知りたい宮島

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知りたい宮島 詳細編 15

2023年03月25日 17時53分24秒 | 貴方の知らない宮島
なおここで室町時代末期に厳島にあって神社の復旧保持、神事祭礼の復興などに努め、
厳島神社の「中興の祖・と言われる 棚守房顕」について。
棚守房顕は七世紀の初め推古天皇の頃、安芸の国佐伯郡の豪族であったと伝えられる佐伯鞍職
(さえきくらもと)、12世紀平家時代の神主佐伯景弘(さえきかげひろ)の後裔で戦国時代
の厳島神社大宮棚守であった。
房顕は大永3年(1523年)8月、大内氏の武将 弘中武長が厳島に押し寄せて以来、大内方に与し
翌年正月、大内興房の御師となって以後引き続き大内氏、陶氏、毛利氏の御師に任じられている。
「房顕覚書」は厳島神の鎮座、清盛の厳島社崇敬の事から、厳島合戦をはじめとする多難な時代
の厳島の歴史、自らの見分体験を記し、ことに大内氏・毛利氏時代の厳島を知るうえで貴重な
資料と言える。
高舞台の擬宝珠には以下のような言葉を見ることが出来る。
「奉鋳木帽子八内、旦那当社棚守左近将監房顕、干時天文拾5年丙午六月吉日敬白」
房顕覚書にもある左近将監は「左舞師」であることを示すものと思われ、左舞師は棚守家に
相伝されたと考えられる。
元就の時代の舞楽についてみると、元就は「天下御祈祷」など祈念のため度々、舞楽を奉納
している
これはいずれも年次は不明ながら、正月十日、四月一日などの日付のある棚守左近将監宛ての
毛利元就の書状によって判る。これには毛利元就が棚守左近将監に、舞楽を奉納し祈念を依頼
している。その他「房顕覚書」には、度々天王寺楽人が伝授のため下向した事を記している。
その他にも「厳島野坂文書」の中には舞楽に関する書状が散見される。
天正8年(1580年)7月25日付きの毛利輝元の書状には、棚守野坂元行が房顕の孫に
あたる息男に舞楽伝授の為に、天王寺の楽人東儀の下向を請うたのに対し、承知した事を
伝える返書である。また棚守左近将監に宛てた5月5日付けの天王寺楽人・東儀兼秋・林廣康
薗廣遠、三名の連署書状には田木工亮に笙を、田右近太夫に舞三曲を相伝するという内容である。

桃山時代の童舞装束である(重文)「納曾利袍」がある。これは舞楽装束としては最も古く
確実な資料で、背裏には朱書きでつぎのように書いてある。
「 厳島納曾利装束奉進大旦那武運長久所 天正十七年正月吉日
 児玉美濃守 内藤出雲守 河内備後守 武安木工允 右舞師 田兵衛少尉影欽 」
毛利氏の武運長久を願って、毛利家の家臣4名が寄進したもので田兵衛少尉影欽が所用したもの
児玉美濃守 内藤出雲守 河内備後守 武安木工允は当時の岩見銀山からの銀を積み出す港町
の温泉津(島根県太田市)に置かれた、「温泉津奉行」の役人であった。
元々は大人用の袍であったものを童舞用に仕立て直したもので、衿には舶来品と思われる
「紅地花文緞子」を用いていたが、現在は取り外されている。薄藍の綾地に、全体に納戸(青紫)
色の松皮菱文を表し、両袖と身頃の裾に抱き茗荷、下り藤、花菱亀甲の丸紋を刺繍で表している。
大内氏の時代に引き続き、毛利氏の時代においても舞楽の支援があり、天王寺楽人の舞楽伝承
が継続されている事がわかる。
厳島舞楽はこの時代、明神を信仰する大内氏、毛利氏の経済的支援と清盛以来の天王寺舞楽の
技能的支援を受けて継承されたのである。

