限りある日々の記録

70代の生を前向きに生きて

子らに自治能力を!未来の主権者だもの

2017-12-26 15:31:04 | 日記

 現在 子どもの兄弟は少ない、昭和30年代は 子どもの名前も「止治」「止子」と貧しいけど子沢山の家庭が多かった。今は一人っ子が多い、靴がなくハダシで運動する子を見て、同級生が砂利道でおんぶをしてあげる優しさ、人間関係も豊かだったようです。

 私が担任していた2年生が、家で鉛筆のサックを寝転びながらの姿勢からか 飲み込んで 空気が気管に行かず顔がはれ苦しんでいた時、母親がおたおた、そして学級委員に相談 費用は後で考えればと病院 今から50年前のこと、サックを粉々にして気道を確保 肺に行ったサックの粉を取り出す作業 費用が掛かりクラスでカンパ 貧しい家庭からのカンパが多かったのです。人間としての共感が豊かだったようです。

 半世紀前 2年生のクラスにメンコがはやりました。1年に入学したべべ君は4月1日生まれ 「なんで僕の名前知っているの」と不思議そうに私の顔をみつめました。胸の名札があるのに 「先生あのね」の文でも50音を学習したのに なかなか文が書けません。初めての文は「いかされた いかされた いかされた」とメンコでの本面での悔しさを書いていました。そして 「いかした いかした いかした うれしい」と 書いてきました。こんなメンコを休み時間学校では禁止にと職員会議で決まりました。子等に話すと 「禁止したら道路でやったり 電車通学の子はホ-ムでやるよ。」「先生 どうしてあやとりはいいの」「先生 山先生は休み時間に編み物をしてたよ」と 私は 始業前 教室を「ひらけごま」にし中央にひろば そこで授業開始までめんこをやることにしたのです。男女での本面でした。

 学期末メンコ大会をした時のことです。おとなしい石君が箱にぎっしり詰まったメンコを「これからまくよ。欲しい人はどうぞ」と いかしたメンコをばらまいてみんなに返したのです。今はどうでしょう。あるお母さんから「先生 家に遊びに来た子は 4隅でめいめいゲ-ムで会話もないのですよ」とずいぶん変化しましたね。

 1年生の宿題に「友だちの家を覚えよう」と友達の足の速さについていけないべべ君 追いていかれてはいけないと、オシッコがまん 川君ちへ行く途中もらしてしまったのです。川君ちのおばあちゃんにさっぱりとさせてもらいました。翌日 給食の時間に 高君が 「あのね、べべ」と言った瞬間 「おい それ以上言ったらしょうちしないぞ」と川君の声で 学級は温かさを取り戻しました。

 何年かたち 石君の結婚式に私は招待されたのです。私はメンコ大会の事を思い出しました。「メンコ大会ででいかしたメンコを みんなにかえした石君 企業も 利益追求だけでなく 社会に貢献してくれたらうれしいな」と 少子化対策は、子等に自治の能力を養う前に 共感する優しさ ケンカをしたり問題をおこしながらも自治の力が育っていくことではないでしょうか?無事故 問題を越さず 管理強化の中でいじめが起きているのではないでしょうか?「勤評は戦争への一里塚」と勤評反対に立ちあがった若き頃を思い出します。クラスに万引きがあっても勤務評価を気にして語らず同学年の問題になったりしません教師の勤務軽減と言うけれどもっと自由を 子等も教師も自治能力で要求を出していきたいものです。

 

 


子どもらに笑顔を!すこやかに育てるって!

2017-12-19 16:06:53 | 日記

 老いて 右ひざが痛い、そこでノルデックの講習会に出かけた。多摩川べりの野球場での講習会で、紅葉の大木を眺めなんだか解放されたような気がした。両手を使い前を向いて姿勢よく歩くのは楽しいものでした。又自由に付近を散歩するのです。80代の私の歩みに合わせて連れの方と会話をしながらのノルデックは、老いを忘れ付近の変化に視野が行き楽しいものでした。

 近くの野外市民プ-ルがきれいに掃除されて 子ども達とプ-ルを利用したことが思い出されます。20数年前 2年生を担任していた時のことです。夏の暑い時に学校のプ-ル工事で使用できません。学校から市民プ-ルまで歩いて30分ぐらいです。市に交渉して無料で利用させてもらいました。連絡帳には「工事でプ-ルが使えないので市民プ-ルを利用します。父母の方の参加も自由ですが 父母の方は無料ではありません。どうぞ時間のある方はどうぞ」と 書いてもらい出かけることにしたのです。学校中の生徒がうらやましそうに眺めていました。災害用のビスケットを給食室からもらって帰りのおやつです。広々としたプ-ルで親の参加もあり私も自由に泳ぎ楽しい時間を過ごしました。

 教師が自由に計画を練り行事が行われた裁量権がありました。高校の修学旅行で女子学生が旅館のお風呂に水着を着たまま入り家に帰された話を聞きました。学区域のお風呂屋さんが解放してくれるのをいいことに1年生2クラスを連れて出かけました。「ねえ 私達教師はウエストがないみたい 若い養護の先生を誘ったら」の言葉で 若い先生を誘ったのですが断られてしまいました。でも男女で混浴 公衆道徳を教えたり体の違いに気づいたりの楽しい会になりました。

 水曜日の午後は有志による学級での父母による読書会が行われました。あるお母さんが持って来た本はイギリスでの新婚旅行で買ってきた本でした。「僕たちはどこから生まれたの」絵本で  お母さんの問いかけで 「川で拾ってきたの」「お父さんのきんこ」等口々に発表する子ら 教師主導でないせいか延び延びと発表していました.性教育も小さい頃から男女いっしょにおこなわれるのはいいことですね。女子だけの生理の話で済ませていた時代より進歩したのですね。長い人生でも 出産には適齢期があることも 教えたいですね。

 子らにも 生活習慣病があることも テレビを見るときの姿勢が視力の偏りを生んだり 補聴器が聴力を弱めたり 便利さで歩くことよりバス利用で脚力を失うことも もめごとを通して子らが育つことも 子ども同士の共感力を!

