知りたい宮島

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知りたい宮島 詳細編 8

2023年03月25日 17時57分07秒 | 貴方の知らない宮島
話は変わりますが、国宝 の認定基準について、大変判りやすい基準が最近発表になったので、
知っている方も多いかと思いますが、2015年5月15日の決まった、松江城について触れてみます。

下村博文文部科学相に答申した
松江城の天守は1611(慶長16)年に完成。近世城郭の最盛期を代表する建築として評価された。
1950年(昭和26年)、文化財保護法の施行により重要文化財に指定され、
翌51年に松江市が国に国宝指定の陳情を開始。その後、市民による署名活動や勉強会を続けていた。

松江城は松江開府の祖・堀尾吉晴が築城し、江戸時代には藩主の堀尾、京極、松平各家の居城だった。
「堀尾吉春」・・・信長・秀吉・家康に仕えた人物で、極めて実践的な城(戦う城)を造った
加藤清正・福島正則 は堀尾吉春の弟子である

国宝指定の答申の決め手は、築城年を記した「祈祷(きとう)札」の発見だった。
1937年以降所在不明となっていたが、松江市は懸賞金500万円をかけて捜し、
2012年に市職員らが天守そばの松江神社で見つけた。2階分の長さの柱を多用して荷重を分散させる
当時の最新技法に加え、柱を板で囲む「包板(つつみいた)」なども高い評価を受けた
「包板」に付いた「キズが2箇所」あり、祈祷札を止めていた「釘穴?」の穴の位置と「包板」にある「釘穴」
の位置がぴったりと一致したため、「松江城の建立は慶長6年1611年」と確認され、国宝指定となる

城の特徴
城の下半分に「大屋根」の建物あり、その上に「櫓」が乗っている。
この様な構造を「望楼型」と言う。天守の型としては大変古いものである
現在、大型天守では唯一松江城が残っており、正統派天守の唯一のもの・・・生ける化石の様なもの
信長が「安土城」で造り、秀吉が「大阪城」で造っている。
「付け櫓」
天守の前に、まるで取って付けた様な建物があるがこれが「付け櫓」である。
敵が侵入してきても「闇討ち」に出来る様に、又「狭間(ざま)」と呼ばれる所がある、
これは、「鉄砲」「弓矢」で対応するが、どうしても「死角」ができる、それを補う為にある
「井戸」
天守の中に「井戸」があるのは、現存天守では「松江城」のみ。長期のろう城に耐える為
「柱・包板」
慶長年間(1596年から1615年 約20年間)は全国で築城が盛んに行われた
その為、「太い柱」が品薄になり、柱の周りを板で囲み補強をした(これを包板という)
約400本ある「柱」の内「1/3」が「包板」となっている
「大黒柱」
姫路城には大きな大黒柱が2本通つている
当時この様な大きな「大黒柱」は無く、仕方が無いので、「一階・二階」と階を重ねるごとに
「短い柱」を足していった。この構造が「現存する城」の造りの中で最も古いもので
「国宝」になった理由の一つに挙げられる。
名古屋城・大阪城もこの様な形式の造りとなっている。

宝物館
国指定登録文化財 大江新太郎の設計
鉄筋コンクリート平屋、入母屋造り、昭和9年(1934)建造、厳島神社には平安時代末期
から現代まで、数々の奉納物が保存されています。懸魚には猪の眼がある  
国宝中の国宝といわれる、「平家納経33巻」をはじめ、
「古神宝」「舞楽面」「能衣装」「刀剣」「甲冑」「絵馬」等美術工芸品54点を含む261点が所蔵されている。
入り口にある「厳島宝物館」と記した額は、明治38年 九鬼隆一の筆によるものである
明治30年(117年前)、古社寺保存法(後の国宝保存法、昭和4年)が制定
九鬼隆一・・・・・古社寺保存会会長、帝室博物館総長を勤めた人.文部官僚として重職を歴任、「文部の九鬼か、九鬼の文部か」
と言われる程の人物。貴族院議員も務めた男爵で「枢密院顧問」
大鳥居の前にも九鬼隆一の石碑が建っていましたね。

