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知りたい宮島16 宮島の歴史

2024年06月05日 09時28分00秒 | 貴方の知らない宮島
昭和時代
1929年、昭和4年
神社後背地の弥山山魂の西北面が、天然記念物「弥山原始林」となる。
これは我国で最も早く出た「自然保護制度」とも言える
1937年、昭和12年 ヘレンケラー宮島を訪れる(日本には3度来日、うち二度は宮島を訪れる)
この時は宮島ホテルに宿泊している 昭和23年に来島

1945年、昭和20年9月17日
枕崎台風の来襲により、紅葉谷の土石流発生、その土砂で「西の松原」の築き出し工事が行われた。
死者2473名 県内では行方不明者2000人超 午後2時に九州南部上陸(枕崎)、周防灘・広島湾
を経て18日午前2時日本海へ去る
1950年昭和25年5月30日
「国宝保存法」は廃止され「文化財保護法」が公布される、従来の国宝はすべて「重要文化財」となる

1952年、昭和27年
厳島神社本社(本殿・幣殿・拝殿)一棟、本社祓殿 一棟が重要文化財に指定され、同日「国宝」に指定される 
全島が「特別史跡・名称」になる 宮島ホテルが焼失する。35年間営業する

1963年、昭和38年3月21日   厳島神社の「避雷針設置」の工事が行われる

1976年、昭和51年 現在の宮島桟橋の共用が開始される
        10月5日    今上天皇・美智子妃殿下が来島、(都市公園の開所式に列席の為、)本殿の参詣も行う
1980年、昭和55年7月14日
神社周辺の長浜から紅葉谷、大元浦一帯が「厳島公園」になる。


旧参道の続きを書きます

ここから、時代に沿って簡単に宮島の歴史を述べてみます

飛鳥時代
593年 推古天皇元年、佐伯鞍職が厳島神社を創建したと伝えられる
平安時代
1146-1156(10年間) 清盛は安芸守になる(29歳の時)
1156(保元6年)4月 紀州高野山金剛峰寺(ぶじ)大塔の造営にあたり、落慶供養の日に老僧が現れ、
「越前の気比の宮は栄えたけれど、厳島はなきがごとく、荒れ果てて候、このついでに奉聞して修理させたまえ、
宮加階は肩をならぶる人天下にまたもあるまじきぞ」 と立たれけり。
「老僧から安芸の宮島神社の造営をすれば、官位昇進肩を並べる者天下に二人とあるまい」
との予言をされた。  越前国の一宮で、福井県敦賀市の「気比神社」
1160-1180(20年間) 正三位(しょうさんみ)の公卿になる。20年間で清盛は10回厳島神社を社参している。
1164年 平家納経を奉納
1167年 従一位・太政大臣になる、50歳(武士としては初めて)
1168年11月 清盛出家する(静海、清海と名乗る)
(仁安3年) 佐伯景弘は、本宮37宇 外宮19宇を造営。 この時神社内宮・外宮の外観を一新する。
従来、神殿以外は「板葺」であったものを、「檜皮葺」に改めている
厳島神社の造営が行われる
* 廻廊は113間あった、落慶法要では清盛をはじめ貴族達が「観世音菩薩」に扮し社司の奏でる楽に
合わせて舞いながら社殿を巡る「大行道会だいぎょうどうえ」が行われ、夜は松明を灯し廻廊や社殿に
居並ぶ僧侶が「法華経」を読誦する、参集した貴族達はそこに出現する「極楽」の様相に見とれ集まった
おびただしい群集はまたとない光景を眼にした。
1174年 後白河法皇、建春門院(滋子)参詣。 白川上皇になった時のお手植の松あり
1176年(安元2年) 145間  南86間 北59間 千層供養に際して増築をする
1177年 千層供養を催し、舞楽が演じられる、千人の僧が法華経を唱える。中宮徳子、社参する
京都、鹿ヶ谷において、平康頼、僧俊寛、藤原成経らが平家滅亡を企てる
    しかし、発覚し喜界が島に流される。
1178年 平徳子、安徳天皇を懐妊、 同年11月12日 安徳天皇誕生   
赦免(9月20日)にて康頼・成経が都に帰る

1179年 安芸の国の有力神社としてばかりではなく、石清水(いわしみず)、賀茂(かも)
春日社(かすがしゃ)など、同格の22社に加えようと発議され、我国の大社と
しての特性を強めていく
1179年8月 平重盛、病死する 42歳(1138-1179)
1180年 福原遷都
高倉上皇、厳島神社に参詣する
* 平安末期には島内には「内侍」のみが居住していた、その他の神官・僧侶は対岸の地御前に住んでいた。
1181年閏2月4日 清盛 享年64歳没  満63歳
1185年3月24日 壇ノ浦の戦い(新暦4月25日)

