知りたい宮島

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知りたい宮島 詳細編 6

2023年04月28日 20時41分28秒 | 世界遺産
現在日本には約4700棟の国宝、重要文化財があると言われているが、その1/4を「檜皮葺き」「杮葺き」が占めている。
軒釘は、2500本/坪、平葺は4000本/坪 必要とされている。
しかし、高いのが難点で、坪当り50~55万円かかる、これは、ちなみに銅板・瓦葺の価格に比べると5~10倍

現在、重要文化財に指定されている檜皮葺の建物は約700棟(重要文化財以外も含めると1,650棟)あり、
700棟の維持に年間約3,500㎡の葺き 替えが必要である。

正面の裳階(もこし)
正面の軒の中央部分を切り離して、一段上げる、面倒な工法がとられている。平安時代の建物にはしばしば
見られるが、その後はほとんど構えられなくなった。誠に美しい軒で、「平等院鳳凰堂(宇治市国宝)」
「日野法界寺阿弥陀堂(京都市伏見区・国宝)」などがその典型的な例として挙げられる。

二重虹梁・蟇股
祓殿の拝殿側の妻は「二重虹梁・蟇股」になっている。大虹梁、二重虹梁と二重に架け、「その間に3個
の蟇股を用いたもので、奈良時代以来多く使われた形式で雄大豪壮な感じがする。
虹梁は、下の長大なのを「大虹梁」、上の短い方を「二重虹梁」と言う。誠に巧妙な構架法である。

蟇股
平安形式で輪郭の曲線は、宇治上神社(京都市・国宝)のそれと、同じである
拝殿・祓殿(舞殿)、は鎌倉時代の仁治2年(1241年)の再建で全国最古の建物です。
** 「影弘解文」と通称される、仁安3年(1168年)11月の「伊都岐島社神主佐伯景弘解」と
「伊都岐島社千層供養日記」は、平安末期の厳島社の社殿の様相を示し、かつ
それぞれの建物が当時の祭祀の中でどの様に使われたかを示す唯一の資料である
以下この資料に基づき、記述をする。

「影弘文書」によれば、厳島社の建立は推古天皇の時代の事である、この時従来の板葺きを全て桧皮葺に改め
更に金銅により荘厳華麗を施したと、述べている
仁平2年(1152年)に平清盛が再興、但し現在の社殿は貞応元年(1222年)から建立を始めて
寛喜2年(1230年)に遷宮したと報告あり(厳島野坂文書1896)
大宮御殿は将軍・足利義昭から毛利輝元に命じて中興し、元亀3年(1572年)に遷宮した。

この造営による厳島社の建物規模は、本宮37宇、間数300間。外宮19宇、間数77間となっており、
従来より「厳島社」の祭祀を司っていた「佐伯氏」は島内外にこうした大規模な社殿を造営する事で安芸国内
での地位を強固なものとし、中央政府との繋がりを深めていったものと考えられる。
以後の修理・造営に関する費用は「国司の重任の功」をもって充て、神主職は「佐伯氏」が継承する事も
「影弘文書」には述べられている。

** 社殿の構成については
本社(大宮)本殿、屋根は桧皮葺で「宝殿」と称される、又 拝殿(三棟造)で「影弘解文」には「二棟」とあり、
火災の後の再建で「三棟」に変更されたのかも知れない。
幣殿にあたるものは無く、祓殿にあたるものは、現在の客神社祓殿と共に「舞殿」と記されている。
これらの「宝殿」「拝殿」「舞殿」が現在の本社・客神社のそれらと同じ位置にあり、その他付属する建物との間
を113間の回廊が結んでいたものと考えられる。
この様な厳島の海上社殿に
➀ 承安4年(1174年)3月に後白河法皇。 10月には「一切経」の法会がおこなわれた
➁ 更に治承元年(1177年)10月には、清盛ら平家一門により「千層供養」が開催され「行道会」が行われた
➂ 治承4年(1180年)3月。9月と高倉上皇が参詣する。
この時の供は、入道大相国(平清盛)、前右大将宗盛、大納言邦綱、藤大納言実国、源宰相中将通親、
頭左中将重衡、宮内少輔宗範、安芸守在経、らであった.(源平盛衰記、巻23)

