町屋通り
宮島が最も華やいだ時代のメインストリートとなっていた古い町並みで(現在24棟の重要伝統的建築物があります)、江戸時代に建てられた商家や民家
が残っている。切妻造りで平入りの構造。表の間を「店(みせ)・二の間を「おうえ」、階段室・神棚がある
奥の間を「座敷」と言う。縁側・中庭・廊下の先に便所・風呂場・反対側が台所となっている。
1630年頃に埋め立てられ、江戸時代後期(1780)頃には表参道が埋め立てられていた。
町屋通りが埋め立てられてから約150年後のころに埋め立てられた(江戸時代1603―1868年)
明治になって、更に沖が埋め立てられた(海岸の家ぎりぎり辺りまで)
吉田家は間口4間、もとは畳屋であった事から「みせ」の床は取り除かれて「土間」になっている
屋根は「平入」りで創建は18世紀後半(1700年代の終わり)頃、その他に「河内家」「熊田家」
「村上家」「武本家」などがある。
宝永7年当時(1710)、島民には五穀や野菜の栽培、木材の伐採などが禁止されていた、島の土地を傷つけ
ない様にとの配慮から出た物と思われる、島内で犬を飼う事も禁止(鹿・猿を驚かせないようにする為)
「宮行きさん」昭和40年代まで続いた対岸大野で作った野菜・果実を毎日船で運び宮島に売りに行った人々の呼び名、
耕作を禁じられていた宮島の人達にとっても新鮮な野菜を毎日家まで運んでくれる大野の「宮行き」は無くてはならない存在
ここで神社・仏閣を取り巻く現状を少し書いてみましょう
再建 異国の木頼み
① 徳川家康を祀る、東照宮などと共に世界遺産に登録された、日光山輪王寺(りんのうじ、栃木県日光市)の
大護摩堂の再建(1998年6月)には、「カナダ 檜」が使用された。
巾4m 長さ8m 竜の天井を描くには、歪みの無い1枚板が必要であったが、国内では調達出来なかった
(カナダ・ヒノキ・・・・カナダ南西岸 バンクーバー島より持って来る。樹齢800年以上)
② 1976年再建の奈良薬師寺の「金堂」は、「台湾・ヒノキ」を使用
③ 2010年10月 興福寺の中金堂再建は、柱に「アフリカ・カメルーンのケヤキ」を使用
この様に日本の8割近くが外材を用いている。 と言う「宮大工」もいる
寺社に使う「大径木」は国内では既に枯渇、現在は台湾・カメルーンなど、海外でも「輸出」に厳しい制限を
かけており、減少の一途をたどっている。
数百年先を見据えた「森林育成」を国内ではどのようにするのか、現在「林野庁」では国内10箇所の国有林に
植えた、「ヒノキ・スギ・ケヤキ」などを、「直径1m以上・樹齢200年~400年」となるまで見守るとの事。
また「文化庁」では岩手から熊本まで全国62箇所の民有林などで「大経木」を育てる
匠の技も危機にある
現在日本全国に約4700棟ある、国宝・国の重要文化財の建造物の1/4を「桧皮葺・杮葺」が占めている。
これを「固定」するに欠かせないものとして「竹釘」がある
「竹釘」は「錆びず・腐らず」50年間耐えるが、竹釘の製造業者は全国で唯一、兵庫県丹波市の
「石塚商店」のみである(神社で抱えている職人は別・・・・例 京都・下鴨神社では8人の職人が現在2人)
竹釘を作る「職人」になるには最低10年は必要と言われている。
(竹釘を口に含み、素早く取り出して打ち付ける、口の中が荒れない様に表面を滑らかに加工する技が重要)
ちなみに、平葺きの場合竹くぎは4000本/坪必要。檜皮用は4,5㎝ 杮葺は3,6㎝の長さです。
北緯37度以北は「杮葺」以下は「檜葺」をよく見ます。
竹は、厚く弾力性のある「真竹」は3割くらいで、あとは中国からの「孟宗竹」が約半分くらいです
2021年大鳥居の修復時の屋根の檜皮の葺替で檜皮を竹釘で止めている状態です
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/33/b0/8ff7ef7d1626aed3edb3bea2c632c450_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7c/53/423addf1ca7fbdc9b94b9ba03c68bec4_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7d/1c/fa84a6fbb28d67b72c64a4bebb91577e_s.jpg)