鎌倉以降
1207年 神社「社殿が火災」にあうが再建、完成を急がせる為、藤原親実が安芸守の守護
1208年7月 棟上を行う。
1215年(建保3年) 12月19日 完成 8年間かかる
1221年 承久の乱により、朝廷や公家勢力を弱体化させた、鎌倉幕府は各地に新たな
地頭を配置するなど権力を強化、更に佐伯氏に代わって、関東御家人の
周防前司「藤原親実」を厳島社神主にする。
藤原神主家は「安芸一宮」としての地位を確保する(320年間続く)
それまで在京していた、神主は安芸国の現地に下向して「厳島」を名字と称し、
武士=国人領主としての道を歩む事になる。
1223年12月2日 夕方「神社、炎上」。国司には造営を行う力が無く、その後12年間放置
1224年 朝廷 安芸国を厳島神社に寄進し、国司に社殿を造営させる
1235年 幕府 藤原親実を安芸国守護に任ずる
1236年(嘉禎2年) 外宮の遷宮を行う
1241年 内宮の遷宮を行う、この時は仁治2年(1241年7月)まで5年を要す。180間(1223年の火災に対して)
1243年(20年後) この仁治2年の造営社殿は以前にも増して荘厳なものであり、遷宮を3ヶ月後
に控えた段階でも内宮など未だに竣工していない建物もかなりあった。
伊都岐島社神宮等申状案には「宝殿具屋之華美超過雲泥也」と書かれている
仁治の造営では、回廊180間、平舞台120間とあり、平舞台が常設になっている
1274年・1281年 文永の役・弘安の役 蒙古襲来でともに九州北部が戦場となった
1286年 大鳥居再建
1287年 一遍上人 参詣、この時描かれた「一遍聖絵」は厳島神社の絵画の初見
1293年 元寇に際しては、異国降伏の祈願が行われ、「一遍」・「二条尼」などが参詣、
足利尊氏・大内義弘は造営料を寄進、更に、「博多の商人」からは釣燈籠・
「堺の商人」からは、36歌仙の図が奉納された。
1300年代後半、参詣人や商人たちが多く集まるようになり、島内に人が住むようになる。4月 180間(伊都岐島社来造殿舎造営料案)
1325年 大鳥居 台風により転倒する(楽房 平舞台 門客神社の倒壊もあった)
室町時代
1336年 足利尊氏 厳島神社造営料として造果保(東広島市)を寄進する
1371年 大鳥居が再建される
1376年 弥山御堂神護寺(大日堂)が造立される
1389年 足利尊氏 参詣する
1407年 五重塔が建立される
1523年 多宝塔が建立される
1537年 厳島神社の廻廊、大国社以西を焼失する
1541年 棚守房顕 大内氏の御師(おんし)になる 大土石流が発生
御師・・・参詣者を案内し、参拝・ 宿泊などの世話をする者

5月4日(天文10年) 土石流発生、大内義隆が再建を始めるが各地で戦いが続くなか再建はなかなか
進まなかった。後に毛利隆元による天神社の建立(1556年)が始まると、毛利氏
の援助で社殿の本格的な復旧が始まる。
御手洗川は本殿に流れ込まないように、神社の南側を迂回させ途中白糸川と合流
この時築堤が出来た為、反橋・長橋は短縮せざるを得なかった。
1546年6月 棚守房顕 高舞台を寄進
1547年 大内義隆 大鳥居を再建する
1548年(天保17年) 108間その後、毛利元就により回廊の床板が敷替えられた。こうして元亀の遷宮を迎える事になる
1550年 フランシスコ ザビエル 旅の途中に宮島に立ち寄る
(戦国時代、1493-1573までの80年間)
1555年9月30日~1日 陶軍は塔の岡、毛利軍は宮の尾城(要害山)に布陣、戦闘は1日で終わる
陶軍は、駒ヶ林・大江浦・青海苔浦へと敗走した
1556年 毛利隆元 天神社を建立する
1561年 毛利元就 大鳥居を再建する
1568年 毛利氏により観世太夫を招き「能」を奉納、仮の能舞台を作り舞う(穢れを祓う為)
1571年 厳島神社の本殿の遷宮(元亀の遷宮)が完成、
6月 元就死去、享年75歳
12月 (元亀の遷宮) 1568年12月末に和知兄弟の謀反により、兄弟が本殿に立て籠もり

本殿の修理・造営をする。出来上がり(遷宮)が1571年
元亀の遷宮以降、大内から毛利へと大きく勢力図が変わる時期にあたる
1591年 石田三成 九州下向中に来島する

