現在 子どもの兄弟は少ない、昭和30年代は 子どもの名前も「止治」「止子」と貧しいけど子沢山の家庭が多かった。今は一人っ子が多い、靴がなくハダシで運動する子を見て、同級生が砂利道でおんぶをしてあげる優しさ、人間関係も豊かだったようです。
私が担任していた2年生が、家で鉛筆のサックを寝転びながらの姿勢からか 飲み込んで 空気が気管に行かず顔がはれ苦しんでいた時、母親がおたおた、そして学級委員に相談 費用は後で考えればと病院 今から50年前のこと、サックを粉々にして気道を確保 肺に行ったサックの粉を取り出す作業 費用が掛かりクラスでカンパ 貧しい家庭からのカンパが多かったのです。人間としての共感が豊かだったようです。
半世紀前 2年生のクラスにメンコがはやりました。1年に入学したべべ君は4月1日生まれ 「なんで僕の名前知っているの」と不思議そうに私の顔をみつめました。胸の名札があるのに 「先生あのね」の文でも50音を学習したのに なかなか文が書けません。初めての文は「いかされた いかされた いかされた」とメンコでの本面での悔しさを書いていました。そして 「いかした いかした いかした うれしい」と 書いてきました。こんなメンコを休み時間学校では禁止にと職員会議で決まりました。子等に話すと 「禁止したら道路でやったり 電車通学の子はホ-ムでやるよ。」「先生 どうしてあやとりはいいの」「先生 山先生は休み時間に編み物をしてたよ」と 私は 始業前 教室を「ひらけごま」にし中央にひろば そこで授業開始までめんこをやることにしたのです。男女での本面でした。
学期末メンコ大会をした時のことです。おとなしい石君が箱にぎっしり詰まったメンコを「これからまくよ。欲しい人はどうぞ」と いかしたメンコをばらまいてみんなに返したのです。今はどうでしょう。あるお母さんから「先生 家に遊びに来た子は 4隅でめいめいゲ-ムで会話もないのですよ」とずいぶん変化しましたね。
1年生の宿題に「友だちの家を覚えよう」と友達の足の速さについていけないべべ君 追いていかれてはいけないと、オシッコがまん 川君ちへ行く途中もらしてしまったのです。川君ちのおばあちゃんにさっぱりとさせてもらいました。翌日 給食の時間に 高君が 「あのね、べべ」と言った瞬間 「おい それ以上言ったらしょうちしないぞ」と川君の声で 学級は温かさを取り戻しました。
何年かたち 石君の結婚式に私は招待されたのです。私はメンコ大会の事を思い出しました。「メンコ大会ででいかしたメンコを みんなにかえした石君 企業も 利益追求だけでなく 社会に貢献してくれたらうれしいな」と 少子化対策は、子等に自治の能力を養う前に 共感する優しさ ケンカをしたり問題をおこしながらも自治の力が育っていくことではないでしょうか?無事故 問題を越さず 管理強化の中でいじめが起きているのではないでしょうか?「勤評は戦争への一里塚」と勤評反対に立ちあがった若き頃を思い出します。クラスに万引きがあっても勤務評価を気にして語らず同学年の問題になったりしません.教師の勤務軽減と言うけれどもっと自由を 子等も教師も自治能力で要求を出していきたいものです。