明治32年 岡倉天心、フェノロサなど来島、神社・大願寺などの宝物や仏像の調査が行われ、
(1899年) 「平家納経」は「国宝」に指定される。
フェノロサはハーバード哲学科卒、アメリカ東洋美術史家、東大から東洋美術学校設立に参画する
大鳥居・五重塔・多宝塔などの神社の重要な建物が「特別保護建造物」に指定、それぞれの建物は、
綿密な調査を基に創建時の姿に復元する工事が始まり、明治の初めに改造されていた、本社の
千木や勝男木も取り除かせ、回廊・祓殿(美術工芸54点等 261点あり)の絵馬は千畳閣へ移される。明治33年
その後、刀剣・甲冑・舞楽面・能装束などが相次いで
国宝になった。「宮島は文化財の宝庫」と呼ばれるようになる。

入り口にある「厳島宝物館」と記した額は、明治38年 九鬼隆一の筆によるものである
九鬼隆一・・・・・古社寺保存会会長、帝室博物館総長を勤めた人.文部官僚として重職を歴任、「文部の九鬼か、九鬼の文部か」
と言われる程の人物。貴族院議員も務めた男爵で「枢密院顧問」
長沢藘雪・・・円山応挙に学び、応挙門下の俊才と言われた(山姥図は本殿、祓殿に掲げてあった))
「山姥図」は寛政9年(1797年)、広島の富士屋喜兵衛など10人によって奉納されている。国の「重要文化財」に指定されている。

小林千古・・・・・・・・・・・明治3年、佐伯郡地御前村(現・廿日市市地御前)に生まれる、本名小林花吉
              18歳の時に多くの移民と共にアメリカに渡りカルフォルニヤで美術学校を卒業する
              更にヨーロッパでは黒田清輝などと親交し、帰国後白馬会に所属、日本洋画壇に鮮烈
              なデビューを飾りながらわずか41歳の若さで病没した。
              当時アメリカにおいては多くの百万長者が現れ「ミレー」風の絵を好んだ、千古もまた
              その様な絵を描くことによって生活がなりたっていた。
              彼の作風はミレーに見られるような「バルビゾン派」風であった。母校の展覧会で得た
              最優等エブリー金牌賞などを土産に、一旦28歳で帰国その後ヨーロッパに渡り、パリ
              ロンドンなどで画業に励むが日本画壇主流からは認められなかった。
              画風が時代の流行に合わなかったと思われる。
              特に代表作の「誘惑」「パッション」などは画題が内面的で難解だった為と言われている。

国宝・・・・・古神宝類(後白河法皇や高倉上皇などが、本社・客神社の神物として奉献された物の一部)
       及び佐伯景弘の奉納した、松喰鶴蒔絵唐櫃(まつくいつるまきえからびつ)
       甲冑、小桜韋黄返威鎧(こざくらかわきかえしおどしよろい) 源為義所有の物で平安期の物
       紺糸威鎧(こんいとおどしよろい) 平重盛の寄進
       浅黄綾威鎧(あさぎあやおどしよろい) 源義家の甲冑と言われている
       藍韋肩赤威鎧(あいかわかたあかおどしよろい) 大内義隆が「太刀・神馬」と供に奉納したもの

国宝・・・・・・・・・甲冑(小桜韋黄返威鎧・兜 こざくらきかえしおどしよろい) 源 為朝所用のもの。平安期のもの
紺糸威鎧(平重盛寄進)、 浅黄綾威鎧(あさぎあや)源 義家の甲冑
*一つの鎧を作るには約2000枚の木札(こざね)が必要である、この練皮を完全に干すには、夏からは
   195日、冬には265日の日数を要した。あらゆる部分を念入りに拵えるとすれば、2年近く要した
国宝・・・・・・・・工芸、金銀荘雲竜文銅製経箱(きんぎんそううんりゅうもんどうせいきょうばこ)平家納経を納める3段箱
彩絵檜扇(さいえひおうぎ)、  蔦蒔絵唐櫃(つたまきえからびつ)福島政則奉納
国宝・・・・・・・刀剣   友成作(平安時代)、古備前派を代表する刀工の一人 「芸州厳島図会」には平宗盛公太刀とある