江戸時代以降
1599年 毛利輝元 弥山神護寺大日堂を再建する
1600年 関が原の合戦
輝元に代わって、福島政則が入る  1605年能舞台を寄進
1601年 福島政則 厳島神社領を収公し代わって祭料・扶持米など1350石を支給する
1605年 能舞台を建立する。  108間 「厳島社間数目録」
1619年 浅野長晟が広島藩主になる、厳島神社に祭料・扶持米など1090石を支給する
1623年 (元和9年)、6尺間で108間「宮島舎堂塔布立下書」に記述。
1635年 宮島奉行設置
祭礼市が春・夏・秋の三季に行われる(桃花祭・管弦際・菊花際)瀬戸内・京都・堺から多くの商人が集まり、
「虎革」「白砂糖」など外国商品も商われていた。神社では「能」や「舞楽」が演じられ。特に雅楽が演奏される、
御座舟が対岸の地御前神社まで渡御する「管弦際」には、装飾を凝らした参詣船が多く集まり我国に広く知れる。

1625年 広島城下の材木町にあった娼家を島に移転、更に祭礼時には、「芝居」や「富くじ」
の興行が行われ、常設で「芝居小屋」が設けられ、近代文化の拠点・遊興の地
としての性格を強くしていく。これらは厳島図屏風に描かれている。
1643年 林春斎による「日本国事跡考」に三処の奇観と称され「日本三景」の一つになる
1666年 第3代藩主 浅野綱晟 毎月1夜づつ108基の燈籠に点灯するよう10石を神社に寄進
1680年 浅野綱長により「能舞台・能楽屋・橋掛」が寄進される
1701年 台風の来襲で管弦際の御座舟遭難する、江波・阿賀の船が救出したと伝えられる
1715年 光明院の僧恕信により「厳島八景」が選定
「山林」は、広島藩の管理下に置かれ、材木の切り出しや、薪が特産
1716年 大鳥居 倒壊
1736年 水害により流出した土砂で、御手洗川の河口に松原を築く
1739年 第5代藩主 浅野吉長 大鳥居を再建する
1743年 廣島 中島町の町人4人が 新提に108基の石灯籠を寄進し、西松原の原型が出来る。
1776年 第7代藩主 浅野重晟 反橋を再建
落雷で大鳥居倒壊する
1784年 誓真 幸町に井戸を掘る、以降町内各所に掘られた井戸は「誓真釣井」と呼ばれる
1794年 長沢藘雪 「厳島八景図」を描く
1801年 第9代藩主 浅野斎賢(なりたか) 大鳥居を再建する
1806年 伊能忠敬ら測量の為来島、大願寺を本陣として浦々を調査測量する
1842年 「芸洲厳島図会」を刊行する
1852年6月15日 管弦際に向かう「御供船」を見物する群集の為、廣島城下の京橋が落ちる
1853年 吉田松陰来島
宮島大芝居に「市川海老蔵」来演する
1866年9月2日 大願寺にて第二次長州戦争の休戦和平会談を行う、
幕府方は勝海舟 長州方は広沢実臣、伊藤馨、木戸孝允が参加
明治以降
明治初期 「後白河法皇お手植えの松」が切り倒される
明治元年 神仏判然令が施行される、宮島に大きな変化をもたらす事になる
1868年3月17日 明治新政府
1868年3月28日 神仏判然令発布
神社本殿の本持仏、十一面観音菩薩像は大聖院へ、また千畳閣・五重塔
の本尊も 大願寺に移された。
したがって、仏教的な様相を一掃し「国幣中社」として位置ずけられる。(正式には明治4年)
また、座主以下の供僧の務めていた「経絵(きょうえ)」は廃止され、経済的な
基盤を失った供僧寺院はほとんど廃寺となった。現在は官幣中社に位置付けられ(明治44年5月13日)
ている。(厳島の法会を担っていた、供僧寺院は廃業となる)
1871年、明治4年6月 「国幣中社」に列格される。この時千木・勝男木が新調される
1872年、明治5年 「千畳閣」で博覧会を開催、遊郭は退転し、富くじ興行も廃止、町は大きな転換を迫られる中、
各地の物産が出品されるなど新たな観光地としての模索が始まる
この年から、社殿の造営に際しては「県」に修繕許可を求め、その許可を得てから工事が行われる様に
なる。
更に「公式」に認められた「造営経費」の藩からの支給も廃止され、16世紀以来継続していた「大願寺」に
よる、「修理造営の権限」が無くなった。