なお、写真をクリックすると拡大画面が出てきます
屋根瓦や壁の修理には「深草土(ふかくさつち)」が欠かせない。
藁や石灰・砂を調合するには、長年の勘と熟練の技が必要だ。現在「深草土」は京都市伏見でしか採れない。
この「深草土」を唯一採取・販売する「浜橋組建材」のみで、採算が合わず殆んど「ボランテイア」状態である
国宝・重文の「表具修理」に必要な「打刷毛(うちばけ)」を作るのも、京都下京区の老舗「藤井松華堂」だけ。
本紙と裏打紙(うらうち)を密着させるのには、「毛の適切な硬さ」と手になじんで疲れない「持ち手加工」の技
が必要で「イギリス・大英博物館」の修理担当者も訪れると言う。
話は変わりますが、国宝 の認定基準について、大変判りやすい基準が最近発表になったので、知っている方も多いかと思いますが、2015年5月15日の決まった、松江城について触れてみます。
下村博文文部科学相に答申した
松江城の天守は1611(慶長16)年に完成。近世城郭の最盛期を代表する建築として評価された。
1950年(昭和26年)、文化財保護法の施行により重要文化財に指定され、
翌51年に松江市が国に国宝指定の陳情を開始。その後、市民による署名活動や勉強会を続けていた。
松江城は松江開府の祖・堀尾吉晴が築城し、江戸時代には藩主の堀尾、京極、松平各家の居城だった。
「堀尾吉春」・・・信長・秀吉・家康に仕えた人物で、極めて実践的な城(戦う城)を造った
加藤清正・福島正則 は堀尾吉春の弟子である
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/ff/7042e86f79b40625897ca99c6277aac4.jpg)
白と黒の国法松江城
国宝指定の答申の決め手は、築城年を記した「祈祷(きとう)札」の発見だった。
1937年以降所在不明となっていたが、松江市は懸賞金500万円をかけて捜し、
2012年に市職員らが天守そばの松江神社で見つけた。2階分の長さの柱を多用して荷重を分散させる
当時の最新技法に加え、柱を板で囲む「包板(つつみいた)」なども高い評価を受けた
「包板」に付いた「キズが2箇所」あり、祈祷札を止めていた「釘穴?」の穴の位置と「包板」にある「釘穴」
の位置がぴったりと一致したため、「松江城の建立は慶長6年1611年」と確認され、国宝指定となる
城の特徴
城の下半分に「大屋根」の建物あり、その上に「櫓」が乗っている。
この様な構造を「望楼型」と言う。天守の型としては大変古いものである
現在、大型天守では唯一松江城が残っており、正統派天守の唯一のもの・・・生ける化石の様なもの
信長が「安土城」で造り、秀吉が「大阪城」で造っている。
「付け櫓」
天守の前に、まるで取って付けた様な建物があるがこれが「付け櫓」である。
敵が侵入してきても「闇討ち」に出来る様に、又「狭間(ざま)」と呼ばれる所がある、
これは、「鉄砲」「弓矢」で対応するが、どうしても「死角」ができる、それを補う為にある
「井戸」
天守の中に「井戸」があるのは、現存天守では「松江城」のみ。長期のろう城に耐える為
「柱・包板」
慶長年間(1596年から1615年 約20年間)は全国で築城が盛んに行われた
その為、「太い柱」が品薄になり、柱の周りを板で囲み補強をした(これを包板という)
約400本ある「柱」の内「1/3」が「包板」となっている
「大黒柱」
姫路城には大きな大黒柱が2本通つている
当時この様な大きな「大黒柱」は無く、仕方が無いので、「一階・二階」と階を重ねるごとに
「短い柱」を足していった。この構造が「現存する城」の造りの中で最も古いもので
「国宝」になった理由の一つに挙げられる。
名古屋城・大阪城もこの様な形式の造りとなっている。