江戸時代の舞楽
元和5年(1619年)紀州和歌山から安芸の国に入った浅野長晟は、早速、楽頭、舞人などへ
10石余から36石余を扶助している。寛政8年(1796年)には、これまで度々当社は
天王寺楽人から舞楽への伝授指導を受けてきたのであったが、逆に棚守・左舞人の野坂元貞が
一子相伝の「抜頭」を天王寺の舞師岡昌稠に伝え返すということがあった。
江戸時代の祭礼に伴う舞楽の曲目は、ほぼ固定化していたと思われる。
正月1日の、「振鉾」 2日の、「万歳楽・延喜楽」 3日の、「太平楽・狛鉾・胡蝶楽・陵王
納曾利」 5日の、「振鉾・甘州・林歌・抜頭・還城楽」は江戸時代からほぼずっと踏襲
されている。
旧暦三月十五日・九月十四日の春秋の大宮御祭(大宮祭)で行われる舞楽奉納もほぼ恒例化
している。両日ともに酉の刻(午後5時)に、社家、供僧が客人宮に着座し、回廊で奏楽が
あった後、大宮拝殿に至り「新曾利胡(曾利古)・一曲・万歳楽・延喜楽・散手・喜徳・陵王
納曾利」が演じられ、奏楽中に春には桃花を、秋には菊花を献じるには現在も変わらない。
なお、献花中、江戸時代には「十天楽」が、現在は春に「桃李花」秋に「賀殿急」が奏される。

厳島舞楽が奏される場は、高舞台(国宝)、雨天の場合の祓殿、三翁神社、地御前神社拝殿
である。
社殿の屋根は仁安3年(1168年)11月の佐伯鞍職による建立時には「板葺」であるが佐伯景弘の
時代に、それまでの板葺きから「檜皮葺」に改められている(伊都岐嶋社神主佐伯景弘解)

「高舞台」の名称が初めて記録に表れるのは、元和9年(1623年)と言われる。しかし
その原型は安元2年(1176年)の「伊都岐嶋千層供養日記」にみる事が出来る。舞台に関する
記述を見ると、10月12日に「法用僧舞台に昇り一屈す」とあり、僧が舞台に昇って身体を
折り曲げ一礼したという。
13日の最後に「又 舞台の内に蓋高座を立つ、これまた同じく今度新たに調え加う、又舞台
の南北に糸幡六流を立つ、同じく今度調え加うるなり」とある。
すなわち、今の本社祓殿にあたる大宮舞殿の内に「蓋高座」を今度新しく整え、又「舞台」の
南北(本社側と海側)に6本の幡を立てたが、これもまた今度調え加えたものである。
「幡」は法要の場を荘厳にする旗。南北に三流づつとあるのは舞台の四隅と階段上の柱の片方
 に幡を立てたと思われる。
舞楽が奏される舞台を描いた最初の図は、正安元年(1299年)の「一遍聖人絵伝」第10巻
である。(一遍聖人・・・鎌倉時代の時宗の開祖一遍聖人、1239-1289年)
一遍は弘安元年(1279年)同10年(1287年)の二度、厳島に参詣している。
その時に内侍たちが一遍の為に海中に設けられた舞台で「妓女舞」を奏している。
しかしこの時の絵伝の図には、祓殿が欠落し、回廊や平舞台の描写も不正確である。
この時の社殿は、鎌倉時代に二度の火災で炎上した後、仁治2年(1241年)に再建されたもの
と思われる。この「一遍聖人絵伝」に描かれた内侍たちが舞う舞台は絵師が現地を見ないで
描いたと思われるが、海上に設置された常設の舞楽の舞台があったことは確かである。
元禄3年(1689年)に、貝原益軒の「安芸国厳島勝景図飲并記事」に載る舞台が見える
社殿の図には、明らかに祓殿の前の平舞台の上に「高舞台」が描かれている、しかしこの
高舞台の両脇はいきなり海になっている。これより8年後の元禄10年(1697年)に成立した
「厳島道芝記」第一巻の「社頭の図」には高舞台の左右(両脇)・後ろ(海側)には平舞台が
あり現在と同じである。