1875年、明治8年 大鳥居を再建
1877年、明治10年 東京で「第一回国内勧業博覧会」が開かれ、宮島細工が出品され、
物産組合が造られ、「杓子・盆」などの木工製品の生産が本格化する
第五回は、19世紀末のパリ万国博覧会と重なる為、延期して開催する
1880年、明治13年  1月東回廊、7月西回廊の工事完成。この時期から回廊は「東西」に分けて呼ばれる様になる
1881年、明治14年 厳島神社の大修理が終わり、遷宮式を行う
1885年、明治18年7月31日
明治天皇御行幸 大聖院を行在所とされる 8月1日には対岸の廿日市に渡る
1887年、明治20年 大聖院火災により焼失する
1889年、明治22年 町村制施行により、「厳島町」となる
1893年、明治26年 関西と下関を結ぶ、中国航路の厳島への「定期寄港」の開始
1896年、明治29年 高浜虚子 夏目漱石 が来島する
1897年、明治30年(117年前) JR宮島口の開業
日清戦争では、広島から大陸に向かう将兵は厳島神社で戦勝祈願を行い
出発、帰還報告には宮島を訪れ杓子を土産に買って帰り、宮島の杓子
が全国に広く知れ渡ることと成る。
千畳閣・大願寺・光明院には広島予備病院転地療養所に成り戦傷者を収容した
1897年、明治30年(117年前) 古社寺保存法(後の国宝保存法、昭和4年)が制定



1899年、明治32年
岡倉天心・フェノロサ、など来島、神社・大願寺などの宝物や仏像の調査が行われ、
「平家納経」は「国宝」に指定される。
大鳥居・五重塔・多宝塔などの神社の重要な建物が「特別保護建造物」に指定
絵画・書蹟・彫刻・美術工芸など35点が「国宝」に指定される
それぞれの建物は、綿密な調査を基に創建時の姿に復元する工事が始まり、
明治の初めに改造されていた、本社の千木や勝男木も取り除かせ、回廊・祓殿
の絵馬は千畳閣へ移される。その後、刀剣・甲冑・舞楽面・能装束などが相次いで
国宝になった。「宮島は文化財の宝庫」と呼ばれるようになる。
1901年 厳島神社特別保護建造物修理工事(明治・大正の大修理)が始まる(明治34年から大正8年の19年間)
1902年 明治35年7月19日   本殿の千木・勝男木を取り除く
1906年 明治39年 伊藤博文らの寄進により、弥山登山道の修繕工事が竣工された
1909年 明治42年11月29日   強風の為、火焼前・左右の青銅製灯篭が倒れる(107年前)
1911年 明治44年5月13日    「官幣中社」に列格される(国幣中社列格より40年後)
大正時代
大正2年 造園の大家と言われた、本田静六が来島、地域振興作の一環として厳島公園改良の為、
地形・道路・植生の調査が行われた、
大正6年 チェコ人の「ヤン・レツル」の設計した「宮島ホテル」が落成する。
原爆ドームの設計者でもある
1923年大正11年 アインシュタイン 来島 弥山に登る
1924年、大正12年 「史跡・名勝天然記念物保護法」により全島が「史跡・名称」に認定される

昭和時代
1929年、昭和4年
神社後背地の弥山山魂の西北面が、天然記念物「弥山原始林」となる。
これは我国で最も早く出た「自然保護制度」とも言える
1937年、昭和12年 ヘレンケラー宮島を訪れる(日本には3度来日、うち二度は宮島を訪れる)
この時は宮島ホテルに宿泊している 昭和23年に来島

1945年、昭和20年9月17日
枕崎台風の来襲により、紅葉谷の土石流発生、その土砂で「西の松原」の築き出し工事が行われた。
死者2473名 県内では行方不明者2000人超 午後2時に九州南部上陸(枕崎)、周防灘・広島湾
を経て18日午前2時日本海へ去る
1950年昭和25年5月30日
「国宝保存法」は廃止され「文化財保護法」が公布される、従来の国宝はすべて「重要文化財」となる

1952年、昭和27年
厳島神社本社(本殿・幣殿・拝殿)一棟、本社祓殿 一棟が重要文化財に指定され、同日「国宝」に指定される 
全島が「特別史跡・名称」になる 宮島ホテルが焼失する。35年間営業する

1963年、昭和38年3月21日   厳島神社の「避雷針設置」の工事が行われる

1976年、昭和51年 現在の宮島桟橋の共用が開始される
        10月5日    今上天皇・美智子妃殿下が来島、(都市公園の開所式に列席の為、)本殿の参詣も行う
1980年、昭和55年7月14日
神社周辺の長浜から紅葉谷、大元浦一帯が「厳島公園」になる。







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