泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

いじめとひきこもりの人類史

2020-12-31 16:53:03 | 読書
 いじめとひきこもりはいつ、なぜ発生したのか、壮大な人類史の中で考察し、コロナ禍によってどう影響しているかまで論じられています。
「銃・病原菌・鉄」にあったように、やはり定住が大きな転換点。食料を備蓄することで、配給の序列や敵が生まれた。また大集団となることで仲間を認識する脳の容量を越えてしまった。人は150人が限度なのだそうです。
 日本猿でも、餌付けをすると明確な序列ができるそうです。人が餌をあげなければ、自然の猿にボスはできない。
 食料分配をいかに平等に、差別なく行えるか。だからこれがいじめやひきこもりの解消の鍵とも言えます。
 いじめとひきこもりは密接に関連しています。そこには、あらゆる発達障害も絡んでいます。
 人が集団で暮らし、何某かの理想を共有するとき、排除は必然的に生ずる。
 古代ならば、山人になれた。山で暮らし、獲った魚や肉を、里との境界に置いておけば、里の人が米を置いていった。
 この「置き配」というシステム、コロナ禍で再現されましたね。ひきこもりの人の食料調達方法もこれです。
 だから著者はいう。「ひきこもり」と「巣ごもり」のどこが違うのか、と。
 外に出なくても働けることは証明された。かつ推奨されもしている。
 もっと前から自室を拠点とする人たちにも、活躍の機会は与えられたのではないか、と。
 世界中を飛行機で飛び回ることが人類にとって良いことばかりではなかったことも明らかになった。
 人と人との接触を避けること。それが得意でなかった人たちは、なんだ今更、とも思うでしょう。
 コミュニケーション能力って、いったい何だったのでしょう?
 今まで通りに人と接触できないことでストレスを増やす人もいます。
 価値観が、否が応でも変化しているのは確かです。
 日本の精神史を作る、西行、親鸞、松尾芭蕉、良寛、鴨長明、吉田兼好など、みな放浪者。放浪できなければこもった。
 どうして今でも読まれているのか。日本人は、そもそもひきこもりと親和性があるのではないのか。
 玄関で靴を脱ぐという習慣だけでも西欧とは随分異なります。そのことが、コロナの被害を減らしている一面もあるのでしょう。
 みな同じ会社に出勤しなくてもいい。そうなった今、当然多様性が伸びると思います。
 多様であった方が生き延びることができる。津波てんでんこ(津波が来たらそれぞればらばらに逃げろ。銘々が銘々の命を守れ、という言い伝え)と同じで。
 不安が強すぎるなら緩和する食品もあるということで、CBD(カンナビジオール)も紹介されています。
 私は初耳でしたが、薬とは違って副作用もなく、強すぎる不安を抑えることができるそうです。
 それぞれの人の安全な居場所が少なくなっているのなら、それは価値観の「総合的・俯瞰的」合一が無理強いされているから。
 イエスマンが利権を食い荒らす構図は、一つのシステムが終わろうとしてるとき。居座ることが目的と化した人たちに、今苦しんでいる人たちは見えない。
 ひきこもる人たちは苦しんで反対している。大きな面をした価値観に。
 それらはもうぼろぼろ剥がれ落ちてきている。
 できないことを数えるのは止めて、できることを一つずつ積み重ねていく。
 ひきこもりとそうでない人、どちらが正しいとかいうこともない。昔からその2種はあって、共存し、沈黙交易を続けてきた。
 それがわかっただけでも、私はずいぶんと腑に落ちました。
 西欧の魔女や魔法なども、日本の山の人たちに対応するのでしょう。
 ゲームやコミックやライトノベルでは、魔法や異世界やホラーに満ちている。向こうへの憧れは、こちらの居心地の悪さに比例している。
 補い合う関係だということ。
 ちなみに自閉傾向のある人たちは、ものや動植物への関心、あるいは愛に溢れている。人へは向かない代わりに。
 それはやはり、人類が大自然で生きるために必要な人たちなのだと納得しました。
 有益な突然変異種をいち早く発見したり、現代でも鉄道や車の保守点検など、大いに活躍できるでしょうから。

 正高信男 著/新潮新書/2020

 

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