、やがて東流に反転、同11時過ぎに最強に再び反転して午後5時過ぎ
西流が最強となった。
平氏は午前中から動き、当初東流にのって優勢だったが、源氏はよく防戦、午後3時過ぎから逆転した西流
にのって反撃平氏を壊滅させた。これは「玉葉」(九条兼実の日記)の「正午開戦、午後4時終結」と符号する。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、按察局(あぜちのつぼね)が安徳天皇を抱いて入水二位の尼
宝剣(雨の群雲の剣)を抱いて入水した、徳子(建礼門院)は傍で見ていただけとある。       
後に建礼門院(徳子)は、京都の「寂光院」で余生を過ごす。   
 天皇家は肉親を抱かない、お付(乳母・傅役(ふやく)に指示するだけ(宮廷の仕組み)
ちなみに、今上天皇陛下は3歳の時に親元から離され「傳育官(ふいくかん)」に育てられる
「愚管抄」では神璽(しんじ)、宝剣、安徳天皇を抱いて入水とある (宮廷の仕組みである)
語り本系」(覚一本)と、読み物本系」(吾妻鏡)の大きく分かれる
語り本系   「覚一本」(平家物語・琵琶法師により全国に?伝えられる)
 清盛の命令で焼き討ちされた、南部の寺院を復興する国家的事業の中で成立する
 内容・表現には異なる異本が数多くあるが、最も流布したのが「語り本の覚一本」である
読み物本系  「吾妻鏡」に代表される本
天皇が移動する時は必ず「八咫鏡(やたのかがみ)」を安置した「内侍所(ところ)と宝剣・勾玉も共に移動する
上卿雁木(石階段
明治維新前までは厳島神社でも最も重要な祭事、御鎮座祭に際し、安芸国府中(現在府中町)
から、勅使(奉幣使ほうべいし)勅使代行役を務める、上卿(しょうけい)が来島する時にここから上陸していた。
勅使・・・・天皇・皇帝・王 など 国の元首が出す使者の事を言う
上卿は棚守・祝師(ものもうし又は、ほうり)などと共に、厳島神社を司る主要な神職の一人である
御鎮座祭・・・・12月初申日(さるび)に行われる。市杵島姫命が神烏と共に御降臨され、御 鎮座地を探される
に辺り、この地を治める佐伯鞍職(さえきのくらもと)に神勅が下った 。
上卿屋敷・・・・現在の「林家」で、大聖院に向かう通りにある

ちなみに、江戸時代の広島藩の人口は以下のとおりである。
広島藩の人口 第8代藩主 浅野斉賢(あさのなりかた)の時代

文政12年(1829年)芸藩通志 刊  文政13年(1830年)58歳で死去

浅野藩は12代(浅野長勲ながこと)まで続く

   戸数   人口   牛数   馬数     船数  1戸の牛馬の保有数
広島藩  154.235  726.113   64.408   9.907    7.499

安芸国  113.630  546.635   41.639   8。717    6.404

厳島    1.028   3.734     0     0      79
 
豊後国  40,605   179,478   22,769   1,190    1,095

神の島と言われた「宮島」、一番最初に島に住み始めたのは、内侍(ないし、他の神社で言う御子の事 )で平安時代になります。
その後「社人」「供僧」は鎌倉時代後期に移住し始め、南北朝にほぼ完了しました。
  
なお「島で行なってはいけない事を書いておきます
  
厳島の禁忌
古くから島自体が「神」として祀られている。鎌倉時代、神職が住みつき、南北朝時代をこえるころから
商人を中心に人々が生活を始めたが、神の島へ住むのであるから様々な禁忌のもとで生活を強いられた。
厳島服忌令(宝永7年1710年)」は厳島の「禁忌」を集大成したものである、次の様な禁忌が示されている。
① 妊婦が産気づくと、対岸の大野赤崎に渡し、産後50日を過ぎるまでは島に帰ることを許されなかった
② 島の東西には血山(あせやま)が設けられており、月経中の女子や赤碕から帰ってきた人を当分ここ
   で過ごさせた。 イ、お産の場合は25日。 ロ 月経の場合は9日など、と定められていた
③ 死人が出るとただちに、神域を通らない様うにして赤崎に運ばれた。勿論墓は「赤碕」に建てたから
  島には「一基の墓」も無い。これは今も存続している。
④ 鹿は「神鹿」として古くより保護されている。かつては「鹿を殺した者」は屍を背に負い、引き回しの上
   追放された。犬は鹿の敵であり飼育を禁じられた

⑤ 農耕は「神体」へ鍬を入れる事として、許されなかったから、島民は生産に恵まれなかった。
  誓真と言う「僧」は大願寺弁才天の「琵琶」にヒントを得て「杓子」作りを島民に教えた。

商店街の出口には、大きな注連柱(石柱)があります。よく読むと判るのですが、海側の石柱には「回廊蘸影現龍姿(かいろうさんようげんりゅうし)」
山側には「華表柱深休鶴翼(かひょうちゅうしんきゅうかくよく)」と書いてあります。
「回廊蘸影現龍姿」とは潮が満ちてきた時の神社の回廊の海に写る影が竜神の姿に見える。
「華表柱深休鶴翼」とは大鳥居が海に深く建ちその姿はまるで鶴が羽を広げて休んでいる様に見える
「華表」とは大鳥居の事です。
厳島神社の三女人は「竜神信仰」より生まれた神。

ここで、観光客の皆様方から、必ずと言ってもいい程質問を受ける事があります。それは有の浦から対岸に見える白い建物の事で
「あの建物は何ですか?」と言う事です。
あの建物は「海の見える杜美術館」と言います。簡単に説明を致しますと、以下の様になります

海の見える杜美術館
瀬戸内海を一望する自然豊かな高台にたつ美術館です,「竹内栖鳳」を中心とした日本近代絵画、
ヨーロッパの香水瓶、中国清朝の版画や、日本前近代の物語絵巻などの特徴あるコレクション
を展示している。年に3〜4回の展覧会を開催し、コレクションを公開している。
創設者・梅本禮暉譽の「美術品は私有するべきものではなく、公のものとすべきである」
という理念に基づき、1981年「王舍城美術寳物館」として現在の地に開館し、2005年には、
「海の見える杜美術館」と名称を変更。

コレクション  
① 竹内栖鳳  ➁近代日本画  ③浮世絵  ④岩倉具視関係資料  ➄書跡 ➅中国版画
➆ 香水瓶  ➇物語絵
など 全166点の所有あり
以下 主なコレクション

1、日本 中世の伝来品  古画・天皇の書と古筆  35点
主なもの
奈良時代 3 点 聖武天皇(賢愚経 大聖武)
平安時代 6 点 平頼盛(紺紙金字無量義経断簡(宮島切) 
  平行盛(法華経一品、和歌二首懐紙)
鎌倉時代 1 点
室町時代 6 点
宋後期 1 点
南北朝時代1 点
桃山時代 5 点  千利休(消息)
江戸時代 12 点  狩野探幽(文殊菩薩2点)
   後陽成天皇(柿本人麻呂像自画賛)
計 35 点

2、日本・近世の絵画(1) 55点
江戸時代 51 点          狩野春雪(十二類絵巻、厳島図、厳島祭礼図)
            (厳島和歌浦図、厳島吉野図、他12点)
           喜多川歌麿(三美人図)
           鈴木春信(風俗四季歌仙 卯月 雲外郭公 他3点)
           歌川広重(道中膝栗毛 参宮道小ばた、他10点)
日本・近世の絵画(2) 与謝野蕪村(奥の細道画巻、他5点)
           丸山応挙(十二支図)
明治時代 4 点 小原枯邨(白梅に小禽、紅梅に鶯、向日葵、鶏)

3,日本・近代日本画と岩倉具視関係文書
足立美術館は「横山大観」をコレクションの中心としているが、
海の見える杜美術館では、「東の大観 西の栖鳳」と評された、竹内栖鳳の絵画
見ることが出来る。
江戸時代後半(文久3年) 塩川文麟(蘭亭曲水の図、司馬温公独楽園之図)
明治3年~20年     幸野楳嶺(孟母断機図、郭子儀図、他2点)
明治36年~昭和15年 竹内栖鳳(羅馬之図右隻、左隻、他10点)
江戸時代末期~明治初期 岩倉具視関係文書

4,中国版画
秦の時代(23点)
雍正10(1732年)年 (1点)

5、 ガラス工芸の美  香水瓶
1936~1999年 バカラ社製 3点
1912~2002年 ラリック社 4点
1846~1852年 タハン社  1点
1880年頃 ポシェ・エ・デユ・クルバル 1点

などをコレクション 展示しています。

宮島口から、車で7分位の距離にあります。

現在は、コロナの為休館となっています




















知りたい宮島 3 狛犬 灯篭

2024年06月05日 09時33分16秒 | 貴方の知らない宮島
むかし市杵島姫の命(いちきしまひめのみこと)が神烏(おがらす)と共に御降臨され、御鎮座地を探されるにあたりこの地を治める「佐伯の翁(佐伯鞍職(さえきくらもと)、岩木の翁、所の翁」に神勅が下った。
この前の常夜灯の前には、地面に埋もれて解りずらいのですが、長さ約20mにも及ぶ「防潮堤」が隠れています。
平成3年の台風19号により、商店街に高潮が押し寄せ甚大な被害をもたらしました(人の膝上位まで海水が押し寄せた)
その為出来たものです(地面を良く見ると、白いパイプが埋まっています、ここを中心に防潮堤が起き上がります)。
直近では昨年(令和4年10月)の台風でこの防潮堤が開きました。

ここからは、狛犬が出迎えてくれます。
右は「獅子」で左が「狛犬」です、一般的には両方あわせて「狛犬」とよんでいます、宮島には13対の狛犬がいます、

類聚雑要抄では、狛犬を次の様に言っています。
獅子は色黄にして口を開き、狛犬は色白く口を開けず、角あり
元は、清涼殿の御簾や几帳の裾に鎮子として置かれていたのが始まりです(対岸の国幣中社・速谷神社の宝物館には本物が展示してあります)
、その後神社の本殿の前の幣殿の左右の
置かれました(屋内ですから木造で出来ていました)。
現在宮島には重要文化財指定の獅子・狛犬が14対います。ブロンズ像が2対 木製が・5対 石でできているもの宮島島内にある狛犬は現在7
対あり
石造 7対 大元神社 雪舟園横、四ノ宮神社 大願寺 本殿裏 三笠の浜参道(2対)
青銅 2対 石鳥居横  平舞台
木製 5対 本社 幸神社 御山神社(3対あり

本社神社にあるのは、阿形で、吽形は京と国立博物館に寄託されている。(この像のみ、阿形・吽形が別々にある)
現存する木製の獅子・狛犬は奈良県薬師寺の鎮守林ヶ丘八幡宮、滋賀県大宝神社、京都府高山寺、にあり、いずれも重要文化財である。
御山神社にある、木製の「獅子と狛犬」3対あります
灯篭も多くありますが、「灯篭」は地域貢献の証でもあり、誰でもが寄進出来るものではありませんでした。
宮島町内の「石造物」に刻まれた「石工名」は48例あり
尾道24。 このように「尾道」の石工が大多数を占めており、近世から近代にかけて「尾道石工」の技術が高く
18世紀半ばから19世紀半ばにかけては「石工・山根(屋)」が活躍していた
山城屋惣八」は作品の全てが「石造狛犬」であることから、「狛犬」を得意とした石工であった
が7対 探してみてください

幸神社には木造製の狛犬がおります、探して下さい
しかし、時代が下がるにつれ、幣殿より外に出、更には木造から石(又はブロンズ)に変化していきました。

狛犬を過ぎると、大きな石の鳥居に出ます。
この石鳥居は高さ9.8m 横幅11.5mあり、主注は一つの石(花崗岩)で出来ています、明治10年に、海の大鳥居にちなんで、日本一の「石の鳥居」を作ろうと発願し、山口・広島・愛媛・北海道の信徒さんの寄付により作り始めました、
(現在、日光東照宮、八坂神社、鶴岡八幡宮、にも石鳥居がありますが、主柱は継ぎ足してあります)
完成は明治38年で28年間かかりました(浄財がなかなかうまく集まらなかった為と言われています)
石は山口県の周防大島(岩国空港から南に約30分走った所)の東端、椋野の田尻から運んだものです。 鳥居の種類は「明神鳥居」に分類されるものです。鳥居を「華表」とも言います。
明治の頃の石鳥居です、横には上卿雁木が見えます

鳥居の扁額がありませんが、以前には「三条実美」の書いた扁額がかかっていました。
大島は昔、屋代島と言われ、日本書紀によると11番目に出来た「島」、1番めの島は「淡路島」2番は「四国」と続く、

周防大島(屋代島)
平家の総大将「平知盛」が山城を築城した島、荘園もあった。壇ノ浦の戦いの総大将
「古事記」によると、「イザナミ・イザナギ」により出来た日本の島。最初は淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐の島、対島、佐渡、本州、
の8つの島(大八島・おおやしま)。その後「日本書紀」では児島半島、小豆島、周防大島(屋代島)、姫島、五島列島、男女群島。
6つの小さな島。11番目の「周防大島(屋代島)」は大変由緒ある島と言える。
「イザナミ・イザナギ、が天浮橋(あまのうきはし)に立ち、天之瓊矛(あめのぬぼこ)で台地をかき混ぜた。その矛先から滴り落ちた
 滴が固まって出来たのが、淡路島(おのころ島)」と言われている。

ここで鳥居の「言われ」について、諸説あると言われていますが、概ね次のようです。

「伊勢神宮の神の使いは「鶏」でありますが、神の使いである「鶏」は神社境内を自由に駆け巡り遊んでいたが、時々犬・猫が襲ってくるので食事の時以外は安全な場所を求めて見通しの良い庭先に建っている「門」の横木に止まって休んでいた。そして神社を参詣する人々が訪れ、お供え物を供える準備をしていると直ちに飛び降りて啄む、お供え物が無くなると元の止まり木に帰る、この事が繰り返されていました、やがて庭先にある正面の門の事を「いつも鳥が居座っている
つまり「鳥居」に変わったといいます。

中国では「城郭」・「官庁」又は「墓所」の入り口に建てる門を「華表」とよんでいます。千畳閣の中には、明治8年に朱の大鳥居を再建した時に使用した、長さ6メートルの「華表尺度」が展示してあります、探してみてはいかがですか。
鳥居をくぐると、そこは「三笠の浜」になります、厳島八景の一つです、「御笠濱暮雪」と云い、積もった雪の美しさを詠っています。

さらに左の千畳閣下にあたる石垣は、豊臣秀吉の時代の石積で、広島県内最古の豊臣系の城郭の石垣です。

所々に大きな石を挟めて飾りにしてあります(この石を鏡石という)。毛利元就の領地で、豊臣系の石垣で「野面石の乱積み」です。
 隅の巨大な「立石と古式な算木積み」は関が原の合戦直後の滅びた古い技法で全国でもわずかしか見ることが出来ない。(三重県 松阪市の松阪城の一部がこの積みかたになっている)