宮島が最も華やいだ時代のメインストリートとなっていた古い町並みで(現在24棟の重要伝統的建築物があります)、江戸時代に建てられた商家や民家
が残っている。切妻造りで平入りの構造。表の間を「店(みせ)・二の間を「おうえ」、階段室・神棚がある
奥の間を「座敷」と言う。縁側・中庭・廊下の先に便所・風呂場・反対側が台所となっている。
1630年頃に埋め立てられ、江戸時代後期(1780)頃には表参道が埋め立てられていた。
町屋通りが埋め立てられてから約150年後のころに埋め立てられた(江戸時代1603―1868年)
明治になって、更に沖が埋め立てられた(海岸の家ぎりぎり辺りまで)
吉田家は間口4間、もとは畳屋であった事から「みせ」の床は取り除かれて「土間」になっている
屋根は「平入」りで創建は18世紀後半(1700年代の終わり)頃、その他に「河内家」「熊田家」
「村上家」「武本家」などがある。
宝永7年当時(1710)、島民には五穀や野菜の栽培、木材の伐採などが禁止されていた、島の土地を傷つけ
ない様にとの配慮から出た物と思われる、島内で犬を飼う事も禁止(鹿・猿を驚かせないようにする為)
「宮行きさん」昭和40年代まで続いた対岸大野で作った野菜・果実を毎日船で運び宮島に売りに行った人々の呼び名、
耕作を禁じられていた宮島の人達にとっても新鮮な野菜を毎日家まで運んでくれる大野の「宮行き」は無くてはならない存在
ここで神社・仏閣を取り巻く現状を少し書いてみましょう
再建 異国の木頼み
① 徳川家康を祀る、東照宮などと共に世界遺産に登録された、日光山輪王寺(りんのうじ、栃木県日光市)の
大護摩堂の再建(1998年6月)には、「カナダ 檜」が使用された。
巾4m 長さ8m 竜の天井を描くには、歪みの無い1枚板が必要であったが、国内では調達出来なかった
(カナダ・ヒノキ・・・・カナダ南西岸 バンクーバー島より持って来る。樹齢800年以上)
② 1976年再建の奈良薬師寺の「金堂」は、「台湾・ヒノキ」を使用
③ 2010年10月 興福寺の中金堂再建は、柱に「アフリカ・カメルーンのケヤキ」を使用
この様に日本の8割近くが外材を用いている。 と言う「宮大工」もいる
寺社に使う「大径木」は国内では既に枯渇、現在は台湾・カメルーンなど、海外でも「輸出」に厳しい制限を
かけており、減少の一途をたどっている。
数百年先を見据えた「森林育成」を国内ではどのようにするのか、現在「林野庁」では国内10箇所の国有林に
植えた、「ヒノキ・スギ・ケヤキ」などを、「直径1m以上・樹齢200年~400年」となるまで見守るとの事。
また「文化庁」では岩手から熊本まで全国62箇所の民有林などで「大経木」を育てる
匠の技も危機にある
現在日本全国に約4700棟ある、国宝・国の重要文化財の建造物の1/4を「桧皮葺・杮葺」が占めている。
これを「固定」するに欠かせないものとして「竹釘」がある
「竹釘」は「錆びず・腐らず」50年間耐えるが、竹釘の製造業者は全国で唯一、兵庫県丹波市の
「石塚商店」のみである(神社で抱えている職人は別・・・・例 京都・下鴨神社では8人の職人が現在2人)
竹釘を作る「職人」になるには最低10年は必要と言われている。
(竹釘を口に含み、素早く取り出して打ち付ける、口の中が荒れない様に表面を滑らかに加工する技が重要)
ちなみに、平葺きの場合竹くぎは4000本/坪必要。檜皮用は4,5㎝ 杮葺は3,6㎝の長さです。
北緯37度以北は「杮葺」以下は「檜葺」をよく見ます。
竹は、厚く弾力性のある「真竹」は3割くらいで、あとは中国からの「孟宗竹」が約半分くらいです
2021年大鳥居の修復時の屋根の檜皮の葺替で檜皮を竹釘で止めている状態です
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/33/b0/8ff7ef7d1626aed3edb3bea2c632c450_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7c/53/423addf1ca7fbdc9b94b9ba03c68bec4_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7d/1c/fa84a6fbb28d67b72c64a4bebb91577e_s.jpg)