能面  面が約 130点伝世している    狂言面 約20種 32点の面が伝世している
「堤婆達多品」・・・・・・・女人成仏を説く。

宝物館前(宝物収蔵庫前)には三十万円並びに御翠簾(すだれ)及び石灯籠、青銅製灯篭一基と刻銘された石灯篭がある

「平家納経」は33巻からなるが、その大半は大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の経典の一つ「法華経」から成る
なぜ法華経信仰が貴族の信仰をあつめたのか?
法華経は全8巻28の詳説からなり、それをただ受け入れ読むだけで、功徳があると考えられていた。
更に「提婆達多品」では当時、罪深い存在と考えられていた女性も成仏できると説きこれが宮廷の女房ら、
女性から信仰も集める事になった。こうした法華経信仰に加え更に拍車をかけたのが「末法思想」の流行である。
釈迦の入滅後2000年後に仏法が衰退し争乱の時代が訪れるという思想で、承久7年(1052年)が入末法の年にあたる
と考えられていた。その為人々は末法の世の到来を恐れ、ひたすら極楽浄土への往生を願うようになった。
そして宮廷の貴族の間に「写経」が流行していった。
これは法華経の「法師品(ほっしぼん)」の中で「経文を写経すればくどくが増す」と書かれていた為で、貴族らは
仏の加護を得、極楽浄土への往生をひたすら願って「写経」に励んだのである。
やがて経文を写すだけでなく、華美な装飾を施した経巻を作れば一層の加護を得ることが出来ると言う信仰が
貴族らの間に生まれ、自らの財力をかけて経文に「美」を尽くすようになる。
これが「法華経」信仰への結びつき、更なる装飾、趣向を凝らしたものへと発展した。
一人一人が死後の極楽浄土への往生を願い、仏と縁を結んだ。 これを「結縁(けちえん)」と言い
この結縁の媒介となる「平家納経」の様な写経を「結縁経(けちえんきょう)」と言う
写経の文字は「金泥」「銀泥」「群青(ぐんじょう)」「緑青(ろくしょう)」の四色が使用されている。

長寛2年(1164)に清盛自身が作った願文によると、願文には「平家納経を本殿に安置する」とあるので、
清盛による、厳島神社の造営は「太政大臣」に任官(1167年)する前までに完了していたと思われる
(1164年9月には結縁32人揃って厳島に詣で、神社の十一面観音菩薩像の前に奉納する。
 翌67年(仁安2年)2月に太政大臣となり、般若心経を自筆で書き「奉納」している。)
仁安3年(1168年) 本殿造営
通常は能書の誉れ高い公卿が清書をするのが通例であるが、願文の豊潤な筆至や筆運びの技巧から「清盛」の
技量の高さを知ることが出来る
平家一門32名により「一品経供養」の精神に基づき、一人一巻の写経を作っている(結縁経という)

平家納経
開経 無量義経
第一 序品 第十六 如来寿量品(にょらいじゅりょうぼん)
第二 方便品 第十七 分別功徳品 盛国
第三 謦喩品ひゆほん) 第十八 随喜功徳品
第四 信解品 第十九 法師功徳品 清盛
第五 薬草喩品 第二十 常不軽菩薩品
第六 授記品 第二十一 如来人力品
第七 化城喩品(けじょう) 第二十二 嘱累品
第八 五百弟子授記品 第二十三 薬玉菩薩本事品 盛信
第九 授学無学人記品 第二十四 妙音菩薩品
第十 法師品 第二十五 観世音菩薩普賢品
第十一 見宝塔品 第二十六 陀羅尼品(だらにほん)
第十二 提婆達多品 第二十七 妙荘厳王本事品 重康
第十三 勧持品(かんじ) 第二十八 普賢菩薩勧発品
第十四 安楽行品
第十五 従地涌出品
結経 観普賢経
阿弥陀経 清盛 * 1165年2月太政大臣に為ったのを記念して
般若心経 清盛自筆の般若心経を奉納
願文 清盛 * 他は1164年9月に奉納する
*この後 仁安3年(1168年) 社殿の大改築と造営がある。 神主の佐伯景弘