 父母と教師が地域が子供達の笑顔を作っていくのですね。そのためにも教師に こどもらにも 自由を!いじめをなくすために管理でなく教師の裁量権も!

 


三宅の友を偲んで-優しさ-排除しない-共生

2017-12-07 09:06:33 | 日記

三宅の友Nさんの旅たちて哀しみでいっぱいです。 でも そばにいるようです。

Nさんと出会ったのは半世紀も前でしょうか?三宅島で育ち家庭科中学教師として調布に赴任してきたのです。サ-クルで出会いました。

 「いい人いないかな。」と言われて「いるよ。二人 一人は背が低いが生き方が良い人 もう一人は音楽の先生でかっこはいいよ。」と言えばNさんは生き方のいい人を選んだのです。Hさんは、体育の教師 背は低いので中学生の中にいると見失うことがあります。身体からの威圧感がなく 生徒が からかっても 聞き流し体育の実技で見本とユ-モアを教えてくれていたのです。

 見合いの日 女子高育ちのNさんは、男性との会話ではすぐ固くなり 話が進まないのに気楽に話ができたと知らせてきたのです。翌日 速達で「交際したい」とHさんの手紙 Nさんからは、「好きとか書いてないから どうなの?」と 心配顔 翌日の速達ガ「好き」を証明しているのに焦っていたのです。数か月後 のみ夫婦の二人はめでたく結婚したのです。結婚式場で Nさんは鬘の日本髪が重いと 低い履物で 夫は高い履物 でも 宴が始まりました。婿さんも活動している体育同志会のメンバ-達の参加 それぞれの祝いの言葉 そのあと 嫁さんより小さいHさんの民謡の声が朗々と式場いっぱいに広がったのです。三宅島の嫁さんの父親が「娘はえらい 背は小さいがHを選んだことは大変えらい。」と式場で話されたのです。表面的な婿選びの中で 娘の選択を喜んだ父親の言葉が印象的でした。

 Nさんは同僚の保健担当教師の0才の保育園児が1歳過ぎても歩かないからと 保育園退園をせめられていたのです。0才児6人に担任Ⅰ人 保母は手がかかる子の退園を迫っていたのです。私の娘も同じクラスでしたから、「あなたは同じクラスなのに力を貸してあげないのか」と怒りの電話をかけてきたのです。「成長の遅い子がいたら災難のとき大変」排除の考えでした。クラスの6人の保護者達と納涼市民の相談のゆうべに行き保母の増員を陳情したのです。「入れただけでもありがたく思え」が市の答えでした。美濃部都政ができ保母の定員増がやっと実現したのです。弱者を排除するのでなく「この子らが世の光に」の言葉 誰でも老いれば障碍者 弱きものが生きていける社会こそ平和な社会と言えるのでしょう。

 三宅島には何回も行きましたが、半世紀前の訪問で驚いたのはた、牛乳のおいしさでした。丘の上で放牧された牛の乳の濃度は濃く甘いものでした。調布でも生まれたばかりの牛を三宅で育ててもらっていたそうです。三宅のNさんの母親のチヨばあちゃんがスイカを抱えて丘をどんどん登る体力にびっくりしました。30代の私はやっと上るのです。自給自足の島は有線放送で「○○牛が死んだ」と肉の欲しい人に知らせていました。雨水の使用 とれたての魚 海でのトコブシと自然の贈り物で共生でした。

 夜の星は手でつかめそう 浜辺の窪地に温泉がわきでています。照明のない星明りでスッポンポンになって温泉を楽しんだのです。若者の旅人が恥ずかしげにもじもじしていると チヨばあちゃんが「さっさとはいれ」と声をかけ 若き男たちも入り、自己紹介 みんなで輪になってチヨばあちゃんの民謡を聞いたのです。素のままになる島の自然と人達でした。

 三宅噴火で避難してきたチヨちゃんは「東京は刑務所 つまらない 三宅ならトコブシ取りに行くべや 天草取りに行くべやと声がかかるのに」と1日も早く帰ることを望んでいました。

 三宅島に軍事基地をと言われた時 チヨちゃんたちは村を挙げて反対したのです。安保と言うのは安全のためにと言うけど 憲法9条の上に安保条約があるみたい。三宅の人の生活や自治などお構いなし 適地とは 自然豊かな島で爆音をまき散らす適地ではない。

 三宅の自然と同じように沖縄の自然 人情の島を壊そうと辺野古基地を計画している安倍政権 沖縄の人たちの反対をつぶそうとする国家権力 でも 沖縄の自然を守ろうとする「さらばんじの会」退職したおじん おばんが普天間基地ゲ-トでピケをはっているのです。未来の子らのために 平和のために「いまが旬」と子育てを終え 時間が自由な年寄りが「新設基地反対」と 戦っているのです

 近くの公民館で「自分史の会」が行われ90代の方の「なんだか昔に帰っていくみたい。戦争は絶対だめ」の従軍看護婦の体験を聞きました。ここにも「今が旬」と生きている人がいるのですね。