なお、写真をクリックすると拡大画面が出てきます
屋根瓦や壁の修理には「深草土(ふかくさつち)」が欠かせない。
藁や石灰・砂を調合するには、長年の勘と熟練の技が必要だ。現在「深草土」は京都市伏見でしか採れない。
この「深草土」を唯一採取・販売する「浜橋組建材」のみで、採算が合わず殆んど「ボランテイア」状態である
国宝・重文の「表具修理」に必要な「打刷毛(うちばけ)」を作るのも、京都下京区の老舗「藤井松華堂」だけ。
本紙と裏打紙(うらうち)を密着させるのには、「毛の適切な硬さ」と手になじんで疲れない「持ち手加工」の技
が必要で「イギリス・大英博物館」の修理担当者も訪れると言う。
話は変わりますが、国宝 の認定基準について、大変判りやすい基準が最近発表になったので、知っている方も多いかと思いますが、2015年5月15日の決まった、松江城について触れてみます。
下村博文文部科学相に答申した
松江城の天守は1611(慶長16)年に完成。近世城郭の最盛期を代表する建築として評価された。
1950年(昭和26年)、文化財保護法の施行により重要文化財に指定され、
翌51年に松江市が国に国宝指定の陳情を開始。その後、市民による署名活動や勉強会を続けていた。
松江城は松江開府の祖・堀尾吉晴が築城し、江戸時代には藩主の堀尾、京極、松平各家の居城だった。
「堀尾吉春」・・・信長・秀吉・家康に仕えた人物で、極めて実践的な城(戦う城)を造った
加藤清正・福島正則 は堀尾吉春の弟子である
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/ff/7042e86f79b40625897ca99c6277aac4.jpg)
白と黒の国法松江城
国宝指定の答申の決め手は、築城年を記した「祈祷(きとう)札」の発見だった。
1937年以降所在不明となっていたが、松江市は懸賞金500万円をかけて捜し、
2012年に市職員らが天守そばの松江神社で見つけた。2階分の長さの柱を多用して荷重を分散させる
当時の最新技法に加え、柱を板で囲む「包板(つつみいた)」なども高い評価を受けた
「包板」に付いた「キズが2箇所」あり、祈祷札を止めていた「釘穴?」の穴の位置と「包板」にある「釘穴」
の位置がぴったりと一致したため、「松江城の建立は慶長6年1611年」と確認され、国宝指定となる
城の特徴
城の下半分に「大屋根」の建物あり、その上に「櫓」が乗っている。
この様な構造を「望楼型」と言う。天守の型としては大変古いものである
現在、大型天守では唯一松江城が残っており、正統派天守の唯一のもの・・・生ける化石の様なもの
信長が「安土城」で造り、秀吉が「大阪城」で造っている。
「付け櫓」
天守の前に、まるで取って付けた様な建物があるがこれが「付け櫓」である。
敵が侵入してきても「闇討ち」に出来る様に、又「狭間(ざま)」と呼ばれる所がある、
これは、「鉄砲」「弓矢」で対応するが、どうしても「死角」ができる、それを補う為にある
「井戸」
天守の中に「井戸」があるのは、現存天守では「松江城」のみ。長期のろう城に耐える為
「柱・包板」
慶長年間(1596年から1615年 約20年間)は全国で築城が盛んに行われた
その為、「太い柱」が品薄になり、柱の周りを板で囲み補強をした(これを包板という)
約400本ある「柱」の内「1/3」が「包板」となっている
「大黒柱」
姫路城には大きな大黒柱が2本通つている
当時この様な大きな「大黒柱」は無く、仕方が無いので、「一階・二階」と階を重ねるごとに
「短い柱」を足していった。この構造が「現存する城」の造りの中で最も古いもので
「国宝」になった理由の一つに挙げられる。
名古屋城・大阪城もこの様な形式の造りとなっている。
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