蟇股(かえるまた)について
祓殿の「蟇股」は平安時代末期のもので、特徴は左右が別々に作られている事です(二木造)、合掌造とも言う。
蟇股(二木造)
蟇股について更に詳しく触れておきましょう
二木造りは珍しくなかなか見ることが出来ないと言われますが、京都の宇治上神社と厳島神社は約1168年頃に作られた物と言われていますが、
一乗寺三重塔・醍醐寺本堂・中尊寺金色堂に見られる二木造りの蟇股は、時代が更に100年古く、約1065年位に作られた物と言われています。
又、見て比較するとよく解りますが、時代の古い蟇股は高さが新しい蟇股に比較して、かなり高い物になっています。
高さの高い蟇股は時代が古く、高さの低い蟇股は時代が少し下がり、100年位あたらしくなります。
又、刳り貫きのない 「板蟇股」と刳り貫きのある 「本蟇股」があります

寝殿造りについて触れると、
寝殿造りは社殿と中心に鳥が翼を広げたような形に、「渡り廊下」でつないで「対屋(たいのや)」を配し,前面には祭礼の場である「庭」、更に南には「池」を配する建築様式を言う

屋根は「桧皮葺(ひわだぶき)」
ここ厳島神社の屋根は全国でも珍しい、桧皮葺きに瓦を積んだ「化粧棟」となっています。
また、ツルが飛んでいるような優美な曲線を描いています。

本社本殿・客殿などは 五色の色(赤・白・青・黄・黒)が塗られています。これは中国の「陰陽五行説」に由来するもので
赤は 柱・梁・垂木  白は 壁などの板材(神社では漆喰は使用禁止です、お寺は漆喰の白い壁をしよう)
青は 窓や格子戸・連子窓(緑青に塗られていた)  黄色は 材木の木口 黒は 蔀(しとみ)・破風板の上の部材

祓殿で行われていた祭典は以下のようであった
当初は「直会(なおらい)」の場として使用されていた。
明治10年 「36歌仙板絵」 
明治29年 「長沢蘆雪の山姥図」他、多くの絵馬が「廻廊」「祓殿」にが掲げられていた、しかし明治33年に台風による大きな高潮が発生、
  絵馬が流出する事となる、その為現在は「千畳閣」に一部を掲げ、残りは保管(170枚の絵馬を保有・これは日本一の数です)
明治13年 厳島学校生徒の社篭(しゃろう)が行われ、ここで昼食を取る
明治24年9月 29年6月 宮島で「海軍兵学校の運動会」が行われ、ここで昼食を取る
明治29年2月(旧暦)晦日に「相立場」が行われた、これは従来大晦日に行われていた「年越相場」にならって始めたと言われ、
その後は「米取引」の形を取り入れた。「宮島相場」と言う、催しとし戦後はしばらく続いた。
明治29年10月 厳島町の各町内が社篭として、祓殿・楽房で酒宴を催した
明治32年10月 ここでの飲食の禁止、廻廊内を喫煙したままでの徘徊を禁止となる。
厳島小学校の「書道大会」も開かれ、
現在では「御衣献上式」や「市立祭」のお祓いなどの他に、諸芸能の奉納の場として使用される

明治4年には、千木・勝男木がつけられていた。
明治34年に「古社寺保存法」により、千木・勝男木が下ろされる
明治34年1月28日から大正8年7月までは、俗に言う「明治・大正の大修理」がおこなわれる(20年かかる)

高舞台(国宝)
舞楽が舞われる所です。桃花祭・菊花祭などで舞楽奉奏が演奏されます
舞楽とは、管弦による舞踏のことで、振鉾・陵王・納曽利・万歳楽・延喜楽・太平楽・抜頭など二十数曲が今なお厳島神社に伝承されています。(舞楽の演目は三十六曲ある)
この舞台の擬宝珠には、1546年(天文15年)棚守佐伯房顕(たなもりさえきふさあき)の銘があり、奉納した事が判ります。
(約468年前、本殿に近い方の一番左右の二つの擬宝珠に書いてあります)
ちなみに、この擬宝珠を造ったのは、廿日市の鋳物師で「久枝綱家」の作、五重塔の擬宝珠も同様です。
以下の文字が刻印されています。
「木帽子(擬宝珠)鋳奉檀那當棚守左近蒋監房顕天文十五年丙午六月」
きぼうし いたてまつる だんなとう たなもりさこんしょうげんふさあき てんぶんじゅうごねん ひのえうまろくがつ
檀那(だんな)・・・・・・施主のことをあらわしている。
左近将監(さこんしょうげん)・・・・・棚守代々の官職名
房顕(ふさあき)・・・・・・毛利元就時代の有名な棚守(現在の野坂宮司の先祖)