大聖院(多喜山水精寺大聖院たきざんすいしょうじ)  
宮島で最古の歴史を持つ寺院
真言宗御室派の大本山で、806年(大同元年)に弘法大師が唐からの帰途、弥山で求聞持の百日修法を
修め開創されたと伝えられています,明治維新までは十二坊の末寺を有し、厳島神社の法会祭事を司る別当職。
(別当とは、寺務を統括する長官に相当する僧職)
仁王門を過ぎると、急階段ありそこには大般若経筒があり、三蔵法師がインドより持ち帰った経で触って参れば
無量の福が得られる。御成門から見る景色は「宮島随一」と言われる。
勅願堂は鳥羽天皇勅願道場で、豊臣秀吉が朝鮮出兵の文禄の役(1592-1596)の折、海上安全を祈る為、    
軍船宝丸の守護仏とした、波切不動明王像が祀られています(念持仏)
観音堂には十一面観音菩薩像が祀られています、明治維新までは厳島神社の後園にあった本地堂に祀られていた本持仏で、行基作と伝えられています。

仏画の十一面観音像においては、奈良時代の仏像は10面を頂く像であったが、平安時代後期になると、1面を
加えて11面になった、(赤外線を与えて判明した)。国宝奈良国立博物館所蔵の11面観音像、元は奈良の
「法起寺(ほうきじ)」に伝来していたもの。
摩尼殿は、弥山三鬼大権現のご祈祷所です、弥山の三鬼堂に同じく,時眉鬼神(大日如来の化身)
追帳鬼神(虚空蔵菩薩)、摩羅鬼神(不動明王の化身)、の三鬼神をお祀りしています。
   時眉鬼神(大日如来の化身)
   追帳鬼神(虚空蔵菩薩)
   摩羅鬼神(不動明王の化身)
摩尼殿の二階は「阿弥陀仏1000体」 が安置されている(摩尼殿菩提所)
「宮島のさんきさん」として広く信仰されている
初代総理大臣伊藤博文は三鬼大権現を深く信仰し何度も訪れ弥山山頂道の改修にも尽力されました。当時7千円の浄財で造る
(丁石の文字のみあるのはこの時のもの、地蔵などがあるものはそれ以前のもの) (現在の1億4千万円くらい)
  伝: 日本三景の真価は頂上にあり     伊藤博文「長州藩士 初代内閣総理大臣(44歳2か月)」
伊藤博文の名を刻む、弥山登山道改修の石碑が仁王門手前にある、(碑題は山縣有朋の記)
大聖院の入り口の左には、西方院「雪舟園」あり、この塀の瓦は「菊の御紋章」が入っている
登山口のところにある、石鳥居の側には、弥山山頂まで24丁 と刻んである石柱(丁石)があります。
24丁は2616mです   1丁=109m
宮島座主とは、厳島社の別当寺であった、滝山水精寺大聖院の住職の事を言い,座主は供僧を率いて
神前で祭礼の行事に参加し、時には之を御叶った

火渡り神事、4月15日、11月15日に行われる、真言密教の柴燈護摩修法(さいとうごましゅうほう)
火は「きえずの火」の霊火堂の火から点火される
後奈良天皇の猶子で仁和寺の門跡である任助法親王(仁和寺代20世任助法親王(厳島御室おむろ)が1584年大聖院にて死去、赤碕に荼毘に付される
これは秀吉来島の3年前にあたる。 なお赤崎の墓地は宮内庁管轄地となっている。
猶子・・・甥・姪・後見人の意味がある
昭和50年現在の赤碕の地が「宮内庁管轄御陵」と決定、現在に至っている。任助法親王が荼毘に付される
但し、法親王の位牌は極楽寺に安置されている
戒壇めぐり・・・・母親の胎内の様な暗闇の中に入ってもう一度本質に立ち返り生まれ変わっ出てくると言う
戒壇とは・・・・僧尼に戒律を定める為の作法壇のことを言う

天正15年(1587)には座主が「細川幽斎ほそかわゆうさい」に発句を所望したり、天正18年(1590)には
連歌師「里村紹巴さとむらしょうは」と共に連歌を催したり、文禄元年(1592)には豊臣秀吉が歌会を開いている

観音堂(かんのんどう)
大聖院で最も大きな建物が観音堂。もとは嚴島神社の御本地仏で行基菩薩の作と伝えられる
十一面観世音菩薩が安置されているほか、チベット密教の僧によって制作された砂曼荼羅、弥山開創1200年
記念事業の一環として平成18年秋に建立された金色の弥勒菩薩(みろくぼさつ)も公開されています。

