#ккк
第二回 安田保善社初直営 安浦町埋立地
http://p227.pctrans.mobile.yahoo-net.jp/fweb/0103SszfeSwVXNve/0?_jig_=http%3A%2F%2Fwww.yasuda-re.co.jp%2Fyasuda%2Fmeguri%2F02.html&_jig_keyword_=%90_%93%DE%90%EC%20%96%84%82%DF%97%A7%82%C4%92n&_jig_done_=http%3A%2F%2Fsearch.mobile.yahoo.co.jp%2Fp%2Fsearch%2Fpcsite%2Flist%3Fp%3D%2590_%2593%25DE%2590%25EC%2B%2596%2584%2582%25DF%2597%25A7%2582%25C4%2592n%26b%3D3%26trans%3D1&_jig_source_=srch&guid=on
「安田保善社」初直営の土地造成地、神奈川県横須賀市安浦町を訪ねます。
写真手前、低層の建物が見える辺りが埋立地
海岸埋立の経緯
神奈川県横須賀市、東京湾を臨む埋立地に「安浦」という名の町がある。
大正12(1923)年8月21日に誕生したこの町の名称の由来は、「安田」の「安」と港の意の「浦」からとられたものである。
横須賀市安浦町は、元は同市字(あざ)公郷(くごう)地の先にあった公有水面であった。
明治の初期にこの地は海軍工廠(かいぐんこうしょう-旧海軍の艦船、航空機などの兵器を作ったり、修理、実験などを行う工場のこと)となり、周辺の人口・商店ともに急速な発展を続けた。
そのため住宅地が必要となり、明治39(1906)年3月、地元の有力者らが同水面の埋め立てを出願し、明治44(1911)年10月に神奈川県知事より「公郷町地先海岸埋立」として、免許命令書が下付された。
ところが工事は着工当初から難航を極め、譲岸工事中の波浪の影響により被害を生じて進捗せず、かつ資金的にも行き詰まってしまう。
埋立が免許面積の半ばにも達していなかった大正5(1916)年、ついに関係者は工事継続を断念し、共同して既成埋立地ならびに埋立権の買収を「保善社」(のちの「安田保善社」、大正14(1925)年に改称)に申し出た。
保善社が折衝相手に選出されたのは、安田善次郎翁が埋立事業に関心を有しており、また当時、横須賀と至近の距離にある浦賀に、宅地、畑、山林等約13万坪を所有し、管理のため差配所を置くなど、資金的背景も十分であると捉えられたためであろう。
保善社では協議の上、善次郎翁の決裁によって申出を受諾、大正5(1916)年5月24日に埋立権利者と埋立権譲渡契約を締結するに至る。
その要旨は、保善社が前記2件合計42,927坪49に及ぶ既成埋立地ならびに水面積の埋立権と、従来譲渡人が埋立用に使用していた土地の土砂採掘権、諸材料、現場建物等一切を譲り受けること、尚、その代わりに、埋立地完成の暁には譲渡関係者7名に対し、総計21,000坪(うち2,000坪は有償)の土地を返還するという条件内容であった。
契約締結後の6月7日に埋立免許権は神奈川県より譲渡の許可が下りた後、権利金などの一切の費用が譲渡関係者に支払われ、以後、本工事は「保善社」の直営工事となった。
この埋立工事は、続く風波の被害で免許期間を大正7(1918)年10月まで延期、埋立水面積を68,000坪とする変更を出願、許可を受けた。
その後も障害が重なり工事は遅れ、大正8(1919)年8月、同10(1921)年5月に再度完成期限の延長を申請するほどだった。
横須賀埋め立て時に使用された古地図
(おおむね赤線の範囲が埋め立てられた土地)
※資料提供 : 横須賀市
埋め立て後の地図
写真下部が埋め立てられた安浦町
埋立てられる以前の護岸のあと。
今でもその一部が点在している。
安浦町の完成
風波被害により工事は遅れたものの、その間の大正9(1920)年10月には、横須賀市の要望を受け入れ、完成された埋め立て地10,430坪に100戸ほどの住宅が建設された。
また、大正10(1921)年1月には、船溜(だま)り面積を拡げるため水面積69,223坪の埋立許可を受け、この工事に着手。
『安田保善社とその関係事業史』(昭和49年刊)によると、当時の埋め立て面積は、 「公有地 8,304 坪 20 、民有地 62,399 坪 62 」となっている。
工事に際しては、土砂の運搬にトロッコ、馬力、天びん棒、採掘にシャベル、ツルハシが使用されるなど、まさに人力を駆使した人海戦術だった。
総埋立地 70,703 坪 82 。
これがすべて完成したのは、大正5(1916)年に埋立権譲渡契約を締結してから実に 6 年後、大正11(1922)年の12月である。
こうして、この土地は、安田の “ 安 ” と港の意味の “ 浦 ” をあわせ、「安浦」と名付けられることとなった。
もともと海岸沿いの平地に乏しい横須賀にとって「公郷町地埋立地」、安浦町の誕生は、画期的な事業だったといえよう。
しかし、大工事であったため、残念なことに17名の犠牲者が出てしまった。
その霊を慰めるため、大正14(1925)年9月23日、「安浦町埋地殉難者供養塔」が建てられている。
この碑の裏には、犠牲者の氏名とこの塔を建立した企業や功労者の名前が刻まれている。
昭和33(1958)年に安浦町 2 丁目の国道 16 号沿い、聖徳寺坂下の安浦公園の一角で、海を臨む場所に移設された。
現在も、市や町の人達と当社も含めた関係者により、毎年慰霊の法要が供養塔の前で行われている。
現在の安浦地区一帯の様子
※資料提供 : 横須賀市
現在の安浦地区
現在の安浦地区は、大きな変貌を遂げつつある。
昭和55(1980)年には、横須賀市により新たに「安浦地区埋立て計画」が発表され、平成 4年(1992)年に埋立て工事が竣功。
これによって誕生した平成町には、県立保健福祉大学が開校、大型のショッピングモールが並び、また高層マンションも数多く分譲されている。
当時の埋立て事業は、今日の安浦地区の発展を導いた第一歩として、意義あるものであったと言えるだろう。
横須賀埋立地
事業完了/大正11(1922)年
埋立て面積/約 70,703 坪 82
所在/神奈川県横須賀市安浦町一丁目、二丁目、三丁目他
第一回 『旧安田家別邸の地 大磯』へ 第三回 『明治期購入の「目星しき大地面」日本橋浜町』へ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます