知りたい宮島

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知りたい宮島 詳細編 7

2023年03月25日 17時57分23秒 | 世界遺産
天神社(重要文化財)
室町時代末期に出来たもので「能舞台」も同様である、今年(令和1年)は道真没後1115年
ご祭神は、菅原道真公がお祀りしてあります。学問・受験の神様です。お創建は1556年(弘治2年)4月で、
毛利隆元によって寄進されました。この時は天満宮として建立したが、後に天神社と記している
(柱は3本残っている)能舞台と同じく、素木造り、檜皮葺入り母屋造りの建物なのは、社殿郡の中では
新しい建物で、時代が下がるためです。明治の中頃まではここで毎月蓮歌の会が催しされていた為、
別名を蓮歌堂とも言ます。(藩主より、毎月連歌興行をする旨、仰せられている為) 連歌堂としては
現在唯一の「室町時代」の建築、 連歌の創作を加護してもらう為に、学問の神様、菅原道真を祀っている
上の句5・7・5を歌い、下の句7・7を歌い、100まで繋ぐ(100韻連歌と言う)
菅原道真・・・・・「菅原家」は「天穂日命(客神社にお祀りされている)」に起源を持ち、
曾祖父古人(ふるひと)の時代に学問をもって朝廷に仕える家柄となる。
祖父「清公(きよきみ)」は私塾を設け、同所から朝廷の要職に数々の官人を出し、菅原家は一大学閥となる
宇多天皇のときには大変重用される。(道真は正論を掲げ、天皇であっても遠慮なしに進言していた、これが
宇多天皇に重用されるもととなった、一つには香川県・讃岐国に栘封されて世の中の見方が変わったとも言われている、しかし九州の
太宰府に送られての2年間(59歳で亡くなる)は、一切の恨み言は言わなかったと言われる。
江戸時代の年号は、ほとんど道真の子孫により名が付けられた、幕末の「慶応」はもともとは「平成」の元号になるはずであった。
醍醐天皇の時には、右大臣(律令制ではナンバー2)まで上り詰める。
* 60代 醍醐天皇の時、藤原時平の陰謀によりに讒訴(ざんそ)され大宰府へ送られる。 
讒訴(ざんそ)・・・虚位の告発を行って貶(おとしめる)める事を言う
連歌の楽しみは、人が一つのサロンに集まると言う楽しみでもある。 公家や武家・貴族たちが、物好きの僧を交え、
毘沙門堂などに何日も篭って「百韻の連歌」のどを完成する。この様な時のサロンの楽しみは連歌が流行する以前
の人が想像する事の出来なかったものであったと言う。また、連歌の世界も下克上となり、辺りの百姓や職人、
時には野党のたぐいまでが、それぞれサロンを組んで連歌の興行をするのである。これを「地下連歌(じげれんが)」と言った
地下の連中は公家や大名とは違い金や物を賭けて勝負を争うのである、その様な連歌のグループが方々に出来ていた
自然「天者(てんじゃ)」は手が足りぬほど忙しい、「天者にならぬ人ぞなき」と言う落書きが二条川原に建武2年の頃でたと言う。

道真を祀る全国の神社、約12000社の内、「天満宮」「天神」の中から由緒ある25社を祀ってあり、
ここ宮島の天神社は20番目の天神社である。松浦武四郎の聖跡25拝を参考

神社本殿にあるまじき作りの、土壁(漆喰塗り)が使用されている、これは本来考えられない事で社殿建築
には壁土は使わない(板塀を使用、本殿祓殿を見ると良く理解できる)、本殿との時代差は388年
三方に蔀(しとみ)があって開放的(枕草子などには「御格子(みごうし)」と記されている
(雨風を防ぐ戸は「蔀(しとみ)」形式で戦国時代の建築様式が用いられている。)
漆喰が塗られた室町時代の「武者造り」と呼ばれる建造物。桁行3間、梁間3間の真四角な建物である

能舞台
室町時代末期に出来た比較的歴史の新しい社殿、2001年(平成13年)には世界無形遺産になる。
永禄11年(1568年)、毛利氏は観世太夫宗節(かんぜだゆうそうせつ)を招き仮の能舞台を海中に設けさせ、「能」を奉納する。
後に広島藩主となる、福島正則が慶長10年(1605年)に能舞台を寄進する、
現在のものは宝暦8年(1680年)第四代広島藩主の浅野綱長により、舞台と能楽屋、橋掛かりが造立されたものです。
特徴としては、日本で唯一海中に建立されていることで、切妻造りである
笛柱が独立しているのも特徴の一つです。
海中にある為、本来床下にあるはずの共鳴音を出す為に置かれている「甕」がありません、代わりに床下の根太が
三角形でその上に床板を張り、大きく響く様に工夫してあります。
ここで、能が舞われる日にちは決まっており、毎年4月16・17・18日の三日間行われます、
桃花祭神能といいます、当日は廻廊と同じ高さで、「海中」に桟敷が作られ、そこで能を見ることとなります。
能を見る「料金」は別に無く、厳島神社への拝観料として「300円」支払いますが、これで「能」を見ることが出来ます。
初日と二日目は始めに「翁」が舞われ、三日間とも五番立てで、間に「狂言」が入り、江戸時代から続く本式な能を見ることが出来ます。
重要文化財の指定を受けている、六舞台の内の一つです。能楽屋と共に指定を受けている能舞台は日本でここだけです。

能の起こり
毛利元就によって、永禄6年(1563年)を始めにして度々奉納されている
永禄11年(1568年)には観世太夫が下向した際に、
「前略、江の中に舞台を張らせて九番の演能あり、その後、棚守房顕の屋敷で舞台を張らせて十一番を演じた」
と「棚守房顕記」に記されている。
毛利元就に替わり福島正則が芸州の藩主となり、その後は紀州より浅野氏の支配下になった頃から
厳島は藩直属の「宮島奉行」「宮島元締役」「宮島帳元」が置かれ、また交通機関の発達と共に、
神社を中心とした「観光地」の性格を帯びるようになった。
春・夏・秋 の三期の市も立ち、「福島」「浅野」の時代を通して演能が行われ、宮島は次第に賑やかさを増す。

明治時代になり祭典が「新暦」となり、春の大祭を「桃花祭」とし、従来の3月15日を一ヶ月遅れの
4月15日にして、16日から3日間を「桃花祭神能」とする。

16日(初日) 喜多流
17日(2日目) 観世流
18日(3日目) 喜多流

初日と2日目は最初に、天下泰平、五穀豊穣を願う「翁」が演じられ、3日間とも「5番能」が演能される
(時には他派が演じることもある)

江戸時代に能が幕府の式楽としても演じられるようになると、正式な上演形式は一日五番と定められた。
その上演形式を「五番立」(翁付五番立おきなつきごばんだて)という。
能の演目は「神男女狂鬼(しんなんにょきょうき)」、 即ち

初番目物  1「脇能物(わきのうもの)」 「高砂」神が祝福を与える曲
二番目物  2「修羅物(しゅらもの)」  「田村」修羅道に落ちた武将達の霊(男性が主役)
三番目物  3「鬘物(かずらもの)」  「羽衣」女性を主人公とする優艶無比の能で番組の中心になる
四番目物  4「雑能物(ざつのうもの)(狂物)」 「隅田川」劇的要素を持った現実的・写実的な能で、他のいずれの
  分類にも属さない全ての能を集める狂女物はその代表
五番目物  5「切能物(きりのうもの)」  「鞍馬天狗」一日の終わりにふさわしい豪快で爽やかで 
見た目に面白い能、鬼・天狗・妖精などが活躍する
の5種類に分類されている。
五番立の番組は、この5種のグループからそれぞれ一曲ずつ選び、「神男女狂鬼」の順に並べて作る。
このように、五番立は一日の番組で同趣の曲が重ならないようにする機能ももっている。
五番立の上演は長時間に及ぶこともあって、現代ではほとんどみられなくなったが
いまでもこの考え方を踏まえて番組が作られている。

翁 神聖な儀式として古くから重んじられて来、「能にして能にあらず」といわれる「翁」は儀式性の濃い
祝福の舞として、千載(せんざい)・翁・三番叟(三番三さんばそう)の三人の役者が順次歌舞を勤める

喜多流や観世流が参加し、1日目・2日目には天下泰平や五穀豊穣を祈る、翁付きの能が演じられる
演目は毎年1月2日に演じられる初春の祝福会「御松囃子」終了後に取り決められる
平成3年の台風19号で倒壊いたしましたが、古材を出来るだけ使用し、平成6年に再建されました。
能舞台、橋掛(はしがかり)は桧皮葺で能楽屋は杮葺(こけら)です。重要文化財の指定を受け
ている六舞台の内の一つです。能楽屋と共に指定を受けている能舞台はここだけです。
(全国から400人の能楽師・狂言師が集まり執り行われる。朝9時から夕方まで続く)

能と狂言をあわせて「能楽」と言い、能は「人間の運命を描く事を主題」とし狂言は「笑」を基調とした対話劇
秋の献茶祭はここで、表千家・裏千家のお点前(おてまえ)が隔年交互にある(令和1年は11月13日表千家)
令和1年は第71回になる(第1回は昭和23年、1948年である)
地謡座(じうたいざ)、貴人戸 後座(あとざ) 鏡板には老松が描かれている

大瓶束(たいへいずか)・・・懸魚(げぎょ) 六葉(ろくよう)の後方にあり、江戸時代末期の建物の飾り
 (大工雛形見本の絵模様で当時流行した) 文政10年(1827)の時に修理の手がかかっている
笈形(おいがた)・・・・・・・・山伏や修行僧が、法具・仏像・経文・衣類などを収めて背負い歩く箱の事 
大瓶束の左右に付される装飾の事
能楽屋の屋根は1779年に檜皮葺から杮葺に変更されました、明治41年ー43年に大修理が行われているが、
この時能舞台と橋掛りの屋根は杮葺から檜皮葺に変えられた、
平成3年台風19号による被害で倒壊、平成6年(1994)に再建する。
床について
撥転(ばちころ)がし、と言われる床の勾配は、橋掛かりの幕口からシテ柱にかけて下がっており、シテ柱と笛柱
は同じ高さになっている。そして脇座の床と舞台は正面に向かって下がっている。この事によって足の滑り出しが
良く、舞い易いとの事である。又観客席から見やすいこともある。
床材料は「檜木」で、何年もかけて材質の変化が止まるまで調整する、床板は6mの継ぎ目無しの板を使用
厚さ3㎝以上、幅はなるべく広い物を使用(60㎝のものもある)
舞台は、縦、横 は5.5m四方である。床下の瓶は、本舞台に7つ、後座に2つ、橋掛かりに3-4個
柱は本舞台、25-30㎝の柱、その他は20㎝くらいとなっている。
床は一面を一枚の床板にして、根太には釘打していない、。根太は2本で、大引けをその反対側に井桁に入
れてあり、何れも留めていない、従って床は太鼓の皮の様な役目で、足拍子の度に大きく響く、
根太と床の接地部分は「1センチ」となっている。 更に満潮になれば共鳴は大きくなる
本舞台の屋根は、いわゆる船底天井で和船の船底を逆さにして見上げて入る様な形にしてある、天井板は張ってない。

奈良足袋・・・・・白足袋の底の部分に「薄く綿」を敷いた足袋を言う(能役者が舞うとき板の上で演じる為足が大変冷える
 これを防寒の意味合いから考案された足袋)
船底天井は京都三千院の天井も船底天井になっている。
能が舞われる日には前の砂浜が客席になる為、周りの廻廊の床は敷物がひかれ通路を通る人の
「足音」が響かないようにしている。

観世太夫   七代目にあたり、当時京都ではトップスターであった
浅野綱長・・・将軍「家綱」 より名をもらう
神能の初日には「喜多流」が奉仕する。広島藩お抱えの能役者「喜多」が奉仕する
喜多流
能の「シテ方」の流派の一つ、喜多七太夫が興したもので、江戸初期に幕府から認められた「新興の流派」である
現在、能のシテ方には五つの流儀(観世、金春こんぱる、宝生ほうしょう 、金剛、喜多)がある

大蔵流と和泉流がある、和泉流の野村万作は26回も演じている。「猿に始まり狐に終わる」釣狐は狂言の卒業論文にある大曲

* シテ方とは能楽において、シテ、ツレ、子方(こかた)、地謡、後見 の各役を担当する演者とその集団
シテ
シテツレ シテに従属し随伴する役で最も重要な役
子方 少年の演者が扮する役
地謡(ジウタイ) 能や狂言のほか,舞囃子,仕舞,素謡,小舞などにおける合唱団

能衣装の刺繍の技巧は、藤原時代に盛んだった、布地に刺繍して仏像を表した。「繍佛(しゅうぶつ)」法式である、
アカネ・クチナシの根で染めた色(やや沈んだ赤色、赤トンボ色)で400年経過したとは思えない程の「染色美術工芸品」である。
「紅地鳳凰桜雪持笹文唐織(国重文)」
能衣装は60着あり。能面は130点, 狂言面は32点(20種類)。翁面(黒色情)には文明9年(1477)の墨書あり

佐渡では昔島に「200以上の能舞台」があったが、現在では約30くらいある(200から30になる)
佐渡では薪能(たきぎのう)が主であり、日本国内にある能舞台の1/3が集中する佐渡は、日本では他に類をみないほど
能が盛んな土地多くは神社に建てられた

能の大成者といわれる世阿弥が佐渡に流されたのは1434年(583年前)世阿弥ゆかりの正法寺には、
腰掛け石が残されています。同寺には世阿弥が生きた同時代の作といわれる雨乞いの面(県指定文化財)もあり、
佐渡が当時から高い文化を持っていたことが偲ばれます。能は武士の間で愛好され、かつ庇護されてきた芸能です。

能・・・信長は好意的で、秀吉は熱狂的な「能」の愛好者であった。

能衣装60着、狩衣(かりぎぬ)21着、着附熨斗目88着、唐人衣装2着
調度類278点、小道具317点、冠帽子類103点、能面130点
囃し道具61点など、全国で最大の数量と質を誇っている

「鏡板の松」
江戸時代は「松」と「竹」が目出度い植物とされた事から、完全に固定化された様である。
「竹」は根で「松」は松ヤニで他の木を枯らしてしまって、自分たちだけが群生する。この姿が封建社会の武士達
にとって一番望ましい姿と映った事が理由であると言われている。
とりわけ「松」は、当時日本を支配していた「徳川家」の本姓(本当の名字)が「松平」だった事から、一番めでたい木
とされており、一年中緑を保ち勢いのある木として、松を称えた「高砂」「老松」が筆頭祝言曲となる
「松」の絵は一応スタイルが決まっており、一本の幹に二本の枝と言うのが「基本構図」である
モデルは、奈良春日大社にあった「影向の松(ようこうのまつ)」であると言われている。

余談: 横浜市立能楽堂の「鏡板」には「梅」が描かれている。これは「染井家」が所有していた舞台を横浜市に寄贈
されて建てられた「能楽堂」。 染井家は江戸時代の、加賀百万石と言われた、「前田家」である。
前田家の「家紋」が「剣梅鉢(けんうめばち)」だった事から、鏡板に松と共に梅の木を描かせたと言う事

本来の舞台は野外に組まれた簡便な舞台で、その場所を知らす為に大きな木(松)の下で上演されていた。
その後、足利氏により支配階級である武士達の愛好な演劇と為り、江戸時代には「城」「武家屋敷」の庭先に
切り妻の屋根を持った「能舞台」となる。更に鏡板に「松」「竹」を描くようになる。

反橋(そりばし)
別名、勅使橋とも言い、天皇の使いを勅使といいますが、天皇又は勅使の方しか渡れない橋でした。
長さ21m、幅4m、高蘭は丹塗り、橋脚は渋墨塗り、鎌倉時代には既にあったが、現在の橋は
弘治3年(1557年)毛利元就・隆元 父子により再建寄進されています。
渋墨塗・・・(柿渋と松木を焼いた煤(松煙)・清酒を混ぜたもので、防虫・防腐効果がある。) 箱根の関所、松江城に見る
擬宝珠(右中央)にはこの事が書いてあります。
嘉禎5年(1239)正月に反橋20間(36M)とあるのが、47mから21mになる(1557年の時)
記録上の初見である(伊都岐嶋神社造分屋材木等注進状)  36m-47m-21mに変化している
1241年(本殿、祓殿・拝殿の再建時)には「26間(47M)」に延長。14年後
1557年(弘治3年)12間(21M)に短くなる。 「曽利橋一宇」「木帽子四」 再造立(元就・隆元により再建)
回廊から見て、右側の最上部の烏帽子に、元就・隆元の再建した事が記してある。
仁安(元年、1166年847年前)の造営記録には見えず、仁治(元年、1240年773年前)の記録には現れるので、
清盛が参詣していた頃には無かったことになる。74年の開きがある。
御鎮座祭などの重要な祭事にあたって勅使が参向しこの橋を渡って本社内に入った。
御鎮座祭・・・・12月初申日(さるのひ)の行われる。
天文10年(1541)の土石流で海が狭くなった為、橋の長さが短くなった
元々は、橋の長さは現在の物より「約2倍」の、長さがありました(47m)
京より勅使が派遣されるには莫大な費用がかかる為、安芸国府中の地方官(上卿職)を努めていた、「田所伊織家」に委任される。
田所氏が病気・渡船不能の場合には、島に住む「上卿職」の「林家」が勅使代行を挙行している。

表参道商店街を通ると、中ほどに大変大きな「杓子」がありましたが、
今年(2019年8月1日)からは、トイレに変わりました。
休憩所と観光案内所が併設され、「肝心の杓子」は元の宮島庁舎跡地に現在コンベンションホールを建築中で、
完成のあかつきには、この建物の正面に展示される予定です
建物の完成予想は2020年後半になっています。収容人員約400名の立派な建物になる予定です。
商店街のすぐ近くですので、何かと便利が良いかと思います。
この建物が出来るまでは「杓子」は倉庫に今現在眠っています。

なお、一般的には「しゃもじ」と言いますが、ここ宮島では「杓子(しやくし)」といいます。
長さ7,7m 顔の部分上下2,7m 重さ2,5トン 材は樹齢270年の 欅
製作期間2年10ヶ月 製作者は 宮島細工共同組合 昭和58年(1983年)に製作
作ったはいいが、設置場所が無く、しばらくは「倉庫」に眠っていましたが、平成8年に
世界文化遺産に認定されたのを契機に現在の場所に展示されました。
昭和53年に出雲市の材木市に出品された「けやき」で宮島町が当時、1300万円で購入する

宮島の伝統工芸である「宮島細工」を後世に残すと共に、杓子発祥の地である、宮島のシンボルとして製作しました。
江戸時代には「色楊枝」「五色箸」など土産物としてありましたが、それ以外には主だった「土産」はありませんでした。
宮島の恩人と言われる「僧誓真(そうせいしん)」が厳島弁才天がもっている「琵琶」の形から杓子を考案したと伝えられ、
島民に作り方を伝授しました。

挽物(ひきもの)は県の文化財で、轆轤挽き=刳物(くりもの)=彫刻、と移る
この時宮島に「轆轤技術」を伝えたのが、「小田権六」で1848年から1854年まで6年伝える
存光寺には小田権六の記念石碑があります、
又彫刻については、江戸時代末期に甲斐の国(山梨県)の彫刻師、「波木井昇斎(はぎいしょうさい)」
が木彫りの技術を伝えました。
明治20年(1888年)勧業博覧会で受賞し「宮島彫り」は全国に知られるようになりました。
宮島彫りは、「浮き彫り」「しずめ彫り」「線彫り」などがあります。

今 島内には「轆轤屋」が1軒あり、また 三代目で木工芸 日本工芸会会員の方の土産物店の店の奥で
材料から轆轤 製作まで一貫製作している「店」が1軒あります。探して?

*この後 仁安3年(1168年) 社殿の大改築と造営がある。 神主の佐伯景弘
西の松原について、大願寺の「松原」と呼ばれていた。 経の尾一帯を「西崎」とも読んでいた
古くから砂洲や御手洗川からの堆積物で出来た松原です、清盛神社の裏から先は、昭和20年の枕崎台風での
土石流災害で出た土砂を埋めたてたものです。江戸時代初期までは存在しておらず、大願寺付近は
砂州(さす)になり、「熊毛の洲」と呼ばれていた。
1743年(1739年の土石流の4年後)に広島城下の商人4人によって、50丈(約150m)に及ぶ堤防が築出され
108の石灯籠が作られた。(271年前)       光明院恕信によってこの経緯を記した「大灯籠」が立っている。
天文10年(1541年)470年前土石流 元文4年(1739年)270年前土石流 昭和20年(1945年)9月17日土石流
枕崎台風被害 死者2473名 広島県内行方不明者2000名以上の甚大な被害になる。
宮島は当時佐伯郡といっていました、対岸の大野陸軍病院では156名の収容患者、職員が亡くなられています。

200年に一度の割合で土石流が発生している。その土砂を西の松原に埋めている。(清盛神社のある場所)
1541年(約470年前)  1739年(約270年前)  1945年(約68年前) に大きな山津波が起きている
平成17年、白糸川土石流発生、この時の土石は18000㎥(10トンダンプ、1800台分に及ぶ)

清盛神社
西松原にある清盛神社は昭和27年が平清盛没後770年にあたり、その功績にを讃え
昭和29年に創建された。御祭神 平清盛の霊は三翁神社に祀られていたが、
清盛神社に遷された。(清盛奉賛会)毎年3月20日に盛大な清盛祭りをおこなっている。
一間社流造の玉殿の中に、御祭神が祀られている
昭和20年(1945年)9月に来襲した枕崎台風によって御手洗川に大規模な土石流が発生。
新たに堆積した大量の土砂を運んで、西の松原を延長し、有之浦・大元浦が埋め立てられました。

西松原
大願寺の「松原」と呼ばれていた。  経の尾一帯を「西崎」とも読んでいた
古くから砂洲や御手洗川からの堆積物で出来た松原です、清盛神社の裏から先は、昭和20年の枕崎台風での
土石流災害で出た土砂を埋めたてたものです。江戸時代初期までは存在しておらず、大願寺付近は
砂州(さす)になり、「熊毛の洲」と呼ばれていた。
1743年(1739年の土石流の4年後)に広島城下の商人4人によって、50丈(約150m)に及ぶ堤防が築出され
108の石灯籠が作られた。(271年前)       光明院恕信によってこの経緯を記した「大灯籠」が立っている。
天文10年(1541年)470年前土石流 元文4年(1739年)270年前土石流 昭和20年(1945年)9月17日土石流
枕崎台風被害 死者2473名 広島県内行方不明者2000名以上の甚大な被害になる。
200年に一度の割合で土石流が発生している。その土砂を松原に埋めている。
1541年(約470年前)  1739年(約270年前)  1945年(約68年前) に大きな山津波が起きている
平成17年、白糸川土石流発生、この時の土石は18000㎥(10トンダンプ、1800台分に及ぶ)


巌谷一六
清盛神社に行く途中に御手洗川にかかる小さな橋の袂に大きな石柱がある
この石柱の文字は「明治の三筆」と称された、巌谷一六(本名は修)が書いたものである。
巌谷は滋賀県出身の政治家で、明治元年新政府の管使となり、内閣大書記官・貴族議員を歴任する
初めは「中沢雪城」に師事して「菱湖流」を学び、後に揚守敬(ようしゅけい)から六朝書法(りくちょう)
を学び、独自の書風を確立した(魏・晋・唐を極める)。明治38年(1905) 72歳で亡くなる。
明治天皇の書の先生
菱湖流・・巻菱湖(まきりょうこ)、幕末の三筆といわれた人、
将棋の駒に書かれている文字(タイトル戦に使用される高級な駒)
揚守敬・・中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の「楷書体(かいしょたい)」の総称
中沢雪城・・巻菱湖の高弟で、「菱湖四天王の一人」である
現在も書道を目指す人の中には、巌谷一六の書いた文字を手本とする為、「拓本」を取りに来る人もあると言います。

明治の三筆、とは
日下部鳴鶴(くさかべめいかく)
中林梧竹(なかばやしごちく)
巌谷一六(いわやいちろく)