日本三舞台の内の一つで、大坂四天王寺の石舞台・住吉大社の石舞台を日本三舞台と云う。

舞楽は清盛が社殿を造営した時に、大阪の四天王寺から舞楽を厳島に伝えたのが始まりと言われています。
今日でも毎年正月二日の「二日祭」と三日の「元始祭」の舞楽は「天王寺楽所雅亮会(がくそがりょう)」の応援を得て行われている。
実は「舞楽鑑賞」の日にちは決まっております。
1月1日 歳旦祭(さいたんさい) 午前5時から  振鉾
1月2日 二日祭(ふつかさい)  午前8時30分から 万歳楽 延喜楽
1月3日 元始祭(げんしさい)  午前9時から 太平楽 狛鉾 胡蝶楽 陵王 納曾利 長慶子
1月5日 地久祭(ちきゅうさい) 午後5時30分から 振鉾 甘州 林謌 抜頭 還城楽 長慶子 
4月15日 桃花祭(とうかさい) 午後5時から 振鉾 万歳楽 延喜楽 桃李花 一曲 曾利古 散手 喜徳 陵王 納曾利 長慶子
5月5日 外宮の地御前神社にて舞う ここ最近は 陵王を舞う
5月18日 推古天皇祭遥拝式(すいこてんのうさいようはいしき) 振鉾 万歳楽 延喜楽 陵王 納曾利 長慶子
7月7日(旧暦6月5日開催) 市立祭(いちだてさい) 午前9時から 振鉾 万歳楽 延喜楽 陵王 納曾利 長慶子
10月15日 菊花祭(きっかさい) 午後5時から 振鉾 万歳楽 延喜楽 賀殿 一曲 曾利古 散手 喜徳 陵王 納曾利 長慶子
10月23日 三翁神社祭(さんのうじんじゃ) 午前10時から 振鉾 万歳楽 延喜楽 この時は神社裏手にある「三翁神社」にて舞楽を舞う
この実施日以外でも、神社に舞楽舞の要請をすると舞ってくれます、但し少しお金が必要ですが、平舞台は貸し切りとなり、一般の方々は
平舞台に入る事は出来ません(要請者の貸し切りになり、目の前で鑑賞できます)。
舞楽は、7月 8月 9月 の三ヶ月は「暑い」ので舞いません。

舞楽を舞う人が「舞楽を舞うのにこれ以上舞台が小さいと舞えない」と呟くのを耳にします、
これは以下の様な考えのようです。
「高舞台正面の幅はほぼ本社祓殿の中央柱間と同じ大きさである、本社祓殿の原形は仁安の造営(1241年)の「舞殿」
であった。
この舞殿の前に置かれた舞台(高舞台)を使って治承元年の千層供養の時には舞楽が行われた様である。
舞殿(現在の祓殿)の中には蓋高座が設けられた、この蓋高座を使って千層供養時には舞楽が行われた
この蓋高座を高舞台の元祖と考えると、舞殿(祓殿)の中に設置しても使用できる大きさでなければならない事になる、
すると、おのずと舞台の大きさも限られて小さな舞台になってのではないかと思われます。

旧暦の6月17日には「管弦祭」が行われると先に言いましたが、旧暦では6月が二度訪れる年があります。
この時は「居管弦祭」と言う、管弦祭が催しされます。
「居管弦祭(いかんげんさい)」とは、居ながら行う管弦祭の事で、御座舟は使用しません、
高舞台を利用して、平舞台の上で行います。
高舞台の前に船の帆先を付けて祀ります(高舞台が御座舟の代わりをします)。
三艘分の船の帆先は千畳閣に置いてありますので、
誰でも見ることが出来ます。屋形と高舞台の間に12ヶ月の造花つけて飾る。
1月は松 2月は梅 3月は桜 4月は山吹 5月は花菖蒲 6月は若竹 7月は萩 8月は朝顔 
9月は桔梗 10月は菊 11月は紅葉 12月は水仙 の花を飾る 。
この時は「鳳蓮」は移動しない(昭和5年・16年・35年・54年・62年に居管弦祭が実施されている.)
なお、この高舞台は平舞台の上に置いてある様に見えるが、実際は平舞台とは関係なく、
海底から花崗岩の柱を建ててその上に高舞台を造っているものです。

