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泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

マーラー 交響曲第2番 「復活」

2007-01-22 11:06:24 | 音楽
 「復活」。このモチーフにはキリストが深く関わっているのは確かですが、なにも復活するのはキリストだけではない。
 きまじめに、楽しそうに、流れるように、荘厳に、荒々しく復活するのは、自分にとって大切な人々。友人であり、恋人であり、先生であり、家族。また、それは傷ついていた自分自身かもしれない。
 思い出に浸り、惜別を悲しみ、不条理に怒りすらする。でも、大切な人々は、私が必要とするとき、舞い戻ってきます。私が一人でさびしかったとき、夢の中で小さいころの友人が、毎晩のように訪れ、遊んでくれました。
 この曲を書いたときのマーラーは、師匠を失った悲しみに暮れていました。そんな彼の胸に去来したのは、師匠とともに励んだ音楽であり、数々の二人の時間でしょう。長い交響曲が終わるとき、喪の時間も終わる。大切な人は、大切にした人の心に、その人の一部として復活する。そして、生き続ける。
 「復活」を聴き、あなたには誰が蘇るのでしょうか。

小澤征爾指揮/サイトウ・キネン・オーケストラ
 
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ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」

2007-01-11 01:12:09 | 音楽
 30にして、立つのですが、実際そうなって欲しいのですが、初めて「第九」を全て聴きました。
 あの有名すぎる部分、タンタータンタータンタータンタータンタータンターターンタター・・、は、第四楽章の最終部分に少ししか出てこない事実は、新鮮な発見でした。しかもそこは、シラー作詩の「歓喜に寄す」を引用しているのでした。何も知らないで、メロディーだけ聴いたことのある日本人はたくさんいるでしょう。でも、その真意は、ほとんど省みられていない。以前の私がまさにそうでした。
 そこでは、「神」と「歓喜」が、ほぼ同じ意味で用いられている。ベートーヴェンにとって、神と一体になることが、歓喜であった経験が反映されているのは確かでしょう。それでも、「神」を身近に感じられない私たちにも、この曲、歌は、振るい上がらせるほどの力を持っている。そうさせるのはなんでしょう?
 今、ふと想像してしまったのが、「プロジェクトX」。一つの仕事を、名もなき人々が一致協力し、成し遂げる物語。そこには「歓喜」があるでしょう。個人でも、内に秘めた目的が達せられたとき、その胸には「第九」が流れるでしょう。
 古典が生きているのは、未だに私たちに生きて働く芸術の作用が有効だからです。年末に「第九」が、日本で流行っているのも頷ける。私たちが、無事に一年を過ごせただけでも、十分に喜ばしいことなのですから。
 しかし、正直に言って、私にはまだこの「歓喜」が、十分にはわからない。苦しいことの方が、圧倒的に多い。この曲もまたしかりです。「喜びの歌」らしき部分は、実にほんの少ししかないのですから。でもその「歓喜」は、それまでの苦悩に報いるだけの、まさに歓喜を歌っている。聴くものは、己の物語に涙するのです。
 私も含めた、地球上に生きる人々に、幸多からんことを。そしてそれが、「たなぼた」ではなく、自らの努力で得たものであることを、心から願います。ベートーヴェンも、こんな気持ちで作曲したのでしょうか。

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮/ザールブリュッケン放送交響楽団
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ラフマニノフ  ピアノ協奏曲 第2番

2006-12-21 23:32:18 | 音楽
 聴けば聴くほど、そのよさが伝わってくる曲です。
 何度か聴いていて、ふと思い浮かんだのが、五木寛之の『大河の一滴』、そしてポール・ギャリコの『雪のひとひら』。前者は、一人の人間を大河の一滴と見立て、後者は雪のひとひらの顛末の物語ですが、やはりそこには人間が投影されている。
 寒い、ロシアのツンドラ地帯。そこで人知れずきらめくダイヤモンドダスト。湯気を上げながら流れる大河。そこに注ぎ込む小川のせせらぎ。急勾配を砕け散りながら落下する水滴。そんな悠々とした流れを、私はこの曲に触れているとイメージします。そして喚起される感情が、とても温かい。寒い、厳しい土地なのに。
 水の一粒一粒が、ただ孤立し、抗いようもなく、文句を垂れ流しながら押し流されていくのでは決してない。そこにはなにか、大きな意味があり、行き着く所々での出会いをいとおしんでいるかのようです。僕らは、誰一人漏れることなく、流れている。大きな大きな、人知の及ばない生命の河を。
 音楽、とくに交響曲や協奏曲を聴いていると、小説と似たものを感じます。現に今の私の最高の喜びは、音楽を聴きながら小説を読むことです。それは喜びでもあり、滋養強壮でもあり、私という感覚を回復する最良の方法です。似たようなものとは、物語なのではないでしょうか。物語とは、人と人をつなげ、個人の中でも、過去と今を、私の中の他人と私を、つなぐ糸のようなものです。届きたくても届かなかった糸と糸が手を取り合ったとき、逆にこんがらがって、いらいらや恐怖の元凶だった糸たちが解けたとき、無常の喜びと安心を感ずる。私は生きていていいんだと、改めて思う。私が更新される。
 もっと言ってしまえば、音楽と文学は一体なのかもしれません。
 ラフマニノフは難解とばかり思っていましたが、ぜんぜんそんなことはなかった。とても繊細で、優しく、その心は宇宙のように大きい。ときに激しく、ときに静寂で、孤独と戯れが交差している。
 冬にはぴったりの一曲です。