舞楽の曲目          さんぽうがくそ
千数百年の歴史を持つ雅楽は、京都、南部(奈良)、四天王寺(大阪)の「三方楽所」の楽人
達によって伝承されてきた。鎌倉時代の曲目数は唐楽86曲、高麗楽35曲の計121曲とある。
江戸時代になると、大幅に減り唐楽が47曲、高麗楽は31曲の計78曲となる。しかし
明治の末頃には、唐楽(左舞)39曲 高麗楽(右舞)26曲の計65曲。
昭和40年代(1965-75年)には舞譜も装束も宮内庁楽部にあり、上演可能な曲目は
唐楽(左舞)30曲、高麗楽(右舞)27曲の計57曲であったと言われている。
厳島神社で舞う「厳島舞楽」の舞はどのくらいあるのか、現在「歳旦祭」をはじめ舞楽を伴う
祭礼は、地御前神社祭を入れると12回あり、現行舞楽は16曲である。
16曲の内、舞楽の最初に舞われる儀式的な「振鉾」や、慶賀の時に舞われる「万歳楽・延喜楽」
舞楽で最も軽快華麗な「蘭陵王」とその番舞「納曾利」は舞われる機会が多い、しかし年に
一度しか舞わない曲が7曲あり、その中でも1月5日の年の初めに、天と地の平和を祈願する
地久祭で舞われる「抜頭」は、厳島神社の棚守(宮司)家の一子相伝の舞として知られる。
すなわち、舞楽「抜頭」は才菊(棚守房顕)より以来、9代約三百余年間、譜面(舞譜)を
用いず所作をもって伝えられ、当時の棚守元貞まで、たがわず正月五日に舞われてきた。
以来、変わることなく一子相伝され、継承の印として右手に持つ武器「錐(きり)」と舞方を
書いた「手付」が渡され、平成16年(2004年)1月5日、舞楽「抜頭」は野坂元良宮司から
野坂元明禰宜(現・権宮司)に伝承された。
2014年7月、野坂元良宮司から野坂元明宮司に交代する。元良氏死去に伴う為。35年ぶり

神能について
厳島神社の神能の歴史は古く、桃山時代に遡る。永禄年間(永禄元年~元亀元、1558-70)に、
観世太夫の来島、演能があって以来、四百数十年の歴史を持つ。
能は大陸から移入された宮廷の儀式・社寺の法会や祭礼で行われる舞楽に対し、もともと庶民
奈良時代、我が国古来の神楽や田楽などの舞や音楽を取り入れ、歌舞と物真似などを融合して
できた「猿楽」の能が発展したものである。室町時代の初め猿楽の能を洗練された、芸能に
高めたのは、大和猿楽座の「観阿弥・世阿弥」親子であった。
世阿弥元清(1364-1443)は能役者・優れた演出家であるばかりでなく、数々の名作や伝書を
書き残した能作家であり芸術理論家であった。
三代将軍足利義満の保護を受けて、世阿弥は猿楽の能を地方的・民衆的芸能から上層階級に
愛好される芸術に高め、優れた芸能として大成した。
能が厳島に伝えられたのは観阿弥・世阿弥ゆかりの「観世太夫」一行によってであった。
しかし、応仁の乱の後は将軍・武家など有力な支援者を失い、能は地方興行に活路を見出す。
この様な背景の中で毛利元就・隆元・輝元に観世太夫一行は京都から安芸地方へ下ってきた。
この時の観世太夫は観世流8世の「元尚」であり、大太夫は「宗節、7世元忠」であった。

神能は神に奉納されるものであるが、また神と共に人が楽しむ「法能楽」である。毛利・福島・
浅野などの直接の支配者や支援者、神社と島民、近隣、遠方の多くの人々の篤い信仰に支えら
れて、四百数十年来演じられている。
能の完成以前からあった「神事能」と言う古い形式を取りながら、我が国独自の伝統芸能を
連綿と今に伝えている。それは初日と二日に式能「翁」付き五番立の正式番組が組まれ、
古格を残した珍しい演能と共に他に例をみないものである。