四隅の親柱の外側に直径4分(約5センチ)の穴が付いている。
これは「幡飾り付きの鉾」を立てるときに使ったものと思われる。こうした金具の取り付けは、
他の舞楽舞台には見られない装飾である

右楽房・左楽房(国宝)
舞楽の時に管弦を奏するところです。左右ありますが「舞楽」を舞う時には二つの流れがあります。
左の舞、・・・・インド・唐(中国)から伝わった舞を言い、
左舞を舞う時は左楽房で奏します「これを唐楽(とうがく)及び林邑楽(りんゆうがく)と云う」
右の舞、・・・・朝鮮半島から伝わった舞を言い、
右舞を舞う時は右楽房で奏します(「麗楽(こまがく)及び渤海楽(ぼっかいがく)」
衣装については
右舞・・・・・青色(緑色)衣装で金具は銀色で、メロデイで舞うと云われています
左舞・・・・・赤系の衣装で金具は金色で、リズムで舞うと云われています

平舞(ひらまい)・・・・優美な装束を着て4人以上で演じるゆったりした舞い
走舞(はしりまい)・・・華燭な装束を着て1人、又は2人で演じる
番舞(つがいまい)・・一つの演目に対して割り当ての演目が決まっている舞い
             例:蘭陵王の舞と納曽利、 延喜楽と万歳楽 の様に

舞楽面も厳島神社に伝わっており、平清盛が大坂の「四天王寺」から舞楽を移した時には、「舞楽面」が9面伝えられた
千層供養時には舞楽は24曲あり、その内12曲が現在も厳島神社で舞われている。

「舞楽」は平清盛によって、
大坂四天王寺(聖徳太子が開く)から約820年前に伝えられたものが現在も神職によって伝承されています。
左右楽房・左右門客神社は、清盛が神社を建立した時にはまだ存在しておらず、当時は簡単な建物を立てテントで覆うて、
使用していたようです。(是を幄舎(あくしゃ)とも幄(あく)の屋と呼んでいた。
幄屋(あくのや)・幄舎(あくしゃ)・・・・・・五色の布で出来た一種のテントで祭礼日に臨時に張られた  
参考
芸能が演じられる為には「場(舞台)」、「人(演者や見る人)」、「動機(目的)」が必要。
厳島においては、弥山原始林を背景に優美な社殿が海上に浮かび、この上ない「場」の設定がある
また神主や、巫女、楽人、舞人、役者、平家一門、や海上参詣する信仰厚い人々など多くの「人」
がいる。そして人々には神を祀り、一門の栄達や天下安穏・五穀豊穣・息災延命・海路の安全など
さまざまな祈りを捧げる「目的」があった。

ここ厳島には8百年余の伝統を持つ「舞楽」、4百年来演じられている「神能」がある。
厳島神社 舞楽 神能について
舞楽
現存する神社の伝統的芸能の内、厳島神社の舞楽は最も長い歴史を持っている。
清盛の参拝
仁安4年(1167年) 2月 9月。この年は平家納経33巻奉納、太政大臣に昇任する
承安3年(1173年) この年「舞楽面」7面が奉納される
治承元年(1177年)10月。 千層供養行われる(下記に示す)
治承3年(1179年) 1月 6月 
治承4年(1180年) 8月 10月
など、10数回にわたり宮島に参詣している。
清盛の度重なる厳島参詣の中で「舞楽」は招来されたに違いないと思われる。
すなわち厳島神社の招来は記録に表れた、清盛の厳島参詣の永禄元年(1160年)8月から
厳島舞楽の初見とされる承安4年(1174年)3月の間と考える。   みなもとすけかた
 後白河法皇の厳島参詣は承安4年(1174年)3月16日。建春門院・清盛・源質賢など
を伴って、京を出発3月26日に厳島に到着している。
これが後白河法皇の厳島参詣と厳島舞楽の初見とされている。
 「内侍2名が唐装束で舞楽の「五常楽・狛鉾」を舞う。
  前年の承安3年(1173年)には、舞楽面7面が奉納されている。
  いずれも檜の木彫彩色で、大型の薄手で軽く、都の当時一級の彫技によるもの。
  ➀ 二の舞(笑面) 尉(じょう) 平盛国が調達する
  ➁ 二の舞(腫面) 姆(うば)
  ③ 抜頭 尊勝寺の仏師の「行命」・・・平安時代後期に活躍した仏師
  ➃ 納曾利
  ➄ 還城楽 京都 六勝寺の一つ「尊勝寺」の舞楽面を模して厳島に調達
  ➅ 散手
  ➆ 貴徳

