40数年ぶりに息子の暮らす三宅村へ出かけた。8月25日夜10時半出港の橘丸に乗り、台風がやっと治まったせいか 26日朝5時 錆が浜に着く時の揺れはひどかった。三宅島は 東京から南に180キロ 面積58㎢ 周囲35Kメ-トル 最近では、昭和15年 37年 そして58年10月の噴火 で島民の全島避難が行われ 現在島民人口は2788人 1790戸平成26年度
思い出すのは 初めて訪れた時 三七山付近の浜辺のお椀状の穴が 夕方に温泉になり 満点の星 真っ暗な夜 チヨばあちゃん誘われて行き 星の光を頼りに スッポンポンになって入浴したのです。都会からの若者に
「おめえらのも入れ」とチヨちゃんの誘いで みんな輪になって 心ものびやかにスッポンポン 自己紹介 チヨちゃんの民謡でゆったりとすごしたのです。 また 有線放送が入り、牛肉欲しい人は来てと、地産池消で米以外は、自給自足の生活でした。山で放牧された牛たち おいしい牛乳が思い出されます。都会の牛を預かり自然の中で成長まで育てる牧場もありましたが 今は2000年の噴火の噴石や火山灰で壊された牛舎と、サイロの建物が残っているだけでした。
六〇代のチヨちゃんがスイカを軽々と抱え坂道を登っていく姿に三〇代の私は追いつくのがやっとでした。避難で調布に来ていたチヨちゃんは
「早く 島に帰りたい 都会の暮らしは牢獄だ。島ならばトコブシ取りに誘い合い 畑仕事で作物を分け合い 人情あつく声をかけあう生活がしたい」と嘆いていたのも思い出されます。
26日は付近を散歩 「ドキュメント三宅島」の本を読みました。基地反対闘争に戦った島民 チヨちゃんも富貴神社でお百度参り婦人たちをまとめ戦った様子が書かれていました。
安保は、安全のためというが憲法の上に安保があるみたい。三宅の人の生活や自治にお構いなしに適地とは?鳥や自然豊かな適地を 爆音をまき散らす適地に変えようとは! 雑誌世界に掲載されていた記事を思い出しました。
今 沖縄の辺野古でも行われようとしているのですね。午後 村の子等が 2日前に帰ったことを知らず 息子の子を誘いに来ました。素直なやさしい子たちで「三宅に来てくれるといい。」と 伝えてと言っていました。
都会の子の中には 夏休み塾で年間120万円かけて受験勉強をしている子がいるのです。子供時代の自然と友達同士の遊びは大切なのに!おいしい魚や野菜 スイカ等を届けてくれる人情あつい村人たち どこでも挨拶を掛け合うのです。
夕方 溶岩で作り出された景勝地で夕日を眺めたのです。
27日はバスを利用大路池 (三宅の南部にある約2500年前の火山活動によってできたと言われる火山湖で伊豆諸島最大の湖)一周1、6キロメ-トルを歩き樹齢600年の迷子椎の御神木を見,日本一と言われる野鳥のさえずりを聞きながら歩きました。
自然ふれあいセンタ- アカコッコ館で自然情報を学びました。噴石 30度の火砕流 雪景色 ガス発生 噴火記録のビデオを見 自然災害と共に生きていることを実感しました。帰りは、ふるさとの湯につかり海を眺めました。女子の露天風呂は目隠しがあり景色が見えず残念でした。
28日は全島を息子の案内で一周しました。資料館には図書館があり、島の歴史や現代の新書もあり、学習室には、パソコンもあり、のんびりと読書で過ごすのもいいですね。83年噴火で埋没した学校を見学 七島展望台 噴火被害を受けた牛舎 1983年水蒸気爆発で消滅した新澪池跡 鳥居 大路池 坪田(長太郎池) 三宅空港 三池浜 我が土地 サタド-岬灯台 1962年 火口三七山から ひょうたん山 御笏神社 浅沼稲次郎生家 富賀神社 とめぐりました。
噴火後 帰島するには家の修理に費用がかるが、故郷に帰りたい島民の願い 自然災害に公費で共助の負担があればと いつ どこで自然災害が起こるかわからない日本です。
地震の予想もあり 原発が収束していないのに川内原発作動は中止すべきです。原発で奪われた故郷 帰りたくても帰れず 家族 地域ががバラバラ 内部被爆 人とのつながり 地域の再生のめどもついていないのです。
政党助成金一人当たり年間4687万円を 災害復興日に当て 軍事予算が増加 一方で子育て支援が半減され、積極的平和の名のもとに民意に逆らい戦争法案を押し通そうとする阿部政策が許せません。豊かな三宅島 沖縄の自然こそ宝です。人間が自然の一部であり共に生きていることを実感させられる旅でした。>