厳島神社の管弦
厳島神社の多くの祭礼で管弦が奏される。春夏秋冬の例祭に欠かせない「管弦」とはどの様な
ものか、ここでは例祭に伴う管弦のみについて述べる。
厳島神社においては弦楽器は管弦祭で用いられるが、他の例祭では通常使わない。ただし
厳島においては、笙(しょう)篳篥(ひちりき)など、雅楽の楽器を使う例祭奏楽を管弦と呼ぶ。
厳島神社の数多い年間の例祭の中でも、最も特徴的で最大の例祭は「管弦祭」である。
「管弦」は舞を伴わない「雅楽の楽器」による合奏である。
雅楽には、唐楽と高麗楽があり、管弦は弦楽器が入った唐楽の器楽合奏である。
それでは「雅楽」とは何か?
雅楽は「雅正の音楽」、正統の音楽と言う意味を持つ。
雅楽の中には「舞楽」「管弦」「歌物(催馬楽)郎詠」「国風歌舞(神楽歌・東遊)」があり
朝廷の式楽として重要な役割を果たして来た。
平安時代以来 雅楽は京(京都)、南部(奈良)、四天王寺(大阪)の三方楽所を核として
伝承され、現在も宮中行事の時などに奏楽されている。
江戸時代に盛況を極めた「船管弦」は、明治初年の神仏分離によって内容を変えた。
本地堂に安置されていた「観世音菩薩」は大聖院に遷され、供僧による伽陀が無くなり、
一般に「管弦祭」と呼ばれるようになった。
旧暦6月17日に行われる「管弦祭」は次のようであった。
申の剋(午後4時)「御船うけ」と称し、大鳥居の正面から出る管弦船に上卿・諸祠官(社家)
・座主 供僧6人が、各々盛装して伺候し、烏帽子に素袍(すおう)・袴姿の水主14人が立ち
振舞も重々しく船に棹を指すのである。そこでいよいよ管弦が始まり、楽人は楽を奏し、供僧は
伽陀を唱える。それより船は地御前の方に漕ぎ行き、火立岩のあたりで燈を付け、外宮の鳥居の
内に入って酉の刻(午後6時)より、管弦を奏し、伽陀を唱える。その後、船を廻して厳島へ
渡る途中で奏楽と読経があり、長浜の沖に至り長浜恵比寿社の前で奏楽の後、潮に乗って
大鳥居の内まで漕ぎいると、時刻は大体亥の刻(午後10時)になる。そこで乱声(複数の竜笛
と太鼓、太鼓、鉦鼓で奏される無定拍節の楽曲)を奏し、舌先で奏楽と読経をし、客宮前で
奏楽と読経をしながら船を3回廻し、その後大元浦に行き、奏楽と読経の後、船が再び御池に
帰り、船管弦が終わるのは夜半である。
元禄の頃から船管弦は近隣諸国から大勢の人が集まる盛大な夏の祭礼であった。
6月上旬から諸方の商人が集まり、15日には厳島に町入りした。また遠方から船管弦を拝もうと
船で遠方近国から身分を問わず老若男女が着飾って来、管弦船の周囲に群がり、地御前から
付き添って客宮前の御池には大船小舟が幾艘ともわからない程であった。
これら数百に及ぶ船を「御供船」と称している。