魔尼殿(まにでん)      魔尼は福寿とも訳す     
弥山の守護神・三鬼大権現の本坊御祈祷所。三鬼大権現は大小の天狗を従え、強大な神通力で衆生を救う
とされる全国唯一の鬼神で、初代総理大臣の伊藤博文も篤く信仰したといわれます。摩尼は福寿とも訳し、
幸せな日々の暮らしと健康・長寿などを願う参拝者が絶えません。
摩尼殿の二階は「阿弥陀仏1000体」 が安置されている(摩尼殿菩提所)
魔尼殿に行く途中に階段があり、そこには「魔尼車」ばある。1回まわすと、般若心経一巻を読んだ功徳を得られる

勅願堂(ちょくがんどう)
鳥羽天皇勅願道場として創建されたと伝えられる大聖院の本堂。豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に軍船「宝丸」に安置
して必勝・海上安全を祈願した本尊(念持仏(ねんじぶつ)で、天下統一後に奉納された波切不動明王を
本尊としています。堂内では毎日、家内安全・心願成就等の護摩祈願が行われています。
釈迦涅槃堂(しゃかねはんどう)
釈迦涅槃像と十六羅漢を祀る、千躰不動、三十三変化観音(衆生の人々の為33に姿を変えた観音菩薩を祀る)

遍照窟(へんじょうくつ)
大師堂の地下にあり、四国八十八ケ所の本尊が安置されています。遍照窟とは世の中を平和にする為、
幸せの火を「あまねく(遍)てらす(照)道場(窟)」の意。
本尊前には各四国八十八ヶ所霊場の砂が埋めてあり、お砂踏みをすると四国霊場巡りと同じご利益があると言われます。

大師堂(だいしどう)
本坊最古の建物で、大同元年(806年)、弥山を開基されたと伝わる弘法大師空海を祀った大師堂。
その周りには西国三十三観音、一願大師、稚児大師等が祀られた小さなお堂が取り囲むように
建っています。本坊境内や瀬戸内海を見下ろす高台にあり、絶景ポイントでもあります。

霊宝館(れいほうかん)
弥山開創1200年記念事業の一環として平成18年秋に完成した建物。仁王門をくぐり、御成門へとつながる
階段脇にあり、かつて弥山大日堂に祀られていた重要文化財の不動明王や、平成16年の台風で倒壊した
弥山仁王門の仁王像などを収蔵しています

塔の岡と龍髭の松(りゅうぜん)
五重塔・千畳閣のあるこの塔の岡は、亀居山とも宮崎(平安時代)とも言われ、この尾根は社殿を風や波から守る
重要な山です。厳島合戦の折には、勝山城から移った、陶軍の本陣が敷かれた所です。
(廿日市の西行寺には蓮華松「樹齢300年」、草津の浄教寺の「臥龍山の松」、左右20m)
「龍髯の松」、2本の黒松からなる
空に向かった幹が 2段(多宝塔)、5段(五重塔)に剪定されている。
江戸時代後期の、寛政12年(1800年)に 松岡文右衛門が植えたものである。
又此の地には料亭「遠翠楼(えんすいろう)」がありその主でもあった。