穴太衆(あのうしゅう)の技法が入っていると言われています、

穴太衆は琵琶湖畔(比叡山山麓)の石工集団で信長の安土城築城を行う、熊本城、彦根城・広島城、九州熊本の通順橋などなどで、
現在は、第15代 穴太衆 粟田純徳氏

石の加工方法には、①打込接うちこみはぎ)・・・石を成形し積む、②切込(きりこみはぎ)石を完全成形し積む、③それと野面(のずら)とあります。

石の積み方は、①布積(ぬのづみ)・・・横方向に目地がよく通っている(本殿回廊の鏡の池の後ろの石垣は、毛利・吉川元晴の技術によるもので特徴をよく表している。)
②乱積
(らんづみ)・・・横目地が全く通らない

③谷積(たにづみ)・・・石材を斜めに落とし込んだもの(明治以降)、④亀甲積(きっこうづみ)・・・6角形に成形した石材を積み上げたものを言う。

石垣の隅部(角のところ)の積み方
①算木積(
さんぎづみ)・・・チャックの様に大きな石を交互に積む(慶長10年頃以降に確立した石垣隅部の積み方)
三笠の浜を過ぎると、いよいよ日本を代表する「朱の大鳥居」が見えてまいります。

鳥居の建っている場所は「玉御池(たまみがいけ)」と呼ばれた聖地となっており、
界文化遺産はこの鳥居より内側と神社社殿群、神社裏手の弥山までの原始林、全部で431.2ヘクタール(全島の約14%)の部分を言います。

鳥居は昔は「有の浦大鳥居」とよばれており、現在の鳥居は、明治8年(1875年)に再建されたものです、平安時代から9代目にあたり、木造(天然木)で種類として鳥居

高さは16.6m、棟の長さは24.2mあり、主注周りは約く9.9m総重量は60トン、木部は丹塗り(にぬり)となっています。平成13年4月に塗り替えが行われて現在に至っています。(丹塗りとは光明丹に酸化鉛を混合したもの)
主柱は楠木の自然木を使用、袖柱(稚児柱とも言います)は杉の自然木を使用しています。
平安時代(1168年には建立)から数えて9代目になります。

鳥居の重量は60トンあり海の中に置いてあるだけで立っています、各柱の下には、約50センチ前後の松の柱が30本から100本縦に埋め込まれており、その上に更に置石が敷かれその上に鳥居が乗っている状態です、(千本杭工法と言います)。また屋根の様に見える下の所を笠木・島木(鳥居の呼称名)といいますが、ここの部分は箱状になっていて、中には石が4トン入っています(この石を含めて総重量60トン)。

笠木の部分には、太陽(金色の丸)と月(金色の月)の印があり、陰陽道の影響といわれています(風水では北東を鬼門の方位とする為、太陽は鬼門封じの為ともいわれている)

大きな扁額が見えますが、手前には「伊都岐島神社」と6文字で、反対側には「厳島神社」と4文字で、万葉仮名で筆書きされています。現在の扁額は明治8年(1875年)の再建時のもので、有栖川宮熾仁親王による染筆となっています。
伊都岐」とは万葉仮名のあて字で「」の意味で、「身を清めて神に仕える」と言う事で、
厳島」は「神様をお守りする島」と言う意味と言われています。
現在(令和2年10月)鳥居は修理中ですが、扁額は近くで見ることが出来ます。(12月13日までです)
本殿、祓殿に於いて展示中です。この様に近くで見ることが出来るのは、多分最初で最後と思いますので、是非見て頂けたらと思います。あまりの大きさに驚かれる事と思います。
なお扁額の横には、先ほどの文字の意味も書いてありますのでよくご覧になってみてください。

令和3年に修理した扁額が、神社本殿前の祓殿に展示してありました。
後日さらに化粧直しをした扁額が、大鳥居の改修後には皆様の目に触れると思います
戊辰戦争・西南戦争・日清戦争における指揮官
でもあった人です)
なお現在の扁額は大変綺麗に見えますが、平成19年4月に化粧直しが施されている為です。

平安時代からの扁額について、少しお知らせがあります。
➀平安時代、鎌倉時代は 海側のみに「伊都岐嶋神社」の扁額が掛かっていました。
➁室町時代、江戸時代後期には、海側に「厳島大明神」 社殿側に「伊都岐嶋大明神」
当時は「伊都岐嶋大明神」と言う神で「大宮」と呼ばれており、第二の神は「中宮」と呼ばれ、宗像神は相殿神(あいどのかみ)
でした(主祭神と同じ本殿にお祀りする神)。大明神とは代表の女神の事です

➂江戸時代から現在には、海側に「厳島神社」社殿側に「伊都岐嶋神社」となっています。

有栖川宮は江戸時代初期から大正時代にかけて実在した宮家。四親王家「伏身宮(ふしみのみや)、桂宮(かつらのみや)、閑院宮(かんいんのみや)
と並ぶ世襲親王家の一つで、第二代良仁(ながひと)親王は皇統を継ぎ、後西天皇(ごさいてんのう)となった。
第9第有栖川宮熾人(ありすがわのみやたるひとしんのう)は徳川慶喜の妹で、徳川貞子を明治維新後に最初の妃として迎える
しかし貞子は2年後にに23歳で病没。その後 越後新発田藩主・溝口直博の七女・董子と再婚した。
明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支えた。明治28年(1895)61歳で死去。
明治15年(1882)にはロシア帝国の旧首都モスクワで行われた「アレクサンドル3世」の即位式に天皇の名代として出席し
帰路には欧州諸国と、アメリカ合衆国を歴訪した。


元はこの扁額は、天文16年(1547年)大内義隆が、大願寺の尊海の要請により「後奈良天皇の宸」の額を贈ったものである。一番最初は、表側には「小野道風」、裏は「空海」の書いた扁額が掲げてあった。

天文16年(1547年)10月初めに第4代目の大鳥居が建った。
この大鳥居には。つの大きな特色があった。
第一の特色は極めて短期間しか存続しなかった(14年間)
第二の特色は初めて4本の柱を添え柱にした(両部鳥居になった)、これ以後は現在まで受け継がれている
第三の特色は初めて天皇宸筆(しんぴつ)の扁額が大鳥居に揚げられた事。
   この時の「真字」は外側に、「真字」の扁額は内側に掲げる様に指示があった。
   この後奈良天皇宸筆の扁額は永禄4年再建の大鳥居にも引き続き掲げられ現在に至っている。

しかし、後奈良天皇の扁額の痛みが激しくなった為、元文4年(1739年)再建の大鳥居からはその写しが用いらるようになった。
享和元年(1801年)再建の大鳥居にも同じ扁額が掲げられていたが、湖の扁額も世間では後奈良天皇の宸筆と呼ばれていた。
なお、現在の大鳥居は明治8年(1875年)7月に棟上げが行われたが、この大鳥居には有栖川野宮熾仁親王宸筆の扁額が新たに
掲げられた。大内義隆が天文17年(1547年)11月に奉納した後奈良天皇の宸筆は、その写しも含めて約330年余り生命を
保ち続けたのであるという事になります。

参考に 
空海は平安時代の「三筆」とも呼ばれていました
空海、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)の三名です・

空海とは
宝亀5年(774年6月15日生)、承和2年(835年3月21日死去)  61歳の生涯
その後(86年後の延喜21年(921年10月21日)、第60代醍醐天皇より諡号(しごう)が
贈られる。
本当は「弘法利生(りしょう)」の諡号が与えられる事になっていたが、「弘法利生」の業績から「弘法大師」が贈られる。

弘法利生(こうぼうりしょう)とは、人のおしえを世間に広め、衆生(しゅうじょう)に利益を与える事
衆生とは人間。 
諡号(しごう)とは、主に帝主・相国などの貴人の死後に奉る。生前の事績への評価に基づく名の事


ちなみに、本殿の回廊を出た所、右に「大願寺」がありますが、ここを通り抜けて海岸通りの出ると、お土産屋さんの横に
小さな石橋があります、ここの手前に石柱の「注連柱」がありますが、
この石柱に「巖谷修」と書いてあります。
巖谷修は「巖谷一六」で、日下部鳴鶴(めいかく)、中林梧竹(ごちく)と共に
明治の「三筆」と呼ばれた人です


ここからは余談です
「1代から3代までの鳥居は、明神鳥居でした、その後4代から8代(現在の鳥居)までは両部鳥居でした。
 記録によると、鳥居は今までに7回倒れており、6回は台風で1回は落雷により倒壊しています。
 1325年  台風で転倒     1371年再建 46年間かかる
 1716年  台風で転倒     1738年再建 22年間かかる   再建に掛かる役夫は約5万人を要した
 1776年  落雷で消失     1800年再建 24年かかる    再建に掛かる役夫は4万1550人
 1850年  台風で転倒     1875年(明治8年)再建     この間24年間鳥居はありませんでした  
                      
*1738年(元文3年)の再建時には、1本柱となる巨木を2本調達する事は困難となっていた。

更には倒壊から再建までかなりの長い年月を要した時期もあり、再建が間々ならない時には「竹」を立て、注連縄を張って過ごした時期も見られたようである。

なお、明治8年の再建時には主注は本殿から向って右が「宮崎県西都市」左が「四国丸亀、和田浜」から持ってきた楠が使用されています、主柱に使用される楠は樹齢600年のものを使用していると言われています。
なお昭和26年には根元が腐食をし「根継」が行われています。
この時は「佐賀県鳥栖市」社殿から向かって左側と、「福岡県鳥栖市」、から御神木が使用されました。社殿から向かって右側。根継ぎに使用した場合、楠の耐応年数は約80年と言われています。

社殿より西側の「四国丸亀・和田浜」から持ってきた楠は、大きさも長さも足りなかったので、亀居山(千畳閣のある所)から調達した楠を抱き合わせて(大きな鉄の輪で締めている)います、しかし明治37年西柱に落雷がありましたが、幸いにして面目を保っています。(根継後の古い楠の主注の一部は宝物館の前に展示してあります)

* 明治8年再建時には鳥居は「朱色」ではありませんでした。
現在の様に朱色になったのは明治44年2月まで待たなければ為りませんでした。これは明治の初めに「神仏判然令」が施工され、「朱色」は仏教的との事により着色されまいせんでした。当然本殿の彩色の除去されました。

鳥居
鳥居があると「神社」と思っているかも知れないが
鳥居もいろいろな種類があり。「両部鳥居」は密教の影響受けている鳥居です
「両部」とは密教の考え方である「金胎両部(こんたいりょうぶ)」をいい、
神仏習合の名残を表す
別名、四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居(わくざし)などがある

「金胎両部(こんたい両部)」・・・・
大日如来を智徳の面から開示した金剛界と,理から説いた胎蔵界。金胎両界。


神仏習合の時代、お寺にも「鳥居」があった時代が長くあった


明治30年「古社寺保存法(後の国宝保存法)」の施工により、国宝となる
昭和4年には「国宝保存法」が施工され、古社寺保存法は廃止になる
昭和25年「文化財保護法」の施工により従来の国宝はすべて「重要文化財」になり、以後順次 特に重要なものは改めて「国宝」に指定され、現在に至っている。
ハワイ ホノルル にも厳島神社と同じ「大鳥居」がある
高さ 8 m  幅 約11 m と厳島神社の大鳥居の1/3の大きさである
材は宮島大鳥居が「天然木」に対し、ホノルルの鳥居は「鉄」で出来ている
昭和34年(1955年)5月19日、ホノルル市議会が広島市との「姉妹提携」を結ぶ
また、昭和57年(1981年)には広島商工会議所とホノルル日本人商工会議所が「姉妹提携」を締結する。
さらに、平成9年(1997年)5月30日に広島県がハワイ州との間で「友好提携」を結ぶ
平成13年(2001年)、ホノルル日本人商工会議所の100周年を記念して「ジャパンタウン」をつくることになり
その事業の一環として「大鳥居」が寄贈された。

広島とハワイを結びつけたには「移民」の方たちの存在であった

現在は大鳥居の修理中です、完成はまだはっきりしていません? 
元の姿の大鳥居と修理中の鳥居の写真を掲載します
「潮位」の差は約4メートルにもなり、鳥居の沖100メートル位までは歩いて行く事が出来ます。島全体が「花崗岩」で出来ている為、砂洲は底が固く十分に歩いて渡る事ができます。

鳥居の左右に長さ50m位の杭が打ち込んであります、内側が「世界文化遺産」で外側は瀬戸内海、外では「あさり」を自由に掘ることが出来ます。貝掘りは無料なので春になると多くの方々が貝堀に来ます。
この浜に降りる所に「常夜灯」があります、よく見ると対岸(西の松原)にも同じ「常夜灯」があります。

目の前の常夜灯は1805年(文化2年)阿波の国の藍屋講中の寄進によるもので、対岸の常夜灯は上家の寄進した物です。江上家は島内一の資産家で(醤油醸造を手がけていた)現在の「歴史民俗資料館」は江上家の家でした。

「講」について少し触れておきます。
江戸時代中ごろから庶民の旅が盛んになった背景には「」の発達があった。
「講」とは特定の寺社に参詣したり、霊山に登山する団体組織の事を言う。 最大の人気を誇った「講」は富士講と伊勢講だ。富士山と伊勢神宮参宮の旅の為の講である。共に100を超える講社があった
富士講などは俗に「江戸八百八講」といわれたほどである。
講の属さず旅をするのは、手形の取得からして、何かと面倒であった。江戸時代、全国の街道 脇街道 裏街道などの要衝には
必ず「関所」があった。 すべて幕府の直轄で総計76箇所、諸大名等による私設の関所は禁じられていた。通常関所を通らずに
旅をする事はまず不可能であった。
関所を通るに必要なのが「関所手形」通常、庶民は往来手形が関所手形の代わりになる。 武家等の女子は別に「女手形」を
取得しなければならなかった。手形無くて通関する事は絶対になかった。

「往来手形」・・・庶民にとっての身分証明書でもあり、檀那寺(菩提寺) や、村役人、町役人に発行してもらい、氏名 住所 
   檀那寺、旅の目的が書かれていた。旅途中の死亡のさいの依頼、行き倒れの場合民家へ泊まる際の依頼状。
   旅籠などでの宿改めの際の身分証明ともなった。
「女手形」・・・・特に武家及び禁中方、尼僧等の女子の場合。発行は特に複雑で、出身地を上り、下りに分け、更に地域別に区分し
    それぞれ発行者が指定されていた。「入り鉄砲出女」で江戸を出る女子のチェックが厳しく、女手形と1箇所でも
  違えば通してもらえなかった。
庶民の旅はそこまで煩わしくないものの、手形の取得、通関 など何かと面倒であった、だが「講」に入っていれば安心だ
手形取得のノウハウから往復の交通手段の手当て、旅行に必要な物品や心得の用達や指導、宿泊等、全ての面倒をみてもらえた
講元」はいわば団体旅行の旅行会社の様なものであった。参詣、登山に必要な衣装や笠、杖に至るまであらゆる必需品を
手配した。更に様々な土産品、御礼や掛け軸、置物等も用意されていた、まさにいたれり尽くせりであった。
更に、江戸時代の庶民の「旅」について触れてみます。

江戸時代の庶民の旅
中世までの旅は、政治的かあるいは軍事目的・商業目的・宗教活動・情報伝達といった、いわば仕事としての旅がほとんどであった
しかし近世になると五街道をはじめ各街道が整備されて宿泊施設なども整い、寺社参詣や宗教登山を名目とする物見遊山の旅
が登場、やがて各種の「講」なども発達して、一般庶民も娯楽として旅を楽しむようになる。
東海道は品川より大津まで53宿。 中仙道は板橋より守山まで67宿あり、基本は歩く旅となる)
*一般旅行者が泊まるのは「旅籠(はたご)」である
  旅籠とは本来、旅行の時に馬の飼料を入れる「籠」の事で、旅は自炊が原則であり、旅人は多くの場合「薪や食料」を持参していた
  また、もともと旅のほとんどは仕事であり、他のも荷物が多かった。そこで馬と共に旅行をした、馬の飼料を用意して客を待った宿
  が、即ち「旅籠屋」である。
  「幕府が慶長16年(1612年)に定めた旅籠代は、人が3文、馬6文であり。元和8年(1622年)になると、人が4文 馬8文となる
   これは飼料の分だけ馬が高い。 これは宿で「薪」を買った時の値段で、薪を持参した時は人馬共に半額となった。
   しかし1泊2泊ならいざしらず、普通は薪まで持参しない、旅籠で薪代即ち「木賃」を払って買うことになる。だから旅籠は
   木賃宿ともいった。その内「旅籠屋」でも食事を出すようになると、「自炊専門の安宿」が木賃宿となり、やがて木賃宿は安宿の
   代名詞となった」
   旅籠代は年代と共に値上がりしていく 人 馬
慶長16年(1612年)では 3文 6文
元和8年(1622年)では 4文 8文
寛永10年(1642年)では 6文 16文
享保3年(1718年)では 主人35文 35文
従者17文
幕末になると 700文 1貫400文 人の2倍
(食事付きとはいえ、江戸初期の100倍近くにもなる)
  元禄から享保の時代にかけて、一般庶民が旅行を楽しむようなり、旅籠屋にもランクが出来サービスによって宿賃に差がで始める
  普通の旅で1ヶ月くらい(東海道で片道13日、往復約1ヶ月かかる、川止め等あり)かかり、荷物だけでも大変な量となる、そこで
  馬か荷担ぎの人足を雇うことになる。料金は宿駅ごとにそれぞれ公定料金が定められていた
、山坂においては登りよりも下り道
  の方が料金が高かった(これは馬も人も足に負担がかかり辛く、転ぶ危険もあった為)
  川越人足料金も5種類あり、①常水帯 ②乳下水 ③乳上水 ④脇通水 ⑤渇水期の浅い時
  川止の時は何日か滞在を余儀なくされ、宿代がかさみ、川開きとなっても水高があり高い人足代を支払った
  草鞋(わらじ)は3~4里歩くとちびて履けなくなり、普通1日に2足は必要で、1ヶ月の旅となると何十足も履きつぶす様になる
  茶屋で休めば、茶代 餅等を食べれば餅代 などもかかる。
  関所も通常は無料だが、待たされたり、女性の場合は特にうるさく調べられたり、そこで関所役人に袖の下をつかませたり
  また寺社に詣でれば「賽銭」も必要、ついついお土産も買いたくなる。徒歩旅行といえど、お金はかかるものであった。
しかし、金持ちしか旅が出来なかったのかと言うとそうでもなく、 ほとんど路銀を持たない人も結構多く旅をしていた。「行者僧」「旅芸人」、また貧しい農家の娘たちが着の身着のままで「霊場巡り」のたびをした例もあった、
「御蔭参(おかげ)」りなどの、集団伊勢参宮も、大多数が無銭の下層民衆で、飢饉などで土地を捨て、江戸をはじめ大都市を目指す
棄民たちもいた。
かつての「日本」は貧しい人達に対して優しかった、何がしかの施しをしてくれる家が少なくなかった。宿場のはずれや、村々には
宿代を持たない貧しい旅人を泊めてくれる家があった。善根宿(ぜんこんやど)である
 善根宿・・・諸国行脚の修行者・遍路、困っている旅行者を無料で泊める宿。
 修行僧や遍路、貧しい旅人などを無料で宿泊させる宿。宿泊させることは、自ら巡礼を行うのと同じ功徳があるとされた。
草鞋などまだ履けるものは、お地蔵さんやお堂に供えておいた、貧しい旅人が利用出来る様に、茶店で休んでも水を飲むだけ
なら「無料」であった。

御蔭参りの場合、豪商達が金品の施行を行い、厖大な無銭旅行者たちの面倒をみた。これは町の治安を守ると言う意味もあった
明和期(1764年ー1772年)の御蔭参りに際しては、大阪だけで「鴻池善右衛門ほかの豪商達が合わせて7千300貫文以上の銭を 施行したという。(これは当時の相場で米、8万4000石に相当する巨額である)
他にも、さしたる路銀を持たずに旅した者に、文人墨客がいる、彼らは貧者では無いそこそこに優雅な旅を楽しんだ。

江上家は本殿回廊を出たところ(西回廊出口)の「石橋」・水族館の前の大きな「燈篭」も寄進しています。


* いよいよ国宝「厳島神社」への入り口へと進むわけですが、
入り口の手前左に「厩舎」があり、中に木生の馬がいます。この馬を「神馬(しんめ)」と言い、わが国では古代より神社へ生き馬を奉納する習慣がありました。

日照りの際には「祈雨の為に黒毛馬を」、長雨の時には「止雨の為に白馬」を奉納して祈ったと言う記事が「続日本後期」に記してあります。(宮島は花崗岩で出来た島なので、土石流が多く発生その為、雨はノーサンキュウです)

絵馬について少し述べたいと思います、参考にして下さい
我国では古くから「馬」は神の乗り物として神聖視されてきた、その為神に祈願したり祭りをする時には神霊を迎える為に
「馬」を指し向けなければならなかった、ここに生馬献上の風が当然に生まれた。崇徳天皇の時代(1119年)から鹿嶋明神
に馬を献上する事になったといわれている(常陸国風土記)

一方生馬に代わって「馬形」を献上する風も生まれる、全国各地より「土馬」が出土している、この土製馬形から木製馬形
も出現し木馬献上の事はしばしば「延喜式」などに見ることが出来る。 止雨の白馬献上
この馬形発生の理由について「類聚符宣抄」には天暦2年(948)丹生川上と貴布禰の社に祈雨の黒馬献上に際して
右大臣藤原師輔が「繁餌料をつけられないなら「板立御馬」をもってこれにあてよと命じた」とあり「神道名目類聚符」には
「神馬の索奉る事、及びサル者、木にて馬を造献す」とある。つまり経済的理由から生まれたものであると思われる。
この板立馬は木製馬形を更に簡略化し馬の形を板で作ったものである。板立馬が一層簡略化され絵馬になる。
板立絵馬は板を馬の形に切り抜いて彩色しこれが立つ様に台をつけねばならなかったが絵馬は板に絵を描けばよいのである
絵馬と言う言葉が初めて文献的に現れたのは寛文9年(1012)6月25日大江匡衡が北野天神に御幣ならびに
種々の供え物を目録した中に「色紙絵馬三匹」とある。
平安時代になると 生馬献上の風習とともに一方では生き馬に代わって木製馬形の献上が一般的となり形も
大きく精巧でいろいろな装飾が行われた
鎌倉時代 この時代の絵馬に奉額の中で特殊な系列を示す「36歌仙」を描いたものが見られた
室町時代
中期以降になると画題は「馬以外の物が多くなり」形状も多種多様となりに奉納される絵馬の図柄が仏菩薩を描くようになる
徐々に大型化し、専門絵師・著名画家が筆を振るうようになり絵馬の美術的質の向上を誘発し、やがて絵馬本来の目的を
離れて美術作品としての絵馬と考えられる様になった。絵馬の歴史の中の一つの転換期を迎えた時期で「歌仙絵」の奉納
も流行る。 俵屋宗達、尾形光琳、土佐光起(みつおき)、円山応挙など、室町から桃山時代のかけての有名画家
桃山時代
大型絵馬が更に扁額形式となり豪華になり、ますます大型化する。上流社会や貿易商人によって豪華な絵馬が奉納され
有名絵師もこぞって筆を取った。寺社に絵馬堂が出来、画家達はその作品を絵馬堂に掲げて人気を得んと心掛け、
一般の人も絵馬堂に集まり絵馬の図柄を鑑賞した。
江戸時代
桃山から更に大型化する、「扁額軏範」には、「横6 間縦2 間の大型絵馬」絵馬の公開的開放的性格が一層大衆との
つながりを深め地方の田舎でも扁額形式の大きな絵馬を「産士神(うぶすながみ)」の拝殿に掛けることが流行し、江戸時代
の後期は絵馬奉納の最盛期となる、歌舞伎図のなかでも特に「四十七士討入図」が各神社に目立つようになる。
明治時代
日清・日露の戦いを経て「忠君愛国」の理念が高まっていく風潮に即応した絵馬が多くなり、寺社の霊験や神社の崇高さを
讃えた「社景図」なども奉納された。
大正・昭和
衰退に向かい絵馬の数も減る、しかし戦争中は「戦勝祈願」「武運長久」の絵馬が流行する。ところが戦後には高売繁昌の
小絵馬を参詣者に売る寺社が現れ、最近は時代の要求に応じ「交通安全」「入学祈願」などを描いた絵馬も多い。
①武者絵 ②橋弁慶図 ③弁慶釣鐘負の図
絹本着色児持山姥図・・・縦150cm 横83cmの大型絵馬 昭和31年6月28日国の重文に指定。長沢藘雪44歳の時
の作。近松門左衛門の浄瑠璃(嫗山姥こもちやまうば)から取材した、坂田金時とその母と言う趣向で醜怪な老婆を迫力ある
筆至で描いてある。
 *坂田公時(俗に金時とも言う)は平安後期の武士で21歳の時、大江山酒てん童子を征伐、土蜘蛛退治で有名な
源頼光に見出された、源頼光 四天王の一人となった。相模国足柄山の山姥と赤竜の子と伝えられている、
その童姿は強健と武勇の象徴で五月人形に作られている。
 *長沢藘雪は寛政11年(1799)6月8日 享年46歳 大阪にて没す(廻向院過去帖)
長沢藘雪は広島に下向し大手町一丁目富士屋中島本町一丁目三国屋に滞在したのは寛永年間である、
その滞留中に幾つかの絵を描いている。「宮島八景図画柵(重文)」もその一つでこの中の「弥山神烏図」には
「甲寅冬於厳島写、平安蘆和七朗正麗に贈ったもので、これは後に広島市矢賀町の保田伴蔵家の所有となっている。
⑤ 船絵馬
⑥ 算額(数学の問題を書いた絵馬)
日本独特のものである、寛文の頃(1660年代)から始まった習慣で数学の難問が解けたことを感謝して奉納した。
またその問題を広く世に知せる意図も含まれていたので人目を引くように工夫されていた。
門弟の就学奨励の為 ◎自分の学力を誇示する為 ◎他流に対する挑戦 など動機は様々であった、又門弟が
師の功績を讃えて奉納する事もあった、現在のように研究発表である学会とか雑誌などが無かった時代だけに算額奉納
は、少なからず数学の進歩に貢献し、江戸時代から開発された「和算」は西洋の数学にも引けを取らない高度な
ものであり和算合戦も行われた。
呉入船山記念館  明治31年(1891)9月21日 吉田照登が「円扇形 三角形 方形などの複雑な面積の
出し方を和算で解き、この喜びと難問の解き方を後世に残す為」に奉納した
倉橋町の桂浜神社の扁額  
福山市 鞆町鞆の沼名前神社
海田町の熊野神社
36歌仙の絵馬

平安時代 藤原公任は柿本人麻呂・山部赤人・紀貫之・小野小町ら、歌道の名人36人の有名な歌を挙げて、
その人の歌各一首づつ選んでこれを「36歌仙絵」と云った。
歌仙絵の絵馬は本来絵馬としては異質では在るが広義としては絵馬として取り上げられている。

県内の歌仙絵の遺品の主なものは以下の通り
①八本松町松原 雷八幡神社 赤人・遍昭・深順・兼盛・小大君 5人の歌人を除いたものが31枚ある。江戸末期の奉納
②海田市熊野神社 文化8年(1825)に奉納されたもので36枚揃っている。奉納者は頼一門の9人の人達で、頼山陽の母
 静子は坂上是則と藤原元眞の絵馬を、山陽の長子で事庵は藤原兼輔・中納言朝忠の絵馬を奉納している。
③福山市 両社八幡宮 天和3年(1683)領主水野勝慶が奉納、社伝によると額絵は、土佐家極彩色、色紙は
 冷泉大納言卿御染筆とある
厳島神社の 扇面形歌仙絵 寛永2年(1625)奉納されたもの、楬心筆 とある。
厳島神社の歌仙絵  永正12年(1505)奉納とある、県内にある年記のはっきりしたものでは最古のもので、
古法眼元信画 歌は山崎宗鑑書とある
その他、有名なものに
兵庫県・賀茂神社に狩野元信の描いた「神馬図」京都・岩清水八幡宮に円山応挙の「群鶏図」などがある
馬図~36歌仙絵~船・生業(なりわい)・風俗・動物となり、絵馬は鑑賞画としての一面をそなえてきた。
いよいよ、入り口です
入り口の右には、棹の部分が細い2本の燈篭が立っています、よく見ないと気がつかないかと思いますが、この燈篭が「曽我兄弟の燈篭」です、曽我兄弟の愛妾の手越しの少将」と、恋人、大磯の虎(白拍子)の二人が彼らの菩提を弔う為に寄進した燈篭です。
入り口直前左右に大きな燈篭があり、その上に「烏のブロンズ像」が載っています。
ここ宮島では「烏」は神様の使いとして崇められており神烏(おがらす)」という、「御烏喰式」では烏が主役となります。
5月15日の「お島巡り」では島の裏側にある「養父崎神社(やぶさきじんじゃ)」の前で催しされる「御烏喰式」が行われます、
海上で粢折敷(しとぎおしき)に粢団子(しとぎだんご)を載せ、舟に乗った神官達が雅楽「新楽乱声(しんがくらんじょう)」を奏でると、弥山頂上から烏が舞い降りてきて「粢団子」を啄む、するとこの御島巡りの参加者には幸運が授かると言われている。(参拝者は全員厳格な斎戒(さいかい)・・・清めの事、をしなければ参加出来ない)
雅楽「新楽乱声」は「鳥向楽(ちょうこうがく)」で嵯峨天皇の時代に舟遊びに奏する由、最も古い日本製の雅楽合奏曲。
そして10月28日には対岸、大野にある「大頭神社」において「四鳥の別れ」を行い、親は途中「速谷神社」に立ち寄り、紀州熊野に飛び立ち、子供は弥山に住み着く。昔から、弥山山頂の「御山神社」では毎日、朝昼晩の3度 団子を烏に与えていた、「神烏(おがらす)」はこれ以外の餌は食べないと言う。

東の回廊入口は、長らく客人社の屋根(檜皮葺)の修復工事中でしたが、この度(令和4年9月初旬)に完成、なかなか見れない「檜皮葺」の
新しい屋根を是非見て行って下さい。本殿の平舞台からだと翌見えますよ
平舞台から、客神社・五重塔をバックに写真を是非取ってみて下さい。
結婚式の時の記念写真もこの場所から取ります。




知りたい宮島 4 本殿 屋根 

2024年06月05日 09時32分47秒 | 貴方の知らない宮島
いよいよ国宝の「御本社(本殿・幣殿・拝殿・祓殿)」です。昔は「大宮」と呼んでいました。
厳島神社において、宗像三女人(後述参照)が祭神とされる様になるのは、鎌倉時代以降の事と考えられています。
古代においては、国内最高位に位置する「名神大(みょうじんたいしゃ)」の一つであったが、仁和4年(888年)以降は「大神宝使発遺(だいじんぽうしはつい)」の対象社となり、国内随一の地位を認められたと推定されています。

「*大神宝使とは」、天皇即位後,伊勢神宮以下諸社に神宝・幣帛の奉献のため派遣される使者を言う

御祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、端津姫命(たぎつひめのみこと)
宗像三女人で、アマテラスオオミカミとスサノオの誓(うけい)の結果から生まれたという女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。 市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の3姫神とみなされ、「海の神で竜王の娘」といわれる。

龍神は古来、龍宮に住み、水神や海神として崇められてきました。平氏の財政基盤を担った日宋貿易を推進する為にも、海上交通の安全はまず第一であり
「水神」を信仰する事で海上の平安を守ろうと考えたのではないか?
実際に福原では、たびたび千人の僧侶が法華経を読経する「千僧供養」が行われている。法華経を写経することで、更なる功徳を求めたものと思われる。
「提婆達多品」の中では法華経の修行で、その道を会得した「8歳の龍女」が法華経の功徳により成仏する事が出来たと語られている。
「平家納経」では沙羯羅龍王(しょかつら)の第三の姫宮と伝え、また「愚管抄」にも、竜王の娘とある。

瀬戸内海の要衝であった厳島にとって、女神は平清盛をはじめ、瀬戸内海を航行する船乗りたちの信仰を集めるようになり、「平家物語」は
沙羯羅龍王(しゃかつらりゅうおう)の第三の姫君と伝え、技芸の神、福徳の神としても崇敬される様になる。

相殿神は国常立尊 天照皇太神 素戔鳴尊、その他30数柱の神様が相殿(あいどの)されています。
明治元年以前は、厳島弁才天もお祀りされていましたが、現在は大願寺にお祀りされています。

広さは日本一大きな本殿となっており(純粋な神社の本殿としては日本史上最大です)幅23.8m、奥行き11.6mあります。83.7坪の広さがあります
本殿が国宝指定を受けている神社は23社ありますが、畳を敷くと「165畳」の広さになります。

これは島根県の出雲大社本殿の約2.3倍の大きさとなっています。
神社には皇室の伊勢神宮 藤原氏の春日大社 京都鎮守の賀茂神社等々ありますが、春日大社と比較すると平安末期には厳島神社は社殿総量では約10倍位もの社殿がありました。いかに巨大であったかわかります。
厳島神社社殿

神社建築に用いられる「ヒノキ」は建材としては世界一の樹木である
強度・耐久性に優れ又、木肌が美しく光沢があり、塗装をしていなくても高級感が生まれる。
神社・・・・白木を使う
寺院・・・・彩色を使う

江戸時代後期になると、秀逸な彫刻で満たされる寺院建築が流行ってくる。
ここでは「彫刻の出来栄えを強調」する為に素木造りとされるのが「一般的」となる。

「両流造」
本殿は1168年に建立(仁安3年)、しかし元亀2年(1571年)再建。客殿は永享5年(1433年)再建
本殿。客殿は「両流造」の代表例である。
両流造は身舎の前後に庇を設けた本殿形式である
身舎(もや)とは
寝殿造りで,主要な柱に囲まれた家屋の中心部分。庇はこの部分から四方に差し出される。
家人が日常起居する建物。離れなどに対していう。おもや。ほんや。
棟木と軒桁(のきげた)の間にあって垂木(たるき)を受ける水平材。もやげた。 → 小屋組
正面側にだけ屋根が長く伸びる「流造」に対して、両側に屋根が付くので「両流造」と呼ぶ

厳島神社本殿・客殿が両流造りとなっている。
本社本殿は九間社(鎌倉再建以降は柱一本を省略して八間社)
客神社本殿は五間社の両流造で極めて大規模であり、特に本社本殿は、純粋な本殿としては
史上最大の面積を有している。
身舎(もや)を内陣として、そこに玉殿と言う小型の本殿を本社で六基、客殿で五基並べ正面の庇を祭祀
空間の外陣とし、背面の庇を「神宝庫」とする
本殿内に玉殿を安置するのは、海上に建つ為である。陸上の神社では、春日大社の様な小型の本殿でも
風雨に耐えれるが、海上の風浪では危ういので、小型本殿を玉殿として超大型本殿の中に格納した
ものと考えられる。その結果、史上最大の本殿が誕生した。
気比神社(越前一宮、福井県敦賀市)   気多大社(けた、能登一宮 石川県羽昨市)
宗像大社辺津宮「へつみや」(福岡県玄海町)  太宰府天満宮(福岡県太宰府市)
松尾大社(二十二社 京都市)
と言った著名な大社の本殿のみに応用されている。
背面側の「庇」については、特別に高い社格に基づいて神宝(じんぽう)を朝廷等から奉献される事が
多く、それを納める「神宝庫」としての機能があった。したがって一般的な神社には応用出来ない本殿形式。
なお、内陣に玉殿を安置するのは、海上に建つ「厳島神社」だけである。
庇付きの本殿
厳島神社本殿と客神社本殿は、四面庇本殿の屋根形式になっている。
切妻造りの身舎の正面に庇を付けた本殿形式の代表が「春日造」「流造」である
「春日造」・・・・・・身舎が妻入りのもの、  一間社が正式
「流造」・・・・・・・・身舎が平入りのもの、  三間社が正式
身舎だけなら、階段(木階きざはし)が雨に濡れるが、階段上に被さる「庇」が雨よけとなるので、
極めて実用的な形式で奈良時代に誕生したとされる。
切妻造りの身舎だけでは、硬直で単純な姿にしか見えないが、庇が付くことによって秀麗な造詣の美しさが
生まれた。屋根が桧皮葺(室町時代以降は杮葺も多い)である事も造形美を増している。
身舎(もや)は正式な「円柱」、庇は略式な「角柱」を用いて区別する事が大原則で、
神座である身舎の高い格式を強調
組木や蟇股などの建築装飾は、人目に触れやすい庇のほうに集中し、身舎は相対的に飾り気が少なく、
見えるところを飾るという、日本の伝統的な社寺建築の本質を如実に表している。
向拝(こうはい)・・・・木階(きざはし)に更に庇を付け足したような形
玉殿・・・・・神社本殿内に安置される小型本殿の神体の容れ物を「玉殿」と呼んでいる
厳島神社の仁治2年(1241年)の古文書に「御体玉殿(ぎょくたいぎょくでん)」と在るのが初見。
逗子・・・・・寺院本堂の内陣に安置して秘仏である「本尊」を奉安する容れ物を一般的に逗子と呼ぶ
鎌倉時代後期になって円柱や組物や屋根を供えた建築的な逗子が作られるようになり、
それは「空殿(くうでん)」と呼ばれた
「空殿」では組物は華麗な三手先が標準
「玉殿」では簡素な船肘木や平三斗程度である
寝殿造りの形態の神社は現在日本ではここ厳島神社のみとなっている

対屋(たいのや)形式の建物で、建物の前には祀りごとを行う「庭(平舞台)」があり、
その前には「池(鳥居までの海)」があり向って右側には「川」が流れている建物形式になっている。
また釣殿にあたるのが「客神社」となっている。更に屋根は「桧皮葺」
釣殿・・・・納涼・供宴を行う建物を言う
桧皮葺・・・ヒノキの皮を葺いたものを言う、寿命は約20年から30年

御祭神の三女人は、「海の神」「交通運輸の神」 の信仰対象となっています。
あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。

「天照大御神(あまてらすおおみかみ)が素戔嗚尊(すさのうのみこと)の剣をもらい、三つに折って「天真名井(あめのまない)」で洗い清めて、
噛み砕いて、吐き出すと「三柱の女神)が生まれ、(市杵島姫命 田心姫命 湍津姫命)。
「素戔嗚尊が天照大御神の「髪」に巻いた「玉」をもらい受け、噛み砕いて吐き出すと、息の霧から「五柱の男神」が現れる。(天忍穂耳命、天穂日尊
活津彦根命、天津彦根命 熊野櫲樟命)

平清盛
伊勢平氏の棟梁・平忠盛 の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱 で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。清盛(虎寿丸)の母は、召名(めしな)を「鶴羽(つるは)本名は、霞(かすみ)」と言い、元は仙洞御所(せんどうごしょ) に仕える。 仙洞御所・・・退位した天皇(上皇・法皇)の御所を言う 清盛3歳の時に、「鶴羽」がみまかる。 鶴羽の姉が「是非とも猶子に」と申し出る この姉が「祇園女語」である。 白河院第一の寵愛(ちょうあい)をこうむる。院の女房で大変な権勢を持っていた。
正盛・・・・・忠盛(の母は宗子)・・・・・清盛 で正盛を引き立てたのが「祇園女御」である     「清盛」の名前の由来
白河院は皇子(清盛)の事を気にかけていたが、ある時 皇子があまりに夜鳴きが激しいと聞いて次の「歌」を忠盛に送った
「夜なきすと、忠盛たてよ、末の世に、きよくさかふることもこそあれ」(その子が夜泣きをしても、大事に育ててくれ忠盛よ、将来 平家を繁栄させてくれる事もあるかもしれないのだから)
清く 盛ふる(きよくさかふる)この二文字から「清盛」と名付けたと言われている


清盛について

清盛25歳の時、父忠盛が武士として始めて内昇殿(天皇の居所)を許される。武士である忠盛が殿上の間に上がる
事を許されるのは破格の待遇であり、ある貴族は「未曾有の事なり」とある。忠盛の内昇殿も「千体の観音像」を納めた
「得長寿院(とくちょうじゅいん)」の造営の功により許されたもの。後年清盛が後白河上皇の為にと建てた「蓮華王院」
(33間堂)はこの得長寿院にならったもの。
清盛51歳(1167年)に出家して「浄海、静海」と言う法名を持ち、引退後は福原で千層供養を度々している。
清盛にとって尊崇する厳島を華麗に仕上げる事は明神への感謝の念もさることながら、平家の権威を高めるもの
であった。藤原氏の春日大社の様に有力貴族は一族の精神的支柱となる「氏神」を持っている。
「平野神社」があるが、八姓の神社としてであり、平家だけのものではない。平氏にも「氏神」が必要と考えた「清盛」
瀬戸内海を掌握し対外貿易を独占した「海の平氏」の権威の象徴として、それは神々しいまでの美しさをたたえて
いなければならなかった。それが「厳島神社」である 


また、清盛が「平家納経33巻」を奉納するにあたり、こだわったのが以下のとおりと思われます

清盛の「法華経」

清盛が特に「法華経」にこだわったのは、法華経信仰が盛んな時代背景もあるが
「堤婆達多品」に現れる「竜王」「龍女」の説話。 
「観世音菩薩普門品」が説く、観音による海難救助の説話に注目した為と言われる。

福原・厳島で千層供養を行ったのは「法華経の力」によって水神・龍神をなだめ
海の平穏を実現することで瀬戸内海の覇者としての存在を誇示するのが狙い。
特に清盛が重視したのが「堤婆達多品」で、この中には文殊菩薩が法華経を説いて
竜王の娘を「即身成仏」させる話がある。

平家納経の軸は伊都岐島神の象徴である「水晶の五輪塔が使用」され、見返しには
海中から出現した龍女が釈迦の前に「宝珠」を捧げながら進み出たところ、が描かれて
おり、清盛の龍神や龍女に関わる信仰を色濃く反映している。


平家納経が納められた長寛2年(1164年)、徳子(とくし)は堤婆達多品の龍女と同じ8歳
だったとも言われており、清盛が「自身を竜王」に「徳子を龍女」に見立てて将来の
入内への願いを込めたという説もある

 瀬戸内や宋との交易船の航海の安全を祈るため、又「瀬戸内海航路の要衝の地であった厳島」を篤く信仰する。
1177年10月14日には 盛・時子・中宮徳子・重盛ら平家一門が社参し、社殿内・廻廊にて「千層供養」を行う。
平時忠をして「平氏にあらずんば 人にあらず」と言わしめた。

幣殿
本来、幣帛(へいはく)を供える建物ですが、厳島神社では渡り廊下の役目をしています。
幣帛とは、神道の祭祀において神に奉献する物の内、神饌以外のものを言う。
(はく)とは布の意味で古代にあっては貴重であった布帛(ふはく)が神への捧げものの中心であった。

拝殿
参拝者がご祭神と向き合い、お祓い、参拝する施設です
この拝殿は「三棟造(みつむねつくり)」と言い、奈良時代の建築様式を色濃く残しているものです。
天井辺りをよく見ると、お賽銭箱より本殿に向かい2本目の朱塗りの柱まで屋根があり、更にその奥にも屋根があるのが判ります。つまり、拝殿の屋根の更に下側に二つの屋根があるのです。合計三つの屋根があるので、この様に呼んでいます。
清盛の住んだ京都の六波羅泉殿の寝殿も「三棟造」であったと思われます。
更には対岸、外宮にある「地御前神社」の拝殿もこの様な「三棟造」なっています。興味深いですね。

法隆寺の東大門(とうだいもん)も三棟造りとなっています、門を通る時には、上を向いて通って下さい。
祓殿
昔は「舞殿(まいどの)」と呼んでいました。お祓いをする処で、日本三大船神事の一つ「管弦祭」が行われる時には
鳳輦(ほうれん、神輿のようなものうを言う)が置かれる場所であります。
雨天時には「舞楽奉奏」などのも使われます。戦後はしばらくは、2月にここで「米相場」が立っていました。
床板は「楠」で、広島浅野藩の藩船(厳島丸)の材料が寄進さらたと言われています。
記録によると、床板は1.45m × 9.55m の楠を使用、最初の床材は、巾1尺6寸(約50cmくらい)の材が使用されていた。(板敷材 90枚 長さ2丈2尺 弘1尺6寸 厚2寸とある)

本社祓殿
本社 祓殿の広さは、100畳 あり。また平舞台は 660㎡(200坪)ある
お祀りの儀式を行う場所で、ここで祓いの儀を済ませた神官達は拝殿及び幣殿に進み祭典を執り行う
ただ、厳島神社で行う祭事のほとんどは客神社で先祭されるのでまず、客神社祓殿でお祓いの儀式が行
われて、そのまま本社祓殿に向うことになる。
平舞台・高舞台・左右楽房・左右門客神社はこの祓殿の附けたりで、国宝建造物とみなされている。

祓殿の天井
天井が出来るのは、平安朝末期からで、主屋にこの様な天井を張り、廂の間は「化粧屋根裏(垂木の見える天井)」
とし、つなぎ虹梁を掛けて側柱と主柱をつなぐ工法は平安末期から鎌倉初期にかけての工法で、
本社・客社の両祓殿などは典型的なもの。(折上小組格天井と言う)

かつては、絵馬・扁額が長押上にも掲げられており、明治の日誌類から見ると、明治11年(1878年)10月には
「36歌仙」の額が祓殿から降ろされ宝蔵に納められ、明治29年(1896年)2月には「山姥図」が掲げられたが
明治33年(1900年)の台風により全て降ろされた
祓殿では、能楽・謡・独吟などの奉納が祓殿で行われている。

厳島神社の社殿を「神殿造」とすれば、本社拝殿が寝殿になり、祓殿は南庭の部分に相当すると考えられる
ここでは、さまざまな「儀式・踊り(舞)・蹴鞠」が行われている(かつては祭典後の「直会」の場としても使われた
厳島神社では、こうした儀式や踊り(舞楽)などを行う為に恒久的な建物が必然的に生まれてきたと考えられる
床板は、幅1,45m。 長さ 9,55mあり、江戸時代以降の変更で「広島藩主」の寄進によるものである(楠木で出来ている)
檜皮について
桧皮葺の檜皮は寿命が約20-27年(30-35年とも言う)、檜皮は樹齢80年以上のヒノキの皮を剥離して取る。
一度剥ぐと次は10年後に再度剥ぐ、この繰り返し。長さは3m。檜皮は表面が「コルク質」で抗菌・防腐作用
がある。一度剥いだ檜皮は、厚さ1,2-1,5の厚さに削ぐ。これを檜皮として使用する。1駄(だ)、2駄と数える

最初に剥ぐ檜皮は「荒皮(あらかわ)」といい、使用できない。10年後に剥ぐ皮から使用する。この様な事で価格が高くなる
檜皮をずらす間隔は1.2 cmを基本とし、左右の檜皮を6 mmずつ重ねて葺き上げる。檜皮を5枚重ねたら2 cm程度の間隔で竹釘を打ち固定する。こうして葺いた屋根は厚さ10 cm程度になり、30 - 35年程度の耐用年数がある

参考に、大鳥居の屋根の部分は檜皮葺になっています、今回の修理における檜皮の状態は以下の通りです

杮の裏甲(檜皮の下の部分)は枌板(そぎいた)が積んである。
枌板は長さ1メートル、厚さ7センチくらいに重ねてあり、段葺きに葺いてある。
その上に「檜皮」を葺く、檜皮は「竹釘」によって止める、竹釘の長さは4.5センチ。ちなみに杮用の「竹釘」は長さ3.6センチである。
竹釘は"錆びず",”腐らず",50年間耐えることが出来る。しかし現在この竹釘を販売しているのは、兵庫県丹波市の「石塚商店」のみ、
神社で抱えている職人は別で、それぞれの職人がいる。
(竹釘を口に含み、素早く取り出して打ち付ける、口の中が荒れないように表面を滑らかにする技が重要で、職人になるには最低10年
  かかると言われている)
竹釘を職人が手に取って今から檜皮を葺く所です

現在日本には約4700棟の 国宝、重要文化財があると言われているが、その1/4を「檜皮葺き」「杮葺き」が占めている。
軒釘は、2500本/坪、平葺は4000本/坪 必要とされている。

日本の檜皮葺建物は、16ヶ所しかない
①仁科神明宮 本殿 中門 (国宝) ➁ 大善寺 本堂(国宝) ③出雲大社 本殿(国宝) ④厳島神社 本園 祓殿 摂社客 摂社客神社祓殿
廻廊東廻廊 廻廊西廻廊(国宝) ➄北野天満宮 本殿 石の間 拝殿 楽の間(国宝) ➅賀茂別雷神社 本殿 権電(国宝) ➆賀茂御祖神社
東本殿 西本殿(国宝) ➇石上神社 拝殿 摂社出雲建雄神社 拝殿(国宝) ⑨吉備津神社 本殿 拝殿 (国宝) ⑩清水寺 本堂(国宝)
⑪金峰山寺 本堂 仁王門 (国宝) ⑫善光寺 本堂 (国宝) ⑬大報恩寺 本堂 (国宝) ⑭室生寺 金堂 本堂 五重塔 (国宝)
⑮京都御所 紫宸殿 清涼殿 ⑯八坂神社 諸殿

正面の軒(もこし
正面の軒の中央部分を切り離して、一段上げる、面倒な工法がとられている。平安時代の建物にはしばしば
見られるが、その後はほとんど構えられなくなった。誠に美しい軒で、「平等院鳳凰堂(宇治市国宝)」
「日野法界寺阿弥陀堂(京都市伏見区・国宝)」などがその典型的な例として挙げられる。

二重虹梁・蟇股
祓殿の拝殿側の妻は「二重虹梁・蟇股」になっている。大虹梁、二重虹梁と二重に架け、「その間に3個
の蟇股を用いたもので、奈良時代以来多く使われた形式で雄大豪壮な感じがする。
虹梁は、下の長大なのを「大虹梁」、上の短い方を「二重虹梁」と言う。誠に巧妙な構架法である。

蟇股
平安形式で輪郭の曲線は、宇治上神社(京都市・国宝)のそれと、同じである
拝殿・祓殿(舞殿)、は鎌倉時代の仁治2年(1241年)の再建で全国最古の建物です。
** 「影弘解文」と通称される、仁安3年(1168年)11月の
「伊都岐島社神主佐伯景弘解」と
「伊都岐島社千層供養日記」は、平安末期の厳島社の社殿の様相を示し、かつ
それぞれの建物が当時の祭祀の中でどの様に使われたかを示す唯一の資料である
  以下この資料に基づき、記述をする。

「影弘文書」によれば、厳島社の建立は推古天皇の時代の事である、この時従来の板葺きを全て桧皮葺に改め
更に金銅により荘厳華麗を施したと、述べている
仁平2年(1152年)に平清盛が再興、但し現在の社殿は貞応元年(1222年)から建立を始めて
寛喜2年(1230年)に遷宮したと報告あり(厳島野坂文書1896)
大宮御殿は将軍・足利義昭から毛利輝元に命じて中興し、元亀3年(1572年)に遷宮した。

この造営による厳島社の建物規模は、本宮37宇、間数300間。外宮19宇、間数77間となっており、
従来より「厳島社」の祭祀を司っていた「佐伯氏」は島内外にこうした大規模な社殿を造営する事で安芸国内
での地位を強固なものとし、中央政府との繋がりを深めていったものと考えられる。
以後の修理・造営に関する費用は「国司の重任の功」をもって充て、神主職は「佐伯氏」が継承する事も
「影弘文書」には述べられている。

** 社殿の構成については
本社(大宮)本殿、屋根は桧皮葺で「宝殿」と称される、又 拝殿(三棟造)で「影弘解文」には「二棟」とあり、
火災の後の再建で「三棟」に変更されたのかも知れない。
幣殿にあたるものは無く、祓殿にあたるものは、現在の客神社祓殿と共に「舞殿」と記されている。
これらの「宝殿」「拝殿」「舞殿」が現在の本社・客神社のそれらと同じ位置にあり、その他付属する建物との間
を113間の回廊が結んでいたものと考えられる。
この様な厳島の海上社殿に
① 承安4年(1174年)3月に後白河法皇。 10月には「一切経」の法会がおこなわれた
② 更に治承元年(1177年)10月には、清盛ら平家一門により「千層供養」が開催され「行道会」が行われた
③ 治承4年(1180年)3月。9月と高倉上皇が参詣する。
この時の供は、入道大相国(平清盛)、前右大将宗盛、大納言邦綱、藤大納言実国、源宰相中将通親、
頭左中将重衡、宮内少輔宗範、安芸守在経、らであった.(源平盛衰記、巻23)
蟇股(かえるまた)について
祓殿の「蟇股」は平安時代末期のもので、特徴は左右が別々に作られている事です(二木造)合掌造とも言う。
蟇股(二木造)
蟇股について更に詳しく触れておきましょう
二木造りは珍しくなかなか見ることが出来ないと言われますが、京都の宇治上神社と厳島神社は約1168年頃に作られた物と言われていますが、一乗寺三重塔・醍醐寺本堂・中尊寺金色堂に見られる二木造りの蟇股は、時代が更に100年古く、約1065年位に作られた物と言われています。又見て比較するとよく解りますが、時代の古い蟇股は高さが新しい蟇股に比較して大分高い物になっています。
高さの高い蟇股は時代が古
高さの低い蟇股は時代が少し下がり、100年位あたらしくなります
又、刳り貫きのない 「板蟇股」と刳り貫きのある 「本蟇股」があります

寝殿造りについて触れると、
寝殿造りは社殿と中心に鳥が翼を広げたような形に、「渡り廊下」でつないで「対屋(たいのや)」を配し、前面には祭礼の場である「庭」、更に南には「池」を配する建築様式を言う

屋根は「桧皮葺(ひわだぶき)」
ここ厳島神社の屋根は全国でも珍しい、桧皮葺きに瓦を積んだ「化粧棟」となっています。
また、ツルが飛んでいるような優美な曲線を描いています。

本社本殿・客殿などは 五色の色が塗られています。これは中国の「陰陽五行説」に由来するもので
赤は 柱・梁・垂木                                                                白は 壁などの板材(神社では漆喰は使用禁止です、お寺は漆喰の白い壁をしよう)
青は 窓や格子戸・連子窓(緑青に塗られていた)         黄色は 材木の木口                                                                    黒は 蔀(しとみ)・破風板の上の部材


本社の拝殿(皆様がご祈祷・結婚式等を行う所)の横には、ご祈祷を待つ待合室があります。
この中に入られた方はわかりますが(一応断れば誰でも入れます、鍵はかかっていません)、入って真正面にとその左横に大きな
扁額は掛かっています。
真正面の扁額には、「従一位 源 長勲  俊 徳 」と書いてあります。 この源 長勲こそが「広島藩 最後の 第12代藩主 浅野長勲」です。
浅野家は清和源氏頼光流土岐氏の庶流で土岐光衡の次男・土岐光時が土岐郡浅野で「浅野氏」を名乗り光時に始まる土岐氏草創期の一族
であるとされている。本性が「源氏」で苗字が「浅野」であるから「源 長勲(ながこと)」と署名してある。
日本の江戸時代末から昭和初期の大名 政治家 外交官 実業家 社会事業家

左の扁額には「元 昭  明 光」とあります
これは毛利元就の子孫で「毛利宗家 29代当主 毛利 元昭」です
元昭(もとあき)は長州藩最後の藩主で、毛利元徳の長男である


祓殿で行われていた祭典は以下のようであった
当初は「直会(なおらい)」の場として使用されていた。
明治10年 「36歌仙板絵」 
明治29年 「長沢蘆雪の山姥図」他、多くの絵馬が「廻廊」「祓殿」にが掲げられていた、しかし明治33年に大きな高潮が発生、絵馬が流出する事となる、その為現在は「千畳閣」に一部を掲げ、残りは保管(170枚の絵馬を保有・これは日本一の数です)
明治13年 厳島学校生徒の社篭(しゃろう)が行われ、ここで昼食を取る
明治24年9月 29年6月 宮島で「海軍兵学校の運動会」が行われ、ここで昼食を取る
明治29年2月(旧暦)晦日に「相立場」が行われた、これは従来大晦日に行われていた「年越相場」にならって始めたと言われ、その後は「米取引」の形を取り入れた。「宮島相場」と言う、催しとし戦後はしばらく続いた。
明治29年10月 厳島町の各町内が社篭として、祓殿・楽房で酒宴を催した
明治32年10月 ここでの飲食の禁止、廻廊内を喫煙したままでの徘徊を禁止となる。
厳島小学校の「書道大会」も開かれ、
現在では「御衣献上式」や「市立祭」のお祓いなどの他に、諸芸能の奉納の場として使用される

明治4年には、千木・勝男木がつけられていた。
この年明治4年に明治政府より、神社のお参りには「二礼二拍手一礼」が始まり、昭和21年には廃止。現在はどの様な方法でもOK
明治34年に「古社寺保存法」により、千木・勝男木が下ろされる
明治34年1月28日から大正8年7月までは、俗に言う「明治・大正の大修理」がおこなわれる(20年かかる)

高舞台(国宝)
舞楽が舞われる所です。桃花祭・菊花祭などで舞楽奉奏が演奏されます
舞楽とは、管弦による舞踏のことで、振鉾・陵王・納曽利・万歳楽・延喜楽・太平楽・抜頭など二十数曲が今なお厳島神社に伝承されています。(舞楽の演目は三十六曲ある)
この舞台の擬宝珠には、1546年(天文15年)棚守佐伯房顕(たなもりさえきふさあき)の銘があり、奉納した事が判ります。(約468年前、本殿に近い方の一番左右の二つの擬宝珠に書いてあります)
ちなみに、この擬宝珠を造ったのは、廿日市の鋳物師で「久枝綱家」の作、五重塔の擬宝珠も同様です。
以下の文字が刻印されています。
「木帽子(擬宝珠)鋳奉檀那當棚守左近蒋監房顕天文十五年丙午六月」
きぼうし いたてまつる だんなとう たなもりさこんしょうげんふさあき てんぶんじゅうごねん ひのえうまろくがつ
檀那(だんな)・・・・・・施主のことをあらわしている。
左近将監(さこんしょうげん)・・・・・棚守代々の官職名
房顕(ふさあき)・・・・・・毛利元就時代の有名な棚守(現在の野坂宮司の先祖)

日本三舞台の内の一つで、大坂四天王寺の石舞台・住吉大社の石舞台を日本三舞台と云う。

舞楽を舞う人が「舞楽を舞うのにこれ以上舞台が小さいと舞えない」と呟くのを耳にします、
これは以下の様な考えのようです。
「高舞台正面の幅はほぼ本社祓殿の中央柱間と同じ大きさである、本社祓殿の原形は仁安の造営(1241年)の「舞殿」
であった。
この舞殿の前に置かれた舞台(高舞台)を使って治承元年の千層供養の時には舞楽が行われた様である。
舞殿(現在の祓殿)の中には蓋高座が設けられた、この蓋高座を使って千層供養時には舞楽が行われた
この蓋高座を高舞台の元祖と考えると、舞殿(祓殿)の中に設置しても使用できる大きさでなければならない事になる、
すると、おのずと舞台の大きさも限られて小さな舞台になってのではないかと思われます。

旧暦の6月17日には「管弦祭」が行われると先に言いましたが、旧暦では6月が二度訪れる年があります。
この時は「居管弦祭」と言う、管弦祭が催しされます。
居管弦祭(いかんげんさい)」とは、居ながら行う管弦祭の事で、御座舟は使用しません、高舞台を利用して、平舞台の上で行います。
高舞台の前に船の帆先を付けて祀ります(高舞台が御座舟の代わりをします)。
屋形と高舞台の間に12ヶ月の造花つけて飾る。
1月は松 2月は梅 3月は桜 4月は山吹 5月は花菖蒲 6月は若竹 7月は萩 8月は朝顔 9月は桔梗 10月は菊
11月は紅葉 12月は水仙 の花を飾る 。

この時は「鳳蓮」は移動しない(昭和5年・16年・35年・54年・62年に居管弦祭が実施されている.)

なお、この高舞台は平舞台の上に置いてある様に見えるが、実際は平舞台とは関係なく、海底から花崗岩の柱を建ててその上に高舞台を造っているものです。
高舞台
四隅の親柱の外側に直径4分(約5センチ)の穴が付いている。
これは「幡飾り付きの鉾」を立てるときに使ったものと思われる。こうした金具の取り付けは、
他の舞楽舞台には見られない装飾である
右楽房・左楽房(国宝)
舞楽の時に管弦を奏するところです。左右ありますが「舞楽」を舞う時には二つの流れがあります。
左の舞、・・・・インド・唐(中国)から伝わった舞を言い、左舞を舞う時は左楽房で奏します(これを唐楽及び林邑楽と云う)
右の舞、・・・・朝鮮半島から伝わった舞を言い、右舞を舞う時は右楽房で奏します(高麗楽及び渤海楽)

衣装については
右舞・・・・・青色(緑色)衣装で金具は銀色で、メロデイで舞うと云われています
左舞・・・・・赤系の衣装で金具は金色で、リズムで舞うと云われています

平舞(ひらまい)・・・・優美な装束を着て4人以上で演じるゆったりした舞い
走舞(はしりまい)・・・華燭な装束を着て1人、又は2人で演じる
番舞(つがいまい)・・一つの演目に対して割り当ての演目が決まっている舞い
             例:蘭陵王の舞と納曽利、 延喜楽と万歳楽 の様に

舞楽面も厳島神社に伝わっており、平清盛が大坂の「四天王寺」から舞楽を移した時には、「舞楽面」が9面伝えられた
その内7面は平氏の寄進によるのものである。
千層供養時には舞楽は24曲あり、その内12曲が現在も厳島神社で舞われている。

「舞楽」は平清盛によって、大坂四天王寺(聖徳太子が開く)から約820年前に伝えられたものが現在も神職によって伝承されています。
左右楽房・左右門客神社は、清盛が神社を建立した時にはまだ存在しておらず、当時は簡単な建物を立てテントで覆うて
、使用していたようです。(是を幄舎(あくしゃ)とも幄(あく)の屋と呼んでいた。
幄屋(あくのや)・幄舎(あくしゃ)・・・・・・五色の布で出来た一種のテントで祭礼日に臨時に張られた  

火焼前(ひたさき
廊嘴(したさき)とも言い、平舞台から突き出た部分をいいます。名前の由来は諸説あるようですが、昔管弦祭の時、御座舟が厳島神社に帰ってくる時に、ここに篝火を焚いて、是を目安に御座舟が入ってきた為とか、空から見ると回廊がうねうねとまるで「龍」がうねっている様に見え、その口先(舌先)の様に見えるので、火焼前・廊嘴と言ったと言われている。
大鳥居からの距離は「88間」あります
ちなみに、表参道商店街の出口付近の「注連柱」の左側(山側)には「回廊蘸影現龍姿(かいろうさんえいげんりゅうし)」と書いてあります。回廊の下に写る影がまるで龍の姿に見える。「芸藩通史」によれば、厳島神社は南北朝時代の後半において既に、龍王もしくはその娘龍女の館と考えられていた。また、「臥雲日件録」の厳島縁起に見られるところによれば、神社の回廊は室町時代の前期になると、大蛇が「とぐろ」を巻いている姿と考えられていた。
「明神の縁起をほぼ知る、昔推古天王の御字、一美人船に乗りて来る(中略)婦人遂に化して大蛇と成る」
厳島神社の祭神「市杵島姫命は娑迦羅龍王(さからりゅうおう)の娘
安芸厳島の「三箇秘事」として、「それ厳島大明神は娑迦羅龍王第二女なり・・・」とあり平安時代末期以来の理解がそのまま踏襲されている。

先端には、寛文10年(1670年)の銘のある青銅製の燈篭が、寛政9年(1797年)の築かれた石の台上にある、
左右門客神社の脇には、天明5年(1785年)銘の青銅製燈篭が二基並んでいる。
管弦祭の時にはここから、祖祭神を遷した鳳輦が浜に降りて、大鳥居沖に待っている御座船に乗せます、

平舞台らな屋根の無い部分を「平舞台」といいます。神殿造りの場合、前面に祀り事を行う庭があり、その前には池があり、池には右側から小川が注いでいないといけない、と云う決まりごとがあり、その庭に当たる所は平舞台です、前の大鳥居までの海を「池」に見立てています(玉御池と云う)。
束石は「赤間石」で毛利元就が寄進したといわれています。元亀2年(1571年)の「元亀の遷宮」に際しての元就の寄進
広さは「187坪」もあり、この平舞台は「束石」の上に載せてあるだけなので、台風などの高潮時には浮き上がり、その後は又元に戻ります。 束石は全部で218基ありました。
赤間石(安山岩です)・・・山口県宇部市辺りで産出する石で、高級すずり を造る材料です。
平舞台は清盛の頃よりあり、その時は廻廊と同じ朱塗りの高欄が設けてありました.
1177年10月14日の千層供養では大勢の人々が極楽浄土の仮装をして行列を組み境内を歩く「大行道会(だいどうぎょうえ)」の行事があり、その出発点が「平舞台」であった。

「元亀の遷宮」について
元亀2年(1571年)の本殿を遷宮している。本殿は3度建て替えていると、先に言いましたが、
1207年 本殿焼失8年後に遷宮                                                                 1223年 本殿焼失 遷宮は20年かかりました                                                                  1568年 和知兄弟の謀反(元就の長男・毛利隆元を毒殺したと言う、疑いのかかった兄弟が12月に本殿に逃げ込み                                       69年1月に本殿にて自刃する。)本殿が「血」で穢れたといい、建て替える。是を「「元亀の遷宮」と呼んでいる
1571年 本殿遷宮終わる

この時の遷宮における「お金」は現在世界文化遺産に指定されている「石見銀山」からのものです。
銀の供給を受け(銭に換算して約26万両とも言われています)。
この時の石見銀山奉行は「平佐就之(ひらさなりゆき)」で後に(1584年)銀山の狛犬を寄進している。
この狛犬が大変珍しく、薄い銀の板数枚を繫ぎ合わせて作ってあります、大変小さな狛犬ですが、大きな目をした愛くるしい顔をしています、切手にもなっています。
かつて、神社の廻廊には多額の寄付をした、檀那の名を記した「棟札(寄進札)」が掲げられていました。
主に戦国時代 114枚の棟札が記録されていましたが、その内23枚(約20%)は石見銀山の住人によるものでした。
時は「菊花祭」の時におおく参詣しています。

石見銀山は、当時山口 北九州 遠くは備前辺りまで支配下にあった「大内義興」の武力下にあり、大永6年(1526年)
3月には、筑前博多の豪商「神屋寿貞」によって始められ、鷺銅山(さぎどうざん)の門」とそ銅主「三島清右衛の弟子
や「堀子」たちを連れて入山する。
1533年8月には「神屋寿貞」は南朝鮮から「慶寿」と言う銀吹師(かねふきし)を招き「灰吹精錬(はいふきせいれん)」
と云う新しい技術による精錬法式を伝える。
この事により、銀山は目覚しい量産に入る(銀算出の歩留まりが大変高くなった)

灰吹き法による著しい銀の産出情報が伝わると、近隣の武将たちが狙い始めた。
銀山を目指して「大内氏」「尼子氏」が対立、大内氏が滅びると、銀山を巡る抗争は「毛利」「尼子」の熾烈な戦いとなる。
元就が完全占領するまで30年余り、激戦は8回にも及んでいる。

左右門客神社
清盛が厳島神社を造営した当初はありませんでした
鎌倉時代に新設され、室町時代に再々造られたものです。 門(もん)を司る神様で左右にあります。
厳島神社のご祭神をお守りする神様がいる所で、
右門客神社には、櫛磐窓神(くしいわまどのかみ)、 左門客神社には、豊磐窓神(とよいわまどのかみ)がお祀りされています。
中の玉殿は「見世棚構(みせだなかまえ)」の一間社流造(いっけんしゃながれつくり)になっており、
古くは戎社(えびすしゃ)と云う名で呼ばれていました。
玉殿を良く見ると、細部にわたり違いが有ります、意匠・木鼻、等々
流れ造り・・・・・屋根の軒の長さが、手前と奥川で違います、手前が長い作りをいいます。
玉殿の屋根は栃葺きとなっています。

屋根の葺き方
杮葺き(こけらぶき)・・・・・・最も薄い板を使用する(2~3ミリ)
木賊葺き(とくさぶき)・・・・・杮葺きよりも厚い板を使用する(4~7ミリ)
橡葺き(とちぶき)・・・・・・・・最も厚い板を使用する(1cm~3cm)、大和葺き(やまと)とも呼ばれるが

大国神社
厳島神社の摂社にあたり、ご祭神は「大国主命」がお祀りされています。
大国主命は、「国造りの神・農業神・商業神・医療神・縁結びの神」です
一段高い幣殿の右側が、昔 「神饌(しんせん)」の仮案所」で御本社裏の御供所から運ばれて来た神饌をここに置き
ここから先は「内侍」が運び本殿にお供えしました。
黒塗りの格子戸がありますが、これにまつわる面白い話があります
一説によると、大黒様は耳が不自由だったので、願掛けをする際には、この格子戸「コト・コト」と動かして、音を立ててから
お願いしないと願が通じないとも言われ、「コト、コト 大国様」とも呼ばれています。
なおこの神社は、「二礼四拍手一礼」となっています、神社本殿は二礼二拍手一礼、です。
四回も拍手を打つのは、お耳が遠いからと言われています。(ちなみに伊勢神宮は八拍手です)

4拍手の神社は全国で4か所となっています
1 弥彦神社(新潟県)
2 出雲大社(島根県)
3 祐徳稲荷(佐賀県)
4 宇佐神宮(大分県)

二拝二拍手一拝
拝礼を行う前後に、一般の会釈にあたる「揖(ゆう)」を行う。
「揖」には、「深揖(しんゆう)」と「小揖(しょうゆう)」があり、神前では深揖(45度身体を折る)を行う
「拍手」は神道では「かしわで」と言う。
伊勢神宮については
「八度拝・八開手(はちどはい、やひらで)と称し、起拝を5回行い、拍手を8回打つ」
八度拝・八開手は祭祀の際に神職が行うものとされていますので、一般的には「二拝二拍手一拝」でよいです。

なお、手を打つ仕草があるのは 日本 だけです
明治4年時の政府により二礼二拍手一礼は強制されましたが、昭和21年解除されました。
この時の名残が現在も残っています。本来何拍手でも良いようです。

長橋(国の重要文化財)
長さ33m、幅3m、橋脚には「赤間石(安山岩)」が使用されている。以前は「平橋(ひらはし)」と呼んでいましたが明治11年に
長橋」と云う名前になっています。

橋を渡りきったところに、「石柱」があります
明治の探検家、「松浦武四郎(1818-1888年)」は天神信仰に篤く、全国の「天神社」25箇所を参拝し、
明治17年10月に「聖跡25拝の石柱」を寄進しています。
北海道を命名した人。
以下、武四郎 について、簡単に触れておきます

松浦武四郎(1818-1888) 江戸時代の探検家 70歳没
三重県出身、 28歳の時に蝦夷地(えぞち)と呼ばれていた、
今の北海道に初めて渡る

アイヌ民族と寝食を共にし、協力してもらいながら13年間で6回の旅をし、
従来よりも詳しい地図や記録を残した。

明治の時代になり、蝦夷地の名を変える際に、
政府の役人となっていた「武四郎」が、
「北加伊道(ほっかいどう)」と言う名前から、
現在の「北海道」に決まる(1869年明治2年、8月15日)
「武四郎」はアイヌ民族の長老から、
「ここに生まれた人を、カイ、と呼ぶ」と教わり
「北にアイヌの人々が暮らす大地」の意味を込めて命名した
アイヌ民族との親交がうかがえる。

札幌、富良野、など現在179ある市町村名の約8割が、
アイヌ語が由来になっているそうだ。
2018年は150年目の節目になる。2020年の東京オリンピックの年には
南部白老町(しらおい)にアイヌ文化の発信拠点となる
国立の施設が完成する予定。


天神社
弘治2年(1556年)毛利隆就により建立されています。
この時は「天満宮」として建立しましたが、後に「天神社」と記しています。全国には約12.000社あると言われています。
御祭神は「菅原道真」がお祀りされています、学問・受験の神様です
ちなみに、道真の起源は「天神社の祭神の内の一人、天穂日命」であります
京都から博多までの間に、特に菅原道真にゆかりの深い社を「聖跡25拝」と言っています。

菅原道真・・・・・「菅原家」は「天穂日命」に起源を持ち、曾祖父古人(ふるひと)の時代に学問をもって朝廷に仕える家柄となる。
祖父「清公(きよきみ)」は私塾を設け、同所から朝廷の要職に数々の官人を出し、菅原家は一大学閥となる
宇多天皇のときには大変重用される。(道真は正論を掲げ、天皇であっても遠慮なしに進言していた、これが
宇多天皇に重用されるもととなった、一つには香川県・讃岐国に栘封されて世の中の見方が変わったとも言われている、しかし九州の
太宰府に送られての2年間(59歳で亡くなる)は、一切の恨み言は言わなかったと言われる。  醍醍醐天皇の時には右大臣(律令制においてはナンバー2)にまで上り詰める。
江戸時代の年号は、ほとんど道真の子孫により名が付けられた、幕末の「慶応」はもともとは「平成」の元号になるはずであった。
* 60代 醍醐天皇の時、藤原時平の陰謀によりに讒訴(ざんそ)され大宰府へ送られる。 
讒訴(ざんそ)・・・虚位の告発を行って貶(おとしめる)める事を言う
素木(しらき)造り・桧皮葺きの入り母屋の造りとなっています。
明治の中ごろまでは、ここで「連歌の会」が開催されており、別名「連歌堂」と呼んでいます。
ここで行われる「連歌」は100の連歌と繫げる「100韻連歌」が行われていました。
上の句「五・七・五」 下の句「七・七」と繫いで歌うので、100韻連歌とよんでいました。