大願寺
正式名を「亀居山方向院大願寺」と言い、真言宗高野山派です(総本山は金剛峰寺)。
開基は不明で鎌倉時代の建仁年間(1201-1203年)に僧了海により再興されたと伝えられています。
大願とは、厳島神社を護る「大願」を意味する、ことで普請奉行として寺社の修理造営をしていました。
明治時代の神仏分離令では、厳島神社をはじめ九州の「筥崎宮(はこさきぐう)」や「宇佐八幡宮」など、多くの寺社の
修理造営を掌っていました。(本願職としては全国を托鉢する許可を受けていました)
「戦国時代以来、厳島の寺社造営の任にあたり、江戸時代には、棚守・座守、と共に重要な役割を果たしていました」

本堂には国の重要文化財である仏像が四体あり、その中の「本尊薬師如来」は空海(弘法大師)の作と伝えられています。
また神仏分離で千畳閣から移された、行基作と伝えられる「釈迦如来座像」と「阿難尊者像」「摩詞迦葉尊者像」、さらには
五重塔から移した、「釈迦如来座像」「文殊菩薩」「普賢菩薩」の三尊像があります。

大願寺の「厳島弁財天」は相模の国の江ノ島(江ノ島神社)、近江の国の竹生島(宝巌神社)と供に日本三大弁才天の一つです。
厳島弁才天大祭は毎年6月17日に開催されます。秘仏とされる弁才天は一年に一度のこの大祭の時にご開帳されます。

2006年(平成18年)4月には「護摩堂」が140年ぶりに再建されました、中には「1丈6尺(約4m)の総白檀(そうびゃくだん)
の本尊「不動明王半迦座像」があり、この像の開眼式が行われました。
「この仏像は仏師・松本明慶(まつもとみょうけい)、が先代住職・平山真明より依頼を受けて4年半年かけて製作したもの」
左足は乳児の足をイメージしたもので、台座はインドネシア産の「桂化木」です。
桂化木・・・・・木が化石化したものを言う

不動明王半迦坐像・・・・・・仏師、松本明慶の作品
1945年(昭和20年)生まれ、100年に1人と言われる天才。
「慶派(けいは)」の流れを汲む。仏師・野崎宗慶に弟子入り
「慶派(けいは)は、平安時代末期から江戸時代の仏師の一派」、運慶・快慶 などの仏師
1980年(昭和55年)  京都仏像彫刻展で、京都市長賞を受賞する
1985(昭和60年) 京都仏像彫刻展で、京都府知事賞を受賞する。
1991年(平成3年)  大仏師の称号を受ける。
その工房は、松本工房という名称で、京都市西京区大原野の、善峰寺や十輪寺の近辺にある。
京都仏像彫刻家協会会長。

白檀(びゃくだん)
熱帯性常緑樹。爽やかな甘い芳香が特徴、香木として利用される
紀元前5世紀頃にはすでに高貴な香木として使われていた。
白檀は仏の宿る木、香は煩悩を絶つ といわれる
雌雄異株で周りに植物がないと生育しないことから
栽培は大変困難で、年々入手が難しくなっており、
インドネシア政府によって伐採制限・輸出規制が掛けられている。

戦国時代の天文7年(1538年)、尊海上人が、山口の大内義隆の援助にて「一切経(いさいきょう)」を求めて、当時の
李朝であった朝鮮国に渡りました。
この時の日記が大願寺所蔵の「瀟湘八景図」の裏面に記録されており、当時の朝鮮国の様子を記した貴重な資料で
「尊海渡海日記(紙本墨書尊海渡海日記)」として国の重要文化財に指定されて居ます。
一切経・・・・・高麗版大蔵経。厳島の神を「観世音菩薩の化身」と記している。 観音は海難を救ってくれるとされている
尊海・・・・・・・天文年間1532年から1544年、芸州平良の庄(現在の廿日市市平良のあたり)の生まれである
        当時の李王朝の都、漢城(現在のソウル)に尊海は行く
        室町時代の160年間は、経済・文化の上で李朝と日本は密接な関係を維持していた。

当時は「五重塔」「千畳閣」「多宝塔」をはじめ、境内にあった、さまざまな堂宇(建物)を含めて「厳島伽藍」と称し、その中心を
「大願寺」が占めていました。

厳島合戦後から10年後の永禄7年(1565年)、大願寺の裏手にあった「大湯屋の再興」がありました。
大願寺の裏手には「千石門」といって、満潮時には「千石船」が着船で切る入り江があり、そこに舟を着け大願寺に参詣後、
清めの「風呂」に入り、真新しい白足袋や履物に取り替えて「西廻廊」入り口から入っていました。
右手には手水鉢(文化10年1800年)があり身を清め、すがすがしい気持ちで参詣していたと言われています。

大願寺の書院では江戸時代の末期、慶応2年(1866年)9月2日第二次長州戦争の際、幕府方の勝海舟と長州藩の
広沢真臣・伊藤馨・木戸孝允(桂小五郎)らが和平会談を行ないました。書院には「伊藤博文の扁額」があります。
「8月21日軍艦奉行・勝海舟が来広し、9月2日には広島藩の辻将曹・植田乙次郎の仲介にて、大願寺書院にて、長州藩の
広沢兵助(1865年に広沢真臣に改名)・春木強四郎(井上馨)らと会見した}