居管弦祭
陰暦には閏月があり、それが偶々(たまたま)6月によると「十七夜」が二度ある事になる。
その年は船管弦とは別に閏月の6月17日に「居管弦祭」が行われる。
「居管弦祭」とは「居ながらの管弦祭」と言う意味で、高舞台を管弦船に見立てて、同じ様な
飾り付けをする。つまり、高舞台に三隻の船の舳先を取り付け、屋形を組み、艫幕(ともまく)
を張り旗水幕、提灯などを飾る。
屋形と高欄の間に12ヶ月の花を飾る。
1月(松) 2月(梅) 3月(桜)4月(山吹)5月(花菖蒲)6月(若竹)7月(萩)8月(朝顔)
9月(帰京)10月(菊)11月(紅葉)12月(水仙)である。
これは明治初年まで座主や供僧が同乗していた時、唐破風造りの管弦船の屋形に彩花(造花)
を飾っていた名残である。

周辺の芸能
厳島には神社を舞台に社家・供僧などのよって行われた例祭や芸能だけではなく、
神社が直接関わらない周辺の芸能がある、ここでは現在も8月17・18日に行われている
「宮島おどり」「宮島歌舞伎」について述べる。
宮島踊りは
当初は慰霊鎮魂のため鉦(かね)や太鼓で囃(はや)し、念仏を唱えながら踊る六斎念仏
であった。(六斎とは仏教でいう六斎日のことで、月のうち8、14、15、23、29、30の6日を言う)
やがて三味線と太鼓で囃すようになり、これが基本となって今日に至っている。
現在宮島おどりは、子供の踊りで始まり、編み笠姿の大人の踊りが続く。
廿日市市文化財保護審議会の「宮島おどり調査報告書」によれば、この他、近代以降の新作に
「宮踊り」「芸者踊り」「歌舞伎踊り」などがある。

宮島歌舞伎
芝居興行と切り離せない「市立」について述べると、宮島の市立は16世紀中ごろ、大内義隆
が島を支配していたころからあった。
四季市店、春3月、夏6月、秋9月、冬12月 都合 年に四回あり、近方遠境の大船小舟、
国々の商人たちが大船小舟に商品を積んで集まり、仮小屋が立ち並ぶ市立の繁栄した。
江戸中期になると、春・夏・秋の三市となり、事に管弦祭を中心とする6月の夏市が最も盛んで
あった。
歌舞伎は、室町時代から近世初頭にかけて社寺の祭礼と結んで流行した。宮島での歌舞伎興行
が始まったのはいつ頃からか、「宮島歌舞伎年代記」によると、寛文から延宝・天和(1661~
1683年)の頃に宮島の歌舞伎興行があったと述べられている。
しかし、寛文年間の頃には「人形浄瑠璃」が宮島芝居の中心的存在と考えられ、歌舞伎興行が
盛んになるのは文化・文政以降と考えられる。
人形浄瑠璃と歌舞伎は、元禄時代に民衆文化の一つとして発達した芸能である。
しかし、日本の古典芸能史から見ると、人形浄瑠璃の方が歌舞伎より一足先に集大成され、
全盛期を迎えている。人形浄瑠璃は享保・宝暦(1716-1763)の頃、集大成されたが、
歌舞伎は半世紀遅く、文化・文政期(1804-1829)年を中心に集大成され、幕末に完成をみる。
人形浄瑠璃とは
「三味線」の伴奏で「太夫」が物語を語る、日本の伝統的な芸能が「浄瑠璃」です。
15世紀中頃に生まれ、その後広く流行した牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語の主人公の名前にちなんで
「浄瑠璃」と呼ばれるようになりました。浄瑠璃に合わせて人形を操るのが「人形浄瑠璃」で、
太夫、三味線、人形遣いの「三業」が息を合わせて表現する総合芸術です。
天才的な語り手で「義太夫節」を確立した、初代竹本義太夫は、貞享元年(1684年)に大阪で
「竹本座」を旗揚げし、その年の3月市か6月市に宮島で芝居興行をしている。
以後、宮島の芝居興行は芸能人に特別な意味を持つ様になったほか、宮島で評判を取るのが
出世のきっかけと考えられるようになった。