五重塔   (重要文化財)
1407年(応永14)7月の造立です(芸藩通志第15巻)。 4代将軍「足利義持」の時代に建立。
高さ約27.6m、檜皮葺、和洋と唐様を融合した見事な建造です。
内部は非公開ですが、天井や周囲の板壁(来迎壁)には彩色されて蓮池図と白衣観音図、瀟湘八景図、真言八祖図、
が描かれています。神仏分離令までは大願寺厳島伽藍の塔で、本尊は釈迦如来像で脇士は普賢菩薩像
と文殊菩薩像でしたが現在は大願寺に移されています。内部は彩色がしてあり豪華絢爛。内陣の天井には龍が、
外陣の天井には葡萄唐草の模様が描かれています。その他壁板には迦陵頻伽や鳳凰が極彩色で描かれている
迦陵頻伽・・・・極楽にいて、美しい声で鳴くと言う想像上の鳥。
内陣天井には「龍」、 外陣天井には「葡萄唐草」、 来迎壁の、表には「蓮池」、裏には「白衣観音像」
さらに、周囲 八面の壁には「真言八祖図」「瀟湘八景図」 が極彩色で描かれている。
逆蓮
一層の柱は16本あり、1本ごとに寄進者の名前が書かれている(14本は女性で2本は大願寺・大聖院の僧) 開花蓮
擬宝珠には文正2年(1819年)の紀年名あり、2層・5層は蓮の花を逆さにした「逆蓮」で、3層・4層は蓮の花が
開いている「開花蓮」になっている、又斗束も蓮の形をしているので「握蓮(にぎりばす)」と言われる
組物から突き出る尾垂木(おだるぎ)。 これ程までに濃厚な唐様の塔は
① 尾道の天寧寺(てんねいじ)の五重塔(今は三重塔)  ②向上寺(こうじょうじ)の三重塔しかない 
他県では 長野県上田市の安楽寺(あんらくじ)の八角三重塔 しかない
風が当たると、木材は100年で3ミリ目減りすると言われており、五重塔は600年前の建物なので柱
が「貫」と交差する部分をよく見ると2センチほど、風食で目減りしているのが確認できる。
心柱が2層目で止まっていて、下まで達していないのが珍しく、2層目で止まっていることで、
振り子のように横揺れに強く、台風の風にも耐えられる構造になっています、
ここで言う「心柱」を「擦(さつ)」と言う全国で5例のみ。
①明王院(福山) ②最勝院(弘前) ③羽黒山(山縣) ④海住山寺(京都) ⑤宮島五重塔
柱上部には金欄巻(きんらんまき)と言う装飾絵あり、下を朱漆柱として1本づつ寄付者の名がある

初重柱銘については以下の通り
① 応永14年(1407年)7月創建、 文政8男(1825年)成立の「芸藩通史」、巻十五に記載
➁ 天文2年(1533年)3月九輪(くりん 相輪そうりん の事)の再興そして、檜皮による屋根
   の葺き替え。藤原興藤(大永3年4月・1221年~藤原広就(天文10年10月・1541年)の時代

五十の塔初重の16本の、朱柱に黒い文字。
 釈迦三尊像の寄進者名。慶応4年(1868年 明治元年)神仏分離により大願寺に移される。
四枚の板扉の両脇の壁に2枚づつ計8枚の真言八祖図(シンゴンハッソズ、空海を含む)
 8人の僧侶の背景には瀟湘八景図(ショウソウハッケズ、禅宗絵画の定番)
 釈迦三尊像の本尊奥の壁壁面には白衣観音図(ビャクエカンノンズ)が描かれている。
柱の寄進者は16名の者で14名は女性・女人往生(ニョニンオウジョウ)の強い願望のもと
 女性信仰の高まりの表れ。女性は、社家(シャケ)、厳島島内の有力町民(町衆)
 廿日市の町衆(商人・職人)、社領衆(神主家の一族や家臣)
 二本は、大願寺の僧尊海、 大聖院僧

和様と唐様(禅宗様)の建物となっているが、和様の特徴は「垂木が平行」に組んである。
一部、日光東照宮の最上階の垂木は「放射状」に組んである。
更に「尾垂木(おだるぎ)」は長く突き出ている。