書院の軒の下には「錦帯橋の模型が飾ってあります」、これは明治29年(1896年)に「岩田三郎左衛門より寄進されたもので
19世紀末にパリ万国博覧会に出品した1/25の模型です。(この時・徳川一行が行く団長は徳川昭武 14歳(一行は28名))
徳川昭武(1853年9月24日生)、11代水戸藩主。慶喜の異母兄弟
慶応3 (1867) 年パリ万国博覧会の日本代表として15代将軍慶喜の名代に派遣され,
外国奉行・竹本隼人正,渋沢栄一 ら幕臣を連れて渡仏(ナポレオン3世に会う),
渋沢栄一、・・・日本資本主義の父、理化学研究所の創設
昭和25年(1950年)のキジア台風により錦帯橋が流されてしまいますが、この時再建するにあたりこの模型を参考にしたとも
言われています。(橋脚は残ったが橋は流されてしまった)
「錦帯橋は延宝元年(1673年)岩国第三代領主・吉川広嘉の時に完成。石の橋脚は吉川公が「穴太衆」の所に配下の者を
2年間研修に行かせ、石組みの勉強をさせ、現在に見られる石の橋脚を組んだといわれています」

境内には、変わった「松」が生えています、根っこが一つで上には木が九本生えています、高さは16mあります。
これは初代内閣総理大臣・伊藤博文がお手植えしたものです。
(旧宮島町の天然記念物に指定されています)
大変残念なのですが、今年令和3年4月松枯れの為切り倒されました。





伊藤博文は弥山山頂にある、三鬼大権現を深く信仰していた為、何度もここを訪れています。
弥山登山道の一つ「大聖院登山コース」は彼が整備したものです、
当時のお金で7000円、現在のお金では1億4000万円くらいと言われています

三鬼大権現  ① 時眉鬼神(大日如来の化身) ②追帳鬼神(虚空蔵菩薩の化身) ③摩羅鬼神(不動明王の化身)
          と言われており、山頂の三鬼堂には、伊藤博文の「扁額」が掲げられています。

伊藤博文
1885年(明治18年)、12月22日 初代内閣総理大臣になる
1892年(明治25年)  2次
1898年(明治31年)  3次
1900年(明治34年)  4次   内閣総理大臣を歴任

1909年(明治42年)10月26日  ハルピン駅で「安重根(あんじゅんぐん)」に暗殺される

          大日如来・・・・・・・・密教においては宇宙を司る
          虚空蔵菩薩・・・・・・・知恵と福徳を司る
          不動明王・・・・・・・・人々を迷いや苦しみから救い、あらゆる病を治す

入り口には「楼門」があります
「楼門」が建てられるのは大変格式の高い寺社のみで、江戸時代には広島藩で許された寺社は4社のみである
 ① 大願寺 ② 大聖院 ③ 福王寺(広島市可部) ④ 西国寺(尾道市)
門の横には「仁王像」がおりますが、これはもともとは、桟橋前の小高い丘の上に、「仁王門」がありその横にあった「像」ですが
仁王像(金剛力士像)とは 共に仏を守護する、「夜叉神」である
金剛は那羅延金剛(ならえん)の事、力士は密迹(みっしゃく)力士の事
金剛杵(しょ)を持って仏法を守護する神。大力をもって悪魔を降伏(ごうぶく)する。寺門の左右に置かれる。
門の向かって左が那羅延(ならえん)金剛、右が密迹(みっしゃく)金剛。仁王。金剛手。金剛神。
阿形の開口は「私達の心の眼を開け」と教え、吽形の閉口は「口の門を閉じ、煩悩による一切の悪魔を遮断しなさい」
と教えている。と言われている

明治のはじめに仁王門が取り壊しになろ、「仁王像」のみがこの楼門の横に取り付けられたものです、したがってよく見ると
楼門の内側の柱と外側の柱の時代差を感じると思います、よく見てください。
向って左が「那羅延金剛」、右が「密釈迹力士}像で、金剛杵を持って仏法を守護する神、大力をもって悪魔を降伏する為
なお、広島不動院に桃山時代の楼門があるが、正しくは二重門(屋根が二重の門)で、楼門ではありません。

門に貼ってある「千社札(せんじゃふだ)」について
千社札とは、神社や仏閣に参拝を行った記念として貼る物で、自分の名前や住所を書き込んだ札のことである。
「題名を記した札(題名札)が貼られている間は、参籠(さんろう:宿泊参拝)と同じ功徳がある」と言うことから、
日帰り参拝者が参籠の代わりに自分の札を貼った事から始まり、神社仏閣の許可をもらって御朱印を頂いた上で千社札を張るのが
本来の慣わしである。神社仏閣に無断で貼ったりすることは不道徳である。
外寸法で幅48ミリ高さ144ミリと決められた。比率はいずれも1:3となっている
千社札に使われる文字の書体は、江戸文字の「籠文字」が用いられる。小さく入れる場合は、「寄席文字(よせもじ)」も使われる。
錦絵と同じ江戸木版画によって印刷される。
江戸時代の「厳島図会」を見ると、楼門の向きが変わっています。元は宝物館の方角に、入り口がありました。 
その後前面の道路拡幅工事に伴い、現在のような入り口に変わったようです。