「一遍聖人絵伝」 全48巻 絹本著色12巻からなる(昭和27年、1952年国宝指定)
時宗の開祖「一遍智真」が15歳で出家し、正応2年(1289年)に51歳で没するまでの
生涯を絵と司書によって表された伝記絵巻である。(縦 38.2㎝。 全長1143.3㎝の大きさ)
一遍没後10年目の祥月命日に出来上がった、12巻の奥書
「元安元年己亥八月廿三日、西法人聖戒記之華・画図 法眼円伊・外題 三品経伊卿筆」とある
すなわち 本絵伝は、西方極楽浄土を願って念仏する「聖戒(しょうかい)」が三品(正三位)
「世尊寺経伊(つねただ)」が書き、一遍聖人没後10年目の祥月命日に出来上がった事が判る。
一遍の「一遍聖人絵伝」を記述したのは、一遍の高弟「聖戒(しょうかい)」である。
聖戒は16年に及ぶ一遍の遊行のうち14年間を一遍と行動を共にし、身辺近く従った人で
四国の豪族「河野氏出身」の一遍の従弟とも言われる。画を描いた「法眼円伊(ほうがんえんい)」
については専門の絵師で、本絵伝の筆者と言う事以外は不明である。
*世尊寺経伊(つねただ)は平安時代中期の三蹟(さんせき)の一人、「藤原行成」を始祖
とする、世尊寺流宗家の当主で、当代官延書道界の第一人者であった。全12巻の絵伝は
「法眼円伊」を中心に3人以上の専門絵師によって描かれ、詞書は当時能書の公卿4人によって
清書されたとされる。又巻末に見える「一人(いちのひと)のすすめによりて」から、
本絵巻は関白九条忠教(ただのり)の援助によって制作されたと推定されている。
要するに
「一遍聖人絵伝」は当代一の地位にあった人の発案・勧進によって、一遍の一族でその行状を
目の当たりにした高弟「聖戒」が記述した伝記を、当時第一級の絵師と能書家数名が共同制作
して成ったものである。


舞楽
平安時代の『伊都岐嶋千僧供養日記』に見られる曲目から、鎌倉・室町・桃山・江戸の各時代
の舞楽曲目を探り、明治25年に記された取調書「厳島神社従旧古伝来之舞楽」にある曲目
を基に現行の舞楽曲目から、旧古、現行 舞楽曲目は長く京都、南部(奈良)、四天王寺(大阪)
の三方楽所(さんぽうがくそ)に伝えられた舞楽曲目に遜色ないものである。

神能
人々の厚い信仰に支えられて400年来演じられ、能の完成以前からあった神に奉納する
「神事能」と言う古式を伝えている
初日と二日に式能「翁」付きの五番立と言う正式番組が組まれ古格を残した全国的にみても
極めて珍しい演能である。
平安時代に舞われた曲目は24曲ある。現行12、旧古12. 
能面 98
能装束 119
狂言面 35
狂言装束 34
腰帯・鬘帯(かずらおび) 53

舞楽面7面
後白河法皇一行が厳島神社を参詣(1174年)した、前年の承安3年(1173年)に
舞楽面7面が奉納されている。
いずれも檜の彫彩色で大型の薄手で軽く、都の当時第一級の彫技によるものと思われる
(仏師 行明ぎょうめい)

➀ 二の舞(笑面) 平盛国
➁ 二の舞(腫面)
➂ 抜頭 行明
➃ 納曾利 平盛子
➄ 還城楽 平時子 京の六勝寺の一つ尊勝寺の舞楽面を模して厳島へ調達
➅ 散手 清盛 国内最古のもの したもの
➆ 喜徳
➇ 採桑老 国内最古のもの
⑨ 蘭陵王
以上9面は国の重要文化財となっている。

清盛は永禄元年(1160年)正三位 参議に昇任し、宿願の厳島参詣を果たした後
藤原氏の春日大社や、源氏の鶴岡八幡宮に対抗して、厳島神社を平氏の「氏神」とし
社殿の造営や宝物の寄進を行い、仁安3年(1168年)までに今日見られるような優美な
海上社殿群を完成させている。

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