不登校の高校3年生がいる。離婚しての母への想いからか?
私が思い出すのは、中学3年 昭和23年(旧制師範の予科1年)疎開先の母の実家から川口の父の家に 小学3年から7年近く別居した父との同居です。
私が4歳の時 母は八人の子を残して死去 長女19歳(父に勘当されての結婚) 次女18歳 長男16歳 次兄14歳 3男9歳 4男7歳 5男6歳 3女4歳 母は死にきれないと言っていたそうです。父は、油屋の四郎と呼ばれ、石油ランプの時代の油屋の次男でした。時代の流れに八百屋 荒物問屋 浅草にデパ-トガできると家業がすたれ水商売の喫茶店 玉突き 結構繁盛したのですが、店の常連のテキヤノ親分の息子と看板娘の長女の妊娠 成績もトップの自慢の娘 母は、父になぜ早く気がつかなかったと責められたそうです。娘の不始末 子沢山 等心労が重なり42歳で世を去りました。
四〇代の父は喫茶店経営の店の女給を後妻に迎えたのです。長男の兄が 若い後妻との生活は無理と資産家の叔父を頼って兄弟だけの生活 しかし 叔父の妾が精神を病み4人の子の世話ができず 母代りの姉に叔父が頼みに来たのです。妾の実母さえ断った世話は大変で断り、兄弟だけでの生活 兄の出征 母の実家に居候疎開 終戦 二人の兄の戦死 「聖戦と言われ異国に果てし兄」を偲び 何を信じていいのか呆然とした高等科(中学2年)でした。官費の師範予科に入学 父との同居が始まったのです。
敗戦後で父の金物店が繁盛したのですが、知らずに買った盗品で父は拘束され、共同経営者から店を奪われ、後妻は家の前の若い男と関係を持ち離婚 父は 酒で不満を解消し 時には 後妻の家に怒鳴り込み警察沙汰になったりの日々でした。私は7年近く別居からの同居です。周囲から「子どもより女」と父の悪口を聞かされて育った生意気盛りの私はよく父とぶつかりました。
父の学費援助を拒み 新聞広告の「給仕求む。成績表持参のこと」を見て東京の八重洲口の会社に学生を偽り応募したのです。月給700円 そこで 電話交換 敬語の使い方 自転車乗りを覚え 近郊での配達等多くの事を学びました。父との生活で学業をさぼり成績は最下位 入学時はトップだったのに ピタゴラスの定理もチンプンカン 戦死した兄の講義録を見て復習したのです。頼るべき人がいないと自覚して自立すべく考えたのです。父を恨んでいたけれど父には父の悲しみが 相手の立場に立って考えず今は不孝を詫びている日々です。自分は一番恵まれていないなんて視野が狭いですね。
先日「世界の子どもたちは、いま」という花木 陽子氏(エチオピア未来の子ども理事)の講演を聞きました。
日本でも6人に1人が貧困 母子家庭の6割 世界では 水 トイレに恵まれず 子どもの出生届を出されない子が3億人 児童労働 人身売買 早婚 売春 徴兵 大人の2分の1の低賃金で生活の4分の1を支え 学校にいけない子7億5千万そのうち3分の2が女性 ストリ-トチュウドレンが1億人 不登校 物乞い ごみの山 犯罪 援助のステッカ-も文字が読めないそうです。女子の差別男子に比べて学校に行かせない 割礼 レイプ等 いま世界の子どもたちは学校に行けること 平和を望んでいる現状が話されました。
視野を広げて 学べる喜びを生かしてほしいです。18歳の選挙権を世界の子どもも 日本の子どもも共に幸せになるように学んでほしいと思います。不登校になってもいつでも学びは再開できます。20歳になって通信教育で高卒の資格を取り職業選択の幅を広げた人もいます。求めることは寂しい 与えることは豊か クレナイ族から未来に向かって生きてほしいと思います。
志願した兄の戦死も父のせいと責めた私 聖戦という戦争に駆り立てる教育の流れがあったのです。 最愛の我が子をどうして戦死させる親がいるでしょうか?私は今とても後悔しています。父には父の生活があったのに自分本位に考えていたことが