治承元年(1177年)10月の千層供養について
11日 清盛一行来島
12日 予行演習
13日 昼より次のように行われた
南廊  66間+仮設の20間=86間 に500人の僧侶
北廊  59間+客神社の拝殿、舞殿(祓殿)、粥座の他
院御所の殿上廊、朝座屋 などに500人の僧侶 を並べた
夜は「万燈会」が行われた。
大鳥居の外、社殿を囲むように東の宮崎と西の西崎から海中に柵を渡し、三尺間隔で上下二段
に松明を結び付け、対岸の浜にも数十町にわたって柵を設けて、五尺間隔で松明を結び付けた
更に千僧の座の後、一間ごとに大松明を立てるという大がかりなものであった。
松明に一斉に火が点じられると、まるで海底に火を敷き詰めたようであった。

当日(13日)は清盛、三位 らの上臈は早朝から参詣し、
左方 36人
右方 37人が「粥座」まで行進する。
内侍(妓女)たちによって「五聖楽(五常楽)、狛鉾」が舞われ、次いで「安摩・二の舞・
万歳楽・延喜楽・太平楽・皇仁・散手・貴徳・陵王・納曾利」の舞楽が奉納された。
15日
帰京の安全を発願する。恒例の一切経会が30人の僧侶によって、恒例の作法と順序で行われる。
この時の舞楽は24曲になるが、今現在12曲が舞われている。
➀ 振舞 ➁ 万歳楽 ③ 延喜楽 ➃ 陵王 ➄ 抜頭 ➅ 狛鉾 ➆ 太平楽
➇ 散手 ⑨ 喜徳  ⑩ 林歌  ⑪ 甘州  ⑫ 納曾利 
以上12曲が八百数十年を経た今日まで伝えられている。
また、曲目だけではなく先導する神宮の名や多くの舞人・楽人の名が書き留められている
(14日の千層供養)
平家一門を中心に神宮・象僧・妓女(内侍)・舞人・楽人を多数動員した「千層供養」「行道会」
「一切経会」が中央社寺の祭礼に勝るとも劣らない盛大な祭儀であった事が知れる。
12名の妓女(内侍)により「五常楽・狛鉾」などの女舞があったことも明らかである。
「春鶯囀(しゅんのうでん)・新鳥蘇・甘州・敷手」の四曲がこの時新たに習った曲であった。
この内「甘州」は、先に妓女による女舞であったが廃れたので改めて男舞として習い留めた。
清盛が帰京した後も「平三殿」は残り、厳島の人達に舞楽を伝授している。
15日の舞楽の内「納曾利」、奉楽の「太鼓」を平家一門の小松少将維盛が勤め、維盛の弟清常
に比定される、平三殿は「陵王・万歳楽・振舞・春鶯囀(しゅんのうでん)・抜頭」など多くの
曲を舞っている。清盛は藤原氏が支援する京都・奈良の舞楽に対抗して、大阪市天王寺の
「天王寺流舞楽」を厳島に移入してのではないかと言われている。
厳島と四天王寺の舞楽の関係は、平家の時代以来続き、今日でも毎年正月二日の「二日祭」と
三日の「元始祭」の舞楽は「天王寺楽所雅亮会(がくそがりょう)」の応援を得て行われている。