連歌の楽しみは、人が一つのサランに集まると言う楽しみでもある。 公家や武家・貴族たちが、物好きの僧を交え、
毘沙門堂などに何日も篭って「百韻の連歌」のどを完成する。この様な時のサロンの楽しみは連歌が流行する以前
の人が想像する事の出来なかったものであったと言う。また、連歌の世界も下克上となろ、辺りの百姓や職人、
時には野党のたぐいまでが、それぞれサロンを組んで連歌の興行をするのである。これを「地下連歌(じげ)」と言った
地下の連中は公家や大名とは違い金や物を賭けて勝負を争うのである、その様な連歌のグループが方々に出来ていた
自然「天者(てんじゃ)」は手が足りぬほど忙しい、「天者にならぬ人ぞなき」と言う落書きが二条川原に建武2年の頃でたと言う。

神社本殿にあるまじき作りの、土壁(漆喰塗り)が使用されている、これはあるまじき事で社殿建築
には壁土は使わない(板塀を使用、本殿祓殿を見ると良く理解できる)、本殿との時代差は388年
三方に蔀(しとみ)があって開放的(枕草子などには「御格子(みごうし)」と記されている
(雨風を防ぐ戸は「蔀(しとみ)」形式で戦国時代の建築様式が用いられている。)
漆喰が塗られた室町時代の「武者造り」と呼ばれる建造物。桁行3間、梁間3間の真四角な建物である

能舞台
室町時代末期に出来た比較的歴史の新しい社殿、2001年(平成13年)には世界無形遺産になる。
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永禄11年(1568年)、毛利氏は観世太夫宗節(かんぜだゆうそうせつ)を招き仮の能舞台を海中に設けさせ、「能」を奉納する。
後に広島藩主となる、福島正則が慶長10年(1605年)に能舞台を寄進する、現在のものは宝暦8年(1680年)第四代広島藩主の浅野綱長により、舞台と能楽屋、橋掛かりが造立されたものです。
特徴としては、日本で唯一海中に建立されていることで、切妻造りである
笛柱が独立しているのも特徴の一つです。
海中にある為、本来床下にあるはずの共鳴音を出す為に置かれている「甕」がありません、代わりに床下の根太が
三角形でその上に床板を張り、大きく響く様に工夫してあります。
ここで、能が舞われる日にちは決まっており、毎年4月16・17・18日の三日間行われます、
桃花祭神能といいます、当日は廻廊と同じ高さで、「海中」に桟敷が作られ、そこで能を見ることとなります。
能を見る「料金」は別に無く、厳島神社への拝観料として「300円」支払いますが、これで「能」を見ることが出来ます。
初日と二日目は始めに「翁」が舞われ、三日間とも五番立てで、間に「狂言」が入り、江戸時代から続く本式な能を見ることが出来ます。
重要文化財の指定を受けている、六舞台の内の一つです。能楽屋と共に指定を受けている能舞台はここだけです。

能の起こり
毛利元就によって、永禄6年(1563年)を始めにして度々奉納されている
永禄11年(1568年)には観世太夫が下向した際に、
「前略、江の中に舞台を張らせて九番の演能あり、その後、棚守房顕の屋敷で舞台を張らせて十一番を演じた」
と「棚守房顕記」に記されている。
毛利元就に替わり福島正則が芸州の藩主となり、その後は紀州より浅野氏の支配下になった頃から
厳島は藩直属の「宮島奉行」「宮島元締役」「宮島帳元」が置かれ、また交通機関の発達と共に、
神社を中心とした「観光地」の性格を帯びるようになった。
春・夏・秋 の三期の市も立ち、「福島」「浅野」の時代を通して演能が行われ、宮島は次第に賑やかさを増す。

明治時代になり祭典が「新暦」となり、春の大祭を「桃花祭」とし、従来の3月15日を一ヶ月遅れの
4月15日にして、16日から3日間を「桃花祭神能」とする。

16日(初日) 喜多流 *
17日(2日目) 観世流 *
18日(3日目) 喜多流 *


初日と2日目は最初に、天下泰平、五穀豊穣を願う「翁」が演じられ、3日間とも「5番能」が演能される
(時には他派が演じることもある)




知りたい宮島 5 神社 管弦祭

2024年06月05日 09時32分09秒 | 貴方の知らない宮島
いよいよ、厳島神社にまいりますが、ここで神社に少し触れておきましょう、

安芸の宮島「厳島神社」は、推古天皇即位元年(593年)初申日に地元有力者・佐伯鞍職(さえきくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て三笠の浜に社殿を創建したのが最初と言われています。
諸説ありますが、この島は「」島といわれており、斎を「いつき島にまつれる神」という意味から、「伊都岐島大明神」「厳島神社」等呼称され、現在は「厳島神社」と呼ばれています。

原始宗教の名残で島全体が「神の島」として崇められていましたので、陸地に社を創るのは恐れ多いと言う事で海中に社殿を建立しました。
創りは「神殿造」で屋根は「桧皮葺」となっています。御祭神は天照大神の娘である宗像三女人の、
市杵島姫命」「田心姫命」「湍津姫命」で相殿神は「国常立尊」「素戔鳴尊」「天照皇太神」、その他30数柱の神が祀られています。

伊勢平氏の流れをくむ「平清盛」はここ「厳島神社」を氏神にしました、
というのも平氏には正式には「氏神」がありませんでした、平野神社が氏神ともいわれていましたが、この神社は桓武天皇との関係から「平氏の氏神」としての性格が濃かったのですが、源氏・高階氏(たかしな)・大江氏の氏神でもあったのでした。

** 平野神社 八氏(はちし)の祖神(八姓 はちしょう、とも言う)
1 秋篠氏 2 大江氏 3 清原氏 4  源氏
5 菅氏  6 高階氏(たかしな) 7 中原  8 平氏


清盛が久安2年(1146年清盛29歳)の安芸の守に任官され、その後平氏の氏神として尊崇し平家一門の権力が増大するにつれて、この社を尊崇する度合いも増し仁安3年(1168年清盛51歳)社殿を現在のような姿に造営しました。

安芸守・・・瀬戸内海は西国や九州・大陸からの産品が京へ入る最大の通商路で海上交通の要衝である
安芸守を支配する事で清盛は莫大な利益を得ることになる。是により平家一門の経済的地盤は強化された。
日宋貿易を推進したのもこの安芸国で国守の経験から得た物である。後の1156年保元の乱が起こる(この時は播磨守)
「この時には清盛は播磨守に任官」、経盛(1156年)9月17日 頼盛(1158年)と続けて安芸守に任官される
保元3年、清盛が播磨守になった事で、頼盛は清盛の知行国・安芸の国を受領する
国司(国守)・・・大国(13カ国)「播磨の守」 上国(35カ国)「安芸守」 中国(11カ国) 下国(9カ国)。地方行政単位である
国の行政官として中央から派遣された官吏、四等官である守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)等を指す
当時都からは、後白河上皇・建春門院・中宮徳子・高倉上皇・建礼門院をはじめとする貴族や皇族が訪れたので、都の文化や建築が宮島に入ってきました。
現在も厳島神社に伝承されている「舞楽」は清盛によって、約820年前に大坂の四天王寺から移されたものです。社殿は自然災害により何度か建て替えられていますが、清盛が造営した当時の姿を今に伝えています。
(現在、日本に寝殿造といわれる建物はこの厳島神社だけとなっています)
当時は内宮に37宇、鳥居4基。外宮には19宇、鳥居1基、内宮・外宮あわせて56宇と5基の鳥居がありました。神の島と崇められていた為人は住んでおらず、社家・供僧は対岸の外宮から毎日通っていました(外宮は対岸の地御前にありました)。
内侍(他の神社では巫女という)のみは、内侍の館が築かれ住んでいたようです。
内侍については後段で詳しく説明を致します。

全部で56宇と5基の建造物があると言う壮大な建築物は、当時の藤原氏の春日大社に比較しても、容積でいえば約10倍というから、いかに大きなものか(しかも海の中に建っている)驚きます。

なお仏教建築が混じっているのは、平安時代以降の神仏習合の影響であった、
明治時代以降の神仏分離以降では徹底的に仏教建築が取り壊されており、日光東照宮・厳島神社が往時の仏教建築を多く残す神社の双璧となっています

神社本殿、幣殿・拝殿等17棟、大鳥居・五重塔・多宝塔・千畳閣からなる建造物群は6棟が国宝、11棟が国の重要文化財に指定されています。(20棟は明治時代に取り壊しになっています)。
具体的に言うと、東回廊47間・西回廊61間(合計108間)・本社本殿・幣殿・拝殿・祓殿、客神社本殿・幣殿・ 拝殿・祓殿、朝座屋、高舞台、平舞台、左右門客神社、左右楽房、火焼前、大国神社、天神社、能舞台、能楽屋、反橋、長橋、揚水橋左右内侍橋などの建造物からなっています。
寝殿造りの場合「客神社」が釣殿(涼をとる場所)にあたるといわれています
入り口左側で「昇殿券」を購入して入ると、右側に「寛文2年(1689年)と記した手水鉢」がありここでお清めを行い、いよいよ東回廊の入り口に入ります、
入り口上部の屋根を見ると、簡素な切妻の屋根となっています。
普通は入り口は立派な構えになっているのですが、これは出口の西の回廊の屋根を見ると解ります、ここの屋根は「唐派風」の立派な構えとなっています。昔はどうやら西の回廊が入り口といわれていた為、と言われています。

現在(令和5年3月)東回廊を入った所の「客神社(まろうどじんじゃ)」を過ぎたあたりから、回廊の檜皮葺の屋根の葺替を行っている為、左右が白いテントで覆われており
ます、既に入口の客神社の屋根の葺替は終わり(令和4男10月)、本殿に向かう回廊の屋根を順番に葺替中です。本殿の「平舞台」から見ると、新旧の屋根の違いがよく解ります。
国宝回廊幅は4メートル、長さは262メートルあり、回廊の柱と柱の間を「一間(ま)」と呼んでおり、入り口から出口までは108間あります(一説には107間とも言いますが、これは内側と外側の違いと言われています)。一間の間には「国宝の回廊板」が8枚敷いてあります、また一間の長さは2,4メートルで昔の尺貫法では8尺になります。八は末広がりとも言われ「縁起の良い数字」と言われている為と思われます。

ここで「国宝の回廊」を土足で歩いても良いの? と思われるかも知れませんが、
よく見ると「国法の回廊」の上に別の板が敷いてあります(養生板といいます)ので土足でも良いのです。
高欄(手すり)から外側に見えるのが、「国宝の回廊」です。昭和47年までは土足厳禁で、入り口で「わらじ」に履き替えて入っていました。この時は職員の方達が出口から「わらじ」を入り口まで運ぶのが大変だったようです。

客神社です、この神社は鎌倉時代(1241年)の再建で、後に更に室町時代永享5年(1433年)に再建されました。
清盛の頃には「客人宮(まろうどのみや)と呼んでいました。」厳島神社本社の摂社にあたり、摂社の中では一番大きく厳島神社の祭典では、 初めに祭典が執行される社です。

御祭神は、天照大神の子供で、五人の男の神様で①「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」、②「天穂日命(あめのほひのみこと)」③「活津彦根命(いきつひこねのみこと)」④「天津彦根命(あまつひこねのみこと)」⑤「熊野楠樟命(くまのくすびのみこと)」が祀られています。(いつはしらのおおかみ、と呼ぶ)

天忍穂耳命は天照大神の長子で皇族に連なる神様です(更に長子は邇邇芸尊(ににぎのみこと天孫降臨して現在の天皇家の祖神につながる、この時道案内をしたのが猿田彦神です)。
天穂日命農業の神様。菅原道真の祖神にあたる
天津彦根の命は、日の神・雨の神・風の神・火難除神の神として崇拝されています。

「五柱の男神について、素戔嗚尊が天照大神の「髪」に巻いた「玉」をもらい受け噛み砕いて吐き
 出すと息の霧から五柱の男神が現れる。」・・・客神社の5人の男神
「天照大神が素戔嗚尊の剣をもらい、三つに折って「天真名井(あめのまない)」で洗い清めて噛み
 砕いて出すと三柱の女神が現れる。・・・三人の女神

*五柱の大神の、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)は初代天皇の神武天皇の祖神で、
現在の天皇に続く神です。
*三柱の女神の内の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)は別名「道主貴(みちぬしのむち)」
と言い、天照大神は別名「大日要貴(おおひるめのむち)」と言い。大国主命は別名で「大己貴神
(おおなむちのかみ)と言い。神名に「貴(むち)」の名前が入いるのはこの三神のみ。

左手一番奥が本殿です、よく見ると本殿の前には御簾(みす)、壁代(かべしろ)と云うが掛けられており、
その奥に御神体を安置する「玉殿」が置かれています、

玉殿の安置されている場所は「内陣」と呼ばれ、朱塗りの階段上の4段目にあります。
ここは清盛建立以来一度も海水には浸かって要らず、3段目までは海水が来たという記録があります。
永正5年(1509年)には清盛以来最大の高潮があり、回廊上約1,5メートルに達したと記録があります、

また近年では平成3年の台風19号来襲により、回廊上80センチまで達した事は、記憶に新しいところです。

右手が「祓殿」でここの海側を良く見ると、白い板が切れた所があります、昔はここから「参拝者」が舟を付けてお参りをしていました。
白い板は本社本殿辺りにも見ることが出来ますが、これは「波除け高欄」といい海水がかかるのを防ぐ意味から取り付けられています。

また祓殿には天井があります(珍しいですね)、種類は「折上子組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)」と言い、天井の格式の中では一番上の天井です。

現在でも毎月1日と17日は「月次祭(つきなみさい)」と言い、神官29名が朝座屋の前に当時の姿で並び、客神社の祓殿に入る
お払いをし、その後拝殿に入り「祭り事」を行う
拝殿の左右には「籠り所(こもりしょ)」と「経座」があり経座は社僧の「読経所」であった。この経座があった場所で祭り事を行う



本社祓殿にはもっと立派な天井があります。
拝殿の上を見ると大きな「板蟇股」がありますね、目をこらしてみると「ハート型」の刳り貫きを見ることが出来ます。

これは「猪の眼」と言い、神様をお守りするものです。本殿にもあります探してみてください。
祓殿の上部を見ると「蟇股」を見ることが出来ます、本殿の祓殿にも同じものがあります、よく見てください。

