知りたい宮島

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知りたい宮島 6 大杓子

2024年06月05日 09時31分47秒 | 貴方の知らない宮島
桟橋前の広場の前を過ぎると、小高い丘の麓に「加福食堂」が見えます、その横には階段があり、この階段の上が
1555年に厳島合戦が行われた時に「毛利元就軍は陣を構えた所」で15の廓があり、毛利軍約300名から500名がいた所です。(要害の地で宮尾の城跡と呼んでいます)

この時元就は大将として、歴戦の重臣で熊谷信直(くまがいのぶなお)を差し向ける、信直は9月26日に宮尾の城に入る、この時陶晴賢軍は既に21日には、五重塔の横(現在の千畳閣の所)に陣を構える
陶軍は2万人 毛利軍は3千人ともいわれた、9月30日の夜陰、嵐をついて対岸の「火立岩(ほたていわ)」から兵を伴い、島の裏側、現在の「包が浦」に上陸、博打尾峠を越えて、陶軍の背後に迫り、10月1日 早朝4時に総攻撃をかけ、昼過ぎの2時には決戦が終わったという、日本三大奇襲戦の一つで
厳島合戦が行われた場所です
この時「陶軍」は鉄砲隊がいた為(6丁あった)、元就軍は敵をけん制する為「射手」を200名乗船させていた。
元就はこの時、3日分の食料(煎り米等)と棚木1本 縄1束を全員に支給していた

この時の、合言葉が「勝」と言えば「勝・勝」と連呼した
陶晴賢は、高安ヶ原で自刃(35) 弘中隆兼・隆助 父子は2日間戦い、駒が林にて討ち死にする
(駒が林はフェリーから宮島山頂を仰ぐと一番高く見える山で裏側は焼く80mの断崖絶壁の山)

この時、陶晴賢は「何をおしみ、何をうらまん もとよりも この有様の 定まる身に」と詠んでいる

実際には火立岩から宮島に向けての海峡は、潮流が大変速く、火立岩を出発しても宮島には島の南側に着く事になるので、
広島の「草津港」を出発した、との考え方もあります。ここからだと「潮流」の乗って進めば楽に宮島に渡る事が出来るからです。

その階段の横に
「皇太子殿下行啓記念」の石碑を見ることが出来ます。





これは、既に 崩御された「昭和天皇」が皇太子殿下の時、大正15年5月27日に宮島に参詣に寄られ
弥山頂上まで登山をされた時の「記念石碑」です。
弥山頂上付近には同じ様な石碑(四角い形をしている)が建立しています、どこにあるかさがして?
その年の12月25日、大正天皇が逝去され、翌26日に皇太子殿下から「天皇陛下」になられています。
更に言うと、明治18年7月31日には「明治天皇」が御行幸されています。
ちなみに、この時225日間広島に「首都」がおかれました。
この時の「行在所」が大聖院の観音堂です。
観音堂の屋根瓦を見ると、「金色の菊の御紋章」が入っています。
また、明治27年9月15日には、明治天皇は広島大本営にこられました。
日清戦争において、広島に「大本営が設置」されたためです。
(明治27年7月~28年3月 日清戦争)

この時の大本営の参謀総長が、有栖川宮熾仁親王で後述の「朱の大鳥居」の「扁額」を書いた人です
大鳥居の近くには、威海衛戦勝記念碑(いかいえ)があります、よく見て探してください。
現在の威海市(いかいし)で山東半島の北東端の港湾都市で人口248万人、当時は清国の北洋艦隊の根拠地でした。

今上天皇と美智子妃殿下も、昭和53年10月5日に来島、参詣されています。
この時は、島の裏側にある「包が浦自然公園」が都市公園に指定、その除幕式に出席の為、来島されました。

特別史跡・名称 の石碑を見ることが出来ます。
大正12年(1923年)史跡・名称天然記念物保存法により、全島が「史跡・名称」に指定
その後
昭和27年 文化財保護法により、全島が「特別史跡・及び特別名称」に指定される
現在全国に、特別史跡・名称 と名のつく場所は「36箇所」あり、その内同時に指定されているのは
宮島を含め「12箇所」となっています。
関東で有名なのが、①小石川後楽園  ②浜離宮恩賜公園 です

表参道商店街を通ると、中ほどに大変大きな「杓子」があります。
一般的には「しゃもじ」と言いますが、ここ宮島では「杓子(しやくし)」といいます。

長さ7,7m 顔の部分上下2,7m 重さ2,5トン 材は樹齢270年の 欅
製作期間2年10ヶ月 製作者は 宮島細工共同組合 昭和58年(1983年)に製作
作ったはいいが、設置場所が無く、しばらくは「倉庫」に眠っていましたが、平成8年に
世界文化遺産に認定されたのを契機に現在の場所に展示されました。
昭和53年に出雲市の材木市に出品された「けやき」で宮島町が当時、1300万円で購入する
なお、現在は元の宮島市民センター(現在のettoエット)に展示してあります。
宮島の伝統工芸である「宮島細工」を後世に残すと共に、杓子発祥の地である、宮島のシンボルとして製作しました。
江戸時代には「色楊枝」「五色箸」など土産物としてありましたが、それ以外には主だった「土産」はありませんでした。
宮島の恩人と言われる「僧誓真(そうせいしん)」が厳島弁才天がもっている「琵琶」の形から杓子を考案したと伝えられ、島民に作り方を伝授しました。

挽物(ひきもの)は県の文化財で、轆轤挽き=刳物(くりもの)=彫刻、と移る
この時宮島に「轆轤技術」を伝えたのが、「小田権六」で1848年から1854年まで6年伝える
存光寺には小田権六の記念石碑があります、
又彫刻については、江戸時代末期に甲斐の国(山梨県)の彫刻師、「波木井昇斎(はぎいしょうさい)」
が木彫りの技術を伝えました。
明治20年(1888年)勧業博覧会で受賞し「宮島彫り」は全国に知られるようになりました。
宮島彫りは、「浮き彫り」「しずめ彫り」「線彫り」などがあります。

今 島内には「轆轤屋」が1軒あり、また 三代目で木工芸 日本工芸会会員の方の土産物店の店の奥で
材料から轆轤 製作まで一貫製作している「店」が1軒あります。探して?




















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