廊嘴(したさき)とも言い、平舞台から突き出た部分をいいます。名前の由来は諸説あるようですが、
昔管弦祭の時、御座舟が厳島神社に帰ってくる時に、ここに篝火を焚いて、是を目安に御座舟が入ってきた為とか、
空から見ると回廊がうねうねとまるで「龍」がうねっている様に見え、
その口先(舌先)の様に見えるので、火焼前・廊嘴と言ったと言われている。
参考
表参道商店街を出た所、左右の土産物店に挟まれるように注連柱があります、そこには以下の様に文字が書いてあります。
 かいろうさんようげんりゅうし  かひょうちゅうしんきゅうかくよく
海側には 「廻 廊 蘸 影 現 龍 姿」     山側には 「華 表 柱 深 休 鶴 翼」
蘸(さん)…・・・水中に入れる 水に浸す。  
現・・・あらわす、見えなかったものが見えてくる
 巖国老田塩谷處書、と書いてあるのが解ります
塩谷處・・・周防の出身で幕末・明治前期の儒学者。維新後福岡県の大参事(副・県知事)となる

大鳥居からの距離は「88間」あります
先端には、寛文10年(1670年)の銘のある青銅製の燈篭が、寛政9年(1797年)の築かれた石の台上にある、
左右門客神社の脇には、天明5年(1785年)銘の青銅製燈篭が二基並んでいる。
管弦祭の時にはここから、祖祭神を遷した鳳輦が浜に降りて、大鳥居沖に待っている御座船に乗せます、

平舞台、平らな屋根の無い部分を「平舞台」といいます。神殿造りの場合、前面に祀り事を行う庭があり、その前には池があり、
池には右側から小川が注いでいないといけない、と云う決まりごとがあり、その庭に当たる所は平舞台です、
前の大鳥居までの海を「池」に見立てています(玉御池と云う)。
束石は「赤間石」で毛利元就が寄進したといわれています。元亀2年(1571年)の「元亀の遷宮」に際しての元就の寄進
広さは「187坪」もあり、この平舞台は「束石」の上に載せてあるだけなので、台風などの高潮時には浮き上がり、その後は又元に戻ります。 
束石は全部で218基ありました。
 
平舞台は清盛の頃よりあり、その時は廻廊と同じ朱塗りの高欄が設けてありました.
1177年10月14日の千層供養では大勢の人々が極楽浄土の仮装をして行列を組み境内を歩く
「大行道会(だいどうぎょうえ)」の行事があり、その出発点が「平舞台」であった。

「元亀の遷宮」について
元亀2年(1571年)の本殿を遷宮している。本殿は3度建て替えていると、先に言いましたが、
1207年 本殿焼失8年後に遷宮   1223年 本殿焼失 遷宮は20年かかりました                                                                  
1568年 和知兄弟の謀反
(元就の長男・毛利隆元を毒殺したと言う、疑いのかかった兄弟が12月に本殿に逃げ込み 69年1月に本殿にて自刃する。)
 本殿が「血」で穢れたといい、建て替える。是を「元亀の遷宮」と呼んでいる
1571年 本殿遷宮終わる

この時の遷宮における「お金」は現在世界文化遺産に指定されている「石見銀山」からのものです。
銀の供給を受け(銭に換算して約26万両とも言われています)。
この時の石見銀山奉行は「平佐就之(ひらさなりゆき)」で後に(1584年)銀山の狛犬を寄進している。
この狛犬が大変珍しく、薄い銀の板数枚を繫ぎ合わせて作ってあります、大変小さな狛犬ですが、大きな目をした愛くるしい顔をしています、
切手にもなっています。かつて、神社の廻廊には多額の寄付をした、檀那の名を記した「棟札(寄進札)」が掲げられていました。
主に戦国時代 114枚の棟札が記録されていましたが、その内23枚(約20%)は石見銀山の住人によるものでした。
時は「菊花祭」の時におおく参詣しています。

石見銀山は、当時山口 北九州 遠くは備前辺りまで支配下にあった「大内義興」の武力下にあり、大永6年(1526年)
3月には、筑前博多の豪商「神屋寿貞」によって始められ、鷺銅山(さぎどうざん)の門」とそ銅主「三島清右衛の弟子
や「堀子」たちを連れて入山する。
1533年8月には「神屋寿貞」は南朝鮮から「慶寿」と言う銀吹師(かねふきし)を招き「灰吹精錬(はいふきせいれん)」
と云う新しい技術による精錬法式を伝える。この事により、銀山は目覚しい量産に入る(銀算出の歩留まりが大変高くなった)

灰吹き法による著しい銀の産出情報が伝わると、近隣の武将たちが狙い始めた。
銀山を目指して「大内氏」「尼子氏」が対立、大内氏が滅びると、銀山を巡る抗争は「毛利」「尼子」の熾烈な戦いとなる。
元就が完全占領するまで30年余り、激戦は8回にも及んでいる。