山門と三門の違いは?
浄土宗の総本山「知恩院」は、三門。「山門」は中国でお寺を「○○山」と山号(さんごう)で呼んだことに由来する。
知恩院の三門には「華頂山」の額がある。
「三門」は?、 「三解脱門(さんげだつもん)」の略である。「空(くう)」、「無相(むそう)」、「無願(むがん)」を表すと言う
悟りに通じる三つの解脱の境地を門という形で表している
「空(くう)」・・・・・・愚かさ、物事にこだわらない
「無相(むそう)」・・・・怒り、差別しない
「無願(むがん)・・・・・欲望、欲望を求めない

この三つの迷いから抜け出すことを「三解脱」して、心すっきりしてお参りをする。
東福寺の三門、 禅宗の東福寺三門は「大仏様(だいぶつよう)などが混じっている」
知恩院の三門、 禅宗様式の典型的な門
この二つの門の違いは、①大仏様は白塗りの組物が柱に差し込まれ手前にせり出している
     ②禅宗様式の門は手前にせり出していない、普通の門形式である
そもそも「三門」は中国から禅宗と共に伝わり、特に本山級の寺院、五山で大型の門が建てられる様になった
共通するのは「五間三戸二階二重門(ごけんさんこ)」である事で、
「柱で5つの間に仕切りされた中に3つの扉があり、2階建てで屋根が2つある門」 のことを言う
門は何気なく通るが、本来「三門」をくぐるのは、それなりの重みがある

ここで神社・仏閣を取り巻く現状を少し書いてみましょう

再建 異国の木材頼み
①  徳川家康を祀る、東照宮などと共に世界遺産に登録された、日光山輪王寺(りんのうじ、栃木県日光市)の
   大護摩堂の再建(1998年6月)には、「カナダ 檜」が使用された。
   巾4m 長さ8m 竜の天井を描くには、歪みの無い1枚板が必要であったが、国内では調達出来なかった
   (カナダ・ヒノキ・・・・カナダ南西岸 バンクーバー島より持って来る。樹齢800年以上)

②  1976年再建の奈良薬師寺の「金堂」は、「台湾・ヒノキ」を使用

③  2010年10月 興福寺の中金堂再建は、柱に「アフリカ・カメルーンのケヤキ」を使用

この様に日本の8割近くが外材を用いている。 と言う「宮大工」もいる
寺社に使う「大径木」は国内では既に枯渇、現在は台湾・カメルーンなど、海外でも「輸出」に厳しい制限を
かけており、減少の一途をたどっている。
数百年先を見据えた「森林育成」を国内ではどのようにするのか、現在「林野庁」では国内10箇所の国有林に
植えた、「ヒノキ・スギ・ケヤキ」などを、「直径1m以上・樹齢200年~400年」となるまで見守るとの事。
また「文化庁」では岩手から熊本まで全国62箇所の民有林などで「大経木」を育てる

匠の技も危機にある
現在日本全国に約4700棟ある、国宝・国の重要文化財の建造物の1/4を「桧皮葺・杮葺」が占めている。
これを「固定」するに欠かせないものとして「竹釘」がある
「竹釘」は「錆びず・腐らず」50年間耐えるが、竹釘の製造業者は全国で唯一、兵庫県丹波市の
「石塚商店」のみである(神社で抱えている職人は別・・・・例 京都・下鴨神社では8人の職人が現在2人)
竹釘を作る「職人」になるには最低10年は必要と言われている。
(竹釘を口に含み、素早く取り出して打ち付ける、口の中が荒れない様に表面を滑らかに加工する技が重要)

ちなみに、平葺きの場合竹くぎは4000本/坪必要。檜皮用は4.5㎝ 杮葺は3.6㎝の長さです。
北緯37度以北は「杮葺」以下は「檜葺」をよく見ます。
竹は、厚く弾力性のある「真竹」は3割くらいで、あとは中国からの「孟宗竹」が約半分くらいです

屋根瓦や壁の修理には「深草土(ふかくさつち)」が欠かせない。
藁や石灰・砂を調合するには、長年の勘と熟練の技が必要だ。現在「深草土」は京都市伏見でしか採れない。
この「深草土」を唯一採取・販売する「浜橋組建材」のみで、採算が合わず殆んど「ボランテイア」状態である

国宝・重文の「表具修理」に必要な「打刷毛(うちばけ)」を作るのも、京都下京区の老舗「藤井松華堂」だけ。
本紙と裏打紙(うらうち)を密着させるのには、「毛の適切な硬さ」と手になじんで疲れない「持ち手加工」の技
が必要で「イギリス・大英博物館」の修理担当者も訪れると言う。

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