豊国神社(通称 千畳閣)
(重要文化財) 明治5年から千畳閣、以前は大経堂と言い、この辺りは「宮崎」と呼ばれていた
「豊国神社(ほうこくじんじゃ)」は秀吉の神号(神としての名前)の豊国大明神からきている。     
桁行41m、梁間22m、単層本瓦葺入り母屋 木造の大径堂
1587年(天正15)、豊臣秀吉が島津攻めの途中(3月17日 桜尾城、3月18日厳島神社参詣、19日岩国)、厳島に参詣し将兵の戦没者供養の為、
月に一度、千部教の転読供養(読誦)をする為に大径堂を建てる様、発願し、毛利輝元の使僧
安国寺恵瓊(えけい、此の時は造営奉行)に命じ、その費用1万石を与え(今の10億円に相当する)
建てさせるが、11年後1598年8月18日、秀吉公の死(伏見城にて死去)により未完成のまま現在に至る。
(1592年文禄の役 1597年慶長の役 秀吉朝鮮出兵).
 安国寺恵瓊=瑶甫恵瓊(ようほえけい)が正式名
入り母屋造りの大伽藍で857畳の畳を敷くことが出来、完成していれば、金箔瓦に見られるように
豪華な桃山文化を取り入れた大径堂になっていたと思われる。金瓦(漆で金箔を押した瓦)
明治8年に大鳥居が再建された時に使われた、尺杖(しゃくつえ)があり、長さ16mあり「華表尺度」
と書かれている。この「華表」は大鳥居を表している。16mは大鳥居と同じ高さである。工事の際に、
おやつ代わりに餅をつき、きな粉をまぶしたものを「太閤の力餅」といって宮島の名物でもありました。
明治維新の神仏分離までは、ご本尊が釈迦如来像で脇士に阿難尊者と摩詞迦葉尊者が祀られていましたが、
大願寺に遷されています、現在は秀吉と加藤清正が祀られ、豊国神社となっています。
(明治5年4月に秀吉を祀り豊国神社に改める、厳島神社の末社となる)、内部には絵馬が掲げられています、
絵馬は明治33年の台風災害に遭うまでは祓殿や廻廊に掲げてありましたが、流失(33枚の扁額)や損壊の
被害を受けた為、翌年(明治34年)、千畳閣に移されました。流出は8月19日の事
厳島神社、春日大社、成田山新勝寺(千葉県)と並んで日本三大絵馬場所とされているが、
正しくは質・量・共に日本一です(170個の絵馬がある)
廻り縁の床は上下2段に縁板があり「二重廻縁」になっており、全国でも珍しいものである
安国寺恵瓊は、毛利元就によって攻め滅ぼされた安芸国守護武田信重の遺児で、
毛利家・豊臣家の外交僧として活躍した。秀吉からは、九州征伐後に伊予6万石の大名に
抜擢された人です。
安芸安国寺(不動院)の安国寺から取っている
  119本の柱がある
  当初柱94本、その内
  大正6年18本根継柱
  楠24本 杉31本
  栂(つが)39本
  大正年間交換柱22本
  材は檜木

国内の仏堂では唯一床下通路がある
中の神社の祭殿の横にある、2本の大きな柱は他の柱に比べ「キズ」が多く付いている、これは昔、戦争に行く人達が
「戦勝祈願」のため杓子に願い事を書き、柱に打ち付けたために付いた傷で、昔の「写真」にも残っている。
手前の大きな二本の柱には「天保15年」と読み取れる、落書きがある(現在では落書きは不許)
ここが本来なら入り口になるであろうという場所の近くの柱を見ると判るが、色は塗っていない為、
年輪と年輪の間が腐食(風化)している、これは100年で3ミリ腐食(風化)していくといわれている。床板を見ると、
「埋め木」が数多く見られる、これはこの場所が広い為昔からいろいろなことに使用されたことを物語っている。
廻縁の床は上下2段に縁板が敷いてある「二重廻縁」で、全国でも珍しいものである
風が当たると、木材は100年で3ミリ目減りすると言われており、千畳閣は400年前の建物なので柱下をよく見ると
1センチほど、風食で目減りしているのが確認できる。明治の神仏分離令により、仏を取り払い「神」を取り入れた。
     
祭壇の横を見ると、横木は「ぞうの形」に成形してある、(木鼻・掛鼻・拳鼻こぶしばな)、
横木は頭貫(かしらぬき)とも虹梁(こうりょう)とも言う明治5年以降、堂内の仏像は大願寺
へ移され又、木鼻2個が切り取られたことが、(右側の2つの木鼻のうち、1つの木鼻が基の位置に戻された)、
明治24年1月24日(1892)銘の墨書板に書かれている。
三つの船の舳先があるが、これは「居管絃際(いかんげんさい)」のときに使用する
昭和5・16・35・54・62年に居管絃祭が行われている(旧暦の6月には2回の閏月がある)
屋根瓦(軒丸瓦のきまるかわら)の「丸王」の金箔が張ってあるものである。 桃山時代の建物である
伏見の桃山城や聚楽第(じゅらくてい)は軒瓦に金箔を押して飾ったと伝えられる。金瓦(漆で金箔を押した瓦)。
豊国神社の軒丸瓦の模様のある所には金箔を押した痕跡があった。これに基づいて昭和60年(1985年30年前)
からの、修理工事では「金箔押しの軒瓦」が復元された。「王」の字が配せられているが、「国」の字の図案化
したものと聞いている。平瓦には桐葉の紋章あり、丸瓦を貫ける鉄釘の長さ1尺5寸(約45cm)あり。
鬼瓦には、天正17年(1589)の刻銘が読み取れる。(2年後の1591年に屋根が載っている)
424年前 1587年から4年後にあたる
昭和60年(1985年)からの修理工事で金箔押しの軒瓦が復元、平成元年(1988年)屋根修理工事が竣工し、
軒丸瓦が金箔瓦となる(3年後)