左右門客神社
清盛が厳島神社を造営した当初はありませんでした
鎌倉時代に新設され、室町時代に再々造られたものです。 門(もん)を司る神様で左右にあります。
厳島神社のご祭神をお守りする神様がいる所で、
右門客神社には、櫛磐窓神(くしいわまどのかみ)、 左門客神社には、豊磐窓神(とよいわまどのかみ)がお祀りされています。
中の玉殿は「見世棚構(みせだなかまえ)」の一間社流造(いっけんしゃながれつくり)になっており、
古くは戎社(えびすしゃ)と云う名で呼ばれ、俗に「沖恵比寿」と言っていました。
玉殿を良く見ると、細部にわたり違いが有ります、意匠・木鼻、等々
流れ造り・・・・・屋根の軒の長さが、手前と奥川で違います、手前が長い作りをいいます。
玉殿の屋根は栃葺きとなっています。

屋根の葺き方
杮葺き(こけらぶき)・・・・・・最も薄い板を使用する(2~3ミリ)
木賊葺き(とくさぶき)・・・・・杮葺きよりも厚い板を使用する(4~7ミリ)
橡葺き(とちぶき)・・・・・・・・最も厚い板を使用する(1cm~3cm)、大和葺き(やまと)とも呼ばれるが

大国神社(だいこく)
厳島神社の摂社にあたり、ご祭神は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」がお祀りされています。
時々、おおくに神社という人がいますが、正しくは「だいこく神社」です。
大国主命は、「国造りの神・農業神・商業神・医療神・縁結びの神」です
一段高い幣殿の右側が、昔 「神饌(しんせん)」の仮案所」で御本社裏の御供所から運ばれて来た神饌をここに置き
ここから先は「内侍」が運び本殿にお供えしました。
黒塗りの格子戸がありますが、これにまつわる面白い話があります
一説によると、大黒様は耳が不自由だったので、願掛けをする際には、この格子戸「コト・コト」と動かして、音を立ててから
お願いしないと願が通じないとも言われ、「コト、コト 大国様」とも呼ばれています。
なおこの神社は、「二礼四拍手一礼」となっています、神社本殿は二礼二拍手一礼、です。
四回も拍手を打つのは、お耳が遠いからと言われています。(ちなみに伊勢神宮の神官さんは正式には忍び手の八拍手です)
現在でも、四拍手の神社は、出雲大社(島根県) 弥彦神社(新潟県) 宇佐神宮(大分県)となっています。

長橋(国の重要文化財)
長さ33m、幅3m、橋脚には「赤間石(安山岩)」が使用されている。以前は「平橋(ひらはし)」と呼んでいましたが
明治11年に「長橋」と云う名前になっています。

橋を渡りきったところに、「石柱」があります. よく見ないとわかりませんので注意して見てください。
20センチ四角で高さは約130センチ位の石柱
明治の探検家、「松浦武四郎(1818-1888年)」は天神信仰に篤く、全国の「天神社」25箇所を参拝し、
明治17年10月に「聖跡25拝の石柱」を寄進しています。宮島は20番目です
北海道を命名した人。
以下、武四郎 について、簡単に触れておきます
松浦武四郎(1818-1888) 江戸時代の探検家 70歳没
三重県出身、 28歳の時に蝦夷地(えぞち)と呼ばれていた、
今の北海道に初めて渡る

アイヌ民族と寝食を共にし、協力してもらいながら13年間で6回の旅をし、
従来よりも詳しい地図や記録を残した。

明治の時代になり、蝦夷地の名を変える際に、
政府の役人となっていた「武四郎」が、
「北加伊道(ほっかいどう)」と言う名前から、
現在の「北海道」に決まる(1869年明治2年、8月15日)
「武四郎」はアイヌ民族の長老から、
「ここに生まれた人を、カイ、と呼ぶ」と教わり
「北にアイヌの人々が暮らす大地」の意味を込めて命名した。
アイヌ民族との親交がうかがえる。

札幌、富良野、など現在179ある市町村名の約8割が、
アイヌ語が由来になっているそうだ。
2018年は150年目の節目になる。2020年の東京オリンピックの年には
南部白老町(しらおい)にアイヌ文化の発信拠点となる

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