この「蟇股」の特徴
① 平安時代末期のもので、特徴は左右が別々に作られている「二木造り(ふたぎつくり)」と言い
鎌倉時代からは一体作りになる。

この様な「二木造り」は宇治上神社、平泉中尊寺、醍醐寺金堂、一乗寺三重塔でしか見ることは出来ない。

② 一乗寺三重塔・醍醐寺金堂・中尊寺金堂、は時代が「1065年~」で蟇股の高さが、
厳島神社の蟇股に比較して「」。 

宇治上神社、厳島神社の蟇股は時代が「1168年~」となり、
約100年くらい時代が下がる更に「蟇股」の高さが低くなっている、とこの様な特徴を見て取ることが出来きます。

次は、「鏡の池」が見えてきます。厳島八景の一つで「鏡池秋月」とも云われ、この池に写る月が秋を代表する景色の一つで、最も美しいものとされ和歌や俳句に詠まれています。

「みやしろに かくる光もくもりなき かがみの池に すめる月影」  宣阿         と詠んでいます

宣阿は陰徳太平記の著者です。陰徳太平記とは、日本の古典文学の一つで、戦国時代の山陽・山陰を中心に室町時代13代将軍足利義輝の時代から、慶長の役までの90年間を書いた軍記物語(1507年~1598年頃までの90年間)

潮引いて後 くぼき処ありて 別に一小池をなすが如し 秋夜一輪の月光をすましむ」とも詠んでいます。

境内には「三つの鏡の池」があります。その内の一つです(他には、卒塔婆石の所、天神社の裏にあります)
昔からの言い伝えとして、「一夜にしてこの池が出来たのは、この造営が御神慮(ごしんりょ)に叶った為である」と人々がたいそう喜んだと云われています。

またこの池は干満時において火災が発生した時の消火用水の役割を果たしたとも云われています。さらによく見ると池の中から水が湧いて流れていますこの水は海水ではなく「真水」が流れ出ています、不思議ですね。

廻廊の傍らには「明和7年(1770年)に寄進」された石灯籠があります。この石灯籠は岡野権左衛門正英が建立寄進したもので、合わせて諸経費として20両を寄付している。

鏡の池の廻廊からまっすぐ五重塔の方角を見ると、石垣が見えます、この石垣は、毛利元就・吉川元春の技術による石でよく見ると「布積み」になっています。千畳閣の下の石垣は豊臣系の石垣で「乱積み」になっていましたね。

この布積みの石垣を良く見ると、なんだか変と思いませんか。道と海の底面が約3~3.5m位の段差になっていますね、
昔約6000年くらい前から、この神社のあった場所には「紅葉谷川・白糸川」が長い時間流れ込んでおり、その為この部分は「砂洲」になっていました。平清盛はこの砂洲の部分を除去して、その跡に「厳島神社」を建立したのです。
理由は既に解っていますね、そうこの島は「神の島」と呼ばれ、島に建物を建立することなど、とんでもないことと言われて
海の中に社殿を建立したと云われています、そう理解すると解りやすいですね。

さらに廻廊を進むと正面に「朝座屋」が見えてきます。この建物は「国の重要文化財」で1168年の造営記録にも名があります。 社家・供僧・内侍 の方達が祭典の時に集合したといわれています(社家三方と云う)
屋根を良く見ると、東側は「切妻屋根」西側は「入り母屋」の造りとなっており、三方に「庇の間」がある、これは神殿造り様式の特徴のひとつである、対屋(たいのや)の要素をもった建造物です

明治維新後 昭和42年までは厳島神社の社務所として使用していましたが、現在は結婚式の控え室に使用されています。
平安末期、島内には「内侍」が居住するのみで、他の祭事に仕える社家・供僧は対岸の地御前神社(外宮になります)辺りに住んでいました。(神の島であるから人は住む事が出来ず、毎日対岸の外宮より舟で通っていた)
内侍の館のみはあり、内侍はそこに住んでいたといわれている。島に人が住むようになったのは1300年の頃からと言われています(鎌倉時代の後期ごろからか)

眼の前には廻廊に囲まれた四角い海の部分がありますが、ここを「枡形(ますがた)」といいます。


厳島神社の神様を慰める為に行われる雅な海上渡御の祭りで、王朝絵巻を繰り広げる宮島最大の神事です
当時都で盛んであった管弦を奏する遊学を宮島に移したもので、毎年旧暦の6月17日に「管弦祭」が行われます。

船先に篝火を焚いた御座舟や呉の阿賀、広島の江波から来た引き舟がこの枡形に入ってきて、三匝(さんそう
します。三匝とは本来、右回りに三回廻る事を言います(仏教における一番格式の高いお参りの仕方)


右遶三匝 (うにょうさんそう)
 遶仏(にようぶつ),施遶(せによう)ともいう。インドでは右手を浄,左手を不浄とする思想があり,
 比丘たちは仏に対して右遶三匝(うにようさんそう)する(右回りに3回回る)のが例法となった。
 中国では左を上位とする考えがあって戒壇を巡るときに左回りすることもあり,日本でも座禅のときに眠けを覚ます
 為の香版(警策)をもって回る役の巡香(じゆんこう)は左回りであるが,その他はすべて右回りである


管弦祭のクライマックスが見れる所で大勢のお客様が詰め掛けるところです。また大鳥居が写しこむ写真撮影の人気スポットになっています。

管弦祭」
日本三大船神事の一つでもあります。他には大坂の「天神祭り」、松江の「ホーランエンヤ」があります。

行事予定は旧暦で示すと次の様になります

6月5日   「市立祭」 春(2週間)、夏(3週間)、秋(2週間)、と市が立つ
        夏、が一番盛大で臨時の露天などが出て芝居などが行われた(12日前から行われる)

6月11日  「御洲掘」  鳥居の内側の水深を深くする為、水底の土砂などを取り除くもの

6月15日  「御船組」  客神社前で、呉の倉橋から挽かれてきた、和船3艘を繋ぎ、根太を渡し屋根を架け御座舟が
                出来上がる

6月16日  「御試乗式」 御座舟の試乗を行う、大鳥居をうまく漕ぎ抜けるか、などを調べる

6月17日  「本番の管弦祭」が行われる

* 有の裏、三笠の浜 辺りでは瀬戸内周辺から来た多くの船の繋留を見ることが出来る。
   商店街には、呉の「阿賀」 広島の「江波」の方達の常店が決まっているのでそれを見つけるのも面白いかも。
   「店」の前にはそれぞれの「のぼり」が掛かっているのでわかり易いと思いますよ。

枡形の反対側には、二つ目の「鏡の池」と「揚水橋」があります。

「鏡の池」の中に大きな「石」がありますが、この石を「卒塔婆石」と呼んでいます。
治承元年(1177年、約830年前)、京都東山鹿ヶ谷の山荘(後白河法皇の近臣で、靜賢法印(じょうけんほういん)の山荘)において、平家滅亡を企てた罪により、平康頼・僧俊寛・藤原成経らは喜界が島に流される(この時密告をしたのは、多田蔵人綱行ただのくろうどつなゆき
喜界が島は現在の、鹿児島沖の「硫黄島」とも言われています。
島に流された「平康頼」は都に住んでいる老母を偲んで、二種の歌を千本の卒塔婆に書いて流します。

「思いやれ しばしと思う 旅だにも なお故郷は 恋しきものを」

「薩摩潟 沖の小島に我ありと 親には告げよ 八重の潮風」

ところが、その念願が「神」に通じたのか、卒塔婆の1本が「あの石」の所に流れ着き、おりしも康頼の安否を確認する為の旅の途中厳島神社に参詣に立ち寄った「僧」により都に伝えられ、程なくして「康頼」は帰京を許されました。(1178年の事です、strong>事実は徳子懐妊による恩赦で7月に赦免の使者 9月20日赦免
になっています)

帰京した「平康頼」はこれも厳島大神のおかげと、お礼の為にと奉納したのが「康頼灯篭」です(鏡の池の先に見えます)
この燈篭は、島内にある数ある燈篭の中で一番古く、棹には「昇り竜」「下り流」が彫ってあります、また火袋は八角形で
六地蔵」が彫ってあります。棹の部分はほとんど確認できません、また「六地蔵」は明治維新の時に削り取られました。

六地蔵とは①天道 ②人間道 ③修羅道 ④畜生道 ⑤餓鬼道 ⑥地獄道 を守護する「地蔵尊」を言う

本来、燈篭の下には「台座」があるのですが、見ることが出来ません。
これは先にも述べた様に、天文10年(1541年)の大きな土石流により埋没して、現在に至っています。
ここの所には、「大鐘跡」とも言い、昔は「大鐘楼」があり、鐘を合図に神職・供僧が出社していたようです。
明治維新後は無くなりました、梵鐘の「大願寺」の文字が入っていた為、溶解されたようです。

隣の小さな木の橋を「揚水橋」といいます。これも国の重要文化財となっています。
よく見ると、東側の勾欄が高くなり、張り出しているところに「特徴」があります。(この様な工法を桟の間工法と云う)
昔はここから、内侍が「神饌用」の水を汲み上げて、本殿に運んでいたと云われています。

この橋、橋と言えるかどうか解らないほど「短いですね」(現在約5m(約3間)です)、昔は長さ14m(8間の長さ)ありましたが、天文10年(1541年)の山津波(土石流)により現在の長さになっています。
この橋以前は「平橋(ひらはし)」と呼んでいました。
「平橋」と呼ばれている橋は、二箇所あります後の一つは、後で出てくる「長橋(ながはし)」で、明治11に「長橋」と云う名前になっています。

余談ですが、京都の宇治川に架かる宇治橋には「桟の間」があり、そこから豊臣秀吉が「茶の湯に使う水」を汲み上げたといわれています、宇治橋は幅8m、長さ155m コンクリート製の橋で欄干は桃色、擬宝珠は緑色をしています。

横には、「天正20年9月吉日」(1592年の秀吉の朝鮮出兵の年)の刻銘の入った「手水鉢」がある。この手水鉢は、
文字の入っている手水鉢では最も古く「国の重要文化財」に指定されています。

朝座屋を背に、廻廊を見ると、正面に「厳島神社本殿」が見えます、ここの屋根を見ると大変面白い事を発見する事が出来ます。
よくよく見てください、左側「本殿の屋根」(軒)と、右側「拝殿」の屋根が「平行」になっていません。手前が狭く(ほぼ重なっている)、奥に行くに従って広くなっています。つまりこの建物は本来平行に建っていないといけない物が、平行に建っていません。(約50cm位斜めになっています)。
本殿は実は3回建て直しています、一度目は1207年焼失 二度目は1223年焼失により建て替え 三度目は1571年
和知兄弟の謀反により建て替え(「元亀の遷宮)。
なお、拝殿 祓殿は1241年鎌倉時代に再建したものでした、その後に「元亀の遷宮」がありました。この時期は「戦国時代(1493年から1573年までの80年間を言う)で、いろいろな技術が衰退した時期で、建築技術も同様に衰退した時期にあたり、建物をうまく建てることが出来なかったと思われます。

さらに進むと、左手に小さな「橋」があります。これは「内侍橋」と言い、左右にあり神殿造りにおける「対(たいのや)」形式を色濃く残すものです。

一般的に神社に仕える「女性」を巫女さんといいますが、ここ厳島神社にお仕えする女性を「内侍(ないし)」といいます。昔、内侍がこの橋を渡って神饌をお供えしたところから「内侍橋」と名づけられました。
厳島の内侍は本来神前に奉仕する巫女(みこ)で、「社家」「供僧」と並び大きな勢力を持つ「女性集団」でした。
八乙女(本内侍)制度久安4年(1148年、清盛が安芸の守になった2年後)の定められました。
したがって厳島神社の海上社殿で竜宮を思わせる「内侍の舞楽」が始まったのはこの様な制度が整備された後と言う事になります。
平安時代の末期」の内侍は、①五常楽 ②狛鉾 ③万歳楽 ④蘇合香 の四典の「舞楽」を舞っていました。
なお、他の大社では「巫女」が舞楽を舞うことはありませんでした。
この頃は巫女としてよりも「舞姫」としてその名が知れ、しばし都の貴族達に優美な舞楽を疲労している。
その美しさを、「土御門通親(つちみかど みちちか)」は、「天人の降りくだらんも かくやとぞ見ゆる」と表現しています。
土御門通親(源 通親)は「高倉院厳島御幸記」を残しており、「村上源氏」の全盛期を築く。
曹洞宗では、「久我通親(こがみちちか)」と呼ばれている。

厳島神社の「内侍」は定員31名と決まっていました。予め内侍となる事が出来る「家柄」は決まっており、誰もがなれるものではありませんでした。
その家柄に生まれた女性の内必ず一人は生娘であることが求められ、「厳島の神」に仕えることになっていた。

内訳は ①上臈内侍 10人  ②本内侍(八乙女とも言う) 8人  ③手長内侍 13人  合計 31人

八乙女(やおとめ)は、先にも述べた様に、主に神楽や舞い(巫女神楽・巫女舞)をもって奉仕する 8人で「舞姫」とも呼ばれていました。
特に舞姫の中でも、「世親内侍」「竜樹内侍」は格別に美しく貴族達はこぞって見に来たようです。

上臈・・・・身分の高い女官のこと(先に任じられた者を上臈、後から任じられた者を、中臈・下臈などと区別する
      (ろう)とは、洗練された女性の美しさを表す言葉で、美しく気品があることを指します。
一般的に、神社巫女は神事で重役を果たす「神女」と云う、これは「神子(かみんこ)」で神の子を意味します
伊勢神宮では「斎王(さいおう)」、 賀茂神社では「斎院(さいいん)」 熱田神宮では「惣の市(そうのいち)」などと呼ばれています。

斎王祭りの「斎王役」の方は、五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)俗称 十二単(じゅうにひとえ)を着ます。
今上天皇の母親(香淳皇后)も大正13年(1924年)に五衣唐衣裳を着用している写真があります

反橋(そりばし)
別名勅使橋とも言い、天皇の使いを勅使といいますが、勅使の方しか渡れない橋でした
長さ21m、幅4m、高蘭は丹塗り、橋脚は渋墨塗り、鎌倉時代には既にあったが、現在の橋は
弘治3年(1557年)毛利元就・隆元 父子により再建寄進されています。
擬宝珠(中央の右側)にはこの事が書いてあります
元の長さは47mありましたが、1557年再建時には21mになっています(1541年の土石流によるもの)。

宝物館
昭和9年(1934年)建造、鉄筋コンクリート平屋造り、大江新太郎氏の設計によるものです。 30
国宝中の国宝といわれる、「平家納経33巻」をはじめ、「古神宝」「舞楽面」「能衣装」「刀剣」「甲冑」「絵馬」等美術工芸品54点を含む261点が所蔵されている。