 付け加えます。
 この曲は、ラフマニノフが、重いうつ病から解放されて、治療者の医師に捧げた曲だそうです。
 胸を打たないわけがありませんね。

クラウディオ・アバド指揮/リーリャ・ジルベルシュテイン/ベルリンフィルハーモニー
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風に吹かれて

2006-12-06 01:09:18 | 音楽
 ここ何週間か、はまっている歌です。
 新垣勉さんが歌っています。今も傍らで。何度も何度も繰り返し。
 歌が、声が、その心が素晴らしいのは言うまでもありませんが、歌詞がいいので、ここに原文を載せたいと思います。作詞・作曲は、BOB DYLAN です。かなり古い歌なのかもしれません。
 新垣さんの歌を聴きたくて、このCD「命(ぬち)どぅ宝」を買ったことで、BOB DYRAN を知り、次には彼のCDを買おうと思っている。これも縁なのでしょうか。僕はこうやって、本やCDを買ってきました。おもしろいですね。
 ということで、歌詞です。

BLOWIN' IN THE WIND

How many roads must a man walk down
Before they call him a man
How many seas must a white dove sail
Before she sleeps in tha sand
How many times must the cannonbolls fly
Before they're forever banned

The answer,my friend is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

How many years must a mountain exist
Before it is washed to the sea
How many years can some people exist
Before they're allowed to be free
How many times can a man turn his head
And pretend that he just doesn't see

The answer,my friend is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

How many times must a man look up
Before he can see the sky
How many ears must one man have
Before he can hear people cry
How many deaths will it take
Till he knows
That too many people have died

The answer,my friend is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

 書き写してみて、口ずさんでみて、よくわかるのですが、見事な韻を踏んでいます。
 人間の犯すこと、愚かなこと、成熟について、「答えは吹き渡る風の中にある」と、聴く者に語りかけています。簡単そうな因果律や犯人探しに行かないところが好きです。それでいて許してはいけないものを批判しているし、優しく友を励ましている。
 ほんとに、僕はどれだけ歩けば一人前と言われるようになるのでしょう。生きている間、これでいいという姿にはなれないのかもしれません。認めがたいことも起こってしまう。僕にできることは、聴くことであり、書くことです。そうやってささやかに、世界の中で、自分を生きていくしかありません。時に批判し、時に励まして。あるいは時に、歌いながら。

新垣勉歌/「命どぅ宝」より
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マーラー 交響曲第一番「巨人」

2006-11-23 01:27:23 | 音楽
 音楽カテゴリーを新たに作ります。
 ある人の影響が強いのですが、前から音楽は大好きでした。いつから好きになったのかはわかりません。気づいたら、毎日のように音楽と接するようになっていた。
 今までのお気に入りを、思いつくままに挙げてみます。作曲家ではモーツァルト、バッハ、ドビュッシー、ピアニストはフジコ・へミング、小原孝、シュピルマン、バイオリニストは川井郁子、歌手は新垣勉、サラ・ブライトマン、シンガーソングライターはさだ・まさし、中島みゆき、井上陽水、ジュエル、槙原敬之、その他その他。
 音楽の力って何なんでしょう? 疲れているときほど、身に染みて、元気を与えてくれます。またある時期、その歌や曲がテーマソングのようになって、繰り返し繰り返し聴き、歌いたくなるものがあります。それらは深く体に(決して頭ではない)刻まれて、私のリズムになっていくようです。刺激される感情が、まとまり、水が蒸発するように、空へ立ち上がっていくかのようです。そして私は、生きる活力を確かに得ている。
 今、はまっているのがマーラーの交響曲第一番「巨人」です。副題のようなものとして、「さすらう若人の歌」と書いてあるCDもあります。この曲は、実に感情の起伏が表されています。若人特有の高揚、緊張、憂い、悲しみ、迷い、絶頂など。カッコウが、最初から最後まで登場するのが印象的で、これは主体の目覚めを象徴しているのではと感じます。また颯爽と闊歩する様を思い浮かばせるフレーズが、聴く者を勇気付けます。
 全体として、若者の歩みの表現のように聴こえます。特に第四楽章は、激しくうねっています。一種の危機のようでもあり、ひらめきのようでもあり。フィニッシュが感動的なのは、それまでの紆余曲折があるからでしょう。一人の若い人間が、社会の現実にぶつかり、しょげ返り、でも仲間に励まされ、ともに遊び、語り、愛し愛され、ときに孤独に浸りながら、最終的にはこれで生きていくんだ!という強い意志に辿り着くプロセスを感じる。
 でも、それがなぜ「巨人」なのでしょう? マーラーは、背後にどんな思想を描いていたのでしょう? それはもっと聴き続け、私が生きてみないとわからない。ただ、彼は、一人の人間を、とても価値のある存在だと見ていたのではないでしょうか? この曲からは、一人の若者が、泣いたり笑ったり、誇りを持ったりいじけたりする姿が、生き生きと伝わってくる。この曲の持つ魅力とは、そんな愛すべき人間臭さなのかもしれません。そしてマーラーは、そんな彼(女)ら、もしかしたらかつての若い日の彼自身を、共感を持って抱きかかえ、理解しようとしたのではないでしょうか?
 これからも追々、マイブームな音楽について、書いてみます。

 
コメント (2)
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