元々は、織田信長が天正4年(1567)に築城を開始した安土城(滋賀県近江八幡市)の屋根に金箔を押した瓦を葺いたのが最初で、
その後、豊臣秀吉へと引き継がれていく。秀吉は城館のみならず秀吉と関係の深い有力大名の城館や寺社なども金箔瓦で飾る。
瓦は鬼瓦の残された銘文から、播磨国・英賀(あが、兵庫県姫路市)の瓦工によって制作されている。
金箔は漆が接着剤に使われますが、これは金箔を美しく輝かせる効果があります。しかし漆は非常に強固な物質であるが、反面
紫外線に弱いという弱点もある。
 古くから千畳閣の呼び名で親しまれた豊国神社は、近年屋根瓦の老朽化が進み野地板等の傷みが放置できない状態
になったため、昭和60年(1985年)7月からその保存修理の調査及び工事を開始しました。(34年前)
 瓦は奈良瓦を使用し、その総数54,529枚の62.5%にあたる34,071枚を取り替えました。
本瓦葺で、平瓦は筋葺、箕甲は破風への重量軽減のため空葺とし、平成元年(1989年)3月、45ヶ月の工期を経て完成しました。
取り替えられた平瓦は、巾38㎝・長さ40㎝のもので、これを全て平面に並べると4,866㎡(1475坪)となり、
テニスコート約19面を覆う広さになる。

① 天正15年(1587)3月に秀吉により経堂として建立が発起された
② 明治の神仏分離令までは「大径堂」「千畳敷」と呼ばれる
③ 明治5年4月から「千畳閣」と称す
④ 明治43年特別保護建築物に指定され「豊国神社本殿」と称す。

納涼の場、交流の場、「博覧会」、「日露戦争では戦勝祈願」
「広島予備病院転地療養所となり戦傷者の収容」、剣道大会

秀吉が島津征伐の途中、毛利輝元の案内で厳島神社に参拝した時
この丘にあった大楠をみて経堂を建立することを思い立ち、
武将安国寺恵瓊に命じてこれを宰領せしめた、と大願寺文書にあり
天正15年(1587)3月18日

千畳閣の西側正面の小高い丘の柵の中にある「正岡子規の俳句記念碑」 明治28年句 昭和46年建 秋山謙蔵 刻 山徳文一
*汐みちて鳥居の霞む入江哉        子規
*朝顔の花くふ鹿やいつく嶋        子規

① 天正15年(1587)3月に秀吉により経堂として建立が発起された
② 明治の神仏分離令までは「大径堂」「千畳敷」と呼ばれる
③ 明治5年4月から「千畳閣」と称す
④ 明治43年特別保護建築物に指定され「豊国神社本殿」と称す。

塔の岡と龍髭の松(りゅうぜん)
五重塔・千畳閣のあるこの塔の岡は、亀居山とも宮崎(平安時代)とも言われ、この尾根は社殿を風や波から守る
重要な山です。厳島合戦の折には、勝山城から移った、陶軍の本陣が敷かれた所です。
(廿日市の西行寺には蓮華松「樹齢300年」、草津の浄教寺の「臥龍山の松、左右20m、)
「龍髯の松」、2本の黒松からなる
空に向かった幹が 2段(多宝塔)、5段(五重塔)に剪定されている。
江戸時代後期の、寛政12年(1800年)に 松岡文右衛門が植えたものである。
又此の地には料亭「遠翠楼(えんすいろう)」がありその主でもあった。

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